TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 4月大阪公演『絵本太功記』二条城配膳の段、千本通光秀館の段、夕顔棚の段、尼ヶ崎の段 国立文楽劇場

文楽劇場の場内アナウンス、「尼ヶ崎の段」の「あまがさき」が訛ってるような気がする。大阪公演だから?

 

 

第一部、絵本太功記。
『絵本太功記』は近年何度も出ている演目のため、感動的な展開!このシーンに震えた!このフリがカッコイイ!とかの素直感想は書きようがなくなってきた(元から書いてねぇだろ)。あまりに見すぎて演技を覚えてしまっているので、この人はこれやってるけどあの人はやらないとか、細かい差異が目につくようになっている。そこで、今回の感想は、極めて微細な部分に注目し、それを通して演者の性質を考察するという方向でいかせていただこうと思う。

 

『絵本太功記』は、文楽の中でも大好きな演目。また、光秀は時代物の男性の役の中でもクソデカい部類、かつ、最も派手な演出がついているので、玉男さんに似合いそうな役として、観るのが楽しみだった。
実際、今回の『絵本太功記』は配役が良く、『絵本太功記』の世界が存分に表現されていて、文楽の舞台として大変充実していた。しっかりくっきり濃い、という印象。よくよく考えるとそんなに長い上演時間ではないのだが、ずっしりとした重量感、充実感があった。配役上、タマ・ブラザーズがやたら集まっていたが、この配役こそ、時代物に力強い口当たりと辛口の切れ味を出している理由とも思える。(集結している理由自体は謎)

その筆頭、玉男さんは、光秀を底知れない豪傑として表現しているのかなと思った。光秀にも、玉男さんの演じる役全般にみられる、不気味さや、なにか隠されたもの、秘められた内面があることが感じられた。光秀は、漫然とした一般論で言うと「悲劇の英雄」風の振る舞いが期待されていると思う。が、玉男さんは、そこを通り越して、「決意の方向と太さが完璧に異常なヤバイ人」になっていた。逆にさつきのほうに感情移入できるッ。的な。

玉男さんと玉志さんは、光秀の方向性が違うんだなとも思った。玉志さん(2022年12月東京鑑賞教室公演)は、光秀の意志の強さが全面に出る。誇り高い叛逆者としての「威ありて猛からず」が突き抜けている。三手、五手先を読んで動くような、雑味のまったくない精度の高い演技だったため、より一層、光秀の意志の強さがクッキリと立ち現れていたのだと思う。
玉男さんは、演技の正確性自体は比較的高いけれど、精度そのものにはこだわらず、自然な所作として動いているように思われる。また、所作を振り付け的に処理しすぎて、動きのスピードが不規則にならないようにしていると思う(所作を過剰に旋律に乗せすぎない。また、演奏に間に合わないからと言って所作を素早くするとかはしない)。本や基本的な型に合っているけどマイペースは絶対崩さないという点、もしかして、これが玉男さんの遣う人形たちの「隠された意志」の印象に繋がっているのかもしれないと思った。

また、玉志さんと玉男さんでは、細かい芝居が違っていた。玉男さんは、じっとしているように見えて、意外と細かくリアクションしている。玉男光秀、なんか、さつきのこと、めっちゃ気にしてるんだよね。刺されたさつきの述懐を聞くところ、さつきが「これを見よ!」と言って刺された姿を見せつけてくる部分。セリフは「これを見よ!」だけど、芝居としては、「親の無惨な姿を直視することはできない(目を逸らしてしまう)」という趣向だと思う。ただ、玉男さんは、その時点で即座に振り向くまではしないが、そのあとに続くさつきのセリフのあいだに、ちょっと、見てますよね。わりあい素直な目線で。光秀がさつきのほうを見ていないようで見るという芝居は玉志さんも同じだが、玉男さんのほうが明瞭。帰ってきた瀕死の十次郎から「父上!」と呼ばれるときも、ちゃんと十次郎のほうに向き直って、「ぱし!ぱし!」していた(玉志さんは回によって違うのだが、十次郎のほうを向かずに扇で腿を打つ返事だけをする場合が多い)。このあたり、何も考えていない人や、人形を遣うのに必死すぎて考えが及ばない人は、リアクションをすること自体が目的となって所作を漫然とやって場合が多いのだが、玉男さんはタイミングがよく図られており、光秀の意図をあらわす演技としてやっているように感じられた。
逆に、冒頭、風呂場に竹槍を突っ込む部分は、玉男さんは(相対的に)かなり演技を切っていた。玉志さんのほうが注意深く中を伺ったうえでやっている。扉に左手を当て、人形の目を風呂場側に寄せさせて様子を観察し、一度扉を軽く叩いてから素早く突き刺す。玉男さんはこのあたり、そこまで細かく演技を入れず、扉のところまで行ったらぱっと刺すという演技。この竹槍を突っ込む部分、実は勘十郎さんも玉志さんに近い細かめのフリを入れているので(ただし、玉志さんと勘十郎さんで、演技が細かい理由は根本的に違うと思われる)、玉男さんだけがシンプル化しているということになる。

このあたりを考えると、玉男さんは光秀の家族関係の描写を重点的に、重めにやりたいということなのかな。彼にとってはやはり家族も大切というか。そういう意味では、異様とも思える稀代の反逆者にも家族への情愛があったという、本来の物語に立ち返った芝居なのか。ただ、個性としての不気味さが強いので、本人の意図からは少しずれて見えているのかもしれない。玉志さんは信念と家族が別次元に存在しているような演技で、実際には、玉志さんのほうが自己と他者との遮蔽は強いのだが(浄瑠璃の内容には合っているが、芝居の慣例としては相当イレギュラーな解釈)。

それはともかく、光秀、まじで、デケェ!!!って感じだった。巨大ロボットがガションガション歩いている感じというか。220cm以上あるだろ。第三部「弁慶上使」の弁慶よりデカい。終演後、「明智光秀 身長」を検索した。(諸説あり)
「人形があたかも大きく見えるように遣っている」というのはもちろんあるが、おそらく、人形を構える位置がほかの人より若干高いのだと思う。座っているときにも人形の脚のラインが見えて、下半身の見え方がほかの人よりすっとしている。つまり人形の胴体の位置が高いのではないかと思った。木登りをして、松の木の上で決まる際も、人形の胴体がしっかり伸びている。光秀は、じっとしている状態でもぐらつきがなく、アクションで人形の位置をさらに高く上げるときも安定していた。相当大変だと思うし、事実、大変そうだと思ったが、本当にようやるなぁと思った。
2022年1月大阪公演で『絵本太功記』が出たとき、勘十郎さんが光秀を遣っていたが、「尼ヶ崎」の最後のほうで、人形の位置が尻餅をついているように下がっていた。ああこの人……と強いショックを受けた。玉男さんがこの状態になったら、私は舞台を直視できなくなくなると思った。そういう意味では、今回の『絵本太功記』は不安もあったのだが、玉男さんは玉男さんで、良かった。大変な役には間違いないが、玉男さんだった。

 

 

 

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以下、そのほかの感想。

二条城配膳の段。

蘭丸〈吉田玉翔〉と十次郎〈吉田玉勢〉は、非常に良かった。
蘭丸は、かしらや衣装にふさわしい、張りつめてやや険のある、若者ならではの鋭さがあった。目線がしっかり定まっているのが武士らしい。迷いやごまかしがなく、所作は以前の同役配役時より相当に洗練されている。ご本人が自信を持って演じられているのだと思う。前回見たとき、ターン綺麗すぎだろと思ったが、やはり今回もかなり綺麗だった。
蘭丸は、動く時、止まる時、ちょっとだけかしらにアクセントとなる動きを入れている。やはり初代玉男師匠を踏襲しているのかな。このアクセントがあると人形にメリハリがつくので、自分に合う方法を模索しながら深めていって欲しいと思った。

この段の十次郎は非常に可憐。パール色にいろとりどりの刺繍の入った、乙女チック(?)な揃いのスリーピース(スリーピースではない)と、ほやんとした表情のかしらに合った演技。漠然と、玉勢さんは、久我之助とかの美少年、美青年の役のほうが似合うのかもなあと思った。

浪花中納言兼冬〈吉田文司〉は、なんであんなにパンツの丈が詰まってんの? (答え:勅使だから) 「わんこ(ゴールデンレトリバー)を散歩後に風呂場で洗ってあげた人」みたいになっとらん?

尾田春長〈吉田玉輝〉は、ガングロサーファーみたいだった。玉輝さんにしてはオーバーリアクションが多いように思ったが、かなり割り切っているのか? 解釈の幅を持たせるため、もう少し落ち着いていてもよさそうに思った。

 

今回、『絵本太功記』は4/13・14・15の3回見たが、「二条城配膳」「千本通光秀館」は、13日黒衣、14日出遣い、15日また黒衣だった。一般に大序や端場、人形がガチャガチャ出てくる段は黒衣にする場合があるが、なぜ日替わり? 出遣いでいいと思う。

 

 

 

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千本通光秀館の段。

墨絵の襖のある、クリーム色主体の座敷の屋体。上手には、床間を神棚にした一間。床間に「八幡大明神」の掛け軸がかかり、左右に榊。操が塩を供える。下手は廊下。芝居は屋体の中のみで行われ、船底は使われない。

千本通光秀館」は伝承がなかったものを復活した段のようだ。観てみると、確かにいらんな、という印象だった。話としてはあったほうがわかりやすいけど、舞台として上演するほどの意味があるかは首をかしげる。現状では、「光秀が謀反を決意した」というあらすじ説明以外のものが何もないというか……。演出なりで、もう少しドラマティックさや異常性を盛ったほうがいいのではないかと思った。
今回は光秀が玉男さんのため、フラットな状況のなか、突然発狂したような行動を取るというのは、不気味な光秀像への演出として、合っているといえば合っていた。本来はダメだが、どこに心の変わり目があるのか全然わからないことがプラスに働いている。玉男さんのクマ感が活かせるというか。あまりに唐突すぎる謀反の決意、悠々とした動きに、玉男様のクマ・オーラ、ぴったり。くそでかツキノワグマ。月の位置、違うけど🥺 

九野豊後守は、佇まいや所作があまりに上品なので、春長が監視のためによこしたお目付け役かと思っていた。実は普通に光秀の家臣。めちゃくちゃ上品な理由は、配役が勘市さんだからです。

四王天田島頭は、短慮ながらそれが短所とならないところが、文哉さんに似合っていた。しかしこの人、8年ぶりくらいに見たな。8年前に見たときは、プログラムで、「四天王」と誤植されていて、お詫びの紙片が入っていたことだけ、はっきり覚えている。

謀反を決意した光秀を見て、操〈吉田勘彌〉がプルプルして顔を伏せるのは良かった。

 

 

 

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夕顔棚の段、尼ヶ崎の段。

非常によくまとまっていて、良かった。

操は艶麗で良い。以前の感想にも書いたが、操って、氏素性、謎ですよね。「夕顔棚」で家事の手伝いをする際、謎に小汚いエプロンをつけたり、尋ねてきた久吉の足を洗ってあげたりするけど、あれ、大名の奥方という身分にしては、不自然な行動ですよね。もともと氏素性知れないことをバカにされている光秀の妻だからなのか。普通はかなり違和感があるのだが、勘彌さんの若干鄙俗というか、しどけない味がプラスに出て、私の中の高校生男子が大興奮のお色気奥さん感があった(絶対にご注進しないでください)。

今回の番組編成で、操はかなり難しい役になったと思う。操は、「千本通光秀館」で1度、「尼ヶ崎」で2度、クドキ(光秀を諌める、あるいは独白する)がある。それぞれ、なにを訴えかけているかが違うのだが、区別があまりわからない。訴える内容は、それぞれ主君、姑、息子についてと異なっており、操にとっての本当の意味での大切さや切実さは実際には段階ついてるのでは。「尼ヶ崎」の区別だけでも曖昧になっていることが多いのに、たいして意味がない段でも中途半端に見せ場があると、混線するな。ただ、操は悲劇を盛り上げるリアクション係の役割しか与えられていない、中身のない人物だ。たとえば『一谷嫰軍記』の相模と比較するとわかるだろう。この薄っぺらさこそ、若手会含め、誰が操をやってもそれなりに見える理由でもあるのだが、ある程度力量がある人が配役されると、彼らの力量の見せどころである内面表現を深めることが難しく、逆にそこが足を引っ張ってくる。
勘彌さんは上手い人ではあるが、独自のリズム感がある方で、床が盛り上がっていないと、独立して勝手に人形のみで盛り上がることはしない部分がある。十次郎が帰ってきた部分の操はリアクションが大きくなり、非常に悲しそうなんだけど、もっと大きく突き抜けて欲しい感があった。そのあたり、今後の変化があるといいなと思っている。独自の操の人物像をみずから構築しなくてはならないと思う。

操の足の人は真面目そうだった。勘彌さんは一見ゆったりとしているように見えて、感情の動きが非常に速い。そして、人形が決まるまでの動きもかなり早い。速度だけでなく動き始め自体が数手早く、左や足が追いつかなくなることが多々ある。「取りつく島もなかりけり」で、操は船底中央で背後姿勢になり、屋体の中の光秀と向かい合って決まるところなど、二手、三手前から決まる準備していたが、今回の足の人は勘彌さん同様、比較的早くから準備しており、手すりに突き当たったら人形の上半身が完全に決まるより早く、自分はすぐしゃがむなどして、人形が目立つよう配慮がなされていた。えらいっ。

2024.5.2 追記
清十郎ブログに、4月公演分の人形小割の写真が投稿されていた。それによると操の足は勘昇さんですね。えらいっ。
これは清十郎さんが若手を褒め、励ますために上げてくれたものだけど、こういうことは、本来、国立劇場文楽劇場がやることだと思う。研修生募集に苦慮しているならなおのこと、また、若手のモチベーションを上げるためにも、少しでも彼らの励みになることをやって欲しい。でも、絶対やりよらんでと思うので、まずは清十郎、毎月、頼むわっ!!!!!!!!!

 

なお、「取りつく島もなかりけり」での光秀の決まり方は、軍扇を広げる方法。玉男さんが軍扇を広げず腰に手をつけるやり方にする日は来るのか。「普通と違うほう」、「難しいほう」をやればなんでもいいというわけではないが、玉男さんはやるべき水準に達しているのでは。そこでなんか言ってくるやつがいたら手打ちにすればいいと思う。

 

十次郎は、実に良かった。刀をついて思案に沈むとき、鎧姿に着替えたとき、傷を負って帰ってきたとき、それぞれ的確に演じ分けがされていた。思案に沈む姿は、「思案に沈む姿を演じている」以上のものになるのがかなり困難なところ、十次郎自身が持つ愁いや、それが若さゆえの懸命さによるものであることがよく表現されていた。出陣のため鎧姿に着替え、暖簾奥から出てくる場面は華々しく、腕も若武者らしい力強さですんなりと伸びて、綺麗に決まっていた。
十次郎は、上手い人がやれば、もっと「上手い」とは思う。だが、十次郎という役の持っている懸命さ・青さと、いまの玉勢さんの限界まで頑張ったうえでの技術がうまくマッチしていて、非常に魅力的な十次郎となっていた。

しかし、尼ヶ崎の十次郎の刀の下げ緒、変色しすぎ、ズタボロすぎんか? おじ武士が持ってるならともかく、若武者なんだから、もっと綺麗なんに替えてやってくれ。刀といえば、この段でまじで意味わからんのが、初菊が十次郎の刀を受け取るくだり。初菊、水汲みがうまくできなくてウネウネしていたり、鎧櫃をゴチャラゴチャラと時間をかけて引きずったりしてますけど、あいつ、十次郎の太刀を片手で軽々と受け取るよね。太刀って、結構、重いよ。いまの片手での受け取り方、慣例なんだろうけど、『仮名手本忠臣蔵』判官切腹の段で、力弥が由良助から太刀を受け取る所作を安易に流用してるだけで、なにも考えられていないように感じる。頼まれてもいないのに刀を受け取るのは、わたしは十次郎の妻よッ!という意味であって、初菊という人物にとっては重要な行為であると見せたほうがいい。振袖を両腕に巻いて、十次郎にそこに乗っけてもらうという受け取り方のほうが、姫役っぽくて、よいのでは。そもそも直接素手で鷲掴みするのも違和感がある。と思った。(鷲掴み自体は配役された人の問題だが)

 

久吉は玉佳さん。玉佳さん、最後にキラキラになって出てくる役、良すぎ。久吉は、正体を顕わして奥から出てくる「♪三衣に替わる陣羽織〜」のところでいかに燦然と出られるかが勝負。超、キラキラしていた。キラキラは玉志さんも相当強いが、知的で美麗な方向にいく玉志さんより、武張って若い印象に寄っている。腕の突き出しや顔振りが強い。タマカ・チャンお得意の「陣屋」の義経に近いな。
最後に光秀と久吉が睨み合い、立ち位置が入れ替わりになって、同じフリになるところ。ここ、揃わない場合がかなりあるが、ちゃんと揃っていた。睨み合うところは、上手(かみて)にいる玉佳さんが光秀の人形が振り返るのを目視確認し、それに合わせて久吉を振り返らせていた。しかし、最後に振り付けが合うところは、玉男さん(上手)も玉佳さん(下手)も相手を見てないですね。演奏に合わせて動いているだけで合っている。いや、演奏に合わせて動いているからこそ合っているのだろう。ここまで揃っているのは驚異的だが、かつて師匠の光秀の左や足についていたときに「師匠はこのタイミングでこうしてた!」というのをお二人ともよく覚えていて、それを二人が同時に完全再現しているのだと思う。師匠が亡くなっても、師匠が舞台でやっていたことはこうして残っていくんだなと思った。
陣羽織になってからも良いが、旅僧姿の軽快さ、朗らかさもいい。若干頭悪そうなのもいい(よくねぇよ)。普通に考えて、あんな女性3人の住まいに僧侶と言えど泊めてくれとかありえない。そのへんの草むらで寝とけやと思うが、玉佳さんなら「どうぞー!」感、あるな。と思った。タマカ・チャンゆえに、ここが安達原なら、あとで鍋の具材にされて食われそう感もあるのも、また、良い。

 

「夕顔棚」の床、三輪さんは、さすがにベテランは急に音程が上がるところ(マカン)の処理が自然だなと思った。ただ、演奏が途中で詰まった日があった。直接的には、床本のページがうまくめくれなかったのが原因のようだが……、次になにを言うか自体はわかっていたとは思うが、演奏を止めたのは、自分のペースが崩れるからか。それなりの年齢の方だし、何かあったのかと思って、ちょっとドキッとした。人形は、そういったトラブルをうまいこと流れせるタイプの人の演技の番だったので、まあまあなんとかなっていた。翌日からは、なにごともなく、いつもの三輪さんに戻ったので、よかった。そういえば、太夫さんはどんなジジイでも床本のページちゃんとめくってるけど、出る前にハンドクリーム塗ってるのかな。

千歳さんは良かった。自分が見に行く前の日程で数日休演されており、大丈夫かと思った。実際、3回見たうちの最初の2回は、のどの調子が悪そうで、盛り上がりにも欠けた。しかし、3回目は、思う存分の演奏ができているようだった。光秀やさつきの語りには、旋律や拍子に乗りすぎない破調した部分が作られており、そこが「ささくれ」となって、人物の切実性が滲んでいた。
「尼ヶ崎」が出るといつも気になることがある。それは、二度目の操のクドキ「母は涙に正体なく『コレ見給へ光秀殿……』」の部分が、直前のくだりとシームレスすぎること。どこから操のクドキになるのかわからない。「母は涙に正体なく」以降の声量を目に見えて(耳に聞こえて?)上げたほうがいいのではと思っていた。で、今回、実際にそうなっていたのだが、それでも「?」な感じ。
そこで津太夫の「尼ヶ崎」の録音を聞き直してみたところ、「母は涙に正体なく」をデカい声で語っているというより、直前の「愛着の道に引かるゝいぢらしさ」を抑えた声で、かなり遅く語っていることに気づいた。このうち、「かなり遅く」というのが一番重要で、「母は涙に」から急速にテンポを上げていることが劇として、つまり操の内面表現として効果を生んでいるのだと思う。大きく盛り上がるところを作るには、引いて抑えるところを作らなデコボコはできんわな。義太夫という音楽および人形浄瑠璃という人形では、速度のメリハリは重要だと改めて思った。
昔の録音を聞くと、「ゆっくりしたところ」は本当に「ゆっくりしている」ように聞こえる。本当に今よりゆっくりしていたのかな。それとも、舞台で生聞いているときと、好き勝手な環境で聞いているときの、自分の感じ方の違いかな。
「尼ヶ崎」の三味線について、最後の「♪みわ〜た〜す、沖は中国よりおいお〜い〜いい数万(すまん)の兵船」のところ、三味線が非常に細かくなるが、あそこ、結構ミスするもんなんですね。過去の鑑賞教室でもかなりのミスが発生していたが、「若造」はともかく、ここまでのベテランでも難しいのか、と思った。観た回全部失敗したわけではないけど、いいところなので、失敗すると、目立つ。

 

 

今月は人形に休演が多い。「夕顔棚」の冒頭、妙見講に参加しているツメ人形は、通常4人だと思うが、3人になっている日があった。人を出しきれなかったのか。それでも、出されている湯呑みの数は4個。お茶注ぎ役の人は「あ」と思っただろうが、なんとなく少し触って、誤魔化していた。
それにしても、冒頭の「ナンミョーホーレンゲーキョー」、良すぎ。上手袖のカーテンの裏に若手太夫が隠れてやっているのだが、席によっては、若手たちツメ人形のように並んでワーワー言っているのが見える。ツメ人形、めっちゃおるwwwwwwと嬉しくなる。

 

 

 

  • 義太夫
  • 人形
    浪花中納言=吉田文司、尾田春長=吉田玉輝、武智光秀=吉田玉男、森の蘭丸=吉田玉翔、武智十次郎=吉田玉勢、妻操=吉田勘彌、九野豊後守=吉田勘市、四王天田島頭=吉田文哉、赤山与三兵衛=桐竹亀次、母さつき=桐竹勘壽、嫁初菊=吉田簑紫郎、旅僧 実は 真柴久吉=吉田玉佳、加藤正清=吉田玉延[前半]吉田玉峻[後半](吉田玉延、吉田玉峻休演につき、代役・4/14〜吉田和馬)

 

 

 

 

◾️

玉男さんの光秀を見て、改めて、光秀は、配役された人によってイメージが変わるなと思った。
私は、人形を見るとき、人形遣いがその人形(役)をどのような人物として捉えているのかに関心がある。また、演者がそれをいかに高い精度で舞台へ定着させるのかを見たいと思っている。光秀だけでなく、ほかの役でも同じだが、「既存のその役に期待されるもの」をコピペしたような慣例的な芝居は、現代ではもう通用しない。「既存のその役に期待されるもの」自体をいまの観客はわからないから期待していないし、慣例的な芝居は好まれない。一般の舞台演劇、映像等の芝居で、近年、「憑依型」の俳優、あるいは「憑依型」という言葉が褒め言葉としてもてはやされるのも、その裏返しだと思う。歌舞伎を真似しても、じゃあはじめから歌舞伎行けばいいじゃんって話になるし。文楽文楽として、芸能としての特性通り、浄瑠璃の文章に沿い、その演者がよくよく考えた、独自の像を作っていく必要があると考えている。その意味で、今回の玉男さんの光秀は、興味深い人物像だった。

「尼ヶ崎」が近年繰り返し上演されているのを見ていると、人形の操演技術と、それが導く表現力だと、玉志さんがぶっちぎった状態になったと思う。精度が高すぎて、真正面からぶつかっても、もう誰も勝てない。そうなると、どのような解釈をどう表現するかという個性自体が争点になる。そういう意味でも、今後光秀を演じる人がどのような光秀像を描いていくのか、楽しみである。