12月公演第一部は、3演目のうち2演目が昭和以降の新作という実験的な試みになっていた。
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清姫は、2017年12月東京公演ぶりに紋臣さんが配役。7年前より落ち着いて大人っぽい清姫になっていた。
出のときに小袖の肩を大胆に落としている拵えは過去と同じだったが、芝居の運びは前半をおとなしめにして、後半が強く立つように変更していた。段階を踏み、だんだんと彼女の内面が高まっていくさまが描かれているのが良かった。川を泳いでいくうちに、若干弱っていくのもなかなかの工夫。
清姫には髪をさばく(振り乱す)演技が2回あり、どちらも思い切りやってしまうと、繰り返し感が出る。そのため、1回目を控えめにして調整をしているようだったが、背景が黒幕なこともあって、髪が下りたことがわかりづらくなっていた。毛先の存在感を見せるのが解決策かと思う。
対岸に泳ぎついたあとは思い切り髪をさばいていたが、その瞬間、ミラクルで髪の毛の細い束が口針に引っ掛かり、髪をくわえて決まるというビジュ最高の清姫になっていた。偶然ながら天女のような美しさで、段切に本気でびっくりした。
ただ、岸に上がったあとに袖で顔を拭く所作が、夏場に駅のホームで汗を拭くおじさんになっていた。謎の、「素」。
清姫は左も良かった。紋臣さん特有の、人形の重さを感じさせないふんわりとした動きについていっているのが上手かった。
清姫のかしらは、姫姿、大蛇姿両方ともガブを使う場合が多いが、今回は姫姿のときはガブを使わない演出にされていた。これは、前回紋臣さんが配役された2017年12月東京公演でもそうだった。
川へ飛び込む前「川辺に立ち寄り水の面、映す姿は大蛇の有様」で水面を覗き込むとき、対岸へ上がって決まったとき、ともにガブの仕掛けを使うほうが、派手だし、芝居としてはわかりやすい。でも、清姫って、本当に大蛇になったわけではないですよね。強い情念によって蛇になったかのように本人が思い込む/周囲からもそう見えているという『紅の豚』システムなだけで、実際にはやっぱり「かわいい娘さん」。ならば、娘姿のままで蛇の如き深い情念を表現するのが正確な手法だろう。これは技量がある人にしかできないことで、若手や中途半端な人では不可能。この配役ならではの演出といえる。現実的には、数が限られているガブのかしらを別演目に回している都合等もあると思われるが、それでもこの演技をやりきれると判断されて配役されている/かしらを当てられているのだから、立派なことだ。
かしらといえば、船頭のかしらは、いつもと違っているようだった。今回使っているのは、『双蝶々曲輪日記』のショボチン雑魚キャラにいるやつだよね? もっと凶悪な感じじゃなかった? と思っていたが、第一部を全部観て気づいた。ふだん使っている、眉間に険のある顔のかしらを、3演目の『金壺親父』の主人公に回しているからかな。
床が長唄みたいになっていた。義太夫らしいボリュームが感じられない。そして、チグハグすぎに思えた。
【12月文楽公演】好評上演中🏮
— 国立劇場(東京・半蔵門) (@nt_tokyo) December 6, 2024
川の向こうにいる愛しい安珍を思い、恐ろしい蛇の姿となって日高川を渡る清姫。
人形ならではの演技や、量感たっぷりの義太夫節にもご注目ください。
江東区文化センターでの公演は13日(金)まで。
チケット好評販売中!
🌐公演情報https://t.co/akWRAbojiH pic.twitter.com/kQZqUCljGE
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2つめ、『瓜子姫とあまんじゃく』。
現代口語を義太夫に乗せるという試みは、「これが義太夫に聞こえ、人形浄瑠璃に見えるにはどうしたらいいのか」という出演者の探究心を見ることができるという面で、面白いと感じる。このような高度な、かつ実験的な作品は、内製では絶対にできない。
しかし、現状だと、スベっていると感じる部分が多い。
一番の問題は、「この演奏、『義太夫』なの?」という点。
まず、今回わかったのは、たとえ文章自体は標準語であっても、大阪弁のイントネーション(現代で実際に話されている大阪弁ではなく、あくまで義太夫のイントネーションとしての発音)にすることで、かなり文楽の世界に寄せることができるということ。イントネーションが作り出す「佇まい」は、義太夫および文楽の世界観形成にとって、かなり大きいと感じた。
ただ、もう、全般的に、いまがどういう情景で、誰が何喋ってんのか、全然わからなかった。顕著なのが、杣の権六が山中で山父に出会い、言葉をかわすくだり。村人Aと山中の怪異が同じ喋り方というのはありえないのでは。「第三者が語っている地の文だから全部トーンが同じ」という解釈に振り切っているのかもしれないが(実際、原文はそういう体裁ともいえる)、平坦すぎて、かなり聞き辛い。今回、太夫の喉の調子が悪かったのか、咳き込んでいる部分もあったため、本当に何言ってるかわからなかった。*1
瓜子姫の機織り歌が怨霊のうめき声にしか聞こえないのも非常に気になった。終演後、近くの席に座っていた文楽初心者らしき方が、「なんか、何言ってるかわかんないところあったね🎵」「瓜子姫が呪文みたいなの唱えてたね☺️」と、ちいかわのような正直会話をしていた。
本作が初演されたときは越路太夫が語ったというが、どのような「義太夫」だったのだろうか。
演出的な面で、この物語の面白さを活かしきれていないのではと感じた面もある。
本作は、高度なイマジネーションを含んだ作品だ。「あまんじゃく」とは何なのかの思索が観念的に語られており、非常に面白い。これについては、前回2022年大阪7・8月公演で上演されたときの感想に詳しく書いた。
今回観てあらたに気づいたのは、人間の世界「里」と、そうでない世界「山」の距離感の面白さ。じっさやばっさ、瓜子姫、権六は「里」に住まい、山父やあまんじゃくは「山」に住んでいる。「里」と「山」は、地面としては一枚につながっているが、登場人物たち(怪異のみなさん含む)にとっては、属性の違う空間として捉えられている。わたしが住む場所と、わたしでない者が住む場所。わたしの場所以外に踏み込むことのタブー性。そのこわさ、おそれ、異質さ。彼らは本来交錯しないが、ときには交錯する瞬間があるということが、本作の鍵となっていると思う。
そのうえで、本作を江東区会場の狭いステージで上演するのは、ちょっと厳しいと感じた。というのも、間口が狭すぎて、「里」と「山」を同時に舞台上へ出したとき、接近しすぎて、空間的区別がつかないのだ。
前述の通り、本作は、「里」と「山」の交錯しそうでしないようでしている絶妙な距離感が重要な意味をもっている。しかし、今回は、「里」と「山」が、どこでもドア並に近くなってしまっていた。山の場面は2つある。杣の権六が山中で焚き火をしているときに山父と遭遇するくだり、瓜子姫が裏山へ吊るされるくだり。この2つの場面では、舞台の照明を暗く落として上手(かみて)にある瓜子姫ハウスの屋体を見えないようにしたうえで、下手(しもて)のキワに出た人形にだけ照明を打ち、明暗で区切るという手法が取られていた。しかし、権六や瓜子姫がいる「山」に見立てられた位置と、「里」である屋体が物理的にあまりに近すぎる&そのせいで人形用の照明が屋体にも当たって家が見えてしまっていて、「家の前でなんかしてる」ようにしか見えなかった。文楽劇場だと、人形と屋体のあいだの距離を確保できていたので、違う空間として見えていたと思うが……。文楽劇場のステージも極端に広いわけではないけど、どうしてたんだっけ? 「山」のシーンをやっているときはさらに照明を落とす等したほうがいいのではと思った。
ただし、全部が全部、間口や演出手法の問題とは思わない。出演者の技術的な問題もある。たとえば、冒頭の「やまびこ」は、よく考えてやってほしい。「やまびこ」は、遠くから聞こえてこその「やまびこ」だ。下手(しもて)袖の見えないところから若手太夫(若くないが)が「やまびこ」部分の声を上げるのだが、声が無駄にデカすぎ、発声が直線的すぎて、「山」から聞こえてきた感がない。「やまびこ」もまた、本作の世界観を形成する重要な概念だ。「遠くから呼びかけてくるような声」として聞こえるべきものだと思う。
人形はきちんとした人が配役されており、民話的な世界観がしっかり表現されていた。
人形が民藝品に見えるのがかわいかったが……、どうにも、「レベルの高い人形劇」だわな。言うなれば、川本喜八郎制作のパペットアニメに近い感覚。義太夫がしっかり成立しないと、文楽らしく見せようがない部分もあると思うが、難しいところ。
あまんじゃく〈吉田玉佳〉は、玉佳ムーブで、良かった。天真爛漫に、いたずらを楽しそうにやっているのが、良い。あまんじゃくは子供姿の人形ではあるが、運動能力は武士系の若男くらいで演じられている。そのため、わりかしデカいはずの子が幼稚な行動をしているように見えて、その異質感が面白かった。どこか恐ろしいところのある民話的世界観を盛り上げている。
本作は新作であり、義太夫にベタ付きになる「型」が決まっている役というわけでもないのに、あまんじゃくの動きがちゃんと床の演奏に合っているのは、上手い。あまんじゃくの動きには、文楽らしい、視覚と聴覚を融合させた心地よいリズムが感じられる。躍動感いっぱいに無作為に動いているように見えて、そうじゃないんだよね。逆にいえば、動きが曲にあっているのに、そこから解き放たれているような豊穣性と野放図さが感じられる。神霊的。こういうの、玉佳さんの強さだよなぁと思った。
それにしても、なんか、だんだん、あまんじゃくが成長してきている気がする。初めて玉佳あまんじゃくを見たときは、小学5年生くらいだった気がするのに、いつのまにか中学2年生くらいにまでなっている、気がする。
瓜子姫〈桐竹紋吉〉は、マスコット感があって、かわいかった。だが、デカい。あの村のバレー部のエースだろう。姫らしくちんまり構えておくれと思うが、しかしこれも紋吉さんの個性なので、逆にデカ娘感をよく見せる方向に行ったほうがいいのかもしれない。女の子はちっちゃくて華奢なのがイイという固定観念にグーパンをかますんだ。
ひとつ確実に直してほしいのは、裏山に吊るされているときの演技。木の枝から下がったロープがまっすぐに降りていない位置で人形を構えてしまい、ロープが斜めになってしまっていたため、吊り下げられている感がない。そして、足をまったく動かしていないのと、足の裏が地面と水平になったまま固まっているのとで、空中に「着地」しているように見える。足をじたばたさせ、身体をふらふら動かすことで、宙吊りになっていることを表現すべきだと思う。こういうの、演出家がディレクションする普通の演劇なら、舞台稽古で即座に注意・指導されると思うが、そういうことがないのが文楽の新作の致命的欠点だよなぁ……。でも、足じたばた、ぷらぷらは、前回瓜子姫役の紋臣さんはやっていた。おにいちゃーん、教えたってくれーと思った。
家の前まで帰ってきたじっさ〈吉田玉輝〉が、上段(家の入り口側)へ上がろうとしたとき、一度で段差を上がりきれなくてちょっとふらっとしてしまったことにドキッとした。転倒などの事故にはつながらず、左などが助けてすぐに立て直したが、そのあと、ばっさ〈吉田簑一郎〉がさりげなく寄ってきて、じっさの着物の裾をポフポフと払ってあげる演技をしていた。簑一郎さんの心遣いを感じた。
瓜子姫フレンズのとりたちは大元気だった。にわとりがボサボサだった。
瓜子姫ハウスは、奥にかかっている「わらびのれん」のわらびが他演目のそれよりカクカクしていて、どこか禍々しいのが良かった。
そういえば、この演目、大阪で出たときは、開演より先にお囃子が機織りの音を演奏しはじめていた気がするが、今回はその演出はなかった。
最後にあまんじゃくが姿を見せるのは、今回は、下手(しもて)のお囃子部屋の窓(御簾)からだった。
【12月文楽】好評上演中🏮
— 国立劇場(東京・半蔵門) (@nt_tokyo) December 9, 2024
第一部『瓜子姫とあまんじゃく』
じっさとばっさの帰りを待つ瓜子姫のもとへ、いたずらもののあまんじゃくがやってきて…。
江東区文化センターでの公演は13日(金)まで。
チケット好評販売中!
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3つめ、『金壺親父恋達引』。
井上ひさし作の「ハートフルコメディ」系世話物。他愛ない話だが、ストーリーの骨子がしっかりしており、よく出来ている。似たような方向性の新作『かみなり太鼓』や『其礼成心中』にみられる尻すぼみ感、「なんか論点ズレてねぇか?」的な話運びの違和感がなく、無茶苦茶をしていつつもまとまりが良い。オチが大団円二段構えというのも面白い。原作ありといえど、文楽の完全新作のなかでは、一番出来が良いと思う。
本作で好きなのは、家族をないがしろにして「金=幸せ」という価値観を持つ人物が主人公でありながら、彼がギャフンといわされることもなく、「家族=幸せ」という人々と、「金=幸せ」という人が、それぞれの価値観をまっとうして幸せになるというオチ。初めて観たとき、ラストシーン、金にまみれてハッピーそうにしている金左衛門を見て、ビックリした。よくある安っぽいハートフルコメディならば、ギャフンと言わされる勧善懲悪オチか、自分のもとを離れていく子供たちが幸せになっていくのを見て寂しくホロリ⭐️みたいなビターオチになるはず。なのに、金左衛門、いなくなった子供たちに1ミリの未練もない。お金ちゃんを抱いて安心し、嬉しそうにしている。子供二人が平気で親の貯金を盗もうとするのもなかなか怖い。純粋にお金が好きなだけの金左衛門よりも「悪」のポテンシャルがある。なんでこういうやつらが「幸せ」になれるの。かつ、そこに批評性をあからさまには匂わせない。その八方破れさに惹きつけられた。
こういったストーリーテリングは、むしろ「現代」では通用しないと思う。いまこんな話の企画を出しても、絶対に「反省」シーンを求められる。繰り返しになるが、原作ありといえど、このオチをキメられた昭和という時代に憧憬を覚える。
話の都合のよさは(これまた原作通りといえど)浄瑠璃らしくて、私は好き。実は親子。実は兄弟。わかったわかったわかったわかったわかったわかった!!!!!と叫びたくなるベタぶりが、まさにコメディでもある。
しかし、そうでないところに、致命的な欠点がある。おぼっちゃま(万七)/番頭(行平)、お嬢様(お高)/母子家庭の女の子(お舟)の区別が全然ついていないこと。この状態で、ぱっと見て、あるいは聞いて、万七と行平、お高とお舟の区別がつく人がいるだろうか。見せ方として下手すぎん? 非常に引っかかる。
世話物において、「身代」、つまりその家や人物が所有する財産、それに紐づく社会的立場は、極めて重要な要素だ。金とそこからくる社会的立場が問題を巻き起こす話こそ世話物といえる。本作の場合、身分違いの恋愛がサブストーリーになっていることもあり、そこはきちんと立てるべきだろう。
身のこなし、喋り方を変えるべきだ。と正論を言いたいところだが、このあたりはどうしても配役と個々人のスキルに紐づいてしまうので、できない人はできない。なので、ひとまずは「誰がどうやっても」わかるように、見た目を変えておくべきだと思う。いくら父親がシワいといっても、それなりの商家の息子娘がシモジモと同じにしか見えない服装では困る。万七には羽織を着せ、行平には前掛けをさせる。お高は髪飾りか帯を派手にして、お舟は髪飾りを無くし小袖を地味色になど、やり方はあるのでは。と思った。
振り付け上の区別でも良いと思う。前回大阪公演では、「いまごろは行平さん、どこにどうしてござろうぞ♪」とお嬢様に呼ばれて登場する番頭行平は「ここにこうしておりますよ♪」と少し踊りながら出てきていたはず。これでだいぶ軽い印象が出る。今回やってないということは、前回の行平役の人が独自に判断してやっていたのかな。
こういうのも、演出家がついていれば、バランスをみて指導ができると思うのだが……。
文芸的な側面においては、コトバ(セリフ)が大半を占める脚本であることが特徴。しかも、そのセリフに、「普通の」標準語喋りを多用しているところにおかしみがある。唐突に「普通に」話し始める人物たちの口調の面白さは、普段はチョット朴訥すぎやろ、なヤスさんがかえってその効果を生み、一番うまくこなしていた。
しかし、この曲の詞章(特に地の文)、よく読むと、浄瑠璃っぽくないな。西鶴とかの読み物系文章みたい。文章がかなり細切れなのと、言葉遊びが多いからか?
主人公・金左衛門は、今回は簑二郎さんだった。ご本人の持つゴキブリ的キモ愛嬌(MAX褒めてます!!!!!!)が活きて、極限シワ(吝)親父のキャラクターが立っていた。昭和時代に東宝でたくさん作られていた『喜劇なんちゃらかんちゃら』系の喜劇映画を思い出すような野暮ったさがたまらん。簑二郎さんって、真面目さと変さ、うさんくささの塩梅が絶妙で、あの時代の喜劇俳優に混じっていてもおかしくない独特の何かがある。山茶花究や藤村有弘、沢村いき夫と共演していても違和感ない。かつ、都会的なスマートさがないのが良い(?)。本作の脚本が書かれた昭和の喜劇を再現しうるオーラを持っている。そういう意味では、とても適役。
金左衛門はオリジナルのつぎはぎ衣装を着用。伊左衛門(曲輪文章)の紙子や俊寛(平家女護島)の襤褸のような舞台上の美的表現とは違って、町人らしいナチュラル素材のつぎはぎ。足袋もオリジナルで、ちょこんと座って足の裏を見せるたび、つぎはぎが見えて、かわいかった。私が観た回、段切、額の中央で結んだ鉢巻の端が長く垂れて、金左衛門の顔が見えなくなってしまっていたのが残念だった。今回の舞台写真を見ると、私が観た回とは巻き方が異なっており、結び目が横にきていて、顔がちゃんと見えていた。アドリブでやっているのかもしれないが、メンタルが正常な役は、鉢巻しても顔が見えるように結んでー。と思った。
ただ、人形のそのほかの配役は、さきほど述べた「身代」をいかに表現するかを考えると、それぞれもうちょっとはまる人を選んだほうが良かったんじゃないのというのが正直なところ。この人らを使うにしても、それぞれ、はめる役が違う。もとの戯曲の整理されきってない部分が悪く出る配役になっていると感じた。そういう意味では、本作の登場人物のなかで一番の「身代」を持つ京屋徳右衛門に玉志さんを配役していたのは、適切ではある。ご本人は、「さすがに椀久レベルの豪商じゃないしネ」的な感じで、あくまで「ちゃんとした人だけど、持ち金については“成り上がり”」という軽めにしているつもりのようだった(歩き方をシャカシャカ速めにする、姿勢を整えすぎない等)。でも、今回配役されている皆さんの中では素の品格がぶち抜いているため、上品すぎて、出てきた瞬間、「この人がオーオカ・サバキしはるんか???」的に客席がシーンとしてしまい、スベっていた。スベッてないけど*2。こういう、人間でいうと嵐寛寿郎、丹波哲郎あたりがやるような役、人形やと難しいわ。
本作、配役に大きな影響を受ける演目であると感じる。正直なところ、豪華な配役でやっていた前回大阪公演で観たときのほうが面白かったかな。本作、「新作の中では一番面白い」と書いたけど、それでもさすがに戯曲そのものだけで間持ちするほどの出来とはいえない。今回配役された人たちが不出来というわけではないけど、「大団円」感を盛るためにも、脚本はカスでも豪華出演者によってなんかすごそうに見えるオールスター映画のように、出来うる限り豪華な配役でやったほうが良いと思った。
本作は「朝の段」「昼の段」「夜の段」に別れているが、口上は入らない。段の頭に、小道具でそれが示される。「朝の段」は、舞台を横切っていく売り歩き(?)の人形が背負っている旗に「朝の段」という文字が書かれている。「昼の段」は、金左衛門ハウスの床の間の掛け軸が返されると、「昼の段」と書かれた隠し掛軸になるという仕掛け。これらは愛らしくてよかったけど、「夜の段」がもったいない。夜廻りの背負っている旗に書かれているというのが、「朝の段」とまったく被ってしまっている。夜廻りがでんち(袖なし袢纏)を着ていて、クシャミをしてうしろを向くと背中に「夜の段」と書いてあるとか、もう少し夜の情景を表現する人形を出して、通行人の持っているちょうちんに書いてあるとか、夜ならではの工夫が欲しいと思った。
金左衛門ハウスのろうそくは、ゲーミングろうそくだった。
金左衛門の愛するツボにはちゃんとお金が入っていて、動かすと本当にガチャガチャいうのが良かった。
太夫は、いいんだけど、なんかちょっと違うんとちゃうか感ある。藤太夫さんは良いけど、金左衛門に加えて、豆助もやる必要あるの?とか、割り振りの整理の問題というか。
三味線のシン、妙にちゃんとしてるなと思ったら、燕三さんか。なぜここに……。ちゃんとしすぎていて、失礼ながら音がほかの人から浮いていた。
【12月文楽】好評上演中🏮
— 国立劇場(東京・半蔵門) (@nt_tokyo) December 10, 2024
第一部『金壺親父恋達引』
稀代の蓄財家・金左衛門と娘・お高のそれぞれの縁談が、周囲の人々を巻き込む大騒動に発展して…。
江東区文化センターでの公演は13日(金)まで。
チケット好評販売中!
📸舞台写真https://t.co/UxsILgNoXk
🌐公演情報https://t.co/akWRAbojiH pic.twitter.com/eyESokbJod
- 義太夫
金左衛門・豆助 豊竹藤太夫、万七・徳右衛門 豊竹靖太夫、お高・大貫・お舟 豊竹亘太夫、行平・お梶 竹本碩太夫/鶴澤燕三、鶴澤清𠀋、鶴澤清公 - 人形
金仲屋金左衛門=吉田簑二郎、倅万七=豊松清十郎、娘お高=吉田一輔、番頭行平=吉田勘市、手代豆助=吉田玉勢、大貫親方=吉田簑太郎、お梶婆=吉田簑紫郎、娘お舟=吉田文昇、京屋徳右衛門=吉田玉志
◾️
文楽の新作は難しい。
今回上演された『瓜子姫とあまんじゃく』『金壺親父恋達引』は、文楽の新作のなかでは、非常にレベルが高い部類の作品だ。そのぶん、出演者がどれだけ戯曲を研究して向き合えているかがモロ出しになる。
繰り返し上演されている古典は、洗練された演出が「型」として伝わっているため、それを踏襲すれば、誰がやっても、ある程度見られるもの、聞けるものになる。極端にいえば、その型の持つ意味を理解しないまま舞台に上がったとしても、それっぽくはなるし、常連客は「ああいつものアレね」と理解してくれる。
しかし、新作は、技芸員個々が「いま自分がやっていることは、戯曲の内容を適切に表現できているのか」「観客に伝わっているのか」を観察し、適宜パフォーマンスにフィードバックして、舞台へ定着させなければならない。この観察と定着の能力に個人差がありすぎて、全体を引きで見たときに、なにやってんだかわからなくなる場合がある。全員の戯曲に対する理解・意識を統一させ、全体のまとまりを監督していく演出家がついていない作品だと、なおさらだ。
観察と定着は古典演目でもきわめて重要な要素だ。この能力を成長させるためにも、新作への取り組みは文楽にとって良いことだとは思うが、いまの状態では、その涵養の体制は整っていないよなぁ。内製の新作は正直言ってレベル低すぎて話にならないので、今回のような外部のマジモンのプロによる作品で頑張ってほしいところ。
改めて、文楽の新作は、本当に難しいと思った。
┃参考 過去感想リンク
『瓜子姫とあまんじゃく』
2023年7・8月大阪公演感想
2018年7・8月大阪公演感想(あらすじあり)
『金壺親父恋達引』
2016年7・8月大阪公演感想(あらすじあり)
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会場入り口に、久しぶりにくろごちゃんが出現していた。しきりに手をブルつかせる、玉佳さんのような動きをしていた。タマカ・チャンがあれやこれやの左だけでは飽き足らず、バイトしてはるんかと思った。
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今年の文楽は、いろいろなことが変わってきたという印象だった。
今年観てよかったのは、1月大阪公演『伽羅先代萩』、5月東京公演『ひらかな盛衰記』「大津宿屋」から「逆櫓」、9月人形三人会『伽羅先代萩』(玉男さん政岡)、11月大阪公演『仮名手本忠臣蔵』「殿中刃傷」、12月東京公演『一谷嫰軍記』。
特に『ひらかな盛衰記』、「殿中刃傷」では、現代文楽の精華を見た思いだった。三人会の『伽羅先代萩』では、玉男さんの若手のように純粋に挑戦へとのぞむ瑞々しいメンタリティを見ることができたのが良かった。「一生修行」は嘘ではない、それを目の当たりにできるのが、古典芸能の面白さだと感じた。
そして、3月に行った生口島での錣さんの公演。企画と会場の雰囲気自体が本当に素晴らしかった。やはり文楽の単発公演には主催者の熱意が重要だと感じた。
また、上記に限らないさまざまな演目で、初代吉田玉男の藝と文楽に残した遺産を感じることも多かった。いまは、そのスタンスを和生さんが継いでいるのではないかと思わされる。
一方、ネガティブに感じることが激増したのは事実だった。
東京公演は、固定の会場がなくなったのが本当に厳しい。企画もどんどんスカスカになってきている。お客さんは脱落してゆき、上演環境も悪くなっていくとしか思えない。今月にしても2月にしても、会場を2分割するとか、おかしすぎる。国立劇場は、もはや終わっている。
また、実際の舞台がどのようなものであったかについて、先述した演目のように大変良かったものはあるものの、残念だったと言わざるを得ない公演が多くあった。襲名披露公演は、「ああいう状態」で本当に良かったのか。9月東京鑑賞教室公演での、出演者・制作双方でのレベルの低さ。これらの公演は、「疑問を覚える」を通り越している。
技芸員個々の能力差が開いてきていることも感じる。上手い人はどんどん上手くなり、おかしな人はどんどんおかしくなっていく。これには、内部の教育指導体制の問題のほかに、劇場側による雑な配役や登用にも責任がある。
こういったことは、来年以降、もっと顕著になっていくことだろう。
私は単なる観客だが、それでも、観客として、自分がどのような価値観に基づいて批評しているのか(「感想」を述べていくのか)の軸を持ち、提示したいと思う。私は「応援」するために文楽を観ているのではなく、誰のことも「推し」てはいない。いま何が起こっているのか、それに対して私は何を感じるのかを、できるだけ精緻にとらえていきたい。
- 第一部
- 『日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)』渡し場の段
- 『瓜子姫とあまんじゃく(うりこひめとあまんじゃく)』
木下順二=作/二代野澤喜左衛門=作曲 - 『金壺親父恋達引(かなつぼおやじこいのたてひき) ―モリエール「守銭奴」より―』
井上ひさし=作/野澤松之輔=作曲/望月太明藏=作調 - https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2024/612/
- 配役:https://www.ntj.jac.go.jp/assets/files/02_koen/kokuritsu/0612haiyaku.pdf