今年の鑑賞教室東京公演は、「勘平腹切」。
今回は具体的な舞台パフォーマンス分析・感想だけ書くには難しい状態だったかなと思うので、「そもそも『勘平腹切』とは何を表現すべき演目なのか」という自分自身の考えと、素直感想の2本立てにしてみました。ご興味のあるほうからお読みいただければと思います。
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早野勘平とはどんな人物か
『仮名手本忠臣蔵』山崎街道出合いの段〜早野勘平腹切の段(五〜六段目)は、戯曲文学としては「最高傑作」に近い作品だと思う。私は、浄瑠璃という文化の頂点を飾るのは『一谷嫰軍記』「熊谷陣屋の段」、『義経千本桜』「すしやの段」、『伊賀越道中双六』「沼津の段」だと思っており、『仮名手本忠臣蔵』早野勘平腹切の段もまたその水準に匹敵する作品だと思っている。
そして、実際、頻繁に上演される演目である。けれども、その舞台では、本作を「最高傑作」にならしめている理由の「ドラマ」を「描写する」状況にはなかなか到達しない。文章だけなら「勘平腹切」も「陣屋」「すしや」「沼津」と同じくらい好きなのだが、文楽ファンとして「勘平腹切」をそれらほど「良い」とは思わないのは、実際の舞台で「本当に良い」と思える「勘平腹切」を観たことがないからだと思う。以前不満を述べた『本朝廿四孝』の「十種香」と同様に、戯曲の描くドラマや世界観に出演者の技術・思考が追いついていないように感じられて、観ていて「もうちょっと何とかならんの」と思う演目だ。
しかし、上手い人だけ見ていても「なぜその人は上手いのか」がわからず、下手な人を見てはじめて上手い人の上手い理由がわかるのと同じように、あんま上手くいっていない舞台(とそこそこ上手くいっている舞台)を観続けることによって気づかされたこともある。今回はそれについて書いてみようと思う。
過ちの物語
『仮名手本忠臣蔵』の最大の特徴は、すべての登場人物が、なんらかの「過ちを犯す」ことだ。
過ちにもいろいろある。手前勝手にやったこと、なんの気なしにやったこと、よかれと思ってやったこと、思わずやったこと、考えなしにやったこと、気づかないうちにそうなっていたこと……。それぞれ単体ならなんのことはない個々の事情が最悪の連鎖をキメて予想外の大事件が起こる、「悲劇のピタゴラスイッチ」系ストーリーの構造をとっている。
顔世御前なら高師直の文を突き返したことでピタゴラスイッチが発動し、回り回って夫が切腹。本蔵の場合、回り回って眼の前で刀を抜いた塩冶判官を抱きとめてしまったことでピタゴラスイッチが発動し、さらに回り回って娘の輿入れ先の家の破滅を招く。塩冶判官は自分ではスイッチを入れてはいないが、預かり知らないドミノが突然倒れてきて騒いだために「プチッ」となり、さらなるピタゴラスイッチのスイッチを入れてしまう。由良助は国家老なのでそもそも鎌倉にいなかったという不可抗力の過ちながら、鎌倉到着時にはピタゴラスイッチが転がり終わったあとで、プチッとなる自分の運命がすでに(勝手に)決定されてしまっていた。
ただ勘平の場合、スイッチを押すのもプチッとなるのも自分という点が若干特殊である。
「なんにも考えていない」をいかに表現するかーー五段目 「思いついた瞬間」を表現する
勘平の最大の特徴として、「まじでな〜んにも考えてなくて、その場その場の思いつきで行動してしまう」という性質がある。
文楽の勘平像は、歌舞伎やその他派生芸能の色男としての勘平像とは異なっていて、本人は一生懸命やってるのにかわいそう🥺とか、偶然失敗して破滅した悲劇的な人物😭ではない。「思いつきムーブ」が結晶化したようなプリミティブなアホであり、「本人は一生懸命なつもりなだけの、はたから見たらものすごい愚鈍」である。勘平の場合、この「思いつきムーブ」こそが「過ち」であり、それが何度も繰り返され、ことどとく自らの身に降りかかる裏目となるせいで、最終的に切腹するハメになる(しかも切腹も思いつきなので裏目る)。
そのため、私は、文楽の勘平には「その場その場の思いつきで行動してしまう」を秒単位でリアルに表現することが求められると考えている。
「思いつきで行動してしまう」ということは、「思いついた瞬間」が存在する。思いついちゃうのは、普段まじでな〜んにも考えていないからであり、そこに「変化のポイント」が発生するのだ。この「思いついた瞬間」をいかに描写するかは、勘平の個性を描写する表現行為であるともいえる。
「二つ玉の段」後半の勘平には、重要な「思いついた瞬間」=「変化のポイント」が3つある。
イノシシを撃ったと思い込んでゆるゆる出てきた勘平が、撃ったモノをまさぐり、それが人間だったと気づく。まずこの「人を殺しちゃった!💦」が1つ目の変化のポイント。
慌てて手当をしようとした勘平は、その死体のふところに財布があることに気づく。これが2つ目の変化のポイント「大金に気を取られる👀」。
最後の3つ目。私はこれが重要であると考える。勘平はその財布を抜き取り、その場を立ち去ってしまう。この3つ目を「思いついちゃった💡」ことが、勘平の運命を決定的に変えてしまう。
「勘平腹切」の前半、帰宅した勘平に対し、聟が金の心配をしていると思い込んでいる母はこう語りかける。「まさかの時は切り取りするも侍の習ひ」。
また、母から勘平への疑いを聞いた郷右衛門は、こう言う。「渇しても盗泉の水を飲まずとは義者のいましめ」。
二人が言っていることは真逆だ。「武士」という社会的立場にまとわりつく矛盾である。
しかし、そもそも、勘平にそんな発想、あったのだろうか?
普通の主人公なら「窃盗の罪業」と「忠義」を天秤にかけて思い悩み、そのあと40分はうじつくところ、彼は「苦悩」しなかった。「天の与え」だと思った。彼は、「まさかの時は切り取りするも侍の習ひ」とも「渇しても盗泉の水を飲まずとは義者のいましめ」とも考えることはなかったのではないか。考えなかったこと、それが勘平の過ちの核心だったように私には思える。
なぜ勘平は死体が財布を持っていたことを「天の与え」だと思ってしまったのか。はたしてそれは一体どのような心理だったのだろうか。解釈は配役された人の裁量になる。物語の内容・流れを把握している人が勘平役に配役されると、財布を抜き取ったあとの勘平の様子に個性が出る。
財布から伸びた紐に引っかかって死骸が起き上がる際などに、自らのやっていることに対する恐怖心を表現する人。本来的にはこれが順当な解釈だと思う。それだけに限らず、死骸(勘平的にはぶっちゃけ財布ケース)とのあいだに時間的・空間的間合いを作ることで、何か考え込んでいるような様子を見せ、後ろめたさやビビリを表現する人もいる。
それらとは逆に、財布を発見したとたん、それまでにあった「(弥五郎への)懐かしさ」「(敵討ちや復帰への)憧れ」「(人を殺してしまったことへの)驚き」といった人間らしい表情が消えて、人形のような無表情になる人。
月並みだが、シチュエーションさえ揃ってしまえば、どんな人にも「魔が差す」瞬間がある⋯⋯つまり勘平が「天の与え」だと思ったものは実は「天魔の魅入り」だったという解釈は、文章を逸脱しない範囲で非常に現代的である。こういったことをいかに描写するかは「二つ玉」の見どころとなり、「勘平腹切」への布石となる。
その点において、今回、床は全配役で「思いついた瞬間」=「変化のポイント」の描写がなされていた。「思いついた瞬間」の表現は作者も意図しているので、ダイレクトに文章として書かれている。配役された人たちはそれを理解しており、文章通りに誠実に一つずつこなしているということだろう。地固めはできていると感じる。
しかし、人形はそこが捉えられていないように感じた。近年の勘平役で「うまくいっていない人」は、この3つのポイントの描写が欠落している。なんとなくフワッと出てきて、なんとなくフワッと斧定九郎をまさぐって、なんとなくフワッと財布を持って帰ってしまう。最大の問題は、3つ目の「窃盗」。本当に何気なく、それこそ「何も考えず」、財布を持っていく演技の人がいるのだが⋯⋯、おまいのぉ〜、コンビニで傘盗むヤツか??? 勘平は考えてへんけど、おまいは考えなアカンねん。その行動が物語上どのような意味を持つのか、今一度、意識的になり、よく考えてほしいと思った。
「思いついた瞬間」であるからには、その「瞬間」が明示されることが重要となる。それは演奏とのタイミング合わせにかかっている。太夫の言葉が発された瞬間、三味線の音が鳴った瞬間にその動きが出来ていなければ、劇的なドラマは表現し得ない。「二つ玉」なら「コリャ人!」と言った瞬間、「勘平腹切」なら切腹の瞬間など、確実に合わせなくてはならない。重要なのは、思いついたのは勘平であるという点で、人形遣いは思いつきで動いていてはならないというこだ。演奏のあるポイントで確実に合わせるためには、「用意周到」でなければならない。今回は、そのあたり、「曖昧」だなと思った。*1
ツケを払う「律儀」さーー六段目 「犯した罪」への向き合いを表現する
思いつきで行動し、(勘平にとっては)完璧な振る舞いであったかのように思えた五段目に対し、六段目の勘平は、そのツケを払わされることになる。
勘平の性質のうち「何も考えていない」は「言動が短絡的」という行動へのあらわれ=表層だ。それを裏打ちする(もしくは「しない」)性格や人格は別途存在する。
おかるの母は勘平を「律儀な人じやと思ふて」と評している。
この「律儀」という設定は、六段目においてかなり重要な要素だと思う。勘平の中には、「律儀」と「何も考えていない」が同居している。勘平のキャラクターで上手いのは、この「真面目だが何も考えていない」という、実生活では普遍的でありながら、浄瑠璃としては単調・類型にはおさまらない器質に造形されていること。こういう人、本当によくいるよね。勘平は「シングルタスク」しかできない人間で、眼の前に現れたひとつのことに気を取られすぎて/眼の前に現れることに次々に気を取られてしまって、何のためにそれをしなければならなかったのかという本質を見失う傾向がある。ここからある一定のラインを越すと「注意欠陥障害」なのだろうが、勘平はその一歩手前か、自分のやったことをある程度自覚できるタイプなのだと思う。
そんな人が自分の致命的なやらかしに気づいたとき、みずからの「思いつき」の愚かさと(一般的な社会通念で「真面目」を意味するところの)「律儀」の矛盾に苛まれる。この矛盾を表現できるか否かが、六段目の勘平の出来を左右する。
とどのつまり、勘平は自分の思い描いていたような「ちゃんとした武士」にはなれなかったし、なれない宿命だったんだわな。いつかなれるって思ってたのに(逆に言えば「思ってるだけだった」)、絶対無理ってわかっちゃった。それをどう表現するかだと思う。
ずっと前に和生さんが勘平役をやったときの、「いわゆるFラン大学に通う成績優秀な学生の悲哀」、もしくはその逆、「実力より上の学校に合格して喜んでいたが、実際授業が始まったらついていけなくて悩む凡才」みたいなのは面白かった。
和生さんは本当に上手い人なのだが、どこか「芸術家としては自分はホンモノの天才ではない」ことを自覚して、自分を疑っているかのような陰がある。客がいくら「上手い」と誉めそやしても、この陰は永遠になくならないだろうと思わされる。それが何なのかというと、「自分がその場にいることの違和感」なのかなと思う。勘平の場合はそれが役にダイレクトにつながるから、和生さんの陰が、勘平にいままでになく濃い陰影を与えていて、よかった。
あとは勘彌さんの「いままでナアナアでなんとかなってきた顔がいいだけのバカの、人生がうまくいかなかった瞬間」も現代的でよかった。「顔がいいだけのバカ」だと玉男さんも大得意だが、勘彌さんは「顔がいいだけ」に比重がいって、「ちょっと美容に気遣ってるだけでイケメン気取りかよ笑」「この程度のヤツいくらでもいるし笑」という「量産型」風になるのが独特。玉男様はアホの層がクソ厚すぎてアホぶりに重厚感があるんだけど、勘彌さんはアホとかじゃなく、とにかく薄っぺらく見える。ご本人の芸に奥行きがないとかではなく、芸が薄っぺらい人とは質の違う「薄っぺらさ」があって、この天賦の才の軽薄さ、勘平にはある意味かなり合っている。
いずれの場合も、薄っぺらいと思われていた勘平の内面させる奥行きがあるのがよかった。多分に「天然」な部分があるとは思うが、そうであっても、彼らが勘平という役に真面目に向き合う中で生まれてきた作為と無作為の間にある特異点とでもいうべきものが感じられた。
でも、一番怖いのは、技芸員さんの中にも、「勘平みたいな人」がいるんじゃないかってことだな。「実は向いてなかった」。和生さんが時々トークイベントで言うんだよ。「わたしらの仕事は、自分に向いているか向いていないかわかるのは、40、50になってから。そんな歳になって『向いてへんかったなー』となっても、どうしようもない」(大意)。
これ⋯⋯、実話なんスかね⋯⋯? 文楽の場合、良くも悪くも、「向いてへん」くても、それなりの役は「順番」と称して配役されるし、たとえ出来なくても、他の出演者の誰かが巻き取ってくれることが多い(巻き取れる人がかならず1人は配役されている)。なので、「向いてない」ことに気付いてない人もいると思う。言い方を変えると、客からすると「この人、向いてへんな」っていう人が実在してるんだけど、やっぱ、「気付いちゃった人」も、いるんスかね⋯⋯????? こわすぎ。と思った。
⋯⋯⋯⋯というふうに、勘平については色々期待したい事項があるのだが、なかなか叶わないのが現実である。もはや、地方の単発公演でも、勘平に良い配役がつく公演が出たら、四つ足で駆けてでも行くしかないかなと思う。
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実際の舞台の感想
勘平についての「御託」はここまでにして、今回鑑賞したAプロについて書いておきたい。
Aプロは、全般的に、良くも悪くも「個人プレー」という印象だった。各配役が呼応しあっておらず、芝居として一つのドラマを形成するという境地には至っていなかった。この場でどういったドラマを表現するのか、全員で共有することが出来ていないのだと思う。いくら繰り返し上演されている演目とはいえ、なんというか、「国語」ができないとどうしようもない側面のある演目ということなんだろうなと思う。
良い意味での「個人プレー」を書いておくと、おかるママ・簑二郎さん、原郷右衛門・玉志さんはよかった。あくまで誰かに何かを語りかけていることを忘れていない。浄瑠璃は人間関係の中で物語が成立しているので、人間関係を表現しなくてはならない。相手との心の距離感、社会的距離感の表現。この二人は、相手役がいる場合にはかならずその表現を行い、芝居の振り出しを常に行っている。勘平役は、彼らに対して的確に呼応するだけで見応えが劇的にアップするのに、勿体ないと思う。
玉志さんの原郷右衛門を見たのは2回目だが、非常に落ち着いている。郷右衛門がここまで落ち着いてたら塩冶判官も切腹するハメにはならんやろとウッスラ思ってしまうくらい堂々としている。
「貯へなき浪人の身の上として」家内の様子を顔を動かさずに目線だけ動かして観察している様子(人形の仕掛けとしてはそんなことできないはずなのだが、かしらの傾け方でそうしているように見せている)など、地金の華やかさが出ないよう、よくコントロールされている。
そうなんだよな……、文楽の場合、得意なことを何に対しても得意げにやっても意味なくて、あえて「撓めた」ときに、いかに元の美質を活かすかなんだよな……。そうじゃないと芸が広がらなくて、何やっても同じになる。結局、地金は手癖と同義だよ。ご本人は普通のこととしてさらっとやっているのだろうが、文章を表現すること、ただ表現すればいいというわけではなく、どのように表現すべきかということを長い時間をかけて考え、実現している人なのだろうなと思った。
「勘平腹切」では、この段の大モメの原因となった「お金(50両の小判の包み×2)」の小道具としての処理が曖昧になる場合がある。お金の包みがいつのまにか何処かへ消えるとか、郷右衛門がそのまま返しちゃう(?)とか。しかし、今回Aプロでは、最後、郷右衛門が「問題の50両×2は縞の財布と一緒にシッカリ袂へ収納」→「改めて自分の財布から金を出し、ママへシッカリ渡す」演技をしていた。これくらい金の処理をシッカリ明確にすると、勘平も浮かばれるというものだ。ただし、郷右衛門にとっては金よりも敵討ちの連判状のほうが大事。連判状は金よりももっと恭しく扱う(丁寧に頭より上に掲げて礼をする)。そのあたりの「物語におけるアイテムのプライオリティ」区別もかなりハッキリとつけられていたのはよかった。
でも、やっぱ、棒足が華麗すぎるのは、なんなんだ。中井貴一でてきはった?と思った。(なぜか勘平より華麗な棒足)(普通に手すりの上でやっとるだけなんだけど、姿勢が綺麗すぎてキラキラじじいに⋯⋯)
逆に、簑二郎さんおかるママは派手さが一切ないことが良い。同じような涙もろい老母役でも、浜ゆう(奥州安達原)になると華やかさが覗くので、意識的な演じ分けだろう。ただ、もう一息、相手役を引き込む演技になっていてもいいのかもなと思った。郷右衛門の場合、玉志サンの振り出しパワーが強いのか、あんま考えてやっていない人でも勝手に巻き込まれて、芝居のリズムが成立していく。たとえば勘平を打擲するくだりにしても、客にはわからないものの、引き寄せ方なり位置固定なりが上手くて、郷右衛門がぱっと腕を上げる仕草をするときに、勘平役が勝手にかがんじゃうんだろうな。ママもシーンによっては「よわよわ」から「ムキムキ」になって、もう一押し!と思った。
千崎弥五郎は、簡単そうに見えてなかなか上手くいかない役である。今回の紋秀さんについては、やろうとしていることが何なのかはよくわかった。
「山崎街道出合い」では、若武者らしいシャキッとした描写を行っていた。所作のメリハリを強め、ややハッキリ際立たせるようにしたうえで、アクセントで時々背筋を伸び上がらせていたのは、玉志さんなどの初代玉男系統の人の動きをよく勉強しているということでしょうね。確実にまっすぐ、かつ人間として自然な角度で伸び上がらせるのは非常に難しいと推察されたが、他人の上手いところに気づき、観察して取り入れるというのはもっと難しいので、トライしたことはよかったと思う。
ただ、「勘平腹切」は、難しいですね。紋秀さんからすると「弥五郎の若気の至り」を表現したかったのだと思うが、ちょっと慌てすぎて乱雑になっている。弥五郎が乱雑になると悪い意味で勘平と「同格」に落ちてしまうので、充分な注意が必要だ。まずは、隣に出ている郷右衛門が何をやっているかをもっと観察したほうがいいでしょうね。ここは、「玉志よぉ〜、おめ、ジジ役やろが〜い。どう見ても年齢設定より20は若い所作やで〜」ということになっている、その「20は若い所作やで〜」を、パクる!! 動きが性急なだけ、多いだけが「若さ」ではないとわかるはず。そして、せっかくだから玉志さんにおもいっきり乗っかりに行くのがお勧め。必ず相手役を引き立ててくれるから。と思った。
これは伝承されている振り付けの問題だが、千崎弥五郎は、勘平が切腹した後、おもむろに暖簾口の奥へ消えて、しばらくしてから帰ってくる。あの中途半端な中座、トイレ行ってきた人にしか見えん。なんか手ェふきふきしてるし(?)。「寺子屋」の後半の戸浪もだけど、人の愁嘆中におもむろに中座する役、なんやねん。改めるべき伝承もあると思う。
一文字屋の亭主〈吉田玉彦〉は広告代理店のシゴデキ営業さん風だった。本来はちょっと鷹揚なところや遊び人風のところが味わいにやる役だが、そのニュアンスが「広告代理店」なのはある意味現代的かもしれない。所作は非常に綺麗なので、ほかの役でも活かしてほしい。
おかる〈桐竹紋臣〉はしどころは少ないが、ちょっとお姉さん風なのはよかった。そして、おかるがちゃんと転んでいるように見えた。
以前、簑助さんの弟子の人は「転ぶ」演技が転んでいるように見えないということを書いた。簑助さん自身は、私が文楽を見るようになった段階では出来ていたが(『平家女護島』の千鳥や『嬢景清八嶋日記』の糸滝は普通にコケていた)、昔は劇評で指摘されるほどに出来なかったようだ。いったいどういうわけで、弟子たちは「転ぶ」ができないのか。では和生さんや紋臣さんはなぜできるのか。師匠が違うと言ったらそれまでだが、彼らの師匠の師匠は簑助さんと共通であり(文五郎や紋十郎)、どこで「できる」「できない」が分化したのか。もしかしたら「いかに伝承するか」をめぐる重要な何かが隠されているのかもとも思う。
あとは、六段目名物「内臓をはんこにするための内臓ぬい」の形が、いつもと違った。いや、内臓ぬいはいくつかあるんだと思うけど、はんこ用のぬいは基本一個であるように思っていた。はんことして掴みやすい形状ながら、ある程度コロンとしたやつというか。今回のはなんだか細長くて、解凍したササミみたいだった。内臓ぬいも新調されていくのだろうか。
イノシシは全然ウケてなくて可哀想だった。
- 〈Aプロ〉
- 義太夫
山崎街道出合いの段=豊竹亘太夫/鶴澤清公
二つ玉の段=豊竹芳穂太夫/竹澤團吾、胡弓 鶴澤藤之亮
身売りの段=豊竹希太夫/鶴澤寛太郎
早野勘平腹切の段=竹本織太夫/鶴澤藤蔵 - 人形
早野勘平=吉田玉助、千崎弥五郎=桐竹紋秀、百姓与市兵衛=吉田文哉、斧定九郎=吉田簑紫郎、女房おかる=桐竹紋臣、与市兵衛女房=吉田簑二郎、一文字屋才兵衛=吉田玉彦 (前)吉田玉路(後)、めっぽう弥八=吉田玉路(前)玉彦 (後)、種子島の六=吉田簑悠、狸の角兵衛=桐竹勘昇、原郷右衛門=吉田玉志
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逆順となるが、最初に『二人三番叟』がついていた。
三番叟二人とも動きへの入りが的確で速く、頻繁に配役されるだけあって、やっぱり慣れてるんだなと感じる。動きが自然で無駄なブレがない。良い意味でのこなれを感じる。
なお、又平の三番叟は、ものすごいデカかった。筋トレはじめたん!? プロテイン何飲んどる!? というくらい、ビルドアップしていた。驚きなのは遣っているのが玉誉さんなことで、玉誉さんがこんなデカかったことあるか!?!??!と思った。上品ムキムキすぎる。
そして、今回の三番叟二人組は、いちご農家風だった。私の三番叟評価ポイントとして、「ちゃんと豊饒を祈っていることがわかるか」がある。鈴を振る姿にアグリカルチャーオーラを出しているかをいつも観察しているのだが、今回はいちごのお花に受粉させている系三番叟のようだった。なるほど。と思った。
三番叟の衣装は、おニューになっていた。上半身はそんなにわからないのだが、袴の模様の木の部分の色が全く違うッ。と思った。
太夫はこれではダメだろ。ガチャガチャすぎる。勝平もなんとか言わんかい。
- 〈Aプロ〉
- 義太夫
三番叟 豊竹藤太夫、三番叟 豊竹南都太夫、竹本聖太夫、竹本織部太夫/野澤勝平、鶴澤燕二郎、鶴澤清方 - 人形
三番叟[又平]=吉田玉誉、三番叟[検非違使]=吉田簑太郎
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5年ほど前までは、文楽に対し、人形は充実しているけど、床は大丈夫なのかと思わされることが多かった。声量コントロールができない、声の裏返りが頻発する、間合いを考慮していないなど、ワヤクチャになっているときも多くあった。しかし、現在では少しずつ改善し、声の裏返りは誰であってもまずない状態になり、間合いをみる落ち着きが出てきた状態になっていると思う。客が気づかないうちに長期的に頑張っていたということだろう。
しかし、逆に、人形はどんどんレベルが落ちてきているように感じる。正しく言うと、「レベルが高い人」の絶対数は変わっていない。この「変わっていない」こと自体が問題なのだ。「レベルが高い人」はベテラン世代に固まっており、中堅世代で「できる人」の人数が増えていない。特に、「演奏を聞いて演じる」ことを意識できていない中堅が主役級に配役されることが多くなってきている。演奏にジャストタイムで合わせにいくのか、あえて外しにいくのか、どこでどう帳尻合わせするのかにはセンスが問われるが、それ以前に「聞いてへんやろ」としか言いようがない状態になっている公演が激増している。今回なんて本当にそういう状態だった。音が鳴っているときの音と動きのマッチングを意識できていない人は、無音のときの意識も低いため、人形待ちの間合いづくりもおかしい。そうなると、ことに「勘平腹切」は「壊滅的」なことになる。
むろん、今回配役でいうと、簑二郎さんとか近年目を見張る成長を遂げた人もいるし、紋秀さんのように自分が何をすべきかの研究を広い視野で積極的に行っていることが感じられる人もいる。
しかし、出来ていないケースが「相当に出来ていない」。たとえば、今回の斧定九郎は、誰か何か言ってあげたほうがいいと思う。私は彼を性格や取り組みが根本的に雑な人だとは思わない。「これがダメ」ってことを、勉強する機会がなかった人なのだろうと思っている。
ええ歳の大人に対してそういう言い方すんのもどうかと思うし、価値観が違う世界で生きている人たちについてこんなこと書くのもどうかとは思うが、文楽を見ていると、やっぱり、「勉強」って、どれだけ周囲に恵まれるか次第なんだなと思うことが非常に多い。この人の師匠は弟子が自然に・素直に勉強できる環境を作っていたんだろうなとか、逆に、この人は本人なりには真面目にやっているのだろうが、周囲は前向きに「勉強」ができる環境ではなかったんだな、頑張り方や勉強の仕方を教えてくれる人がいなかったんだなと感じてしまう場合がある。
これは人形さんじゃなく、太夫に対しても感じることがある。もっといい環境にいればちゃんと伸びたんじゃないかっていう人。大局的には「ご縁」なのだが、こんなにも絶対的な人数少ない業種で、そう簡単に「ご縁」で片付けていいのか。そして、三味線にはそこまで感じないのは何故なのか。いろいろなことを思う。
現代においていったいどのように「勘平腹切」を見せるかについて。
勘平の「犯罪」って、石川達三の小説『青春の蹉跌』(1968)の主人公の「犯罪」に近い気がする。
ストーリーは似ていないし、犯罪の確信度・悪意の有無は全然違うんだけど、「犯した罪」が主人公にどのように語りかけてくるのかが。
『青春の蹉跌』の主人公は、学生運動に挫折し、打算的な人生を送ることを決意した青年。資産家の令嬢と婚約するも、元々の恋人(家庭教師先の教え子)の妊娠が発覚したため、彼女を山岳事故に見せかけて殺害する。ここまでの話は学生運動に共感できないとまじでド陳腐すぎてどうでもいい筋書き。しかし、このあとの、そしらぬ顔でごまかし通そうとする主人公の足首を時々「犯した罪」という魔物が掴んでコカしてくる恐怖感がめちゃくちゃ面白い。主人公は「犯した罪」を悪いことだとは思っておらず、やるべきことだった、仕方なかったという正当化で向き合いを避けようとするのだが、魔物はずーーーーーーーーっとじーーーーーーーーーっとこっちを見てる!!!! うっすら冷たい生ぬるい手で主人公の足首を掴んでる!!!!!!!! アレ???? いつのまにか魔物チャンがおくちをあけてるよ?????? のこぎりみたいな歯がい〜〜っぱいならんでるね!!!!! そして、最後には⋯⋯⋯⋯!!!!!
この小説の何が面白いかって、主人公がいくら傲慢であり、「犯した罪」それ自体は鼻で笑えても、「犯した罪」が伸ばしてくる魔物の手(はっきり言うと後ろめたさ)には勝てないってことなんだよな。この小説は本当に巧妙で、たしかに主人公は傲慢で自己評価高杉乙なのだが、教え子が「バカ」で、その女に対して読者もまた全く共感できないように書かれているのが絶妙。主人公に対してちょっと共感しちゃうんだよ。そういうやつの足首になんかがまとわりついて何度もコケそうになってびびりまくるの、面白すぎるんだ、自分も足を掴まれているみたいで。
むろん、勘平はバカすぎて他者に対する悪意は全くない。しかし、そのような人間に対しても、「犯した罪」という魔物は足首を掴んでコカしてくる。魔物は、「天罰」「罪の報い」「勧善懲悪」といった神仏の行う超自然的な摂理ではなく、人間の心の中からやってくるからだ。『青春の蹉跌』では、足首を掴まれてビクつきまくる主人公の心理が克明に描き込まれている。「勘平腹切」の勘平もまた己の犯した罪に足首を掴まれてビクつきまくるわけだが、勘平が魔物を振り返る姿をどう表現するか? そこに、勘平の「性格」が現れるのではないか? ほんまにこれ、期待しとります。
なお、『青春の蹉跌』は神代辰巳監督で映画化されているのだが(東京映画/1974)、映画版では原作の深刻さとは異なる演出がなされていて、それはそれで面白い。1974年には学生運動がどうたらとかがもはや「ダサ」くなってたからだろう(いま見ると、かえって1974年の演出のほうが「ダサ」くはあるのだが)。『仮名手本忠臣蔵』をいま上演するという行為も、本質的には同じことだと思う。私は神代辰巳は別にそんなに好きではないけど、それでも面白かった。
あと思い出すのは、中島貞夫監督の『鉄砲玉の美学』(ATG/1973)。
『鉄砲玉の美学』の主人公(渡瀬恒彦)は、ショボいチンピラ。「大きくならないうさぎ」を売るのが生業で、というかそんなもので食えるわけがないため、女のヒモをして暮らしている。そんな主人公に、あるとき、「チャンス」がやってくる。敵対組織の要人を暗殺するという「鉄砲玉」に指名されたのだ。本人からすると華々しい役目を与えられ、イキリにイキる主人公。だが、やがて「組織の都合」に翻弄され、最終的には自分ではコントロールのできない他人の都合の狭隘に陥って破滅する。
『鉄砲玉の美学』の主人公は「罪」を犯すことはなかったが(情婦に対するDVとうさぎへの虐待はしていたが)、考えのない行動を繰り返した結果、メチャクチャ惨めで悲惨な結末を迎える。こういった惨めさの表現が「勘平腹切」の切腹するまでのくだりに現れてきたら、すごいと思う。「武士の忠義」と「ヤクザの掟」の皮肉さはほとんど同義だ。こう考えると、浄瑠璃に描かれたテーマは時代を超えて普遍的であると感じる。
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今回は江東区文化センターでの開催。
やっぱりここ、ステージの高さが気になるな。人形が奥まった印象になり、見づらい。そして、楽屋が狭いのか、観客が利用する通路まで人形さんの物置がはみ出してきているのは、大丈夫なのだろうか。大丈夫なわけない。
また、客席内への音の満ち方は良いのだが、影弾きの胡弓の音が過剰にうるさく聞こえるのが非常に気になった。これは演奏技術の問題ではなく、張り出した出語り床の囲い部分に天井がなく、影で弾いても音が上に抜けて、表同等に聞こえてしまうことが原因だと思う。
こういう状態を見ると、今後もずっとここでやっていくのは厳しいように感じた。
また、今月のアンケートで、公演をより楽しむためにどんなイベントがあったらよいか?という選択肢の中に、「鑑賞者同士での交流会」的な項目があった。これ、生成AIに「古典芸能のLTV向上施策」を提案させると必ず挙げてくる施策だが(マーケティングでは当たり前の手法だろうが)、「文楽」で、本当にそれをやりたいと思う人ってどれくらいいるんだろうと思った。確かに、「読書会」風のだれでも参加可能、なにを発言しても良く、安心して楽しめる懇親会があったら理想的ではある。実現には、よほどしっかりしたモデレーター、ファシリテーターがいるだろう。とにかく文楽そのものがマイナーすぎて、技芸員のトークイベントでもイベントクオリティを上げられる司会者・対談相手がほとんどいない中、なかなか難しい問題やね。と思った。
なお、今回は「外国人のための⋯」企画がなかったけど、そのほうがいいと思う。盗撮が横行してたし、プレミアム感のない会場でやっても観光客には意味ないし。本気で「外国人」に向けてアピールするなら、違うやり方が必要だと思う。
- 『二人三番叟(ににんさんばそう)』
- 解説 文楽の魅力
- 『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』山崎街道出合いの段、二つ玉の段、身売りの段、早野勘平腹切の段
- https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2026/0809/
- 配役:https://www.ntj.jac.go.jp/assets/files/02_koen/kokuritsu/2025/0809haiyaku.pdf
*1:ただ、今回はもはやそれ以前の問題で、誠に遺憾ではありますが、六段目については、そもそも切腹してるように見えなかった。近年、そもそも切腹してない勘平が時々いるんですけど、間に合う間に合わないとかじゃなく、間に合わなくても切腹だけは確実にしてくださいとしか言いようがない。












