TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 6月大阪鑑賞教室公演『団子売』、『双蝶々曲輪日記』国立文楽劇場

今年の大阪鑑賞教室は、前半日程へ行った。

 

 

『団子売』は、午後の部のみ鑑賞。

勉強していることと、まずは形から入っているということと、頑張っていることと、どういうことがやりたいかはわかった!!!!! 

とにかく本人たちなりに努力していることはわかった。この経験年数ではこれで標準的な出来と評価すべきなのかもしれない。が、ただただ健気なのであって、形に振り回されすぎているように思える。
形というか、「形」と、手本にしている人が味付けとしてやっているオプションとの区別がつけられておらず、フラットにならべてやってしまっているので、その人の遣い方に憧れているのはよくよくわかるものの、「わからずにやってんな」という印象が強い。
同じように健気でも、形に振り回されず、地に足をつけて勤めている人とは何が違うのか。もっといえば、単にがむしゃらに頑張っている「だけ」で何の成長もないままに何年も経過してしまう人と、デコボコありつつも着実な積み重ねがある人はどう違うのか。彼らはここからどうなっていくか。

という感じで、いろいろ考えてしまう『団子売』だった。

 

  • 〈前期日程午後の部〉
  • 義太夫
    お臼 豊竹靖太夫、杵蔵 竹本咲寿太夫、竹本碩太夫、竹本聖太夫/竹澤團吾、鶴澤友之助、野澤錦吾、鶴澤燕二郎、鶴澤清方
  • 人形
    団子売杵蔵=桐竹勘介、団子売お臼=吉田玉延

 

 

 

解説。
午後の部・鑑賞教室の回のみ見た。

毎年のように書いている気がするが、解説は本編に即した内容にできないものなのかな。「女方の人形の最大の特徴は足がないことです」と言っても、『団子売』のお臼にいきなり足があるから、違和感がある。生成AIの文によくある矛盾、たとえば「紫外線が最も強いのは、昼間10時から2時までの5時間です!」といった文章を読んだときのような「雑」を感じた。論理的に喋れ論理的に。
もちろん、私は「常連」なので、時代物の大作に登場するような女方の重要役に足がないことは知っている。しかし、初心者はそんなことわからない。せめて、静御前・政岡・八重垣姫などの有名ヒロインの写真を見せながら説明しては。

今回のメイン番組「引窓」は、ロジカルであるがゆえに現代でも理解しやすく、同時にロジックがわからなければ理解しづらい。それゆえか、解説では「引窓の開閉が昼夜を示している」ことが念押しされていた。正しくは昼夜を「比喩」しているのであって、引窓の開け閉めが現実の昼夜と連動しているわけではない。登場人物たちが(本来は絶対的なものであるはずの昼夜を)恣意的に切り替えていることを説明したほうがいいとは思ったが⋯⋯。
浄瑠璃は、登場人物がなんらかのかたちで社会のルールに違反する(罪を犯す)物語になっている。「引窓」の場合、「義理の親子は、実の親子に優越する」、つまり、「義理の親子のほうを優越させるべき」という社会の掟をママが破ってしまう。しかし、義理の子・十次兵衛は逆にそういったママの気持ちを大切にしてくれるのが物語のキモだ。こういったナラティブは、「エンタメには共感したという態度をとることがマナー」「伝統芸能は『すごい』のだから敬意を評し肯定しなければならない」と思っている初心者にはまじで理解できない。基本的な浄瑠璃ナラティブとして、「義理の親子は、実の親子に優越する」は説明したほうがいいのではと思った。

 

  • Bプロ(鑑賞教室)=吉田玉路

 

 

 

『双蝶々曲輪日記』引窓。

午後の部、十次兵衛に玉志さんが配役。玉志さんはこれまで3回連続で濡髪に配役されており、客全員(巨大主語だがマジ)が「いやこの人は絶対十次兵衛だろ!?」とツッコミ入れていたところ、満を持しての十次兵衛。確実に決めてくるだろうなと思っていたが、実際、確実に決まっていた。
かなり優美な雰囲気の十次兵衛で、大幅に武士へ寄せた造形。所作が絶対に田舎モンには見えないレベルで華麗。町人へ寄せて軽さと穏やかさを出していた玉男さんとは異なる佇まいになっていた。

一番良いと思ったのは、母へお尋ね者の絵姿を見せている際に、二階から覗き込む濡髪の姿が軒先の手水鉢へ映る場面。ここで、「濡髪の姿が手水鉢へ映ったことに気づいた」ことよりも、「それを察したおはやが引窓を閉めた」ことに大きくリアクションしていたのが非常に良かった。

まず、十次兵衛のリアクションをこの二段階へ分解するという判断が上手い。それぞれ別次元のことが起こっていながら、十次兵衛役はどちらかに気を取られ、リアクションがもちゃっとくっついてしまう場合が多い。そこを分解することで、十次兵衛ないしはドラマにとって2つの重要な出来事が起こったことが明瞭になる。
この部分、私自身も、これまでは「いかにも『芝居』然としたシーン」として、ただ漫然と見ていた。実際、十次兵衛役でも、「これみよがし」に濡髪を発見する演技→おはやが引窓を閉めるのを単なる「タイミング」として扱い、ポーズを決めるという「見得」自体を見せる演技になっている人もいる。しかし、今回のこの玉志さん十次兵衛の演技を見て、十次兵衛にとって「それら」はどういう出来事だったのかを明瞭にすることによって、様々な感情・出来事をドラマ上に意味付け・位置付けることができるもんなんだなと感銘を受けた。

また、「水鏡に映った濡髪を確認する仕草は『慎重』」「おはやが引窓を閉めたときは『驚き』」と演技を分けるのも、実際にはなかなか出来ないことだと思う。
玉志さんの場合は、手水鉢に映った濡髪の姿を見つける演技は慎重に窺い見る演技、引窓が閉められたことには大きく驚く演技に区分していた。おはやと引窓に対する驚きを表現することよって、彼にとって何が予想内/予想外だったのかが明瞭になり、物語として「引窓」の存在も際立つ巧みな設計だ。濡髪の姿を見つけたこと自体は、十次兵衛にとってはさほどの驚きではないだろう。しばらく前からママ&妻の様子がおかしいことは十次兵衛もわかっているはずなので、実際それ自体が異常レベルの驚きというのはありえない。また、十次兵衛は職務で捕縛しなければならない対象を見つけたからといって大はしゃぎにイキリ立つ人物でもない。しかし、まさか妻が自分を「裏切る」とは思っていなかったわけで、しかもその方法が「引窓を閉める」であることは、十次兵衛にとってあまりにも予想外の出来事だろう。そのあたりの解釈には納得としか言いようがない。
さきほど、十次兵衛が濡髪を見つけた演技を「これみよがし」にする人がいると書いたが、そのような人がなぜ「これみよがし」に見えるかというと、この2つの区別が曖昧になり、濡髪の姿を見つけたことをアピることばかりにシャカリキになってしまい、おはやが引窓を閉めるのを単なる見得の契機にしてしまっているからだ。しかし、実際、これが自分の身に起こったことだとしたら、リアクションが一体化するなんてありえない。たとえば猫を2匹飼っていたとしたら、1匹目の猫がケコッケコッとゲロ吐きそうにしてるので猫の下へチラシを差し込もうと構えていたら、背後で2匹目の猫が窓にぶつかったセミにビックリしてキャットタワーのてっぺんから派手に落っこちたが如き出来事。このとき飼い主は必ず個別にリアクションするはずだ(1匹目の猫の下にチラシを差し込み、即座に2匹目がケガしてないか見に行く)。
違う出来事にはそれぞれ違うリアクションが必要なのは当然だが、特に考えなく舞台を眺めているだけだと「十次兵衛がポーズを取った」だけでも満足するし、やっている側もそうなのだろう。しかし、客受けに頼らず、深堀りして物語を立体的に見せていく取り組みはすごいと思った。玉志さんの上手さであり、とくにファンというわけでもない客からも信頼感を得ている理由は、結局、こういうところだと思う。

引窓が閉められたことへの十次兵衛の驚きは、客のこちらまでびっくりするような大きな動きになっていた。今回は鑑賞教室ということで、直前に行われた解説では引窓の開閉に物語上の大きな意味があることが説明されていたが、普通に見ている分には、引窓自体にドラマ上の大きな意味があることに気付くのはなかなか難しいと思う。文楽の大道具は簡素なうえ窓のサイズは知れているし、照明を変化させるような演出があるわけでもない。なにより、引窓の開閉そもそもが抽象的なロジックである。今からみると日本の演劇は江戸時代にここまで到達していたのかと驚くべき演出ではあるのだが、そう思うのは文化的リテラシーの高い演劇・芸術好きだけであって、不特定多数の観客を対象とする鑑賞教室では難易度が高すぎる。しかし、登場人物が開閉そのものに対し大きなリアクションをすることで、開閉へのアテンションがうながされ、「引窓」らしい世界観を形成することができていたのは、今回配役ならではの素晴らしさだと思う。

 

細分化が物語のディティールをかたちづくり、ドラマを補強していく機能は、おはやの演技にも言える。
おはやは十次兵衛が2階の濡髪に気づいたのを悟り、思わず引窓を閉めて室内を暗くして、周囲を見えなくする。しかし、閉めると同時に夫を裏切ったという罪悪感に苛まれる。ママの気持ちに添うことができても、今度はやっと得られた職務に胸をふくらませる夫を本意でなく裏切ってしまうのだ。
本公演では、引窓を閉める演技を単なる「見得」として、格好つけたポーズを決めるのみという人が一部にいて、極めて残念に思っていた。しかし、今回の鑑賞教室は、本公演より「格下」の人に配役がついているにもかかわらず、私が見た前期日程では、午前〈桐竹紋吉〉・午後〈桐竹紋臣〉とも、「夫を裏切ったという罪悪感」をしっかり表現しているのが良かった。彼らは、なんでもいいから直近の配役の映像を見て真似しているのではなく、ちゃんとやっている人の演技を参考に、自分なりに考えてやっていたからこう出来たのだろう。

また、演出効果面でいうと、今回の配役のおはやは二人とも、引窓の「閉め方」自体も上手かった。午前・午後ともにバチンと派手に音が出るように閉めており、開閉を聴覚でも知らしめる効果が高い。とにかく客に引窓を閉めたことを理解してもらわないと話がはじまらないので、非常に良い手法だと思う。
そして、今回、午前の部・ママ役を勤めていた簑二郎さん。ママは、濡髪に自分の手で縄をかけるときに引窓についた引き縄を使うため、一度だけ、自ら引窓を閉める演技が入る。ママは涙の中でおずおずと縄をかけるので、おはやのように思いっきり縄を引っ張ることはしない。ところが、簑二郎さんは上手いこと縄をたぐり、おもいっきり引っ張った演技はせずとも、ちゃんと「バチン」という音を立てて引窓を締めていた。ここで「引窓が閉まった」=夜になって十次兵衛が武士になる時間がきた(ママ自らそれを招いた)ことを示すのはドラマ上の重要事項。前述の通り、ママはおずおず縄をかけるので、引き縄を引っ張るくだりは単なる手順として埋没しがちになる。ここで引窓が閉まったかどうかは、従来はよほど注意深く見ていないと(というか、閉めるとわかっていないと)まず気づかない状態だった。そこを、演技は穏やかにおさめつつ、音は立てることによって開閉にアテンションが促されるのは、かなり上手いと思わされた。

 

話を十次兵衛に戻す。(戻るんかい)
十次兵衛は、その演技のほとんどが、「建前」で構成されている。彼は浄瑠璃あるあるの「建前」使いが誇張されたキャラで、「町人」「武士」を建前として使い分けていることに特徴がある。つまり非常に恣意的であるため、ものすごくパッキリとした切り分けがあるわけではない。たとえば、最初に自宅に帰ってきたときは当初スッタカターと歩いてきて速攻家へ上がろうとするが、一度上がり口に足をかけた瞬間に思い直し、武士っぽくもったいぶって踏み込み直すという演技がある。また、中盤、夜になったので見回りに行くと言って外へ出ていくところでは、「自称」や服装(帯刀)は完全に武士であるものの、家の中での歩き方は町人になっているといった複雑な表現が発生している。特に後者は、「流れ」でやるのがなかなかに難しい。下手を打つと変に目を引いて、「流れ」ないのだ。玉志サンの場合、素が上品なのが幸いしてか、すたすたっとした程よく品のある立ち去り方に落ちていた。本当に「町人」で歩いてしまうと(何も考えずに歩いてしまうと)バカっぽくて違和感が出るし、かといって「武士」に寄せ切ってしまうと、直前のママ想いな態度からの移行が速すぎて十次兵衛が冷淡に見えるため、難しいところだと思う。

それにしても、メッチャ上品な十次兵衛だな⋯⋯。イケメンすぎんか⋯⋯。
放埒で郷代官の役を罷免されたとか、遊女と通じたとか、人殺しを働いたとかにはまったく見えん。玉志サン比として、純然たる上品武士役(先月の弓之助とか、義経などの類)よりも遥かに動きが軽妙で、全般的に「タッタッタッ」と足早に動いているので、本人の中では区別ついてるのはわかる。わかるで〜。が、上品な出演者がほかにいないために、爆発的に華麗に見える。ある意味、颯爽濡髪より、「このイケメン誰!?!?!??!?!?!?!」状態だった。
特に棒足が華麗すぎる。私が学校の芸術鑑賞授業で観に来た高校生なら、感想レポートに「十次兵衛の段切の棒足は非常に華麗。あえて位置を低く構える派手な見せ方にすることで、閉鎖的空間で展開された一種『地味』な物語の終幕を、開放感と祝祭感で飾っている。そのようなきらびやかなポーズでありながら、濡髪を追おうとする母を制する刀の使い方の穏やかさはベテラン人形遣いならではの落ち着きであり、また魅力である」と書く(激ウザ高校生)。
なぜ玉志サンは毎回棒足が華麗なのか。いかにもな見得でイキるなどの無駄はしないタイプなのに棒足だけはなぜ派手に見せようとするのか。その理由は何なのだろう。不要な「目立ち」を徹底排除しようとする傾向のある初代玉男とは決定的に異なる点ではないかと思う。

ところで、その初代玉男は、十次兵衛の「出」で足拍子を入れるのはもったいぶりすぎだと考えていたようだ。しかし、今回、玉志サンの十次兵衛を見て思ったのは、足拍子を入れようが入れまいが、上手い人がやると、無意識に曲に合わせてメリハリつけた動きにするため、どうしても目立つ・クッキリ見えるということ。出てくるときに気迫があるので、客も足拍子より先に拍手する。逆に言えば、「普通の人」がやると、ひとりでに十次兵衛は存在感が消えるよな〜⋯⋯。全編に渡って⋯⋯。と思った。

 

濡髪は、午前〈吉田文哉〉・午後〈吉田玉翔〉、2人とも驚くほど勉強してきている。
喜ばしかったのは、記録映像をなんとなく見て表面的に真似したんだなというものではなく、手本となる演技の何が良かったのか、自分に取り入れるべきはなにか、それぞれの人の研究が感じられた点。師匠や先輩からの指導も入っていると思うが、自分なりの研究や考えを伺わせるものがある。「なんとなく形だけふわっと真似しました」にとどまらず、よくここまで仕上げてきたなと思った。

それにしても、おふたりとも、超・爽やか!!!やな⋯⋯。現代のトレンドである、爽やかですっきりとした品のある、すらっとした佇まいの男子像になっている。
思えば2021年9月東京公演で『双蝶々曲輪日記』が出た際、玉志濡髪のあまりの颯爽とした姿に客全員が「誰!?!?!?!??!!」とビビリ散らした。あのときほど客の気持ちが「完全一致」したこともないだろうというほどみんな驚いていた。その後も2023年11月大阪公演2024年2月東京公演と3回続けて濡髪は玉志さんが演じていて、異常颯爽イケメンとして揺るぎない爽やかさを発揮していたが⋯⋯、あれを見て「学習」してもうたっちゅうことか⋯⋯??? 濡髪はもはや大時代的な脂臭い芝居は求められない役になったということだろうか。そりゃそうだよな。「大時代的な脂臭い芝居」でやるならば、なぜいま、「大時代的な脂臭い芝居」でなければならないのかの明確な理由が必要だろうな。やっている側の世代的なことだけでいうとそうだろうなとも思うし、私自身もそう思う。なんとなくそれっぽくやってますでは客には通用しないという端的な例の役だろうな。
というか、本当に「学習」したかどうかは別として、玉志サン的なテイストってある程度再現可能なんだということに驚いた。玉志サンは玉志サンでさらなるキレや品格があり、顔整い感が桁違いなわけだが、芸歴がそこそこの人がこのような抽象的な「キャラ」を造形していけることに、すげーと思った。表面的な「真似」では絶対にできない。しかも玉志さんに左やってもろうとるわけでもないのに⋯⋯、ほんますごい。

玉翔さんが爽やか系に寄るのは想定内だったが、文哉さんまで爽やかに寄ったのは驚き。文哉さんは、本人なりに映像などを見て勉強していることはこれまでも感じられていたが、見様見真似以上のものになっていないケースが多かった。芝居の構造自体を理解せず表面的なトレースをしているため、本質からずれたチグハグさが含まれてしまうのだろう。しかし今回は、「本質」をしっかり見据えた演技になっていて、かなり驚かされた。見様見真似で今回はたまたまこうなったとは考えにくく、誰かに指導を頼んだとかなのだろうか。こういった「芯のある状態」を何役もつなげていくことができれば、変わっていけると思う。

玉翔さんにしても、一応いまの師匠はいまの玉男さんで、指導したのも玉男さんということになってはいるだろうが、佇まいは大幅に玉志さん(美青年系、師匠路線)に寄っている。玉翔さんがなにを目指すかは、元の師匠、身近な先輩なら玉志さん・玉佳さんだろうなと思う。現状、文楽で、王道の美青年キャラ、二枚目路線をいく人はいない。玉志さん・玉佳さんが本来的にはそうなのだろうが(この二人は人形の顔そのもの以上に人形の顔が整って見える)、現状では言うたらアレやがそこまで適任なわけではない……というか、はっきり言うて芋っぽい人が二枚目に配役されている場合が多い。いまのうちに基盤を固めておけば、いっきにかっさらえる可能性は高い。私はこれで正解だと思う。
玉翔さんで惜しいのはちょっと「棒立ち」風なところが多いこと。ご本人にまだ迷いがあるんだろうなと思った。そして、人懐こく育った人らしい「周囲への無類の信頼感」が役に顕れているのが、この役に対してはややマイナスかな。子供の頃に実母から離れ、遠慮し通しで生きていたはずの濡髪が、初めて上がり込む実母の再嫁先でリラックスしすぎのように思えた。玉志さんはそのあたり、持ち前(?)の猜疑心と神経質さ、真面目さがプラスに働いて、ちょっと遠慮して緊張している感じがよく出てたなと思った。

現状、彼らの濡髪は、「ほんとに素で若いために大人への対応がわからず固まってる子」という印象が強かった。芸が達者になってこれば、芸として「若くて気遣いしすぎて固まってる子」になっていくのだろうと思った。

 

長五郎母は、午前〈吉田簑二郎〉・午後〈吉田勘市〉とも、非常に堅実。
簑二郎さんママは、簑二郎さんの良さがよく出て、「愚かさ」と情愛がてらいなく自然に結びついた姿になっていた。これまで完璧に生きてきた女性に実は欠点があった(欠点が生まれた)というスタイルではなく、ただただ普通の人で弱々しく頼りない感じがするのも良い(オレオレ詐欺に絶対騙される系)。私は、人間の「愚かさ」を美的に、かつ自然に見せるのは、誰にでもできることではないと思っている。この点で簑二郎さんに勝てる人は存在していない。現状、簑二郎さんのこの手の配役は、浜ゆう(奥州安達原)、おかるママ(仮名手本忠臣蔵)など老母役が多いけど、演技傾向からしておそらくジェンダー関係なくうまくいくので、平作(伊賀越道中双六)、合邦(摂州合邦辻)などの老父役も観てみたい。
午後の部・勘市さんは熟考された演技で上手いとは思うのだが、この人に、その場しのぎにてんでんばらばらな役を与え続けるべきではないと思う。「知的な年配男性」等を集中して配役してほしい。それこそ十次兵衛を配役すべきだったのでは。

鑑賞教室の場合、配役によって演技構成に違いがみられる場合があるが、今回はママの出のタイミング、二階から十次兵衛の密談を聞く際に障子を開けるタイミングに大きな違いが出ていた。
出については、午前の部では、ママよりも先におはやが出て、里芋を剥きはじめていた。午後の部では、ママが早々に出て、ススキ等のお飾りを二階の窓際へゆっくりと供える演技になっていた。二階から十次兵衛の密談を聞くくだりでは、逆に、午前の部はかなり早めに障子を開けて聞きはじめる、午後は話が核心に近づいてから障子を開く演技(だったと思う)。
出はともかく、十次兵衛の話を盗み聞きするくだりは、障子を開けるのが早すぎすると、洗濯物干しに出てきた人みたいで、違和感がある。やるなら、さりげなくそしらぬ顔をしているとき、注意深く聞いているとき、驚くべき話を耳にしたときとの表情の変化をもっとハッキリつけなければ、冗長になる。いずれにしても、人形が客前へ露出している時間が長ければ長いほど、どういう状況であると見せるかを精緻化していかなければならないと感じた。

 

おはやは前述の通り、最初に引窓を引いて締めるところをどう見せるかが重要である。この点は午前の部〈桐竹紋臣〉・午後の部〈桐竹紋吉〉とも、とても良かった。

特に午前の部は、役の清楚さを保ち、わざとらしさがない程度に(脇役のくせに十次兵衛より得意げとかではない程度に)きちんと「苦節」を表現しているのが良かった。閉めなきゃ!と思わず動いたあと、まずは引窓を閉めて濡髪を隠せた!という安心感を表現し、しかしすぐに夫を裏切ってしまった!という辛さにさいなまれるという段階の見せ方が的確。紋臣さんは、冒頭、ママといっしょに十五夜の支度をするところも良い。苦界から足を洗い、健康的で明るい「一般の奥さん」になれた喜びを感じる。それはそうと、このおはや、デッカイGOKIを見つけたら、まず素手でぶっ叩いて殺したあとで、「おかあさんデッカイGOKIBURIおった〜!!!!!」とママを呼び出して死骸を見せた挙句、十次兵衛にLINEで写真送りそうだなと思った。私も特別デカいGOKI見たら人に見てもらいたくなるタイプやで🥺
午前の部・紋吉さんは役へ誠実に向き合っていると感じた。大きな造形はしっかり出来ており、ここに個性やニュアンスというべきものが乗ってこれば、客にとって見るべきもののあるおはやになると思った。GOKIは見せつけなくていいのだが、紋吉さんには、客が「この人ってこういう行動取りそうだよね〜w」といった「妄想」をふくらませることのできる人形遣いになってほしい。

 

十次兵衛が連れてくる三下侍・平岡丹平&三原伝蔵は、午後の部の二人組〈吉田玉彦・豊松清之助〉が良かった。丹平・玉彦さんは、ちょっとしたうなづき、目配せなど、十次兵衛や伝蔵への細かいリアクションを入れ込んでおり、その人物としての表情が出来ている。かしらのニュアンス程度なのでうるさくないし、「演技のサイズ感」も適切。この役は「ツメでもええんですけど三人遣いにしときました」状態になることが多いし、実際その程度しか求められない中、平岡丹平という人物が立体的になることで、「濡髪は殺した相手がマズかった」感がきちんと出てくるのが良かった。伝蔵・清之助さんはツメオーラがあるところが良かった。存在になんの意味もなさそうな金魚のフン感がすごいッ(けなしてません)。

 

 

床は非常に頑張っており、「上手にできている」と思った。ただし、説明性や力み見返りすぎがやや目立つように感じた。
「引窓」は、端的に言えば、濡髪を捕縛する・しないで70分右往左往し続ける話になっている。この「右往左往」のニュアンスが他の演目に比して高度なのが特徴で、途中で具体的な事件が起こるから右往左往するわけではなく、登場人物の「気持ち」の薄紙を重ねるような蓄積が結果的に右往左往となっている。また、ママ、濡髪、十次兵衛それぞれに右往左往、感情の蓄積のタイミングがあるのだが、それをしっかり切り分けて表現する必要がある。
その点では、午前の部・藤太夫さんは整理が行き届いた語りで、場によるシチュエーションのニュアンスが的確だった。だんだん「もー、どうしようも、ありませーーーーーん!!!!」となっていく、良い意味でのリニア性のある「押し詰まり」が表現されていた。世話味の強いエモーションをもって「勢い」で語っているように見せかけながら、細部まで研究が行き届いている。
午後の部・呂勢さんは、正直なところ、同じトーンの繰り返しが多く感じられて説明的にすぎ、物語に立体性がないように感じられた。呂勢さんが研究していないとは思わないが、ニュアンスがないのであまりに単純化しすぎていて、「どうして話戻ったんや???」と思ってしまうことが多かった。
お二人とも、濡髪がママへ「誤りました〜〜!」というところを「むやみに」強調していた。なぜ「むやみに」と書いたかというと、どうしてここを強調すべきなのか、客に伝わらない語り方になっていたから。単に「大声でやるという口伝があるから大声出しました」以上のものが感じられない、突拍子もない大声に感じられたのは残念。ただ、藤太夫さんの場合はそこまでわざとらしいわけではなく、気負いすぎてるのかなという程度ではあったので、会期を重ねるうちにだんだん補正されていくのかもしれない。呂勢さんにしても、品のない「大はしゃぎ」としてああなっているわけではないので、本人が年齢を重ねていくにつれ、ガワではないものとどう向き合うかが変わってくるのではと思う。

午前午後とも、おはやの喋り方がかなり不自然に感じた。おふたりとも、「昭和の和風ゲイバーのママ『役』」みたいな印象で、つくりすぎではと思った。

という感じで、言ってはなんだが、トウの立った若手会みたい⋯⋯と思った。
三味線はちょっと重荷な人も多かったのかなと思った。

 

  • 〈前期日程・午前の部〉
  • 義太夫
    中=豊竹睦太夫/鶴澤清𠀋
    奥=豊竹藤太夫/鶴澤清志郎
  • 人形
    長五郎母=吉田簑二郎、女房おはや=桐竹紋吉、濡髪長五郎=吉田文哉、南方十次兵衛=吉田一輔、平岡丹平=桐竹勘次郎、三原伝蔵=桐竹勘昇

  • 〈前期日程・午後の部〉
    義太夫
    中=豊竹希太夫/鶴澤寛太郎
    奥=豊竹呂勢太夫/鶴澤藤蔵
  • 人形
    長五郎母=吉田勘市、女房おはや=桐竹紋臣、濡髪長五郎=吉田玉翔、南方十次兵衛=吉田玉志、平岡丹平=吉田玉彦、三原伝蔵=豊松清之助

 

 

 

近年、鑑賞教室は、大阪・東京ともに、若手会と紙一重状態となり、スベッてても我慢してくれ状態が続いていた。が、今回の前期日程は、全員初役にもかかわらず、ほとんどの方が非常に自然、かつ、よく考えられた所作で驚かされた。

本文中で詳細を述べたように、十次兵衛にしてもママにしてもおはやにしても、物語のディティールを捉えてそれを表現として定着させている人がいたことには、今後の文楽への期待を抱けて嬉しく思った。とともに、なにも考えずに決めポーズだけやる人じゃなくて、もうこの人たちを本公演に配役してくれと思った。
いすれにせよ、「引窓」では、彼・彼女の身に起こったそれぞれの出来事を、連続性のある物語のある一部としての位置付けをしないと、何の話なのかわからなくなる。また、連続性のなかでその仕草の意義を捉えないと、各シーンとの演技の大小強弱のコントラストが均一になっていき、ノッペリしてゆく。「引窓」の場合、ほかのよく出る演目に比較しても、それが顕著だと思う。実際問題として、役やその場(瞬間)単体で見ると「さっきからずっと同じようなこと言ってね?」という堂々巡りのウザさと、最後の「なんで急に解決しよったんや」が強く感じられた回もあり、『双蝶々曲輪日記』は、しっかりメリハリつけないと何の話なのかわからなくなるなと思った。

 

ただ⋯⋯「初心者」なのは客ではなく舞台の上の人たちという状態は、やめて欲しいわな。
いまの「鑑賞教室」は、文楽を見たことがない友人知人に薦めたいと思わない。見に行くかどうか考えてると相談されたら、「鑑賞教室はやめといたほうがいい、普通の公演のほうが全然ちゃんとしてる」と答える。どうしても見てみたいと言われたら、「マシ」な配役の回を教える。
古典芸能で「高い技芸」を見せないというのはナシだろう。私の考えでは、技芸レベルが「どうでもいい」状態であるならば、それは「古典芸能」たりえない。東京公演の第三部は、最近、「文楽入門」と称して初心者向け風に見せかけた公演を行っているが、あれのほうが配役がある程度ちゃんとしているケースが多いぶん(最低ひとりは超まともな人が確保されている)、「初心者向け」だと思う。少なくとも、鑑賞教室は、内輪で配役を大はしゃぎするための公演であるべきではない。

 

解説が伸びていて普通に終演時間が押していた。伸びるのは仕方ないので、タイムテーブル改訂しといてくれんか?と思った。こちとら新幹線の時間があるねん。

 

 

 

鑑賞教室公演のお楽しみ、公演前後の遊び歩き。

京都国立博物館の「北野天神」展へ行った。数多ある北野天神縁起絵巻を複数同時に鑑賞できたのが良かった。瀕死の時平のおみみから龍が出てくるところ、文楽で見て「へびちゃんすぎんか????」と思ったが、絵巻でもへびちゃんだった。絵巻は鎌倉時代のものから江戸時代のものまで幅広く展示されていたが、後期のものは類型をいかに美麗な技法で描くかに寄っていっているため、混沌といろいろなものが書き込まれた初期のもののほうが面白い。石段に顎乗せて休憩してる人たちとか、なんなんだ。
展示構成全体は、何を見せたいのかよくわからず。見比べ以外の要素は「宝物館」ノリを脱せていないように思った。また、「刀剣乱舞」とコラボしていたが、「IPコラボで客集め‼️」が露骨すぎという印象を受けた。客筋は、「刀剣乱舞」目的の遠方からの来場者が多いようだった(展示室内で聞こえる会話が標準語多数)。テーマの問題なのかいつもそうなのかわからないが、外国人観光客は皆無だった。

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心斎橋の「ちいかわラーメン」へ行った。普段ラーメンを全く食べないので、「郎」系を体験できてよかった。麺200gの小サイズを頼んでも「デカ盛り」風の盛り付けをしてくれるのが嬉しい。
お客さんは、家族連れ、おそらく東京から来た女性二人組、男子高校生?など多彩だった。家族連れ以外は、「ちいかわ好き+連れてこられた友達」みたいな人たちが多くて、ちいかわ好きの人が付き添いの友達にちいかわについて説明しながら食べていた。
そのほか、はり重カレーショップ、純喫茶アメリカンなどにも久しぶりに行けて、楽しかった。

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文楽ステッカー 第2弾 作りました【コンビニプリント可】

文楽ステッカー第2弾、作りました。

今回は、いのしし(仮名手本忠臣蔵)、与勘平(芦屋道満大内鑑)、おみつ(新版歌祭文)、なまの八&こっぱの権(夏祭浪花鑑)、口上する黒衣、キス待ち顔のツメ人形の6枚です。

いのししがなくちゃ夏は始まらないよね!

 

iPad Pro 11インチのデコり例です。


今回もコンビニのコピー機で作成しました。

みなさまにも、ローソン、ファミリーマート、ミニストップにあるコピー機の「ネットワークプリント」機能で作っていただけます。

 

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[対応コンビニ]
ローソン、ファミリーマート、ミニストップ

 

[操作手順]
https://networkprint.ne.jp/info/howto/print_convini_new.html

※ユーザー名でログインすると、印刷したいステッカーの種類を選ぶ画面に直接行けます。

 

[ユーザー番号]
HGPC8CLB97

※メニュー画面から「ネットワークプリント」を選択後、ユーザー番号をコピー機へ入力することで、プリントができるようになります。

 

[登録名]
BUNRAKU_sticker_02

※第2弾と、後述する第1弾再版とで、「登録名」が異なっています。お間違いないようご注意ください。

 

[用紙・サイズ]
シール用紙・2L(よこ127mm×たて178mm)

※今回は、用紙サイズを「シール用紙2L」に事前指定してありますので、みなさまがご指定いただく必要はありません。
※スマホに貼れるサイズです。与勘平は少し大きめのため、ミニサイズスマホの方はギリかも。
※お手数ですが、カットは自力でお願いします🙇‍♀️ 切り取り線入りです。まずはキス待ち顔のツメ人形で練習してみてください。

 

[おねだん]
1シート300円

[プリント期限]
7月9日(木)22:00ごろまで

=======================

 

また、今回の第2弾リリースに合わせて、昨年作成した第1弾も再版しました。

逸見の藤太(義経千本桜)、きつね、子太郎(妹背山婦女庭訓)、梨割、老女方
リニューアル点:老女方に笄をつけました

=======================

[ユーザー番号]
HGPC8CLB97

 

[登録名]
BUNRAKU_sticker_01_2026

※第1弾と第2弾とで、「登録名」が異なっています。お間違いないようご注意ください。
※選択画面で第1弾と第2弾2つ同時に選ぶと、2種類とも同時にプリントできます。

 

[プリント期限]
7月9日(木)22:00ごろまで

=======================

自力切り抜きでお手数をおかけしますが、図工の時間の記憶に浸りつつ、スマホやタブレット、お手まわり品をぜひデコってみてください。


↓ 今回プリントできるものの一覧です。

 

 

文楽 5月東京公演『二人禿』、通し狂言『生写朝顔話』シアター1010

5月東京公演、第一部・第二部は『生写朝顔話』の通し。
深雪サイドのエピソードで構成したもの。完全通しからは駒沢サイドのエピソード(大内館の段、多々羅浜の段、摩耶が嶽の段、大磯揚屋の段)、「大井川」以降の段は抜かれている。

先に良かったところを述べると、深雪はダブルキャスト〈前半=吉田簑二郎、後半=吉田勘彌〉お二人とも頑張っていらしたと思う。この二人は本公演初役かと思うが、いきなり通し狂言は大変だっただろうな。前期・簑二郎さんは素朴で大人しいメガネっ娘風、後期・勘彌さんは冷たい透明感のある箱入りお嬢様という雰囲気だった。それぞれの方の個性がいかされていて、かつ、「深雪」らしい深雪になっていた。現時点では良くも悪くも水に浮かんだ月のような深雪であったが、今後ディテールが詰まってこれば、役がくっきりと形をなしてくると思う。
乳母浅香は深雪と対応したダブルキャストになっており、前半=吉田勘彌、後半=吉田簑二郎。こちらも真面目で真摯な大人の女性を、それぞれの個性で演じられていた。
このお二人は健気な女性の表現が巧いため、ダブルキャストで深雪・浅香両方が配役されたのは、かえって良かったと思った。私の感覚では、より他者への思いやりの表現が深く、切実さがリアルな簑二郎さんのほうが浅香にお似合い。恋愛感情の表情づくりが綺麗で、ルックに可憐さや華奢さ、透明感の強い勘彌さんのほうが深雪にお似合いかなと思った。

しかし、全般には、いろいろな課題を感じた公演だった。
まず、通し狂言の意義があまり感じられなかった。正直なところ、いつもやっている段だけのほうが、かえって話が明瞭なのではないか。深雪サイドのエピソードばかり抜き出したせいで、チャリと陰鬱な話しかない。同じような話が何度も繰り返されたり、段取り説明以上の意義を感じない段が多く、全体的に単調・散漫になった印象を受けた。

観劇としての満足感が「イマイチ」なのは、出演者要因もそれなりのパーセンテージを占めていると感じた。何が言いたいのかわからない時間⋯⋯、つまり、描写が的確でなかったり、そもそも「描写」自体がない時間が長すぎて、全体がぼやけていた。
もう少し具体的にいうと、その段のチャリはどんな面白さなのか、陰鬱な段ではそのとき登場人物たちは何のために何を憂いているのかといった区別が表現されていない。それゆえに、脚本の単調さがより強調されてしまっているように思った。特にチャリは「お客さんのおかげでなんとかチャリにしてもらっている」すぎたと思った。(客側が言うのもおこがましいが)(しかもお前1ミリも笑っとらへんかったやないかい)

こういう状態だと、いかにも芝居めいたギラギラな話の「摩耶が嶽の段」か「大磯揚屋の段」を入れたほうがメリハリがついてよかったんじゃないかな。いまどき、「恋愛もの」だからといって無邪気に喜ばれるわけじゃないし、「恋愛もの」にしても、ちょっとばかり単純すぎるからな〜⋯⋯。

いろいろ、難しい、と思った。

 

 

 

以下、各部の感想。

第一部、宇治川蛍狩の段、真葛が原茶屋の段、岡崎隠れ家の段、明石船別れの段、弓之助屋敷の段。

和生さんの阿曾次郎には期待していたが、老けて見えるいうのが率直な感想だった。動きがあるところはキビキビしていて良いのだが、なにもせず座っている姿が壮年以上の男性に見える。なんなら、深雪パパ弓之助〈吉田玉志〉のほうが若く見える。
これ、勘十郎さんの八重垣姫(十種香)の出「勝頼の絵姿を拝んでいる後ろ姿」が「日向ぼっこしているおばあちゃん」にしか見えないのと同じ理由かと思う。端的には、姿勢が悪い。首のうしろが丸まっているのと、胸を張っていないのとで、ダレて見えてる。和生さんは塩冶判官や源蔵といった大人でも比較的若めの男性役も遣っているが、彼らは基本的に「常になにかをしている」(明瞭に意味のある動きや姿勢がついている)から、構え方の難点が目立ちにくかったんだろうな。
残念ながら、会期最後まで、今回の阿曾次郎・駒沢をいいとは思えなかった。これだと戸無瀬(仮名手本忠臣蔵)とか政岡(伽羅先代萩)のほうがシャッキリ見えて、「イケメン」だからなぁ⋯⋯。ここまで和生さんに「なんか違うなー」と思ったのは初めてだなと思った。

阿曾次郎は、当初、深雪の船で揉め事が起こっていることに気づいてはいるが、静観している。ところが、浅香が「不肖ながら芸州岸戸の家老、秋月弓之助が息女の遊山」と言うところで、「ピコ」と反応を示す。これは、「この時点で阿曾次郎は深雪が将来の妻であることを知っている」という裏設定(?)を示しているということかな。
『生写朝顔話』の場合、そもそも、現行上演の本文だけでは話がわかりづらい。今回上演を見ただけでは、なぜ桂庵が「阿蘇次郎を弓之助宅へ連れて行く」という話になっているのか、桂庵が本物の阿曾次郎の容姿を知っていたのはなぜなのか、弓之助は本当に祐仙を阿曾次郎だと思い込んだのか、分かる人はいないと思う。実は、丸本(『増補生写朝顔話』)を読むと、物語開始前に、以下のような前提があることがわかる。

  • 娘の婿探しをしていた弓之助に阿曾次郎を紹介したのは、月心。阿曾次郎も秋月家との縁談を承知していた。
  • 弓之助と月心、阿曾次郎と月心とはそれぞれ歌トモだったが、弓之助と阿曾次郎本人同士には交流はなかった。(月心が仲人をしている状態)
  • 弓之助は念のため阿曾次郎の素性を調査すべく、出入りの医師・桂庵へ調査を依頼した。
  • (桂庵と阿蘇次郎が旧知の仲であることは原作にあたる読本『朝顔日記』にあり。詳しくは後述)

月心が弓之助に紹介した旨は、今回販売のプログラムの解説ページでは説明されていたが、そこを舞台で言うてもらわんと、この後の展開がよくわからなさすぎると思った。

 

「宇治川」での深雪は、阿曾次郎と初めて視線を見交わす部分が重要だと思う。ただ、前期配役はそれがあまり上手くいっていなかったようだ。客席からは「阿曾次郎のほうを見た」ようには見えず、阿曾次郎が一方的に深雪を見ているようだった。逆に後期配役では、深雪がかなり早いタイミングから阿曾次郎を見ていて、真剣味があった。
「離れた距離からある人物を見る」演技、『絵本太功記』の「尼ヶ崎」で2箇所、『本朝廿四孝』の「景勝使者」で1箇所あるが、いずれも失敗する場合がある。難しい演技なんだろうなと思った。

 

演出で気になった箇所。これまでに「宇治川蛍狩」を見たときには、深雪と阿曾次郎が船の中に二人きりになると、船の障子が閉まる演出になっていたと思う。しかし今回はあけっぴろげのまま、二人がくっついているのが見える状態になっていた。障子を閉めると二人が「枕を交わした」ように見えるのだが、今回はそれを嫌って開いたままにしたってことかな? 会期前半・後半ともフルオープンだった。阿曾次郎役・和生さんの意図なのか? 確かにここでは「くっついてた」程度に抑えたほうが、「船別れ」の「くっついて扇で顔を隠す」演出が映えるといえば映える。ただし、舞台にメリハリがなくなるので、障子の開閉に変わるアクセントを作ることが必要だと思った。

 
 
 
 
 
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「真葛が原茶屋の段」〜「岡崎隠れ家の段」は滅多に出ないので、あらすじを要約しておく。

芸州岸戸家の家老・秋月弓之助は娘深雪への無理な縁談を嫌い、職を辞して京都浪人暮らしをしている。秋月家出入りの医師・立花桂庵〈吉田玉助〉は、弓之助から婿候補「宮城阿曾次郎」という人物の調査を頼まれていた。
その桂庵は、知り合いの医師・萩の祐仙〈桐竹勘十郎〉とこの真葛が原の茶屋で待ち合わせをしていた。かねてより深雪に一目惚れしていた祐仙から紹介料30両をもらう代わり、秋月家へ紹介する約束をしていたのだ。そうして祐仙がやってくるが、桂庵は、祐仙の総髪ヘアではトレンディなイケメン武士である「宮城阿曾次郎」とは似ても似つかないと言い出す。祐仙は合点承知の助とばかりに床屋へダッシュしていった。
そのすきに桂庵は茶屋の女・お由〈吉田勘市〉から焦げ鍋を買い取り、祐仙が戻ってきたら惚れたふりをしてくれと依頼する。桂庵が鍋底についたスミを掻き落として包んでいると、ミヤアソ・ヘアになった祐仙が帰ってくる。桂庵はこれは惚れ薬のイモリの黒焼きだと言ってナベズミを15両で売りつける。真に受けた祐仙がナベズミを撒き散らしていると、お由がやってきて惚れたふりをする。お由のあまりの熱演に祐仙はドン引きし、大慌てで逃げ去っていった。(真葛が原茶屋の段)

 

岡崎の閑居へ引っ込んで暮らす秋月弓之助〈吉田玉志〉が朝顔の世話を楽しんでいると、妻・操〈豊松清十郎〉がやってきて、深雪に早く婿を迎えたいと言う。弓之助は、まもなく立花桂庵が婿候補「宮城阿曾次郎」を連れてやってくると言い、操を連れて奥へ入る。
深雪が宇治川で出会った阿曾次郎のことを想い嘆いていると、乳母浅香が、まもなく婿候補「宮城阿曾次郎」が尋ねてくることになっていると言って深雪を励ます。深雪は喜び、メイクや服をなおしたい❣️❣️と浅香とともに部屋へ入る。
そうこうしていると、桂庵と「宮城阿曾次郎」⋯⋯になりすました萩の祐仙がやってくる。調子に乗る祐仙のあまりの不審さに弓之助が2人を一喝すると、祐仙と桂庵は慌てて逃げていく。
父の怒りと混乱の様子を見ていた深雪は嘆き悲しむが、浅香に慰められ、ひとまず落ち着く。
そうこうしていると、国元から急使〈吉田簑太郎〉がやってくる。成り上がり者の悪政により岸戸の領内で一揆が起こり、主君が弓之助を不意にしたことを後悔しているため、戻ってきてほしいとの依頼だった。弓之助はすぐさま安芸へ帰る決意をして、奴関助〈吉田玉勢〉へ急ぎこの家を引き払う準備を命じる。関助が門口で荷造りをしていると、本物の阿曾次郎が玄関先へ尋ねてくる。しかし、さきほどの大騒ぎを知っている関助は一瞥もせず阿曾次郎を追い払うのだった。(岡崎隠れ家の段)

真葛が原は、京都の東山山麓、いまの円山公園付近(知恩院の南、八坂神社の東)のことのようだ。書割に描かれている朱塗りの建物は八坂神社ということだろうか。
弓之助の閑居のある岡崎とは、オカザえもんの岡崎(愛知県岡崎市)ではなく、京都の平安神宮とか南禅寺、京セラ美術館のあるあたりのこと。今でもアクセスがやや面倒な場所だと思うが、江戸時代もちょっとひなびた感じだったのかな。なお、「岡崎隠れ家」は大道具逆勝手。

これら2つの段は、面白いには面白いのだが、のんべんだらりとつながってしまって、段2つもいるか?桂庵と祐仙2人もいるか?と思った。逆にいえば、これだけしか話がないのだから、もっと表情やメリハリをつけていったほうがよいと思った。

次回やるなら、桂庵と祐仙の区別をつけてほしい。舞台で見ているだけだと、全然違いがわからない。
桂庵は「岡崎隠れ家」において祐仙に対する大げさなリアクションばかりを多用し、弓之助の目を気にした演技はなかった。おそらく「真葛が原」のほうの、桂庵が祐仙以上に「悪ノリ」していると受け取ることのできる文章をそのまま素直に続行してしまっているのだろうが、「岡崎隠れ家」には、「消えも入るべき術なさに、冷や汗流すばかりなり」とある。ということは、祐仙が予想外の非常識行動をとったゆえに気まずく思っており、弓之助の怒りに恐縮するといった演技が必要になってくる。こういったディテールが欠落し、かつ一番目立つべき祐仙より大振りな動きをしてしまうと、舞台としてのバランスが崩れる。祐仙も均一に大ぶりな演技をしているので、どこでびっくりしたかといった変化のポイントが視覚面でわかりづらい。
このため、「真葛が原」「岡崎隠れ家」はめったに出ない演目なのに、相当にしっかり聞いていないと、話が理解できない状態になっていた。

ただ、桂庵と祐仙は、どういう理由で2人も医者キャラがいるのか、2人はどういう関係なのか、「床本」だけ「精読」しても、いまいちわからないのは事実。実は、原作にあたる読本『朝顔日記』を読むと、桂庵&祐仙のキャラクターにもっとしっかりとした書き込みがあり、おおむね、以下のような人物設定であることがわかる。

  • 桂庵
    • 秋月家に出入りする老医師。根は悪人ではなく、仕事はしっかりやるが、行動が安易、かつ、ずる賢いところがある。
    • 元は山口大内家の御典医・祐安(祐仙の父)の弟子だったものの、祐仙に遊びを教えた上、親の金を盗ませて逐電、京都へやってきた。山口在住時代には阿曾次郎とも知り合いだったため、浪人になって京都へ来た阿曾次郎を家に居候させてあげた。そして、儒学講釈のできる彼に寄ってくる学生からカスリをとって私腹をこやしまくった。(後に阿曾次郎は弟子の助けで別宅に移った)
    • 弓之助からの阿曾次郎調査の依頼には、本当に阿曾次郎を連れていくつもりだった。が、阿曾次郎が急病になったため、やむなく彼を看病し、手紙の取次のみをした。ところが祐仙から借金をしていたため(山口から逃走したときに金を返していない)、祐仙の阿曾次郎として紹介してくれという頼みを断れず、気が進まないなか祐仙を弓之助へ紹介するも、弓之助に睨まれて針のむしろ。
    • 偽婿作戦に失敗後、執念深く取り付いてくる祐仙から逃げるため、失踪。*1

  • 祐仙
    • 大内家(駒沢家の主家)の御典医の息子。さすが大名直属の典医の息子だけあって礼儀作法はしっかりしているが、愚鈍アンドものすごいブサイク(ヒキガエルに似ている)。
    • 今は京都へ遊学に来ている。偶然見かけた深雪へ一目惚れしたため、桂庵に頼み込んで弓之助へ紹介してもらおうとした。桂庵は遠回しに断ったつもりだったが、愚鈍なので気づかなかった。
    • 異常にしつこい性格で、婿入りに失敗しても何度も弓之助宅を訪問し、固辞される。最終的に癇癪を起こし、桂庵に金返せと詰め寄るも、逐電される。*2

この読本の設定のなかには、「真葛が原茶店」と「岡崎隠れ家」でなにを表現するかの違いのヒントがあるように思う。また、従来は「笑い薬」で突然出てくる祐仙が、なぜ岩代と知り合いなのか、なぜ茶箱のような気取ったものを持っているのかも、なんとなく納得でき、次につながるヒントも得られるかと思う。*3
『朝顔日記』は人気の読本だったようで、読本にあるネタは「床本だけ読んで想像しました」という独自解釈の「妄想」とは異なり、初演当時の制作者・観客にはある程度共通認識としてあった要素であると考えられるので、読解の素材としてはある程度筋が通ったものだと思う。こういったことを参考にしたうえで、「薬売り」「笑い薬」につながるキャラクター造形ができれば物語に奥行きが出るのだろうが⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯。

 

弓之助〈吉田玉志〉は阿曾次郎よりシャッキリしていた。朝顔に水やりしているだけでイケメンに見える。極端に目立つ演技はない役であるが、「乱邦へは入らずという古語に従い、仕へを辞退し浪人暮らしも⋯⋯」というくだりで仕官時代より各段にボロいであろう家屋を見回すなど、ディティールが作られていて、シチュエーションをしっかり見せていく演技だった。玉志。ありがとう。第一部に出てくれて⋯⋯。と思った。
弓之助が阿曾次郎コスをした祐仙を見て「宮城氏はいずれにござるかな」と言うところ、文楽劇場での『勧進帳』の上演中、となりの人がデカい声で「弁慶どれ?」と言ったのを思い出してしまい、こわかった。(弓之助は当てこすりだが、文楽劇場のとなりの人は天然です)
しかし、娘にキモ男あてがわれそうになったから突如退職する家老とか、すごいな。家老って退職できるんだ。夜逃げとかかな。(読本では本当に夜逃げ。やめますの手紙を残して一家でいきなり失踪)

 

関助、ふだんは「大井川」の最後にだけ突然出てきて、観客の「誰???????」という視線を一身に浴びる役だが、通し狂言になるとここから出てくるんだ⋯⋯。
特にこれと言ってという感じの出番ではあるが、帰郷の準備を命じる弓之助にはしっかり目線を合わせる/門口から呼びかけてくる阿曾次郎のほうは見ないようにするという区別がちゃんとつけられているのが良かった。

 

 
 
 
 
 
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飛んで「弓之助屋敷」についても、あらすじを添えておく。

安芸へ帰った弓之助は無事国内の混乱を納め、農民たちは落ち着きを取り戻す。ある日帰宅した弓之助は、主君から深雪に婿定めがあったと操へ話す。周防大内家より使者としてやってきた駒沢次郎左衛門という青年があまりに立派であったため、主君の仲人で縁組を命じられたというのだ。深雪に恋人があることを知らない弓之助は、駒沢という青年の立派さと主命にそれを受け入れるべきだと考えており、操から深雪へ伝えるようにと頼む。
深雪の恋を知る操は思い悩むが、娘を呼び出し、縁組の次第を語り聞かせる。泣くばかりの娘に操は自害の体を見せ、深雪はあわてて母を押し止て嫁入りを誓う。しかし、操が去った後、阿曾次郎のことを思いきれない深雪は書き置きを残して密かに家を出る。
姿の見えない娘を探す弓之助は、行燈のそばに手紙が置かれているのを見つける。家出の書き置きだと気づいた弓之助は急いで関助を呼び出し、家内が大騒動になる中、深雪の後を追わせるのだった。

弓之助が突如家出した深雪の書き置きを発見するくだりは、会期前半と後半とで違っていた。前半は、誰もいない部屋に入ってきて門口側へ出たあと、部屋の奥へ戻って行燈に寄ったときに初めて気づく段取りだったが、後半は門口側へ出て室内を振り返った際にすぐ気づく段取り。弓之助が気づくタイミングの違いは、深雪の配役による手紙を置く位置の違いなのだろうか。前期・簑二郎深雪は行燈の足の台に置いていた気がするが、後期・勘彌深雪は行燈より下手側の床へ直置きだった。門口側にいる弓之助から手紙がいつ見えるかに応じて演技をしてるのか。

現行では、深雪の家出に気づくのは、弓之助という設定になっている。しかし、丸本だと、最初に気付くのは浅香だ。浅香が気づいてあわてる様子があるほうが、このあとの「浜松小屋」が映えると思う。

 

 
 
 
 
 
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第二部、薬売りの段、浜松小屋の段、嶋田宿笑い薬の段、宿屋の段、大井川の段。

文楽のチャリは、見ていて厳しいことが結構ある。やってる側がその面白さを内面化できていない+これみよがしさが透けて見えるからだろうか。
祐仙は、いつものバランスの悪さ⋯⋯肝心の「大笑い」よりも「茶立て」で力み返ってしまい、「大笑い」のころには本人が弱ってきている&客も飽きているという状態は改善されていた。ノッペリしたけども、大きな動きを「大笑い」だけに寄せたのは正解だと思う。
ただ、こうするなら、「茶立て」を小さい動きでも客の目を引くよう、もっと小刻みにアレンジしてもいいのではと思った。簑助さんは茶碗を2つ持参するなど、違って見えるアレンジをしていたそうだ(1個目の茶碗を落として客をびっくりさせたあと、そしらぬ顔で2個目を取り出して笑わせるとかをやっていたらしい)。「岡崎隠れ家」では、話に関係のない単に動きが奇抜なだけの小芝居をされてもなと思ったけど、「笑い薬」では、「工夫」が表面的であればあるほど面白いので、やればいいのにと思った。
後述するが、「笑い薬」は今回は床の問題が大きいと感じた。

第二部は後期配役しか観なかったので、深雪=勘彌さん、浅香=簑二郎さん。
「浜松小屋」の深雪は、うら寂しい雰囲気や今にも折れそうな儚さは良かった。ただ、浅香に対する感情のディテールをもう少し細分化しないと、あまりに直情的になってしまう。深雪は、自分が「深雪」だということを浅香に隠そうとしているのは何故なのかを表現していないといけない。いまの姿を恥じて言い出せなかったと語る部分や、浅香に「これはまたあんまりな落ちぶれやう」と言われたときに、どういう演技をしていたらいいのか。そのあたりの掘り下げがいるのではないかと感じた。
「宿屋」は、一般的な芝居の演技は怜悧な雰囲気で良かった。後ろ振りも変な力み見返りがなく、ごく自然な印象で、心情を踊るように表現するクドキの本質に叶っている。琴の演奏はもうちょっと頑張って欲しい。とくに左。弾いているように見えない。段切、深雪が徳右衛門の引き止めを振り切って逃げる部分は、最後に徳右衛門のみぞおちを突いて倒れさせるところが座頭市みたいだった。全体的に目が見えていない設定がわかりづらいのも座頭市っぽかった。

徳右衛門は今回は勘壽さんに配役されていた。だいぶ高齢でヨボりはじめている印象で、免許返納してそうだった。
茶釜の扱いがさらっとしすぎていて、徳右衛門がさりげなく茶釜を入れ替えるのが物語のキーになっていることがわかりづらくなっていた。むろん祐仙も同じなのだが、あやしい薬が入っていること、また、茶釜の熱さや湯気が出ているといった状態を、人形の演技で示したほうがいいと思う。(それが具体的にどういうことかについては、2024年7・8月大阪公演の記事をご参照ください)

岩代多喜太〈吉田玉佳〉は、シャッキリしていた。遠目にぼーっと見ていると、普通にイケメンに見える。文楽にも褐色イケメンおった的な。岩代も、駒沢より若く見えるのがなぁ⋯⋯。弓之助と岩代に「イケメン」系の人が配役されたのは、駒沢役の和生さんにとってはある意味不利だったな。文楽人形のイケメン役は、人形の顔立ち以上に、遣い方がイケメンであることが重要なんやなと強く思った。

 

「宿屋」の床は暗くしっとりとした雰囲気が出ていて、良い。雨が降ってきそうな夜の佇まいがある。
ただ、もう、琴はなしにして、三味線だけにして欲しかった。若手会のとき、「まぁまぁ、入りたてやし、しゃあないしゃあない」とか誤魔化して批判しなかったわしらが悪いんやろか? 清介さんも琴に合わせて弾いてしまっているせいでおかしくなっているのはどうなんだ。
第二部については、「宿屋」以外の床は、幼い印象が強かった。
「笑い薬」奥は、祐仙が最初からめちゃくちゃデカい声で大笑いしていた。その後もずっと同じ調子だった。昔の「笑い薬」の劇評を読んでいたら、「〇〇太夫は三十数種の笑いを見せた」という評が書かれているものがあった。その公演で配役された太夫は、祐仙の笑い方に彩りを持たせて面白みを作っていたということだろう。チャリは、客に向き合う気持ち(自己を誇示するのではなく、客を楽しませることを目的とする価値観)がないと厳しいと思う。配役としても、のっぺりした演技をする人にのっぺりした演奏をする人を組み合わせるのはやめてほしい。

 

 
 
 
 
 
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  • 義太夫

     

    • 宇治川蛍狩の段
      口=竹本聖太夫/鶴澤燕二郎
      奥=竹本三輪太夫/鶴澤清友
    • 真葛が原茶店の段
      竹本小住太夫/鶴澤友之助
    • 岡崎隠れ家の段
      中=豊竹亘太夫/鶴澤清公
      奥=豊竹藤太夫/鶴澤藤蔵
    • 明石船別れの段
      豊竹呂勢太夫/鶴澤清治、琴 鶴澤清允
    • 弓之助屋敷の段
      口=豊竹薫太夫/野澤錦吾
      奥=豊竹靖太夫/鶴澤清志郎
    • 薬売りの段
      豊竹希太夫/鶴澤清馗
    • 浜松小屋の段
      前=竹本織太夫/鶴澤燕三
      後=竹本小住太夫/鶴澤清友
    • 嶋田宿笑い薬の段
      中=竹本碩太夫/鶴澤寛太郎
      次=竹本千歳太夫/豊澤富助
    • 宿屋の段
      切=豊竹若太夫/鶴澤清介、琴 鶴澤清方
    • 大井川の段
      豊竹睦太夫/野澤勝平

  • 人形
    宮城阿曾次郎 後に 駒沢次郎左衛門=吉田和生、僧月心=吉田玉輝、秋月娘深雪=吉田簑二郎(前半)吉田勘彌(後半)、乳母浅香=吉田勘彌(前半)吉田簑二郎(後半)、浪人虻坂半蔵=桐竹勘介、浪人岩渕平内=吉田玉路、奴鹿内=吉田玉彦、宇治川の船頭=桐竹勘吉、立花桂庵=吉田玉助、茶店のお由=吉田勘市、萩の祐仙=桐竹勘十郎、秋月弓之助=吉田玉志、秋月妻操=豊松清十郎、下女りん=吉田和馬、瓜生勇蔵=吉田簑太郎、奴関助=吉田玉勢、明石の船頭[阿曾次郎の船の船頭]=吉田玉征(前半)桐竹勘昇(後半)、腰元早枝[下手側]=吉田玉延、腰元楓[上手側]=吉田簑悠、戎屋徳右衛門=桐竹勘壽、輪抜吉兵衛=吉田文哉、下女お鍋=吉田玉誉、下女小よし=吉田玉路、岩代多喜太=吉田玉佳

 


逆順になったが、第一部の最初に、『二人禿』がついていた。
2人のカムロチャン〈上手側=桐竹紋秀、下手側=桐竹紋吉〉が、「石橋を叩いても渡らないカムロチャン」と「石橋を見る前に走り込み、まんなかにいたウシガエルにつまづいて川へ転落するカムロチャン」状態だった。なんで兄弟やのにこんな違うんや。

禿の人形が羽根突き、鞠つきをして見せる演技がある。人形なので本当に羽根突きや鞠つきをすることはできないのだが、その誤魔化し方に、公演によって違いがあるのは何故なのだろう。羽根つきで言うと、左遣いが羽根を掴み上手側上方へ弧を描くように動かしてから下げて隠す場合と、ついた瞬間に上手側へ下げて隠す場合がある。なぜ相手役のいる下手ではなく、上手へ隠すのか。鞠つきも、鞠を出すより先に最初に禿が鞠つきの仕草をしている(両手の手のひらを下へ向けてパタつかせる)のがようわからん。水族館のショーで、飼育員さんを好きすぎていちはやくのりだしてくるシャチみたいなもんか?????

床は普通に(?)とっちらかっていたが、どういうこっちゃ。

あと、段切の柝を打つタイミングがおかしかったのは、なんなんだ????????? どこで打てばいいかわからないということ???????????

 

 
 
 
 
 
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  • 義太夫
    竹本南都太夫、竹本咲寿太夫、竹本津國太夫、竹本織栄太夫、竹本文字栄太夫/竹澤團七、竹澤團吾、竹澤清允、鶴澤清方、鶴澤藤之亮

  • 人形
    禿[上手側]=桐竹紋秀、禿[下手側]=桐竹紋吉

 


今回の『生写朝顔話』は、めざましく良い場面があるとは言えない状態だった。ひとことで言えば描写力不足。物語のもつベクトルに乗ることができていない状況が多くて、求心力が下がっていると思った。今回、物語の世界観を拡張できるような描写力の高い人は第三部に『伊勢音頭』に配役されており、第一部・第二部のほうが「世界観」不足になったきらいがある。

「よく出る演目」は、よく出るだけあって、ある程度誰がやってもなんとなく「それっぽく」見える・聞こえるよう、演出が洗練されている。また、客側も内容を熟知しているので(したくなかったが)、多少掘り下げが至らなくてもこちらで脳内補完ができる。けれど、純粋な初見演目だと、ぼんやりしてるってことだけが、はっきりと、しっかりと、伝わってくるッ!!!!! 2月東京公演の『絵本太功記』通しでも感じたが、個々の出演者の技能・研鑽が相当の度合いでものをいうッ!!!! と思った。

珍しい段でも面白く見せる・聞かせるのは、決して不可能ではない。『伊達娘恋緋鹿子』『ひらかな盛衰記』では、有名な段のほかに、「八百屋の段」「辻法印の段」などの微妙にレアな段をくっつけて上演されることがある。これらの段は、あらすじや床本読んだだけでは面白いとは感じられない。しかし、舞台で観てみたら、「実際観てみると、なかなか面白いな」「しょーもなさ、他愛なさがええやん」と思った。つまり、出演者の「ここを面白く聞かせよう、見せよう」という考えが感じられて、舞台そのものは楽しく見られたのだ。特に、「自分勝手なオッチャンオバチャンのギャアギャア、ええ〜っとなる娘」とか「お人よしビビリがおかしなヤツのせいで無茶苦茶させられる」といったシチュエーションを積極的に・上手に表現していたところ。なにを表現するかという指向性があるため、それ自体が見せ場になり得ていた。
こういったニュアンスを出せるか否かは、その人がどれだけたくさんの世界観を持っているのか、いままでに見てきた演劇(文楽自体含む)・映画・その他さまざまなエンタメやアート作品、経験、そのほかの蓄積から何を引き出せるかなので、本当に才覚がいると思う。
脚本の力が弱い演目を通し狂言にしたゆえに、いまの文楽の地力のなさが出たのだろうか。

 

人形若手が遣う端役では、演技が浮ついた感じになっているものが多い。「宇治川蛍狩」の浪人、船頭(超新人)、「笑い薬」の松兵衛などは、数手先の演技が気になるのだと思うが、いま何をすべきかと次にすべきことが混じっている。まずその瞬間の様子の描写を徹底することを身につけてほしい。
浮つきについては、「笑い薬」中(松兵衛山)は、太夫と三味線、床と人形が結構ズレていた。全員気持ちが浮ついて空回りしているのではないかと思うが、ひとまず、人形は、太夫の「声」ではなく、三味線の音にあわせて拍子取ったほうがいいと思う。「声」に合わせて演技すると、本当におかしな感じにずれる。客で拍子取っとるやつ(迷惑)も、必ず三味線に対して拍子を取っていて、太夫に対して取っとるやつはおらんで。
その瞬間を的確に描写すること、三味線に乗ることは文楽人形の演技として必須なので、少しずつ「よく考える」「よく聴く」習慣をつけて、頑張って欲しいと思う。

今回はさすがにどうかと思ったので書くが⋯⋯、現在の太夫には、どうにも、「頑張ってやりました」に頼りすぎている風潮があるのではないかと感じる。大きな声でハキハキやっているのだが、『生写朝顔話』は、大きな声でハキハキやるべき演目なのか。毎公演見ていると、なぜ、いつも、どんな演目でも「それ」なのかと思っちゃうんだよな⋯⋯。
今回は、深雪サイド=恋愛物に特化した段を抜粋して上演している。これらの段では、哀切であったり、陰鬱であったりと、しっとりした雰囲気を表現することが重要なのではないだろうか。彼らはこの演目を通してどういう情景や雰囲気を表現すべきだと考えているのだろうかと思った。
琴のこともあるし、人形も相当ひどいことになっているものがあるわけだけど、客側も、なんでも褒めたり、ポジショントークみたいな評をするのは、よくないんだろうなと思った。

 

 

 

*1:現行床本では後に島田に露天の薬売りとして出現するが、読本の場合は「薬売り」にあたるエピソードは存在せず、山科で蛇使いに身を落として物乞いをしているところを偶然駒沢に出会い、金を恵んでもらって改心、ついには駒沢サイドへ味方する展開になっている。

*2:このあとについては、読本には「笑い薬」にあたるエピソードはなく、山口へ帰ったあと、岩代多喜太に同心して悪事のアシストにチョコマカ動き回る設定になっている。

*3:なお、「真葛が原茶店」で登場する「ニセの惚れ薬」は丸本・読本にはない趣向で、先行する歌舞伎『けいせい筑紫𤩍(つまごと)』に出てくる。『けいせい筑紫𤩍』の祐仙は、なぜか顔に塗りまくっていた。もうひとつ補足すると、「笑い薬」自体は、『源平布引滝』の四段目の口(「松波琵琶」の冒頭、庭掃除の下男たちが紅葉酒に毒を盛られ、笑い転げた挙句チーンする話)からきているのではと言われているようだ。