TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 4月大阪公演『御所桜堀川夜討』弁慶上使の段、『増補大江山』戻り橋の段 国立文楽劇場

ロビーに弁慶の生首が爆誕していた。
なぜ弁慶? 弁慶にしても、なぜ「勧進帳」ではなく、「五条橋」「大物浦」??

でも、お客さんがツメ人形のように「弁慶さんやーーー!」とたかっていたので、良かった。

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第三部、御所桜堀川夜討、弁慶上使の段。

「弁慶上使」は俗味が極めて強い演目で、それゆえに「かなり手慣れた人向け」の出し物だと思う。2022年2月東京公演で出た際には、非常に厳しいことになっていた。
しかし、今回はかなり良かった。具体的には、人形のおわさに和生さん、弁慶に玉志さんが配役され、物語の描写力が上がり、同時に、俗味に必要とされる「こけおどし」に強度が出たことによるものだと思う。

 

おわさは和生さんでないと成立しない、と思った。
和生さんには珍しく、おわさは「普通のオバチャン」の役。娘に呼ばれて久しぶりに来ましたよ〜!と侍従太郎ハウス(異常レベルのビッカビカ)へやってくる、縫い物で生計を立てている一般人。オバチャンならでは(?)の押しの強さで、ありとあらゆることにグイグイ来る。武家女房や乳人といった格式の高い役よりも、所作が全般的に シャコシャコシャコ! としているのが良かった。動きの幅が狭くて、その分、間が詰まっている感じ。「びっくりして後ずさり」のところとか、驚いた小動物みたいに、ピコピコピコ! と(あくまで抑えめに)動くのがかわいい。

おわさは3度、一人語りをする場面がある。卿の君の懐妊祝いに、おもしろおかしいおしゃべりを交えて海馬のお守りを差し上げる場面。娘時代、顔も知らない稚児と契った一夜の恋の思い出を恥じらいながら語る場面。最後に、愛する娘・信夫を失い、嘆き悲しむ場面。それぞれに、おわさという人のうちにある、まったく異なる一面が出ていて、彼女のさまざまな表情を楽しめた。和生さんはなかなか娘役をおやりにならないので(やるとめちゃくちゃかわいいのだが)、おわさに時々挟まる娘風の表情はかなり良かった。

おわさの難易度が高いなと思うのは、上記した3度の一人語りの区別。お母さん役として一番派手に盛り上がる「娘を失った嘆き」よりも、「お守りの語り」と「恋の思い出」のほうが大きな動きの振り付けがついている。小道具を持っていたり、特殊な動きもあったりして、見た目が派手になる。しかし、信夫が死ぬところでは、振り付けとしてはよく見る女方の慟哭の演技になる。そのまんま素直に振り付けだけをやってしまうと、一番盛り上げなくてはならない「子供を失った嘆き」が一番地味になる。
これがどうクリアされていたか。和生さんの場合、「お守りの語り」と「恋の思い出」は三味線に乗って舞踊的に緩慢に動き、「娘を失った嘆き」では演奏から離れて破調し、時折かなり素早い所作が挟まる動きにされていた。物語の構造として、前者二つは他人に聞かせるためのセリフの延長としての語りだが、最後の嘆きは自らの心のうちを自発的に述懐する、内面が漏れ出る場面という違いがある。それを表現に活かし、「娘を失った嘆き」はおわさの心の乱れ、慟哭、心拍の速まりがあらわされた、速く鋭い所作にしているのだと思う。突然不規則な動きになることによって、観客の注意を自然に、しかし強く引きつける印象があった。義太夫や歌舞伎のセリフは、七五調を外れた部分にこそ演者・観客ともに注意(集中力)が集まるという。それと同じことだと思う。やはり和生さんはよく考えて人形を遣っていると思った。

信夫〈吉田玉誉〉とテンポがしっかり合っていて、抱き合いなどが非常に自然なのも良かったな。これはまず玉誉さんが非常に上手い人だというのと、和生さんの左についていた過去があり、玉誉さんが和生さんのテンポを読み切っているのが勝因だろうな。ポーズ的にも、おわさの胸にちゃんとはまっていた。弁慶とタイミングを合わせる場面も的確で、お互い床の演奏をしっかり聞いてやっているからだろうと思った。相手が動いてからやったのでは間に合わない。二人とも曲と身体が一体化しているからこそのマッチングだと思う。

私が観た回のうち一度、和生さんがめちゃくちゃ喋りながら遣っている回があった。今回は休演が多く、人手が足らずにイレギュラーな左や足がついていたのかもしれない。少なくとも和馬さん休演してたし。だからと言って見た目として人形に違和感はなかったが、大変だったんだろうな。もはや実況中継だろというくらい喋っている状態になっている場面もあった。普段はイヤホンガイドいらない派だが、和生・実況中継・イヤホンガイドがあったら、借りたい、と思った。

 

弁慶は、派手さに大きく振り切った爽快な演技。
玉志さんはとても上手い人だ。しかし、こけおどしが強く要求される役は、技術面では十分及第しているにもかかわらず、派手さに思い切り振り切るところまで割り切れていないように感じていた。玉志さんの『妹背山婦女庭訓』の鱶七は、クールでかっこいい。「荒物だから雑でいい」に寄りかからない、古典への新機軸を打ち出した本当に素晴らしい演技なんだけど、押し出しが足りなくて、玉志さん自身の巧さ自体が立ってしまい、テクニックで押しているように見えていた。玉志さんは文楽において人物の内面描写が一番重要だと考えていて、表面的なものに拒否感があるのではないかと思う。ただ、こけおどしでしかない役も演目も文楽には現実に存在しており、芸人としては「やらなくてはならない」。そこは弱いよなあと思っていた。けど、今回の弁慶は良い意味で割り切って、派手な役であるということ自体を全面に押し出していた。むしろ、前半はしっかり抑えて後半に華を持っていくという設計力があり、緊密な動きが可能な技術力のある人がやると、弁慶ってここまでカッコよくなるのかと思った。ここにきて、欠点が裏返って強みになったんだ、と感動した。また鱶七役が来たときには、物語の掉尾を飾るに相応しい勇壮さを見せてくれると思う。

大きな動きがバタバタ見えないのは、伸びやかさがあるからだろう。相当、のびのび、しとるっ。すらりとした背筋とぱんと張った胸、ぴんと伸びた腕。大きく回す肩と上体がダイナミックに動く円弧は美しく、人形自体の大きさ以上のスケールを感じる。以前、玉男さんの演技にも使った言葉だが、アスリート的な美しさ。肉体のパフォーマンスを最大限に引き出すためにフォームの鍛錬を重ね、無駄が一切なくなった結果、極限的な美が出現しているというか。この弁慶、めちゃくちゃ運動神経よさそうッ!!!!! スポーツマン・オーラ、あるでっ!! インターハイ優勝かっ!? と思った。見ていて、あたかも自分が運動したかのようなスッキリした気持ちになった。(他人が運動しとるの見て自分が運動した気になるという、運動不足のアホの典型的感性)

また、玉志さんは動きが相当クッキリしている。動き、ポーズ、型がかなり明瞭。最後にどのような姿勢で止まるかを意識して動き始め、そこにピタッと合わせるスキルが高いのだと思う。また、大きく動く場面では、最初の姿勢よりも一旦引いてから動きを開始し、また、反動をいかし最終の停止位置を若干オーバーさせてから引き戻すことで、動きの大きさを強調しているようだった。「人形を安定して持てない」という意味で動き始めと止めにブレが出てしまうと見た目が汚くなってしまうが、始点も終点もしっかり安定させ、静動のメリハリをつけているため、スッキリとして見える。フィギュアスケートやバレエのような、鍛えた身体による洗練された所作で魅せる競技・芸術の身体の動かし方とでもいうべきか。
クッキリと見える理由として、腰以下の下半身をしっかり固定しつつ、上半身を大きくひねる動きがある。腰以下をしっかり止めることで、上体のダイナミックな動きがよく活きる。しかしこれ、どうやってるんだ? 人形の腰って所詮頭にぶらさがっているだけなので、上半身の動きにつれて腰から太ももくらいまでがブラつく人形はよくいるし、安定度の高い玉男さんあたりでもひねりが大きくなるとそうなる(実際、今回の「尼ヶ崎」光秀、最後のほうの石投げの見得はそうなっていた)。だが玉志さんはそうならないは、結構、不思議。本人の心がけだけで出来ることとは思えないので、足と左によくよく指導しているということか? あまりに下半身がびしっとしているので、めちゃくちゃお尻が「きゅっ🍑」として見えた。(人間に向かって言ったら一発アウトのセクハラ発言)

特徴的に感じたのは、前編通じて、弁慶の人形の身体に力が入っているように見えること。たとえば、第一部『絵本太功記』の光秀〈吉田玉男〉を見ると、同じように大型の人形、二の腕から肘にかけての上腕を張ったポーズを基本形としていても、光秀のほうが若干リラックスしているように見える。光秀は、「尼ヶ崎の段」ではすべての覚悟を決めており、また、武将だけあって悠々としているということなのか。弁慶は逆に、不本意な使命を帯びており、言動は悠々としていても、始終、緊迫した雰囲気を漂わせている。そのために所作を全般に鋭い方向に寄せ、止めを強くして力んでいるように見せているのだと思うが、「人形の身体に力が入っている」という表現ができること、そして、それを最後まで維持できるというのは、すごいなと思った。

でも、弁慶は、大きな演技だけをしているわけではない。最後、おわさや花の井を振り払うときの仕草は繊細で、優しい。振り払っているはずなのだが、「そっ」「そっ」と、自分からよけてあげているように見える。引き留めようとするおわさに、「……」と言っている感じがするのも、良い。弁慶は途中までは本心を出せないため(本心を出せないがためにこうなっているという話なわけだし)、本来の内面をそこに集約して出しているのだと思うが、こういった優しさが出てくるのが、玉志さんらしいなと思った。

ところで、今回の弁慶は、「プルルッ」とはしていなかった。
なんでや。
あの外見だと、普通の役以上に「プルルッ」としそうなのに。弁慶はこの程度(?)の用事でも立烏帽子に大紋という正装で来訪しており、「私」ではなく、あくまで「公」として振る舞っている人物だから? それとも、「弁慶上使」の弁慶は真面目が限界突破した性格だから? 第二部の浅利与市のほうが「プルルッ」としていた。

なお、弁慶は身長227cm設定とのことで、人形を通常よりもかなり高く差し上げて遣っていた。人形を高く差し上げた際、手・腕をそれ以上挙げられなくなり、人形の動きがちぢこまってしまう人もいるが、腕の位置もかしらの位置に応じた高さで演技がされていたため、極めて自然だった。玉志さんの場合、男性の役は動作のアクセントに「シュッと背筋を伸ばす」演技を必ず入れるので、基本姿勢でも本当の限界まで差し上げているのではなく、背筋伸ばしのための余白をとっている。そのために腕も動かしやすいのかもしれない、と思った。
ただ、身長自体は残念ながら(?)光秀のほうがバカデカかった。玉志がんばれッ。

 

玉誉さんは大忙しだ。第二部の「市若初陣」の代役を含め、前半は3役ついている。一番大変なのがこの「弁慶上使」の信夫〈前半配役〉だと思うが、ずっと出っ放しになってしまっていることを感じさせない、余裕のある丁寧で優美な姿。優しくてかわいい若い女の子そのままで、とても良かった。若い女の子って、本当にこんな感じだと思う。

卿の君〈吉田簑悠〉はものすごい前のめりになっていたが、わざと? テーブルの上に夕ご飯のお刺身が並べられているのを首を限界まで伸ばしてガン見しているネコちゃん(テーブルに乗ったらド叱られるので乗らないが、すきあらばおこぼれにあずかろうとしている)のようだった。
意図かどうかはともかく、卿の君のような品格の高い女性が子供っぽい変な姿勢というのはやめたほうがいいが、「妊婦さんなんだから、大人しくしてなきゃだめですっ!」と言われてあそこに一日中座らされているけど、暇してるところに面白オバチャン来ちゃって興味津々なのは仕方ないので、ある意味、間違ってない。

 

床は2022年2月東京公演と同じく、錣さん・宗助さん。当時はコロナによる出演規制が厳しく、濃厚接触者認定や感染による休演でこの本役が勤めた期間は短く、また、稽古不足からか、微妙な出来になっていた。しかし、今回は思い切り演奏ができたようで、良かった。
錣さんはこういった俗味の強い演目を躊躇なく俗に語ることができるのが良い。こけおどしでしかないものをしっかりと「こけおどし」に落とし込んでいる。そして、そこにじんわりと心のゆきかたを染み込ませている。このあたりのバランス取りは無二。また、錣さんの女性は本当に可愛らしい。ただただ初々しくて可愛らしい「娘」ではない年配になった、歳を重ねた女性ならではのチャーミングさがよく出ている。実際にはおわさが主役ということをよく立てた演奏だったと思う。

 

ところでこの話、最後に侍従太郎が自害して、信夫の首とともに自分の首も一緒に持って行かせる理由は、私は、「頼朝や、受け取り係として派遣された使者・梶原景高に偽首を黙認させるため」だと思っていた。でも、「卿の君を殺害され、乳人として責任を取ったと見せかけ、首が卿の君のものであると疑わせないため」というのが一般的な解釈なのか? プログラムの解説ではそう書かれている。
この部分、侍従太郎のセリフでは、「卿の君の乳人とは、鎌倉殿も知ろし召したる、侍従太郎がこの首を添えて渡さば、天地を見抜く梶原も、身代はりとはよも言ふまい」となっている。これ、「よも言ふまい」であることが重要なのでは? 「疑ふまい」ではなく、あくまで、「言ふまい」。
普通に考えて、義経の妻、しかも平家方の要人の娘の顔を、梶原や頼朝、あるいは鎌倉方の関係者が誰も知らないというのはあり得ない。だって、所詮乳人の侍従太郎の顔ですら、頼朝、知ってんでしょ。「その場しのぎ」にしても、弁慶がそのへんの小娘を殺して持ってきたのではなく、侍従太郎という重臣の首を添えて(つまり義経方もそれなりの犠牲を払い、頼朝の意図を承認している)実検に差し出されるからこそ、鎌倉方はあえて真っ赤な偽首を承認するという話なのでは。
直前の段で、義経へ卿の君の首を差し出すよう命じる使者は、梶原景高。しかし、その対面で、梶原は義経に重大な借りを作ってしまう。梶原は、彼ら父子の名前が書かれた平家の連判状を義経に焼き捨ててもらったのだ(=自分こそ頼朝へ不義を働いていることをもみ消してもらった)。義経自身は恩着せのためにやったことではないが(こんなもの存在しても誰も幸せにならないという判断)、梶原にとっては重大な借りができた以上、梶原は偽首を確実に承認する。頼朝の意図は義経を試すことであり、卿の君を殺すこと自体を目的としているわけではないので「梶ちゃんOK? ホナわしもOK」とする。そういう、建前さえしっかりしていれば「その場しのぎ」を正当化できるという、「武家社会の建前」の話のように思うな。「陣屋」の義経と同じ。あるいは「市若初陣」の裏返し。みなさんはどう思われますか?

 

 

 

  • 義太夫
    中=豊竹睦太夫/野澤勝平
    切=竹本錣太夫/竹澤宗助

  • 人形
    卿の君=吉田簑悠、妻花の井=吉田簑一郎、腰元信夫=吉田玉誉(前半)吉田簑太郎(後半)、母おわさ=吉田和生、侍従太郎=吉田文昇、武蔵坊弁慶=吉田玉志

 

 

 

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増補大江山、戻橋の段。

インバウンド向けに派手な演出で上演しますってことなんだろうけど、人形は演技自体をしっかりやらないと、演出に負けている。特にこのような景事的ニュアンスが強い演目では、全身の動きが客席からどう見えているかを相当に意識しなければ、単なる雑に見えてしまう。2年ほど前に同じような配役で『紅葉狩』見たときも同じ感想を覚えた。これからも同じなんだろうなー。と思った。

しかし、人形の毛振り、配役どうこう関係なく、良いと思ったこと、一度もない。人形の背後に人形遣いが立っているせいで、「歌舞伎と同じ」ようには振れないんだし、根本的に人形に向いていない振り付けなのでは。玉男さんとかがやったら違うのかもしれないけど。玉男、やって!!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

 

 

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「弁慶上使」、今回、おわさを和生さんが勤めてくれて、本当に良かった。
おわさの演技中、周囲の女方系の方が、みんな、和生さんの演技をじっと見ていた。みなさん、いつかおわさをやりたいのだろうか。本当に、そうなるといいのだが……。
逆に和生さんは弁慶を見ていた。普通に客のように見ていた。和生、弁慶上使の弁慶、一生やらんやろ。玉志に「ご指導」してくれるんか? それなら頼むわ!!!!!!!!!!!

弁慶は、正直、玉志さんがここまで上手いとは思わんかった。ひとかわ、むけた🥺と思った。
「弁慶上使」の弁慶は豪快の典型……というイメージがある。でも、文楽でいうところの「豪快」という言葉は、「大きく遣う」「色気」と並んで、意味するものが恣意的すぎる。いまの文楽では、フリが大きく「雑」な演技をよしとする言葉として、「豪快」が使われていると思う。恣意的だからこそ、どんな人にも使える言葉として、劇評なり技芸員の芸談では便利に使われているのだろうけど。正直、この言葉を遣っている人は信用できないですね。海鮮丼の「豪快」とかは大好きですけど(特に、盛り付け、物理的に「豪快」であれば、あるほど、よき…🥰)。
「豪快」は、本来は、「雑」や「精緻さがなくてよい」という意味ではない。あらためて「豪快」を国語辞典で引いてみると、以下のような説明があった。
人の性格、やり方、また、物の動きなど、規模が大きく、のびのびとして気持のよいこと。また、そのさま。(日本国語大辞典
今回の弁慶は、本来的な「豪快」だわ、と思った。

ところで、今回販売されているプログラムに、玉志さんが「弁慶上使」の弁慶を遣っている写真が掲載されていた。おや、こんな良い役、前にもやったことあるんだ。と思ったが(失礼)、もしかして、若手会の写真? 調べると2007年の若手会で「弁慶上使」の弁慶の配役がついている。写真の玉志さん、見た目が今とあんま変わらんのやが。計算すると年齢もわかるが、研修生出身だから入門自体は遅いとはいえ、そんな歳になるまで「若手」扱いされるって、厳しいよなぁ。よく耐えたな……。と思った。

↓ あらすじ解説

 

↓ 2022年2月東京公演の感想

 

 

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文楽の「弁慶さん」一覧。

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そういえば弁慶って書冩山圓教寺出身なんですね。西国三十三所回ってるときに行った。姫路だよね。なにもかもかめちゃくちゃデカかったことを覚えている。

 

生口島公演にあった『二人三番叟』のパネル、文楽劇場に引っ越してきていた。顔出しパネルというより、普通の記念撮影スポットとして活用されていた。

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