TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 9月東京公演『寿柱立万歳』『碁太平記白石噺』浅草雷門の段、新吉原揚屋の段 国立劇場小劇場

浅草にあるのは松屋だろ!!!!!!!!!!!

 

 


寿柱立万歳。

詞章がアレンジ版で、国立劇場改修を祝う内容になっていた。
素で聞きたいのだが、一体、祝っているのは誰で、誰に向かってそのアピールしているのだろう?

まず、国立劇場の建て替えって、こっちにゃ迷惑な話なわけですよ。客の立場からすると、7年もの休館は、あまりにもデメリットが大きい。そこを断りの挨拶もなくしょっぱなから顧客へ「祝い」を押し付けることに違和感がある。まずは、これまで頑張ってくれた建物にも、いままでの来場者に対しても「いままでありがとう」といえる演目にしたほうが、誰にとっても自然なのではないだろうか。
少なくとも、「やむなくやってる」演目に変な屁理屈つけるのはやめたほうがいいと思う。せっかく観劇に来ているのに、文楽自体や技芸員さんと関係ないところで「おや?」と思ったり、「なんだかなあ」と思ったりしたくないよ。

三輪さんはそこを違和感のないように、ことほぎ感を保持してまとめており、良かった。しかし、三味線はどうなってるのか?

人形は良かった。簑一郎さんはやっぱり動きが安定している。動き出す瞬間などに不要なブレが発生せず、非常に自然な所作。配役として、ペアのお二人のタイプがちょっと似すぎかなと思った。上手いけど、かなり渋い印象。ただその分、人形たちに「芸人」らしさがあったのは、とても良かった。祝い行事として本当に芸人呼んだらこういう人らが来るだろうなという、その点は史上最大級です。

 

 
 
 
 
 
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  • 義太夫
    太夫 竹本三輪太夫、才三 豊竹希太夫、豊竹薫太夫、竹本文字栄太夫/竹澤團七、鶴澤寛太郎、鶴澤燕二郎、鶴澤清方
  • 人形役割
    太夫=吉田簑一郎、才蔵=吉田文哉

 


ここから第一部のつづき。
太平記白石噺、浅草雷門の段。
下手に茶屋、上手に雷門。雷門は2021年1月大阪公演とは異なり、門の左側の仁王様が描かれているのみ。五重の塔は見えず、門前のみにフォーカスしたものだった。

門前で大道芸を披露するどじょうは大阪公演に続き、勘市さん。愛らしくのびのびとした動き。のろりんとしていて、春の小川をうねうね泳ぐ「どじょう」(fish)っぽい。メタリックお花手毬をカゴでキャッチするのを失敗し、勘市さんがちょっと笑っちゃってたのがレア? どじょうが一旦帰っていくとき、最後に出すものは、今回は三越の手提げ紙袋。大阪では近鉄の袋だったが、劇場最寄りの百貨店でもろてくるルールになっているのだろうか。なお、今回は手品の場面にアレンジはなく、通常の詞章での上演だった。

おのぶ〈吉田一輔〉は第一部同様、芋娘の雰囲気はとても良い。芋っていうか、ブロッコリーみたいだな。色的に。「もす!」って感じの言動が山出しオーラにあふれている。「新吉原揚屋の段」では洗練の極致といえる和生さんの宮城野と好相性だった。
第二部のおのぶは、第一部以上に演技の繰り返し感が気になった。おのぶは言動そのものがやや単調なので、わざとらしくなく見応えをつけることは非常に難しいだろう。宮城野よりも格上の人が遣ってもおかしくない役ということがよくわかった。
なお、「浅草雷門」のおのぶは、坂東巡礼の姿をして登場する。わたくしごとながら、この夏、西国三十三所をクリアしまして、いろいろと巡礼のコツを掴んだのですが、「着る笈摺に御朱印を受けるのはやめたほうがいい」ということは言える。汗・湿気・雨などグシャグシャになってしまうと思う。

おのぶをだまくらかそうとする観九郎は、紋秀さん。なんか、メルカリでスニーカーを転売してそう(この出品者は平均24時間以内に発送しています)。「悪者」感はちょっと薄めで、普通の人っぽい。いいお父ちゃんだなぁという感じ。観九郎に売り飛ばされるのと惣六に買い取られるのとでは、どっちがヤバイかはわからない。それ自体が紋秀さんの良さだが、そこに加えて、酔っ払い感や居眠り感をいかに出すかがキモかと思う。

観九郎をだまくらかすどじょうの地蔵コスは、なんと、ちゃんとお地蔵さんになっていた。赤色の、ベレー帽というか、給食帽というか、還暦祝い的なふんわりキャップと、これも赤色のフリルつき前掛け。2021年1月大阪公演での、あのピグミンみたいな触覚は何だったんだ? しかし、プログラムのかしら一覧写真を見たら、さらにすごい姿のどじょうが載っていて、腰を抜かした。地蔵コスがどう「地蔵コス」なのかは、人形遣いの好みや裁量でやっているのだろうか?
あと、どじょうが顔にうどん粉を塗ってるのって、石像風に見せかけるためだと思ってたけど、もしかして、関西に時々ある化粧地蔵のつもりなのかな?

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2021年1月の錫杖は忘れちゃったので適当に描いてます。今月のは形状自体は合ってると思います。わっかの数はよくわからない。

 

 

新吉原揚屋の段。
出演者効果で、相当高級感のある雰囲気になっていた。「大名が屋敷へ傾城を呼び出していま流行りの芸を見せてもらってる」感がある。それを良いと取るか悪いと取るかはあると思う。

宮城野〈吉田和生〉が非常に典雅で美麗。宮城野が引き締まっているので、ひとつの舞台として大変華麗な印象になっている。いかにも遊女というよりもお姉様感、元々の身分(武士の娘)を感じさせる佇まいで、ゆったりとした時間の流れを感じるゆきとどいた繊細な所作。あくまでたしなみのある女性として演じているのが和生さんらしい。クドキからちょっとした動きまで舞踊のように楽しめる。特におのぶが妹だと気づくまでのあいだは非常に上品で、頰と唇からあごにかけての雰囲気がとても綺麗。伝統芸能らしさと、そのよいところが出ていると思う。
それと、和生さんの傾城は、顔そのまんまの中身をしていそうで、良い。傾城ってよく見ると結構複雑な顔をしているけど、その通りそのまま。単に綺麗な服を着て豪華に髪を結っているいるだけではないということがよく出ていると思う。
宮城野が本のページをめくるとき、指先につばをつけるのは不自然に感じる。はしたないし、年齢にそぐわなく感じるが(20代の娘さんは指に脂あるで)、単に本をめくる動作を強調しているのか、指先にまで白粉をつけている表現なのか、遊女の色気を演出するものとして実際にそういう所作があったのか。それとも、武士の娘とはいえ田舎育ちなところがさりげない所作の中に見えるということの表現? 誰か和生に聞いてくれ。
それにしても、露骨に出さないとはいえ、和生さんは大元気だし、しっかりしてるよなと思った。宮城野はクドキなどで体勢を大きく変えるが、あのゆったりした動きで、あの人形が、しっかり安定しているのがすごい。人形自体の重量をまったく感じさせることがない。少しでも下がる人がやったら、衣装や体勢、顔の角度が極端になるか、それを防ぎたいばっかりに動作に勢いつけてやることになると思う。宮城野は陰影に富んだ内面がさほどあるわけではないし、なにも和生さんがやらなくてもいい役だと思ってしまうけど、ごまかしのない和生さんならではの芸だと思う。

舞台の佇まいのよさは、惣六やおのぶが物語の雰囲気に沿っているという点も大きいだろう。
勘壽さんの惣六はモダンな雰囲気。脚本上は若干クドいキャラクターのところ、引き算的な演技で、こざっぱりとしている。『曲輪文章』の喜左衛門と同様、少し肩をすくめて羽織に首を埋めるような猪首っぽい構え方だったが、勘壽さんの中で茶屋(揚屋)の亭主は猪首というイメージがあるのだろうか。それとも、何か古いセオリーに則っているのだろうか。
しかしやっぱり勘壽さんの町人男性は明治っぽい印象がある。正しく言うと、明治大正期に生きていた人が撮った昔の日本映画のような雰囲気。勘壽さんは普通に戦後生まれだと思うが、若い頃に薫陶を受けた人の影響等なのか。あの加藤泰的な世界観、本当にすごい。和生さん、勘壽さんで加藤泰の明治ものを文楽化してやってくれないかなと思った。

 

↓ 見よこの和生宮城野の美貌

 
 
 
 
 
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  • 義太夫
  • 人形役割
    豆蔵どじょう=吉田勘市、大黒屋惣六=桐竹勘壽、茶店亭主=吉田和馬、悪者観九郎=桐竹紋秀、妹おのぶ=吉田一輔、傾城宮城野=吉田和生、禿しげり=吉田簑之、新造宮里=桐竹紋吉、新造宮柴=吉田簑太郎

 

 

 

第二部は、9月公演でもっとも安定していた。それ自体が貴重に感じるとも言えるし、万事ソツがないとも言える。メインどころの配役が2021年1月大阪公演と同じで新味がないし(それは私が勝手に観に行っただけですけど)、何度見ても面白い演目とは言い難いし。ただし、人形は配役が若干底上げされているので、その点において見応えが上がっている。

番組としては、第一部とセットで観てなんぼという気がした。通し狂言とするための部またぎ自体は仕方ないが、この演目の部またぎは厳しいと感じた。というか、この演目自体が、通しに耐えられないもののような気がした。私が生きているうちに、もう二度と観られないかもしれない。

なんだか今月は、全般的にモヤモヤがある感じだった。もっとも、第二部は国立劇場の問題であり、『寿柱立万歳』の位置付けがどうなのよという話であって、技芸員さんが悪いわけではない。国立劇場側の問題としては、公演自体に加え、国立劇場休館中の文楽公演の代替会場は北千住という話が国立劇場発信でアナウンスされていないことも、かなりモヤモヤした。

そして今月は、三味線について、演奏ミスのある若手や、いまの音ぬるいのではというベテランがいたのが気になった。普段より稽古ができない状態だったとか、なんらかの事情があるのだろうか? 人形なり太夫なりがシッチャカメッチャカになるのは恒例行事的な部分があるのでいいのだが(よくねえよ)、ここしばらく、三味線に崩れが出てきている気がするのが心配ではある。

地方公演と11月公演は、できるだけ気分よく観たい。

 

 


↓ 2021年1月大阪公演『碁太平記白石噺』感想

 

 

 

 

文楽 9月東京公演『碁太平記白石噺』田植の段、逆井村の段 国立劇場小劇場

第一部の客席は、なんか、こう、「本気」の人オンリーな感じになっていた。

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今回の第一〜二部の『碁太平記白石噺』は、国立劇場創立時にあった原則通し狂言のコンセプトを復活させたもの。ただ、三部制のために一番有名な「新吉原揚屋の段」と復活・稀曲部分(言い換えると地味な部分)とが離れてしまい、第一部は「これ何?」という演目のみの怪プログラムになっていた。

『碁太平記白石噺』全段のあらすじは、2021年1月大阪公演の感想にまとめてあります。今回の第一部の上演は、四〜五段目部分をご参照ください。

 


田植の段(四段目)。

端場で人形黒衣。
舟底が田んぼ、二重が畦の設定で、背景には里山の風景。田んぼは現代のように整地されておらずウネウネした形で、ところどころにこんもりと木が生えており、何軒かずつの小さい集落が見える。遠方に山。「みんな田植え終わったのに与茂作の田んぼだけ終わってない」云々の話が出ているが、背景の書割は全然田植え終わってなくて、むしろ稲刈り終わって冬支度をしている土景色になっているのが気になった。

 

全般に、のどかでぼんやりした在所の風情がよく出ていた。おっとりしたツメ人形の百姓たち、しっかり者の庄屋、ぼやっとした娘、ラフな小物代官など、文楽らしいのんびり感。
冒頭で田植えをしているツメ人形たち、苗、投げるんか。確かに、いちいち畔へ取りに行くより、投げてどんどん補給してもらったほうが効率的なのかもしれない。おツメたちは苗を自分に対して横向きに植えていたが、田植えって、植えていく向きは前進or後進が多いのでは。(田舎者なので田んぼへの文句がしつこい)

百姓・与茂作〈吉田玉輝〉は、絶妙な「そのへんにおるジジイ」感を醸し出していた。
黒衣でも、見た瞬間「あ、タマキね。」とわかる玉輝ジジイ。なんかこう、玉輝ジジイって、玉也さんとはまた違う絶妙なラインを突いてくるよね。オタッシャ感が芝居がかった方向にいかず、かと言って玉男さんとは違って元気すぎず、妙にリアルで、「い、いる、こういうジジイ……」感が炸裂している。だって、これ見た帰り、交差点でこうやって腰伸ばしてるジジイ、いたもん……。まじで……。
そうなのよ、時々やる腰伸ばし動作が異様にリアルだった。できるだけ元の姿勢を崩さず微妙に腰伸ばしをする省エネ感のジジイオーラはんぱない。「本人がこうやっとるんか……?」みたいな怖さ(?)がある。もしくは、玉輝さんが長年、師匠やら先輩やらの数多のジジイを見続けてきた結論なのか。
あと、毎朝オロナミンCに瓶詰めの岩のりを溶かしたものを飲むとかの、謎のオリジナル健康法をやっていそうな感じがした。

おのぶ〈吉田一輔〉は、土瓶と海老茶色の風呂敷包み(お弁当?)を手にパパのもとへやってくる。幼く朴訥なおのぶは、一輔さんの元々の方向性と非常に適合していた。一輔史上最大のバチはまり(?)。所作で芋さが出ているのが良い。芋演技って、技芸自体が芋なのとは違うので、意外と難しい。町娘の「おぼこ」とも違っており、ミラクルを感じた。
素質に頼れないところに、いま一歩の踏み込みがあるといいと思った。一旦家へ帰ろうとしてわらじの紐が切れるところ、プログラムの解説を読まなければ、「わらじの紐が切れた」とはわからない。単に「足元に落ちていた誰かの忘れ物のわらじに気づいて、持って帰ろうとしている」というように見える。紐が切れたことを姿勢で見せ、また、一抹の違和感や不吉さを感じさせて欲しい。そして、「逆井村」あるいは第二部を含め、同じ演技の繰り返し感が相当に強いので、単調さを防ぐべく、もう少し工夫があるといいなと思った。子供なので行動が単純ということ自体はいいけどね。

与茂作の義兄の庄屋・七郎兵衛〈吉田玉也〉は、ヨボヨボ感のないさっぱりとした老人演技。少しおっとりめの所作だが、動きは軽く明るい雰囲気だ。一般の百姓である与茂作との対比、おツメ百姓たちに頼られており代官にも反論できる庄屋らしさのコントロールが上手い。まゆげの動きが可愛かったのが個人的にはお気に入り。「ひるめしどきじゃ〜」みたいな場面で、ふと上手のやや上方に目をやるとき、なぜまゆげを下げる!? 太陽が眩しい!? 老眼!? 台七からおのぶを囲って守るときは平行まゆになっていたのも良かった。そこで止めるまゆ位置あるんだ、と思った。

台七〈吉田玉勢〉の「まあまあエライ立場なのにしょうもない小物」感は良かった。動きが軽いのは意図ではないと思うが、役に対して良い方向に出ている。ただ、ご本人の真面目さが災いして、嘘泣きが本当に泣いているように見える。やたら大げさに芝居がかるなど、嘘泣きであることがもっとわかりやすいほうがいいのでは。

床〈豊竹藤太夫/鶴澤清友〉の演奏では、緊迫感ある場面でまったく緊迫感がない喋り方のおツメ百姓ズが良かった。百姓ズは鍬や鋤で武装していて見た目は結構怖いのだが(あれ振り下ろされたら「死」だろ)、どんくさげでマイペースな様子が可愛い。喋り終わるまで待っている七郎兵衛も良かった。

 

段切では、村人が与茂作の遺体を運んでゆき、七郎兵衛とおのぶが去っていくところで床の演奏終了。そのあとは三味線のみ御簾内演奏で、台七が田んぼから天眼鏡を掘り出すさま、それを覆面姿の怪しい男=宇治兵部助〈吉田玉志〉が奪っていくさまが演じられる。無言は舞台用の演出で、原作では以下の文章が存在する。

早黄昏の。畦道を。うそ/\戻る志賀台七。辺り見回し見覚えの。深田押し分け件の鏡。忝しと押し戴く。後へぬつと忍びの曲者。鏡もぎ取り台七が。脾腹を一当て一散に跡を。晦まし
(「逆井村」冒頭、「行く空の」へ続く)
『新編日本古典文学全集 77 浄瑠璃集』小学館/2002 より

宇治兵部助のかしらが文七なのは意外だった。原作を読むと、兵部助は策略家であり、知的でシャープなキャラクターのため、観る前には孔明かと思っていた。しかし、兵部助は全段通しての主人公だし、モデルは由井正雪なのでいわゆる「国崩し」。そのあたりを考えると、文七というのもなるほどと思った。
ところで、玉志サン、今月もまた「俺は絶対に声を出さない」系のムーブやってる?

しかしこの部分、演出が5月の『競伊勢物語』とほぼ同じ。似た演出のあるものを2公演連続で並べるのは無配慮では。
ただ、わらじが普通の人形サイズになっていたのは良かった。ケロヨンが国立劇場の周囲にご生息遊ばされている「本物」の方と同じサイズなのも良かった。
お囃子の蛙の鳴き声は義太夫にかぶりすぎないよう演奏して欲しい。音が義太夫の邪魔という意味ではなく、音を出すタイミングが太夫の発声と一致しすぎていて、客席への鳴き声の聞こえ方が中途半端ということです。

 

 

 

逆井村の段(五段目)。

人形出遣い。
舞台上手に木の物置小屋、中央〜下手に在所家の屋体(もちろんわらびのれん)、上手に一間、障子のキワにクソボロ枕屏風。大道具の構造自体は『楠昔噺』徳太夫住家と同じだろうか。

文楽には珍しく(?)、ほうれんそうが行き届いている(??)内容。在所、父の死、身売りした娘、その婿など、『仮名手本忠臣蔵』の六段目に近い立て付けだが、ほうれんそうが出来ているので行き違いは起こらず、普通に「承知しました」でことが済み、致命的悲劇に陥らないのがつまらない(???)。しかし、登場人物たちそれぞれの優しい雰囲気が出ていて、そこは良かった。
※なお、ほうれんそうが行き届いているのは三人遣いだけでなくツメ人形までもがそうで、与茂作の遺体を運んできたあと、お寺へ連絡しとく?と言ってくれる。六段目なんか、与市兵衛の死体を運んできたらそのまま速攻帰ってくのに!

 

非常に良かったのは、おさよ〈吉田簑二郎〉。
簑二郎さんの“普通の人”役は、「心の弱さの肯定」があるのが良い。おずおずとしていて大人しく、臆病で、ただ普通に暮らしたかっただけの人というのが素直に、美しく出ている。それがネガティブに映らないのが良い。
「心の弱さの肯定」といっても、意図的にそう演じているのではないと思う。ただひたむきに役に取り組む簑二郎ご自身のどこかにある臆病さが、この役に優しさとほのかな輝きを添えているんじゃないかな。それを私(観客)が美しいものとして感じ取っているということだと思う。
簑二郎さんは第三部・浜夕も代役で演じていたが、この老婆二役が良い結果に結びついたのかもしれない。いかにもわかりやすく演じ分けられているわけではないが、それぞれの老婆の抱いている心配や悲しみの違いが柔らかく出ていたと思う。いずれも簑二郎さんの優しさや小さな人への慈しみが出ていて、とても好き。

谷五郎〈豊松清十郎〉は、真面目そうな雰囲気、清十郎さん持ち前の清涼感や遣い方としての目線の正確さは良かった。しかし、「すっきりと水際立った美男子」という佇まいにはなれていなかった。というのも、かなり姿勢が崩れていたためだ。足に怪我をしていて、ややかしいだ体勢で歩く人物だが、そういうことではなく、上半身の姿勢や着付が非常に不自然。後半にぶっ返しをする仕掛けがあるので衣装が多少もたつくのはあるにしても、上半身が提灯状に膨らんでしまっており、かなり不自然だった。そのためなのか、人形の姿勢が常に崩れている状態。あとから出てくる兵部助は人形の姿勢がスーパーシャッキリしているため、悪い意味で違いが出てしまっていた。本来は、美丈夫(谷五郎)と智将(兵部助)という対比が出て欲しいところだ。物語の部分でのかしらのぐらつきや所作のもたつき、動きにつれた体幹のブレも非常に気になる。
ぶっ返しの仕掛けがうまくいくかどうかは、清十郎さんに関してはあまり気にならない。なんなら失敗してもかまわない。清十郎さんには、そういった表面上の派手さとは関係のない、役そのものの本質へおよぶ魅力があるからだ。ケレンに力む必要なんてなく、まっすぐに客席を向いて人形が決まれば、それだけで涼やかな華やぎを出せる人のはず。その分、普通の場面での姿勢の崩れは非常に残念だった。

最後に登場する宇治兵部助はかなり上品な印象に寄せている印象だった。
玉志さんは兵部助を上品な大人物(だいじんぶつ)のイメージで仕上げているようだった。品格の高い武将のようなイメージで、かしらを大きく繰ることはせず、わずかなあごの動きのみで表現。衣装は「寺子屋」後半の松王丸とほぼ同じなので見た目はやや豪壮だが、所作は落ち着いていて美麗。会期当初はかなり繊細な雰囲気にしていたが、後半は振りにゆとりを持たせて動作の軌跡をやや大らかに表現しており、軍術家的な雰囲気へわかりやすく落としていた。大人物感につられて(?)、軍扇をかかげる演技に拍手が発生していた回があったのはちょっと面白かった。いや面白じゃなくて玉志さんの実力ですが。最後に出てきて話をかっさらうおいしい役といえど、そこだけでしっかり決めなくてはいけないので難しいと思うが、うまくいっていた。
それにしても、気品がバキバキに浮いている。お前誰やねんというほど気品にあふれている。この気品がまた貫禄じゃなくて高貴さに寄るのが「玉志〜」って感じだった。本来張り合うべき谷五郎がかなり乱れた状態になってしまっているのと、配役&設定上、ほかの人は素朴系なので、相当に温度感の違いがある。宇治兵部助は楠正成のご落胤のため、一種のプリンスの部類とも言えるが、うーん、玉志天然由来成分1000%配合、と思った。優美さが突き抜けているため、相対的に色気があるように感じられたのも良かった。
玉志さんは、人形に重量感が出るようになってきて、良かった。腰から演技するようになってきたと思う。人形の位置が高くスラリとした雰囲気に持っているので、颯爽とした清潔感があるままなのが良い。
あと、今回、じっと見ていて、玉志さんが納得いく足の位置がわかった気がした。

↓ 宇治兵部助の衣装。プログラムに写真が載っていなかったのと、国立劇場ウェブサイト等に舞台写真が出ていないので、記憶のみになりますが、描いてみました。それにしても、由井正雪って絶対この髪型だよな~……。
なお、田植〜逆井村の登場時点では、頭巾を被っています(これも寺子屋2度目の出の松王丸と同じ)。

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「逆井村」は話がどうにも冗長であるところ、舞台として散漫にならなかったのは、千歳さんという、深刻ぶらずに重量感を出せる人が語ったおかげだと思う。ストレートさが良い方向に出ていた。小賢しさや脂臭さがまったくないところは、千歳さんのおおいなる美点だと思った。会期当初は声の調子が悪そうだったが、取り戻せて良かった。

 

 

  • 義太夫
    • 田植の段
      口=豊竹咲寿太夫/鶴澤友之助
      奥=豊竹藤太夫/鶴澤清友
    • 逆井村の段
      中=豊竹靖太夫/野澤勝平
      切=竹本千歳太夫/豊澤富助
  • 人形役割
    庄屋七郎兵衛=吉田玉也、志賀台七=吉田玉勢、家来丹介=吉田玉路、百姓与茂作=吉田玉輝、娘おのぶ=吉田一輔、家来貫平=桐竹勘介、宇治兵部助=吉田玉志、女房おさよ=吉田簑二郎、百姓七助=吉田玉峻(9/12?〜20休演、代役・吉田玉路)、女房おうね=吉田玉延、金江谷五郎 後に 勘兵衛正国=豊松清十郎

 

 

 

第一部は非常にバランスのとれた舞台となっていた。内容上、かなり「素朴な感じ」に転びそうなところ、要所要所に物語を締められる人が配役されていたため、文楽らしいエッジがあるのが良かった。ドラマが薄いわりに構成がくどいのを出演者の力量でカバーしているという印象で、ちゃんとした人で固めてるだけのことあるわと思った。キレはありつつも、ためにする深刻さや無駄な力みはないのが好ましい。登場人物の人柄はそれぞれの役に沿った表現になっており、愛すべき人々となっていた。

太夫の演奏について、藤太夫さん・千歳さん共通で、娘役(おのぶ)の喋り方はあらためて課題だと思った。具体的には田植は老けすぎており、逆井村は幼稚すぎる。おのぶの年齢(精神年齢含め)は、一輔さんが演じている通りだと思う。第二部になると適齢になっていたので、通しで観ると、喋り方のムラに違和感がある。直してもらえんかねぇ。

 

第一部の番組それ自体は、通しにせんがためにやった段のみという印象が強い。あの有名な場面の前に実はこんな面白い話があった!ということならよいのだが、わざわざ「部」として立ててやるにはさすがに厳しいんとちゃうか……。『妹背山』でいう井戸替のような在所独特の風俗が描かれていて、のんびりした話であること自体は面白いんだけど、あくまでド派手な「新吉原揚屋の段」と一緒に上演してこそ映える話かなぁ……。出演者の技術力がわかるリテラシーを持っていないとどこをどう見ればいいのかわかりづらいし、相当文楽が好きな人向けの部だと思う。個人的にはこういう演目(在所ネタ、稀曲)は好きだが、ストレートに客入りに反映されるなと思った。

 

かしら割についての疑問。
与茂作とおさよは老けすぎではないか。いえ、あの姿はあくまで観客から見た「父母」のイメージでであることはわかっております。そして、あとあと宮城野が出てこれば、「父母」として違和感ないことも。しかしこの部、おのぶしか出てこないから、あの老いぼれ感溢れる見た目でおのぶのような10代前半の娘がいるとなると、江戸時代の高齢出産って大変そう、いまみたいに高齢出産に対応できる医療が発展していない時代は、お客さんみんなどう思ってたんだ……? めでたい感があったとか……? とどんどん頭の中が飛躍していった。
もうひとつ不思議に感じたのは、与茂作のかしらが武氏であったこと。前身が武士で、今でもかなりもの堅い性格というわりには、野卑じみすぎているように感じた。武氏は、優しそうなのはいいんだけど、水飲み百姓丸出しすぎる。たとえば正宗もしくは舅など、見た目からして少し上品めか、武士に寄せたほうが合う気がしたが……。それとも、彼の見た目の卑しさは、この世で一番悲惨なこと、すなわち貧乏がさせるものということなのだろうか。

脚本の問題としてよくわからなかったのは、たまたま見つけた価値もわからない鏡について、与茂作がなぜそこまで台七(代官)に楯突くのか。口論は挟まず、与茂作が見つけてしまった時点で台七が背後から斬りつけるほうが話がスムーズじゃない? もしくは、台七が元々住民に疑念を感じられているとわかる要素が必要なのでは。
そしてもうひとつ、ちょっと不思議なのは、おさよの兄は庄屋ということ。つまり与茂作は武士時代に百姓の娘を妻にもらっていたということだが、おさよの実家はかなりの大百姓か郷士なのか? どちらにせよ与茂作の武士としての格式はそこまで高くないということだと思うが、和生さんの宮城野は大名のお姫様が傾城になったかのようなすさまじい品格なんじゃが(突然批判が和生に飛び火)。

 

 

 

文楽 9月東京公演『奥州安達原』国立劇場小劇場

公演開始当初、朱雀堤から貞任物語まで2時間31分ぶち抜きのタイムテーブルになっており、客の膀胱を破裂させる気かと思った。*1

 

 

 

第三部『奥州安達原』。

先にトータルでの感想を書くと、「現状の文楽で素直にこの演目をやると、こうなるのか〜」と思った。それぞれの人が素朴にやった結果がそのまま素直に出ている。まったくもってダメとは言わないし、いつもの通りっちゃいつもの通りだけど、今回はそれが象徴的に出てしまっているように感じて、現状追認を重ねていけば、そらそうなるわな……と思った。
ナンダカナーという印象の原因そのものでいうと、配役が大きいと思う。この演目に求められる役の性質にバチはまりの人がひとりもいなかったのが最大の理由だろう。でも、それをそのまま追認するのかという問題がある。向き不向きがあるのはあたりまえで、その適性を乗り越えたものを見たいのだが、これもまた、できる人とできない人(それをやろうとする意志がない人)がいる。ファンとしては、そこで踏ん張ってもらいたいのだが……。

不満点をもう少し詳しく書けば、それぞれの役割において、物語の核心に向かうベクトルが、舞台総体として一点を指していない印象だった。凝縮感がなく、浄瑠璃の原文にあるような、因果と運命が重なり合ったそのどん詰まりにあるうねりや濃厚さが失われている。「物語の核心に向かうベクトル」を作り出すのは、難しい。技芸や研究が不足していてできない人がいるのはもちろんそう。しかし、もともとそれを重視していない人もいる。

 

今回の上演でいうと、先述の「物語の核心に向かうベクトル」を指向しなかった最大の役は、袖萩だろう。
以前「袖萩祭文」を見た際の袖萩は、清十郎さんだった(2017年1月大阪公演)。彼女の巻き込まれた運命的悲劇、かつての優美さといまの落魄、しかし心の美しさは汚れることはなく、身なりがどうなっても父母や娘、夫への愛の純粋さは消えないという、袖萩という人物そのものの表現としては、清十郎さんのほうがはるかに上手(うわて)だと思う。
でも、これが一概に「独りよがり」とは思えない。

袖萩に零落感や悲哀、寒々しさがないのは、一種の割り切りだと思う。本来の袖萩の表現は自分にはできないと判断して、そのうえで、違う方向(=芝居として期待される見応え)を追求しているのではないか。直近であった『生写朝顔話』の朝顔役のほうがまた哀切に寄せていた。朝顔よりさらに落ちぶれている袖萩をこうするということは、さすがに確信的なものがあると感じる。
やっぱり、人形遣いには、人形の感情を表現しようとする人と、人形の動作を表現しようとする人がいるんだと思うわ。勘十郎さんはそのうち、人形の動作を表現しようとする人で、その点をもっと評価すべき(批評すべき)だと思う。勘十郎さんのお父さんは、「人形の動作を表現しようとする人」だったのだろう。ただ、「人形の感情を表現しようとする人」であった初代吉田玉男が時代と感覚を変えたために、その方向性は忘れられているだけで。勘十郎さんはその文脈を復活させたいんだと思う。しかし、手順通りやってますとか、手数を増やして派手に見せますというだけではもう時代は許さなくなっていて、そこをどうするかの問題がある。そのひとつの答えは、簑助さんが出したと思う。勘十郎さんはそれとは違う答えを出す必要があるだろう。

また、これは、客席を鏡写しにしたものでもあると思う。周囲をぐるっと見回して、舞台の責任は誰がもつのか? 誰が見応えや見栄えを担保するのか? 舞台人は客に何を提供するべきなのか? そもそも、「客」とは何者なのか? 勘十郎さんの考えるそれらの答えが、この袖萩なのではないかと思った。客が求めているのはこれであって、その意味では、理解できる判断だ。客席の顔色を見過ぎなのは欠点だと思うが、今回は仕方ない。最近私が勝手にやっていた勘十郎研究の、ひとつの結論を得た感じがした。(なんの話?)(すべて私が勝手にやってることの話)

 

そういうわけで、袖萩はもうこういうことにしかなり得ないと思ったのだが(これぞ「客」としての現状追認なんですが)、ただ一番の問題は、無自覚に放埓な感じになっちゃってる役がいくつかあることだと思う。

私の第三部一番の疑問は、「傔杖〈吉田文司〉はこれでいいのか?」という点。どのようなう傔杖像を描きたいのか、よくわからなかった。この話、袖萩より貞任より、傔杖に一番の描写力・表現力が求められる演目のように思う。そのうえで、心情表現、身分表現、間合いの取り方、道具の扱い……、いろいろと思うことが多かった。キッチリ詰めて、物語を引き締めて欲しかった。文司さんがちゃんとやってないとは思わないが、もうちょっとやりようがあったんじゃないかと思う。ハマり役以外の意外な適合では『鶊山姫捨松』の岩根御前は良かったということもあるし、もうひとつ踏み込んで欲しかったな。

 

 

 

以下、個別の感想。
『奥州安達原』のあらすじや概要は、以下の記事にまとめました。

 


朱雀堤の段。

「朱雀堤」は、「しゅしゃかづつみ」と読むそうです。
2017年1月大阪公演では出なかった段。殺風景な河岸の景色、舞台中央に蒲鉾小屋(密)。非人たちが暮らすこの朱雀堤に、高貴な人々がやってくるおかしみと、悲劇の序章となる偶然の邂逅を描いている。端場扱いで、人形は黒衣。

 

袖萩〈桐竹勘十郎〉はかなり栄養状態がよさそうだった。そこらを走り回ってるネズミとか、河原の木に住んでる鳩の卵を取って食べてそう。以前、最高裁の横を歩いていたらドブネズミが激走、していたが、ああいう、、のを食べてた、のカナ🐭😅⁉️おぢさんは、ジビエ🦌🔪、はチョット肝炎が、、怖いカナ🤮😱⁉️よく、加熱🔥してから、、食べてネ🍗😁❣️と思った。
段切は義太夫に動き(足拍子)をはめすぎでは。心中物で立ち役と抱き合ってやるようなはめ方になっていたが、この段はそういうタイプの感情の高まりではないような気がした。でも、仕方ないことのような気がする。勘十郎さんって、自分自身のために行動する役の感情の高まりの演技は本当に素晴らしいんだけど、誰かのためにどうこうという役だと、何に対して激情しているのかが不明瞭になる傾向がある。袖萩は自分以外の人のことに必死になれることが美点の女性なので、たとえば朝顔なんかよりも適合しにくいんだろうなと思った。

恋絹〈桐竹紋臣〉は、太夫(最高位の遊女)であることをあらわす立兵庫を結っているにしては、やや真面目で品のある雰囲気の所作。いまは廓を脱走して一応パンピーだからなのか、それとも恋絹の本来の身分を表現しているのか。ただ、傾城のかしらを持ったことのないような人が、よくあの重量に耐えて、胴を潰さず、まっすぐ立って、まっすぐ前向いていられるなと思った。頑張ってもらいたいです。

男性の非人3人組、巧い。かさの次郎七〈吉田玉誉〉ととんとこの九郎〈吉田玉彦〉、なんでおまえら身分が高い役より所作がしっかりしとんねん……。ちゃんとしてるわ……。アル中の六〈桐竹亀次〉はまじでアルコール中毒感溢れる所作に不安を覚えるが、全登場人物のうち、ひとりだけ、本当に寒そうな演技をしていた。両方の二の腕を抱くようにして首をすくめ、軽く震える所作を一瞬入れるだけだけど、次以降の段を含めても、もっとも季節の雰囲気が出ていたと思う。先に言ってしまうが、「袖萩祭文」、だれ一人としてまったくもって寒そうに見えなかったので…………。なお、この非人の六を語っていた津國さんが新境地の怪演で笑ってしまった。怪演というと色物のようだが、文芸映画に出ているときの西村晃のような昭和の名バイプレイヤー的な巧さというか……。こういうおっさん、場外馬券売り場の近くにいるよね。あと、競艇場行きのシャトルバスのバス停の前とかにも。と思った。
どうでもいいが、六が頭陀袋から取り出す木のお椀、うちにもある。と思った。ただ、詞章で「欠け茶碗」とあるのに木のお椀なのは、違和感がある。違和感といえば、非人3人組はボロ着のほか人形の顔にも汚しが入っているが、袖萩とお君だけ妙に小綺麗なのは、芝居といえど違和感があった。


上記は「良かったところ」だが、この段、全体的に、正直言って、相当にとっちらかっていた。一体なにがどうなってこのあとの物語につながっていくのか、まったくわからん!!!
人形は、人形黒衣だと、実力がはっきりわかる。年齢、芸歴、番付の順位に関係のない上手い下手、センスのあるなしが見えてしまう。当然、ちゃんとしている役もある。しかし、「ちょっと……」という役が「ちょっと……」すぎる。人形の構え方がおかしくて胸に目がついているんか?っていう動きの役があったり、人形じゃなくて人形遣いが演じてしまっている役があったり、感情の変化が表現できていない役があったり、どうすんだこれ。

床は、全般としては、あらすじ説明状態だった。あらすじはプログラムに3回も繰り返して載ってるんで、それ以上のことを頼むッ! 掛け合いの間合いのおかしさは非常に気になった。人形の若いモン、ついてけてへんがな。日程中盤以降はだいぶ軌道修正されたが、初日時点からなんとかしてくれ。

 

 

 

敷妙使者の段〜矢の根の段〜袖萩祭文の段〜貞任物語の段。
ここから人形出遣い。

 

中納言則氏実は安倍貞任は、玉男さん。
なんだ、この強そうな公家は……。則氏は子供の頃から東北に流配されており、都の貴族の教養を身につけてはいない無粋者という設定。それはわかるが、直前に「熊殺しの段(体長3mのヒグマを背負い投げする話)」があってもおかしくないほど強そう。公卿姿をしている場面でも相当のごん太ぶりで、いや素襖姿で「ごん太」と言えるほどに自然な安定感をもって遣えること自体はまじで奇跡なのですが、かなり、相当、一癖ある感を醸し出していた。床は高く平坦なトーンのいわゆる普通の公卿調になっており、一癖を覗かせる部分がなかったので、逆にバランスがとれていた。また、「鷹揚」としか表現できない鷹揚さに満ちているのも不気味だ。元々、キョトつくことがないキャラクターであるが、宗任が投げてくる矢にもほぼリアクションをしない。あまりにしなさすぎて、宗任がちょっとビビりに見えた*2
玉男さんが極端に公家に寄せていないのは、勘十郎さんが袖萩を零落に寄せていないのと一種同じことだと思う(程度問題はありますが)。貞任は、武将の正体を顕しても喋り方や行動が結構上品で、優美さが強い役のため、本来はどちらかというと玉志さんのほうが適合する役だろう。
では、玉男さんがこの役をやったうえでの「貞任らしさ」とはどこに出ているのか。それは、正体を顕したあとの、凍てつくような強靭さだと思う。巨大な氷柱のようなイメージ。玉男さんにしてはかなりスッとした佇まいで、かつ、強度の高い透明感があるのも、今回の見所だった。
また、大きな動きの端正な美しさも挙げられる。貞任は、松王丸等とは異なり、後半は感情をおもてに出すキャラクターだ。動きもはるかに多い。体を弓なりに大きく張らせて腕をぐるりと回す動きのダイナミックな端正さは、玉男さんならではのもの。これはほかの誰も真似できないだろう。器械体操のような、身体の躍動の美しさを感じる。この動きの独特の派手さがいきるのは、公卿姿のときの一種不気味な静かさゆえだと思う。

今回の上演で非常に残念だったのが、段切。貞任と宗任が同じ振り付けになるところ、まったく揃っていなくて迫力が出ず、意味不明になっていた。この演目、ほかにも義家と宗任が視線を交わす場面があるけど、そこもまったく揃ってなかった。これらが揃ってなく見えると感じたのは宗任の演技の曖昧さが理由だと思う。チャレンジ配役もいいけど、それならそれでなんとかしてくれ玉男様。(玉男様?)
ちなみに、初代吉田玉男の談話によると、人形で二人揃って演技をする際、ドッチがドッチにタイミングを合わせるかは、立ち位置で決まることになっているそうです。具体的には、上手の人が下の人にタイミングを合わせる慣習になっているとのこと。なぜならば、下手にいる人形遣いからは、相手役人形とのあいだに自分の左遣い・足遣いが挟まって見えにくい。上手にいる人形遣いだと、自分の下手側はあいているので、視界が広いからだそうです。役や本人の格付けの順番ではないんですね。上演中に余計なことをまったくしない玉男様にしては珍しく「チ…ラ…」👀としているなと思ったら、そういうことなのね。

 

敷妙に配役されていた勘彌さんが全日程休演のため、代役で簑二郎さん。あらかじめわかっていたであろう代役だと思うが、初日は「大丈夫かっ!? ミノジロオ、緊張しとんのか!?!? 背中バンしたろか!???!??!!」という感じだった。この無駄に力が入った硬い調子、所作がバタバタしてしまっており、そのままだとかなり厳しいと思った。ところが、中盤にはそれがクリアされ、簑次郎さんらしい真情ある老婆になっていて、とても良かった。門の外で袖萩たちが震えているのを、傘をさして見守る(しかし決して袖萩たちのほうを見ているわけではない)場面、打掛を投げかけてやって、傘をすぼませ涙を見せないようにして立ち去る場面などは、簑二郎さんらしい実直さがあって良かった。

八幡太郎義家は玉佳さん。玉佳さん、あの衣装*3の役、うま過ぎじゃね……? 源氏の貴公子のプロか……?? タマカ・チャン、実は、苗字、「源 MINAMOTO」……?????
キラキラした貴公子感と武張った佇まいのバランスが絶妙すぎ。このなんともいえない凛々しく力強い塩梅、頭で考えていては出てこず、舞台の実演でにしか出現しないニュアンスだと思う。所作のスピードコントロールや止めの強さによるものだと思うが、確実に一発で止める点、そして姿勢の綺麗さが素晴らしいです。本当にあのかしらや衣装にちょうどいい塩梅。無骨であっても決して粗野に転ばないのも良いですね。すね毛処理してそう。
なお、タマカ・チャンがここにいるということは貞任の左はタマカ・チャンではないということなのだが、頑張れッ!!!!!!と思った。

敷妙〈吉田清五郎〉は、やはりと言うべきか、清五郎さんらしい清楚な美女だった。カルディで売っとるポメロジュース*4のような高度のある爽やかな香気。この人には不思議な色気がありますな。「色気」って、かなり抽象的かつ恣意的な言葉なので、頻出するわりにはかなり怪しいワードになっていると思う。文楽でよく聞かれる批評用語でいえば、「大きく遣う」の仲間的な。発話する人の感性がおおいに試されるのは間違いないだろう。自分はあまり使いたくない言葉であるが、しかし、清五郎さんと勘彌さんには使いたいですね。(あとカス男役のときの玉男様)

 

清治はうまいッ。と思った。
いや清治が上手いんは1億年前から全員知っとるがな。恐竜は清治のうまさを理解できなかったから絶滅したんじゃ。なんですけど、今回の「袖萩祭文」は清治さんの良さがより克明だった。曇天に雪がちらつく寒々しい空気、表面上だけ美しい空虚な御殿の様子、娘を気にする老父と老母の悲しみが華麗に表現されていた。華麗といっても虚飾ではなく、暗く凍てつく風景の情景の美的表現。なにより、垢抜け感がすごい。この演目でここまで垢抜けてる必要あるか?というほどの垢抜け感。演者の自己主張という力みがない。いや清治は清治で謎のオリジナリティやその時々の揺らぎを時折覗かせてくるんですけど、巧すぎてそれが鼻につかないというか……。清治さんはやはりすごいなと思った。
呂勢さんは演目に対する声質的なキャッチはいいけど、さすがにメリハリがなさすぎでは。特に浜夕の嘆きの表現、三味線は涙が喉につまるような抑揚がついて感情豊かであるにかかわらず、なぜ平坦に声量大きめでやっているのか、かなり疑問。声量や発声のしかたが平坦すぎるのはいままでもその傾向があったけど、今回はちょっといくらなんでもと感じた。祭文の部分も単調で、「哀れな弾き語り」には聞こえづらい。短くてシンプルな曲なので、音曲的に客を飽きさせないテクニックも必要だと思う。今回の状態は、いろいろと、かなり、首をかしげた。
「貞任物語」は錣さんにももうひと押しして欲しかったな。初日は錣さんにしては本人の最大の特徴のはずの物語の構成設計、浄瑠璃の緩急がまだらになってしまっており、大丈夫かと思ったが、中盤にはだいぶ造成されていた。ただ、錣さんは、どちらかというと、袖萩祭文のほうが向いている(もしくは袖萩祭文から通して語ったほうがいい)のだと思う。人間の普遍的な感情描写に味があり、貞任物語のような、ある意味テンプレ的な表現が要求される段は、方向性がちょっと違うと感じた。袖萩の人形が清十郎さんなら、また違うとは思うが……。でも、いままでのご本人にない新しい段が来て、それへの葛藤が(少なくとも私の中には)発生したというのは、よかった。これまでは、たとえ寛治さんが弾いていたときでも(だからこそ)こういうチャンス自体がなかったわけですから。頑張っていただきたいと思った。

 

総体として、床も人形も、物語の背景となる寒々しい雰囲気がわからない状態だった点は、残念。舞台効果で紙の雪を降らせても、寒いと思えない。この演目は、気温や天候といった場の空気感が高い演出効果を果たしていると思うので、しっかり押さえて欲しいと思った。
また、登場人物の身分や、舞台がどのような場所であるかがわからないのも気になった。現状だと、ぱっと見た人は、傔杖は普通の意味での武士で、あそこは傔杖の自宅だと思うんじゃないでしょうか。

 

 

 
 
 
 
 
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道行千里の岩田帯。
このあとの段を上演しないなら、いらないと思う。(正直発言)
この人形の振り付けって、もう相当にいろんな演目を踊り込んで、もうやることがなくなった枯淡な大名人(だいめいじん)向けのもののような気がした。

ただ、今回見て良かったなと思ったことは、紋臣さんは、自分が型から入るのを自覚していて、変わっていこうとしているんだろうなと感じたこと。ガワを固める意識が強い人だと思う。それは型の意味を考えているとか、古典の継承の意識が強いという美点ではあるけど、欠点にもなりかねない。それに自覚があるがゆえに、今回の恋絹をこう踊っていたのではないかなと思った。

床は〜、もうちょっと〜、工夫を〜、しよう〜。と思った。錦糸さんはよくここまでキッチリ演奏するよな。やはり矜持があるのだ。

 

 

 

  • 義太夫
    • 朱雀堤の段=袖萩 豊竹芳穂太夫、傔仗・生駒 竹本津國太夫、八重幡姫・恋絹 竹本碩太夫、瓜割・次郎七・九助・家来 竹本南都太夫/鶴澤清志郎
    • 敷妙使者の段=竹本小住太夫/鶴澤清𠀋
    • 矢の根の段=竹本織大夫/鶴澤藤蔵
    • 袖萩祭文の段=豊竹呂勢太夫鶴澤清治
    • 貞任物語の段=(切)竹本錣太夫/鶴澤宗助
    • 道行千里の岩田帯=豊竹睦太夫、豊竹希太夫、豊竹亘太夫、竹本碩太夫、竹本聖太夫/野澤錦糸、鶴澤清馗、鶴澤清公、野澤錦吾、鶴澤清允

  • 人形役割
    袖萩=桐竹勘十郎、娘お君=桐竹勘次郎、かさの次郎七(服が与次郎みたいな柄のヤツ)=吉田玉誉、六(頭陀袋下げてるヤツ)=桐竹亀次、瓜割四郎糺=吉田玉翔、八重幡姫=吉田文昇(9/3-7休演、代役・桐竹紋吉)、平傔杖直方=吉田文司、志賀崎生駒之助=吉田簑紫郎、傾城恋絹=桐竹紋臣、とんとこの九助(顔が食パン1斤みたいなヤツ)=吉田玉彦、妻浜夕=吉田簑二郎(吉田勘彌休演につき、全日程代役)、敷妙御前=吉田清五郎、八幡太郎義家=吉田玉佳、桂中納言則氏 実は 安倍貞任=吉田玉男、外ヶ浜南兵衛 実は 安倍宗任=吉田玉助

 

 

文楽は本(浄瑠璃の戯曲としての文章)が大事というが、みんな、本当にそう思っているのだろうか? そう思っていない人が結構いるんじゃない? でも、それならそれで、現状追認ではなく、別のアプローチを考えるべきだ。これは以前にも書いたことだけど、勘十郎さんにはその問題意識があって、それをやっているのだと思う。その意味では非常に誠実。なんも考えてないのとは違う。

客側、いや、正確には自分自身もまた、「今のこの舞台が本の内容に合っている」と、現状に対して本を引き寄せて解釈するのはやめたほうがいいと思った。たとえば陰謀論にハマった人の行動としてよくある、あらかじめ用意された結論に対して都合のいい「真実」をより集めてコラージュして、「やっぱり本当だった!」とやってしまうこと、舞台鑑賞にも起こりうると思った。だんだんそういう方向に引き寄せられていく自分に気づいて、怖くなった。他人ごとではない、自分こそが一番これをやっているのだ。

 

舞台自体の話に戻ると、細かいところでは、「マナー」的な部分が気になった。
まず、介錯が人形の前を横切るのはやめて欲しい。横切るなら、客席から見えない低さまでかがんで欲しい。這え〜! 這いつくばれ〜!!! 地下帝国のように〜!!!!! ほかの部でも、演技をしている人形の前に突っ立ってしまっている別の役の左がいたが、客の目線がどこに向いているかの意識がない人がいるのかな。久々に更新された清十郎ブログによると、複数の休演者が出た影響で取り回しが大変だったようだが、いくら忙しくても舞台上はバックステージではないので……。一生懸命やっているのはわかるので、師匠や先輩が「そこにおったらあかんで」と教えてあげて欲しい。
そして、床で、「自分の番」じゃないときに客席をキョロキョロ見ている人がいるのだが……、客席を見たい場合はチケットを買って、次の段から客席へ入ればいいと思う……。客席を見回しているのはいつも同じ人だけど、そういう人って、客が結構床の様子を見ていることに気づいてないのかなと思った。お客さんって、みんな、「演奏以外」も「ちゃんとやってるか」、細かくウオッチしてますよね。

 

番組編成について、今回、「一つ家の段」が出ない番組編成になっているのを残念に思っていたが、実際の舞台を見ると、現状、正味な話として「一つ家」はできないだろうなと思った。冒頭と末尾に「微妙」な段を置くのは、見応えがそがれるから、やめて欲しい。

 

 

 

 

 

*1:数日後に変更がなされ、朱雀堤のあとに20分休憩が入った。当たり前だ。

*2:最初に義家が矢を投げるときに顔をそむけるのが、ちょっと早すぎ&動作が大きすぎるので。

*3:最後に着ている、鎧の上に緑の半透明なのを羽織ってる役。具体的には『一谷嫰軍記』熊谷陣屋の義経

*4:「ポメロ」という柑橘類を使ったパックジュース。苦味のないグレープフルーツって感じの味で、まじうま。カルディのほか、ナチュラルローソンでも取り扱っているところがあるようなので、永田町から国立劇場行ってる方は、平河町森タワーレジデンスのナチュロ寄って探してみてください。私も今度見てみます。