TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽LINEスタンプ 第2弾 リリースしました[文楽はんこ蔵2]

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文楽LINEスタンプの第2弾を作りました。
今回は、光秀、朝顔、本蔵、八重垣姫、岩永左衛門、いぬ(冥途の飛脚の)などがいます。
24個入り、120円です。
よかったら販売ページを覗いてみてください。

 

販売ページ

https://line.me/S/sticker/22078427
 

スタンプ名: 文楽はんこ蔵2(Bunraku Stamp Box 2)
クリエイター名: yomo

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おすすめは……
電車が止まったときの、朝顔(生写朝顔話)

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めっちゃうれしい!ときの、狐忠信(義経千本桜)

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とぼけてごまかすときの、たこ(花競四季寿・夏)

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花粉の気配を感じたときの、長吉(桂川連理柵)

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イケメンを発見したときの、金殿の官女(妹背山婦女庭訓)

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ナメとんのかい!!というときの、玉手御前(摂州合邦辻)

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めでたい!ときの、又平(傾城反魂香)

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ご注進!というときの、子太郎(妹背山女庭訓)

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第1弾はこちらで販売中です。義経、団七、阿古屋、豆腐の御用、きつねなどがあります。
https://line.me/S/sticker/20453906

 

文楽 1月大阪初春公演『義経千本桜』椎の木の段、小金吾討死の段、すしやの段 国立文楽劇場

第二部は吉野。
吉野・金峯山寺近辺は、文楽聖地探訪のなかでも行ってよかった場所のひとつです。

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↑ 餅花は発泡スチロールでできていると思い込んでいたが、実はもなかの皮のようなお菓子素材で出来ていると知り、よく観察してみたら、確かに金魚すくいカップみたいな感じだった。

 

 

 

第二部、義経千本桜、椎の木の段。

段の名前は「椎の木」なのに、登場人物たちが拾うのが「栃の実」なのはなぜなのか。段名は、阿知賀に椎の大木と茶店があったという伝承に由来している可能性があるようだ。「機嫌とるかや栃の実を…」のかや(榧)は、実際に吉野でよくとれて、江戸時代には土産物として販売されていたらしい(『和州巡覧記』)。栃の実も古くからの特産品のようだ。*1

善太〈豊松清之助〉はよく考えてやっているんだなと思った。初日は、出てきたあと、客席に背を向けて振り返り姿で床几を袖でフキフキしていた。「ママのお手伝いをする」演技自体はいいのだが、子役の小さい人形で後ろ向きになると、人形が人形遣いに隠れてしまって何をやっているのかわからない。床几の後ろ側に回り込めばいいのにと思っていた。ところが二日目、ちゃんと床几の後ろ側へまわりこんで、客席に正面を向いてフキフキしていた。自分で気付いたのか、誰かが教えたのか。
善太が舞台下手でしゃがみ、地面の何かをつまんでいるのは、彼も栃の実を拾っているということなのだろうか? きれいな石を集めているのか?

小仙は紋臣さんらしい世話女房。清之助善太とかなり親子感があり、まじで産んでそ〜。と思った。胸の前で腕をかまえるとき、手首を胸にむぎゅっと押し当てるような仕草が可愛い。たぶんこれ自体に意味はなくて、癖でやっているのだと思うけど、衷心な女性の印象がある。薬を買って帰ってきたとき、権太が小金吾らにたかっているのを無言のうちに見ている姿も良かった。

若葉の内侍も、清五郎さんらしく、透明感のある高貴な美貌がよく出ていた。あの髪型の役が似合いすぎ。そして、目を閉じ、右手を目頭に当てて、左手をそれに添えるポーズがうますぎる。
六代君〈吉田簑之〉はチョン!と頑張って座っていて、良かった。なんか椅子に座ってるみたいになっていたが、現代の道端のこどもも空気椅子に座ってることあるからな、いいか。

小金吾〈吉田玉勢〉は怒りを我慢するという演技に注意がいきすぎて、それが若葉の内侍や六代君のためであるという小金吾の本質を忘れていると思う。頑張りすぎなのだろうけど。左は良い。

 

 

 

小金吾討死の段。

小金吾が最期に松の枝を切り落とすのは、どういうこと?

弥左衛門〈吉田文司〉は素朴な雰囲気が良い。ただ、小金吾の首を切り落として持ち帰る演技、何をやっているのかわからない。ミステリー的、あるいは次への伏線に、わざとわかりづらく演じているというより、単にうまくいっていないように見える。弥左衛門は次の「すしや」ではその朴訥さがよい方向に出ているだけに、ここはしっかり見せてほしかった。

というか、落ちてる死体の首をお持ち帰りするな。

 

 

 

すしやの段。
冒頭、おすしを買いにくるおツメさんたちの動きは、ある程度アドリブなのね。

玉男さんの維盛は非常に美麗。男性的なイケメン感が強く、地方公演で見た玉志さんの貴公子系キラキラ維盛とは違った上品さだ。強靭な気品にあふれた姿は、田舎っぽい衣装を着ていても、とても一般人には見えない。手ぬぐいで手を拭く仕草も、町人のそれとはなんだか違って見える。腰のあたりがなんか寂しい感じがするのが玉男さんらしくて、最後の出で、(1本だけど)刀を差しているのを見ると、安心する。
ただ、お里を軽く抱いてやる演技の手つきがゴミクズすぎて、お〜い!!と思った。完全に手ェつけてるだろ。
維盛は、外見が美しく、内面も清廉潔白ないい人に見えるが、小金吾の死を突き放して冷静に見ていたり、お里に表面でだけ対応していたりと、身分の高さならではの世俗離れした冷たさがある。権太はパパ弥左衛門が重盛に助けられたことを知っていたので重盛の子である維盛を助けようとしたわけだが、それに対してもわりとクールな反応をする。こういった突き放した雰囲気をどう表現するか。身分表現をもっと引き上げることで匂わせるのか? もうちょっと、なにかあるのかもしれない。

権太ママ・勘壽さんもとても良かった。おばあちゃんらしいちっちゃい身体でワタワタとしている感じが良かった。勘壽さん、ご本人はどんどん「おじいちゃん」になっていくけど、人形はどんどん元気になってきている気がする。歯がびっしり生えそろってそうだった。

 

清治さんは田舎を嫌味なくオシャレに弾くのがうまい。あの店が吉野のトレンドスポット(?)のように思えた。しかし元気ないな、もうおじいさんだから仕方ないのかなと思ったら、翌日(2日目)、コロナ感染で休演の掲示が出ていた。無理して出ていたのだろうか……。
呂勢さんは、お里の愛らしさ、権太のチャーミングさが自然に滲み出ていて、良かった。今月のプログラムの技芸員インタビューで話されている内容も、とても良かった。こういうふうに自分を客観的にみられる人でないと、こうは語れないわなと思った。

 

 

 

そういうわけで、良い人は良いし、なんなら良い人のほうが多いのだが、全体としては相当どうかと思う状況だった。「すしや」は、権太が救いようのない無駄死にであるということがドラマとして重要だと思うが、これ観ても、わからん。

人形も床も、全体の見取り図がなく、単調。その場その場の逐次的なことを作業的にやっている印象だった。そして、全般にのっぺりとして、曖昧になっている。このために核心部分がどこにあるかわからず、なんの話をしているのか、直感的にわからない状態だった。

そして、権太のキャラクター表現。権太は類型的なキャラクターではある。現行上演がない浄瑠璃にも、権太のような「粗暴な若者が命と引き換えに善に立ち返る」という話はごまんとある。けれど、権太にはそれらにはない大きな特徴があって、彼は「モドリ」の前であっても、一概に憎たらしい悪者とはいえないのだ。権太は、悪人のように見えるし、いい人のように見えるし、でもやっぱりやってることは悪いし、しかし本当の根っこのところは親思いのいい子だったという行き来に魅力がある。そして、愛嬌。ビビりなところがあったり、子供と遊んであげてそのまま帰宅しちゃったり、ママにはごろにゃんと甘えたりという可愛いところがあるからこそ、粗暴な部分が不気味で恐ろしく見え、また、無駄死にが実感をもって悲惨に見えるのはないか。そのあたりの表現が不足している。

 

床を「すしや」だけに絞って述べるなら、その悲劇性を語るにはエネルギー不足と言わざるを得なかった。
「すしや」を前後2分割する場合、従来は、「御運の程ぞ危うけれ」(梶原平三の来訪を知りお里が惟盛らを逃す/交代して権太の出)で切りますよね。しかし、今回は「親御の気風残りける」(布団に入ったお里を見た維盛の述懐/交代して若葉の内侍らの出)で切って交代していた。これだと、後半がもっ……のすごく長い。体力がない方が誤魔化し誤魔化しで語れる長さではない。
配役や切る位置は色々内部事情があるのだろうが、それならもういっそ3分割にして、権太がのれん口から走り出るところからは元気な方にやらせてほしかった。

人形は、主役がその役柄を表現できていない状態になっていた。
権太は、演技が何を意味しているのかわからないのが致命的。そして、愛嬌ある人物像が表現できなければ、「すしや」は成立できない。権太のキャラクターは人形演技で表現される部分も多い。お里は、シーンによって人物像がバラバラなのが非常に気になる。
企画意図としては、「花形」を盛り上げるために、技術的には至らなくとも、彼らに似合う役をと配役されていたのだろう。それなら細かい内面描写はできなくとも、キャラクターの特性をとらえて表現する勉強はしておいてほしかった。今後のためという話も、何ヶ月も連続して首をかしげる状況だと、寄り添うのは難しい。
権太かお里、どちらかは手慣れた人がやってほしかった。

 

人形の演技について、今回の舞台によって勉強になったことを書くと、いわゆる「普通の演技」には、意味があるんだな〜……と思った。
具体的なことをひとつだけ書くなら、権太の「涙」の見せ方。実家へやってきた権太は、ママにお小遣いをせびるため、泣き真似として、細く折った手ぬぐいを目に当てる。後半、小仙と善太を若葉の内侍・六代君に化けさせて引いてきた権太が、彼女らを梶原平三に引き渡す際、ここでもまた後ろを向いて再び細く折った手ぬぐいを目に当てる演技をする場合が多いと思う。今回は、この後半の後ろ向き演技の際、丸めた手ぬぐいを目を当てていたのだが、やはりここはママの前と同じく、細く折った手ぬぐいを目に当てるほうがいいと思った。一般的に人形の演技では同じ動作の繰り返しを嫌うが、この場面では、「前半では泣き真似だったのが、後半では本当の涙に変わってしまった」という意味があるので、繰り返し自体に皮肉な効果がある。これは従来の演技を見ているだけでも察せることではあるが、今回あらためて効果がわかった。

 

 

 

 

  • 義太夫
  • 人形
    権太倅善太=豊松清之助(前半)吉田和登(後半)、小仙=桐竹紋臣、主馬小金吾武里=吉田玉勢、六代君=吉田簑之、若葉の内侍=吉田清五郎、いがみの権太=吉田玉助、猪熊大之進=吉田文哉、すしや弥左衛門=吉田文司、娘お里=吉田一輔、弥左衛門女房=桐竹勘壽、弥助 実は 平維盛=吉田玉男、梶原平三景時=吉田玉輝

 

 

 

今回は、現状の文楽の問題点がもろに析出してしまっていたと思う。ベテラン、若手、それぞれにある問題がダイレクトに舞台に出てしまっている。いままで公演そのものをここまで強く批判したことはなかったが、この状態を放置しているのは、さすがに情けない。せめて人形か床、どちらかは、ドラマを駆動させ得る人を入れるべきだったと思う。公演のクオリティはどうすれば保てるのか、差し迫った重大な問題になっていると思う。

本公演の「すしや」は、簑助さんが現役のときにやって欲しかった。残念。

 

 

2019年3月地方公演、権太=玉男さん、お里=簑二郎さん、維盛=和生さん。

 

2018年10月地方公演、権太=勘十郎さん、お里=清十郎さん、維盛=玉志さん。

 

 

 

ロビーに、吉野・下市町のキャラクター、ごんたくんが遊びにきていた。
ごんたくんはかなり小柄だった。お客さんに突撃されまくっていた。ごんたくんの付き人?の方に、ノベルティの吉野杉のおはしをもらったが、歌舞伎、っておもいきり書いてあるのが味わいだった。

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ごんたくんぬいぐるみ、買っちゃいました。やわらかくて手触り最高なのに、なんと500円でした。

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ほかにクリアファイルやメモ帳などもあった。メモ帳の表紙がなぜか「カブトムシがトッピングされた海鮮丼(?)を食べるごんたくん」で、かなり目を引いた。
そのほか、下市物産展として、吉野杉グッズも扱われていた。本当はまな板だと思うが、鮓桶のフタにしか見えないものも売られていた。遠目に見たとき、ちびりそうになった。

 

 


 

*1:権太は木になっているやつを取れ、落ちとるやつは虫が食っとるとジモティーらしいことを言っていたが、奈良県立民族博物館の調査を読んだら、実際の地元の人、普通に落ちてるやつを拾ってるそうです。虫抜きは長めに水につけることで行うみたいですね。

文楽 1月大阪初春公演『良弁杉由来』国立文楽劇場

初春公演奈良紀行、第一部は東大寺
昨年、東大寺へ行ったとき、「令和五年十月厳修 開山良弁僧正 千二百五十年 御遠忌法要」の看板が立っているのを見てしまった。「こ……、これは二月堂来るで……」と思っていたら、本当に上演された。



 

 

第一部、良弁杉由来、志賀の里の段。
背景書割の茶畑のつぶつぶがヤバい。つぶつぶが無理な人、倒れそう。

例年初春公演にある舞踊演目、今年はなし。その代わりに和生〈配役=渚の方〉、踊ります。ってこと? 当然のように上手い。目線のもっていき方が本物の舞踊家に近いからなのだろうか、踊りとして非常に自然に感じる。また、きちんとした行儀作法を身につけた人という雰囲気があり、さすがだと思った。
渚の方は、舞台へ入ってきて、中央へ立ち止まるのときに、ほんの少し首を捻るのもなんだか風情があって、良かった。

初日、「志賀の里」を観たとき、床の状況に「?」と思った。休憩時間にロビーへ出て納得。まんなかの二人が休演だったのね。睦さん、関係ないところからくっつけられたと思うと、ようやったな……。
ここで使われる二弦琴(八雲)は、初演当時の関西地唄箏曲での流行り物だそうだ。シンセサイザーみたいな感覚だったのか……?

でか鷲はあいかわらず最高。

 

 

 

桜の宮物狂いの段。

渚の方は、気が狂っている間は身分や年齢を自覚しない演技ということなのだろうか。婆のかしらになっているのでわかりづらいものの、30前のときのままの所作なのか。川の水面に映った自らの姿を見て正気に戻ると、身分年齢を踏まえた演技になる。

なんかめっちゃ聞こえる。なんかめっちゃ音聞こえるで。やたらバサバサ飛んでいるちょうちょは、渚の方が見ている幻覚(狂気の象徴)だよね? 『仁義の墓場』でいう、ヤク中が極まってきた渡哲也のまわりに浮いている赤い風船のようなものでは。渚の方(と観客)にだけ見えるもののはずなので、子役ツメはちょうちょに反応すべきではないと思う。なにか小芝居をやりたいのだとしたら、「あのばあさん何ぞおるように言うてるけど、なんもおらんやん」という演技にしたほうがいいのでは。
ちょうちょ役の方は、出番が結構長くて大変そう。時々木のうしろにとまって休憩しているとはいえ、渚の方が正気を取り戻すまではずっと飛んでいる。でも、ちょうちょには手当が出るそうなので、「あの人いくらで遣うてはる」(和生・談)から、いいのか。

こどもツメが持っている木の棒は毎日同じ? マイ棒があるのかしら。
吹玉屋〈吉田勘市〉が飛ばすしゃぼん玉は、今回は透明のキラキラ入りのものだった。小サイズが連なっているものと大サイズ1個の2種があるが、小サイズの際、なぜか2日目だけ、普通のゴム風船も混ぜていた。息を吹き込んでふくらませただけのものっぽくて、浮かばないために黒衣さんに巻きついてしまい、客席が沸いていた。

参考。吹玉屋(シャボン玉屋)の格好は、本来、江戸の吹き玉屋の扮装だそう。江戸の吹き玉屋は首から箱を下げているが、京阪では本来、箱は手提げだったとか。しかし、首から下げたほうが舞台映えが良いということで、山城少掾によると、初演時からあの格好らしい。
天保嘉永期ごろのしゃぼん玉売りの図。『守貞謾稿』巻6掲載。(国立国会図書館デジタルコレクションより)



 

東大寺の段。

渚の方はわりと細かくリアクションしている。よくある「ほうほう」とかのあいづちではなく、目そらしやおずおずとした仕草で、自分の身分を恥じるようなものであることが特徴的。彼女が身分(非人同然)を気にしていることは浄瑠璃の文章にはほとんどあらわれないので、人形特有の演技? 当初は身なりの汚さはともかく身分は元のままの自覚でいたところ、雲弥坊に「非人殿」と言われてはじめて「他人からはそう見られている」と気づき、次の「二月堂」での良弁へのリアクションにつながっていくということなのだろうか。このあたりが「余計なこと」にならず、物語に陰影を与えられるのは、和生さんらしい芝居。

関係ないが、観劇の前日、薬師寺へ行ったら、雲弥坊みたいなムーブのお坊さんが歩いていた。ただ、法衣の色がほかのお坊さんと違っており、豪華な袈裟をつけて(良弁みたいにうしろになんかでっかいアミアミしたのも下がっていた)扇子を持っていたので、ムーブが雲弥坊なだけで、えらい人なんだろうなと思った。

 

 

 

二月堂の段。

良弁〈吉田玉男〉は非常に良かった。ほかの人形たちとはまったく異なる佇まい、神秘的な気高さがある。仏像顔だから? 動きが能っぽいから? そして腹筋が6つに割れてそう。
今回は人形が非常に安定しており、出てきたあとに二月堂を礼拝するところなど、とても良かった。左も一緒に持っているとはいえ、片手で支えているとは思えない。前回上演時より衣装のさばきが美しくなっており、扱いにくい衣装のところ、余計な揺れがまったく発生していない。60代後半ともなると、体力が低下してきて人形をまともに持てなくなってくる人がいるが、人形を支えるスキルが上昇するというのはすごいと思った。

しかし、この良弁には、どこか若いところがある。はっと気づくところなどが少し早くて、ちょっと「ぴょこっ」としている。見る目がある方にいわせれば「動きが早すぎる」「高僧としての落ち着きがない」ということになるだろうけど、私は、これだけの人にかしづかれる高僧である良弁僧正にも、ごく普通の人間らしいところがあるのが良いなと思った。描写の切り替えがなされているので、うっかりやっているわけではないと思う。玉男さんらしいし、母子再会譚にもふさわしいと思う。

そして、渚の方への接し方が、本当に本当のママへの接し方というか、無言のうちにどことなく甘えている感じがあるのも、玉男さんって感じで、良かったな。ここがただの形式としての所作になってしまっては「話」にならないから、そこは本当に良かった。和生さんは本当に玉男さんのママポジなのかもしれん。

良弁は袈裟の扱いがかなり大変だと思うけど、左が細かくケアしていて、その点もよかった。

 

良弁が連れている弟子僧は、これまでより大幅に若い人への配役。じっとしてさえすりゃいいだろと思っていたけど、それだけでは難しいですね。確かにがんばってじっとしているけれども、俗物にしか見えない。彼らはなぜ町人のバイトに見えるのか、どうやったら弟子僧に見えるのか。私もよく考えてみたいと思った。そして今回もあいかわらず上手のツメ人形が寝そうになっていたのがおもしろかった。近習も向きがおかしく、よそ見しているようにしか見えなかった。
周囲の人々は、もうちょっと、ちゃんとしてほしかったですね。良弁が全然動かないので、周囲が傾いていたり、変に動いたりすると、かなり目立ちますね。みんなっ。シャッキリしてくれっ。と思った。

 

それにしても、東大寺って西国三十三所じゃないよなーと思っていたら、石山寺の縁起譚ということね。完全に忘れていた。石山寺は現在は紫式部ゆかりの寺として売り出しているが、明治時代はそうでもなかったのかな。江戸時代の観音霊験記を参照すると、たしかに石山寺は良弁とのゆかりが描かれているが、話は全然違う。本作の作者はなぜ二月堂の杉に注目したのだろう。

 

 

  • 義太夫
    • 志賀の里の段
      渚の方 豊竹希太夫(1/3〜5休演、代役:豊竹睦太夫)、小枝 豊竹咲寿太夫、腰元 豊竹薫太夫、腰元 竹本文字栄太夫/鶴澤清友(1/3〜5休演、代役:鶴澤友之助)、ツレ 鶴澤友之助、ツレ・八雲 鶴澤燕二郎
    • 桜の宮物狂いの段
      豊竹芳穂太夫、竹本小住太夫、豊竹亘太夫、竹本碩太夫/野澤錦糸、野澤勝平、鶴澤清𠀋、鶴澤清允、鶴澤清方
    • 東大寺の段
      豊竹睦太夫/竹澤團七
    • 二月堂の段
      竹本千歳太夫/豊澤富助
  • 人形
    乳母小枝=桐竹紋秀、光丸[黒衣]=吉田玉峻、渚の方=吉田和生、腰元藤野=桐竹紋吉、腰元春枝=吉田玉誉、花売娘=吉田簑紫郎、吹玉屋=吉田勘市、船頭=桐竹亀次、雲弥坊=吉田文昇、先供=桐竹勘介、良弁僧正=吉田玉男、弟子僧[ネムリの源太のほう]=桐竹勘次郎、弟子僧[普通の源太のほう]=吉田玉彦

 

 


プロモーションにおいて、制作側・技芸員ともに、『良弁杉由来』がハッピーエンドであることをやたらと強調しているけど、ハッピーエンドだからといっておもしろいわけではないというのが、重要なのではないか。むしろ、なぜこれがつまらないのかから、浄瑠璃のおもしろさとは何かを問い直してほしいと思った。
っていうか、ハッピーエンドって言っても、ほんま最後の15分くらいで、そこまでの子供を動物にさらわれて正気を失い、そのまま30年間彷徨していた設定を無視しすぎだろ。その悲惨話のほうがむしろ度合いとしてはレアではないだろうか。

ただ、個々の演目の受容には、おもしろい・おもしろくない以前の文脈も存在するのはわかる。先日、80年代の雑誌の『良弁杉』のあらすじ解説に、「今でいう中国残留孤児のような話です」と書かれているのを見つけた。戦中戦後において、みすみす子を失う『先代萩』は実感をもって受け止められていたと考えているが、『良弁杉』もまたそうだったのかと思った。
戦後は母もの映画の大ブームもあったし、数十年前まではバラエティ番組でも「生き別れの親子、感動の再会」的なコンテンツが流行っていた。けど、とんと聞かなくなった。私がこの話をつまらないと思うのは、世代じゃないからかもしれない。そう考えると、話や曲の出来はいまいちでも、いまの時代の風潮への訴求力がある演目というのがあるのかもしれないと思った。

 

本作には、各段に舞踊や一発芸、チャリなど、娯楽性の高い要素が入っている。個人的には、これが話のおもしろくなさを助長していると思う。そのときのぱっと見は面白いんだけど、通して見たときに、全体を散漫な印象にさせている。娯楽要素が各段に入る構成は『壺阪観音霊験記』も同じ。『壺坂観音霊験記』も『良弁杉由来』も固有の独立した狂言というわけではなく、もともとは『観音霊験記三拾三所花野山』という長い狂言の一部*1だけど、こういうことを繰り返していて全段で見たとき、しつこくなかったのかと首をかしげる。それとも娯楽要素が多かったからこそ、この2つのパートのみが現代まで残ったのか(独立演目化したときに改作されているのかもしれないが)。*2
「二月堂」の頭の行列は、桐竹紋十郎の談話を読むと、以前はカットして上演していたそうだ。しかし、紋十郎はつけたほうがいいと考えていたらしい。現在は必ずついているが、うーん、紋十郎、すまん。毎回はいらんわ。今回みたいたなタイムテーブル詰まってるときは、切ってほしい……。

 

個人的には、良弁はもうもうもうよくわかったので、『日蓮聖人御法海』の「勘作住家」やって欲しいわ。去年せっかく日蓮生誕800年で、歌舞伎は新作でやったのに、なんで文楽はやらんかったんじゃ。並木宗輔の最悪ド悲惨悲劇の最終進化形みたいな話で、曲は聞いたことがないのでわからないが、少なくともストーリーは『良弁杉由来』とは比較にならないほど面白いのに。
内容が宗教的すぎるからという話もあるが、国立劇場主催公演の素浄瑠璃では近年も上演がされている。吉田文雀師匠の談話によると、『日蓮聖人御法海』にはかしらの問題があり、日蓮のかしらは専用のものがあるが、日蓮が連れている弟子僧に使えるかしらが足りないということだった。日蓮の場合、連れている弟子僧に実在の人物が含まれるため、今回の「二月堂」での弟子僧を見るに、かしらだけでなく配役も考えないといけなさそうで、確かに難しいかもしれんと思った。
人形つけての上演は22年前が最後のようで、伝統が途切れるまえにできないものか……。和生さん、玉男さんが揃って元気なうちにしかできないんじゃ、と思うが。

 

舞台を見ていて思ったこと。人形遣いの上手い人は、その人形に応じた腕の可動範囲のコントロールが的確。娘の人形で、やたらぴんと腕を伸ばしきるように遣ってしまっている人がいるが、かなり不自然。この失敗が起こるのは、人形の身体感覚が会得できていないことに加え、人形ではなく自分が演技してしまっているからという面もあると思う。誰か言ってやってくれ。

 

今月はタイムテーブルが詰まっており、各部のあいだが30分しかない。700席クラスの劇場で入れ替え時間30分は無理だろ。実際、初日は30分で入れ替えをしきれず、第二部の開演時間が押した。ロビーで第二部開場を待っているツメ人形のみなさん(私含む)が「無理やろ〜」「見込みが甘いわ〜」と騒ぎ散らしていた。
どうせ客入らないだろ、なら入れ替えできるっしょという判断なのだろうとは思うが……、なんというか、文楽劇場って、本当、ホスピタリティがないよなあ〜……と思った。一体、だれのために上演しているのだろう。

 

↓ 2018年1月大阪公演感想(あらすじ入り)

 

↓ 2018年9月東京公演感想


 

 

 

12月に、良弁(玉男さん)と渚の方(和生さん)が東大寺を訪問しました⭐️というトピックが出ていた。ナイスショットだが、鹿が一緒に写っていないのが残念。鹿さん、普段はこのあたりにもうろついてるのに〜。

この手の人形が表敬訪問をする系のプロモーション、しばしば「自分で自分の墓参りをする人形」が出現するけど、良弁さんの場合は、「自分の法事に自分で参加する人」? 東大寺の方々は良弁や渚の方の人形についてどう思われたのであろう。

 

 

初春の風物詩、にらみ鯛ちゃん。

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鏡餅

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門松。

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ちなみに、今年は正月挨拶ムービーはなかった。楽しみにしてたのに。

 

 

 

 

*1:段ごとに西国三十三所のお寺に由縁の物語を描いている。上演が前後編に分かれた超大作で、明治20年2月に前編、9月に後編を上演(彦六座)。その後、1日で上演できるよう抜粋したかたちで何度も再演されている。現行は壺阪寺、石山寺(二月堂を番外としてカウント)のみだが、番付を見ると、ある程度までは青岸渡寺華厳寺清水寺中山寺などの段が残っていたようだ。

*2:全部の段に娯楽要素を盛り込むのは、『良弁杉』『壺坂』が明治期の新作だから駄作化していたということではなく、江戸時代の作品でも各段の頭にチャリが入っているものがある。たとえば近松半二の『心中紙屋治兵衛』がそうで、現行『心中天網島』の「河庄」の冒頭にその名残をとどめている。あのチョンガレはあそこだけだからおもしろいのであって、全段で毎回のように騒がれると、めちゃくちゃしつこいです。