今年の大阪鑑賞教室は、前半日程へ行った。

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『団子売』は、午後の部のみ鑑賞。
勉強していることと、まずは形から入っているということと、頑張っていることと、どういうことがやりたいかはわかった!!!!!
とにかく本人たちなりに努力していることはわかった。この経験年数ではこれで標準的な出来と評価すべきなのかもしれない。が、ただただ健気なのであって、形に振り回されすぎているように思える。
形というか、「形」と、手本にしている人が味付けとしてやっているオプションとの区別がつけられておらず、フラットにならべてやってしまっているので、その人の遣い方に憧れているのはよくよくわかるものの、「わからずにやってんな」という印象が強い。
同じように健気でも、形に振り回されず、地に足をつけて勤めている人とは何が違うのか。もっといえば、単にがむしゃらに頑張っている「だけ」で何の成長もないままに何年も経過してしまう人と、デコボコありつつも着実な積み重ねがある人はどう違うのか。彼らはここからどうなっていくか。
という感じで、いろいろ考えてしまう『団子売』だった。
- 〈前期日程午後の部〉
- 義太夫
お臼 豊竹靖太夫、杵蔵 竹本咲寿太夫、竹本碩太夫、竹本聖太夫/竹澤團吾、鶴澤友之助、野澤錦吾、鶴澤燕二郎、鶴澤清方 - 人形
団子売杵蔵=桐竹勘介、団子売お臼=吉田玉延
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解説。
午後の部・鑑賞教室の回のみ見た。
毎年のように書いている気がするが、解説は本編に即した内容にできないものなのかな。「女方の人形の最大の特徴は足がないことです」と言っても、『団子売』のお臼にいきなり足があるから、違和感がある。生成AIの文によくある矛盾、たとえば「紫外線が最も強いのは、昼間10時から2時までの5時間です!」といった文章を読んだときのような「雑」を感じた。論理的に喋れ論理的に。
もちろん、私は「常連」なので、時代物の大作に登場するような女方の重要役に足がないことは知っている。しかし、初心者はそんなことわからない。せめて、静御前・政岡・八重垣姫などの有名ヒロインの写真を見せながら説明しては。
今回のメイン番組「引窓」は、ロジカルであるがゆえに現代でも理解しやすく、同時にロジックがわからなければ理解しづらい。それゆえか、解説では「引窓の開閉が昼夜を示している」ことが念押しされていた。正しくは昼夜を「比喩」しているのであって、引窓の開け閉めが現実の昼夜と連動しているわけではない。登場人物たちが(本来は絶対的なものであるはずの昼夜を)恣意的に切り替えていることを説明したほうがいいとは思ったが⋯⋯。
浄瑠璃は、登場人物がなんらかのかたちで社会のルールに違反する(罪を犯す)物語になっている。「引窓」の場合、「義理の親子は、実の親子に優越する」、つまり、「義理の親子のほうを優越させるべき」という社会の掟をママが破ってしまう。しかし、義理の子・十次兵衛は逆にそういったママの気持ちを大切にしてくれるのが物語のキモだ。こういったナラティブは、「エンタメには共感したという態度をとることがマナー」「伝統芸能は『すごい』のだから敬意を評し肯定しなければならない」と思っている初心者にはまじで理解できない。基本的な浄瑠璃ナラティブとして、「義理の親子は、実の親子に優越する」は説明したほうがいいのではと思った。
- Bプロ(鑑賞教室)=吉田玉路
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『双蝶々曲輪日記』引窓。
午後の部、十次兵衛に玉志さんが配役。玉志さんはこれまで3回連続で濡髪に配役されており、客全員(巨大主語だがマジ)が「いやこの人は絶対十次兵衛だろ!?」とツッコミ入れていたところ、満を持しての十次兵衛。確実に決めてくるだろうなと思っていたが、実際、確実に決まっていた。
かなり優美な雰囲気の十次兵衛で、大幅に武士へ寄せた造形。所作が絶対に田舎モンには見えないレベルで華麗。町人へ寄せて軽さと穏やかさを出していた玉男さんとは異なる佇まいになっていた。
一番良いと思ったのは、母へお尋ね者の絵姿を見せている際に、二階から覗き込む濡髪の姿が軒先の手水鉢へ映る場面。ここで、「濡髪の姿が手水鉢へ映ったことに気づいた」ことよりも、「それを察したおはやが引窓を閉めた」ことに大きくリアクションしていたのが非常に良かった。
まず、十次兵衛のリアクションをこの二段階へ分解するという判断が上手い。それぞれ別次元のことが起こっていながら、十次兵衛役はどちらかに気を取られ、リアクションがもちゃっとくっついてしまう場合が多い。そこを分解することで、十次兵衛ないしはドラマにとって2つの重要な出来事が起こったことが明瞭になる。
この部分、私自身も、これまでは「いかにも『芝居』然としたシーン」として、ただ漫然と見ていた。実際、十次兵衛役でも、「これみよがし」に濡髪を発見する演技→おはやが引窓を閉めるのを単なる「タイミング」として扱い、ポーズを決めるという「見得」自体を見せる演技になっている人もいる。しかし、今回のこの玉志さん十次兵衛の演技を見て、十次兵衛にとって「それら」はどういう出来事だったのかを明瞭にすることによって、様々な感情・出来事をドラマ上に意味付け・位置付けることができるもんなんだなと感銘を受けた。
また、「水鏡に映った濡髪を確認する仕草は『慎重』」「おはやが引窓を閉めたときは『驚き』」と演技を分けるのも、実際にはなかなか出来ないことだと思う。
玉志さんの場合は、手水鉢に映った濡髪の姿を見つける演技は慎重に窺い見る演技、引窓が閉められたことには大きく驚く演技に区分していた。おはやと引窓に対する驚きを表現することよって、彼にとって何が予想内/予想外だったのかが明瞭になり、物語として「引窓」の存在も際立つ巧みな設計だ。濡髪の姿を見つけたこと自体は、十次兵衛にとってはさほどの驚きではないだろう。しばらく前からママ&妻の様子がおかしいことは十次兵衛もわかっているはずなので、実際それ自体が異常レベルの驚きというのはありえない。また、十次兵衛は職務で捕縛しなければならない対象を見つけたからといって大はしゃぎにイキリ立つ人物でもない。しかし、まさか妻が自分を「裏切る」とは思っていなかったわけで、しかもその方法が「引窓を閉める」であることは、十次兵衛にとってあまりにも予想外の出来事だろう。そのあたりの解釈には納得としか言いようがない。
さきほど、十次兵衛が濡髪を見つけた演技を「これみよがし」にする人がいると書いたが、そのような人がなぜ「これみよがし」に見えるかというと、この2つの区別が曖昧になり、濡髪の姿を見つけたことをアピることばかりにシャカリキになってしまい、おはやが引窓を閉めるのを単なる見得の契機にしてしまっているからだ。しかし、実際、これが自分の身に起こったことだとしたら、リアクションが一体化するなんてありえない。たとえば猫を2匹飼っていたとしたら、1匹目の猫がケコッケコッとゲロ吐きそうにしてるので猫の下へチラシを差し込もうと構えていたら、背後で2匹目の猫が窓にぶつかったセミにビックリしてキャットタワーのてっぺんから派手に落っこちたが如き出来事。このとき飼い主は必ず個別にリアクションするはずだ(1匹目の猫の下にチラシを差し込み、即座に2匹目がケガしてないか見に行く)。
違う出来事にはそれぞれ違うリアクションが必要なのは当然だが、特に考えなく舞台を眺めているだけだと「十次兵衛がポーズを取った」だけでも満足するし、やっている側もそうなのだろう。しかし、客受けに頼らず、深堀りして物語を立体的に見せていく取り組みはすごいと思った。玉志さんの上手さであり、とくにファンというわけでもない客からも信頼感を得ている理由は、結局、こういうところだと思う。
引窓が閉められたことへの十次兵衛の驚きは、客のこちらまでびっくりするような大きな動きになっていた。今回は鑑賞教室ということで、直前に行われた解説では引窓の開閉に物語上の大きな意味があることが説明されていたが、普通に見ている分には、引窓自体にドラマ上の大きな意味があることに気付くのはなかなか難しいと思う。文楽の大道具は簡素なうえ窓のサイズは知れているし、照明を変化させるような演出があるわけでもない。なにより、引窓の開閉そもそもが抽象的なロジックである。今からみると日本の演劇は江戸時代にここまで到達していたのかと驚くべき演出ではあるのだが、そう思うのは文化的リテラシーの高い演劇・芸術好きだけであって、不特定多数の観客を対象とする鑑賞教室では難易度が高すぎる。しかし、登場人物が開閉そのものに対し大きなリアクションをすることで、開閉へのアテンションがうながされ、「引窓」らしい世界観を形成することができていたのは、今回配役ならではの素晴らしさだと思う。
細分化が物語のディティールをかたちづくり、ドラマを補強していく機能は、おはやの演技にも言える。
おはやは十次兵衛が2階の濡髪に気づいたのを悟り、思わず引窓を閉めて室内を暗くして、周囲を見えなくする。しかし、閉めると同時に夫を裏切ったという罪悪感に苛まれる。ママの気持ちに添うことができても、今度はやっと得られた職務に胸をふくらませる夫を本意でなく裏切ってしまうのだ。
本公演では、引窓を閉める演技を単なる「見得」として、格好つけたポーズを決めるのみという人が一部にいて、極めて残念に思っていた。しかし、今回の鑑賞教室は、本公演より「格下」の人に配役がついているにもかかわらず、私が見た前期日程では、午前〈桐竹紋吉〉・午後〈桐竹紋臣〉とも、「夫を裏切ったという罪悪感」をしっかり表現しているのが良かった。彼らは、なんでもいいから直近の配役の映像を見て真似しているのではなく、ちゃんとやっている人の演技を参考に、自分なりに考えてやっていたからこう出来たのだろう。
また、演出効果面でいうと、今回の配役のおはやは二人とも、引窓の「閉め方」自体も上手かった。午前・午後ともにバチンと派手に音が出るように閉めており、開閉を聴覚でも知らしめる効果が高い。とにかく客に引窓を閉めたことを理解してもらわないと話がはじまらないので、非常に良い手法だと思う。
そして、今回、午前の部・ママ役を勤めていた簑二郎さん。ママは、濡髪に自分の手で縄をかけるときに引窓についた引き縄を使うため、一度だけ、自ら引窓を閉める演技が入る。ママは涙の中でおずおずと縄をかけるので、おはやのように思いっきり縄を引っ張ることはしない。ところが、簑二郎さんは上手いこと縄をたぐり、おもいっきり引っ張った演技はせずとも、ちゃんと「バチン」という音を立てて引窓を締めていた。ここで「引窓が閉まった」=夜になって十次兵衛が武士になる時間がきた(ママ自らそれを招いた)ことを示すのはドラマ上の重要事項。前述の通り、ママはおずおず縄をかけるので、引き縄を引っ張るくだりは単なる手順として埋没しがちになる。ここで引窓が閉まったかどうかは、従来はよほど注意深く見ていないと(というか、閉めるとわかっていないと)まず気づかない状態だった。そこを、演技は穏やかにおさめつつ、音は立てることによって開閉にアテンションが促されるのは、かなり上手いと思わされた。
話を十次兵衛に戻す。(戻るんかい)
十次兵衛は、その演技のほとんどが、「建前」で構成されている。彼は浄瑠璃あるあるの「建前」使いが誇張されたキャラで、「町人」「武士」を建前として使い分けていることに特徴がある。つまり非常に恣意的であるため、ものすごくパッキリとした切り分けがあるわけではない。たとえば、最初に自宅に帰ってきたときは当初スッタカターと歩いてきて速攻家へ上がろうとするが、一度上がり口に足をかけた瞬間に思い直し、武士っぽくもったいぶって踏み込み直すという演技がある。また、中盤、夜になったので見回りに行くと言って外へ出ていくところでは、「自称」や服装(帯刀)は完全に武士であるものの、家の中での歩き方は町人になっているといった複雑な表現が発生している。特に後者は、「流れ」でやるのがなかなかに難しい。下手を打つと変に目を引いて、「流れ」ないのだ。玉志サンの場合、素が上品なのが幸いしてか、すたすたっとした程よく品のある立ち去り方に落ちていた。本当に「町人」で歩いてしまうと(何も考えずに歩いてしまうと)バカっぽくて違和感が出るし、かといって「武士」に寄せ切ってしまうと、直前のママ想いな態度からの移行が速すぎて十次兵衛が冷淡に見えるため、難しいところだと思う。
それにしても、メッチャ上品な十次兵衛だな⋯⋯。イケメンすぎんか⋯⋯。
放埒で郷代官の役を罷免されたとか、遊女と通じたとか、人殺しを働いたとかにはまったく見えん。玉志サン比として、純然たる上品武士役(先月の弓之助とか、義経などの類)よりも遥かに動きが軽妙で、全般的に「タッタッタッ」と足早に動いているので、本人の中では区別ついてるのはわかる。わかるで〜。が、上品な出演者がほかにいないために、爆発的に華麗に見える。ある意味、颯爽濡髪より、「このイケメン誰!?!?!??!?!?!?!」状態だった。
特に棒足が華麗すぎる。私が学校の芸術鑑賞授業で観に来た高校生なら、感想レポートに「十次兵衛の段切の棒足は非常に華麗。あえて位置を低く構える派手な見せ方にすることで、閉鎖的空間で展開された一種『地味』な物語の終幕を、開放感と祝祭感で飾っている。そのようなきらびやかなポーズでありながら、濡髪を追おうとする母を制する刀の使い方の穏やかさはベテラン人形遣いならではの落ち着きであり、また魅力である」と書く(激ウザ高校生)。
なぜ玉志サンは毎回棒足が華麗なのか。いかにもな見得でイキるなどの無駄はしないタイプなのに棒足だけはなぜ派手に見せようとするのか。その理由は何なのだろう。不要な「目立ち」を徹底排除しようとする傾向のある初代玉男とは決定的に異なる点ではないかと思う。
ところで、その初代玉男は、十次兵衛の「出」で足拍子を入れるのはもったいぶりすぎだと考えていたようだ。しかし、今回、玉志サンの十次兵衛を見て思ったのは、足拍子を入れようが入れまいが、上手い人がやると、無意識に曲に合わせてメリハリつけた動きにするため、どうしても目立つ・クッキリ見えるということ。出てくるときに気迫があるので、客も足拍子より先に拍手する。逆に言えば、「普通の人」がやると、ひとりでに十次兵衛は存在感が消えるよな〜⋯⋯。全編に渡って⋯⋯。と思った。
濡髪は、午前〈吉田文哉〉・午後〈吉田玉翔〉、2人とも驚くほど勉強してきている。
喜ばしかったのは、記録映像をなんとなく見て表面的に真似したんだなというものではなく、手本となる演技の何が良かったのか、自分に取り入れるべきはなにか、それぞれの人の研究が感じられた点。師匠や先輩からの指導も入っていると思うが、自分なりの研究や考えを伺わせるものがある。「なんとなく形だけふわっと真似しました」にとどまらず、よくここまで仕上げてきたなと思った。
それにしても、おふたりとも、超・爽やか!!!やな⋯⋯。現代のトレンドである、爽やかですっきりとした品のある、すらっとした佇まいの男子像になっている。
思えば2021年9月東京公演で『双蝶々曲輪日記』が出た際、玉志濡髪のあまりの颯爽とした姿に客全員が「誰!?!?!?!??!!」とビビリ散らした。あのときほど客の気持ちが「完全一致」したこともないだろうというほどみんな驚いていた。その後も2023年11月大阪公演、2024年2月東京公演と3回続けて濡髪は玉志さんが演じていて、異常颯爽イケメンとして揺るぎない爽やかさを発揮していたが⋯⋯、あれを見て「学習」してもうたっちゅうことか⋯⋯??? 濡髪はもはや大時代的な脂臭い芝居は求められない役になったということだろうか。そりゃそうだよな。「大時代的な脂臭い芝居」でやるならば、なぜいま、「大時代的な脂臭い芝居」でなければならないのかの明確な理由が必要だろうな。やっている側の世代的なことだけでいうとそうだろうなとも思うし、私自身もそう思う。なんとなくそれっぽくやってますでは客には通用しないという端的な例の役だろうな。
というか、本当に「学習」したかどうかは別として、玉志サン的なテイストってある程度再現可能なんだということに驚いた。玉志サンは玉志サンでさらなるキレや品格があり、顔整い感が桁違いなわけだが、芸歴がそこそこの人がこのような抽象的な「キャラ」を造形していけることに、すげーと思った。表面的な「真似」では絶対にできない。しかも玉志さんに左やってもろうとるわけでもないのに⋯⋯、ほんますごい。
玉翔さんが爽やか系に寄るのは想定内だったが、文哉さんまで爽やかに寄ったのは驚き。文哉さんは、本人なりに映像などを見て勉強していることはこれまでも感じられていたが、見様見真似以上のものになっていないケースが多かった。芝居の構造自体を理解せず表面的なトレースをしているため、本質からずれたチグハグさが含まれてしまうのだろう。しかし今回は、「本質」をしっかり見据えた演技になっていて、かなり驚かされた。見様見真似で今回はたまたまこうなったとは考えにくく、誰かに指導を頼んだとかなのだろうか。こういった「芯のある状態」を何役もつなげていくことができれば、変わっていけると思う。
玉翔さんにしても、一応いまの師匠はいまの玉男さんで、指導したのも玉男さんということになってはいるだろうが、佇まいは大幅に玉志さん(美青年系、師匠路線)に寄っている。玉翔さんがなにを目指すかは、元の師匠、身近な先輩なら玉志さん・玉佳さんだろうなと思う。現状、文楽で、王道の美青年キャラ、二枚目路線をいく人はいない。玉志さん・玉佳さんが本来的にはそうなのだろうが(この二人は人形の顔そのもの以上に人形の顔が整って見える)、現状では言うたらアレやがそこまで適任なわけではない……というか、はっきり言うて芋っぽい人が二枚目に配役されている場合が多い。いまのうちに基盤を固めておけば、いっきにかっさらえる可能性は高い。私はこれで正解だと思う。
玉翔さんで惜しいのはちょっと「棒立ち」風なところが多いこと。ご本人にまだ迷いがあるんだろうなと思った。そして、人懐こく育った人らしい「周囲への無類の信頼感」が役に顕れているのが、この役に対してはややマイナスかな。子供の頃に実母から離れ、遠慮し通しで生きていたはずの濡髪が、初めて上がり込む実母の再嫁先でリラックスしすぎのように思えた。玉志さんはそのあたり、持ち前(?)の猜疑心と神経質さ、真面目さがプラスに働いて、ちょっと遠慮して緊張している感じがよく出てたなと思った。
現状、彼らの濡髪は、「ほんとに素で若いために大人への対応がわからず固まってる子」という印象が強かった。芸が達者になってこれば、芸として「若くて気遣いしすぎて固まってる子」になっていくのだろうと思った。
長五郎母は、午前〈吉田簑二郎〉・午後〈吉田勘市〉とも、非常に堅実。
簑二郎さんママは、簑二郎さんの良さがよく出て、「愚かさ」と情愛がてらいなく自然に結びついた姿になっていた。これまで完璧に生きてきた女性に実は欠点があった(欠点が生まれた)というスタイルではなく、ただただ普通の人で弱々しく頼りない感じがするのも良い(オレオレ詐欺に絶対騙される系)。私は、人間の「愚かさ」を美的に、かつ自然に見せるのは、誰にでもできることではないと思っている。この点で簑二郎さんに勝てる人は存在していない。現状、簑二郎さんのこの手の配役は、浜ゆう(奥州安達原)、おかるママ(仮名手本忠臣蔵)など老母役が多いけど、演技傾向からしておそらくジェンダー関係なくうまくいくので、平作(伊賀越道中双六)、合邦(摂州合邦辻)などの老父役も観てみたい。
午後の部・勘市さんは熟考された演技で上手いとは思うのだが、この人に、その場しのぎにてんでんばらばらな役を与え続けるべきではないと思う。「知的な年配男性」等を集中して配役してほしい。それこそ十次兵衛を配役すべきだったのでは。
鑑賞教室の場合、配役によって演技構成に違いがみられる場合があるが、今回はママの出のタイミング、二階から十次兵衛の密談を聞く際に障子を開けるタイミングに大きな違いが出ていた。
出については、午前の部では、ママよりも先におはやが出て、里芋を剥きはじめていた。午後の部では、ママが早々に出て、ススキ等のお飾りを二階の窓際へゆっくりと供える演技になっていた。二階から十次兵衛の密談を聞くくだりでは、逆に、午前の部はかなり早めに障子を開けて聞きはじめる、午後は話が核心に近づいてから障子を開く演技(だったと思う)。
出はともかく、十次兵衛の話を盗み聞きするくだりは、障子を開けるのが早すぎすると、洗濯物干しに出てきた人みたいで、違和感がある。やるなら、さりげなくそしらぬ顔をしているとき、注意深く聞いているとき、驚くべき話を耳にしたときとの表情の変化をもっとハッキリつけなければ、冗長になる。いずれにしても、人形が客前へ露出している時間が長ければ長いほど、どういう状況であると見せるかを精緻化していかなければならないと感じた。
おはやは前述の通り、最初に引窓を引いて締めるところをどう見せるかが重要である。この点は午前の部〈桐竹紋臣〉・午後の部〈桐竹紋吉〉とも、とても良かった。
特に午前の部は、役の清楚さを保ち、わざとらしさがない程度に(脇役のくせに十次兵衛より得意げとかではない程度に)きちんと「苦節」を表現しているのが良かった。閉めなきゃ!と思わず動いたあと、まずは引窓を閉めて濡髪を隠せた!という安心感を表現し、しかしすぐに夫を裏切ってしまった!という辛さにさいなまれるという段階の見せ方が的確。紋臣さんは、冒頭、ママといっしょに十五夜の支度をするところも良い。苦界から足を洗い、健康的で明るい「一般の奥さん」になれた喜びを感じる。それはそうと、このおはや、デッカイGOKIを見つけたら、まず素手でぶっ叩いて殺したあとで、「おかあさんデッカイGOKIBURIおった〜!!!!!」とママを呼び出して死骸を見せた挙句、十次兵衛にLINEで写真送りそうだなと思った。私も特別デカいGOKI見たら人に見てもらいたくなるタイプやで🥺
午前の部・紋吉さんは役へ誠実に向き合っていると感じた。大きな造形はしっかり出来ており、ここに個性やニュアンスというべきものが乗ってこれば、客にとって見るべきもののあるおはやになると思った。GOKIは見せつけなくていいのだが、紋吉さんには、客が「この人ってこういう行動取りそうだよね〜w」といった「妄想」をふくらませることのできる人形遣いになってほしい。
十次兵衛が連れてくる三下侍・平岡丹平&三原伝蔵は、午後の部の二人組〈吉田玉彦・豊松清之助〉が良かった。丹平・玉彦さんは、ちょっとしたうなづき、目配せなど、十次兵衛や伝蔵への細かいリアクションを入れ込んでおり、その人物としての表情が出来ている。かしらのニュアンス程度なのでうるさくないし、「演技のサイズ感」も適切。この役は「ツメでもええんですけど三人遣いにしときました」状態になることが多いし、実際その程度しか求められない中、平岡丹平という人物が立体的になることで、「濡髪は殺した相手がマズかった」感がきちんと出てくるのが良かった。伝蔵・清之助さんはツメオーラがあるところが良かった。存在になんの意味もなさそうな金魚のフン感がすごいッ(けなしてません)。
床は非常に頑張っており、「上手にできている」と思った。ただし、説明性や力み見返りすぎがやや目立つように感じた。
「引窓」は、端的に言えば、濡髪を捕縛する・しないで70分右往左往し続ける話になっている。この「右往左往」のニュアンスが他の演目に比して高度なのが特徴で、途中で具体的な事件が起こるから右往左往するわけではなく、登場人物の「気持ち」の薄紙を重ねるような蓄積が結果的に右往左往となっている。また、ママ、濡髪、十次兵衛それぞれに右往左往、感情の蓄積のタイミングがあるのだが、それをしっかり切り分けて表現する必要がある。
その点では、午前の部・藤太夫さんは整理が行き届いた語りで、場によるシチュエーションのニュアンスが的確だった。だんだん「もー、どうしようも、ありませーーーーーん!!!!」となっていく、良い意味でのリニア性のある「押し詰まり」が表現されていた。世話味の強いエモーションをもって「勢い」で語っているように見せかけながら、細部まで研究が行き届いている。
午後の部・呂勢さんは、正直なところ、同じトーンの繰り返しが多く感じられて説明的にすぎ、物語に立体性がないように感じられた。呂勢さんが研究していないとは思わないが、ニュアンスがないのであまりに単純化しすぎていて、「どうして話戻ったんや???」と思ってしまうことが多かった。
お二人とも、濡髪がママへ「誤りました〜〜!」というところを「むやみに」強調していた。なぜ「むやみに」と書いたかというと、どうしてここを強調すべきなのか、客に伝わらない語り方になっていたから。単に「大声でやるという口伝があるから大声出しました」以上のものが感じられない、突拍子もない大声に感じられたのは残念。ただ、藤太夫さんの場合はそこまでわざとらしいわけではなく、気負いすぎてるのかなという程度ではあったので、会期を重ねるうちにだんだん補正されていくのかもしれない。呂勢さんにしても、品のない「大はしゃぎ」としてああなっているわけではないので、本人が年齢を重ねていくにつれ、ガワではないものとどう向き合うかが変わってくるのではと思う。
午前午後とも、おはやの喋り方がかなり不自然に感じた。おふたりとも、「昭和の和風ゲイバーのママ『役』」みたいな印象で、つくりすぎではと思った。
という感じで、言ってはなんだが、トウの立った若手会みたい⋯⋯と思った。
三味線はちょっと重荷な人も多かったのかなと思った。
- 〈前期日程・午前の部〉
- 義太夫
中=豊竹睦太夫/鶴澤清𠀋
奥=豊竹藤太夫/鶴澤清志郎 - 人形
長五郎母=吉田簑二郎、女房おはや=桐竹紋吉、濡髪長五郎=吉田文哉、南方十次兵衛=吉田一輔、平岡丹平=桐竹勘次郎、三原伝蔵=桐竹勘昇 - 〈前期日程・午後の部〉
義太夫
中=豊竹希太夫/鶴澤寛太郎
奥=豊竹呂勢太夫/鶴澤藤蔵 - 人形
長五郎母=吉田勘市、女房おはや=桐竹紋臣、濡髪長五郎=吉田玉翔、南方十次兵衛=吉田玉志、平岡丹平=吉田玉彦、三原伝蔵=豊松清之助
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近年、鑑賞教室は、大阪・東京ともに、若手会と紙一重状態となり、スベッてても我慢してくれ状態が続いていた。が、今回の前期日程は、全員初役にもかかわらず、ほとんどの方が非常に自然、かつ、よく考えられた所作で驚かされた。
本文中で詳細を述べたように、十次兵衛にしてもママにしてもおはやにしても、物語のディティールを捉えてそれを表現として定着させている人がいたことには、今後の文楽への期待を抱けて嬉しく思った。とともに、なにも考えずに決めポーズだけやる人じゃなくて、もうこの人たちを本公演に配役してくれと思った。
いすれにせよ、「引窓」では、彼・彼女の身に起こったそれぞれの出来事を、連続性のある物語のある一部としての位置付けをしないと、何の話なのかわからなくなる。また、連続性のなかでその仕草の意義を捉えないと、各シーンとの演技の大小強弱のコントラストが均一になっていき、ノッペリしてゆく。「引窓」の場合、ほかのよく出る演目に比較しても、それが顕著だと思う。実際問題として、役やその場(瞬間)単体で見ると「さっきからずっと同じようなこと言ってね?」という堂々巡りのウザさと、最後の「なんで急に解決しよったんや」が強く感じられた回もあり、『双蝶々曲輪日記』は、しっかりメリハリつけないと何の話なのかわからなくなるなと思った。
ただ⋯⋯「初心者」なのは客ではなく舞台の上の人たちという状態は、やめて欲しいわな。
いまの「鑑賞教室」は、文楽を見たことがない友人知人に薦めたいと思わない。見に行くかどうか考えてると相談されたら、「鑑賞教室はやめといたほうがいい、普通の公演のほうが全然ちゃんとしてる」と答える。どうしても見てみたいと言われたら、「マシ」な配役の回を教える。
古典芸能で「高い技芸」を見せないというのはナシだろう。私の考えでは、技芸レベルが「どうでもいい」状態であるならば、それは「古典芸能」たりえない。東京公演の第三部は、最近、「文楽入門」と称して初心者向け風に見せかけた公演を行っているが、あれのほうが配役がある程度ちゃんとしているケースが多いぶん(最低ひとりは超まともな人が確保されている)、「初心者向け」だと思う。少なくとも、鑑賞教室は、内輪で配役を大はしゃぎするための公演であるべきではない。
解説が伸びていて普通に終演時間が押していた。伸びるのは仕方ないので、タイムテーブル改訂しといてくれんか?と思った。こちとら新幹線の時間があるねん。
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鑑賞教室公演のお楽しみ、公演前後の遊び歩き。
京都国立博物館の「北野天神」展へ行った。数多ある北野天神縁起絵巻を複数同時に鑑賞できたのが良かった。瀕死の時平のおみみから龍が出てくるところ、文楽で見て「へびちゃんすぎんか????」と思ったが、絵巻でもへびちゃんだった。絵巻は鎌倉時代のものから江戸時代のものまで幅広く展示されていたが、後期のものは類型をいかに美麗な技法で描くかに寄っていっているため、混沌といろいろなものが書き込まれた初期のもののほうが面白い。石段に顎乗せて休憩してる人たちとか、なんなんだ。
展示構成全体は、何を見せたいのかよくわからず。見比べ以外の要素は「宝物館」ノリを脱せていないように思った。また、「刀剣乱舞」とコラボしていたが、「IPコラボで客集め‼️」が露骨すぎという印象を受けた。客筋は、「刀剣乱舞」目的の遠方からの来場者が多いようだった(展示室内で聞こえる会話が標準語多数)。テーマの問題なのかいつもそうなのかわからないが、外国人観光客は皆無だった。


心斎橋の「ちいかわラーメン」へ行った。普段ラーメンを全く食べないので、「郎」系を体験できてよかった。麺200gの小サイズを頼んでも「デカ盛り」風の盛り付けをしてくれるのが嬉しい。
お客さんは、家族連れ、おそらく東京から来た女性二人組、男子高校生?など多彩だった。家族連れ以外は、「ちいかわ好き+連れてこられた友達」みたいな人たちが多くて、ちいかわ好きの人が付き添いの友達にちいかわについて説明しながら食べていた。
そのほか、はり重カレーショップ、純喫茶アメリカンなどにも久しぶりに行けて、楽しかった。



- 『団子売(だんごうり)』
- 解説 文楽へようこそ
- 『双蝶々曲輪日記 (ふたつちょうちょうくるわにっき)』八幡里引窓の段
- https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2026/0806bunraku/
- 配役:https://www.ntj.jac.go.jp/assets/files/bunraku/pdf/202606bunraku_haiyaku.pdf







