TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 2月東京公演『二人禿』『御所桜堀川夜討』弁慶上使の段『艶容女舞衣』上塩町酒屋の段 国立劇場小劇場

開演前、

「べんけい・じょし……………………。弁慶・女子!!?!」

とつぶやいているお客さんがいらっしゃった。
いる……。こういう、ツメ人形……。と思った。

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二人禿。

いろいろ仕方ない部分もあるけど、床も人形も、覇気がない。
やっぱりこの曲、人形にものすごく踊りがうまい人が二人いる時向けに作られてるんじゃないかと思った。

 
 
 
 
 
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  • 義太夫
    豊竹希太夫、豊竹亘太夫(2/16〜)、竹本聖太夫(2/5、13〜)、豊竹薫太夫(2/5、13〜19)、竹本文字栄太夫/竹澤團吾、鶴澤友之助、鶴澤清公、鶴澤燕二郎、鶴澤清方
  • 人形
    禿[上手]=吉田玉誉、禿[下手]=吉田簑太郎

 

 

 

御所桜堀川夜討、弁慶上使の段。

↓ あらすじ

みんなこの話にはいろいろ突っ込みたいことがあると思う。
でも、突っ込みどころがありすぎて突っ込みきれないので、言わないのだと思う。

しかしこれだけは言わせてくれ。侍従太郎ハウス、内装すごすぎ。全面ピッカピカの金地に、満開の桜と張り巡らされた五色の幔幕、巨大な火焔太鼓が大々的に壁に描かれていた。貴族に仕えている人はあんな豪邸に住めるものなのか? いや、それより、これをヨシ!とするとは、一体どういうセンスなんだ??

あとは、おわさが持ってくる海馬のお守りは、原文だけ読んでいる状態だと、タツノオトシゴの干物だと思ってたが、実際見てみたら、お札みたいなやつだった。中に入ってる本体(?)が、タツノオトシゴのイラスト入りってことなのでしょうか。

 

舞台は、いろいろと大変なことになっていた。みんな一生懸命頑張っていたが、かなり、大変な感じになっていた。

床は複雑な休出演状況となったため、かなり混沌としていた。
初日2/5は、錣さん・宗助さんが出られなかったため、睦さん勝平さんが奥も通しで演奏(どうなってたんだこの日)。公演再開すぐは、錣さんは出られたけど、宗助さんが出られず勝平さんが引き続き演奏。数日後に宗助さんが復帰して、やっと本役の錣さん・宗助さんの演奏ができたという状態だった。
自分は錣・勝平で出たとき、錣・宗助に戻れたときに聞いたが、かなり大変だったんだろうなと思った。勝平さんは一生懸命やってるんだけど、錣さんが三味線をかなり気にしちゃっていた(というか錣さんは人形まで気にしてた。おそらく演奏速度についてきてるかが気になったんだと思うが、そこはさすがに向こうの責任なので無視したってくれ)。宗助さんは戻ってきても、ベストな状態とはいえず、普段の宗助さんがそんなミスをするとは思えない箇所があって驚いた。錣さんは宗助さんが横に帰ってきたことに安心したのか、ご本人が落ち着いたのは良かったけど……。いつもと同じように稽古できなかったのがしんどいのかなと思った。少なくとも、誰もがまともな状況では出来ないわな。

しかし、錣さんのおわさや信夫は可憐で愛らしく、公家に出入りするにはちょっと普通の人っぽい(実際そうだが)チャーミングさがとても良かった。また、状況による刻々とした感情の変化がよく出ていたのが良かった。弁慶の口調の変化、おわさの嘆きの変化。弁慶はわりと早い段階からウルウルしていた。おわさはカシマしい大阪のオバチャン(?)だったのが乙女に戻ったり、お母さんになったりと、さまざまな内面の変化に富んでおり、また、悲しみの水量が変化していくのも良かった。

 

人形はそういう事情がない分、言いにくいが、床とは違う意味で大変なことになっていた。さきほど床の状況はかなり混沌としていたと書いたが、それでも、人形はとてもじゃないけどその場その場の感情表現ができている状況ではなかったので、話の理解には床を頼りにした。

全体的にあっさりしているというか……、率直に言って、浅い印象。全体が大味で、段取りの説明をしている状態にとどまっているような。浅く感じるのは、主役級に素描的な演技の人がかたまりすぎているからだろう。あるいは素朴、もっと言えば、演技が固いと言ってもいい。文楽座として、いろいろなタイプの人、いろいろな成長度合いの人がいること自体はよいことだと思うけど、一演目に対しひとりは写実的で緻密な演技をできる人が欲しい。この状態では、叙情性や詩情がまったくない。確かにもともと大雑把な曲だとは思うんですが、それにしても素朴すぎやしませんかね……。と思った。

今回は、今後の奨励のためもあって、こういう配役になっているのだと思う。ただ、奨励なら奨励で、割り振りなりサポートする体制なりを一考する必要があるように思った。というか、本公演として客前に出す用に、もうちょい体裁を整えておいて欲しいと言ったほうが、客としては正確な心情かもしれない……。
その上でも、個々の問題は、熟練やこなれ以前の、根本的なものがあるように感じた。一生懸命やっていることはわかるが、演技技術以前の違和感のある役がいくつかあった。演技が曲に合ってなくて、頭とケツがずれとるで的な意味で……。

弁慶は、玉也さんらしい、ラフで質朴な味が出ていておもしろかった。良い意味でのぶっきらぼうさ。でも、先述の通り、配役の組み合わせの問題で、それがプラスの方向に引き立っていなかったのは残念。この話、「弁慶上使」といいつつ弁慶が主役なわけではないので、玉也さんはちゃんとやってる、玉也さんさえ良ければいいとは言えないところが難しい。
弁慶の左は、もっと伸縮を強調したダイナミックな動きのほうがよいのでは。「満員電車で身動き取りづらいけど、ポケットの中のスマホをなんとか取り出したいおじさんが周囲の人の迷惑にならない範囲でなんとか腕を動かそうとしている」みたいになっていたのが、哀愁だった。以前にも書いたが、左の人には、右の人(主遣い)の所作のトーンに合わせる意識はどれだけあるのだろう。もっとも、玉也さんの所作の雰囲気に合わせるのは、かなり難しいことだとは思うが。

細かいところでは、花の井役の簑一郎さんが良かった。ふっくらした打掛の構え方、背筋を伸ばして首だけコクッと落とした姿勢が美しかった。立体的で布地のハリを感じる打掛の扱いは特に良かった。ふところにフェレット入れてそうだった。

 

 
 
 
 
 
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  • 義太夫
    中=豊竹睦太夫/野澤勝平
    奥=豊竹睦太夫(代役・2/5)、竹本錣太夫(2/13〜)/野澤勝平(代役・2/13〜14)竹澤宗助(2/15〜)
  • 人形役割
    卿の君=吉田和馬(前半)吉田簑之(後半)、妻花の井=吉田簑一郎、腰元信夫=吉田簑紫郎、母おわさ=吉田一輔、侍従太郎=吉田玉佳、武蔵坊弁慶=吉田玉也

 

 

 

艶容女舞衣、上塩町酒屋の段。

↓ あらすじ

ここまでの2つの演目が結構大変な状態で、酒屋、どうなっちゃうんだと不安に思っていたが、非常によかった。
ごく普通の誠実な人々が出くわしてしまった行き違いの不幸の、偽りのない本心からの誠実さが煎じられている印象がある。透明感があり、散らかりのない雰囲気。大坂の小さな商家の薄暗い居間で、行灯の火が揺れている。小さな湯呑みに注がれたお茶からは、ゆっくりと湯気が立ち上っている。時々、風が吹くと、色あせた門の木戸がカタカタと揺れる乾いた音が聞こえる。物語の空間がよく感じられた。

 

二人の父親、宗岸〈桐竹勘壽〉と半兵衛〈吉田玉輝〉はお二人ともとても良かった。芸風の違いも役に対してうまく出ていて、適役だと感じた。
宗岸は、まさかこの人がキレて娘を婚家から無理やり連れ帰ったとは思えない好々爺だった。勘壽さんの芯がある町人男性役らしく、ちょっと首をすくめた感じに、肩を内側に寄せていた。
半兵衛はお通をあんまり気にしていないのが笑えた。半兵衛も、人によってはお通をあやしながら手紙の読み上げを夢中に聞いてたりするが、玉輝さん半兵衛は子供あやしがかなりの手練れで、「はいはい〜いい子いい子〜!ちょっと待ってね〜!」って感じだった。初孫、初孫!!!

簑二郎さんのお園も、かなり良かった。小柄で、小さな声で喋り、常に自分以外のことを心配しているような表情。大人しく地味な雰囲気のお園で、嘘がなかった。お園に嘘がないというのは重要なことだ。お園さんは正味な話、かなり非現実的というか特殊な思考回路をされており、言動が完全にイってしまっておられるので、それを舞台にどう定着されるかに個性が出る。簑二郎さんの場合は、「本当にそういう子」というニュアンスが強く、本心からのまごころをもって半七や親たちに接していると感じられた。要は、客に対する受け狙いや押し付けめいたところがないのだ。それには、派手な振りを抑えている点が大きい。なんなら、自然な流れの後ろぶりは、兄弟子たちより上手いまである。舞台の誠実な雰囲気は、このお園によるものが大きいだろう。
人形のこしらえは、顔まわりがすっきりした印象になっていた。襟を強く押さえて、首やうなじを広く出しているからだと思う。
しかし、お園、「前」が終わった後、納戸へ引っ込まんのか? 引っ込んで、「後」の演奏が始まったときに、のれんをくぐってソロソロ出てくるという演出にする人が多いと思う。あれは、そこから「お園さんだけの世界に切り替わった」というイメージが出て、よくできている演出なんだなと思った。あとは、一度土間に足を下ろすところからがちょっと集中力が切れているようで、人形の姿勢が崩れていた。あと一息頑張れ!と思った。しかし、逆にいえば、簑二郎さんはおそらく本公演初役で、気負いもあるだろうに、そこまでは常にテンポを整え続け、ゆとりを持った抑えた使い方になっていたのは、すごいことだと思う。

これまでのイメージにない役で良かったのは、紋秀さんの半七。
お兄さん風のスッとした淀みを感じない半七で、非常に雰囲気が良かった。半七の透明感のある美男子ぶりがよく感じられた。半七は言動はクソカスとしか言いようがないが、それを劇として成立させうる空虚な雰囲気、ビードロ(うすはりのガラスでできた、りんごあめみたいな形の、息を吹き入れるとペコペコするアレ!)のような人柄が出ていた。半七は左も良かった。

紋臣さんの三勝も、雑味を抑えた美麗な雰囲気。大人っぽく、姉さん女房っぽかった(まじで紋秀さんの兄弟子だからですが)。
頭巾を被っている役は顔が目元しか見えず、かしら全体の動きによるニュアンス表現が使えないのでかなり難しいと思うが、清楚な美しさ、三勝の内面の慎ましさがよく出ていた。冒頭、三勝が茜屋に酒を買いに来た際、長太がお通をイナイイナイバアであやしてくれるが、そのときお通が喜んで首を振って三勝を見ながら笑い、三勝は背中を少しぽんぽんしているように見せているのが良かった(お通、このときは三勝に抱っこされているため人がついてないので、全部紋臣さんがやってる)。全体的には、脂っぽさのない、濁りない雰囲気が良かった。文楽の親役って不思議で、子供が大きくなればなるほど子供への愛が深まって、その愛と罪悪感が流れ出した泥沼から逃れ難くなっていくように感じるけど、三勝はそこまでいく前の、純粋な親心が表現されているように感じた。
最後の茜屋の門外で半七と共に嘆きを見せる場面、頭巾を取るところだけ若干唐突に感じられた。もう少し自然にはらりと落とすか、それとももっと感情的におもいきり外して小道具として扱うか、どちらかにしたほうがよいように思った。

前半の玉征お通は、天真爛漫でおっとりした雰囲気。めちゃくちゃでっかいハムスターのようだった(めちゃくちゃでっかいハムスター、それはモルモット)。じぃじのおひざに乗っかろうとするとき、半兵衛の膝でトントンと三味線の拍子をとっていた。隣の席にいたらウザいタイプだ。しかしさすがにあちらは若造といえどプロなので、調子が変わるところは適当にフェードアウトさせて誤魔化し、ズレを防いでいた。そして、羽織のぽんぽんをしきりにぽふ!ぽふ!とパンチしていた。
後半勘昇お通はかなり元気いっぱいで、動きが超素早かった。いやもう立って歩けや。しかし、拍子は取らず(若造が清治の拍子取ったら「明日から来んでええよ☺️」になるからネ!)、半兵衛におもいきりしがみついていた。玉征お通はずっと起きていたが、勘昇お通は途中で飽きて、眠そうにしていた。あのお通の飽き居眠り、客も飽きて居寝始めるころに寝始めるので、よくできてる。
しかしお通よ、わずか3歳で、知らん家にひとりで置いておかれても平気でひとり遊びしてるって、えらいのお。

 

何より良かったのは、清治さんの三味線。お園の空想的、観念的な世界を感じ取ることができた。清治さんにしか弾けない艶と深みのある音で、さすがだと思った。
呂勢さんは「はんひち」と言っていた。無理に押し出したところのない、落ち着いた演奏で、良かった。
太夫さんは「そこまで!?」と思うほど咳き込んでいて、絶対検査に行ったほうがいい半兵衛だった。お園頼む、すぐ検査してもらえる病院探してやってくれ、オトーチャン、持病のある高齢者だから。お園は「女方」っぽい喋り方だった。やはり、意図的にやっているのだろうか。

 

 
 
 
 
 
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  • 義太夫
    中=豊竹靖太夫/鶴澤清馗
    前=豊竹藤太夫/鶴澤清友
    後=豊竹呂勢太夫鶴澤清治
  • 人形役割
    丁稚長太=桐竹勘次郎、半兵衛女房=吉田文昇、美濃屋三勝=桐竹紋臣、娘お通=吉田玉征(前半)桐竹勘昇(後半)、舅半兵衛=吉田玉輝、五人組の長=吉田玉峻(前)吉田玉延(中)吉田簑悠(後)、親宗岸=桐竹勘壽、嫁お園=吉田簑二郎、茜屋半七=桐竹紋秀

 

 

 

若干「ど、どうなの?」な演目が並ぶ第一部、休演・代演等でいろいろと大変なことになっていた。でも、酒屋は2月公演でぶち抜きのクオリティ、いや、通常比でも相当に良い舞台だったと思う。酒屋を観られてよかった。

人形に対しては、浄瑠璃をよく聞いて欲しい、本文をよく読んで欲しいと思う。曲と動きが合っていない人形は、なぜ合っていないのか。なぜと言われても、それができない人というのは、まあ、決まっている振り付けをやることで精一杯なのだろうけど、当事者なり幕内なりの見解として、いつまでそれが許されるという理解なんだろうと思った。当てこすりとかじゃなく、真剣な話として、素で不思議なんだよね……。だって、曲を無視して振り付けだけをやればいいって話なら、文楽じゃなくていいのでは?って思うので……。

また、「センス」というものを考えさせられる舞台でもあった。この人センスないなぁと思うことがあるけど、逆に、若くてもセンスがあると感じる人もいる。センスには天性のものもあるが、磨くことで造られるものもある。では、その「磨く」とは、どういうことなのか。

 

まじで本編に一切関係なく失礼なのだが、セイトモさんの「大阪のおじさん」感は一体何なのかと考えていた。かなりまともそうな人だが、しかし、そこはかとない「大阪のおじさん」オーラが……。ひたいのすみの剃り込みのせい? 本当にそういう生え際なのかもしれないが、私の気を引く。紋秀さんの髪の毛がペカかフワかの次に。
なお、今月の紋秀さんは、私が観た2回とも、ペカってました。