TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 4月大阪公演『彦山権現誓助剣』国立文楽劇場

はじめのほうの日程に行って、大阪で花見するぞ🌸🍡と思っていたら、今年は桜が咲くのが早く、初日には文楽劇場前の桜はすでに散り果てていた……。

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第二部、『彦山権現誓助剣』。話がかなり細かく展開するせいか、パンフレットのあらすじ解説がいつになく概要のみだったため、以下にあらすじまとめ。

須磨浦の段。

父・吉岡一味斎の仇を追って旅するお菊〈吉田勘彌〉は、息子・弥三松〈吉田簑太郎〉、お供の友平〈吉田文昇〉とともに須磨浦へたどり着く。体の弱いお菊を気遣って友平は駕籠を呼びに宿場へ戻り、お菊は父の盂蘭盆のあかりにと提灯を松の枝に上げ、ネムネムな弥三松を寝かしつけていた。すると、提灯の明かりに引き寄せられてか、傘を差した浪人者〈吉田玉志〉が現れる。近づいてくるその男を見ると、なんとその浪人者こそが父の仇・京極内匠であった。この男はお菊に横恋慕しており、その一件と御前試合に負けた遺恨が元で一味斎を闇討ちにしたのだった。なおも迫ってくる内匠にお菊は靡くふりをして仇討ちの機を狙うが、逆に返り討ちにされてしまう。内匠はお菊が背負っていたつづらを天の助けと背負って去ろうとするも、何故か驚いてあわててつづらを下ろす。そこへ友平が戻ってきて斬り合いになるが、暗闇にまぎれて内匠は去っていった。残忍に殺害されたお菊の遺体を発見して嘆く友平だったが、つづらの中から弥三松の無事な姿を発見する。先ほど内匠が驚いたのは、弥三松がつづらの中から脇差で彼を刺したからであった。母の姿が見えず泣く弥三松をあやし、友平はお菊の遺体をつづらにおさめて須磨浦から去っていくのだった。

京極内匠、この話で一番おもしろいキャラクター。玉志さんがやると淀みのない鋭利な残虐さがあっていいね。映画でいうと『四谷怪談 お岩の亡霊』は民谷伊右衛門役が佐藤慶、的な良さ。もうちょっとアクのある人がやればドロッとしたいかにもな色悪になると思うけど、まじで心なく人を殺しそうな、かなりクールな印象になっていた。この後の段で夜鷹相手に軽口を叩くところもドライな雰囲気を盛り上げる。人の心がなさすぎて幽霊の怨念が通用していない、それくらいのドライさ。凛々しく瑞々しい雰囲気もそれに反しての残虐さを引き立てていた。

あと人形の配役上よかったのは友平役の文昇さん。普段はこういった奴のような役はなさらないと思うが、意外やかなり似合っておられた。人形の体格がちょっと小柄な感じに見えて、むくむくした感じ。立役の人形遣いがやるような、すっと肢体の伸びた青年というより、もうちょい中年ぽくて、力のかたまりのようなコロコロとした鈴が転がるがごときコンパクトな動き。太ったでっかい猫がばたばたしてるっぽくて、可愛い。こういう演技をなさる方とは思っていなかったので、意外だった。

勘彌さんのお菊も気丈な可憐さと色っぽさですごくよかったんだけど、すぐ死んだ……。もっと出番あると思ってた……。死んでから着物の裾をまくられていた。玉志さんが控えめにめくっていた。もっとおもいっきりめくらないと客からはよく見えないと思うが、あれが玉志さんの考える「めくってセーフ」の範囲なのかもしれない。

それと床も良かった。みんなそれぞれご本人の性質に合った配役になっていて良かった。いちばん最初の段からこういう配役だと安心する。

ところで、お菊を斬り殺した京極内匠が「この者どもを手の下に。討つはいかさま鬼神か人間にてはよもあらじ」と口ずさむ部分。義太夫が謡ガカリになるので謡曲からの引用とわかったが、何から引いてるんだろうと思い、帰宅してから文明の利器インターネットで詞章を検索してみると、『熊坂』の引用とわかった。『熊坂』は盗賊・熊坂長範の亡霊が牛若丸に成敗された無念を語る物語で、この文句が出てくるのは、熊坂が宿場強盗を働こうとして仲間を牛若丸に討たれ、その技量に驚いて退却しようとする場面の直前である(と偉そうに言っているが、見たことあるのにその記憶が完全に消し飛んでいたので調べました)。京極内匠は設定上は熊坂長範側のキャラクターのはずだが、その逆張りの面白さの趣向だろうか。それともこの一節が彼の末路を表しているのだろうか。

謡ガカリについては、義太夫ではどこまで謡に寄せるべきなのか、ずっとわからなかった。普通の義太夫調に語ってる人、結構いますよね。詞章をよく聞かないと、謡の引用とわからない人。しかし先日、国立劇場の視聴室で『堀川波の鼓』の映像を見て、結構謡に寄せている人を発見した。『堀川波の鼓』は主要登場人物に小鼓の師匠がおり、彼が時折謡を口ずさむので謡ガカリになる部分が多いのだが、そこを嶋太夫さんが語っておられて、それは、かなり、謡だった。謡をうたっています、という場面だから、誰がどう聞いても謡になっていないといけないんだろうけど、他の人からは飛び抜けて謡に寄っていると感じた。

 

 

 

瓢箪棚の段

辺鄙な田舎道で辻賭博を開いている男・胴八がいる。その正体は京極内匠が賭博師に化けた姿だった。在所の者たちはその手管にまんまと騙され、インチキ呼ばわりすると逆に報復を受けるのだった。彼らが散り散りになっていくと、今度は夜鷹たち〈桐竹紋臣、吉田簑紫郎、吉田玉誉〉がやってくる。胴八が女たちに軽口を叩いていると、老武士〈吉田玉勢〉が現れ、この近くで貴人の願掛けがあるゆえにその邪魔になるとして、彼女らに揚代を渡して追い払うのだった。
さて、そこからそう遠くはない場所に立派な瓢箪棚があった。先を払う老武士・佐五平に導かれ、駕籠の中からひとりの女が姿を現わす。彼女こそが一味斎の長女にして男を凌ぐ武芸者のお園〈吉田和生〉であった。夜鷹に変装したお園は、夜毎通りかかる男に声をかけ仇である京極内匠を探していた。幾人かの男が通り過ぎてゆくうち、馬に乗った立派な身なりの武士・轟田伝右衛門〈吉田玉佳〉が通りかかる。伝五右衛門はお園を呼び止め人払いをすると、師と仰いだ一味斎の息女・お園だと気づいたことを告げて、今後の敵討の旅のためにと通行証と花代としていくばくかの金銭を渡すのだった。さらにお園がそこに佇んでいると、噂を聞きつけた友平がやってくる。彼女は再会を喜び、妹と弥三松は無事かと尋ねるが、友平は涙ながらにお菊が何者かに殺されたことを告げる。友平は、お菊の遺髪と、殺害現場に落ちていた生年月日とへその緒の入った守袋をお園に託し、お菊を守りきれなかった無念を悔いて切腹する。死の直前に友平は近傍の池にへその緒を投げ込むが、妖しやにわかに池の水が逆巻き泡立ち、お園が懐中に持っている久吉所縁の「千鳥の香炉」が音を発する。その怪事に引き寄せられてか、京極内匠がふらふらと引き寄せられてくる。この池は実はかつて明智光秀が名剣蛙丸を沈めた池であり、また、久吉が明智の首を洗った池でもあった。そして、京極内匠は実は明智光秀の遺児だったのである。父の亡霊に導かれた内匠が池のほとりから蛙丸を発見すると、お園の香炉がその霊気に共鳴しはじめる。お園は夜鷹のふりをして内匠に近づき攻撃を仕掛けるが、内匠も抜かりなく渡り合う。内匠はお園の懐中で啼く香炉を久良所縁のものと気づき打ち砕こうとし、お園もまた太刀筋から目の前の男が探し求めていた父の仇であることに気づく。内匠はひらりと彼女をかわして逃げてゆき、お園も後を追って走ってゆくのだった。

話の展開が細かすぎて記憶が揮発気味で、上記のあらすじ、あやしいかも……。夜鷹たちに小遣い渡しに来たのが誰だったか正直記憶がない……。

冒頭、ひなびた村の風景が描かれた幕が降りているあいだにやっている辻賭博、将棋盤のようなものの上で絵が描かれた独楽のようなものを回していたが、どういうルールになっているのだろう。夜鷹のいちばん先頭に立っているお福のかしらの子(惣嫁お鹿)が紋臣さんだったが、やはり上手かった。ちょっとだけ踊る振りがついていたが、可愛らしい豊かな動きだった。

幕が落ちると瓢箪棚のセットが姿を現す。和生さんのお園は桔梗や竜胆の花のようなイメージ。大人っぽくしっとりした風情がある。夜鷹に扮して駕籠から現れる立ち姿はあでやかでとても良かった。

お園と京極内匠の立ち会いでは、京極内匠が瓢箪棚から飛び降りるくだりが見所。人形といっしょに人形遣いも屋体状に組まれた瓢箪棚の上から舟底に向かって飛び降りる。客席で見るより結構高低差があるんじゃないだろうか、玉志さんめっちゃ頑張ってた。元気。玉志さんらしく一切もったいぶらず、前触れもなく突然飛び降りるので、お客さんみなさんびっくりして客席から歓声が上がっていた。人形の姿勢の崩れなさと、すぐに立ち上がって体勢を立て直すのが実に見事。このまま東京公演千秋楽まで2ヶ月、皆さんどうかお怪我や事故のないようにと祈る。この段だけ玉志さんの袴の色がいつものブルーグレーでなく、ベージュだった。干したひょうたんの色のイメージかしらん。

この段の奥は床が津駒さん(>_<)&藤蔵さんで、とても良かった。やりすぎないようでやりすぎのようでやっぱりやりすぎない(?)ギリギリの線を攻めていて、泥臭さの抜けたモダンな感じだった。ひさびさに藤蔵さんがハッスルなさっている感じがした。

あとは池のぶくぶく役の人ががんばっておられた。友平がへその緒を投げ込むとにわかに池が泡立つくだり、プワプワとしなるワイヤーに小さな白い玉をつけたものを束ね、ネギの花か正月の繭玉かのようにしたものを黒衣サンが人力でプワプワ振っていたが、京極内匠の独り言がめっちゃ長いので途中で力尽きてかなり弱々しくなっていた。はかなげなプクプクになっていて、笑った。でも最後はちゃんと持ち直してブクブクブク〜!!!ってしていて、さらに笑った。しかしあれが明智光秀の亡霊と言われても、正直全然伝わらない。亡霊!?どこにいるの!?私からは見えない死角にいるの!?!?!?と思っていた。あとは名剣蛙丸の威徳でカエルがめっちゃ鳴いていた。

しかしこの場面、お園と京極内匠はお互いが何者かを知らないで剣を交えているのだな。見境なく斬りかかるとは、お園、ほぼ辻斬り状態? 刀を折られたお園が鎖鎌を振り回し始めたのには驚いた。和生さん、普段は鎖鎌を振り回しそうもないキャラだから……。

 

 

 

杉坂墓所の段

毛谷村の杉坂の墓地で、六助〈吉田玉男〉がまだ新しい墓に手を合わせていた。その墓は先ごろ亡くなった彼の母のものだった。そこへ老女〈桐竹亀次〉を背負った浪人者〈吉田玉志〉が通りかかり、すぐそばの切り株で老女を休ませてなにやら心細やかに世話している様子。その孝行ぶりに感じ入った六助が声をかけると、浪人者は耳の聞こえない母を連れて仕官先を探していると身の上を話す。六助の名を聞いた浪人者は、「六助と立ち会って勝てば国主が召し抱える」という高札を見たが自分ではとても六助に勝つことはできない、しかし老い先短い母のためにどうしても仕官したいため、わざと立会いに負けて欲しいと頼み込んでくる。根が素直にできている六助は浪人者の孝行心に大感心し、快く負けを引き受けるのだった。
再び母を背負って浪人者が去っていくのを見て、親ほど大事なものはないと、自分も母の墓の水を替えるべく桶を手にして沢へ降りて行く六助。それと入れ違いに、墓所前に弥三松を抱えた佐五平がやって来る。佐五平はあとを追ってきた不審な山賊に斬りかかられるが、その山賊の正体は京極内匠の配下・門脇儀平〈吉田文哉〉だった。気付いた佐五平が応戦するも深手を負ってしまう。そこに水を汲んできた六助が戻ってきて儀平を蹴散らし佐五平を介抱するも、老武士は小屋を指差して手を合わせ、こと切れる。六助が何事かと思っていると、小屋から弥三松が出てきて佐五平の遺骸にすがりついて泣くので、佐五平が主君の子供を守ろうとしていたことに気づき、ひとまず泣く子を抱いて家へ帰ることにした。

六助……。この世の全てをプラス解釈する人なのか、桁外れにおおらかな人なのか、のびのび育った天然の人なのか……、よくいままでそのノリで生きてこられたね~と思った。あのノリで行き倒れの人や捨て犬捨て猫拾いまくってそうだと思った。弟子っていうかファン(?)がわさわさ寄ってきているのもわかる。なんだろうあの人たち……。

あとはバアさんとバアさん役の亀次さんがあまりにも動かないのでどうしようかと思った。遮光器土偶かお地蔵さんのようだった。

 

 

 

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毛谷村六助住家の段

弥三松を連れ帰った六助だったが、まだあまり喋れない幼子のため親の手がかりがなく、見つけた時に彼が着ていた着物を縁者への目印にと門口に干している。そんな六助の家の庭では、先ごろ杉坂の墓所で出会った浪人者・微塵弾正と六助の立会いが行われていた。六助は約束通り弾正に勝ちを譲るが、弾正は横柄な態度を取ったばかりか彼の額を扇で打擲し、悠々と去っていった。それでも六助は「親孝行っていいよね〜、恩に着なくて大丈夫だから〜」とほのぼのと弾正の駕籠を見送るのだった。
六助が弥三松にあげるぼたもちを探していると、旅疲れたので休ませてほしいという旅姿の老婆〈桐竹勘壽〉が軒先にやってくる。六助が気楽に家に上げてやると、老婆は親子にならないか、持参金も持っていると突然縁組を持ちかけてくる。六助は真に受けず、ひとまず老婆を奥の部屋へ通してもう一休みさせてやるのだった。
そんな六助が母を思って読経していると、弥三松が泣きながら帰ってくる。母を恋しがって泣く弥三松を抱き上げ、寝かしつけていると、今度は尺八を吹く虚無僧が現れる。干してある弥三松の小袖を手にしようとする虚無僧に不審がった近隣の者たちが掴みかかろうとするが、虚無僧はその者たちをいとも簡単にあしらうのだった。六助はその所作や尺八の手から偽僧であると見抜くが、虚無僧は「家来の敵」と突然襲いかかってくる。六助と互角の腕を持つ虚無僧が深編笠を取ると、なんと女。すると、弥三松が「おばさま〜!」と彼女に抱きつくではないか。虚無僧に化けていたのはお園だったのだ。すっかり機嫌を直した弥三松をあやしながら、六助は彼を保護したいきさつを語る。そして六助は自分の名を名乗るが、それを聞いたお園が突然態度を豹変させ、シャッと立ち上がって女房気取りで炊事をはじめたので、弥三松はびびってダッシュで逃げていった。お園は父から「毛谷村の六助」という男が彼女の許嫁で、ゆくゆくは六助とともに吉岡の家を継いで欲しいと言われていたことを六助に明かす。実は六助にも心当たりがあり、かつて彦山の麓で手合わせし師と仰いだ一味斎から授かった奥義の巻物の末尾に、娘を娶ってくれと記してあったのだった。 お園は父が京極内匠に闇討ちにされたこと、盲目ゆえ仇討ちのできない弟は自害し妹までもが返り討ちにあったことを語り、六助は師と再会できなかったことを涙ながらに悔しがる。その様子を奥の間で聞いていた先ほどの老婆が姿を現して、自らが一味斎の妻・お幸であると名乗り、六助の誠意を認めて一味斎の形見の刀を彼に授ける。
そこらにあった酒で二人が三々九度しているうち、近隣の者が戸板に乗せた遺骸を運び込んでくる。樵仲間の斧右衛門〈吉田勘市〉の母の姿が見えないので皆で手分けして探していたら、杉坂の土橋の下で無残な姿になっていたのを発見したというのだ。六助がその遺骸を見てみると、なんと微塵弾正が連れていた老女ではないか。何のゆかりもない老婆を騙して利用したことに怒りをあらわにする六助。六助の話とお園たちの持っている仇の似顔絵とを示し合わせると、その微塵弾正と名乗る男は紛れもなく京極内匠であった。六助は御前試合で微塵弾正を打ち負かした上で敵討ちをさせると二人に約束し、裃に姿を改める。そんな六助に、お園は梶原源太景季になぞらえた紅梅、お幸は娘と六助の行く末を寿ぐ白椿を贈るのだった。

冒頭から六助のアサッテの方向な天然ぶりが不安を煽ってくる段。冒頭に義太夫が入らず前奏もなく、六助と微塵弾正の立会いからはじまり、その評定をする役人たちの声から幕を開ける変わった入り方。そのあとも細切れのバタバタをした展開が続く。

文楽に出てくる娘さんはいい男に目がなくていい。イケメンと見るやものすごい勢いで手のひら返しをしてくる。イケメンとカスとでは明確に態度を変えてくるメンタル強者。実に素直である。そりゃ子どももびびって逃げるってもんよ。弥三松がピューッとものすごい勢いで逃げていったので笑った。娘な和生さんは渋かった。かわいらしい娘さんっていうかもうちょっと色っぽい年頃の人に見えた。押し掛け女房がしゃれにならない感がそこはかとなく漂っていた。でも芝居自体は良かった。クドキで踊るような振りをする部分にはそれこそ娘らしい清潔な雰囲気があり、綺麗だった。あとは茶碗の三々九度をものすごい勢いでイッキ飲みしていたのが可愛かった。

あとは勘市さんの斧右衛門が可愛かった。母親が殺されて見つかってすっかりヨロヨロになっており、仲間たちにかかえられてやっと立ち上がるも、手すりのへりで眉毛をハの字にしながらへなへなぴょこぴょこしていた。眉毛の力抜け速度の速さと、腰が抜けてる感が愛らしかった。

 

 

 

前半はクール&スタイリッシュな青年漫画風の展開だが、なぜか最後はほのぼのするのが不思議な話だった。こういうのを正月にやったほうがよかったのでは……。『馬鹿まるだし』のハナ肇のような悲惨すぎる最後を迎えそうなド善人・六助であったが、いかんせん本当に強かったので押しかけ妻子母に恵まれて良かったねと思った。偉丈夫の中の素直さというか、ほのかなポワン感が玉男さんに似合った役だった。良い意味で息が詰まってないと思った。あとはとにかく玉志さんが良かったので良かった。ワシはもうそれだけでエエ!!!!!!!!!!

 

 

 

和生様インタビュー動画。この映像、なんか和生さんがすごい不自然……と思っていたのだが、それは私が普段下手側から和生さんを観ているからで(大抵下手側の席に座っているため)、この映像は上手側から撮っているので私には見慣れない和生さんになっていただけのようだ。


国立劇場5月文楽公演『彦山権現誓助剣』吉田和生インタビュー

 

 

保存保存

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文楽 気になる人形遣い6人 −勝手に技芸員名鑑・アイドル篇−

文楽を見始めたとき、ある意味で一番苦労したのが、「技芸員さんがひとりもわからん!!!!!!!」ということだった。

あのひしめくおじさんたちは一体なんなのか。歌舞伎や落語ならテレビに出ているような人は知っている、能・狂言なら有名ドコのご宗家や露出のある人の名前はわかる、けど、文楽は全員まじ普通のおっ…………。失礼いたしました、普通のおじさま、おにいさまなので、誰が誰だかわからない。なんというか完全にそのへん歩いてる感じなんですけど(素直すぎる感想)。

全然知らん人の大群衆といえば、話は変わるが、みなさん、杉作J太郎の名著『ボンクラ映画魂 三角マークの男優たち』という本をご存じでしょうか。これは杉作氏が60年代後半〜70年代の東映映画の出演者800人について大スターから大部屋役者まで分け隔てなくその愛を語った俳優事典……もといエッセイ集で、杉作氏独自の視点からそれぞれの役者さんへの思い入れがこれでもかとたっぷりと書かれており、たとえその役者さんの名前すら聞いたことがなく、あまた記された無名の映画たちを観たことがなくてもその愛のパワーでじっとり読めてしまうすばらしい本である。まったく聞いたこともないような映画のタイトルにどんな映画かしらと思いを馳せ、そして、のちにその映画を観たとき、ああっ、あれ、杉作サンの言っていたあの人だ、と、背景のほうにちょろりと映った俳優さんを見つけてこの本を思い出し、またあるいはいつも見ていたはずの大スターの杉作視点の側面を知り、なるほど、と本書のページを繰りながらつぶやくのである。世間一般の評価にとらわれることのない気持ちの良い筆致によって、たとえ初めて観る映画や俳優であっても愛着を感じさせてしまう……、この本をきかっけに東映映画にハマった人もいるのではないかしらと思う。

やはりファンは個々の出演者につくもの。ほんとうは歌舞伎等のように、「この人を生で観てみたい!聴いてみたい!」と思って劇場に足を運んでもらえるのが一番良いのだろうけど、しかし文楽の技芸員さんはメディア露出もほとんどないので、たとえ人間国宝クラスでも正直知名度は低いと思う。いやほんとまじで誰一人としてわからなかったです、私。諸般の事情で簑助さん、玉男さんは元々知ってましたけど、調べないとほかの方はわからなかった。そして調べるのもなかなか一苦労だった。パンフレットの技芸員一覧の写真は古くて「誰???」状態だし、本やネットに載ってる情報も大抵「わかる人向け」に書いてあって初心者には意味不明だし……。でも少しでもわかるようになると、それぞれの方に愛着が湧いてくるんだよね。

そこで、この記事では、文楽を見始めてから2年間の自分の考えをまとめるのと兼用として、杉作J太郎氏に及ぶべくもないが、自分が「この人は」と思った人形遣いさん6人について、自分の感じたことや思っているたわごと、愛着をじと〜っと書きたいと思う。

INDEX

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┃ 1. 吉田簑助(よしだ・みのすけ

#美少女 #姫 #色気 #かわいい #かわいすぎる #わしは女方やない! #人間国宝

写真左『女殺油地獄』おかち

文楽人形に対し、「まるで生きているよう」という表現を聞いたことがある人は、多いと思う。あの言葉はまさに簑助さんのためにある、現代文楽最高の美少女。

簑助さんの遣う人形は「生きている」。もしかしたら簑助さんは人形に「遣われて」いるのではないだろうか。と思うことがある。ときおり、ひとりでに動き出す人形を簑助さんが引き止め、振り回されているように見えることがある。心に残っているのは『生写朝顔話』の浜松小屋の深雪。家老の娘・深雪は親の決めた結婚を嫌い、恋する男を追って出奔したものの盲目となって袖乞いに身を落とし、貧しい掛小屋に住んでいる。そして巡礼となって彼女を探し歩いていた乳母の朝香と再会するも、深雪は身を恥じて名乗れずに小屋に身を隠す。その苦しみに大きくからだを捩って顔をそむけ、身悶えする姿は悲しく美しく可憐であり、彼女の閉じられた目からは、流れるはずもない涙がきらきらとこぼれているようで、まさに“ただの”人形とは思えなかった。

印象的なのは圧倒的なかわいさ。簑助さんが遣う女の人形には、人智を超えた何かが取り憑いて動いているとしか思えない、破滅的で衝撃的なかわいさがある。人形って人形なんだから「かわいくて当たり前」という認識を木っ端微塵に破壊される圧倒的かわいさ。かわいさの桁が違う。まじかわいい。かわいすぎる。首筋を見せつけるような首の傾げ方や体の捻り方、人間では絶対できないような異様な姿勢が特徴的で、それが悪魔的なかわいさにつながっていると思われる。また、人形の体がちいさく華奢に見える遣い方も特徴的で、同時に出演する他の人形たちとの絡みではことに可憐な雰囲気を見せる。小動物のようなクルクルした仕草、ちょっとそわそわしたり、ひょっと伸び上がったりしている姿もいじらしく愛らしい。そして、簑助さんは基本的にきわめて清楚で可憐だが、同時に独特の色っぽさがある。もっと言うとえげつない肉感的なエロスがある。湿気をはらんだ悩ましげな仕草。柔らかく温かな肌。ぽっと上気したような表情。生身の女性にはありえない、この世には存在しない夢想的なファムファタル。言うなれば菩薩。ギリシャ神話にある人形に恋した男の心がわかるようじゃ…………。まさに国宝じゃ……。ありがたや…………ありがたや…………😭🙏😭🙏😭🙏😭🙏😭🙏

ちなみに簑助さんはご本人もかわいらしいです。いつもムキュ!とされていて、なんだか気の強いゴマちゃんって感じ。パンフレットの技芸員一覧に載っているポートレートはずるすぎ。わかっててやってるね、絶対。簑助さんはいろいろ確信犯だと思う。

 

 

 

┃ 2. 吉田和生(よしだ・かずお)

#老女形 #奥様 #気品 #人間国宝 #ほのぼの #進藤英太郎

写真左『摂州合邦辻』合邦道心

「こうすれば品が良くなるという遣い方はないんです。私らは役として捉えているだけ」−−。人間国宝に認定された直後、インタビューで「品のある芸風も師匠譲りですね」と言われて和生さんが答えた言葉がコレである。すっげーーーーーーーー!!!と思った。文楽人形の演技に欠かせないもの、それは品位である。いろいろすっとばして言うけど、人形の芝居に品があるというのは、人形遣いに対する賛辞でも最高ランクのものだと思う。それ言われて調子こかず、品があるのは私ではなく役と言えるとはさすがは和生様と、私は心の底から大尊敬したのであった。

和生さんには老女形の配役が多い。武家の奥方、身分の高い子女に仕える乳母役。『花上野誉碑』志度寺の段での乳母お辻役、『生写朝顔話』での乳母浅香役では仕える君主の身分の高さと役自身の気高さと慈愛を感じさせる、ハリのあるすばらしい演技だった。またあるいは威厳に満ちた貫禄ある老人、情にあふれた壮年の武将役もお得意な役柄。『心中宵庚申』の大百姓平右衛門、『源平布引滝』の義賢役ではきわだった気品と威厳、そして慈悲のある大人物として描いていた。いずれも知性と気品のある役である。知性や気品というのは演技そのもので表現することができない。私は文楽を含む時代劇の演技で最も重要なのは身分の表現であると思う。平家の公達役と町人の入婿役、大名の姫君役と川辺に立つ夜鷹役があるとして、使っているのがたとえおなじかしらであっても、同じ演技であってはいけない。貴公子とそのへんの青びょうたんとではそれこそ一から十まで氏育ちが違うのである(そもそも一般人は氏がない)。一般人役などの身分の低い役はよいとして、問題は身分が高い役の場合。打掛のさばき方や扇の上げ下ろしといったその身分ならではの所作は当然ながら、ちょっとした手元の動き、頭の動かし方や目線のつけかたでそれを表現しなくてはならない。そこに知性や気品がにじむからである。

しかしこういった和生さんの芝居はツウのひとだけが感じ取れる、わかる人だけがわかる演技、というものではない。和生さんの演技って誰にでも伝わるんだなって思う。文楽って、時々、会社の行事で初めて来ちゃいましたって感じの団体さんがいらっしゃることあるじゃないですか。それとか、地方の単発企画公演でお見かけする、ぜんぜんわからんけど興味本位で来てみましたっ!という方々。終演後にそういった方々が「おもしろかった〜^^」と話されているのを聞くととっても心なごむのだけれど、そこでよく「人形ってどうやって表情変えてるの????」とマジ聞きしていたり、「表情がいろいろ変わっておもしろかった!」と話されている方々をお見受けする。とくに、和生さんつとめられた役がそういう話題に登っているのをよく拝聴する。そういうとき、どんなひとにでも和生さんの表現は伝わるのだなとしんから思う。きっと「文楽人形は表情をいっぱい変えることができるんだな〜」と思って帰っていかれる方も多いんだろうな。それはすばらしい勘違いであり、同時にまごうことなき真実であると思う。

と、そんな格調高い芝居をしておきながら和生さんご本人は大変にフランクでいらっしゃるようで、予告なく無料イベントに出現なさったりするのも衝撃的。屋外イベントであるにっぽん文楽が雨天中止になった際に、主催者からのサービスで無料で舞台見学ができるという臨時イベントがあったのだが、そこに突如和生さんが登壇し、記念撮影をしてくれたという話を聞いたときはマジ仰天した。和生さん、そんなん若いモンに任せてもっと悠々としとって! と思うけど、飄々としているように見えてサービス精神たっぷりでお優しい和生さん、ずっとそのままでいていただきたいです。

余談。以前、ある公演に行ったら隣の席があいていて、勿体ないなと思っていたら開演直前になって垢抜けた麻のジャケットをお召しの「ツウ」風の年配の男性がさっと入ってきてそこに座った。と同時に「落としてますよ」とその男性が床を指差して声をかけてくる。ふと見やるとそこには私のイヤホンが落ちていて、拾って「ありがとうございます」と言ってその男性のほうを見ると、ものすごい進藤英太郎に似ているではないか。「すごい〜!進藤英太郎がおる〜!息子さんかも〜!!」と興奮していたのだが、よくよく見たら和生さんだった。上演内容はまったく頭に入らなかった。またあるとき、劇場脇のベンチで時間つぶしにお茶を飲んでいたら、あられ屋の袋を持った身軽で小綺麗な身なりの年配の男性が歩いてきた。ペットボトルを傾けながらフトなにげなく顔を見るとものすごい進藤英太郎に似ていて「すごい〜!進藤英(以下略) またまたあるとき、小規模なイベント上演の入場列にクソ寒外気に凍えながら並んでいたら、前のほうからトコトコと歩いてきた男性がものすごい進藤英太郎に似ていて「すごい〜!進(以下略) とにかく、文楽公演会場の近くで進藤英太郎に似た男性を見かけたら和生さんであることは間違いない。

 

 

 

┃ 3.  桐竹勘十郎(きりたけ・かんじゅうろう)

#女形 #町娘 #おてんば姫 #思い込み暴走娘 #キツネ #武将 #謎のFacebook

写真左『玉藻前曦袂』玉藻前実は妖狐

日々力説している、山口貴由の『シグルイ』を文楽化してほしいという件。なぜそう言っているかというと、あの気品と邪智と執念に満ちた美剣士・伊良子清玄を是非とも勘十郎さんに演じてほしいからである。

勘十郎さんの持ち味、それは舞台から滲み出るような異様な執念だ。別にご本人が苦労話をしているわけではないし、わざとらしい頑張り感が出ているというわけでもない。むしろトークショー等でお見受けすると、ほんわか天真爛漫な天然キャラでいながら、実にまわりをよく見て、自分に何が求められているかを常に冷静に考えている方という印象を受ける。たいへんに実務的な方なのではないかと思う。だけどあくまで振る舞いは明るく可愛らしく、立派な方だと感じる。しかし、勘十郎さんが舞台に出ているあいだは「この人……ヤバいんじゃないか……」という、なにか超えてはならない一線を超えた、それこそ伊良子清玄のような異様なオーラが劇場を包むのである。まるで不動明王像の光背のように、情炎がその背後に見えるよう。驚異的だったのは『本朝二十四孝』の「奥庭狐火の段」。八重垣姫という深窓の姫君が恋する男の危急を知り、それを知らせるために親を裏切り、諏訪大社の神の使いのキツネの霊力を借りて諏訪湖を渡るという話。何事にもおそるおそるという風だったあどけない姫君が兜をかつぐとあら不思議やその雰囲気が一転、まるで増村保造映画に出てくるような情念が爛々と燃立つ女へと変わる。姫の衣装が早変わりで火炎柄の白い着物になるのと同時に舞台の空気が一瞬にして変わったのを感じた。

勘十郎さんはこういう情念に駆り立てられた狂った女役が良いと思う。ことに『曾根崎心中』のお初は本当に一線を超えたヤバい女になっていて、出の瞬間からびびった。あのお初は心中どころか徳兵衛の腕をひっつかんで駆け落ちしそうな勢いであった。人形の目に青く燃える情炎がともっているよう。あれには古典作品をこうも新しく解釈する人がいるのかと驚いたものである。ほかに印象的だったのは『妹背山婦女庭訓』のお三輪。おぼこい田舎娘と思いきや、恋する男にほかに女がいると知った瞬間ぶち切れてものすごい剣幕で追っていく姿。あんな普通っぽい娘さんにここまでの意思が、と驚かされた。最後まで決してヨヨとすることのない、強固な意思と情念を持ったすさまじい女の姿だった。お師匠様の簑助様の極限の美を突き詰めた非現実的なまでに美しい女性像とは異なり、女性から見た女性像というべきリアリスティックな精神性が勘十郎さんの味であると思う。

勘十郎さんは女方の一方で立役もこなされていて、そのときは「こいつ……ヤバいのでは……?」という思いつめた狂気をたたえているのが特長的(結局狂ってる)。なんか人形がヤバい感じに思いつめているんだよ……。『一谷嫩軍記』熊谷直実役はやばかった。忠義のために息子と敦盛を入れ替えて息子の首を討つという熊谷の行動は現在の倫理観では考えられない時代浄瑠璃独特のヤバすぎる行動だが、ある意味で現代に演じるにふさわしい狂気と思いつめを熊谷の人形の上に表現されていたと思う。はずみとは言え義父を殺してしまう『夏祭浪花鑑』の団七も、義父が悪辣という設定上の「理由」よりも団七自身が秘めた狂気におぞましい人間味を感じ、人っていつどういうきっかけで気が狂うかわからない、世の中はきれいごとでは済まされないと思わされる生々しい恐ろしさだった。立役の狂気と女方の情念でもって、是非ともあの美しい邪念と妄執をたたえた剣士・伊良子清玄を演じて欲しいというのが私の願いである。

演技そのものとしては洗練された外連味ともいうべき聖俗が同居した遣い方が印象的で、華とほのかな昏さを感じさせる演技が独特の味を出していると思う。先述の長町裏の団七など、手数が非常に多い複雑な動きを洗練された無駄のない手順でこなされていて観ていてスカッとしたものだ。凄惨な殺人シーンを凄惨なままで見せている点も良いと思った。キツネのお役がお好きというのもその外連の一つだろう。こういう外連が強い役って普通に考えたら芸そのもの以外に頼っているとして嫌われそうに思うけど(ご本人もトークショーでキツネの役ばかりという批判を受けるとおっしゃっていた)、それを逆に好きだとアピールしているというのは私はすごいと思う。でも実際に観てみると、外連そのものを上回る技量と研究を感じ、勘十郎さんの意思の強さと異様なまでの執念を感じるのだった。

そんな勘十郎さんには公式Facebookページがある。「コハ一体?」という謎の写真をアップするFacebookページが……。今までで一番すごかったのは満面の笑みで子ギツネを抱っこしてる写真。お父さんのFacebook状態。ほかに書くべきことあるやろ! 公演前後にアップされる人形の写真が一番の目玉コンテンツだが、頼むからスケジュールも全部事前告知して欲しい。

三世 桐竹 勘十郎 - ホーム | Facebook

 

 

 

┃ 4. 吉田玉男(よしだ・たまお)

#立役 #武将 #二枚目 #ヘタレ #人形がクソデカい #癒し系

 
 
 
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写真『彦山権現誓助剣』六助

人形の足音(足拍子)がむちゃくちゃでかいので、それまで寝ていたお客さんも玉男さんが出てくるとビックリして起きる。まるで松の巨木のごとき威風堂々とした覇気を放つ、時代物の武将ならこの人、という立役人形遣い。その演技には肉体と骨格を感じさせる芯の太さと重量感があり、古典芸能の世界観ならではの男性美が表現されている。手数をカットして動きをミニマムにとどめ、ひとつひとつの動作を重厚に見せていく演技で表現される『菅原伝授手習鑑』の松王丸、『一谷嫩軍記』熊谷直実の実直な美しさには胸を打たれるものがあった。

文楽人形って着物の下の胴体の中身は空洞で、そこに木でできた腕と足が吊ってあるだけなので、それそのままでは重量は感じない(例え実際には重くても客からはそうは見えない)。が、玉男さんの人形にはたしかにそこに血と筋肉が存在していると思わされる。おそらくこれは「止め」の姿勢やそのメリハリの美しさによるものだろう。ひとつひとつの所作にある止めの姿勢を一発で決めて、あとで調整すればいいやというスキがない。そこに緊張感や重量感、メリハリが生まれるのだと思う。それを感じたのは中之島文楽『ひらかな盛衰記』逆櫓の段が出たのを観に行ったとき。そもそもが初心者向けの公演で客席の雰囲気がゆるいし、上演時間も短いから気楽に見ようと思っていたのだけど、上手の障子が開き、髪をさばき豆絞りのハチマキを結んで船頭のこしらえをした樋口がドンと出てきたとき、ざわめいていた会場の空気は一瞬にして掃き変わった。そこは完全に平安末期の福島の海岸であり、彼は人形ではなく本物の朝日将軍義仲の御内において四天王の随一と呼ばれたる樋口次郎兼光であった。それだけの覇気を表現できる人。

一方では世話物のヘタレた二枚目役も結構映えて、優しいんだろうけどドクズだねオーラが絶妙な不思議な人でもある。近松の世話物の上演時にはそのナチュラルで優しげな雰囲気や情けないヘタレクズオーラが幕間の話題独占。『心中宵庚申』の半兵衛が妻お千代を抱いて背中をぽんぽんしてあげる優しい手つきには、なにげない所作ながら半兵衛の心の優しさと、それゆえにそのままではこの世で生きていけない悲しさが滲み出ていた。

いままでで拝見した舞台で一番よかったのは『玉藻前曦袂』の道春館の金藤次。金藤次はかつて赤ん坊の頃に捨てた娘に再会するも、止むに止まれぬ事情で父と名乗る間もなく彼女の首を討ち落とすことになる。金藤次は前半と後半でまったく雰囲気の変わる役だが、時代物の武将を遣っているときと世話物の二枚目を遣っているとき双方の素質が結晶化していて、金藤次の威厳ある姿と裏腹の内面の優しさ悲しみが表現されていたと思う。たいへんに美しい舞台だった。

配役やご本人のぱっと見は無骨でコワそうな玉男様だが、トークショーなどに行くと意外やほんわか癒し系の方で驚かされる。なんというか、それこそ文楽に出てくる姫的なオーラを放っておられるというかのおっとり優しいお話ぶり。60代であの立場でこんなピュアな人っているんだ……。たくさんのひとに愛されてスクスクお育ちになられたのね……。税金おさめててよかった……。(養分)という思いでございます。みなさん、玉男様トークショーには是非参加して癒されてください。

 

 

 

┃ 5. 吉田玉也(よしだ・たまや)

#立役 #武将 #ジジイ #ジジイ #ジジイ

写真右『心中宵庚申』平右衛門

ジジイ役をやらせたら、玉也さんの右に出る人はいないだろう。ジジイ……それは「つまんなさそうな役」に思えて、実に奥深い役。文楽の物語にはジジイっていっぱいいて、どのジジイもストーリーの要石となる大変重要な役回りである。それゆえかあまりに無数のジジイが出てくるため、ジジイの見分けがつかなくなるのではという不安が湧き出てくるが、玉也さんがジジイ役をやっていれば、そのジジイがどんなジジイかよくわかるので安心。田舎で三本の木を守って暮らすひょうきんで穏やかなジジイ、都からの勅使を務める居丈高で横柄なジジイ、元武将でいまは石屋を営んでいるジジイ、孫LOVE婿惚れ船頭のジジイ、斬られてもなかなか死なない性根まで腐りきった強欲クソジジイなど、いいジジイから悪いジジイまで、さまざまなジジイ演技を楽しませてくれます。個人的には味のある在所のジジイ役が最高で、『ひらかな盛衰記』大津宿屋の段で無骨な船頭ジジイ・権四郎が脚絆を口にくわえて外すガサツな演技には「こんな細かいところまで!」と頭が下がる思いだった。ジジイぶりにディティールがありますな。若山富三郎的な役者スピリット、いや人形遣いスピリットを感じる。

人形遣いって動きの多い芝居をする人と、手順を刈り込んだ芝居をする人がいて、玉也さんはそのうち前者である。動きの多い芝居(業界的には「手数が多い」と言うのかな)では速い動きの中でのひとつひとつの動作、そのつなぎの洗練性が必要になり、それができていないと単なる粗雑になってしまうと気づかせてくれたのも玉也さん。激しく複雑な動きのある演目でも、アスリート的な華麗な所作を見せてくれる。その意味では『夏祭浪花鑑』の因業ジジイ・義平次役はなかなか死なない感に溢れており、異様な元気いっぱいジジイぶりが超最高だった。ボディビルジジイの時代劇版って感じ。

あと、玉也さんて絶対まともな人だと思う。全然知らないですけど、まともだと思う。

 

 

 

┃ 6. 吉田玉志(よしだ・たまし)

#立役 #凛々しい #清潔感 #動かない #袴がつねにブルーグレー 

写真中央『ひらかな盛衰記』船頭松右衛門実は樋口次郎兼光

ひたすら凛々しい人。山奥の誰にも知られていない沢の清流が昇り始めた朝日を浴びてキラキラと輝いている……みたいな感じ。心に残るのは『加賀見山旧錦絵』の又助。陪臣という卑しい身分で身なりも貧しい男、それの身分ゆえに取り返しのつかない過ちをおかすのだが、その輝くように凛とした立ち姿は彼の心根の清潔さをそのままに表現していた。そして『ひらかな盛衰記』松右衛門内〜逆櫓の段では逆に船頭に身をやつしながらもその正体は武勇に聞こえた武将・樋口次郎兼光を覆い隠せないほどの凛々しさで演じておられて大変にすばらしかった。このような輝くばかりの清潔感はほかのひとにはないものだと思う。清潔感というのは真似やナンチャッテではできないもので、例え持っていたとしてもすぐにくすんでしまうもの。きっとこれは玉志さんのいままでの修行の成果と、ご本人がもとよりそなえていてベテランとなったいまなお保ち続けていらっしゃるものであろうと思う。その清々しさが好き。

立場的につねに大々的な役が来る人ではないが、大人しめの配役でもいつもやる気に溢れておられるのが玉志さんの良いところ。あんまり活躍のしどころのない役でも、所作ひとつひとつからその情熱のほとばしりが感じられる。『平家女護島』の鬼界ヶ島の流人3人のうち一番地味な(?)康頼で出演されていたとき、冒頭の「康頼が岸壁にしがみついている姿を見て俊寛ドン引き」の場面の岸壁へのしがみつき具合は本当俊寛もドン引きとしか言えない地獄の餓鬼のごときすさまじさであった。そういうとき、玉志さんは普通に観ているのでは流し見してしまうような脇役でもよく考えて遣われているのだなと感じる。そのためか、『仮名手本忠臣蔵』の塩谷判官切腹に登場する石堂右馬丞のようなほんのすこしの出番しかない役でも、彼がたんなるパシリではなく、慈悲と真心をもった勅使であることをその一瞬の出番のうちに感じられるのだ。

しかし、たぶんだけど余計な芝居がお嫌いみたいであんまり気を持たせる演技をされないため、いきなり人の首すっとばしてきたりするので注意。めっっちゃびびる。突然客の目の前に子供の生首着地。やばい。そして、玉志さんはいつも袴が渋いブルーグレーでいらっしゃるんですけど、もっと派手な役が来るようになったらもうちょっとドレスアップされるのかが目下の疑問である。

 

 

 

今回、なぜ人形遣いについて書いたかについて。

人形ってすごく不思議だと思う。文楽を観て一番最初に目に入るのは人形だけれど、逆にある意味「見ればわかるから」として注目されることの少ないパートだと思う。ぱっと見だけでは、そのビジュアルのキャッチーさに引きずられて理解がぼやけることやわからないことがたくさんあると思ったのだ。

はじめは人形遣いによる個性の違いってわからなかった。誰であっても一律に同じ演技をしていると思っていたのだ。文楽の人形はこの役にはこのかしら(頭)、というのがだいたい決まっていて、そのかしら自体が役の性根を直接的に表す強固な個性を持っている。たとえば「お園」という役なら「お園」は人形遣いが誰であれ「娘」のかしら。文楽では役者(人形)は好き勝手に演技をすることはできず、義太夫にあわせて演技をしなくてはならないし、こなすべき演技も大筋は決まっている。しかし、よく見ていると、「お園」を遣う人形遣いによって、それぞれの「お園」からは微妙に違う印象を受けることに気づく。人間の役者が演じるなら容姿や声から違う印象を受けるのは当然だけど、人形は同じだし、声を出しているのは太夫さんなので、人形遣いは人形の演技そのものでしか勝負ができない。同じ人形を使ってもここまで個性に違いがある=人形遣いに個性があるというのがすごく不思議に思った。その個性というのは、どこから出てくるものなのだろう? いまはそれを考えて舞台を観ている。

今後、違う演目を観て自分の見方が変わったり、また、それぞれの方の配役も変わっていくだろうけど、ひとまず、この2年間に感じたことの一区切りとして書いてみました。

 

 

続編。女方4人、桐竹勘壽さん、豊松清十郎さん、吉田勘彌さん、桐竹紋臣さんを紹介しています。

 

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文楽 3月地方公演『桂川連理柵』『曾根崎心中』府中の森芸術劇場

地方公演へ行くと、開演前にロビーでお人形との記念撮影が開催されているが、今回はそのお人形が赤い着物のお姫様で、すんごいモッコモコに分厚い座布団の上にチョコンと座っておられた。咲さんや燕三さんが座っている座布団より分厚い超豪華柄入りモフ座布団。さすが姫、と思った。

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桂川連理柵』。

いちばん最初、六角堂。出だしのところで、ピーンと張り詰めた三味線の音にちょっと感動してしまった。三味線の音ってやっぱりとても綺麗だなぁと。古い日本映画で、津軽三味線が流行っていたころ(高橋竹山がブームだったころ)の作品だと太棹三味線の独奏が入っている映画が時々あるけど、そういった映画の場合、その演奏の上手い下手に関係なく、終映後にお客さんが「三味線すごかったねえ」と話していることがよくある。あれってやっぱり、邦楽を聞き慣れていない人の耳や心にも太棹三味線の音は届くってことなんだなあと思う。よく聞いていると、一段の中でも「同じ楽器? 持ち替えた?」と思うほど、三味線の音の響き方が違っていて不思議である。太夫の語りが入り始めると少し抑えたような音になったり。すごいな〜。ということを突然思った錦糸さんの演奏だった。

 

人形の見所はやっぱり帯屋で、中でも儀兵衛役の玉也さん。六角堂の段、帯屋の段ともにキレにキレたウザ番頭ぶりだった。ウザキャラながら長吉の話をちゃんと聞いてあげるあたりは立派。こういう役も玉也さんがやると滑稽なだけじゃなくて、クレバーそうに見えてなんだかカッコいいよねえ。こういうウザ番頭お約束の謎の踊り?もビシバシ決まっていた。漫画なら外伝が出てしまいそうなキャラ。カイジ文楽化したら利根川役は絶対玉也さんだと思う。

そしてお隣のアホ丁稚、長吉〈吉田玉佳〉。一度鼻水をすすった後も、時々、手に持ったはたきの影で一瞬鼻水を垂らしていて怖かった。今回は双眼鏡を持参したので長吉の鼻水をじっくり観察してみたが、やっぱりキュウリかシシトウが鼻の穴に刺さっているみたいで不気味だと思った。一仕事終えたあとはそこらじゅうをはたきでぱたぱたとしていて可愛らしかった。

玉志さんの繁斎も良かった。背筋のぴっと通った上品なお爺さんで、茶道とか華道とかのお師匠さんみたいだった。なんかこういうのこないだも観たな。玉志さんは12月の酒屋でも同じようにものわかりgoodで優しくてかっこいいお園パパ・宗岸役だった。あの話でお園のある意味でのおめでたさとは別の意味でヤベーなと思うのが半七パパで、羽織を脱いだら緊縛されてるって、半七の代わりに縛られているという事情を知らない人だったら「特殊な性癖の方かな?」って思っちゃうよね。あそこで宗岸が大人にスルーしたのはえらいと私は思った。

と、話がそれたが、あと文昇さんのお絹、六角堂のお高祖頭巾を被っているところはかしらの動きが微妙すぎて何やってるかよくわからん???と思ったけど、手元を丁寧に演技されていたのが良かった。手元の演技のほうが得意な方なのだろうか。長右衛門役の清十郎さんは確かに責任とって心中しそうな感じだった。でもいざとなったらやっぱり逃げそう。

 

道行。配役表を見て「大丈夫かよ……」と思っていた、お半役の人形=簑二郎さんと太夫=織太夫さん。お二人ともとてもじゃないがロリキャラじゃないだろ……どうすんだ……と思っていたら、なんと意外なことに(失礼?)お二人ともとてもロリロリされていて仰天した。お半が小娘に見える。しかも予想外の方向に。いわゆる文楽人形ならではの華麗かつ可憐な可愛さではなく、年相応の小娘としてのポップなかわいらしさがあるというか……。ある意味での洗練や作り込みがないからだろうか? 女方人形遣いさんでもポップな可愛さがある人はあまりいないと思うので、びっくり。例えば簑助さんなら妖艶な可愛さ、勘十郎さんならサイコな可愛さ、勘彌さんならヴァンプな可愛さ、清十郎さんなら凄惨な可愛さ、一輔さんならおぼこい可愛さとか、普段良い役をされる方ならそれぞれ独自の可愛さがあると思う。簑二郎さんはそれがよくわからなかったが、意外なところに武器を持っておられるのかもしれないと思った。織太夫さんに関しては、あんまり小細工をせず、力まずにすっといったほうが可愛さが表現できる人なんだなと思った。後述の『曾根崎心中』の道行のお初より、こちらのお半のほうがよかった。

 

↓ 昨年10月地方公演での『桂川連理柵』感想。

 

 

 

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『曾根崎心中』。

こちらは人形お初=吉田和生、徳兵衛=吉田玉男天満屋の床が竹本千歳太夫・豊澤富助でまさに本公演並みの超豪華公演。

天満屋は人形も床もすごく良かった。千歳さんの語り出しが良い。とても丁寧でひとつひとつの音に情景を感じる。私が文楽に慣れてきたためなのか、それとも千歳さんご自身の変化なのかはわからないけど、最近、千歳さんが出演されるたび、語り出しのところではっとさせられる。会場の雰囲気が塗り替わるというか……。いつだったか、口上の黒衣さんが千歳さんが出るところで「ただいまの切」と言ったように聞こえたことがあって、ホントは奥なんだけど、まあそうだよねえと思ったな。

和生さんのお初は明治期の美人画のように美しかった。日本画のように奥行きのある、優しく曇った雰囲気。仕草のひとつひとつがなめらかな曲線で構成されていた。微妙に姉さん女房風でありながら、徳兵衛の胸に顔をうずめる仕草には小鳥のような健気な愛らしさがあった。縁の下に隠した徳兵衛を足先で制する場面ではごくわずかにチョンと着物の裾を動かして徳兵衛をつっつくのが可愛らしい。道行で印象的だったのは「……冥途にござる父母にそなたを逢はせ嫁姑、必ず添ふと抱きしむれば」の部分。お初が客席に背中を向けて徳兵衛に抱かれる場面で、お初がちょっと体を斜めに傾けて腰をひねっているのがとても美しくて感動した。終始たおやかで清楚な美しさのお初だったが、しかし、徳兵衛に抱きつく勢いがすごい。その速度だけはすごすぎた。

移動のある地方公演のせいか、天満屋の屋体が本公演とは違う不思議な構造で面白かった。天満屋の見所はいうまでもなく、お初が店の上り口に腰掛け、打掛で縁の下に忍んだ徳兵衛を隠す場面だが、文楽劇場のような船底+通常ステージの2層の設備がない通常の会場でそれを見せるために、天満屋の屋体の中には高めの段が作られていて、室内は一段上がっている構造になっていた。屋体下部の中央の一部が人形が出入りするための引き戸になっていて、お初が徳兵衛を発見して外に出るときや九平次天満屋にやってきたときにはそこを開閉させて人形遣いを通していた。屋体の中はかなり高めの段になっているようで、おもしろいことにその扉をあけたときには屋体の中に立っている人形遣いの足元まで見える状態になる。人形のサイズが大きい男役の人形遣いが履いている舞台下駄は高くて、人形が小さい女役のそれは低い、と話では聞いたことがあるけど、九平次役の玉也さんや、お初役の和生さん、遊女役の玉翔さんらの足元が見えて、舞台下駄の高さが違うのはほんとなんだなと目で見てわかった。それにしても玉翔さん、めちゃデカい。

あとは下女のお玉〈吉田清五郎〉がメッチャ眠そうだった。旦那に起こされ、顔をまくらにぐいぐい当てて「ねむ〜い!!ねむ〜!!」としているのが可愛らしかった。

今回の地方公演、照明がなんだか露骨すぎて微妙?と思ったけど(生玉社前の後半で露骨に徳兵衛にだけスポットライトとか品がない)、壁が紅殻色に塗られた薄暗い天満屋内で極彩色の衣装を着た遊女たちが動き回る場面は良かった。ドールハウスを覗き込んでいるようだった。こういう場面ならこれくらい嘘っぽくても良い。

 

道行の床は徳兵衛役の睦さんがすごく頑張っておられて良かった。始さんの代役でのご出演だけど、こんなに道行うまい人だったっけ!?と思った。控えめなビブラートのかかり方にほのかな品があって、儚く優しい雰囲気の徳兵衛に合っている。もうちょっとパワーのある役が似合う方だとは思うけど、力技に頼らずこういった役にもまっすぐに挑戦されているところ、とてもいいなと思った。あと三味線のみなさん、清志郎さん清𠀋さん燕二郎さんが良かった。それぞれの個性で頑張っておられた。清志郎さんはぼのぼののようだった。

天神森の人魂は火力低めだった。本公演だと緑色の大きな炎を上げている人魂だが、火が見えないくらい可憐な人魂だった。わずかに白く光っている程度。消防法的理由からだろうか。

 

印象的だったのは徳兵衛のたおやかさ。やわらかな雰囲気の中にも弓の弦のようなピンと張ったものがあって、みずみずしい芝居だった。鮮やかなライトグリーンの茎を持った春の野の花のよう。生玉社前の段で九平次の横暴に抵抗してピョコン!と立ち上がるところなどが殊によく、優しいだけが取り柄のヘタレ感がにじみ出ていていた。玉男様この2ヵ月、ヘタレ三連発。

今思い出したが、昨年の夏、恵比寿ガーデンプレイスで行われた映像イベントに、写真家の渡邉肇さんが出されていた『曾根崎心中』のショートフィルム(映像作家堀部公嗣さんとのコラボ作品)を観に行ったんだけど、それは徳兵衛役が勘十郎さんで、玉男さんとは別の意味で印象深い徳兵衛だった。特殊な映像で、(1)通常通り人形あり、(2)人形はなしで人形遣い(全員出遣い)が人形を持っているのと同じ振りで演じる、という2部構成で道行を見せるものだった。その中の後者でまさに心中しようとするシーンでお初の目線アングルから見た徳兵衛、という映像があって、しかし徳兵衛の人形はないから脇差を振り上げた人形遣い(勘十郎さん)を仰角で撮ってる映像なんだけど、抱かれている設定なのですごい距離が近いのと、その勘十郎さんの目が「マジ」で、とても怖かった。まったく何の感情も読み取れない表情で、人間って人を殺すときこういう目をするんだな〜……と思った。玉男さんの徳兵衛は正直恋人を刺せそうもないんだけど(刺すの失敗しそうで怖い)、勘十郎さんは絶対一撃必殺で刺してくると思った。

 

 

 

そんなこんなでシュロ箒が大活躍の心中二本立て地方公演だった。両方とも人形の配役が良くて、個人的にかなり満足感高かった。あと、道行の太夫配役がなんというか若干野太い感じでそこは本公演ではまずない配役でちょっとおもしろかった。

ところで、以前、「人形の上手い下手は初心者には滅多にわからないが、太夫は間違えるとすぐバレる」と聞いたことがあるが、そうなのかな、人形遣いさんが小道具を取り落とすとか手間取ってテンポがずれるとかは何度も見たことがあるけど、太夫さんが間違えるのって聞いたことないな。おもいっきり何行かすっ飛ばしてて素人には気付かないような間違いなのかな。と思っていたけど、きょう、それがわかった。ある太夫さんが言い間違えをされてたのだ。即座に気づいて言い直してたけど、なるほどこういうことね、と勉強になった。確かにこれはバレる。

それと、公演そのものには関係のないことだが、技芸員さんたちってみんなお互い助け合って舞台を支えているんだなと思うことがあり、胸がジンとした。

 

 

 

おまけ。

実はこの前日、大田区民プラザの夜公演にも行ってきた。当日券で入ったのでかなりの後列席だったが、遠方から見ているとお人形さんが本当にちっちゃくて可愛くて、あんなちっちゃなおててで一生懸命生きてる……(ToT)と感動した。あと玉男さんとか玉也さんはキリリと締まった止めが綺麗なので遠方から見ても映える芝居で、十全に伝わってくると感じた。前列で見るのと遜色ない。むしろ後ろから見たほうが綺麗さがわかるまである。いや嘘。できるだけ前列で見たいです。

 

 

 

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