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文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

早野勘平の「過ち」[文楽 9月文楽鑑賞教室公演『二人三番叟』『仮名手本忠臣蔵』山崎街道出合いの段、二つ玉の段、身売りの段、早野勘平腹切の段 江東区文化センター]

今年の鑑賞教室東京公演は、「勘平腹切」。
今回は具体的な舞台パフォーマンス分析・感想だけ書くには難しい状態だったかなと思うので、「そもそも『勘平腹切』とは何を表現すべき演目なのか」という自分自身の考えと、素直感想の2本立てにしてみました。ご興味のあるほうからお読みいただければと思います。

 

 

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早野勘平とはどんな人物か

『仮名手本忠臣蔵』山崎街道出合いの段〜早野勘平腹切の段(五〜六段目)は、戯曲文学としては「最高傑作」に近い作品だと思う。私は、浄瑠璃という文化の頂点を飾るのは『一谷嫰軍記』「熊谷陣屋の段」、『義経千本桜』「すしやの段」、『伊賀越道中双六』「沼津の段」だと思っており、『仮名手本忠臣蔵』早野勘平腹切の段もまたその水準に匹敵する作品だと思っている。
そして、実際、頻繁に上演される演目である。けれども、その舞台では、本作を「最高傑作」にならしめている理由の「ドラマ」を「描写する」状況にはなかなか到達しない。文章だけなら「勘平腹切」も「陣屋」「すしや」「沼津」と同じくらい好きなのだが、文楽ファンとして「勘平腹切」をそれらほど「良い」とは思わないのは、実際の舞台で「本当に良い」と思える「勘平腹切」を観たことがないからだと思う。以前不満を述べた『本朝廿四孝』の「十種香」と同様に、戯曲の描くドラマや世界観に出演者の技術・思考が追いついていないように感じられて、観ていて「もうちょっと何とかならんの」と思う演目だ。

しかし、上手い人だけ見ていても「なぜその人は上手いのか」がわからず、下手な人を見てはじめて上手い人の上手い理由がわかるのと同じように、あんま上手くいっていない舞台(とそこそこ上手くいっている舞台)を観続けることによって気づかされたこともある。今回はそれについて書いてみようと思う。


過ちの物語

『仮名手本忠臣蔵』の最大の特徴は、すべての登場人物が、なんらかの「過ちを犯す」ことだ。
過ちにもいろいろある。手前勝手にやったこと、なんの気なしにやったこと、よかれと思ってやったこと、思わずやったこと、考えなしにやったこと、気づかないうちにそうなっていたこと……。それぞれ単体ならなんのことはない個々の事情が最悪の連鎖をキメて予想外の大事件が起こる、「悲劇のピタゴラスイッチ」系ストーリーの構造をとっている。
顔世御前なら高師直の文を突き返したことでピタゴラスイッチが発動し、回り回って夫が切腹。本蔵の場合、回り回って眼の前で刀を抜いた塩冶判官を抱きとめてしまったことでピタゴラスイッチが発動し、さらに回り回って娘の輿入れ先の家の破滅を招く。塩冶判官は自分ではスイッチを入れてはいないが、預かり知らないドミノが突然倒れてきて騒いだために「プチッ」となり、さらなるピタゴラスイッチのスイッチを入れてしまう。由良助は国家老なのでそもそも鎌倉にいなかったという不可抗力の過ちながら、鎌倉到着時にはピタゴラスイッチが転がり終わったあとで、プチッとなる自分の運命がすでに(勝手に)決定されてしまっていた。
ただ勘平の場合、スイッチを押すのもプチッとなるのも自分という点が若干特殊である。


「なんにも考えていない」をいかに表現するかーー五段目 「思いついた瞬間」を表現する 

勘平の最大の特徴として、「まじでな〜んにも考えてなくて、その場その場の思いつきで行動してしまう」という性質がある。
文楽の勘平像は、歌舞伎やその他派生芸能の色男としての勘平像とは異なっていて、本人は一生懸命やってるのにかわいそう🥺とか、偶然失敗して破滅した悲劇的な人物😭ではない。「思いつきムーブ」が結晶化したようなプリミティブなアホであり、「本人は一生懸命なつもりなだけの、はたから見たらものすごい愚鈍」である。勘平の場合、この「思いつきムーブ」こそが「過ち」であり、それが何度も繰り返され、ことどとく自らの身に降りかかる裏目となるせいで、最終的に切腹するハメになる(しかも切腹も思いつきなので裏目る)。

そのため、私は、文楽の勘平には「その場その場の思いつきで行動してしまう」を秒単位でリアルに表現することが求められると考えている。
「思いつきで行動してしまう」ということは、「思いついた瞬間」が存在する。思いついちゃうのは、普段まじでな〜んにも考えていないからであり、そこに「変化のポイント」が発生するのだ。この「思いついた瞬間」をいかに描写するかは、勘平の個性を描写する表現行為であるともいえる。

「二つ玉の段」後半の勘平には、重要な「思いついた瞬間」=「変化のポイント」が3つある。
イノシシを撃ったと思い込んでゆるゆる出てきた勘平が、撃ったモノをまさぐり、それが人間だったと気づく。まずこの「人を殺しちゃった!💦」が1つ目の変化のポイント。
慌てて手当をしようとした勘平は、その死体のふところに財布があることに気づく。これが2つ目の変化のポイント「大金に気を取られる👀」。
最後の3つ目。私はこれが重要であると考える。勘平はその財布を抜き取り、その場を立ち去ってしまう。この3つ目を「思いついちゃった💡」ことが、勘平の運命を決定的に変えてしまう。


「勘平腹切」の前半、帰宅した勘平に対し、聟が金の心配をしていると思い込んでいる母はこう語りかける。「まさかの時は切り取りするも侍の習ひ」。
また、母から勘平への疑いを聞いた郷右衛門は、こう言う。「渇しても盗泉の水を飲まずとは義者のいましめ」。
二人が言っていることは真逆だ。「武士」という社会的立場にまとわりつく矛盾である。
しかし、そもそも、勘平にそんな発想、あったのだろうか?
普通の主人公なら「窃盗の罪業」と「忠義」を天秤にかけて思い悩み、そのあと40分はうじつくところ、彼は「苦悩」しなかった。「天の与え」だと思った。彼は、「まさかの時は切り取りするも侍の習ひ」とも「渇しても盗泉の水を飲まずとは義者のいましめ」とも考えることはなかったのではないか。考えなかったこと、それが勘平の過ちの核心だったように私には思える。

なぜ勘平は死体が財布を持っていたことを「天の与え」だと思ってしまったのか。はたしてそれは一体どのような心理だったのだろうか。解釈は配役された人の裁量になる。物語の内容・流れを把握している人が勘平役に配役されると、財布を抜き取ったあとの勘平の様子に個性が出る。
財布から伸びた紐に引っかかって死骸が起き上がる際などに、自らのやっていることに対する恐怖心を表現する人。本来的にはこれが順当な解釈だと思う。それだけに限らず、死骸(勘平的にはぶっちゃけ財布ケース)とのあいだに時間的・空間的間合いを作ることで、何か考え込んでいるような様子を見せ、後ろめたさやビビリを表現する人もいる。
それらとは逆に、財布を発見したとたん、それまでにあった「(弥五郎への)懐かしさ」「(敵討ちや復帰への)憧れ」「(人を殺してしまったことへの)驚き」といった人間らしい表情が消えて、人形のような無表情になる人。
月並みだが、シチュエーションさえ揃ってしまえば、どんな人にも「魔が差す」瞬間がある⋯⋯つまり勘平が「天の与え」だと思ったものは実は「天魔の魅入り」だったという解釈は、文章を逸脱しない範囲で非常に現代的である。こういったことをいかに描写するかは「二つ玉」の見どころとなり、「勘平腹切」への布石となる。

その点において、今回、床は全配役で「思いついた瞬間」=「変化のポイント」の描写がなされていた。「思いついた瞬間」の表現は作者も意図しているので、ダイレクトに文章として書かれている。配役された人たちはそれを理解しており、文章通りに誠実に一つずつこなしているということだろう。地固めはできていると感じる。

しかし、人形はそこが捉えられていないように感じた。近年の勘平役で「うまくいっていない人」は、この3つのポイントの描写が欠落している。なんとなくフワッと出てきて、なんとなくフワッと斧定九郎をまさぐって、なんとなくフワッと財布を持って帰ってしまう。最大の問題は、3つ目の「窃盗」。本当に何気なく、それこそ「何も考えず」、財布を持っていく演技の人がいるのだが⋯⋯、おまいのぉ〜、コンビニで傘盗むヤツか??? 勘平は考えてへんけど、おまいは考えなアカンねん。その行動が物語上どのような意味を持つのか、今一度、意識的になり、よく考えてほしいと思った。


「思いついた瞬間」であるからには、その「瞬間」が明示されることが重要となる。それは演奏とのタイミング合わせにかかっている。太夫の言葉が発された瞬間、三味線の音が鳴った瞬間にその動きが出来ていなければ、劇的なドラマは表現し得ない。「二つ玉」なら「コリャ人!」と言った瞬間、「勘平腹切」なら切腹の瞬間など、確実に合わせなくてはならない。重要なのは、思いついたのは勘平であるという点で、人形遣いは思いつきで動いていてはならないというこだ。演奏のあるポイントで確実に合わせるためには、「用意周到」でなければならない。今回は、そのあたり、「曖昧」だなと思った。*1

 


ツケを払う「律儀」さーー六段目 「犯した罪」への向き合いを表現する 

思いつきで行動し、(勘平にとっては)完璧な振る舞いであったかのように思えた五段目に対し、六段目の勘平は、そのツケを払わされることになる。

勘平の性質のうち「何も考えていない」は「言動が短絡的」という行動へのあらわれ=表層だ。それを裏打ちする(もしくは「しない」)性格や人格は別途存在する。
おかるの母は勘平を「律儀な人じやと思ふて」と評している。
この「律儀」という設定は、六段目においてかなり重要な要素だと思う。勘平の中には、「律儀」と「何も考えていない」が同居している。勘平のキャラクターで上手いのは、この「真面目だが何も考えていない」という、実生活では普遍的でありながら、浄瑠璃としては単調・類型にはおさまらない器質に造形されていること。こういう人、本当によくいるよね。勘平は「シングルタスク」しかできない人間で、眼の前に現れたひとつのことに気を取られすぎて/眼の前に現れることに次々に気を取られてしまって、何のためにそれをしなければならなかったのかという本質を見失う傾向がある。ここからある一定のラインを越すと「注意欠陥障害」なのだろうが、勘平はその一歩手前か、自分のやったことをある程度自覚できるタイプなのだと思う。
そんな人が自分の致命的なやらかしに気づいたとき、みずからの「思いつき」の愚かさと(一般的な社会通念で「真面目」を意味するところの)「律儀」の矛盾に苛まれる。この矛盾を表現できるか否かが、六段目の勘平の出来を左右する。

とどのつまり、勘平は自分の思い描いていたような「ちゃんとした武士」にはなれなかったし、なれない宿命だったんだわな。いつかなれるって思ってたのに(逆に言えば「思ってるだけだった」)、絶対無理ってわかっちゃった。それをどう表現するかだと思う。

ずっと前に和生さんが勘平役をやったときの、「いわゆるFラン大学に通う成績優秀な学生の悲哀」、もしくはその逆、「実力より上の学校に合格して喜んでいたが、実際授業が始まったらついていけなくて悩む凡才」みたいなのは面白かった。
和生さんは本当に上手い人なのだが、どこか「芸術家としては自分はホンモノの天才ではない」ことを自覚して、自分を疑っているかのような陰がある。客がいくら「上手い」と誉めそやしても、この陰は永遠になくならないだろうと思わされる。それが何なのかというと、「自分がその場にいることの違和感」なのかなと思う。勘平の場合はそれが役にダイレクトにつながるから、和生さんの陰が、勘平にいままでになく濃い陰影を与えていて、よかった。
あとは勘彌さんの「いままでナアナアでなんとかなってきた顔がいいだけのバカの、人生がうまくいかなかった瞬間」も現代的でよかった。「顔がいいだけのバカ」だと玉男さんも大得意だが、勘彌さんは「顔がいいだけ」に比重がいって、「ちょっと美容に気遣ってるだけでイケメン気取りかよ笑」「この程度のヤツいくらでもいるし笑」という「量産型」風になるのが独特。玉男様はアホの層がクソ厚すぎてアホぶりに重厚感があるんだけど、勘彌さんはアホとかじゃなく、とにかく薄っぺらく見える。ご本人の芸に奥行きがないとかではなく、芸が薄っぺらい人とは質の違う「薄っぺらさ」があって、この天賦の才の軽薄さ、勘平にはある意味かなり合っている。
いずれの場合も、薄っぺらいと思われていた勘平の内面させる奥行きがあるのがよかった。多分に「天然」な部分があるとは思うが、そうであっても、彼らが勘平という役に真面目に向き合う中で生まれてきた作為と無作為の間にある特異点とでもいうべきものが感じられた。

でも、一番怖いのは、技芸員さんの中にも、「勘平みたいな人」がいるんじゃないかってことだな。「実は向いてなかった」。和生さんが時々トークイベントで言うんだよ。「わたしらの仕事は、自分に向いているか向いていないかわかるのは、40、50になってから。そんな歳になって『向いてへんかったなー』となっても、どうしようもない」(大意)。
これ⋯⋯、実話なんスかね⋯⋯? 文楽の場合、良くも悪くも、「向いてへん」くても、それなりの役は「順番」と称して配役されるし、たとえ出来なくても、他の出演者の誰かが巻き取ってくれることが多い(巻き取れる人がかならず1人は配役されている)。なので、「向いてない」ことに気付いてない人もいると思う。言い方を変えると、客からすると「この人、向いてへんな」っていう人が実在してるんだけど、やっぱ、「気付いちゃった人」も、いるんスかね⋯⋯????? こわすぎ。と思った。

 

⋯⋯⋯⋯というふうに、勘平については色々期待したい事項があるのだが、なかなか叶わないのが現実である。もはや、地方の単発公演でも、勘平に良い配役がつく公演が出たら、四つ足で駆けてでも行くしかないかなと思う。

 

 

 

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実際の舞台の感想

勘平についての「御託」はここまでにして、今回鑑賞したAプロについて書いておきたい。

Aプロは、全般的に、良くも悪くも「個人プレー」という印象だった。各配役が呼応しあっておらず、芝居として一つのドラマを形成するという境地には至っていなかった。この場でどういったドラマを表現するのか、全員で共有することが出来ていないのだと思う。いくら繰り返し上演されている演目とはいえ、なんというか、「国語」ができないとどうしようもない側面のある演目ということなんだろうなと思う。

良い意味での「個人プレー」を書いておくと、おかるママ・簑二郎さん、原郷右衛門・玉志さんはよかった。あくまで誰かに何かを語りかけていることを忘れていない。浄瑠璃は人間関係の中で物語が成立しているので、人間関係を表現しなくてはならない。相手との心の距離感、社会的距離感の表現。この二人は、相手役がいる場合にはかならずその表現を行い、芝居の振り出しを常に行っている。勘平役は、彼らに対して的確に呼応するだけで見応えが劇的にアップするのに、勿体ないと思う。

玉志さんの原郷右衛門を見たのは2回目だが、非常に落ち着いている。郷右衛門がここまで落ち着いてたら塩冶判官も切腹するハメにはならんやろとウッスラ思ってしまうくらい堂々としている。
「貯へなき浪人の身の上として」家内の様子を顔を動かさずに目線だけ動かして観察している様子(人形の仕掛けとしてはそんなことできないはずなのだが、かしらの傾け方でそうしているように見せている)など、地金の華やかさが出ないよう、よくコントロールされている。
そうなんだよな……、文楽の場合、得意なことを何に対しても得意げにやっても意味なくて、あえて「撓めた」ときに、いかに元の美質を活かすかなんだよな……。そうじゃないと芸が広がらなくて、何やっても同じになる。結局、地金は手癖と同義だよ。ご本人は普通のこととしてさらっとやっているのだろうが、文章を表現すること、ただ表現すればいいというわけではなく、どのように表現すべきかということを長い時間をかけて考え、実現している人なのだろうなと思った。
「勘平腹切」では、この段の大モメの原因となった「お金(50両の小判の包み×2)」の小道具としての処理が曖昧になる場合がある。お金の包みがいつのまにか何処かへ消えるとか、郷右衛門がそのまま返しちゃう(?)とか。しかし、今回Aプロでは、最後、郷右衛門が「問題の50両×2は縞の財布と一緒にシッカリ袂へ収納」→「改めて自分の財布から金を出し、ママへシッカリ渡す」演技をしていた。これくらい金の処理をシッカリ明確にすると、勘平も浮かばれるというものだ。ただし、郷右衛門にとっては金よりも敵討ちの連判状のほうが大事。連判状は金よりももっと恭しく扱う(丁寧に頭より上に掲げて礼をする)。そのあたりの「物語におけるアイテムのプライオリティ」区別もかなりハッキリとつけられていたのはよかった。
でも、やっぱ、棒足が華麗すぎるのは、なんなんだ。中井貴一でてきはった?と思った。(なぜか勘平より華麗な棒足)(普通に手すりの上でやっとるだけなんだけど、姿勢が綺麗すぎてキラキラじじいに⋯⋯)

逆に、簑二郎さんおかるママは派手さが一切ないことが良い。同じような涙もろい老母役でも、浜ゆう(奥州安達原)になると華やかさが覗くので、意識的な演じ分けだろう。ただ、もう一息、相手役を引き込む演技になっていてもいいのかもなと思った。郷右衛門の場合、玉志サンの振り出しパワーが強いのか、あんま考えてやっていない人でも勝手に巻き込まれて、芝居のリズムが成立していく。たとえば勘平を打擲するくだりにしても、客にはわからないものの、引き寄せ方なり位置固定なりが上手くて、郷右衛門がぱっと腕を上げる仕草をするときに、勘平役が勝手にかがんじゃうんだろうな。ママもシーンによっては「よわよわ」から「ムキムキ」になって、もう一押し!と思った。

 


千崎弥五郎は、簡単そうに見えてなかなか上手くいかない役である。今回の紋秀さんについては、やろうとしていることが何なのかはよくわかった。
「山崎街道出合い」では、若武者らしいシャキッとした描写を行っていた。所作のメリハリを強め、ややハッキリ際立たせるようにしたうえで、アクセントで時々背筋を伸び上がらせていたのは、玉志さんなどの初代玉男系統の人の動きをよく勉強しているということでしょうね。確実にまっすぐ、かつ人間として自然な角度で伸び上がらせるのは非常に難しいと推察されたが、他人の上手いところに気づき、観察して取り入れるというのはもっと難しいので、トライしたことはよかったと思う。
ただ、「勘平腹切」は、難しいですね。紋秀さんからすると「弥五郎の若気の至り」を表現したかったのだと思うが、ちょっと慌てすぎて乱雑になっている。弥五郎が乱雑になると悪い意味で勘平と「同格」に落ちてしまうので、充分な注意が必要だ。まずは、隣に出ている郷右衛門が何をやっているかをもっと観察したほうがいいでしょうね。ここは、「玉志よぉ〜、おめ、ジジ役やろが〜い。どう見ても年齢設定より20は若い所作やで〜」ということになっている、その「20は若い所作やで〜」を、パクる!! 動きが性急なだけ、多いだけが「若さ」ではないとわかるはず。そして、せっかくだから玉志さんにおもいっきり乗っかりに行くのがお勧め。必ず相手役を引き立ててくれるから。と思った。
これは伝承されている振り付けの問題だが、千崎弥五郎は、勘平が切腹した後、おもむろに暖簾口の奥へ消えて、しばらくしてから帰ってくる。あの中途半端な中座、トイレ行ってきた人にしか見えん。なんか手ェふきふきしてるし(?)。「寺子屋」の後半の戸浪もだけど、人の愁嘆中におもむろに中座する役、なんやねん。改めるべき伝承もあると思う。

一文字屋の亭主〈吉田玉彦〉は広告代理店のシゴデキ営業さん風だった。本来はちょっと鷹揚なところや遊び人風のところが味わいにやる役だが、そのニュアンスが「広告代理店」なのはある意味現代的かもしれない。所作は非常に綺麗なので、ほかの役でも活かしてほしい。

おかる〈桐竹紋臣〉はしどころは少ないが、ちょっとお姉さん風なのはよかった。そして、おかるがちゃんと転んでいるように見えた。
以前、簑助さんの弟子の人は「転ぶ」演技が転んでいるように見えないということを書いた。簑助さん自身は、私が文楽を見るようになった段階では出来ていたが(『平家女護島』の千鳥や『嬢景清八嶋日記』の糸滝は普通にコケていた)、昔は劇評で指摘されるほどに出来なかったようだ。いったいどういうわけで、弟子たちは「転ぶ」ができないのか。では和生さんや紋臣さんはなぜできるのか。師匠が違うと言ったらそれまでだが、彼らの師匠の師匠は簑助さんと共通であり(文五郎や紋十郎)、どこで「できる」「できない」が分化したのか。もしかしたら「いかに伝承するか」をめぐる重要な何かが隠されているのかもとも思う。

 

あとは、六段目名物「内臓をはんこにするための内臓ぬい」の形が、いつもと違った。いや、内臓ぬいはいくつかあるんだと思うけど、はんこ用のぬいは基本一個であるように思っていた。はんことして掴みやすい形状ながら、ある程度コロンとしたやつというか。今回のはなんだか細長くて、解凍したササミみたいだった。内臓ぬいも新調されていくのだろうか。

イノシシは全然ウケてなくて可哀想だった。

 

 

 

  • 〈Aプロ〉
  • 義太夫
    山崎街道出合いの段=豊竹亘太夫/鶴澤清公   
    二つ玉の段=豊竹芳穂太夫/竹澤團吾、胡弓 鶴澤藤之亮   
    身売りの段=豊竹希太夫/鶴澤寛太郎
    早野勘平腹切の段=竹本織太夫/鶴澤藤蔵

  • 人形
    早野勘平=吉田玉助、千崎弥五郎=桐竹紋秀、百姓与市兵衛=吉田文哉、斧定九郎=吉田簑紫郎、女房おかる=桐竹紋臣、与市兵衛女房=吉田簑二郎、一文字屋才兵衛=吉田玉彦 (前)吉田玉路(後)、めっぽう弥八=吉田玉路(前)玉彦 (後)、種子島の六=吉田簑悠、狸の角兵衛=桐竹勘昇、原郷右衛門=吉田玉志

 

 

 

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逆順となるが、最初に『二人三番叟』がついていた。

三番叟二人とも動きへの入りが的確で速く、頻繁に配役されるだけあって、やっぱり慣れてるんだなと感じる。動きが自然で無駄なブレがない。良い意味でのこなれを感じる。

なお、又平の三番叟は、ものすごいデカかった。筋トレはじめたん!? プロテイン何飲んどる!? というくらい、ビルドアップしていた。驚きなのは遣っているのが玉誉さんなことで、玉誉さんがこんなデカかったことあるか!?!??!と思った。上品ムキムキすぎる。
そして、今回の三番叟二人組は、いちご農家風だった。私の三番叟評価ポイントとして、「ちゃんと豊饒を祈っていることがわかるか」がある。鈴を振る姿にアグリカルチャーオーラを出しているかをいつも観察しているのだが、今回はいちごのお花に受粉させている系三番叟のようだった。なるほど。と思った。

三番叟の衣装は、おニューになっていた。上半身はそんなにわからないのだが、袴の模様の木の部分の色が全く違うッ。と思った。

太夫はこれではダメだろ。ガチャガチャすぎる。勝平もなんとか言わんかい。

 

 

  • 〈Aプロ〉
  • 義太夫
    三番叟 豊竹藤太夫、三番叟 豊竹南都太夫、竹本聖太夫、竹本織部太夫/野澤勝平、鶴澤燕二郎、鶴澤清方  
  • 人形
    三番叟[又平]=吉田玉誉、三番叟[検非違使]=吉田簑太郎

 

 

 

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5年ほど前までは、文楽に対し、人形は充実しているけど、床は大丈夫なのかと思わされることが多かった。声量コントロールができない、声の裏返りが頻発する、間合いを考慮していないなど、ワヤクチャになっているときも多くあった。しかし、現在では少しずつ改善し、声の裏返りは誰であってもまずない状態になり、間合いをみる落ち着きが出てきた状態になっていると思う。客が気づかないうちに長期的に頑張っていたということだろう。

しかし、逆に、人形はどんどんレベルが落ちてきているように感じる。正しく言うと、「レベルが高い人」の絶対数は変わっていない。この「変わっていない」こと自体が問題なのだ。「レベルが高い人」はベテラン世代に固まっており、中堅世代で「できる人」の人数が増えていない。特に、「演奏を聞いて演じる」ことを意識できていない中堅が主役級に配役されることが多くなってきている。演奏にジャストタイムで合わせにいくのか、あえて外しにいくのか、どこでどう帳尻合わせするのかにはセンスが問われるが、それ以前に「聞いてへんやろ」としか言いようがない状態になっている公演が激増している。今回なんて本当にそういう状態だった。音が鳴っているときの音と動きのマッチングを意識できていない人は、無音のときの意識も低いため、人形待ちの間合いづくりもおかしい。そうなると、ことに「勘平腹切」は「壊滅的」なことになる。

むろん、今回配役でいうと、簑二郎さんとか近年目を見張る成長を遂げた人もいるし、紋秀さんのように自分が何をすべきかの研究を広い視野で積極的に行っていることが感じられる人もいる。
しかし、出来ていないケースが「相当に出来ていない」。たとえば、今回の斧定九郎は、誰か何か言ってあげたほうがいいと思う。私は彼を性格や取り組みが根本的に雑な人だとは思わない。「これがダメ」ってことを、勉強する機会がなかった人なのだろうと思っている。
ええ歳の大人に対してそういう言い方すんのもどうかと思うし、価値観が違う世界で生きている人たちについてこんなこと書くのもどうかとは思うが、文楽を見ていると、やっぱり、「勉強」って、どれだけ周囲に恵まれるか次第なんだなと思うことが非常に多い。この人の師匠は弟子が自然に・素直に勉強できる環境を作っていたんだろうなとか、逆に、この人は本人なりには真面目にやっているのだろうが、周囲は前向きに「勉強」ができる環境ではなかったんだな、頑張り方や勉強の仕方を教えてくれる人がいなかったんだなと感じてしまう場合がある。
これは人形さんじゃなく、太夫に対しても感じることがある。もっといい環境にいればちゃんと伸びたんじゃないかっていう人。大局的には「ご縁」なのだが、こんなにも絶対的な人数少ない業種で、そう簡単に「ご縁」で片付けていいのか。そして、三味線にはそこまで感じないのは何故なのか。いろいろなことを思う。

 

現代においていったいどのように「勘平腹切」を見せるかについて。
勘平の「犯罪」って、石川達三の小説『青春の蹉跌』(1968)の主人公の「犯罪」に近い気がする。
ストーリーは似ていないし、犯罪の確信度・悪意の有無は全然違うんだけど、「犯した罪」が主人公にどのように語りかけてくるのかが。
『青春の蹉跌』の主人公は、学生運動に挫折し、打算的な人生を送ることを決意した青年。資産家の令嬢と婚約するも、元々の恋人(家庭教師先の教え子)の妊娠が発覚したため、彼女を山岳事故に見せかけて殺害する。ここまでの話は学生運動に共感できないとまじでド陳腐すぎてどうでもいい筋書き。しかし、このあとの、そしらぬ顔でごまかし通そうとする主人公の足首を時々「犯した罪」という魔物が掴んでコカしてくる恐怖感がめちゃくちゃ面白い。主人公は「犯した罪」を悪いことだとは思っておらず、やるべきことだった、仕方なかったという正当化で向き合いを避けようとするのだが、魔物はずーーーーーーーーっとじーーーーーーーーーっとこっちを見てる!!!! うっすら冷たい生ぬるい手で主人公の足首を掴んでる!!!!!!!! アレ???? いつのまにか魔物チャンがおくちをあけてるよ?????? のこぎりみたいな歯がい〜〜っぱいならんでるね!!!!! そして、最後には⋯⋯⋯⋯!!!!!

この小説の何が面白いかって、主人公がいくら傲慢であり、「犯した罪」それ自体は鼻で笑えても、「犯した罪」が伸ばしてくる魔物の手(はっきり言うと後ろめたさ)には勝てないってことなんだよな。この小説は本当に巧妙で、たしかに主人公は傲慢で自己評価高杉乙なのだが、教え子が「バカ」で、その女に対して読者もまた全く共感できないように書かれているのが絶妙。主人公に対してちょっと共感しちゃうんだよ。そういうやつの足首になんかがまとわりついて何度もコケそうになってびびりまくるの、面白すぎるんだ、自分も足を掴まれているみたいで。

むろん、勘平はバカすぎて他者に対する悪意は全くない。しかし、そのような人間に対しても、「犯した罪」という魔物は足首を掴んでコカしてくる。魔物は、「天罰」「罪の報い」「勧善懲悪」といった神仏の行う超自然的な摂理ではなく、人間の心の中からやってくるからだ。『青春の蹉跌』では、足首を掴まれてビクつきまくる主人公の心理が克明に描き込まれている。「勘平腹切」の勘平もまた己の犯した罪に足首を掴まれてビクつきまくるわけだが、勘平が魔物を振り返る姿をどう表現するか? そこに、勘平の「性格」が現れるのではないか? ほんまにこれ、期待しとります。

なお、『青春の蹉跌』は神代辰巳監督で映画化されているのだが(東京映画/1974)、映画版では原作の深刻さとは異なる演出がなされていて、それはそれで面白い。1974年には学生運動がどうたらとかがもはや「ダサ」くなってたからだろう(いま見ると、かえって1974年の演出のほうが「ダサ」くはあるのだが)。『仮名手本忠臣蔵』をいま上演するという行為も、本質的には同じことだと思う。私は神代辰巳は別にそんなに好きではないけど、それでも面白かった。

 

あと思い出すのは、中島貞夫監督の『鉄砲玉の美学』(ATG/1973)。
『鉄砲玉の美学』の主人公(渡瀬恒彦)は、ショボいチンピラ。「大きくならないうさぎ」を売るのが生業で、というかそんなもので食えるわけがないため、女のヒモをして暮らしている。そんな主人公に、あるとき、「チャンス」がやってくる。敵対組織の要人を暗殺するという「鉄砲玉」に指名されたのだ。本人からすると華々しい役目を与えられ、イキリにイキる主人公。だが、やがて「組織の都合」に翻弄され、最終的には自分ではコントロールのできない他人の都合の狭隘に陥って破滅する。
『鉄砲玉の美学』の主人公は「罪」を犯すことはなかったが(情婦に対するDVとうさぎへの虐待はしていたが)、考えのない行動を繰り返した結果、メチャクチャ惨めで悲惨な結末を迎える。こういった惨めさの表現が「勘平腹切」の切腹するまでのくだりに現れてきたら、すごいと思う。「武士の忠義」と「ヤクザの掟」の皮肉さはほとんど同義だ。こう考えると、浄瑠璃に描かれたテーマは時代を超えて普遍的であると感じる。

 

 


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今回は江東区文化センターでの開催。
やっぱりここ、ステージの高さが気になるな。人形が奥まった印象になり、見づらい。そして、楽屋が狭いのか、観客が利用する通路まで人形さんの物置がはみ出してきているのは、大丈夫なのだろうか。大丈夫なわけない。
また、客席内への音の満ち方は良いのだが、影弾きの胡弓の音が過剰にうるさく聞こえるのが非常に気になった。これは演奏技術の問題ではなく、張り出した出語り床の囲い部分に天井がなく、影で弾いても音が上に抜けて、表同等に聞こえてしまうことが原因だと思う。
こういう状態を見ると、今後もずっとここでやっていくのは厳しいように感じた。

また、今月のアンケートで、公演をより楽しむためにどんなイベントがあったらよいか?という選択肢の中に、「鑑賞者同士での交流会」的な項目があった。これ、生成AIに「古典芸能のLTV向上施策」を提案させると必ず挙げてくる施策だが(マーケティングでは当たり前の手法だろうが)、「文楽」で、本当にそれをやりたいと思う人ってどれくらいいるんだろうと思った。確かに、「読書会」風のだれでも参加可能、なにを発言しても良く、安心して楽しめる懇親会があったら理想的ではある。実現には、よほどしっかりしたモデレーター、ファシリテーターがいるだろう。とにかく文楽そのものがマイナーすぎて、技芸員のトークイベントでもイベントクオリティを上げられる司会者・対談相手がほとんどいない中、なかなか難しい問題やね。と思った。

なお、今回は「外国人のための⋯」企画がなかったけど、そのほうがいいと思う。盗撮が横行してたし、プレミアム感のない会場でやっても観光客には意味ないし。本気で「外国人」に向けてアピールするなら、違うやり方が必要だと思う。

 

 

 

 

*1:ただ、今回はもはやそれ以前の問題で、誠に遺憾ではありますが、六段目については、そもそも切腹してるように見えなかった。近年、そもそも切腹してない勘平が時々いるんですけど、間に合う間に合わないとかじゃなく、間に合わなくても切腹だけは確実にしてくださいとしか言いようがない。

文楽 7・8月大阪夏休み公演『寿柱立万歳』『まちの灯』 国立文楽劇場

私は文楽と同じくらい映画が好きで、主に旧作を愛好しており、サイレント映画もその範疇となっております。そのため、今回の企画について通常以上に目が笑っておりません。ご賢察のほどよろしくお願い申し上げます。

 

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今回の夜の回は「第三部」ではなく、「Bunraku Summer Festival」と題する、一応、外部(文楽協会)主催公演。

まちの灯。

チャールズ・チャップリン監督・主演の映画『街の灯』(米/1931)を原作として、「完全に『文楽』であ」り、「同時に、完全にチャップリンである作品を創ること」を目指して作られたという新作。

完全新規書き下ろしかのように喧伝されているが、実際には1931年初演の『街の灯』の歌舞伎化『蝙蝠の安さん』(木村錦花脚本)の発想が大幅に流用されており、同作の「文楽化」なのではと思う。
『蝙蝠の安さん』は、当時日本未公開だった『街の灯』のあらすじをもとに、ストーリーを日本化。主人公を『与話情浮名横櫛』の有名キャラ「蝙蝠安」へ置き換え、ドジっ子化した蝙蝠安が盲目の花売り娘・お花のために奔走する筋立てになっている(当時の筋書のデジタル公開あり/松竹大谷図書館に台本所蔵あり)。近代アメリカを近世日本に置き換えたうえで、歌舞伎らしく笑わせる世話風のシーンを追加するなど、さまざまな工夫が凝らされた作品だ。

文章を全てそのまま使っているわけではないとはいえ、主人公の名前・キャラクターを既存有名作品から取ること、冒頭の大仏開帳興行、治療代作りのための飛び入り相撲といった重要なローカライズのための「着想」は同じ。大仏が実は「ハリボテ」なのとか、最後の場面で母がお花に言う「狐につままれたような顔」という言い方など、そのまんま使っている部分もある。また、「大仏開眼」の大道具は、2019年国立劇場歌舞伎公演で復活された『蝙蝠の安さん』からインスパイアされているのでは。
⋯⋯というところをみると、「リブート」が実際的な位置付けではないだろうか。

 

以下、あらすじを記す。

序 茶屋町大仏開眼の段
幕末の大阪。茶屋町では、新造の大仏開眼の式典が行われている。幕が大々的に引き下ろされると、大仏の手のひらにはいぶかしい風体の男、与次郎〈桐竹勘十郎〉が眠りこけていた。追い回された与次郎は、大慌てで逃げ出す。

二段目 天神橋出会いの段
逃げ延びた先の天神橋でほうほうのテイの与次郎に声をかけたのは、花売りのお花〈吉田勘彌〉だった。お花に見惚れる与次郎は、彼女から花を一輪買うことにする。渡そうとした花を取り落としたお花は、それを見つけられず戸惑っている。与次郎は彼女が盲目であることに気づき、お釣りを受け取らず去ろうとする。そのとき、二人の近くを大店の旦那の駕籠が通りかかる。お花は花を買ってくれた人物がその旦那だと思い込み、ありがたがって帰っていく。
やがて夜となり、与次郎は橋のたもとを今宵のねぐらとしている。そこへ酒に酔った大文字屋勘右衛門〈吉田簑二郎〉が現れ、世を儚んで川へ飛び込もうとする。驚いて引き留めようとする与次郎だったが、もみ合ううちに自分が川へ落ちてしまう。なんとか助け上げられた与次郎は勘右衛門にいたく感謝され、お礼として彼の家へ招待されるのだった。

三段目 道修町大文字屋奥座敷の段
道修町の勘右衛門の自宅では、番頭藤八〈吉田玉助〉が留守番をしていた。藤八は帰宅した勘右衛門の連れてきた与次郎の風体に呆れ返るが、勘右衛門と与次郎は酒盛りをして兄弟の契りを交わす。
明け方、勘右衛門の邸宅の門口を通り過ぎていくお花を見つけた与次郎は、恩人にやりたいと言って勘右衛門に頼んで20両をもらい、お花の持っていた花をすべて買い取る。お花の喜びを見て調子に乗った与次郎は、藤八に駕籠を呼ばせ、お花を家へ送ってやる。
一方、与次郎に起こされ目が覚めた勘右衛門は、与次郎のことをすっかり忘れてしまっていた。この花なに?こいつ怪しすぎん?と言い出す勘右衛門は、藤八に与次郎を追い出させる。与次郎は不服を言いつつ、お花から買った花を手に去っていった。

四段目 天神橋再会の段
天神橋のたもとでは、お花とその母〈桐竹紋臣〉が店賃の請求に苦しんでいた。また与次郎に会いたいというお花に、母は金持ちは心を持たずあてにならないと言う。⋯⋯という様子を与次郎が見守っていると、瓦版売りがやってきて、壺坂の医者が盲目を治したというニュースを伝える。その費用は30両と聞いた母はとても用意できない大金に驚くが、お花に励まされ、母は花売りに出かけていく。
母が去ると与次郎が現れ、お花に店賃と治療費のことは任せろと言う。喜ぶお花は、目が治ったら与次郎の顔を見たいと言う。身分を詐称している与次郎は当惑するものの、ひと月以内に金を工面すると約束し、エア駕籠に乗って去っていくのだった。

五段目 法善寺相撲の段
金の工面に悩む与次郎が千日前をフラついていると、法善寺で飛び入り歓迎の賭け相撲が行われているのを見つける。挑戦者として横綱に勝てば50両の賞金と聞いた与次郎はやったるでとばかりに小屋へ飛び込む。
ところが、実際土俵に上がってみると、出てきたのはクソデカごん太力士・太目山〈吉田玉勢〉だった。ビビった与次郎は太目山を買収しようとするも失敗、ちょこまか逃げ回るも、ついに太目山に投げ飛ばされてしまう。ズタボロになった与次郎に観客席から声をかけたのは、またもや酔っ払いまくりの勘右衛門だった。勘右衛門は再び与次郎を連れて家へ帰る。

六段目 大文字屋盗人騒動の段
大文字屋では、勘右衛門の留守のすきに番頭・藤八が店の金を盗もうとしている。そこへ勘右衛門が与次郎を連れて帰宅したので、藤八はあわてて金を戻す。お花に目の療治をさせてやりたいという与次郎の願いを聞いた勘右衛門は、100両を渡して遠慮なく使うように言う。与次郎は感謝して金をお花のもとへ持って行こうとするが、勘右衛門は明日の朝にするように言って床を延べさせる。
深夜、藤八が与次郎の枕元の金を盗みにやってくる。しかし包みが破れて金が撒き散らされ、与次郎と勘右衛門が起き出す。与次郎は藤八に金を返してくれと頼むが、勘右衛門は与次郎が誰なのかをまた忘れてしまい、藤八の「こいつが泥棒」というウソを信じてしまう。捕まりそうになった与次郎は金をもぎ取り、勘右衛門に向かって「めしいはお前のこと」と叫んで走り去る。
天神橋のたもとにたどり着いた与次郎は、そこにいたお花に金を渡す。遠くへ行かねばならないという与次郎にお花はまた会いたいと言い、与次郎はお花の前を去る。そのとき、捕手の役人が現れ、与次郎を捕縛して引っ立ててゆく。

大詰 天神橋まちの灯の段
お花は与次郎から授けられた金で医者にかかり、無事目が見えるようになる。
1年が経ち、世は明治となってお花はフラワーショップを開業していた。お花は、花を注文に来た紳士が与次郎なのではないかと気もそぞろ。そうこうしているところへ、牢屋から解放された与次郎が天神橋を渡ってやってくる。与次郎は元気になったお花の姿を見て喜ぶが、お花と母はあまりに汚い与次郎の風体をいぶかしがる。与次郎がゴミの花を落としたのを見て、新しい花と小銭を渡そうとするお花。与次郎の手を取ったとき、お花はその汚いなりの男が恩人の与次郎だと気づく。

 
 
 
 
 
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原作映画を大幅に活かしつつ、1時間半程度の上演時間におさまるようにする工夫はよくわかった。
たとえば、映画では酔っぱらった金持ちが主人公を夜のお店での遊びに連れ回すシーンがあるにもかかわらず、本作では勘右衛門の自宅のみで完結させている。また、本作では番頭藤八が勘右衛門の金を狙っていることになっているが、映画では金持ちの執事は仕事に忠実というだけで何の思惑もない人物。金を狙っているのはクライマックスシーンに唐突に登場する強盗二人組で、主人公は彼らと取り違えられて泥棒だと疑われる設定になっている。ヒロインの治療代づくりにしても、本作のようにいきなり賭け格闘技(映画版ではボクシング)のような怪しげなものに手を出したわけではなく、当初はまともな仕事について稼ごうとする(が、クソ失敗クソ遅刻をかましてクビになる)。話の通りをスムーズにする整理は確実に行われている。結果として、実際の舞台では同じ大道具の使い回しが多くなり、視覚的に非常に単調な印象になってしまっているものの、短縮の仕方そのものは理解できる。

 

ただ、個人的には、脚本をどうまとめなおすかは、あくまで表面的なことだと認識している。
本作の上演にあたり、私が最も関心を抱いていたのは、「サイレント映画」から「文楽(人形浄瑠璃)」へ、異なるメディアへの移植をどう行うか、その意識のありようだった。

原作の『街の灯』は、トーキーが普及しつつある中であえてサイレントとして制作された作品だ。移りゆく時代の中での「声なき世界」の美しさを意図的に描くことが主眼なのだと思う。BGM・SEのつけられたサウンド版ではあるが、セリフの発声はなく、字幕はほとんど出ず、言葉が冗長でないゆえのイマジネーションの拡張によって面白くなっている映画なのだと思う。
サイレント(無声)映画は、存在は知っていても、ご覧になったことのない方も多いと思う。あえて説明すると、文字通り、音声が入っていない。そのため、人物のジェスチャーなどの視覚情報のみで内容が伝わるように作られており、人々のコミュニケーションの間合いには独特の詩情がある。
ある程度複雑なストーリーの作品は、さすがに完全なノンバーバル(非言語)は無理なので、時々、「タイトル」と呼ばれる字幕が出る。現在の字幕のように映像へオーバーラップするのではなく、映像を遮って画面全体へ一枚絵の状態で一瞬だけ表示される。流れを断ち切る頻繁な表示や、読みきれないような長文の表示はされない。『街の灯』も、時折、 “This Afternoon” など舞台の時間・状況を説明するものや、“We'll go home and get warmed up” などの人物のセリフが短いフレーズで表示されるのみだ。特にセリフは洗練された短文で表示されるのが特長になっている。

逆に、文楽は音声とテキストありきの芸能だ。音声を主体に進行し、セリフだけではなく地の文までもがあることによって義太夫は「語り物」として成立している。その音声がなくては人形は演技をすることもできない。

このように、サイレント映画から義太夫へ、真逆の特性をもったものへどう転換させるかが今回の眼目になると私は思っていた。
でもそれが、「説明的な文章で埋め尽くす」だったのには、「あー、やっぱそっち行ったか。」と思わされた。登場人物が何を言って、何をしたかの説明に文章が終始していることは、非常に気になった。これだと、少なくとも私は、「わざわざ古典にせんでもええやん」と思ってしまう。逆に、映画がいかによくできているかがよくわかってしまうというか⋯⋯。

「文楽」らしく原作の情感を増幅する手法をとらなかったのは何故なのだろう。与次郎がお花を想う時間を丁寧に描写する⋯⋯たとえば、『冥途の飛脚』「淡路町」の羽織落としの場面ように、相手を想って思考が右往左往する場面を入れるとか、お花が与次郎を想う時間の密度をもっと高める⋯⋯これはもう端的に「おまえはお俊かお園さんか」くらいのクドキを入れるなど、文楽の手法をいかすやりかたがいろいろあったように思うが⋯⋯。いや、「淡路町」の手法を入れんかったんはほんま勿体ないで。『街の灯』には主人公が突如まろび出てきた犬に追い回されるシーンがあるんだから、通じるものもあるのにさ。

 

ただし、基本人形のみの演技となるラストシーンは、文楽らしい「型」「間合い」を使って、時間の流れを変えている点に妙味がある。見つめ合い、静かに手と手を取り合う与次郎とお花の姿は、原作映画から受けるものと同じ、しかし映画ではなくあくまで「文楽」の時間の流れ――心の通じ合った瞬間が「永遠」になる――として、美しく結晶させることができていたと思う。
個人的には、これは人形遣いの持ち得る力量、彼らの「いつものやつ」、「普通」だと思っている「文楽」そのものが結実した結果によるものだと感じた。

 

 

 

■

説明的すぎて、「差別」まで言葉で付け加えはじめたことには、本当に驚いた。

やれ命の恩人じゃ、やれ兄弟じゃと持ち上げておいて、朝が来たれば忘れさり、わしが姿が見えぬとは、まことに盲目(めしい)なるものは、お花さんじゃのうて勘右衛門じゃわい

(三段目 道修町大文字屋の段)

酒が入れば兄弟で、醒めたと思えば盗人と、手のひら返すあさましさ、汚いなりのこのわしを卑しきものを呼ぶが良い。したがお前ら金持ちは、貧苦にまみれ世の中の光も見えぬ娘ごの、あの苦しみが見えまいか。ほんにめしいはお前のことよ

(六段目 大文字屋盗人騒動の段)

2026年の新作として、視覚障害を「人間としての致命的欠陥」の比喩として使い、「めしい」を罵倒語として使っていることに、愕然とした。「異なる社会階層は、それ以外の人にとって不可視である(認識外である)」ならば一般論であり、理解できるが、目が見えている見えてないを人間性の有無と関連付け、罵倒語として視覚障害をさす言葉を使い、しかもそれを主人公が「大正義」かのように言うとか、信じられない。

原作映画では、視覚障害の有無と「金持ちは主人公に気付かず、娘は主人公に気付く」ことの関係は、あくまで比喩になっている。主人公が視覚障害を示す言葉を使って金持ちを罵倒することはない。スキをついて無言で金を猛ダッシュ持ち逃げするのみである。また、金持ちも、都合の良し悪しによって恣意的に主人公を無視するわけでなく、「酒が入る」という一種本人の意思と関係ないことがスイッチとなっているため、そう単純な話ではないと思う。
1931年歌舞伎『蝙蝠の安さん』初演についても、松竹大谷図書館所蔵の台本で確認したが、主人公安さんは金持ちの態度を「盲目」だと言わないし、差別語を使って啖呵を切ることもなかった。周囲のスキをつき、無言で金を猛ダッシュ持ち逃げするだけの、原作映画と同一の流れになっている。ほかに差別的なシーンが一切ないとは言わないが、登場人物が視覚障害の症状を指して「めくら」と呼ぶなどの当時一般的な範疇で、それを積極的な罵倒語として使うようなことはない。(お花の治療法を探すために盲人のフリをするところは今なら絶対アウトだが)
また、映画を大幅にフィーチャーして作られている2019年12月国立劇場歌舞伎公演『蝙蝠の安さん』でも、視覚障害に関する「罵詈雑言」はない。この公演に関しては、台本を読む限り、差別表現にかなりの配慮がされていることが伺われる。

しかし、本作では「めしい」を直接的に差別、罵倒をするための表現として使用していると私は考える。今回の公演にあたり制作者がわざわざ主体的に差別を「追加」していると感じた。
なぜ視覚障害差別を使って「テーマ」を表現しようとしたのか。
要するにこれ、目が見えない・見えるを使ってウマイこと言いたい‼️‼️‼️っていう下心なのではと穿ってしまう。

関係者、出演者だれひとりとしてこれに違和感がなかったのか?
「めくら」とは言っていないからオッケーとか、そういうガバい判断しているということ?
かつて文楽には床を中心に視覚障害のある演者もいたわけでしょう。そして松竹は視覚障害のある演者を追放し、演者当事者たちはそういう人を「盲人声」と言って晴眼者とは違う、暗い寂しいとして「差別」していたわけですよね。そのころから意識が変わっていないのか。
本作の主人公は、『近頃河原の達引』の猿廻し与次郎から名前を借りている。猿廻しは被差別者である。その与次郎が、視覚障害を、差別? グロテスクすぎる。
(プログラムの脚本家寄稿では与次郎を「放浪者」としているが、与次郎は「放浪」はしていません。借家に住んでます。勝手にリフォームしてペットドアを増設しながら。)

チャップリンにしてもほかにも作品はたくさんあるのに、なんでわざわざこれを使って、わざわざ差別表現をのっけたんだろう。配布プログラムには脚本家、出演者のチャップリン・リスペクトの言葉が連ねられているが、それならなおさら、どうしてチャップリンが視覚障害者を差別していたかのように見せてしまったのか。これまじで普通に「原作に視覚障害差別があるから本作もこうなってる」って思う人が大半だと思う。

私は内容がくそつまらないものは許せるが、差別は容認できない。

 

 

 

■

今回、「新作」として最もよかったのは、「文楽」になっていたことだと思う。
あくまでの私の見解だが、脚本の方はおそらく「文楽」をあまりよくわかっていないのだと思う。そのため、技芸員のほうに舞台での実践のハンドリングの主体があり、彼らは良くも悪くもすべてが「文楽」だから、結果的に「文楽」になったように思えた。

どういうことか。たとえば、これまた私の見解では、三谷幸喜作の「三谷文楽」は、「文楽」ではない。「人形劇」である。三谷氏も文楽をわかっている人というわけではないと思うが、だから文楽になっていないというわけではない。三谷氏の場合、文楽を使って自分の世界を表現したいという意図が非常に強いのだと思う。実際には「人形劇」でも代替可能。そこに文楽側がいかにストッパーを設けるかが課題になっていたと思うのだが、出演技芸員(特にメインの役)は素直でふんわりしている人が多いように思われ、「三谷さんスゴイ!」で素朴に言うことを聞いてるんだろうなと思える。ただし、三谷氏がハンドリングをしっかり行っている分、演劇としてはきちんとしている。

本作については、まず大枠のところを言うと、「完全にチャップリン」にしたがために、文楽の構成・演出としては非常に冗長で平板になっているのではと感じた。チャップリンへ寄せることに夢中になり、映画と演劇の特性の違いへの意識が希薄になって、この作品単体として何がしたいのか、脚本や演出からはよくわからなかった。「原作映画の解説動画???」の印象がある。文楽にふさわしい、語りたいドラマ、メッセージは希薄であるように感じる。

そういった状況下で、本作は、技芸員側による「これを『いつも通り』やると⋯⋯」が全面に出てきているように感じる。文章から遊離して、わりと「文楽」へ寄ってきているのだ。

特に、主人公与次郎については、脚本・演出で明瞭なイメージを立脚できないままに混迷状態で技芸員へ投げられて、技芸員が形にしたのではないかという気がする。
本作の主人公は、3つのフワッとした「キャラクター」がキメラ化してできている。

①映画に描かれた主人公それ自体(善性もあるが、人に石鹸食わすような異常な側面、金を持ち逃げする悪漢性もある)
②現代的なイメージでの「チャーリー」(いわゆるチャップリンの今現在のパブリックイメージ、清純で善良な紳士)
③『近頃河原の達引』からきている「与次郎」(愚鈍で気弱だが、穏やかな思いやりがある)

脚本家の方は、主人公与次郎を、①映画に描かれた主人公それ自体ではなく、②現代的なイメージでの「チャーリー」として位置づけているのだと思う。そのためにかしらも源太をベースにした二枚目風にオーダーしたのだろう。しかし、それは大雑把なイメージの方向性であって、彼は一体どのような行動をとる人物なのかという造形には至っていない。白塗りの二枚目のかしらで与次郎という名前がすでに「チグハグ」なのだ。演出としてもシーンによって主人公の言動にブレがあるのは、①映画に描かれた主人公それ自体②清純で善良な紳士である「チャーリー」、そして、文楽化するためにひっつけられた属性③「与次郎」が統一された人格となることなく、その場その場で都合よく「右往左往」しているからだと思う。

勘十郎さん自身は、「チャップリン」寄せ(①映画に描かれた主人公それ自体②清純で善良な紳士である「チャーリー」寄せ)をやめて、③与次郎(近頃河原の達引)のみに絞り込み、自分なりにできることへ寄せていたと思う。
これによって結果的に、いかにもな文楽らしさ、自然な愛嬌や気弱感、ダメそうさが出て、非常によかった。
そして、勘十郎さん最大の売りは「愛嬌」だ。愛嬌だけは他の誰にも、何にも負けない武器だ。かしら本位のキャラクター造形にしなくて、本当に良かったと思う。

与次郎という名前で勘十郎さんにやってもらうなら、脚本も、与次郎・勘十郎さんに似合った、オドオドしていて大人しく気弱そうだけど、気遣いと穏やかな優しさのある人物へ大幅に寄せたほうがよりよかったように思う。
たとえば、与次郎は頻繁にお花の手を握るが、江戸時代に「放浪者」が、未婚の町娘の手を握りまくりって、おかしいよね。チャップリンに寄せることに必死で、文楽としてきわめて不自然になっているように感じる。もう少しやり方はなかったのだろうか。「これちゃんと渡すね💦」「ごめんね🙇ここ段差あって危ないからちょっと手伝うね💦」みたいに、手を握ることへの遠慮とエクスキューズをつけた上で握らせるほうが、展開として自然になるうえ、与次郎のキャラクターも確立する。それによってお花も「気遣ってくれるなんで、いい人✨️」と思うわけで、物語世界はより増幅すると思う。
こうできないところが、私が本作の「完全にチャップリン」固執に違和感を覚える理由である。
(ちなみに、1931年初演の歌舞伎『蝙蝠の安さん』では、ヒロインが主人公に手を握られることを嫌がり、主人公もそうだよねと言ってすぐ止める。1931年のほうがセクハラしとらんのが衝撃的)

 

 

 

■

無粋ながら、「時代考証」の不自然さは全体的に気になった。

風俗について、「当時の常識」を無視している理由がいまひとつよくわからない。
ヒロインが「街角で花を売っている」「お花屋さんを開業する」という設定のありえなさは一旦いいとして(異様早朝とか変な時間にウロつきすぎていて、ガチで「惣嫁」に見えるが)、「天神様へ供えるお花」って何?とか、幕末の夜間に大川の対岸まで爛々と見える「まちの灯」って遊郭だよね?とか、勘右衛門が自宅へ与次郎を呼び入れ「芸妓舞妓をここへ呼べ」と言うが、江戸時代の大坂で芸妓は自宅へは呼べないよな?とか(これは1931年版『蝙蝠の安さん』にあるので、素直に「流用」しちゃったんだろうが)、江戸時代の「窃盗」って「禁錮」じゃすまへんような?とか、結構頻繁に「ん?」と思うことがあった。
これらについて、時代考証を踏まえた書き方にしても物語の本質は変わらないと思うのだが、なぜわざわざ不自然な設定にしているのだろう。
お前ふだん平安時代に寺子屋ある時空で爽やかに深呼吸しとるやろがいと思われるだろうが、意図的に背景年代をずらしている時代物ならともかく、リアタイ描写前提の世話物で時代考証がおかしいのは気になる。

これまたちなみに、元祖1931年版『蝙蝠の安さん』は、上記の疑問を部分的に解決した脚本になっている。「江戸時代に花売り???」については、脚本を執筆した木村錦花も不自然だと思い、辻占などへの置き換えを検討したようだ。が、結局「草花売り」のままにした。しかし、劇中、主人公・安さんが「変わった商売だな」と発言して不自然さをあえて共有したり、最後に開店させるのは花屋ではなく茶屋であり、お茶とセットで浅草寺の菊供養用の菊の花を販売している設定になっているのは、上手いローカライズといえる。
(なお、川の対岸に「街の灯」が見える設定は、1931年版『蝙蝠の安さん』にある)

せっかく大阪を舞台にするなら、天神祭など、大阪特有、かつ現存する風物を入れれば良かったのに。
たとえば昭和の東映ヤクザ映画でよくある、クライマックスが祭り当日で、喧騒にまぎれて殴り込みに行く主人公、神輿や花火の華やかな盛り上がりの裏で凄惨な戦いが……!的な。鶴田浩二が天神祭の花会を仕切る博徒役の小沢茂弘監督『傷だらけの人生』(東映/1971)とか、そのあたりメチャクチャうまい。天神祭の船遊びなど、季節感と大阪らしさを両立させた風俗描写がうまく使われているし、法善寺付近の盛り場描写も上手で、近代の大阪ってええなと思えたよ。
「茶屋町の大仏」?とか、繰り返し出てくる天神橋からの風景が場所の個性を感じさせるものではないのとか、「法善寺相撲の段」も法善寺感がないのとか、地名を利用してるだけなのは勿体ないと思った。せめて、もう少し「いまにつながる」感を出したほうがいいのでは。幕末舞台なせいで、大阪の「街の灯」の象徴、通天閣(1912年、明治45年・大正元年の創業)が使えなくて迷走したんかな⋯⋯。

というか⋯⋯、せっかく2026年にやるんだから、「異世界もの」にすればよかったのでは。和風スチームパンクな世界観の、空想上の近代に。例えが古くて申し訳ないが、『サクラ大戦』とか『葛葉ライドウ』とか、近代日本スチームパンクであること自体に人気のあるエンタメようけあるのに、勿体ない。と思った。そしたら通天閣も出せて、「おお、大阪の『街の灯』が見えるで〜!!!」感まんまんやん? そ〜ら〜に灯がつ〜く通天閣に〜 お〜れ〜の闘志がまた〜燃える〜♪♪♪


言葉遣いについては、プログラムの脚本家寄稿に「近世初期の大坂言葉を体に入れた上で」とあるが、実際には近代以降の言葉になっている。特にセリフは現代の大阪弁。近世的なワードチョイス、文法かという観点からすると、第一部『雪狐々姿湖』の有吉佐和子のほうが精度が高い(当たり前か?)。
本作の場合、古語として不自然に感じる文章も混じっている。昭和期に復活され、詞章が原作からアレンジされた『曾根崎心中』の文章は、古語としておかしい部分が多数あるとよく言われる。しかし、曲として聞いているだけなら、気にならない。ただ本作の場合、聞いた瞬間違和感を覚える文章が結構あるような⋯⋯。言い回しに違和感のあるものは、技芸員から指摘してもよかったのでは。文章のこなれていなさは、正直、かなりの度合いで気になる点である。

 

 

 

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以下、文楽公演の実演としての具体的な内容。

作曲の友之介さんが意欲的に頑張ったということはよくわかった。
文楽の場合、「新作」は技芸員主体で作られるものではないためか、「頼まれたからやっている」ことが透けて見えるケースが非常に多い。与えられた課題に対してどう対応するかに真面目にやっているのはわかるのだが、主体的な創造行為ではないことが感じられてしまうというか。
しかし、今回の作曲・三味線は、「こういうことがやってみたい」「これを機にやってみたかったことをやろう」という前向きさや野心を感じるものだった。荒削りでも、まず形にすることは、とても大事なことだ。友之助さんにとって今回がその機会となって、よかったと思う。
作曲それ自体については、ミュージカルのように、シーンによって曲調を変えたほうがいいんじゃ?と思った。正確には友之介さんの責任ではなく、「シーンによって曲調が変わるよう脚本を構成する」必要があるのだと思う。
謡じゃないのにウタイガカリになっている箇所が何回も出てくるのはかなり気になった。これも、脚本で謡を採用すりゃいいのでは? 曲調に変化が出るし、与次郎にせよ勘右衛門にせよ謡ができるってなるとキャラ付けもできるんだしさ。と思った。

実際の舞台演奏に関しては、作曲者と実際の演奏の意図がずれている箇所があるように感じられた。
新作だからある程度は仕方ないと思うが、若い方は頑張りはわかるのだが、「変わった曲」を演奏すること自体に囚われていて(三味線は譜面ありで演奏)、曲想の表現まではなかなか辿り着けていないケースもあるように感じた。アイドルのコンサートへ行ったかのような、頑張りそのものを楽しめたという側面はある。けど、古典芸能としての奥行きを出すとしたら、メロディ自体で曲想が直感的にわかるようにするか、さらに稽古・実践を重ねて慣れるかしかないかなと思った。
また、太夫はこれみよがしな大間に語っているのに三味線は先に行っているなど、チグハグが感じられた箇所があった。特に後半の出だしには太夫と三味線の間に大きなずれを感じた。今回に関しては、その場が大間である必然性は感じられなかった。が、大間なところも作らないと義太夫としてノッペリするのは事実。「リズムが変わるところを積極的に作る」意識をもって脚本・作曲を調整したほうがいいと思った。義太夫は原作映画のような西洋音楽とは間合いの意味合いが違うことがさらに意識されれば、より密度の高い作曲、そして、実践としての演奏になると思った。

 

 

人形演出に関して、「与次郎」性のよさは先に述べた。
「与次郎」性以外の動きについては、「スラップスティック」を勘十郎さんなりに表現したということだと思う。いまの状態を「動きが多いのが面白い」と考えているんだろうなということはわかるのだが、「手を直線的にバタバタさせる」パターンが多すぎるような。どのシーンも同じ、既視感のある内輪ネタっていうか⋯⋯。
良くも悪くも、観念としての無邪気な「スラップスティック」ということかな。私とは「パントマイム」の意味の認識がちょっと違うのかもと思った。
これを、ヌルい、いい加減すぎる、チャップリンのスラップスティックはこんな程度じゃないとお怒りの方もいるかもしれない。しかし、「スラップスティック」⋯⋯、よっぽどのセンスじゃないとかなりの「地雷」だから、やらなくて正解だったかもしれん。コメディアンとしては一流だった愛川欽也とかクレージーキャッツでも「スラップスティック」やろうとしてかなりやばいコケ方してるし⋯⋯。スラップスティックとミュージックを融合させた『ブルース・ブラザース』(米/1980)は奇跡だと思うよ⋯⋯。そういうの研究せずに、素朴にやってんだろうけど、とにかく、やらんくてよかった。と思った。(『ブルース・ブラザーズ』は観た方がいいが)

キャラ作りは於いて、実際の見え方には、垢抜けないというか、そもそも何をしているのかよくわからないところが多いのではと思えた。
「天神橋出会いの段」でいうと、駕籠に乗って走り去った「旦那様」が花を買ってくれた人だとお花が思い込むところがかなり分かりづらかったり(なぜ左にいた与次郎と右から来た「旦那様」を取り違えるのか意味不明)、その後、与次郎が勘右衛門を助けようとして溺れるシーンが溺れているように見えなかったり(川べりと水面の高さが同じすぎて状況がよくわからない)。
こういうのは、見た瞬間わからないといけない。溺れるシーンは『日高川入相花王』のように高いところから飛び込むようにすれば解決しそうで、与次郎は人のために思い切ったことが出来る感も強調されるように思った。しかし、原作に寄せようとしすぎて(嵩上げされていない川べり・川を横から見た構図は映画と同じ)、かえって迷走しているのかなと思った。

 

 

個別のパフォーマンスについて。
久兵衛〈吉田玉佳〉、勘右衛門〈吉田簑二郎〉、番頭藤八〈吉田玉助〉は、役としての区別がついてないよな〜⋯⋯。と思った。文章で区別ついてないから仕方ないとも言えるけど⋯⋯。ウッスラ気弱で大人しい性格の与次郎を引き立てるためにも、出番一瞬の久兵衛はともかく、勘右衛門・藤八にはゴリゴリに行ってほしいところ。
簑二郎さんは、ちゃんと演出すればもっとできるんじゃないかねぇ。酔っているときと醒めているときの区別とか。また、勘右衛門が死にたがっている理由は「最愛の妻を亡くしたから」という裏設定があるはずなので(『蝙蝠の安さん』でそうなっている)、最初に与次郎と出会うときなど、落ち込み方をもう少し工夫できそうに思った。

お花は勘彌さん。深雪の延長上の、透明感のある大人っぽさ可憐さの同居が魅力。お花(というか原作映画のblind girl自体)は正直言って「おじさんの妄想」としか言えない都合のいいキャラだが、その臭みを感じさせない表現になっている。勘彌なら! おれたちの妄想を!! かなえてくれる!!! 感が満々だった。(絶対に御注進しないでください)
余談だが、お花は与次郎と何度も会っているにもかかわらず、最後のシーンでは、その声を聞いても与次郎だと気づかない(手を握るまでわからない)という違和感がある。サイレント映画では声がないので気にならないが、これだけぺちゃくちゃ喋りまくりの会話劇で気づかないことには違和感がある。本作の場合、全シーンで「お花は与次郎の手を握らないと、与次郎として認識できない」という設定にして回避しているのだと思うが、今度は各シーンで毎回わかっていないのがあまりに愚鈍すぎに見えて、なかなか厳しい。『生写朝顔話』宿屋でも、深雪は駒澤の声を聞いてもわからなかったんだからいいってことなのか⋯⋯。
なお、1931年版歌舞伎『蝙蝠の安さん』では、お花は主人公の声を聞いても誰だかわからないことが明確に示されている(失明したのが半年程度前で、目の不自由な暮らしに慣れていない設定)。また、先述の通り、主人公は遠慮してお花の手をあまり握らないので、最後にお花が気づくのが遅れることが自然に感じられるようになっている。かつ、オリジナル設定で、お花は相手が主人公だと完全に確信していない設定になっている。

太目山が玉勢さんというのがヤバい。いや人形は大変立派な力士でした。肉襦袢の役は難しいのに姿に崩れがなく、動きの形も綺麗でシャキッとしてました。往年の千代の富士を思い出しました。でも玉勢さん自身は「蚊細川」な感じだから⋯⋯。容姿を商売にしていない人の容姿をどうこう言うのは大変に失礼なんだけど、出遣いだとどうしても⋯⋯。黒衣にするか、玉助さんと役を交代するか、スペシャルゲストで極太玉男さんにやってもらったほうがえかったかも。と思った。

お花の母〈桐竹紋臣〉は穏やかで良い。良いのだが、演出におかしなところがある。道に落ちた花をホウキでポイポイ掃く、『瓜子姫とあまんじゃく』の最後にババアがホウキで掃いてニワトリ(瓜子姫の友達)を追っ払ってるのと同じく、バイオレンスババアすぎんか?と思った。原作映画ではもっと汚くなったボロクソの花を掃いているのでいいのだが、綺麗な花を平気で掃いていると、米洗っている最中に排水溝にボロボロ流しても無頓着な人を見たみたいで、びびってしまう。モントミチャンハソンナコトシナイ。
お花の母は、自分たちは弱者発言をしながらも、別の場では与次郎を見下す発言をするなど、言動にチグハグがあるように感じた。最後の場面、本作では母のみならずお花も与次郎を汚いものとして扱っているが、原作映画および歌舞伎『蝙蝠の安さん』では、ヒロインは主人公を汚いには汚く思っても、元来の優しさでもってお金とお花をあげようと自ら寄ってくる設定になっている。本作の場合、あまりにも「見た目で判断するやつはバカ」と見下したがりすぎて、ヒロインのキャラまでおかしくなっている気がする。

最後に出てくる「西洋服の男」が、やばい〈吉田和馬〉。ツメ顔のくせに、異常に背筋がピンッッッッッッとしていて、ステッキを扱う手つきが華麗すぎる。昨日今日「開化」した「日本人」はこうはなんねぇだろッ。さすが和生の弟子というか、「和生監修」のオーラを感じる。

そのほか、左はわりとちゃんとした人が入っている役があるように感じられた(いのこりおじさん大発生)。
人形配役については、いろいろ事情もあるだろうが、和生さんや初代玉男門下などの確実なパフォーマンスを見込める人も投入したほうがよかったと思った。

 

 

 

 

 

  • 義太夫
    • 序 茶屋町大仏開眼供養の段
      豊竹希太夫/鶴澤清公
    • 二段目 天神橋出会いの段・三段目 道修町大文字屋の段
      与次郎・お花 豊竹希太夫、勘右衛門・藤八 豊竹亘太夫/鶴澤清公、鶴澤燕二郎
    • 四段目 天神橋再会の段
      豊竹亘太夫/鶴澤燕二郎
    • 五段目 法善寺相撲の段・六段目 大文字屋盗人騒動の段・大詰 天神橋まちの灯の段
      切=豊竹若太夫/鶴澤友之助、鶴澤清公、鶴澤燕二郎(一部ツレ弾きなしの日程あり)
  • 人形[三段目まで黒衣、以降出遣い]
    柳屋久兵衛=吉田玉佳、僧侶=桐竹勘介、与次郎=桐竹勘十郎、お花=吉田勘彌、吉田勘右衛門=吉田簑二郎、 番頭藤八=吉田玉助、お花の母=桐竹紋臣、太目山=吉田玉勢、役人=吉田玉路、西洋服の男=吉田和馬

 

 

 

■

『まちの灯』の前に、『寿柱立万歳』がついていた。

ついていたとしか言いようがない「謎の演目」だけど、人形〈太夫=吉田玉誉、才三=吉田玉翔〉は非常によかった。万歳系演目の場合、下層の門付芸人としてスレて疲れたところのある二人組も良いのだが、玉誉さん玉翔さんはさっぱりと清々しい二人組。また、立ち上がりのタイミング、足拍子などがきちんと揃った「コンビ感」があり、景事として気持ち良い踊りだった。

しかし、三味線がハチャメチャすぎではないだろうか。人形、どうやって踊ってんだ。念力?

 

↓ 上っ張りが近年おニューになったのは告知されていたが、下のシマシマ小袖もおニューになった?

 
 
 
 
 
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  • 義太夫
    太夫 豊竹睦太夫、才三 竹本小住太夫、竹本聖太夫、竹本織部太夫、竹本文字栄太夫/竹澤團七、竹澤團吾、鶴澤寛太郎、野澤錦吾、鶴澤清方
  • 人形
    太夫=吉田玉誉、才三=吉田玉翔

 

 

■

公演全体としては、『街の灯』において、人形、演奏(特に後半)とも、出だしはいかにも頑張っているが、メインの役がどんどん失速していくのが⋯⋯。と思った。
人形に関して言えば、与次郎は動くにしても、同じ位置で正面向いたまま手足だけバタバタしているだけになっている。最初の「開眼供養」以降は特にそう。床にしても、後半パート、最初はいかにも重厚風な語りだしなのに、どんどんフラットになっていく。
いずれもシンプルに体力不足だと思うが⋯⋯、もうみんな織り込み済み、諦め済みってことなのか⋯⋯。

最後のシーン、幕が閉まっても床を回さず、最後に太夫三味線が礼をして終わりとしていた。
「映画ではエンドマークが出ても音楽が流れている」とか「2019年版『蝙蝠の安さん』では花道を使った演出で終わりだった」のような、「余韻」の演出のつもりなのかもしれないが⋯⋯、文楽だと、演奏が終わるより前に床が回って太夫三味線が姿を消すほうが、余韻があるように思った。『義経千本桜』二段目の知盛の最後をどうするかもそうなんだけど、文楽って、「余韻」の解釈が独特な人が一部におるってことなんだろうか。それとも、ピュアに目立ちたがり……ってコト!?

そして、これは出演者や劇場側の責ではないけれど、「今じゃないだろ」ってときに声かけてる人は、何⋯⋯⋯⋯⋯⋯????

 

 

 

本作を見た翌日、ちいかわの映画『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』を観に行った。

夏休みの子供向け映画で、「ちいかわたちが南の島を(闇)バイトで訪れて、B級グルメをエンジョイ&島に生息する怪物に追いかけ回されて大冒険♪」というのが大まかな筋だが、「大冒険」にならざるを得なくなったのには、とある「事件」が発端になってたという構造をとっている。
事件の「真相」は二重底になっているが、それそのものは「類型的」で「月並み」なものだ。しかしこの作品が面白いのは、『ちいかわ』には言葉を喋れないキャラが多く、本作はそのキャラが重要な役割を果たしているところにある。

最近公開された原作者・ナガノ氏のインタビューに、興味深いことが掲載されていた。

(質問)セイレーン編を描きはじめる際、初期の構想から変わったことなどはありますか?
元々のラフでは、ヒトハとフタバは顔もセリフもあるキャラクターだったのですが、あまりに喋りすぎだなと思い、セリフがない方が好きなので、顔もセリフもこちらには見えない、聞こえない形のキャラクターにしました。

https://chiikawa.toho-movie.jp/interview/nagano.html

「ヒトハとフタバ」とは、『映画ちいかわ』の裏の主人公ともいえる二人組のキャラクターだ。島の無垢な住人とともに、島へ来訪したちいかわたちの歓待係として登場し、つねに二人一緒に行動している。原作漫画・映画ともに、二人は全身がグレーに塗りつぶされ、顔は描かれていない。その他大勢の「モブキャラ」と同じで、セリフを発声することはなく、ジェスチャーで意図を示し、時折唸り声を上げるのみになっている。また、上記では名前で呼ばれているが、本編中には名前は出てこず、「無名の人物」である。

 
 
 
 
 
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この二人にはセリフという「説明」はないので、観客は「行動」自体から彼らの心のうちを想像するしかない。本作は子供向けに作られているため、ほぼ誰にでも推測できるよう、かなりわかりやすく出来ているものの、それでも、一番大切なところは観客に委ねられている。
二人にとっての「友情」とは何か。
二人の友情と、ちいかわ・ハチワレ間の友情は違うものなのか。
観客の「想像」によって、映画の世界はより広がってゆく。映像上はグレーアウトした顔、唸り声しか出さなかったとしても、観客には彼らの顔が見えているし、声が聞こえている。

……って、なんで『ちいかわ』のほうがサイレント映画的な表現が上手いんだ?????

いやほんと、なんなんだ?????

なぜ文楽の新作はこれ(「説明しない」)が出来ないのか?????
『ちいかわ』も子供向け、万人向けに作られてるのに???????

ていうか、なんで『ちいかわ』のほうが黄金期の義太夫並みの壮大な悲劇なんだよ⋯⋯⋯⋯。

ミュージカル調の演出もうまくやってて、「聴かせどころ」も作ってあったしさ〜………。

ハーーーーーーーーーーーーーーーッッッッ⋯⋯⋯⋯⋯⋯。(くりまん)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■

最後に、なんだかなぁと思ったこと。(まだあるんかい)

本作は、「完全にチャップリン」という脚本家コメントからも伺えるように、チャップリンサイドへの「誘引」が、すごい。
歌舞伎『蝙蝠の安さん』は、1931年版の時点では、蝙蝠安(与話情浮名横櫛)のキャラからインスパイアされた歌舞伎オリジナルの場がいくつか設けられている。
しかし、2019年版ではそのオリジナル要素はカットされ、主人公の性質、採用エピソードとも映画に近づけてあるという。
2026年文楽版は、それよりもさらに映画へ寄せられているのではないかという印象を受けた。わりと、まんま、「映画のダイジェスト」なのだ。これって『街の灯』の副音声解説動画?の感がある。

これは、「もはやチャップリン映画を観たことのある人は少ない(みんな名前を知っているだけ)」ためにそうなっているのだと思う。
が、そうなってくると、文楽として、一体なんのためにこの公演をやっているのか? 文楽を使ってチャップリンのプロモーションをしてるってこと? という状況が発生しているように感じた。

2019年の『蝙蝠の安さん』は、主演の松本幸四郎の意図で、もともと『街の灯』の映画自体に寄せたいというコンセプトがあったそうだ。関係者や国立劇場の思惑もあるだろうが、そういうふうに演者発信でのコンセプトが強固ならチャップリン寄せでもよかったし、観客も納得すると思うけど、「ウットコ」は⋯⋯⋯⋯。
いろんな組織、いろんな人に、文楽を「利用」されているようで、私としては、悲しかった。サイレント映画への無頓着さは映画好きには残念に思ったけど、文楽好きとしては、今回はこれが一番、ショックだったかも⋯⋯。

 

 

 

 

┃ 参考文献

  • 五十嵐由佳「チャップリンの『街の灯』と二つの翻案歌舞伎『蝙蝠の安さん』」東洋大学人間科学総合研究所紀要 第23号/2021
  • 木村錦花作『蝙蝠の安さん』歌舞伎台本、松竹大谷図書館蔵
  • 国立劇場歌舞伎公演上演台本『近江源氏先陣館 盛綱陣屋(一幕)蝙蝠の安さん(四幕八場)』国立劇場/2019
  • 国立劇場『国立劇場上演資料集646 近江源氏先陣館 盛綱陣屋、蝙蝠の安さん』日本芸術文化振興会/2019
  • 歌舞伎座筋書『昭和六年 吉例納涼八月興行』1931

 

 

 

文楽 7・8月大阪夏休み公演『雪狐々姿湖』 国立文楽劇場

*写真は2025年初春公演での『雪狐々姿湖』使用狐ぬいぐるみ展示

今年の第一部子供向け公演は、昭和期の新作『雪狐々姿湖』。

『雪狐々姿湖』あらすじ

崑山の秋
秋。崑山に住む白狐・白百合〈豊松清十郎〉が、人の通る道へやってくる。彼女を心配し、許婚・コン平〈吉田玉翔〉、じいやのコン蔵〈吉田玉誉〉、弟の右コン〈吉田玉路〉・左コン〈吉田和馬〉、祖母の白蘭尼〈桐竹勘介〉がやってくるが、白百合は帰らないと言う。
白百合は、半年前、人間の来る場所で居眠りをしてしまった自分を狩らないで解放してくれた猟師・源左〈吉田玉佳〉に恋をしてしまい、コン平への詫びに源左に撃ち殺されようとここへやって来たのだった。白蘭尼は死ぬよりは源左の妻になって生き延びるべきだと言い(「え゛⁉️‼️⁉️⁉️」となるコン平)、願いを叶えることができるという宝珠を彼女へ与える。白百合は宝珠の力で人間の娘に変身し、山を下りてゆくのだった。

猟師源左の家
冬。源左の女房となった白百合は、猟に出かける夫を見送り、源左の母〈吉田勘市〉とともに彼の帰宅を待ちながら家事に勤しんでいる。どこかから狐の鳴き声が聞こえてきたことに不安を覚える白百合が母を寝かせると、弟の右コン・左コンがやってくる。姉の不在を寂しく思う二匹は、白百合に狐へ戻って里帰りをしてほしくてやってきたのである。白百合は二度と狐に戻る気はなく、源左に添い遂げる覚悟を告げて、二匹を追い返す。
やがて起きてきた母と話しているうち、遠くで銃声が聞こえる。もしや弟が源左に撃たれたのではと不安になる白百合、果たして帰宅した源左がかかえていたのは右コンだった。弟の死骸を前に白百合は卒倒する。源左と母は懸命に介抱するが、白百合はなかなか気が付かず、母は嫁の回復を彼女の大事にしていた宝珠に願ってみようと言い出す。白百合は源左と母には宝珠を大切なものだと伝えて神棚にまつり、二人には触らないように頼んでいた。母が宝珠を神棚から下ろすと、人間が触れたために宝珠の神通力が消え、白百合は狐(というか、葛の葉のような白モケの「半妖」)の姿に戻ってしまう。狐となった白百合は飛び去る宝珠を追いかけて姿を消す。

冬の湖畔
宝珠は凍結した湖の上で舞い踊っていた。白百合は宝珠に追いすがり、再び人間の姿に戻してくれるようにと願う。追いかけてきた源左と母は、氷の上で狂う白百合を呼び戻そうとする。源左が「お前はわしの女房じゃぞ」と叫んだとき、白百合は宝珠を掴んで人間の姿に戻る。しかしそのために氷が割れ、彼女は冷たい水の中へ沈んでいくのだった。

 

 
 
 
 
 
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高見順作の舞踊劇「湖の火」(初演1955)を有吉佐和子が浄瑠璃化したもの(初演1956)。

昭和期に民話ブームがあったことはなんとなく知っているが、本作もその影響下にあるのか、土着性を廃した抽象的な「日本の原風景」が舞台であり、近代的な民話解釈の気配に満ちている。
個人的に、昭和期の「民話」ものは、そのわざとらしさが鼻について好みではない。私は古典は現代から隔絶した野放図だから好きなのであって、現代の感覚を「古」へ擬したものは好みではない。本作もそれは免れていない。ただし本作はベースは現代口語ながら、つなぎのワードなどが擬古文に寄せてあり、文章を聴かせることによる面白さがあった。

 

まず最初に、本作の「新作」企画としての感想を述べたい。

文章そのものはかなり自然。基本的には口語のセリフ劇として展開されるものの、浄瑠璃的な語彙が多いために、近世的、浄瑠璃的な文章になっている。
「ほかの男に気を移す」を「見返る」と書くなど、単なる「わかりやすさ」基準ではないワードチョイスや言葉の畳み方にはセンスを感じる。浄瑠璃では、大きなイメージを短い文字数に圧縮させ、高速で演奏するといった、時間の伸縮をコントロールするテクニックが頻繁に使われる。具体的には、「寺入り〜寺子屋」などで顕著である。この手の技術、ほかの「新曲」ではみたことがなかったので、驚いた。たいてい、わかりやすい(笑)文章ダラダラ、それに合わせて曲ダラダラになってるからさぁッ。「寺入り」のスピード感の巧みさなんて、新作では全く出来ていないよねッ。新作や現代語訳の制作では、七五調にすればテキストとして完成するかのような物言いがあるが、文字数によるスピード感のコントロール、時間の伸縮をどう描くかが意識されていないと、「浄瑠璃」にならないと思う。

「崑山」「源左の家」は、舞台としての見え方が優れていた。
「崑山」では、回想シーンの挿入がある。屋外をしめすノッペリとした書割自体は大味だが、暗転とともに回想の主体である白百合以外の狐がはけて、舞台上で源左との出会いを再現し、回想が終わると再び暗転して仲間の狐が姿を見せる。単純・素朴ながら、観客の感覚としての変化は大きい。
「源左の家」では、家の大きさによる場所感の違い(土間・囲炉裏端・奥の座敷的なスペース)や壁の割れ目から屋外が見えるなど、大道具の構造に工夫があり、視覚的変化の効果が高い。この点は新曲として非常に優れている。特に「源左の家」の壁の穴の「こわさ」は秀逸。家は人形に対して極端に建屋が大きく、その大きさが人形の「ちっちゃさ」を強調し、物語がいかにも作り事めいて見えるのはよかった。

しかし、「冬の湖畔」は、湖上の狭い範囲で動きが完結するため、ものすごくノッペリしている。本作の「狂い」は舞台奥側で展開され、船底の手すりキワで行われる『日高川入相花王』の清姫の川渡りのようなスケール感がなく、いまいち「映え」ていない。「人形入れ替えてんだなー」「ばたばたしてんなー」と「わかる」以上の効果があまりない。
やることが「狂い」しかないのも気になる。シンプルさが「シンプル」として映えておらず、スカスカな印象。『壺坂観音霊験記』「山の段」のお里の単調さをカバーできる清十郎さんがやって「これ」となると、演出がまずいということになる。走り込んできたときにどういう動きであるべきか、「狂い」を舞踊としてどう表現し、どのように必死さに変化をつけていくか、氷に落ちるときをどう見せるか。「昭和」のころの「有名舞踊家の振り付けスゴイ」的センスそのままでは、現代の鑑賞に耐えないように思った。特殊な照明やスモークなどを使い、幻想性を盛り上げてもよかったのでは。それとも、「昭和」のセンスを「古典」として残していきたいという意図なのだろうか?

なお、今回の舞台装置は、初演時のデザインをベースに作られているようだった。

 

ていうか、わし、宝珠はドラゴンボール的に3つの願いを叶えてくれる系の宝なのかと思っていた。
ひとつめは「人間になる」という願い。ふたつめは「白百合を元通り元気にさせる」という婆と源左の願い。そして最後の3つめは、白百合は人間の姿に戻ることを諦め、右コンを生き返らせて共に山へ帰るということなのかと思った。そうでなく、右コンの死は秒で忘れたんかっていう状態のままで、人間の姿に戻り再び源左の妻になる願いを叶えたかったってことね(もともと化ける系の機能しかない?)。不自然なまでに執拗に感じる「恋愛至上主義」感が混入しているのは、昭和の恣意的に作られた民話っぽいなと思った。

 

 

 

■

出演者への評価。

人形遣いの演技面については、例年通り、子供向けとはいえ(であるがゆえに?)、ちゃんとした人を揃えているため、美しくまとまっている。

白百合は「崑山の秋」「冬の湖畔」に病的な雰囲気があり、「源左の家」でも不安に苛まれるシーンが長いため、清十郎さんに似合った配役だった。冒頭、きつぬい姿で源左を想いグッタリしている様子、回想部分で源左に見つかりおびえながらも寝たふりをする様子、女房姿で弟の死骸を見て卒倒する様子などが良い。いずれも微妙に異様なのだが、清十郎さんは良くも悪くも近年人形がかなりかしいでいるが、白百合は化生の者のため、かえって適合している。まともにやってはならない役だ。正直なところは白百合はシャープな華麗さのある勘彌さんで、清十郎さんには哀れさが必要な第三部のお花をやってもろうたほうがえかったかなとは思う部分もあるけど、昭和の新作民話の持つ「気持ち悪さ」は非常によく表現されていた。

コン平はよくいる白狐とは異なり、しきりにシッポをビコンと振り上げる演技をしていた。コン平に元々そういう振り付けがあるということなのか、玉翔さんの判断なのかはわからないが、やたらビンビンさせている。シッポは可動域を広げるため、お尻にあけた穴にシッポパーツを差し込むことで組み立てられているようなのだが、シッポを振り上げるたび、付け根のこの穴が見える。それがどう見てもポムポムプリン的な意味の*️⃣で、SNSで日々飼い猫の*️⃣写真を披露している人を見るような気分になった。

*️⃣が見えない惜しい写真。でも、顔のかわゆさはわかります。

 
 
 
 
 
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右コン・左コンのこぎつね兄弟は、通常の狐よりも毛並みがモコっていて可愛らしい。動きがあどけなく、人によく懐いた小型犬のような愛らしさがあった。
源左の家からの帰り際、右コンは白百合に足を戸で挟まれて「痛い痛い」と言う。その後、源左に撃ち殺されるのは右コン。白百合がケガをさせたために逃げ遅れて死んだということだろうか。わし、人は生首になろうが切腹しようが大はしゃぎなんじゃが、動物が(特に「人間」のせいで)死ぬのは無理なので、めちゃくちゃ怖かった。毛が生えていて四つ足の生き物が死ぬのが特にダメ。こういう目に遭って死にそうなのはタマミチというよりカズマなイメージがある。

源左は勘平をものすごく賢くしたような感じだった(クソカス失礼)。というか、衣装は勘平そのまんま。どういう人物なのかが正直よくわからないキャラなのだが、配役が玉佳さんなので動きや雰囲気が安定しており、安心して観ることができた。

 

このような口語系の「新作」の場合、太夫の語りが「語り」ではなく「心を込めた朗読」になっている場合がよくある。三味線もその「伴奏」だったり。もはや文章が「心を込めた朗読で読む用の物語✨」になっちゃってるがために仕方ない部分もあり、出演者にとっては酷な状況であると思う。また、逆に、いかにも義太夫めいた「重厚ぶり」を出しても文章との乖離がある(「重厚」な新作があるならそれが良いんだけど……)。いろいろな方面において、研究課題なんだろうなと思った。

 

 

 

■

以下は、実際の舞台としての評価。
前述の通り、文章は良いのだが、演出は全般的に「???」な感じがある。

かなり気になったのが、物語に対する衣装のチグハグさ。
まず、アニマル姿の狐たちがチョッキ系の衣装を着ているのはなぜ?
そして、そのチョッキが狐の肢体に沿っておらず、だらんと垂れ下がった仕立てになっているのはどうして?
というのがかなり気になった。普通、「衣装」はその着用者の姿を引き立てるように作られるはずだが、チョッキ衣装は狐であることや狐の流線系の肢体の美しさを引き立てるものではない。一番美しく見えねばならない白百合に至っては、ピンク色の被布のようなものを着ているが、狐は四つん這いなので被布特有の襟周りのポンポン飾りが見えず、まったくもって効果的でない。
初演時の写真を確認すると、今回上演と同じ衣装を着ている。ということは有吉佐和子もこれを認めていることになる。この物語の狐はマジモンのアニマルとしての狐ではなく、被差別民の比喩という路線でやってんのかね。近い時期の内田吐夢監督の映画『恋や恋なすな恋』(1961年公開。『芦屋道満大内鑑』の映画化)でも、葛の葉の「狐」性は被差別民の比喩かのように描かれていたので*1、昭和30年代に流行した解釈なのか。
というのは穿った「考察」だろうが、着せるなら着せるで、前身頃を短くする、垂れ下がる部分はマジックテープなどで胴体に固定するなど、狐のしなやかな体を美しく見せる工夫をしてほしい。そのへん歩いとる犬かて体型に合った服着せてもろうとるんやから。また、狐の毛色に合った生地の選定も重要だと思う。
『和田合戦女舞鶴』の板額の「つけたし陣羽織」もそうだったけど、着たときに美しくないものは「衣装」ではない。白百合の衣装の不自然さについては初演時の吉永孝雄の劇評にも指摘があるようだが、検討したことはないのだろうか。

人間姿での衣装をどう見せるかも、迷走しているというか、あいまいなまま愚直に前例踏襲しているのではという気がする。
白百合が最初に人間に化けたときの姿(紅葉柄の振袖、けもみみカチューシャ風のかんざし)は、直前の白狐にピンク被布の姿、その後の黄色の石持の女房姿、白フサ衣装とイメージが大きく乖離しており、一人の人物としてそれぞれがどういう関係にあるのか、まったくわからない。周囲の席のおこさまたちは、この「お嬢様」が後で出てくる女房と同一人物であると理解できておらず、保護者の方(目がガンギマリのツメ人形)が教えていた。

これは衣装の責任ではないが、白フサ衣装=狐というルールを知らないと、最後になぜ氷が割れるのか、まじでよくわかんないという大きな問題があるように思った。初演当時はあの白フサの衣装が狐の比喩だと観客のそれなりの割合の人が知っていたんだろうけど、現代では無理だ。と思った。


子供向けだからなのか、「崑山の秋」と「猟師源左の家」、「猟師源左の家」と「冬の湖畔」のあいだの大道具転換の暗転中には、字幕に状況説明の文章が表示されていた(白百合は源左の妻になりました、貧しくとも幸せな暮らしでした、とか)。これに加えて舞台前面に降ろされた幕には風の流れのイメージ映像が投影されており、つなぎが意識されていた。
昨年これはないやろーと思った「大道具転換に時間がかかりすぎ、没入感断絶」が改善されたのは、良かった。今後すべての子供向け公演でやるべきだと思う。また、現代の新規新作であれば、その間も義太夫の演奏を続ける演出・作曲にしたほうがいいと思う。

 

*冒頭に載せた、以前ロビーで参考展示されていた白蘭尼、コン蔵、右コンのぬいぐるみの詳細写真です。

当時はスッポンポンでした。尼さんでもスッポンポン。東映か。

津國さんに似すぎ。

こいつには*️⃣はない。



 

  • 義太夫
    • 崑山の秋
      白百合 竹本三輪太夫、白蘭尼 竹本南都太夫、コン平 竹本咲寿太夫、右コン 豊竹薫太夫、左コン 竹本織栄太夫、コン蔵 竹本津国太夫/鶴澤清友、鶴澤清志郎、鶴澤清馗、鶴澤清𠀋、鶴澤藤之亮
    • 猟師源左の家より冬の湖畔
      竹本織太夫、ツレ 竹本碩太夫、ツレ 竹本聖太夫/鶴澤清公、ツレ 鶴澤清允、ツレ・胡弓 鶴澤清方(鶴澤清介全日程休演につき配役変更)
  • 人形[全段黒衣]
    白百合=豊松清十郎、コン平=吉田玉翔、コン蔵=吉田玉誉、猟師源左=吉田玉佳、源左の母=吉田勘市

 

 

 

■

逆順となるが、『雪狐々姿湖』の上演前に、例年通り、「文楽ってなあに?」の解説があった。

今回私が見た回は勘介さんの担当だった。観客に向き合う気持ちが感じられる、大変すがすがしいものだった。いかにもそら覚え棒読みしてます、でなく、観客に伝えようとする意思をもって喋っているのが良い。解説は観客とのコミュニケーションになっていなければならない。その心がけが、最終的に、舞台へも現れると思う。
(おこさまズは初めて見る「アイパー」にうっすら衝撃を受けていた)(場内に漂う え? みたいな空気)

なお、実演の足が清之助さんだったのだが、雅楽之助の足拍子が女形みたいだったのが微笑ましかったですね。うたちゃん、美少女やったか⋯⋯。

 

解説=桐竹勘介(中期)

 

 


■

今回のプログラム巻頭には、有吉佐和子記念館の館長による寄稿が掲載されている。そこには初演制作当時の経緯が解説されており、推測ながらなぜ当時松竹が有吉に文楽の新作をオファーしたかの経緯などは興味深かった。

本作は初演時、有吉佐和子自身が舞台稽古に立ち合い、「演出」を行っていたという。寄稿にも引用されている有吉のエッセイ「文楽演出後記」(『ずいひつ』新制社/1958)によると、自分はシャカリキになって「演出」し、いかに彼らを「使う」かに固執していたが、出演者たちは素直に従い、有吉の不安をよそに本番では想定以上のパフォーマンスを行ったという。有吉はこれより前に邦楽の詞章を書き、地歌の演奏者の頑迷さにかなり手を焼いた等の経歴があるようで、とにかく文楽の出演者は「素直」であったことが強調されている。そして、自分は「人間」を動かすことはできても、「人形」を動かせていなかった、それは彼ら(と文楽の「伝統」)が完璧にこなしてくれた的なことが述べられている。

しかし、舞台稽古に立ち会っていた吉永孝雄は、稽古を以下のように回想している。

 新作で一番成功したのは『雪狐々姿湖』ですね。 あれは、有吉佐和子さんがしっかりしてましたよ。 僕は立ち合うたからよく知っているんですが、あのとき有吉さんはまだ二五、六歳だったと思うんです。(略)作家としてはまだ名前は知られていなかったですね。それが新劇の演出家みたいにやるんですよ。亀松さんが源左を遣って鉄砲を持って、狐を追いかけていくところやったかな、とにかく鉄砲持ってこうやっているときに、何かの拍子に、有吉さんが「それはいかん。こうやりなさい」と言うたんです。亀松さんが「そんなのやられませんわ」と言い返したんですよ。 すると有吉さんは「やられなかったらやめなさい」と。
 亀松さんはこっち向いてプンとして、有吉の方は平気な顔ですよ。亀松さんも明日が初日でしょう。 やめられへんですわ。あのとき僕だけじゃない、皆びっくりしたんですよ。 文楽にはそんな演出家はないんです。あっても、「こうやれ。ああやれ」なんて言わんですわ。「こうしたらどうでしょうか。これのほうがいいと思いますが」とか、非常におだやかに婉曲に言うわけですけれど、有吉はパーンとやったでしょう。
 いや、それでよくなりましたよ。いいかげんにやらずに、みなピンとしてね。(略)でも文楽の人は、そんなに激しい演出をするとは思わなかったんじゃないですか。やはり文楽にもそう いう怖い演出家がいたほうがいいですね。(後略)

吉永孝雄 =述、園田学園女子大学近松研究所=編『吉永孝雄の私説昭和の文楽』和泉書院/1995

これはね〜。そうだろうな〜。と思うよね。修行は厳しいと口にする技芸員は多いが、それはあくまで内輪のこと。良くも悪くも、今も昔も、外部のしかも「表現」に強いこだわりを持ったクリエイターの厳しい視線にさらされることはほとんどないと思う。外部公演の新作でも、俳優ほどには厳しく演出されていないだろうなと思うし。いまは、その良し悪しがいろいろと出てくる時代のような気がする。

(ただ、『雪狐々姿湖』当時は、松竹が新作を「粗製濫造」しており、観客は「こっちが根負けして文句言わんくなるのを待っとるんか?」と思うほど「辟易」していたと言われている。それは出演者も同じで、モチベーションが維持できていなかったのではと思わないこともない)

 

最後に、高見順の原作「湖の火」に対し、有吉佐和子が何を行ったかについて触れておく。
舞踊初演の「第九回 名古屋をどり」のプログラムを読むと、高見順作品は以下のような筋になっているようだ。

山中に、白百合と紅百合という狐の姉妹が暮らしている。猟師・源左の狩りに巻き込まれ、武士・雅義が怪我をする。また、白百合も源左に撃たれる。
白百合は復讐のため、源左の家へ入り込み、彼の母に化けて無理難題を言いつける。素直に従う源左に、いつのまにか白百合は恋をしてしまう。白百合が「恋がほしい」と言ったのを「鯉」と聞き間違えて、源左は鯉取りに出かけていく(ツメ人形?)。そこへ紅百合がやってきて、源左の家に祀られている宝珠を盗もうと言い出す。紅百合は雅義に恋をしており、彼が探し求める宝珠を手に入れようとしていた。しかし白百合が止めるので、紅百合は術を使って贋の宝珠を作り出し、それを持って雅義に会いに行く。そうこうしていると鯉を採ってきた源左が帰宅、本物の母も姿を見せたので、白百合は慌てて娘の姿に化ける。

紅百合が宝珠を手に入れてきたので、雅義の主家は祝いで大騒ぎである。しかし紅百合は宝珠が贋物であると言い出せなくなり、気まずい。
やがて白百合は源左の妻になっていた。そこへ紅百合が訪れ、自分も人間になって雅義の妻になりたいので、本物の宝珠を譲ってくれと頼む。しかし白百合も人間として源左の妻でいたいので譲らない。紅百合は姉の幸せのため宝珠を諦め、すごすごと帰っていく。白百合はその不憫さを見ているうち、やはり宝珠は紅百合へ譲ろうと考え、追いかける。
白百合は宝珠を持って湖を泳いで渡ろうとするが(「泳」???)、力尽きて水の中へ沈んでいく。溺れた白百合を抱きしめる源左に、宝珠の行方を尋ねる白百合。源左は、宝珠は無事に紅百合のもとへ行ったと言い聞かせる。はるか彼方に、狐火の行列が湖水の上を渡ってゆく。白百合には、それは紅百合と雅義の婚礼の行列のように思えた。

以上はヒロインまわりのあらすじだが、実際には人間の世界の武将同士の争乱が背景に描きこまれており、武士・雅義だけでなく、猟師・源左もそれに巻き込まれる設定になっていたようだ。(以上の要約はプログラム転載ではなく、私が行っています)

『雪狐々姿湖』の物語は原作「湖の火」からは大きく改変されており、別物の感がある。
白百合が自分の恋情と兄弟を天秤にかけ、兄弟を取るのが原作、自分の恋情を取るのが有吉作品ということだろうか。有吉作品には、しばしば、現代ではとても「共感」「応援」できないエゴイスティックな恋愛至上主義ヒロインが登場するが、白百合もその一種のように思える。それが痛く、あるいはグロテスクに見えないのは、文楽は人形でやっているからだろうと思った。人間でやったら正視に耐えないと思う。

なお、プログラムに掲載された「湖の火」の扮装写真を見ると、衣装は当時のファンタジック時代劇風の室町調のものだった。映画ご覧にならない方にはわかりづらい比喩で恐縮だが、昭和20〜30年代の東映によくあった、中村錦之助とか東千代之介の出ている子供向け時代劇みたいな感じ。〈新諸国物語〉とか〈里見八犬傅+東映〉で検索してみて。いま文楽の舞台で見るような、架空の田舎、架空の「むかし」を描いた「素朴さ」を強調したものとまた違ったイメージがあり、興味深かった。

 

 

 

 

■

今年のグリーティングには、狐のぬいぐるみも登場。しっぽマフラーでおともだち(「大きなおともだち」の方も含む)を歓待していた。


話がおそろしく急旋回するが、7月中旬から東海道新幹線とちいかわのコラボ施策が実施されており、今回の大阪往復でその恩恵に預かることができた。以下は、その乗車特典のARフォトフレームです。

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ロビーに来てはった…なんか…日本代表のヒト!

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  • 第一部
  • 解説 文楽ってなあに?
  • 『雪狐々姿湖(ゆきはこんこんすがたのみずうみ)』崑山の秋、猟師源左の家より冬の湖畔
  • 高見順=原作、有吉佐和子=作、四世鶴澤清六=作曲、二世西川鯉三郎=振付
  • https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2026/2026summer/

*1:この映画では、「狐」は能面をかけた俳優、もしくは淡いタッチのイラストのアニメーションとして表現されている。実写とアニメーションの合成としては黎明期の作品のようで、はからずもアートに寄っている。