TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 4月大阪公演『団子売』『和田合戦女舞鶴』市若初陣の段、『釣女』 国立文楽劇場

今月、3部ともメインがすべて時代物、かつ親による子殺し・見殺しを描いた演目。しかも親殺しもあり。うーん、これぞ文楽

 

(第二部は口上含め4演目の上演がありましたが、上演順ではなく、書きたい順に書かせていただきます)

 

『和田合戦女舞鶴』市若初陣の段。

襲名披露狂言。珍しい演目ながら、「豊竹若太夫」という名跡に縁故があるということでセレクトされたそうだ。まずは、珍しい演目が観られたことが嬉しい。『和田合戦女舞鶴』は以前から本で読んでおり、観てみたいと思っていた演目だが、人形付きは久しく上演されていないため、このまま消えていく演目かもなと思っていた。
せっかくの襲名披露なら、直前の「板額門破り」もつけて派手にすればいいのにと思うが、ない。そのかわりなのか、昭和40年代以来上演がなされていなかった端場、こども武者軍団がやってくるくだりを復活したようだった(作曲・鶴澤清介)。5月の東京では端場はつけないようなので、大阪のみのスペシャルプログラムとなっている。

 

まず、自分がこの演目の観劇に何を期待して観に行ったかを書いておく。

『和田合戦女舞鶴』の作者・並木宗輔は、非常に緊密な構成を得意としており、また、テーマ性の強い作品を書いた脚本家であった。並木宗輔が追求していたテーマとは、封建制という構造から発生する社会の歪みだ。彼は社会と個人の軋轢を追求した作者で、遺作『一谷嫰軍記』においてそのテーマは顕著だ。「市若初陣の段」もまた、自発的な自己犠牲が強要されるという社会の不条理、異常性を非常に明瞭なかたちで描いている。つまるところ、「そんなことは人間として異常だ」という話なのだ(補足しておくと、この話は、絶対共感できないように、かつ、登場人物の行動原理に違和感をもたれるように書かれているということ)。人間のためにあるはずの社会が孕む非人間的な異常性。出演者は、この深刻なテーマをどう舞台上に表現するかに力量が問われる。

物語の舞台となった時代、鎌倉幕府は、実朝という若い将軍を頂き、非常に不安定な状態となっていた。また、実朝を失脚させ、将軍家を根絶やしにしようとする逆臣が内部に存在していた。この状況下で、公儀を公儀として成立させるため(権威を示すため)には、以下の二つを守ることが必要となる。

①実朝は法を司る者(施政者)としてケジメをつけなくてはならない
 =将軍として逆臣への処罰を行わなくてはならないため、公暁丸の首が必要

②実朝・政子の親子で戦を構えてはならない
 =政子は実朝に背いて公暁丸を保護しており、一種の逆徒である。しかし、親子不和のおおごとを起こすと、実朝の「孝」が立たない

これらは全部、「建前」の話。封建社会では、建前は万事に優先される。
実朝本人は若いので、②を自分の面子のためだけでなく対外的に立てる重要性を理解しておらず、①に必死になって、自分で直接政子に会いに行こうとする。それをやらかすと②が立たなくなるので、幕臣たちから全力で止められる。実朝についている男性幕臣たちは、②を立てるべく、あくまで平和裏にことをおさめようと話を進め、こども武者を派遣してくる。おこさまという封建社会では「役に立たない、一人前ではない」属性の者が首の受け取りに来ることによって、戦を構えるつもりがないことが示される。公儀(施政者)としての建前を立てなくてはいけないという①の問題を解決する折衝を行おうとしているわけだ。ここで政子が態度を変えれば、荏柄平太という逆臣の係累公暁丸をつつがなく処罰することができる。
しかし、公暁丸は実は将軍家の胤のため、本当に公暁丸を殺して首を渡すという手段を取ることは絶対にできない。

公暁丸は将軍家の血を引いているので、安全を守らなくてはならない
 =公暁丸の首を討つことはできない。また、奸臣から守るため、公暁丸の正体を公表することはできない

公暁丸の安全は将軍家の存続に関わることで、封建社会の成立の根幹をなす最大の「建前」であり、何にも優先される。つまり、①②③は同時に成立し得ない。公暁丸が将軍家の血を引いていると知っている者がこの事態を解決しなくてはならない。

「市若初陣の段」は、これらをすべて成立させるために、一番弱い存在であるこども(市若)を犠牲するという「トリック」ひいては「建前」が使われる。物語冒頭では板額は③を知らなかった。①と②を解決するためには、政子が折れて公綱丸の首を渡せばいいと安易に考えていた。しかし③を知ってしまったため、ドラマが発生する。ドラマとは葛藤である。そして、板額(と与市)は、市若という偽首を使うことで、実朝もこれ以上強い手段で政子を追求することはなくなり、政子も実朝の指示に従うことで逆徒ではなくなるというグロテスクな「建前」を作り出した。

以上は物語のテーマについて私なりに解説したものだが、今回の観劇は、この「矛盾に満ちた境遇に陥った人々」をいまの出演者がどう表現するかに興味があった。

なぜならば、封建制度がなくなった現代であっても、社会が非人間性を孕んでいることには変わりがないからだ。自分は非人間的な状況にさらされたことがない、他人が非人間的な状態を強要されているのを見たことがない、そんな人がいるだろうか。そして、そのような非人間的な事態は、毎回必ずしも「救済」されるわけではない。人間の社会がある限り、並木宗輔の作品は、永遠に今日的であると思う。

 

↓ 詳細なあらすじはこちら参照

 

 

政子〈吉田簑二郎〉、市若〈桐竹紋吉〉、浅利与市〈吉田玉志〉、こども武者軍団は、良い。それぞれの人物の佇まいや内面が自然に滲み出ていた。

とくに政子は、出番が短く、セリフもさほどない中に、祖母としての孫への慈愛、臣下の妻に無理強いをしているのはわかっていながら祖母としての愛が勝ってしまうという人間の愚かさが表現されていて、非常に良かった。簑二郎さんの芝居には、感情の流れの表現があるんだよね。その人物が、立場上、本当に思ったことの全てを言うことはできないという状況もよく踏まえられている。人物像の把握が活きた政子だった。

市若はまるで五月人形が歩いているようで、かわいかった。豆大福が動いているような、もっちりちんまりした仕草が愛らしい(ちいかわで開催中の出し物大会に出演できるッ)。屋敷の門に向かって矢を射るところは、本当にちゃんと飛んでいた。市若はこどもサイズの人形なので、弓を構える高さが低いのに、数メートル飛ぶのは、すごい。
市若は紋吉さんに配役されており、「こんな老けた子役、久しぶりに見たッ」と思ったが、長時間の集中力が必要とされるため、これくらいの人でないと難しい役だろうと思った。

与市は若々しく優しげな雰囲気。ずっと屋敷の門外にいるので、文字通り「蚊帳の外」の人だが、出番自体は意外と長い。始終、下手で、わた…!とか、じ…!とか、している。演技設計としては、前半は動きやや多め、後半を絞り目にしていた。リアクションの多い前半は、検非違使のかしらのときの玉志さんにしてはやや動き多め。かしら含めて振りが大きい。後半は通常通り、かしら中心に抑えた表現をしていた。が、屋敷の中にいる人物の演技がのっぺりしているため、言ったら悪いが若干悪目立ちしており、「なんやこの一人で騒いどるおっさんは? そんでなんで最後こんな大人しいん?」状態になっていた(これも言ったら悪いが、ひとりだけ真面目にリアクションしすぎて激浮きする、玉志恒例現象)。屋敷の中がどうなっているか、知らずにやっているのだろう。いや知ってもこの通りだろうが、大阪の状況を受けて、東京ではどう練り直してくるかな。
じ…!としているのが長時間となる前半は、足の下に蓮台(黒い台座)を置いてその上に足を乗せていた。が、途中からは、細切れに位置移動が入るからか、多少じ…!としている時間があっても、蓮台は外していた。蓮台があると、そこに足を乗せられるので、足の位置が物理的に固定される安定するが、蓮台がないと、足遣いが根性で同じ位置に空中浮遊させ続けなくてはならない。一人で離れた場所にいる人形の足がフラつくと、めちゃくちゃ目立つ。頑張れッ。と思った。
与市は男性ではあるが、ほかの浄瑠璃に登場する「いかにもな男性」とは違っている。もし「いかにもな男性」であったら、首の受け取りの場面になってやっと登場するだろう。浄瑠璃的な男性ジェンダーは、「当事者」であることを回避する。しかし、与市はそうではなく、物語冒頭から家族のもとへやってきて、門外でずっと様子を見守り、板額と感情を共にしているところに、彼の特殊性がある。立役専門ながら中性的な雰囲気のある玉志さんが与市に配役されたのは、なんとなくわかる気がする。

こども武者軍団は、カラフルでかわいい。これも、人形屋さんの五月人形売り場みたい。休演都合により、2週目の土日は配役日替わり状態になっていたが、全員黒衣なので、さほど気にならなかった。おいこいつ昨日よりクソデカいぞ、とかはあった。

 

 

舞台全体としては、劇評言葉で言えば(?)、「新しい名前となったリーダーが、協同するメンバーとともに、新しい舞台を作っていく過程を目撃した」。自分の言葉で言えば、結構な度合いで未完成感があり、舞台としての問題が多く存在しているように思われた。という感じ。
初日から1週間程度経過してから見たが、物語が曖昧になっているというのが率直な感想。散漫でメリハリがない。上記の人形の脇役メンバーそれぞれのパフォーマンスはいいのだが、軸がないので、彼らを持て余している状態になっていた。物語の緊張感・陰鬱さと、感情の高潮をどう見せていくのか、どこに観客の集中力の頂点を持っていくのか。私が見た段階では、そこが相当に素直なままになっていた。メリハリがないのには多重の要因があり、このあと相当に練り上げないと、「珍しい演目だね」の範疇を超えられないように感じた。

板額〈桐竹勘十郎〉は、内面がわかりづらい状態になっている。最後、与市が屋敷に入ってきてペア演技になると見せ方の方向性が比較的定まるのだが、市若のみを相手にしているところや一人芝居の部分の間持ちがちょっと……という印象。やはり、ある程度芝居の方向性をリードする相手役が目の前にいたほうが得意ということなのかなぁ。ひとりでの演技が難しい理由のひとつに、勘十郎さんの特性として、動きの大きさ・速度が全編で均一というのがある。景事がかった短い演目ではいいのだが、「市若初陣」のような大人の女性主役のドラマ主体の演目でやってしまうと、話がわからなくなる。こどもを持つひとが一番慟哭するのはどこなのか、表現が必要では。今後の再演という話以前に、まずは現状の見せ方を検討するべきだと思う。
そして、袖萩(奥州安達原)やお弓(傾城阿波の鳴門)などでも「?」と思っていたが……、「老女方」って、「娘」の顔違いじゃないんだ、というのは、今回の状態で、よくわかった。その意味では、本当に勉強になった。

新若太夫さんは声量がないので、大きな声でなんかすごそうにハッタリかけるということはしないし、できない。立てるところをもっとしっかり立てて欲しいが、その代わり、政子や板額の独り言的な述懐に焦点を置いた語りになっていた。太夫としては声量があるほうが有利なのは確実だけど、声量があったら即上手いのか、物語描写を正確に演奏できるのかというとそういうわけでもない。「市若初陣」は引き絞るような悲しみがある話なので、向いているとも言える。そういう語りである分、ほかの出演者が物語の方向性、流れを安易に捉えすぎると、「????」な印象になると感じた。抑えるところをどうするかは、本当に、文楽全体の課題。
ただ、いずれにせよ、文楽劇場の下手側の席だと聞こえないのは、このままいくならどうするのか、本当に考えないと、厳しい。

 

 

今回、特別に、板額に陣羽織の衣装を「付け足した」とのことだが……。派手に見せたいとか、目新しいことをしたいとか、正月公演の政岡(伽羅先代萩)とは明らかに違うことをしたいとか、板額の武勇感を出したいとか、板額の役者絵(歌舞伎)には鎧姿で描かれているものもあるからとか……、とかとか、そういうことだと思うけど……、気持ちは汲み取りたいものの、複数の問題点があるように感じた。まだ東京公演があるので批判の理由は一旦伏せるけれど、もろもろ、関係者含めて、よくよく検討したほうがよかったんじゃないかな。少なくとも、派手に見せるとしたら、後半に仕掛けを作る方が良かったんじゃないか。重量のある打掛を着ての長時間演技が厳しいなどの現実的な事情もあるのかもしれないが、新奇なことをすることそのものに固執しすぎているように思った。

会期後半では対応がなされているかもしれないけれど、自分が次に観る東京公演で改善していて欲しい点を述べる。やるならやるで、陣羽織を着た板額の人形の姿を綺麗に見せて欲しい。陣羽織を着ている立役は、肩を開き腕を張った姿勢をしているので、生地のハリが綺麗に出て姿形が美しく見え、人物に風格が出る。しかし、女形は身体の前側に手を置く所作が多いため、陣羽織に常に不自然に大きなシワが寄り、人形の姿全体が崩れてしまっている。従来演出では打掛を着ている場面だと思われるので、板額を美しく堂々と見せるための打掛の扱いがあったはず(少なくとも、過去上演時の板額役・文雀師匠は打掛を有効に使う演技をしていたのでは? 政岡・重の井でも、打掛姿を美しく見せる立ち方とかありますし)。陣羽織にしたのなら、打掛同様、衣装を効果的に見せる遣い方の検証をして欲しい。

そしてもう、本当、劇場はちゃんと調整せいやと思うのだが、第一部『絵本太功記』で、久吉が同じデザインの陣羽織を着ているのがなぁ……。なんで同じ公演で主役級が衣装かぶっとるねん。板額の陣羽織をオリジナルの色味やデザインにしてあげられなかったの? それとも、タマカ・チャン・ヒサヨシが全裸で出るしかなかった?(ほんまに風呂入ってた…ってコト!?)

 

あとは、板額のかしらがいつものお母さん(和生さん私物のやつ)じゃなかったので、私の中の3歳児が「ごんなのおがあざんぢゃない〜〜〜〜!!」と大泣きした。美人なのだが、眉の付け根の下に強い影が出ていて、険がある。和生さんがいつも使っている「お母さん」は優しい顔をしているのに。優しそうなのは、和生さんが遣っているから? ママ〜〜〜〜ッ!どごおおおお〜〜〜〜〜〜!!(第三部に顔は違うけどいますっ)

 

 

 

  • 義太夫
    中=豊竹希太夫/鶴澤清公
    切=豊竹若太夫/鶴澤清介

  • 人形
    平手妻綱手=吉田玉誉(桐竹紋臣休演につき初日より代役)、妻板額=桐竹勘十郎、佐々木綱若丸[黒衣]=吉田玉彦、土肥実千代[黒衣]=桐竹勘介、千葉資若丸[黒衣]=吉田玉路、千葉胤若丸[黒衣]=吉田和馬、市若丸=桐竹紋吉、浅利与市=吉田玉志、政子尼公=吉田簑二郎、公暁丸=桐竹勘次郎
    ※こども武者軍団は休演多発のため、資若丸は勘市さん、綱若丸は玉翔さん、胤若丸は簑紫郎さんが代役で出演した日程あり。本役は五月雨に休演していたため、いつ誰がどうなってたか、忘れた。13日は実千代以外、全員代役だった。大丈夫かその運営。

 

 

 

襲名披露口上。

進行役・呂勢さん、挨拶は太夫部・錣さん、三味線部・團七さん、人形部・勘十郎さんで、兄弟弟子、弟子筋の方が舞台へ並んで口上。

團七さんと勘十郎さんは日による多少のアドリブがあったが(團七さんは完全に「普通にお話しいたします」のスタイルだった)、錣さんは「言うこと」を完全に暗記しているのか、同じことを言っていた。膝元にカンペがあるのかと思って覗き込んでしまったが、本当に暗記しているようだった。逆に怖いッ。

「血筋の正しさ」と前若太夫の実績を非常に強調した話が多かったが……、揚げ足取られるで。言い方、他人事すぎんか……? 團七さんは客の存在、今後の芸の向上、継承への責任へ言及があり、誠実だなと思った。初めて團七を尊敬した。(え?)

 

私が新若太夫さんに期待しているのは、「多様な演目を上演できるようにする」「新若太夫さん自身の得意なものを伸ばし、積極的に打ち出す」の二つ。
特に前者。いま、客はみんな(これは本当に字義通りみんな)「同じ演目ばっかやるんじゃえねよ!」と感じている。これには、劇場制作だけでなく幹部技芸員にも大きな責任がある。大名跡を襲名したからには、それに相応しいリーダーシップを発揮していただきたい。その意味では、襲名披露に『和田合戦』を選ばれたのは素晴らしい。今後も、ほんまに、頼む!!!!!!!!!!
新若太夫さん自身の得意なものを伸ばすというのは、本当に、そうしたほうがいいと思う。私は、新若太夫さんは、時代物を「豪快」に語るより、世話物にあらわれる普通の人のこころの機敏を精緻に語ることのほうが上手いと思う。これは誰にでもできることではない。最近、そこを捨てているのは、本当に勿体無い。他人の曖昧な言葉に踊らされず、ご自身の良さを伸ばし、積極的に打ち出して欲しい。

 

 

 

 

 

 

団子売。

タマカ・キネゾーが良かった。何が嬉しいのかわからないが嬉しそうに出てくるところがいい(ダメだよ)。杵造はなかなかうまくいっていないことが多いが、今回は朗らかな雰囲気が出ていて、良かった。
一輔さんは、手拭いをかぶる役のとき、いつも、人形の目元が見えないほどに深くかぶっているが、どういう意図があってのことなのだろう。普通に考えると、人形は目元が見えないと表情がわからなくなり、表現力が下がる。お臼は舞台上でかしらを替えた際に手拭いをかぶるため、本人が被せているわけではないけど、お光(新版歌祭文)とかお絹(桂川連理柵)のような最初からかぶって出てくる役でもそうなので、ある程度本人の意図があるのか。

先日、『加賀国篠原合戦』という浄瑠璃を読んでいたら、途中の道行のシチュエーションが『団子売』そのままだったので、驚いた。『加賀国篠原合戦』の道行「連理のかちぎね」は、現行の『団子売』と同じく、杵造とお臼という夫婦が「飛団子」を路上(道中)であきなうという内容。ただし、ここでの杵造とお臼は一般人ではなく、木曾義仲の四天王のひとり、今井四郎兼平とその妻・戸無瀬で、京にいる斎藤実盛に会って義仲への加勢を頼まんがために旅をしているという設定。現行の『団子売』は文政期初演の清元「玉兎」をもとにしているようで、話している内容そのものは全く異なっている。なにか関係があるのか、それともないのか。

 

 

 

  • 義太夫
    お臼 豊竹藤太夫、杵造 豊竹靖太夫、豊竹咲寿太夫、竹本織栄太夫/鶴澤清志郎、鶴澤寛太郎、鶴澤清允、鶴澤藤之亮

  • 人形
    団子売杵造=吉田玉佳、団子売お臼=吉田一輔

 

 


釣女。

古典芸能は「知られていない」から客が来ないと思っていらっしゃる方がいるようだが、私が文楽を見るまで古典芸能を敬遠していた理由はひとつ。差別的で不快な演目が多そうだと思っていたから。文楽の存在を知らなかったとか、難しそうとか、敷居が高そうとかではない。
文楽よりも前に見たとある伝統芸能は実際にそうであり(古典伝承ではないアドリブ部分に、女性差別をおもしろがらせようという内容があった)、本当にこういうこと平気でやってるんだ〜、終わってんな〜と思った。文楽の伝承曲ではそこまでの差別的内容の演目は少ないが、最初に文楽を見たときに『釣女』があったら、同じ反応になっただろう。
こういった演目が頻繁に上演されていることが話題にもならないから、まだ「お客さん少ないですね」で済んでいるだけで、もし世間に広く知られたら、文楽のイメージは下がるだろう。やるなら十分なエクスキューズが必要だ。たとえば、いまどきは文化への評価としての「吉原」を紹介するのでも、かなり慎重に人権問題への前置き解説をしている(それでも批判されている)社会状況を、見て見ぬふりしてるのかな。私は、「人をたくさん使えるから」程度のことで安易に差別的演目を上演している薄っぺらさに加担したくない。

 

 

  • 義太夫
    太郎冠者 豊竹芳穂太夫、美女 竹本聖太夫、醜女 竹本南都太夫/野澤錦糸、鶴澤清馗、鶴澤友之助、鶴澤燕二郎

  • 人形
    大名=吉田簑一郎[代役]、太郎冠者=吉田玉也、美女=吉田玉誉[前半]吉田簑紫郎[後半](桐竹紋秀全日程休演につき代役)、醜女=豊松清十郎

 

 

 

『和田合戦女舞鶴』の観劇に際して期待していたことを記事冒頭で述べたが、なかなか難しい状況だと感じた。物語に意図的に仕込まれた矛盾というのは難しい概念だ。技芸員さんは、この手の演目に対し、社交辞令なのか「心情的に理解しがたい話ですが……」とおっしゃる方が多いが、そういう話だからこそ、舞台ではそれがどう表現されているかを見たいと思っている。

最近よく思うのは、本(浄瑠璃)を理解するには、勉強が必要だよなぁということ。この「勉強」というのは、芸の鍛錬(客なら鑑賞眼の向上)ではなく、時代背景を踏まえた教養そのものという意味。そもそも、いまの演者や観客より、江戸時代の作者のほうが、頭、いいから……。そこを無視していると、よくわからないピント外れが起こる。自分自身も、江戸時代の社会状況、観客の意識について、より一層、見識を深めてゆきたいと思った。

もろもろ、形だけは固めたのかなというものを感じる面も多く、状況柄、いろいろと仕方ないのかなとも思うが、東京公演での向上に期待したい。

ほかにも、これ、どうなってんの?と思うことがあり、なんだかモヤモヤの多い4月公演だった。


今月の文楽劇場は、部にかかわらず、比較的客がたくさん入っていた(いるように見えた)。いつもは前方中央ブロックにのみ人が固まっているが、今回は客席全体にバラバラとなんとなく分布していたので、人が多く見えたのかも。「XXさん老けたな〜」という話をされている方を何度かお見かけしたので(文楽劇場恒例、上演中に出演者に聞こえるレベルで喋るツメ人形)(隣のツメ人形がすかさず「お互い様やで〜」と突っ込む)、ずいぶんご無沙汰だった方の足が戻ってきているのかもしれない。
しかし、いちばん増えたのは、訪日外国人観光客だろう。部によっては観客の1〜2割は外国人観光客では。ロビーに英語ガイドのスタッフが立っていたり、展示の解説を日英併記にするなど、劇場側でも対応がとられていた。劇場常連客も、写真のとりあいっこなどで、大阪弁と英語で観光客と会話していた。いやなんで大阪弁と英語で話通じるんや。大阪弁はグローバルランゲージなのか。
第二部は、隣席が西欧系の外国人観光客の方になった日があった。市若が切腹するとき、板額が市若の首を切るときに、Oh...とドン引きされていた。でも、こういった異様な悲劇が文楽の真髄だから、仕方ない。社会問題を扱った悲劇であることこそ、文楽人形浄瑠璃)の一番の個性だと思う。文楽が一般にみられる人形芝居のような「子供向け」とは異なり、大人向けと言われるのもそのためだ。歌舞伎との最大の違いもこの点だろう。今後はいかにその部分を打ち出すかが課題となってくると思う。

 

 

のぼり。

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2Fロビー装飾。そのほか、場内全体に、八重桜の装飾も追加されていた。

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旧・市若の衣装。ボロボロになっていたので今回のものは新調とのこと。

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うしろがわ。

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