TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 12月東京公演『日高川入相花王』『瓜子姫とあまんじゃく』『金壺親父恋達引』江東区文化センター

12月公演第一部は、3演目のうち2演目が昭和以降の新作という実験的な試みになっていた。

 

 

 

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1つめ、日高川入相花王、渡し場の段。

清姫は、2017年12月東京公演ぶりに紋臣さんが配役。7年前より落ち着いて大人っぽい清姫になっていた。
出のときに小袖の肩を大胆に落としている拵えは過去と同じだったが、芝居の運びは前半をおとなしめにして、後半が強く立つように変更していた。段階を踏み、だんだんと彼女の内面が高まっていくさまが描かれているのが良かった。川を泳いでいくうちに、若干弱っていくのもなかなかの工夫。
清姫には髪をさばく(振り乱す)演技が2回あり、どちらも思い切りやってしまうと、繰り返し感が出る。そのため、1回目を控えめにして調整をしているようだったが、背景が黒幕なこともあって、髪が下りたことがわかりづらくなっていた。毛先の存在感を見せるのが解決策かと思う。
対岸に泳ぎついたあとは思い切り髪をさばいていたが、その瞬間、ミラクルで髪の毛の細い束が口針に引っ掛かり、髪をくわえて決まるというビジュ最高の清姫になっていた。偶然ながら天女のような美しさで、段切に本気でびっくりした。
ただ、岸に上がったあとに袖で顔を拭く所作が、夏場に駅のホームで汗を拭くおじさんになっていた。謎の、「素」。
清姫は左も良かった。紋臣さん特有の、人形の重さを感じさせないふんわりとした動きについていっているのが上手かった。

清姫のかしらは、姫姿、大蛇姿両方ともガブを使う場合が多いが、今回は姫姿のときはガブを使わない演出にされていた。これは、前回紋臣さんが配役された2017年12月東京公演でもそうだった。
川へ飛び込む前「川辺に立ち寄り水の面、映す姿は大蛇の有様」で水面を覗き込むとき、対岸へ上がって決まったとき、ともにガブの仕掛けを使うほうが、派手だし、芝居としてはわかりやすい。でも、清姫って、本当に大蛇になったわけではないですよね。強い情念によって蛇になったかのように本人が思い込む/周囲からもそう見えているという『紅の豚』システムなだけで、実際にはやっぱり「かわいい娘さん」。ならば、娘姿のままで蛇の如き深い情念を表現するのが正確な手法だろう。これは技量がある人にしかできないことで、若手や中途半端な人では不可能。この配役ならではの演出といえる。現実的には、数が限られているガブのかしらを別演目に回している都合等もあると思われるが、それでもこの演技をやりきれると判断されて配役されている/かしらを当てられているのだから、立派なことだ。

かしらといえば、船頭のかしらは、いつもと違っているようだった。今回使っているのは、『双蝶々曲輪日記』のショボチン雑魚キャラにいるやつだよね? もっと凶悪な感じじゃなかった? と思っていたが、第一部を全部観て気づいた。ふだん使っている、眉間に険のある顔のかしらを、3演目の『金壺親父』の主人公に回しているからかな。

 

床が長唄みたいになっていた。義太夫らしいボリュームが感じられない。そして、チグハグすぎに思えた。

 

 

 

 

 

 

 

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2つめ、『瓜子姫とあまんじゃく』。

現代口語を義太夫に乗せるという試みは、「これが義太夫に聞こえ、人形浄瑠璃に見えるにはどうしたらいいのか」という出演者の探究心を見ることができるという面で、面白いと感じる。このような高度な、かつ実験的な作品は、内製では絶対にできない。

しかし、現状だと、スベっていると感じる部分が多い。
一番の問題は、「この演奏、『義太夫』なの?」という点。
まず、今回わかったのは、たとえ文章自体は標準語であっても、大阪弁のイントネーション(現代で実際に話されている大阪弁ではなく、あくまで義太夫のイントネーションとしての発音)にすることで、かなり文楽の世界に寄せることができるということ。イントネーションが作り出す「佇まい」は、義太夫および文楽の世界観形成にとって、かなり大きいと感じた。
ただ、もう、全般的に、いまがどういう情景で、誰が何喋ってんのか、全然わからなかった。顕著なのが、杣の権六が山中で山父に出会い、言葉をかわすくだり。村人Aと山中の怪異が同じ喋り方というのはありえないのでは。「第三者が語っている地の文だから全部トーンが同じ」という解釈に振り切っているのかもしれないが(実際、原文はそういう体裁ともいえる)、平坦すぎて、かなり聞き辛い。今回、太夫の喉の調子が悪かったのか、咳き込んでいる部分もあったため、本当に何言ってるかわからなかった。*1
瓜子姫の機織り歌が怨霊のうめき声にしか聞こえないのも非常に気になった。終演後、近くの席に座っていた文楽初心者らしき方が、「なんか、何言ってるかわかんないところあったね🎵」「瓜子姫が呪文みたいなの唱えてたね☺️」と、ちいかわのような正直会話をしていた。
本作が初演されたときは越路太夫が語ったというが、どのような「義太夫」だったのだろうか。

演出的な面で、この物語の面白さを活かしきれていないのではと感じた面もある。
本作は、高度なイマジネーションを含んだ作品だ。「あまんじゃく」とは何なのかの思索が観念的に語られており、非常に面白い。これについては、前回2022年大阪7・8月公演で上演されたときの感想に詳しく書いた。
今回観てあらたに気づいたのは、人間の世界「里」と、そうでない世界「山」の距離感の面白さ。じっさやばっさ、瓜子姫、権六は「里」に住まい、山父やあまんじゃくは「山」に住んでいる。「里」と「山」は、地面としては一枚につながっているが、登場人物たち(怪異のみなさん含む)にとっては、属性の違う空間として捉えられている。わたしが住む場所と、わたしでない者が住む場所。わたしの場所以外に踏み込むことのタブー性。そのこわさ、おそれ、異質さ。彼らは本来交錯しないが、ときには交錯する瞬間があるということが、本作の鍵となっていると思う。
そのうえで、本作を江東区会場の狭いステージで上演するのは、ちょっと厳しいと感じた。というのも、間口が狭すぎて、「里」と「山」を同時に舞台上へ出したとき、接近しすぎて、空間的区別がつかないのだ。
前述の通り、本作は、「里」と「山」の交錯しそうでしないようでしている絶妙な距離感が重要な意味をもっている。しかし、今回は、「里」と「山」が、どこでもドア並に近くなってしまっていた。山の場面は2つある。杣の権六が山中で焚き火をしているときに山父と遭遇するくだり、瓜子姫が裏山へ吊るされるくだり。この2つの場面では、舞台の照明を暗く落として上手(かみて)にある瓜子姫ハウスの屋体を見えないようにしたうえで、下手(しもて)のキワに出た人形にだけ照明を打ち、明暗で区切るという手法が取られていた。しかし、権六や瓜子姫がいる「山」に見立てられた位置と、「里」である屋体が物理的にあまりに近すぎる&そのせいで人形用の照明が屋体にも当たって家が見えてしまっていて、「家の前でなんかしてる」ようにしか見えなかった。文楽劇場だと、人形と屋体のあいだの距離を確保できていたので、違う空間として見えていたと思うが……。文楽劇場のステージも極端に広いわけではないけど、どうしてたんだっけ? 「山」のシーンをやっているときはさらに照明を落とす等したほうがいいのではと思った。
ただし、全部が全部、間口や演出手法の問題とは思わない。出演者の技術的な問題もある。たとえば、冒頭の「やまびこ」は、よく考えてやってほしい。「やまびこ」は、遠くから聞こえてこその「やまびこ」だ。下手(しもて)袖の見えないところから若手太夫(若くないが)が「やまびこ」部分の声を上げるのだが、声が無駄にデカすぎ、発声が直線的すぎて、「山」から聞こえてきた感がない。「やまびこ」もまた、本作の世界観を形成する重要な概念だ。「遠くから呼びかけてくるような声」として聞こえるべきものだと思う。

 

人形はきちんとした人が配役されており、民話的な世界観がしっかり表現されていた。
人形が民藝品に見えるのがかわいかったが……、どうにも、「レベルの高い人形劇」だわな。言うなれば、川本喜八郎制作のパペットアニメに近い感覚。義太夫がしっかり成立しないと、文楽らしく見せようがない部分もあると思うが、難しいところ。

あまんじゃく〈吉田玉佳〉は、玉佳ムーブで、良かった。天真爛漫に、いたずらを楽しそうにやっているのが、良い。あまんじゃくは子供姿の人形ではあるが、運動能力は武士系の若男くらいで演じられている。そのため、わりかしデカいはずの子が幼稚な行動をしているように見えて、その異質感が面白かった。どこか恐ろしいところのある民話的世界観を盛り上げている。
本作は新作であり、義太夫にベタ付きになる「型」が決まっている役というわけでもないのに、あまんじゃくの動きがちゃんと床の演奏に合っているのは、上手い。あまんじゃくの動きには、文楽らしい、視覚と聴覚を融合させた心地よいリズムが感じられる。躍動感いっぱいに無作為に動いているように見えて、そうじゃないんだよね。逆にいえば、動きが曲にあっているのに、そこから解き放たれているような豊穣性と野放図さが感じられる。神霊的。こういうの、玉佳さんの強さだよなぁと思った。
それにしても、なんか、だんだん、あまんじゃくが成長してきている気がする。初めて玉佳あまんじゃくを見たときは、小学5年生くらいだった気がするのに、いつのまにか中学2年生くらいにまでなっている、気がする。

瓜子姫〈桐竹紋吉〉は、マスコット感があって、かわいかった。だが、デカい。あの村のバレー部のエースだろう。姫らしくちんまり構えておくれと思うが、しかしこれも紋吉さんの個性なので、逆にデカ娘感をよく見せる方向に行ったほうがいいのかもしれない。女の子はちっちゃくて華奢なのがイイという固定観念にグーパンをかますんだ。
ひとつ確実に直してほしいのは、裏山に吊るされているときの演技。木の枝から下がったロープがまっすぐに降りていない位置で人形を構えてしまい、ロープが斜めになってしまっていたため、吊り下げられている感がない。そして、足をまったく動かしていないのと、足の裏が地面と水平になったまま固まっているのとで、空中に「着地」しているように見える。足をじたばたさせ、身体をふらふら動かすことで、宙吊りになっていることを表現すべきだと思う。こういうの、演出家がディレクションする普通の演劇なら、舞台稽古で即座に注意・指導されると思うが、そういうことがないのが文楽の新作の致命的欠点だよなぁ……。でも、足じたばた、ぷらぷらは、前回瓜子姫役の紋臣さんはやっていた。おにいちゃーん、教えたってくれーと思った。

家の前まで帰ってきたじっさ〈吉田玉輝〉が、上段(家の入り口側)へ上がろうとしたとき、一度で段差を上がりきれなくてちょっとふらっとしてしまったことにドキッとした。転倒などの事故にはつながらず、左などが助けてすぐに立て直したが、そのあと、ばっさ〈吉田簑一郎〉がさりげなく寄ってきて、じっさの着物の裾をポフポフと払ってあげる演技をしていた。簑一郎さんの心遣いを感じた。

瓜子姫フレンズのとりたちは大元気だった。にわとりがボサボサだった。
瓜子姫ハウスは、奥にかかっている「わらびのれん」のわらびが他演目のそれよりカクカクしていて、どこか禍々しいのが良かった。

そういえば、この演目、大阪で出たときは、開演より先にお囃子が機織りの音を演奏しはじめていた気がするが、今回はその演出はなかった。
最後にあまんじゃくが姿を見せるのは、今回は、下手(しもて)のお囃子部屋の窓(御簾)からだった。

 

 

 

 

  • 義太夫
    竹本千歳太夫/豊澤富助、野澤錦吾、鶴澤清允
  • 人形[すべて黒衣]
    瓜子姫=桐竹紋吉、じっさ=吉田玉輝、ばっさ=吉田簑一郎、杣の権六=吉田玉路、山父=吉田玉彦、あまんじゃく=吉田玉佳

 

 

 

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3つめ、『金壺親父恋達引』。

井上ひさし作の「ハートフルコメディ」系世話物。他愛ない話だが、ストーリーの骨子がしっかりしており、よく出来ている。似たような方向性の新作『かみなり太鼓』や『其礼成心中』にみられる尻すぼみ感、「なんか論点ズレてねぇか?」的な話運びの違和感がなく、無茶苦茶をしていつつもまとまりが良い。オチが大団円二段構えというのも面白い。原作ありといえど、文楽の完全新作のなかでは、一番出来が良いと思う。

本作で好きなのは、家族をないがしろにして「金=幸せ」という価値観を持つ人物が主人公でありながら、彼がギャフンといわされることもなく、「家族=幸せ」という人々と、「金=幸せ」という人が、それぞれの価値観をまっとうして幸せになるというオチ。初めて観たとき、ラストシーン、金にまみれてハッピーそうにしている金左衛門を見て、ビックリした。よくある安っぽいハートフルコメディならば、ギャフンと言わされる勧善懲悪オチか、自分のもとを離れていく子供たちが幸せになっていくのを見て寂しくホロリ⭐️みたいなビターオチになるはず。なのに、金左衛門、いなくなった子供たちに1ミリの未練もない。お金ちゃんを抱いて安心し、嬉しそうにしている。子供二人が平気で親の貯金を盗もうとするのもなかなか怖い。純粋にお金が好きなだけの金左衛門よりも「悪」のポテンシャルがある。なんでこういうやつらが「幸せ」になれるの。かつ、そこに批評性をあからさまには匂わせない。その八方破れさに惹きつけられた。
こういったストーリーテリングは、むしろ「現代」では通用しないと思う。いまこんな話の企画を出しても、絶対に「反省」シーンを求められる。繰り返しになるが、原作ありといえど、このオチをキメられた昭和という時代に憧憬を覚える。

話の都合のよさは(これまた原作通りといえど)浄瑠璃らしくて、私は好き。実は親子。実は兄弟。わかったわかったわかったわかったわかったわかった!!!!!と叫びたくなるベタぶりが、まさにコメディでもある。
しかし、そうでないところに、致命的な欠点がある。おぼっちゃま(万七)/番頭(行平)、お嬢様(お高)/母子家庭の女の子(お舟)の区別が全然ついていないこと。この状態で、ぱっと見て、あるいは聞いて、万七と行平、お高とお舟の区別がつく人がいるだろうか。見せ方として下手すぎん? 非常に引っかかる。
世話物において、「身代」、つまりその家や人物が所有する財産、それに紐づく社会的立場は、極めて重要な要素だ。金とそこからくる社会的立場が問題を巻き起こす話こそ世話物といえる。本作の場合、身分違いの恋愛がサブストーリーになっていることもあり、そこはきちんと立てるべきだろう。
身のこなし、喋り方を変えるべきだ。と正論を言いたいところだが、このあたりはどうしても配役と個々人のスキルに紐づいてしまうので、できない人はできない。なので、ひとまずは「誰がどうやっても」わかるように、見た目を変えておくべきだと思う。いくら父親がシワいといっても、それなりの商家の息子娘がシモジモと同じにしか見えない服装では困る。万七には羽織を着せ、行平には前掛けをさせる。お高は髪飾りか帯を派手にして、お舟は髪飾りを無くし小袖を地味色になど、やり方はあるのでは。と思った。
振り付け上の区別でも良いと思う。前回大阪公演では、「いまごろは行平さん、どこにどうしてござろうぞ♪」とお嬢様に呼ばれて登場する番頭行平は「ここにこうしておりますよ♪」と少し踊りながら出てきていたはず。これでだいぶ軽い印象が出る。今回やってないということは、前回の行平役の人が独自に判断してやっていたのかな。
こういうのも、演出家がついていれば、バランスをみて指導ができると思うのだが……。

文芸的な側面においては、コトバ(セリフ)が大半を占める脚本であることが特徴。しかも、そのセリフに、「普通の」標準語喋りを多用しているところにおかしみがある。唐突に「普通に」話し始める人物たちの口調の面白さは、普段はチョット朴訥すぎやろ、なヤスさんがかえってその効果を生み、一番うまくこなしていた。
しかし、この曲の詞章(特に地の文)、よく読むと、浄瑠璃っぽくないな。西鶴とかの読み物系文章みたい。文章がかなり細切れなのと、言葉遊びが多いからか?

 

主人公・金左衛門は、今回は簑二郎さんだった。ご本人の持つゴキブリ的キモ愛嬌(MAX褒めてます!!!!!!)が活きて、極限シワ(吝)親父のキャラクターが立っていた。昭和時代に東宝でたくさん作られていた『喜劇なんちゃらかんちゃら』系の喜劇映画を思い出すような野暮ったさがたまらん。簑二郎さんって、真面目さと変さ、うさんくささの塩梅が絶妙で、あの時代の喜劇俳優に混じっていてもおかしくない独特の何かがある。山茶花究や藤村有弘、沢村いき夫と共演していても違和感ない。かつ、都会的なスマートさがないのが良い(?)。本作の脚本が書かれた昭和の喜劇を再現しうるオーラを持っている。そういう意味では、とても適役。
金左衛門はオリジナルのつぎはぎ衣装を着用。伊左衛門(曲輪文章)の紙子や俊寛(平家女護島)の襤褸のような舞台上の美的表現とは違って、町人らしいナチュラル素材のつぎはぎ。足袋もオリジナルで、ちょこんと座って足の裏を見せるたび、つぎはぎが見えて、かわいかった。私が観た回、段切、額の中央で結んだ鉢巻の端が長く垂れて、金左衛門の顔が見えなくなってしまっていたのが残念だった。今回の舞台写真を見ると、私が観た回とは巻き方が異なっており、結び目が横にきていて、顔がちゃんと見えていた。アドリブでやっているのかもしれないが、メンタルが正常な役は、鉢巻しても顔が見えるように結んでー。と思った。

ただ、人形のそのほかの配役は、さきほど述べた「身代」をいかに表現するかを考えると、それぞれもうちょっとはまる人を選んだほうが良かったんじゃないのというのが正直なところ。この人らを使うにしても、それぞれ、はめる役が違う。もとの戯曲の整理されきってない部分が悪く出る配役になっていると感じた。そういう意味では、本作の登場人物のなかで一番の「身代」を持つ京屋徳右衛門に玉志さんを配役していたのは、適切ではある。ご本人は、「さすがに椀久レベルの豪商じゃないしネ」的な感じで、あくまで「ちゃんとした人だけど、持ち金については“成り上がり”」という軽めにしているつもりのようだった(歩き方をシャカシャカ速めにする、姿勢を整えすぎない等)。でも、今回配役されている皆さんの中では素の品格がぶち抜いているため、上品すぎて、出てきた瞬間、「この人がオーオカ・サバキしはるんか???」的に客席がシーンとしてしまい、スベっていた。スベッてないけど*2。こういう、人間でいうと嵐寛寿郎丹波哲郎あたりがやるような役、人形やと難しいわ。

本作、配役に大きな影響を受ける演目であると感じる。正直なところ、豪華な配役でやっていた前回大阪公演で観たときのほうが面白かったかな。本作、「新作の中では一番面白い」と書いたけど、それでもさすがに戯曲そのものだけで間持ちするほどの出来とはいえない。今回配役された人たちが不出来というわけではないけど、「大団円」感を盛るためにも、脚本はカスでも豪華出演者によってなんかすごそうに見えるオールスター映画のように、出来うる限り豪華な配役でやったほうが良いと思った。

 

本作は「朝の段」「昼の段」「夜の段」に別れているが、口上は入らない。段の頭に、小道具でそれが示される。「朝の段」は、舞台を横切っていく売り歩き(?)の人形が背負っている旗に「朝の段」という文字が書かれている。「昼の段」は、金左衛門ハウスの床の間の掛け軸が返されると、「昼の段」と書かれた隠し掛軸になるという仕掛け。これらは愛らしくてよかったけど、「夜の段」がもったいない。夜廻りの背負っている旗に書かれているというのが、「朝の段」とまったく被ってしまっている。夜廻りがでんち(袖なし袢纏)を着ていて、クシャミをしてうしろを向くと背中に「夜の段」と書いてあるとか、もう少し夜の情景を表現する人形を出して、通行人の持っているちょうちんに書いてあるとか、夜ならではの工夫が欲しいと思った。

金左衛門ハウスのろうそくは、ゲーミングろうそくだった。
金左衛門の愛するツボにはちゃんとお金が入っていて、動かすと本当にガチャガチャいうのが良かった。

 

太夫は、いいんだけど、なんかちょっと違うんとちゃうか感ある。藤太夫さんは良いけど、金左衛門に加えて、豆助もやる必要あるの?とか、割り振りの整理の問題というか。
三味線のシン、妙にちゃんとしてるなと思ったら、燕三さんか。なぜここに……。ちゃんとしすぎていて、失礼ながら音がほかの人から浮いていた。

 

 

 

 

 

 

  • 義太夫
    金左衛門・豆助 豊竹藤太夫、万七・徳右衛門 豊竹靖太夫、お高・大貫・お舟 豊竹亘太夫、行平・お梶 竹本碩太夫/鶴澤燕三、鶴澤清𠀋、鶴澤清公
  • 人形
    金仲屋金左衛門=吉田簑二郎、倅万七=豊松清十郎、娘お高=吉田一輔、番頭行平=吉田勘市、手代豆助=吉田玉勢、大貫親方=吉田簑太郎、お梶婆=吉田簑紫郎、娘お舟=吉田文昇、京屋徳右衛門=吉田玉志

 

 

 

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文楽の新作は難しい。

今回上演された『瓜子姫とあまんじゃく』『金壺親父恋達引』は、文楽の新作のなかでは、非常にレベルが高い部類の作品だ。そのぶん、出演者がどれだけ戯曲を研究して向き合えているかがモロ出しになる。

繰り返し上演されている古典は、洗練された演出が「型」として伝わっているため、それを踏襲すれば、誰がやっても、ある程度見られるもの、聞けるものになる。極端にいえば、その型の持つ意味を理解しないまま舞台に上がったとしても、それっぽくはなるし、常連客は「ああいつものアレね」と理解してくれる。
しかし、新作は、技芸員個々が「いま自分がやっていることは、戯曲の内容を適切に表現できているのか」「観客に伝わっているのか」を観察し、適宜パフォーマンスにフィードバックして、舞台へ定着させなければならない。この観察と定着の能力に個人差がありすぎて、全体を引きで見たときに、なにやってんだかわからなくなる場合がある。全員の戯曲に対する理解・意識を統一させ、全体のまとまりを監督していく演出家がついていない作品だと、なおさらだ。
観察と定着は古典演目でもきわめて重要な要素だ。この能力を成長させるためにも、新作への取り組みは文楽にとって良いことだとは思うが、いまの状態では、その涵養の体制は整っていないよなぁ。内製の新作は正直言ってレベル低すぎて話にならないので、今回のような外部のマジモンのプロによる作品で頑張ってほしいところ。

改めて、文楽の新作は、本当に難しいと思った。

 


┃参考 過去感想リンク

『瓜子姫とあまんじゃく』
2023年7・8月大阪公演感想

2018年7・8月大阪公演感想(あらすじあり)


『金壺親父恋達引』
2016年7・8月大阪公演感想(あらすじあり)

 

 

 

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会場入り口に、久しぶりにくろごちゃんが出現していた。しきりに手をブルつかせる、玉佳さんのような動きをしていた。タマカ・チャンがあれやこれやの左だけでは飽き足らず、バイトしてはるんかと思った。

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今年の文楽は、いろいろなことが変わってきたという印象だった。

今年観てよかったのは、1月大阪公演『伽羅先代萩』5月東京公演『ひらかな盛衰記』「大津宿屋」から「逆櫓」9月人形三人会『伽羅先代萩』(玉男さん政岡)11月大阪公演『仮名手本忠臣蔵』「殿中刃傷」12月東京公演『一谷嫰軍記』
特に『ひらかな盛衰記』、「殿中刃傷」では、現代文楽の精華を見た思いだった。三人会の『伽羅先代萩』では、玉男さんの若手のように純粋に挑戦へとのぞむ瑞々しいメンタリティを見ることができたのが良かった。「一生修行」は嘘ではない、それを目の当たりにできるのが、古典芸能の面白さだと感じた。
そして、3月に行った生口島での錣さんの公演。企画と会場の雰囲気自体が本当に素晴らしかった。やはり文楽の単発公演には主催者の熱意が重要だと感じた。
また、上記に限らないさまざまな演目で、初代吉田玉男の藝と文楽に残した遺産を感じることも多かった。いまは、そのスタンスを和生さんが継いでいるのではないかと思わされる。

一方、ネガティブに感じることが激増したのは事実だった。
東京公演は、固定の会場がなくなったのが本当に厳しい。企画もどんどんスカスカになってきている。お客さんは脱落してゆき、上演環境も悪くなっていくとしか思えない。今月にしても2月にしても、会場を2分割するとか、おかしすぎる。国立劇場は、もはや終わっている。
また、実際の舞台がどのようなものであったかについて、先述した演目のように大変良かったものはあるものの、残念だったと言わざるを得ない公演が多くあった。襲名披露公演は、「ああいう状態」で本当に良かったのか。9月東京鑑賞教室公演での、出演者・制作双方でのレベルの低さ。これらの公演は、「疑問を覚える」を通り越している。
技芸員個々の能力差が開いてきていることも感じる。上手い人はどんどん上手くなり、おかしな人はどんどんおかしくなっていく。これには、内部の教育指導体制の問題のほかに、劇場側による雑な配役や登用にも責任がある。
こういったことは、来年以降、もっと顕著になっていくことだろう。

私は単なる観客だが、それでも、観客として、自分がどのような価値観に基づいて批評しているのか(「感想」を述べていくのか)の軸を持ち、提示したいと思う。私は「応援」するために文楽を観ているのではなく、誰のことも「推し」てはいない。いま何が起こっているのか、それに対して私は何を感じるのかを、できるだけ精緻にとらえていきたい。

 

 

 

 

*1:そういえば、「陣屋」の呂勢さんも枕がちょっと無理のある声になっていたが、みなさん風邪気味だったのか? 楽屋が乾燥しすぎとか?

*2:本作が大阪公演で出たときには京屋徳右衛門は玉男さんが演じていた。玉男さんご自身のキャラもあって、出てきた瞬間客席大爆笑の出落ちキャラになっていた。いま思うと、なんだったんだあの公演。

文楽 12月東京公演『一谷嫰軍記』『壇浦兜軍記』江東区文化センター

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12月の会場は、東陽町にある江東区文化センター。

東京メトロ東西線東陽町駅から徒歩5分、駅からのアクセスは大通り沿いでわかりやすいが、これまでの会場と比べると、やや荒涼とした雰囲気の場所だった。同じ区画に区役所など江東区の施設が集中しており、文化センターはその端に建っていた。外観はかなり古びていて、地方公演でもここまでの会場は最近そうそうないのではと若干ビビった。中に入ると、外観同様、ロビーの構造は古い。しかし、上演ホール自体の内部は改修されているようで、鑑賞に問題はなかった。

ホール場内は国立劇場小劇場と近い印象。音響は良好。余分な反響、音域の脱落などはない。
舞台間口はやや狭い印象だった。本舞台で一番いつもと違うと思ったのは、第一部開演前の「幕開き三番叟」を、定式幕を開けずに上演していたこと。文楽劇場公演は、緞帳を上げて定式幕なし(開いた状態)、バックに浅葱幕を下ろして上演しているはず。今回はそもそも緞帳を下ろしておらず、開場時点で定式幕になっていた。最近の東京公演は「幕開き三番叟」を見ていなかったので、実はほかの会場でもこうしていたのかもしれないが……。
お囃子は舞台袖での演奏のようだった(演目による?)。一部地方公演会場のようにステージ下手袖の客席へ張り出した部分に囲いを作り、そこから音が聞こえるようにしていた。9月公演でめちゃくちゃに終わりまくっていた照明は(いまだに思い出しただけで腹立つ)、ふだんの本公演通り打っていた。

部と部を続けて観る観客用の待機スペースは、ホールの建物とは別の江東区の施設のロビーを使用するという対処になっていた。それはともかく、スタッフさん(関係者)の荷物置き場・休憩室らしき場所が客から丸見えだったけど、いろいろ大丈夫なのかと思った。技芸員さんも、客の視界に入る場所に多数出現していた。大阪の日本橋駅のコクミンドラッグがあるとこの地下通路かというくらい、いた。

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第二部は、源平合戦にまつわる「軍記」もの2つ。

1つめ、一谷嫰軍記、熊谷桜の段、熊谷陣屋の段。
「陣屋」は、近年、地方公演含め頻繁に出ている演目のひとつだが、これだけは何度見ても良い。本当に好きな演目。

「陣屋」で重要なのは、登場人物の矛盾や苦しみにいかに寄り添えるかだろう。この物語が訴えかけているテーマは、彼らの「ありえない」行動の当否そのものではない。強烈な理不尽にさらされた人間の「こころ」だ。彼らがさらされたような、社会構造に端を発する理不尽は、近代でも現代でもいくらでも起こっている。そこを起点にしないと、いまこの演目を上演する意味がない。現代にこの物語を演じ、観るときに重要なのは、「ありえないこと」にさらされ、強要され、苦しんでいるひとびとに寄り添えるかではないのか。

その意味で、熊谷は相模は、非常に演者を選ぶ役だ。型などのガワだけ固めて派手な役に見せかけても、彼や彼女にはならない。また、「精度が高い」「正しい」演技をすれば、彼や彼女になるというわけでもない。玉志さんや和生さんは非常に高い技術レベルを誇る人だ。その上で、私がもっとも評価し、「他の人」とは違うと感じるのは、玉志さんや和生さんには、登場人物に寄り添うことのできる感性があること。玉志さんや和生さんは、熊谷・相模の苦しみや悲しみに寄り添える感性を持った人であり、彼や彼女を演じるにふさわしい人だと思う。玉志さんは、人形(熊谷)の双子の兄弟であり、半身。和生さんは、人形(相模)と幼い頃からずっと一緒に育った親友。みたいな感じがするのが、良いな。

 

玉志さんは熊谷が本当に良くなった。熊谷の思慮深さ、苦悩と優しさが、内面から滲み出ている。そして、それがなんとも「青い」のが、良い。
熊谷にとって、この物語の登場人物、すなわち彼の周囲のひとびとは、いずれも「大切な人」だ。小次郎、敦盛、相模、藤の局、義経。本来、彼にとって全ての人に優劣をつけることはできない。しかし優劣をつけざるを得ない状況に直面する。自分のこころと社会との矛盾に彼は苦悩する。青い。青いぞよ。いちいちそんなものにとらわれていては、この世では生きていけんぞよ。でも、その青い優しさが、本当に良い。青さは初役で配役されたときからあるもので、今でも変わっていないが、何度か役を重ねるにつれ、その背後により深い慈愛が感じられるようになった。

玉志さんの熊谷の最大の特徴は、相模に対する態度だろう。妻に対し、上から出る態度をとらない。「真実を隠すため妻を騙そうとしている」ニュアンスがかなり薄く、冒頭からすでに相模の心情を慮っての悲しみ、苦しみが感じられる。「陣屋」は、熊谷の相模への情愛によって表現が深まるのだなと感じる。
墓参から帰館し、相模と対面する場面。「妻の相模を尻目にかけて座に直れば」で、熊谷は伏してお辞儀する相模に目をやる。このときの「尻目にかけて」がどのようなものなのかが配役によって違ってくる。一般には、「ジロリ」という目線にする場合が多いだろう。玉志熊谷はここに、自分自身の内面的苦悩より先に、小次郎の死に対し母相模が抱くであろう苦しみへの深い悲しみが出ている。目を引く(顔を動かさず、黒目のみ横へ動かす)速度、そして戻す速度、そのときのかしらのかたむきに、そのわずかな情緒がある。
首実検の直前、相模を踏み敷くところ。もともとは「踏み敷く」というより「ひざでそっと押さえる」演技をしていたが、前回和生相模と共演した2022年11月大阪公演では、ある程度「踏み敷く」に寄せた演技になっていた。ところが今回は、再び「ひざで押さえる」になっていた(当初より「そっと」ではないが)。玉志さんは、演技の相手役が女性か男性かによって明確に違う所作をとり、女性には絶対に手荒なことをせず、マイルドな所作をとる点に特徴がある(駆け出てきた藤の局を取り押さえるところなど特に)。2022年のときは、和生さんになにか注意されて、軌道修正したのかなと思ったけど、元にもどしたのか。私は現時点の柔らかい雰囲気のほうが、優しさと、それによってどこか翳が差したところのある玉志さんの熊谷に似合うと思う。
ただ、相模に対してややキツイ態度を残したところもある。帰館して座につき、須磨まで来た理由を言い訳する相模と会話するうち、「もし(小次郎が)討死したら何とする」と言うところ。初役時は優しく迫っていたが(スパダリのように)、今回はややきつい表現に寄せられている。他はマイルドなのに、ここだけ妙に鋭くやってんなーと思っていたんだけど、もしかしてこの部分、和生相模がかなり怯えた演技をしているから? このとき相模は頭を下げた姿勢。少し肩をかしがせて、熊谷からやや顔をそらすように竦んでいる。和生さんは基本的に人形の姿勢が綺麗なので、歪みをつけている場合には意味がある。夫の言いつけに背いて須磨まで来てしまったこと、それによって夫が怒っているであろうことに萎縮している表現だろう。相模のその怯え演技を汲み取って、少し強めに出ているのかな。

人形のルックの追求として、今回あらためて評価したいのは、熊谷が「敦盛」を討った経緯を語る「物語」の立体性、表現力が増したこと。
「物語」では、熊谷が須磨の浦で「敦盛」と出会い、討ち取った次第が語られる。全段通し上演の場合は「組討の段」でその光景を見ることができるものの、「陣屋」のみ上演の場合は、ここで熊谷の口から語られる文字情報のとなる。しかし、熊谷の所作によって、その経緯がまるで眼前に展開されているかのように感じられるのだ。冒頭、「はや東雲と明くる頃」で熊谷がすっと上方に目線をすべらせるくだりでは、海辺の朝焼けの情景が上方に広がる。「ここに一際勝れし緋威」では、華麗な軍装に身を包んだ「敦盛」の姿が。「逃げ去つたる平山が後ろの山より声高く」では、間近に佇む「敦盛」に私情をもって柔らかく語りかけていたのがさっと武士の表情へ変わり、遠方の平山を見上げキッと睨む。どこにだれがいるのか、なにが起こっているのかが観客の眼前に展開される。玉志さんの場合、人形が玉男さんほどドデカく見えるわけではなく、ほっそりとスマートに見える。しかし、熊谷の身振り手振りによって展開する世界には大きなスケールを感じる。特に、目線を含めたかしらの動きが語るものの大きさを感じさせられた。
かしら+手だけで演じる/全身で演じるのメリハリづけ、右肩/左肩それぞれの押し引きや、腰を大きく落とす/すっと伸び上がる姿勢を語りの情景により使い分けているのも上手い。今回はこの整理がより的確になっており、動きのメリハリや人形の身体に奥行きが生まれることによって、「物語」に一層の迫力が出ていた。大変華やかな「物語」に、玉志、立派になった……🥹と感動。(誰目線?)
熊谷役が力を入れるべき重要なシーンでいうと、思いに沈んで腕を組み、うつむきがちに姿を見せる「出」もとても良かった。「出」は本当にかなり良かった。熊谷に求められる品格・風格を満たしつつ、伶俐さ・瑞々しさという個性が出ているのが良かった。ご本人はただただ本気で無心にやっているのであろうところも良かった。いや本当、出はいままでで一番良かったわ。(小学生の作文につき「良かった」連発の文章)

細かいところだが、玉志さんはやはり、人形の顎をほんの少し引いて構えているな。文七や検非違使孔明のかしらは少し顎を引いたほうが思慮深く、憂いが深く見える。また、顔立ちが引き締まって美男子に見える。顎を少し引き気味にすると顔がシュッとして見えるのは、人間でも同じ。これは玉男さん、玉佳さん、そして先代の吉田玉男もそう遣っている。先代玉男の人形の持つ知性、エレガンスはこの構え方による表情が大きく、それが門弟たちに大きな影響を与えているのだろう。*1
人形の見せ方へのこだわりでいえば、玉志さんは、「きざはしに右足を降ろす」ポーズが異様に上手い。この熊谷にしても、「阿古屋」の重忠などにしても、人形の足と身体が流れるようにスラリと見えて、美しい。絵みたいになっている。キラキラしすぎて、うっすらギャグになってるほどに。人形の腰の落とし方、上半身の上手(かみて)への傾け、左右の肩の高さバランス、その際の身体の奥行きの作り方が抜群に上手いのだと思う。客席からの人形の見え方が本当によく研究されている。ただ、足そのものの見え方も、ほかの主遣いよりも綺麗に出ているので、足遣いにも降ろし方を指導しているということなのだろうか。立ち上がる際の袴の股立を取る所作もかなり綺麗だし(これもかなりスラリとして見える)、足の見え方にこだわりがあるのかもしれない。
もっと芸コマなところでいうと、最後、出家の決意を髪の毛の見せ方で表現する部分も巧い。玉志さんの場合、義経の命を受け出陣の鎧姿にあらためた際、熊谷は兜の中に髪をすべて仕舞っている。その兜を取ると、切り払われた髪がはらりと下りる。シャンプーのCMのように。その後、改めてかしらを軽く左右に振り、毛先がばらける動きを見せることで、断髪であることをさらに視覚的に強調する。シャンプーのCMのように。そう、シャンプーのCMのような爽やかさが謎に出ているのが玉志〜って感じなんだよな……。たぶんこれ、ご本人が意図している以上のキラキラが出てるな。天然由来成分なのはわかるが、なんで法体なのに義経よりキラキラしとんねん感がすごくて、面白い。(失礼)
もうひとつ、細かいけど、大切な芸コマ。熊谷は、対女性(相模・藤の局)と対男性(義経)では、態度を変えた芝居になっていることは先に述べた。今回観ていて気づいたのが、所作のマイルドさだけではなく、姿勢、すなわち人形の胴体の位置も違うこと。女性役と義経はそれぞれ座り方(座ったときのかしらの高さ)が異なっている。熊谷の姿勢は、それに対する自然な位置になっている。女性役に対してはやや低め(というか、標準姿勢)。義経に対しては、背筋を伸ばして胸を張り、居ずまい正しく。その姿勢で、彼がそのとき向き合っている「社会(他者)」がどのようなものなのかがわかる。人形の高さを相手や場面に合わせて調整するのは重要だと思った。

舞台間口の問題なのか、熊谷の踏み出しや移動のカット、距離を縮めるなどの調整をしているのかなと思うことがあった。玉志さんの「場面の転換点で急にパッと大きく踏み出す」という所作の上手さからすると、文楽劇場くらいたっぷりとした幅があったほうが映える。

 

さすが和生は相模やな。
日本語はおかしいが、この表現で間違ってない。
和生さんは、コロナ禍以降、本当に良くなった。もともと上手かったけど、コロナ禍初期の休演期間後、それまでとは全然違うものになった。それがこの相模にもあらわれている。和生相模はすべてが良いのだが、ここでは2つに絞って書く。

まず、重層的で複雑な人物の内面が、表現として舞台へしっかりあらわれていること。首桶が開かれ、すべての真相が明らかになったのち、小次郎の首を抱いてのクドキでの、彼女の複雑な心情の表現。息子の死への悲しみや、自分が知らないうちに息子が身代わりにされたことへの辛さは当然あるのだが、夫や主君・旧主の目を慮ってそれをあからさまにしない。むろん、悔しいだろう、辛いだろう。しかし夫もまた同じ心情であることをわかっているので、自分だけ騒ぎ立てることはしない彼女の矜持と、それでも溢れ出てくる本心がよく滲んでいる。泣き叫びたい本心を抑えに抑えた強い抑圧性と、それによる圧縮感のある表現が、とても良かった。大きな振りをしつつも大げさに見せず、微細なニュアンスをしっかり組み込むのも、いつもことながら、上手い。「持たる首が揺れるのを頷くように思われて」は、押さえつけた心情からくる手の震えのため、首が本当に自然に揺れているように見える。息子の死に顔を直視できない辛さ、なにかできることがあったのではという悔やみにやや顔をそらせる所作に色気がある。このあたりの抑えのきいた表現が、本当に良い。人目を憚る必要のない政岡(伽羅先代萩)のクドキとは異なる表現となっている。

メリハリづけの上手さも、さすが。開かれた首桶を見た瞬間の、「ヤアその首はと駆け寄る女房」での飛び上がりぶり。それまでの相模の(内心はともかくとしての)ゆったりと落ち着いた所作とはまったく異なり、いきなりビョコンと大きく飛び上がって強い音で足を踏み、かけ出す。所作自体は至極シンプルだが、それまでの動きからの落差によって、彼女の驚愕、急激な心情の変化が視覚的によく出ている。この場面、相模自身だけでなく、舞台全体の見せ方としてのメリハリとしても、上手い。熊谷の大きな見せ場のかたわらで相模がインパクトのある動きをすることで、舞台上に複数のアクセントが生まれ、見えに深みが出る。相模が強い動きをするのはこの一瞬で、またすぐに一歩引いた動きに戻るのも、絶妙。
それにしても、あの飛び上がり方、「和生〜」なのも良いな。なんか、和生的な飛び上がり方があるのよ。たいていの人は、飛び上がったときに、人形の体幹がブレる。あるいは、次の動きを混ぜちゃって、着地位置がよくも悪くも、ずれる。でも、なぜか和生さんだけ、ものすごく真上に、まっすぐに飛び上がるの。そして、玉手キック含め、妙に綺麗に飛び上がるのが面白いんだよね。あの綺麗な垂直ジャンプが、独自性を醸し出しているのだろうか。

コロナ禍以降の和生さんを見ていると、和生さんは、「文楽」全体への恩返しや貢献をしようとしているんだなと感じる。それは、共演者・舞台全体を踏まえた立ち回りになっている点だ。
和生さんが時に周囲へ指示をしながら人形を遣っているのは、文楽のお客さんは皆ご存知のことだろう。そのなかで今回驚いたのは、その指示は必ずしも自分の演技を快適に行うためや、技術的に不足のある共演者への教示ではないということ。いわゆる「制札の見得」の直前。相模が熊谷に屋体から船底へ蹴落とされるところ。初日から数日経ったある日、和生さんが「はよ、はよ」としきりに屋体のきざはし部分の開閉をせかしていた。そんなにせかすほどのことか? 和生さんは処理が的確だし、左もちゃんとした人をつけているので、仮に多少遅れても相模が決まるまでには十分余裕があるのでは? と思った。
しかし、相模が落ちた瞬間に、和生さんが何故せかしたのか、わかった。相模が落ちるとすぐにきざはしは閉じられるが、その瞬間、熊谷が見得のポーズに入るために、右足をきざはしに乗っけるのだ。玉志さんの場合、動きの入りはじめが速い&所作に中割りがあり間合いをしっかり確保しなくてはならないタイプの遣い方。右足をきざはしに乗せて姿勢を安定させ、全身のポーズを整えて制札を左肩にかけて決まるまでに、熊谷らしい悠々とした間合いを持たせるとなると、相模の処理を早める必要がある。「制札の見得」は「陣屋」における熊谷の大きな見せ場で、客も期待しており、しっかり決めなければならない。きざはしが開くのが遅いと間に合わないのは、相模ではなく、熊谷。相模(自分)の間合いのためにせかしたのではなかった。あくまで憶測ではあるけど、そこまで考えてやってるんだ!!!! この人、周囲を本当によく見てる!!!!!! と驚いた。

さりげないところの上手さも述べておく。「熊谷桜」に、相模が藤の局へ「サア遥々と東より今来て今の物語……」と語るくだりがある。この言葉自体は、あくまで軽い添え物のはず。しかし、相模はここでやや目線を上げ遠くを見るような表情をして、右手を上手から下手へと動かす。ほんの少しの言葉ながら、「遥々と東より今来て」という相模の状況が視覚的に理解できる演技となっている。和生さんはこれを「ごく当たり前のこと」としてやっているだろう。「はるばる旅をしてきた役は、その旅路の距離がわかるように遣えと教わりました」ということだと思う。
ちょっとした文章への表現力は、人形遣いの研究心と感性に左右される。地の文にない少しの所作で「旅路の遠さ」を表現する役のうち、若手が配役されるものに、『義経千本桜』の六代君、『傾城阿波の鳴門』のおつるがある。この二役は、相模のような会話の流れではなく、出で必ず「遠い旅路」を表現しなくてはならない。六代君やおつるの役をはじめてもらった若手は、師匠から「がんばって歩いてきましたよ感」「疲れてるよ感」を出すよう指導されると思う。ただ、その考え方をほかの役へ演繹する発想を持ち、実行するかどうかはその人次第。その「やる」「やらない」が10年、20年、30年、40年と重なると、「大変なこと」になるんだろうな。
こういうのを見ると、「いまの振り、なんだったんだ?」という人形の演技には、本来はなにか意味があったのかもしれないとも思う。たとえば、「阿古屋」で重忠に問い正された阿古屋が簪を抜いて掲げ、すぐ戻すところとか、現状、非常に形式的な演技になっているけど、本当は見立てなどの意味があったのではないだろうか。

 

今回の「陣屋」の出色は、藤の局の代役、紋臣さんだろう。
美しく情熱的な藤の局で、とても良かった。おそらく初役だと思うが、誰もそうは思わないすばらしい出来。演技の運びが非常に自然なだけでなく、彼女の佇まいもよく出ている。御所で院の寵愛を受けていたに相応しい品格と優美さ、気位の高さ、文楽の女性らしい「思った瞬間思った通り行動」のヤバいパッショネイトがよく表現されていた。優雅でおきゃん(死語)な藤の局のキャラクターも、ご本人に合っていた。
首実検、開けられた首桶へ駆け寄るくだりで、過剰に熊谷へ接近しているのが良かったな。こういった情熱や一心不乱さを表現するところは、多少やりすぎていい。やりすぎることができる人だけが上へいけるとも言える。もちろん、熊谷役の人が確実に制札で受け止めてくれるという信頼がないと走っていけないわけだけど、玉志さんもしっかり受け止めていて、良かった。*2
上記は瞬発的なパッションで押さなくてはいけない場面だが、共演者との連動性が大きく、高度なオペレーション技術が必要になる場面は、初日からかなり上手くいっていた。「陣屋」前半で、熊谷めがけて駆け出し、取り押さえられる場面は、私が見た回はすべて成功。熊谷役とその左(いつもの人)が気をつけて丁寧に段取りしていたこともあり、「足元を払われて転倒し、取り落とした刀で押さえつけられた」ことがわかる状態になっていた。しばらくすると慣れてきて、熊谷役の人々も通常営業対応になっていた。
惜しいのは、「熊谷桜」での出と、「陣屋」中盤で敦盛の回向をして青葉の笛を吹くくだり。
出は、客席側に顔を向けるのがあまりに早すぎて、「この人、なんでこっち向いたの?」状態になってしまっていた。振り向きをどのように意味づけるか(これは当然「追手を気にする」だが)、それを実際の舞台へどう定着させ、観客へどう見せるかの研究を待ちたい。青葉の笛を吹くと障子へ敦盛の影が映るくだりでは、「影を見た瞬間」の動きが客席から見えないのが重大な問題だと感じた。実際には、「影を見つけて」「はっと驚いて」「駆け寄る」演技はしている。だが、左遣いや本人に遮られて人形が見えない。このあたりは、映像で人形や自分(や左遣い)がどのように見えているか確認しないと、気づいて改善することは難しいのだろう。こちらも、客席からの見えを意識できる余裕が生まれることを待つしかない。*3
藤の局は、「役をもらった」だけでは出来ない役。誤魔化しがきかず、偶然「それっぽくできる」ような役ではない。本役で配役されても、スベっている人を何人も見た。紋臣さんはこれまでさまざまな人の藤の局の左を遣ってきて、いつか自分が遣うならこうしよう、ああしようと研究してきたからこそ出来たことだと思う。相模と双璧をなす「陣屋」の重要な女性役として、紋臣さんは、藤の局本役を勤めるに十分相応しい人だと思う。

 

弥陀六〈吉田玉也〉は、所作それぞれが弥陀六の性根と結びつきつつ描写されているのが良かった。
誰かに対して何かを話すとき、それぞれ、人形を構える位置は本当にそこで良いのか? 歩くときに上体はどれくらい傾け、どれくらいの歩幅、速さで歩くのか? そういった細かい部分のコントロールがなされている。手癖でやっていそうに見えて手癖ではない。ジジイ役ばかり毎回のようにやっていて、惰性に流されないのは本当にすごい。人形遣いで重要なのは、いかに「手癖」でやらないか、いかに毎回考えてやるかだと感じさせられた。
それともつながることだが、玉也さんは、細かい芝居が何を示しているのかわかりやすい。以前、『生写朝顔話』「笑い薬」の徳右衛門の演技の明瞭さについて述べたが、弥陀六も同じ。弥陀六だとより端的。義経から授かった鎧櫃を運ぶときには、ジジイらしく「よっ……こいしょ」と持ち上げて、ちょっとヨロヨロと左右にふらつきながら運んでいる。いかにも「なんか過剰にクソ重いもんが入っとるで」感が出て、良い。*4
弥陀六の左はしっかりしていた。弥陀六をどう見せるべきか、自分自身で考えているように感じた。時に玉也さんの演技から乖離しているところもあったが、左の人は左の人なりに、「弥陀六はこういう人」「弥陀六をこう遣たい」と思っているのだろう。人形全体を見ると「なんで左手だけ袖をひるがえしてんだ????」とか、違和感あるんだけど、主遣いから遅れているとか、演技を覚えてないとかじゃないので、こういう前のめりは良いかなと思う。
初日、段切近くで、弥陀六にかかわるかいしゃくの動きにミスがあった。何度も出ている演目で、しかも舞台進行にかかわる重要な介助であるにもかかわらず、こんなレベルの低い「忘れてました」が出るの?と思った。こういうのって、若い子の単純なポカなの? 小割の責任なの? 段切近くでかいしゃくが控えているべきところで控えていないというミス、よく発生しているけど、客席から見ると、程度が低すぎて呆れる。当然、周囲のお客さんもみんな気づいていて、「これは後でみんなで集まって反省会だね〜」と笑っていた。発生を根本的にブロックする策を打ったほうがいいと思うが。

 

今回の義経は、勘彌さん。以前、『義経千本桜』の義経役で観たときと近しく、好色な武将としての、色気のある義経
玉佳義経とは細かい演技のニュアンスが異なっていた。法体の熊谷が涙をこぼすところ、玉佳義経は熊谷から目をそらしてやる演技をするが、勘彌さんははじめから熊谷から目線をややそらした姿勢で座っており、不動の姿勢としていた。個人的には熊谷にリアクションしたほうがいいと思うが、立場上冷徹であらねばならない義経像を表現するなら、はじめから見ていないのはわかる。玉佳義経が仏像のような微笑をたたえているように見えることに対し、勘彌義経はまさに人形の無表情さだった。
しかし、やっぱり、人形が重いんだろうな。上体が不安定になって、目線が散らかっている日があった。鎧を着た男性の人形は、扱いに手慣れている立役の人でないと、安定して持ちきれないのだろうと思った。

 

床は、「陣屋」前の呂勢さん・清治さんは良かった。間合いがかなり安定しており、情景もよく整理されていて、明瞭。間合いの安定性は人形の「物語」演技の安定も生んでいた。
後(切)は、聞こえないのがもうどうしようもない。「言上す」が言上していないとか、弥陀六の嘆きの大落としが大落ちてないとかも重大な問題だと思うけど、床が回ってすぐの青葉の笛のくだり、本当に全然聞こえない。前よりもかなり悪くなっている。客席の私が聞こえないのであれば、本舞台の人形のみなさんはもっと聞こえていないだろう。今回の人形出演者は全員、確実に床の演奏へ合わせて演技をする人だが、どうやって人形動かしてんだ? 三味線の音と、間合いをカンで察してる……ってコト!? と思った。

日によって床の演奏に一部変更が入っているのかなと思われるところがあり、人形が演技調整の対応をしていた。よくこんなにスっと調整できるなーと思った。

 

 

 

  • 義太夫
  • 人形
    妻相模=吉田和生、堤軍次=桐竹勘次郎、藤の局=桐竹紋臣(桐竹勘壽全日程休演につき代役)、梶原平次景高=吉田文哉、石屋弥陀六 実は 弥平兵衛宗清=吉田玉也、熊谷次郎直実=吉田玉志、源義経=吉田勘彌

 

 

 

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2つめ、壇浦兜軍記、阿古屋琴責の段。

今回、阿古屋〈桐竹勘十郎〉の姿勢が安定したのは、本当に良かった。
これまでは、琴の演奏中、阿古屋の人形の上体が前かがみになりすぎて、肝心の顔(表情)が見えなくなるという問題があった。勘十郎さんの演技の特徴として、琴を本当に弾いているかのように見せるために、奥の方の弦へ本当に手を当てている。人間よりも身体の小さい人形でそれをやってしまうと、琴に対して無理に腕を伸ばすこととなり、腕につられて上体が琴へ覆いかぶさる形になり、顔がうつむきすぎる。また、これには、人形を安定して支持できるかどうかの問題があるのではと思っていた。
だが、今回は、上体と顔が上がり気味になっていた。陰がさしていた部分が持ち直したのは、本当に良かったと思う。船底のない一般の劇場を使っているため、ステージ位置が高く、多少顔が下がっていても客席から表情が見えやすいという点はあるけど、これくらい見えていてほしい。

ただ、阿古屋のかしらは相当重くて、遣いづらいのだろうな。「陣屋」と続けて見るとよくわかるが、傾城である阿古屋よりも、武家女房の相模のほうが、かしらの動きが大きく、表情が豊かで、色気が強く滲む状態になっている。阿古屋はかしらの動きが硬く、かしら自体の外見自体がもつもの以上の表現は難しい状態になっていた。当然、相模のほうがかしらは軽いだろうけど、阿古屋ももうちょっと欲しいよなぁ。首を下手向きに振るにしても、もうちょっと大きめにふりきってから少しもどしたり、かしらをもっと大きく傾かせればいいのに。特に景清との思い出を語っている部分に、微細な表現があるといいのだが。それとかかわるかもしれないが、 阿古屋の視線が中途半端に宙に浮いたままなのは気になった。ここにいない景清を想っているという表現なのかもしれないが、近視の人のように見えた。
簑助さんは、引退直前になっても、(軽い人形しか遣っていなかったとはいえ)かしらの表現が豊かだったな。首もげるんじゃないかというくらい動かしてた。首を強くひねりすぎて、よく胴串が見えてたよね。80代後半であれだけかしらを動かせていたのは本当にすごかったんだなと思った。

阿古屋は左が合っていないのが気になった。あまりに毎回なのであえて書くが、たとえば、琴は、左手の押さえる位置によって音が変化する楽器だから、これみよがしなところ以外も左手で弦を押さえる演技をしないと、阿古屋が右手だけでピアノを弾いている幼児のように見えてしまう。普通の所作でも、打掛のさばきが右手と合っていなかったり、左手の手のひらの向きや指さす方向に違和感がある。この方が阿古屋の左を遣っているのはこれまで何度か見てきたが、改善できないのだろうか。いろいろなことを思った。

 

岩永左衛門〈吉田玉勢〉は、硬いな。文字通りの意味で、青いッ。悪人だが、身分に相応しい品があり、阿古屋の演奏を傾聴する感性やチャーミングなところもあるおじさんというのが岩永のキャラクターで、その複雑さが魅力だが、なかなかそこまではいけず、緊張が目に見えている状態で、「娘の結婚式に参列している与勘平」になっていた(?)。ただ、玉勢さんが胡弓の曲をきちんと勉強していることはよーくわかった。阿古屋より、岩永の火箸演奏の振りのほうが床の演奏に合っている。おまえ絶対一生阿古屋やらんやろ!!!!!
そして、岩永は、左が良かった。左の人も岩永の演技をよく研究してるなと思った。調子こいて火箸胡弓を弾いていたら左袖に火がつくところは、煙が客席から見えているか、確認する必要がある。

 

初日、水奴の中に、アホの水奴がいて、めちゃくちゃ笑った。帯屋の長吉かいというヤバムーブだった。勘十郎なんとかしてくれ。水奴ブラザーズは、それぞれ好き勝手な方向を見ていて、良い。

 

錣さんの阿古屋は、あいかわらずメチャクチャ毛深そうだった。
「毛深い女は情が深い」を地でいく濃厚さ。抱え主に言われて一応指毛は剃ってるけど、袖をちょっとめくったら、腕にはふんわりした産毛がびっっっっっっっっっっしり生えているに違いない。濃厚すぎて、ほかの登場人物からひとりだけ爆裂浮いている感がなきにしもあらずだが、居住まい正しいお白洲に傾城姿の豪奢な美女が現れるという突拍子もない芝居らしさにぴったり合っていた。歌の部分も情念深くて若干怖いのが良い。お前お座敷ではそんな歌い方してねぇだろみたいな。異常女はやっぱり錣さんだなと思った。

 

この演目について、以前から気になっていたことが2つある。
1つめは、阿古屋の人形について、三曲のうち、琴は「派手で張り切った演技」になっているが、三味線、胡弓と進んでいくうちに、演技が大味になっていくこと。
2つめは、人形も演奏も、三曲のうちに表情や緩急がなく、阿古屋が語っている/歌っている内容や内面の変化が視覚的・聴覚的にわからないこと。

1つめについては、直近の2023年1月大阪公演では、三曲が進行するにつれてだんだん人形に元気がなくなり、大味になっていく状態になっていた。しかし、今回、少なくとも三味線は「演技」としてきちんと弾いていた。目に見えて琴より失速している感はない。また、前は、三味線を弾くときにかしらが右手のほうを見たままFIXした状態になっているのが不自然だったが、基本正面向きになり、演奏の進行によって自然な範囲で左右を見るようになった。
なぜ改善できたのか? 勘十郎さんの場合、近年は、力を入れるところをあらかじめ決めておき、そこに体力や集中力を割り振って、そのほかの場面はほどよく流していることが多いように感じる。そのペース配分が抑揚となり、うまくいった場合、物語全体のバランス取りにもよい方向へ働く。2023年4月大阪公演の『曾根崎心中』お初など、抑揚のバランスが物語と連動しており、とても良かった。そういったことが阿古屋でもできるのではないか、できるとよいのではないかと思った。

2つめ、物語の進行による内面の変化は、人形については、今回、中盤日程以降は変化が入っていた。琴は仕事風に、三味線はややグズグズ、胡弓は晴れやかに弾いていた。これまでは何を弾いても同じだったから、これは良かった。しかし、もっと深掘りしてほしいと感じる部分もある。三味線の演奏中に阿古屋が昔を思い出し、落ち込んでいって、演奏が滞るところは課題だと思う。現状だと、重忠が刀を「トン!」としないと、阿古屋の演奏に変化があったことがわからない。というか、これだとかえって、なぜ重忠が刀を突いたのかわからない。人形は少しかしらをかしがせているので、落ち込み演技をやっているつもりなのは理解するが、かしがせるタイミングが急なのと、運指の変化があまりついていないので、よくわからない。また、重忠も、急に「トン!」としすぎて、居眠りしていてガクっとした人に見える*5。いずれにせよ、演奏は急に滞ったわけではなく、少し前から様子がおかしくなっていくという流れのはず。いきなりだと、見え方としてちょっと難しいな。ただ、個人的には、床がのっぺりしているのが一番気になるな。阿古屋が急にかしらをかしがせているように見えるのも、結局、演奏と連動していないから不自然に見えるのだろう。

せっかく「いつも同じ配役」なのだから、毎回、研究とその進展が見たい。「阿古屋」はケレンや曲芸的側面が大きい演目だけど、そこで止まると常に「いつも同じ」になる。進展がないのは、最近の文楽企画の傾向である同じ演目の繰り返しと相性が悪い。いつも同じだと、だんだん、感想がなくなってくる。私は桐竹紋十郎や簑助さんの阿古屋を直接見たことはないけれど、だからこそ、「むかし上手い人おったって言うけど、いまの人のほうがええんとちゃう? この人ら、次の舞台ではどうなるのかな?」と思わせてほしい。派手な演目だからスゴイんだ、以上の世界を観たいと、思った。

 

 

 

 

  • 義太夫
    阿古屋 竹本錣太夫、重忠 豊竹靖太夫、岩永 竹本津國太夫、榛沢・水奴 竹本聖太夫/竹澤宗助、ツレ 鶴澤清志郎、三曲 鶴澤寛太郎

  • 人形
    秩父庄司重忠=吉田玉助、岩永左衛門=吉田玉勢、榛沢六郎=吉田玉誉、遊君阿古屋=桐竹勘十郎(左=吉田簑紫郎、足=桐竹勘昇)、水奴[眉尻が太い斧右衛門みたいな顔のやつ]=吉田簑悠、水奴[顔がしかく気味の笑顔のやつ]=吉田玉征、水奴[気弱そうなお人よし顔のやつ]=豊松清之助、水奴[夏祭にもいる下がり眉のカエル顔のやつ]=吉田和登

 

 


◾️

本当、「陣屋」は良い。「陣屋」のなかで、私は、「物語」のくだりが一番好き。熊谷は、実際に起こったことをほぼそのままに語っている。が、ひとつだけ「嘘」が混じっている。それは、形式上は藤の局そして相模への目眩しとしての嘘だけど、「愚かな女」を騙すために嘘をついているのではなく、二人の母の心情を気遣って嘘をついているように思える。その矛盾した優しさに情感がある。
そして、今回気づいたのだが、「ここに一際勝れし緋威」も、母たちに「あなたの息子は本当に立派だった」と言っているということなんだろうな。これまで、私は、前半「ここに一際」では敦盛を見つけた熊谷自身が伸びあがる様子→後半「勝れし緋威」でカメラがパンして敦盛の様子を描写するという映画的な表現をしているのかなと思っていた。けれど、今回でわかった。このくだりすべて、敦盛自身の様子なんだろうな。人形の演技を見ていると、特に「ここに一際」は、本当に華麗に、輝くばかりの凛々しさで表現されている。玉志天然由来成分を超える凛々しさなので、わざとやってると思う。熊谷の優しさと「物語」が内包するもの、そしてそれを舞台へ定着させる力を、あらためて感じた。

 

玉志さんが立派になって、あらためて嬉しい。師匠、見とる〜!?!?!?!? あんたの弟子、えらい立派になったで〜!!!!!! と叫びたくなった。(だから誰目線?)
ちゃんとしたと感じているのは、私だけではないと思う。2022年11月大阪公演で熊谷を演じた際は、相模役の和生さんが玉志さんを心配しすぎ、世話焼きすぎなんじゃと思うことがあった。熊谷が良く見えるように気ぃ遣いすぎて、相模が変に見えてしまっているところもあったから。けど、今回はそれがなくなり、通常営業になっていた。玉志さんも和生さんから信頼してもらえる『夫』になったのだろうか。
玉志熊谷に以前あった「全部が全部を全力投球」なところは落ち着いてきて、いまは、全体のバランス取りや、注力すべき場面の造形をいかに見せるかの研究をしているように感じる。良くなったところも、前のほうが良かったところもありつつ、スパイラルを描きながら、底が持ち上がっていっているイメージ。青さ、前のめりさ、瑞々しさを残したまま、次の機会にはより上の芸域を見せてほしいと思った。

 

「阿古屋」は、本当によくできている。三曲とその阿古屋の演奏・演技は、正直言って、途中で飽きる。客が真面目に見ているのは、せいぜい琴の演奏で阿古屋役の太夫が歌っている間までだろう。人形は「本当には弾いていない」ぶん、指の動きが単調なので、視覚的な面については数分で本当に見飽きる。客の集中力がなくなってきたころに、岩永がおさぼりや胡弓のまねっこをしはじめる。これがとってつけではなく、岩永の性根をより補強する内容になっているのが絶妙。岩永の遊びが入ることによって、誰が三曲や阿古屋をやってもひとまずは間持ちする演出になっている。そのかわり、岩永役にある程度の力量が求められるけど、人形は三人全員に見せ場ができるとも言える。伝統演目はやはりすごい。と思った。

ところで、「阿古屋」は、全長版で上演する場合と、一部カット版で上演する場合がある。今回は、全長版で上演していた。一部カット版で省略されるのは、最後、重忠が岩永に問われ、楽器での「尋問」が成立しうる理由を語る部分だ。ここを切ると重忠が三曲を弾かせた根拠が意味不明となるため、カット版は叩かれることが多いのだが……、正直、「上手い人」が出ないなら、カットしてもらってええわと思った。『卅三間堂棟由来』の平太郎ママがチンピラに殺されるくだりも同じなんだけど、実力不足の人が出ている場合、全長版をやってもただ間延びするだけで、内容が良くなることはない。気品のある役は、ただゆっくり喋ったり、ゆっくり動いたりすれば気品が出るわけではないです。

 

 

今回の舞台を見て、なんとなく感じたこと。芝居の見せ方として、観客の想像の余地を残すことは重要だと思った。そして、もう少し見たい、もっと見たいと思わせなくてはいけない。全部説明してはいけないな、と思った。

 

 

 

 

*1:逆に、先月の『仮名手本忠臣蔵』大序では、和生さんは塩谷判官を顎を引かずに遣っていた。真正面向きか、やや仰向き。和生さんも男性役の場合は普段顎を引いて構えているので、逆に顎を上げていることによって、塩谷判官の真面目に見えて思慮ちゃぷちゃぷ浅瀬な内面を表現しているのだろうと思った。

*2:ほかの場面は、ちょっと「彼女」を気遣いしすぎて段取りが丸見えかなと思う部分も多かったけど、ここだけは本当にいつもの玉志さんの瞬発性で対応していた。

*3:この部分、演技をきちんとしつつ、客席からの見えも解決できている人もいる。勘彌さん(2019年12月東京公演)。勘彌さんは、「はっと驚く」くだりで、藤の局の人形を飛び退くレベルで後ろへ引いているため、人形が大きく動いて、どの席からでも藤の局が驚いていることがわかるようになっている。かつ、それまでの藤の局の優雅な動きとは全く違う所作となっているため、ここで「亡くなったと思った息子が生きていた!?」と驚いた藤の局の感情が劇的に表現されている。芝居としても効果的で、非常に上手い処理と言える。

*4:熊谷は普通に持つ。演技を怠っているわけではなく、バカデカ筋肉達磨武将だから。別の段でも簡単に敦盛や小次郎抱き上げてる場面があるので、筋は通っている。

*5:重忠の配役によっては、「トン!」の前に重忠がだんだん違和感や警戒感を覚える演技を入れて、聞いている立場からの演奏の変化を表現する人もいるので、完全に配役の問題だが。

文楽 11月大阪公演『仮名手本忠臣蔵』大序〜七段目、『靱猿』 国立文楽劇場

11月公演は、『仮名手本忠臣蔵』大序〜七段目までの通し上演。コロナ禍以来、初の終日通し演目企画。大阪では久々の二部制だったこともあって、文楽を代表する大作らしいボリュームを感じた。そして、以前に通し上演された頃とはいろいろなことが大きく変わってしまったことを実感した舞台でもあった。

 


今月は、「殿中刀傷」がとても良かった。
高師直〈吉田玉志〉と塩谷判官〈吉田和生〉の芝居の掛け合いの密度がもたらす高い緊迫感、高潮感。
和生さんの塩谷判官の技術レベルとおぼっちゃま大名らしい品格、優美さには文句のつけようがない。ただ、頭よさそうすぎて軽薄感がないため、塩谷判官単独では、いかに「不測の事態」が起こるかという説得力に欠ける。今回は高師直が玉志さんだったため、(演技としての)頭の良さそうさが塩谷判官を上回っていた。そして、端正さと気品を主軸とする演技的特性が一致したゆえの高度な補い合いが発生し、いままで見た「殿中刀傷」において、塩谷判官が刀を抜くに至る心理描写がもっとも上手く行っていた。
玉志さんの緩急の強さとスピード感に塩谷判官がつられることで、緊迫感がいっそう増していた。もともと和生さんも緩急のメリハリが強い人だが、より一歩前に出た感じ。お!和生さんが踏み込んだ!!と思った。普段の配役(?)でやると、高師直より塩谷判官のほうが高い精度で芝居をしているために目を引いて、塩谷判官が刀を抜く準備をしているのが見えちゃうのよ。肩衣の内側に手を差し入れて跳ね上げる準備をしているのとか。でも、今回は高師直の振る舞いが派手で速度もあったため、塩谷判官に目がいきづらくなり、判官がいきなり抜刀したように見えた。むろん人形遣いはすべて計算でやってるんだけど、それらが計算でなく感性、偶然としての突発的な出来事に見える。技術力が高い人が少ない中、玉志さんを高師直に使うのはもったいないと思っていたが、玉志さんが高師直で良かった。

 

「殿中刀傷」以外でも、「恋歌」は今回は独特の味わいが出ていたし、あるいは近年の上演では首を傾げる部分が多かった「判官切腹」も整理が行き届いて浄瑠璃としての立体感・完成度が上がっていた。「一力茶屋」の由良助〈吉田玉男〉・斧九太夫〈桐竹勘壽〉の出る場面も良い。

ただ、全体としては、舞台の密度のムラが激しいというのが一番大きな印象。通し狂言の場合、段の機能による粗密のムラが出るのは当然だ。派手な場面がある分、つなぎや説明でしかない段は確実に存在する。しかし、今回は段の内容に関係なく、出演者の技術レベルによる粗密が大きく出ていた。
密度が高い段は非常に解像度が高く、精緻な表現によって浄瑠璃の文章以上の物語が舞台上に出現している。しかし、そうでない段は、「これ今なんの時間?」のような状態になっていた。そのため通し狂言企画にもかかわらず、物語がブツ切れ状態になっており、「忠臣蔵」がここまで「見取り」になってしまうのかと感じた。
「見取り」に見える理由は、たとえ語りなり演技なりが大きくバタバタしていても、あくまでつまみ食いでしかなく、踏み込んでいないからだろう。芝居として、人物の内面、相手役、そして物語に踏み込んでいない。それゆえ観客の心にも踏み込めない。そういう場面がしばしば……、結構……、あるように感じた。その細切れ部分があるため、全体もつまみ食い、すなわち見取り的な見え方になっているのだろう。「通し狂言」は、通し上演すれば「通し狂言」になるわけではないのだなと思った。

今月のプログラムの技芸員インタビューは、清介さんだった。そこで、清介さんは、「三代名作の通し上演は、その時の文楽座の力を全部出し切って、『今の力はこれです』とお見せすることでもあります」と語っていた。良くも悪くも、まさにその通りだと思った。

 

 

 

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以下、個別の段の感想。思ったことそのまま書き太郎の素朴感想です。

第一部、大序 鶴が岡兜改めの段〜恋歌の段〜桃井館力弥使者の段〜本蔵松切の段〜下馬先進物の段〜腰元おかる文使いの段〜殿中刀傷の段〜裏門の段〜花籠の段〜塩谷判官切腹の段〜城明け渡しの段。「鶴が岡兜改め」から「本蔵松切」まで人形黒衣。
相対的に第一部のほうがまとまっており、時代物の大作らしい風格が出ていた。端的には、手慣れた上手い人が第一部に集まってるからだと思う(そのまんますぎ)。

 

「兜改め」、黒衣だと、人形遣いの技術が顕著に見える。傾いている人形がいる。人形が傾いている人はいつも傾いている。

 

「恋歌」が良かった。「恋歌」が良いってなんやねん、この段説明しかおまへんがなと思いきや、高師直と顔世御前〈豊松清十郎〉のやりとりに世話物の密室劇のような密度があった。二人だけで会話しているシーンなので、このやり方は確かにありえるが(というか、結果的にこうなったのだと思うが)、雑に流されがちな段のため、新鮮に感じた。
高師直は鋭さの中に気品が強く滲み、ノワール映画調。ミキモトのブラックパールのごとき気品とクールさのなかに、針のような悪意、他者をモノとしか思っていないドライさが鋭く表現されていた。
品格への意識が通常の役以上に強く、所作が大変美しい。「恋歌」の最後で、高師直は下手へ退出する直義に向かってお辞儀する場面がある。下手へ向かってお辞儀する役は非常に珍しいが、そのお辞儀の姿勢が非常に綺麗。「殿中刀傷」の塩谷判官とのやりとりで、激昂する塩谷判官を制止する際に扇を当てないのは過去配役時と同様。非常に品のある手法。しかし、今回はやや「芝居」らしいまとまりが出ている。これまで玉志さんのいろいろな役を見てきたが、役への探究心、こだわりの強さによる表現レベルは非常に高くありつつ、それが求道的になりすぎたり、内面へ向かいすぎたりするケースがあった。しかし、今回は和生さんの塩谷判官がそれを「芝居」の世界へ引き戻していたと思う。『一谷嫰軍記』の熊谷役もそうだった。和生さんが相模を演じたときは雰囲気が変わった。和生さんは、玉志さんがなにをやりたいのかを理解して、受け止めたうえで、より良い方向へ寄せていってくれるんだろうなと思う。和生さんは細かい演技もしっかり受けてリアクション返してくれるし。そして、あまりに内へ内へと向かうのを引き留めて、お客さんが見るための「芝居」の世界へ呼び寄せてくれるのだと思う。また、和生さん玉志さんは「演技の振り出しができる人」同士の組み合わせでもある。和生さん玉男さんの組み合わせは、お互い慣れすぎていて「おかーさんとボーヤ☺️」になる場合もあるが、序列の異なる玉志さんだと程よい緊張感があるのも良いな。
それにしても、玉志さんが悪役をやると、スパダリになる。Super Darlin'。松永大膳(祇園祭礼信仰記)、藤原時平(菅原伝授手習鑑)、蘇我入鹿(妹背山婦女庭訓)など、現代的に颯爽としつつスケール感のある色気をたたえている。と言うと古典芸能批評っぽいが、それスパダリだよ! 松永大膳や藤原時平がスパダリなのはわかるが(社会的属性や性根が本当にスパダリだから)、高師直までスパダリ。そうだったのか世紀末。憎々しさが強いわりに清潔感が炸裂しすぎて全くキモくないせいだと思うが、かなり独自の方向へ吹っ飛んでいて、すごかった。一応書いておくが、松永大膳のスパダリ感、藤原時平のスパダリ感とは完全に区別した上での高師直なりのスパダリだった。どんだけスパダリの幅あるねん。
余談ながら、セクハラ感はまったくなかった。普通にスパダリが口説いているシーンに見えた。そうきたか。逆に、セクハラキャラではないのに所作がキモすぎて、直視しがたい役があった。どういうときに誰に対してどの程度の距離感で何をするかの判断ができていないゆえのことだと思う。電車でいちゃついてる「うわ…(ドン引き)」なカップルを見たときの「うわ…(ドン引き)」感。その方は以前からこの手の演技が何度もあり、さすがに名指しできないが、役柄と違うキモさが出ているのはまずいので、まじで誰かなんとか言ってやってくれと思った。

「鶴が岡兜改め」の顔世御前は、人形がかしぎすぎて動きが不自然になっており、場や役割に合っていなかった。しかし、「恋歌」「花籠」「判官切腹」は病的な佇まいが彼女の深い懊悩として非常に良い方向に出ていた。救いようのない後悔の念が強く滲んでいたのが良い。
前述の通り、「恋歌」は世話物の密室劇のような心理的陰影を帯びており、顔世御前の困惑が「物語を動かすための舞台装置」にならない深刻さがあった。むろん、本題はそこではないので、見え方として顔世御前の内面にフォーカスされすぎてもまずいのだが、高師直にキッショいウエットさがなかったため、全体がノワール調に寄って、ちょうどよい塩梅だったと思う。「恋歌」で高師直に艶書を返す所作が、投げ捨てではなく、目を逸らしながら手すり(地面)にスッと差し出す方式なのも清十郎さんらしく、清楚だった。

 

「力弥使者」「本蔵松切」「下馬先進物」は端正な雰囲気。
それは、本蔵〈吉田玉佳〉の折り目正しくさらりとした造形によるものだろう。こういうジジイ、古典芸能の会場とか老舗百貨店にようおる。本蔵らしい気の強さにはやや欠けるものの、老齢らしい端正な品があった。20年くらい前の古いデザインの背広着てても清潔感ある的な。
小浪〈桐竹紋吉〉は恋の表現は良いがフォルムがデカい。バレーのオリンピック選手のようだった。おぼこ感は残しつつ箱に入る感じで頼むわ。
「力弥使者」の冒頭に出てくる奴が私に水をかけてきた。生意気。

 

「殿中刀傷」の素晴らしさは前述の通り。緊迫感と端正さのある、文楽らしい段だった。

 

「文使い」「裏門」は、かなり「?????」な状態になっていた。相当に散漫。話をトータルでどう見せたいのかがわかっていない人が一気に固まってしまう場面はどうにもつらい。登場人物が物語のなかでどのような位置付けになっているのか、まじでわからん。ほかの段だと、重要な役を担った「他の人」がそのうち出てくるので、ある程度流せる。ただ、「文使い」、そして特に「裏門」は、「他の人」が出てこないので、「?????」が集約されてしまった感があった。

 

「判官切腹」は、近年の上演だと、床に首をかしげることが多かった。「静謐」の表現に難があり、登場人物のパワーバランス、品格の序列の整理がついていないことが多く、状況が意味不明になり、緊張感に欠けるケースが多かった。そして、何度も書いているが、この段、近年の配役だと、薬師寺の「性悪」を「品がない」と混同した状態になっている場合が極めて多い。今回はその点がクリアされていた。静かさ、序列への意識は文楽の表現に必須ながら、いまの中堅以下に欠けている要素であり、それぞれの研究が必要だと思う。

玉男さんの「判官切腹」の由良助は、あの場に入ってきた時点で、完全にすべての覚悟を決めているよなぁ。良い意味で、走って入ってきているように見えない。いや、走ってはいるんだけど、自分の感情のために大急ぎしているのではなく、いちはやく塩谷判官を安心させるために急いでいるように見える。すべての結果(=最終的に高師直へ報復して自分は切腹)がわかってここに来ているように思える。どこか落ち着いていて、堂々としている。玉志さんは、塩谷判官への心配と由良助自身の焦りとで、本当に急いで走ってきているように見える。塩谷判官が死ぬ結果はわかっているが、その先がまだぼんやりとしか見えていないような青さがある。玉男さんの由良助も玉志さんの由良助も、基本的に左と足は同じ人だと思う。それでここまで違って見えるというのはすごい。
塩谷判官が切腹したのち、ひとしきり暴言を吐いた薬師寺〈吉田玉輝〉が休息のため上手の間へ入るくだり。この直前、上手を向いていた由良助が下手へ向き直る演技がある。その際、振り返る際に由良助が薬師寺へ投げかける眼光の鋭さに、薬師寺がビクッとすることに気づいた。これより前に薬師寺の暴言に力弥が立ち上がろうとする場面があるが、そのとき由良助はさっと手を差し出して息子を制止する。この場にはどうあっても逆らえない(逆らってはならない)社会的序列があることを表現する演技だ。しかし、序列があろうとも、由良助は薬師寺の態度を許しているわけではないことがわかる。
由良助は強い視線を持つ役として遣われるし、由良助をやるほどの人は自然な動きで振り返るのでこれまでは気づかなかったが、今回は薬師寺がかなりはっきりビビり演技をしていたので、所作の意味がわかった。今回は由良助玉男さん、薬師寺玉輝さんと、初代吉田玉男の弟子で配役されていた。ほかの配役でもこうしていたかは記憶にないが、玉男さん玉輝さんのタイミングがしっかり合っているところを見ると、初代玉男が弟子たちに「ここで由良助は薬師寺を睨むんやで」と教えていたということなのかな。

石堂右馬丞〈吉田簑二郎〉は、塩谷判官の死骸を検視したあと、懐に差していた上意書をその上に置く。その際、上意書の置き方が場合によって別れる。①扇子を敷く ②扇子の要を壊して長方形状に大きく広げた上に置く ③扇子を敷かずに直接置く の3パターンがあるが、今回は日によって①③が混在していた。なぜ? 左が小道具を出すのを忘れることがあるから、すべてが主遣いの考えとは言い切れないが……。

今回、大阪では珍しく(?)、「判官切腹」が「通さん場」に設定されていた。観客参加型の取り組みとしては面白いが(お客さん誰も「通さん場」だと気づいてない感あったけど)、緊張感のある演出効果のためという本来的なところを考えると、「通さん場」にするかどうかはほぼ関係ないんだよな。変なところで声をかける人、不適切な場所で拍手しちゃう人がいるから。
由良助が入ってくるところで拍手する人が出るのは、大阪では仕方ないと私は思っている。大阪はそういう街だからこそ文楽が成立しているともいえる。でも、段の頭で「待ってました」と声をかけるとか、最初の塩谷判官の出や最後に諸士のツメ人形が退出するところで拍手するのは、ダメだと思う。あまり言いたくないが、なぜダメなのかわからないなら、かけ声や拍手は控えるべきだろう。「判官切腹」は、上演中の声がけや拍手は自由という「タテマエ」は「嘘」であることを示す、典型的な段だと思う。

 

 

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第二部、山崎街道出合いの段〜二つ玉の段〜身売りの段〜早野勘平腹切の段〜祇園一力茶屋の段。
第二部は、物語がひとかたまりのもの、ストーリーの流れとしてまとまらず、断片化して、その場その場になりすぎているように感じた。「その場その場」に面白さを出すことそれ自体が悪いわけではないが、浄瑠璃に沿って物語を牽引できる人(床でも人形でも)が軸として出ていないと、場面ごとにバラけて散漫になる。さっきの場面と話つながってないよね的チグハグが多かったように思う。

第二部で一番気になったのは、物語のターニングポイントとなる場面で、重要な人物が「自分で自分の行為をどう意識しているか」の描写が薄いこと。
五段目で、勘平〈桐竹勘十郎〉が定九郎〈吉田玉勢〉の死体から財布を抜き取るとき。七段目でおかる〈吉田一輔〉が鏡で由良助の手紙を盗み見るうち、簪を落とすとき。このとき、彼や彼女は、世間的には「悪」「不道徳」とされる行為をしている。しかし、その行為をすること、あるいは露見することに煩悶やビビリがない。リアクションにそれまでの場面との差がないのだ。
勘平やおかるを、自分のやっていることの良し悪しがわからない「民度」の低い「バカ」(=そのために周囲までが巻き込まれるような悲劇が起こる)としてやっているなら、フラットなのもわかる。事実、勘平やおかるは、「バカ」の部類だろう。ただ、今回の場合、そういう演技設計による意図的なものではないだろうな。これが脇役なら、多少内面描写が薄っぺらくなっても気にしないけど、彼や彼女は重要な役なので、役柄の研究を深めて欲しい。
勘平の場合、「下馬先進物」で出てきたときから程度の低い行為を何度も繰り返しはするものの、財布の抜き取りは最大の致命的な「過ち」だ。後戻りができなくなる運命上の重大な「過失」なので、そこをどう表現するかは重要。似たようなしょうもねぇカスムーブ男でも、『冥途の飛脚』の忠兵衛の場合、「不道徳」な行為、運命を引き返せなくなるとき、ドラマの頂点が「封印を切る行為」で一致しているためわかりやすく、演技としてもやりやすいだろうが、勘平はそこが細かくバラけており、段階を踏んでいるから、難しいんだなと思った。いや、段階を踏んでいて、だんだん追い詰められるからこそドラマとして面白いんだけど……。
また、原郷右衛門〈吉田玉也〉と千崎弥五郎〈吉田文哉〉がおかるの実家へやってきたときの勘平の内面の表現がないことも気になった。勘平はここが運命の分水嶺だとわかっているはずだ。この時点で岐路のひとつとして切腹を覚悟しており、それは、裏門で焦って切腹しようとするときのようなとってつけではない深刻さを伴ったものなのではないか。少なくとも、人形待ちはもっとたっぷり間合いをとったほうがいい。勘平という人物ではなく、人形遣い自身が、人形待ちで待たせることを焦って気がそぞろになっているように感じられた。髪を撫で終わったあとなど、動きを一度止めるところを作ったほうがいいのでは。
おかるについては、勘平の死を知る前と知った後の変化が薄い(文章で指定されている動作以上のものがない)のも違和感があった。おかるの人格については解釈が別れるので、茶屋勤めをしてからは別に勘平のことはどうでもよくなっているという理解ならそれはそれでいいのだが、前述の通り、軽薄さを見せる意図は感じなかった。
いずれにしても、ターニングポイントの意識とそれをきっかけとした心理描写の重要性、難しさを感じた。

 

「山崎街道出合い」〜「二つ玉」で描かれる山崎の山中のくだりは、視界に合わせて文章が書かれている。視点となる人物から、周囲や相手がどれだけ見えているかが描写に反映されているのだ。「山崎街道出合い」で勘平と千崎弥五郎が出会うところは、千崎が提灯を持っており、お互い旧知のため、状況の描写が明瞭に書かれている。しかし、「二つ玉」で与市兵衛と定九郎が出会うところでは、与市兵衛が急ぎ歩いているのは暗闇だという文飾になっている。夜の山道であることに加え、おかるや勘平を想って視野が狭まっているため、彼の目の前は暗く見づらい状態だ。そのため、与市兵衛がどのような人物に話しかけられているかは地の文章に一切書かれていない。セリフの文体のみで定九郎の異様さや不気味さが表現されている。与市兵衛を殺したのが何者かわかるのは、勘平に撃たれた瞬間だ(それでも名前のみ)。
このあたりの文章構成を利用した演出ってできないのかな。見えない中での定九郎の恐怖とか、子供のためそれに抵抗しようとする心理とか。いまの「観客だけがすべてを目撃している」という見せ方自体は面白いんだけど、もう少し、場がどういう状況なのか、登場人物がその場を五感でどう感じているかを意識した踏み込みが欲しいと思った。いまの演出は歌舞伎の流用であり、「派手でおもしろいでしょ」ということだろうが、人形・床ともに、「与市兵衛は弱々しいおじいさん」「定九郎は派手な悪役」以上の深掘りができないかなと思った。難しいか。この段、みんな別にどうでもいいと思ってそうだし。

人形さんはそれぞれの人、精一杯頑張っていると思う。ただ、定九郎の左、手を差し出す位置が全体的に低すぎる。肩の横に出てしまっていて、定九郎の物理的大きさや若さが出ていない。人形の大きさや主遣いが右手を差し出す高さを意識して欲しいし、周囲も言ってあげて欲しいと思った。

いのししにお客さん誰も笑っていなくて、かわいそうだった。

 

身売りの段〜早野勘平腹切の段。
仮名手本忠臣蔵』は、「三大名作」だから「スゴイ」のではない(「三大名作」という言葉は歌舞伎での上演回数が多い義太夫狂言を指している)。文楽の『仮名手本忠臣蔵』が名作なのは、浄瑠璃そのものの完成度が高いからだ。
仮名手本忠臣蔵』五〜六段目の勘平が切腹に至るくだりは、浄瑠璃の文章そのものを読むと、傑作である。芝居において、女で失敗する薄っぺらい色男は一種のテンプレ、「よくあるキャラ」だ。しかし、勘平はほかの浄瑠璃に登場する、物語に置かれたコマでしかない数多の色男役とは異なる。彼が「その他大勢の人形」と違うのは、いまの状況はすべてが自分のなしたことの結果であり、言い逃れのしようがない状況で、誰にも助けを求めることもできず、また誰も助けてくれず、どんどん追い詰められて、「無駄死に」していくという心理劇が描かれている点だ。そこに勘平というキャラクターと、五〜六段目の面白さがある。主人公が「愚劣」な人物だという造形は、スター興行を旨とする演劇ジャンルにはできない設定であり、語りそのものや人形にすべてを負わせる文楽の魅力を最大に引き出せる物語でもある。

ただ、実際の舞台が、浄瑠璃自体よりも面白いと思ったことはない。むしろ「駄作」だと感じる場合が多い。それは、勘平の陰影の表現や内面描写がなされていないからだろう。
人形に限って言えば、和生さん、勘彌さんの勘平は上手い。何も考えていなかっただけの「普通の人」が悲劇に巻き込まれる過程を、高潔な悲劇として美的に描いている。その点においては芝居としても綺麗にまとまっており、節目節目の心理描写も的確。真面目な美男子としての勘平の陰影もよく描かれていて、彼らのパフォーマンスは賞賛に値する。何も考えていない人は世の中に数限りなくいるのに、彼だけが地獄へ落ちてしまう。それは偶然なのか、必然なのかという問いかけが成立している。

それはそれで良いんだけど、私が本当に五〜六段目に求めたいのは、「小心者の惨めさ」なんだよな。勘平の転落はすべて自己責任だ。かわいそうな偶然の重なりではない。考えのないその場その場の行動による愚かさの積み重ねによって必然的に地獄に落ちるのだ。自業自得、因果応報。私はその救済のなさに『仮名手本忠臣蔵』らしさを見出す。だから、勘平の自分への甘さ、運命への怯え、惨めさを描いて欲しいのだ。

そういう意味では、私は、勘十郎さんは「オドオドした小心者」が上手いのではと感じており、勘平は適役なのではと思っていた。しかし、勘十郎さん自身にはその自覚(=自分の特性をいかして勘平の内面描写を深める)はないのだなと思った。こういう部分で、自分の個性を引き出すよりも、ある意味誰にもでもできる表面的なことをしてしまう=端的には切腹後を大袈裟な演技にするという自縛にとらわれているのが、勘十郎さんの個性であり、強みであり、弱さだというのを改めて実感した。なんか……、本当、もったいないよな……。ご本人は自分のその弱さ、ナイーブさを引け目に感じていて、「そんなことしたら地味になってしまう」と思っているんだろうな。でも、弱さって、玉男さんも和生さんも、他の誰も持ってないものだから。それこそ誰にも真似できない勘十郎さんの個性だと思う。自分の良いところって、やっぱり、自分ではわからないんだなと思った。(すべて私の想像に基づく類推)

現状、私が理想とする路線でいうところの勘平像描写が一番上手いのは、清十郎さんだな。最悪の悲劇が待っていることを自覚しているような異様な暗さ、惨めさ。本当は武士に戻りたいなどと思っていないのではないか、おかるのことすらどうでもいいのではないかという陰鬱さ。清十郎さんはいつか自分が転落することを常に不安に思っていそうだから、妙にリアリティのある「負の方向へ惰性でどんどん引きずられていく」的な勘平像がうまくいっているのかな。今後、勘平役がどうなっていくかはわからないが、もう一度、清十郎さんの勘平を見たい。

 

「身売り」の口入・一文字屋の出で長唄が入っていた。見取り上演だとお囃子のみで長唄は入らないと思うが、通し上演で七段目に長唄アサインしているから、ついで? 『忠臣蔵』の通し上演が久しぶりすぎて、前どうだったか、忘れた……。ただ、歌っている人自体は複数であるものの、同じ部のなかに何度も長唄が入ることになるため、またかい感があったのも事実。六段目と七段目を取り出して上演しているがゆえの違和感か。

 

玉男さんの「一力茶屋」の由良助は、良すぎ。色里での「やつし」芝居を楽しむいかにも前近代的場面ながら、映画的なリアリティを伴った現代的な上手さがある。
一番良いのは、おかるに手紙を盗み見されたときから、目つきが変わること。由良助の目は無機質な殺意に満ちている。松王丸や熊谷とはまた異なる心の見えなさだ。「かわいそうだが止むを得ない」という御涙頂戴の大時代的ニュアンスはなく、目的を害する軽薄な邪魔者をすみやかに排除しようとする冷徹な意思を感じる。それ自体は「大義のためには犠牲を厭わない」という浄瑠璃によくいる知的な男性キャラのテンプレでもあるが、玉男さんの場合、影の濃さと鋭さに独自性がある。影というのはうら寂しさといったような人格的陰影ではなく、冷徹さ。人間の俳優でいえば成田三樹男のような。このあたり、玉男さんらしい分厚い強靭さがあった。あと、意味不明の紫の着付も玉男由良助だと似合うのが良い。あんな変な服似合うの、玉男さんしかいない。今何か失礼なことを言ったような。
由良助が顔世御前からの手紙を読む直前、釣行燈から油を取って(?)鬢に撫で付けていた。どういう意味なのだろう。

しかし、場面によるクオリティの粗密が一番激しかったのがこの段。もともとシーンの切り替わりが多い段ではあるが、「これ、何の時間……?」と感じるところが多かった。居酒屋でコース頼んだら、一番の売りの刺身は良かったんだけど、料理が出てくるのにやたら間があいて、解凍しきれていない冷食の唐揚げを出してきたり、ひとり一個ずつのはずの小鉢料理の数が人数分なかったり、みたいな……。
簑助さんが引退したとき、今後の七段目は決定的に違うものになるだろうと思っていたけど、想定していた以上のものを感じた。あのときと同じような部構成で上演しているのに、客入りも全然違う。いろいろなことを考えた。

 

 

 

  • 義太夫
    • 大序 鶴ケ岡兜改めの段(御簾内)
      竹本織栄太夫、豊竹薫太夫、竹本聖太夫、竹本碩太夫、竹本小住太夫/鶴澤藤之亮、鶴澤清方、鶴澤清允、鶴澤燕二郎、野澤錦吾
    • 恋歌の段
      師直 豊竹睦太夫、顔世 竹本南都太夫、若狭助 豊竹靖太夫/竹澤團吾
    • 二段目 桃井館力弥使者の段
      豊竹希太夫/鶴澤友之助
    • 本蔵松切りの段
      豊竹芳穂太夫/野澤錦糸
    • 三段目 下馬先進物の段
      豊竹亘太夫/鶴澤清公
    • 腰元おかる文使いの段
      豊竹睦太夫/野澤勝平
    • 殿中刃傷の段
      豊竹呂勢太夫鶴澤清治
    • 裏門の段
      竹本小住太夫/鶴澤清馗
    • 四段目 花籠の段
      豊竹藤太夫/鶴澤清友
    • 塩谷判官切腹の段
      切=豊竹若太夫 鶴澤清介
    • 城明け渡しの段
      [前半]豊竹薫太夫/鶴澤清允
      [後半]竹本聖太夫/鶴澤燕二郎
    • 五段目 山崎街道出合いの段
      竹本碩太夫/鶴澤寛太郎
    • 二つ玉の段
      豊竹靖太夫/竹澤團七、胡弓 鶴澤清方
    • 身売りの段
      竹本織太夫/豊沢藤蔵
    • 早野勘平切腹の段
      切=竹本錣太夫/竹澤宗助
    • 七段目 祇園一力茶屋の段
      由良助 竹本千歳太夫、力弥 竹本碩太夫、十太郎 竹本津國太夫、喜多八 豊竹咲寿太夫、弥五郎 豊竹亘太夫、仲居 竹本聖太夫おかる 豊竹呂勢太夫、仲居 豊竹薫太夫、一力亭主 竹本小住太夫、伴内 豊竹芳穂太夫、九太夫 竹本三輪太夫、平右衛門 竹本織太夫/鶴澤燕三(前)豊澤富助(後)
       
  • 人形
    足利直義=吉田文哉(吉田文司全日程休演につき代役)、高師直=吉田玉志、塩谷判官=吉田和生、桃井若狭助=吉田文昇、顔世御前=豊松清十郎、奴関内=吉田玉路、奴可介=吉田和馬、加古川本蔵=吉田玉佳、妻戸無瀬=吉田簑一郎、娘小浪=桐竹紋吉、大星力弥=吉田玉翔、鷺坂伴内=吉田簑紫郎、早野勘平=桐竹勘十郎、腰元おかる=吉田一輔、茶道珍才=桐竹勘介、原郷右衛門=吉田玉也、斧九太夫=桐竹勘壽、石堂右馬丞=吉田簑二郎、薬師寺次郎左衛門=吉田玉輝、大星由良助=吉田玉男、千崎弥五郎=吉田文哉、百姓与市兵衛=吉田勘市、斧定九郎=吉田玉勢、与市兵衛女房=吉田勘彌、一文字屋才兵衛=桐竹紋秀、めっぽう弥八=吉田玉延、種ケ島の六=吉田簑悠、狸の角兵衛=吉田玉征(前半)桐竹勘昇(後半)、一力亭主=吉田簑太郎、矢間十太郎=桐竹勘次郎、竹森喜多八=桐竹亀次、寺岡平右衛門=吉田玉助

 

 

 


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第二部の頭に、『靱猿』が入っていた。

いらんわ。こんな露骨な人数稼ぎ演目、おかしすぎるだろ。客を舐めてんのか。

というのが企画に対する正直な感想だが、今回は特殊演出による上演となっており、通常、男性の人形で演じられる「大名」を、「女大名」として女性の人形(おふく)に差し替えていた。これは良かったと思う。昭和の新作(同然)演目だと、これくらい奇抜なことをしないと面白くない。

出演者のレベルが高く、上演クオリティ自体は高かった。人形は無駄遣いとしか思えない配役だった。真面目な人が大集合して、いかにも狂言風のやばい真面目オーラを発していた。

さる〈吉田玉彦〉は自分勝手系アニマルだった。一匹だけ独自の時間軸や目線で動いていた。本物のアニマル同様、こちらに目線を合わせてこない(=客席のほうを向かない)。自分が見たい方向を見ていた。食う柿の数はアドリブのようだった。ただし、姿勢は若狭之助よりシャキッとしていた。なんでや。

しかし、大名〈桐竹紋臣〉が上手から矢を射る演技は振り付けとしてやはり無理があるな。このレベルの人(紋臣さん)がやって無理なら、誰がやっても無理だろう。本来の振り付けでは左遣いが人形の前に立たないよう、客席に対しやや振りをつけて弓をかまえる指定がされているはずだが、今回は真横にしていた。左の避け処理がうまかったので邪魔とは感じなかった。中途半端に斜めにするよりは松葉目的な様式感が出ていて、その点は工夫が感じられた。

自分が観たのは初日から1週間程度後だったためか、演奏にバラツキがあり、こなれ感がないのがやや気になった。もともと散漫な内容だからかもしれないが、なかなか大変なのだろうなと思った。

 

  • 義太夫
    猿曳 豊竹藤太夫、大名 豊竹希太夫、太郎冠者 豊竹咲寿太夫、ツレ 竹本織栄太夫、竹本文字栄太夫/鶴澤清志郎、鶴澤清𠀋、野澤錦吾、鶴澤燕二郎(前半)鶴澤清允(後半)、鶴澤籐之亮

  • 人形
    大名=桐竹紋臣、太郎冠者=吉田玉誉、猿曳=吉田簑二郎、猿=吉田玉彦

 

 


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冒頭に書いた通り、いまの文楽の「良くも悪くも」が非常に強く感じられる公演だった。
良い場面は良い。そうでない場面はそうでない。その分断が、この演目の、通し狂言にも侵入してきたのだと思った。

人形は女性の配役が難しいな。『仮名手本忠臣蔵』は、女性描写が浅い。そのため、自分で役を膨らませることのできる人が配役されないと、「こいつ、おる意味、ある?」になってしまう。
文章以上の描写をなしとげているという意味では、清十郎さんの顔世御前、勘彌さんのおかるママは押し引きの度合い含めて良かった。しかし、言ったら終わりではあるが、それよりももっと重要な役があるわけで、彼らをもっと良い役につければもっと面白くなったのでは?と思ってしまう。首をかしげる状態になっている役でも、左に上手い人が入っている場合もあり、その人は良かった。左は良かったとか、そんな話は一般論から隔絶しすぎていて、感想として成立してませんが……。

床は、今回は複数の場に出る人も多く、大変そうだった。そして、ベテランと中堅の差が出ている印象だった。
ベテランは良い。それぞれの人の長年の研究が舞台へ自然と滲み出ていることを感じた。「大作だから」「良い場面だから」などの気負いのなさからくる地に足のついた描写が良かった。
中堅・若手は、「心を込めて朗読しているんだなぁ」と感じる場合が多かった。本当に若い子はそれでいいんだけど、中堅が「声色」をつけすぎたり、「カギカッコ付き」でセリフを喋っているのは気になる。登場人物のほとんどが裏声になっていたり声の大きさばかり立ってしまうと、目立ちたがりの男子大学生が居酒屋で騒いでいるような聞こえ方になってしまう。これだと、聞くのが辛い状態になってしまい、もったいない。「声色」、「心を込めて朗読」は、鑑賞教室で「語り分け」を強調しすぎているがゆえの自縄自縛からきているのだろうけど、手段と目的が逆転していると思った。
文楽のお客さんは、出演者本人が思っている以上に丁寧に聞いていると思う。声色でない部分での「語り分け」をみなさんちゃんと知っているし、それを聞きに来ている。客をもっと信頼して欲しいと願う。客の顔色を見る必要はない。

 

口上の声量がクソデッケェ黒衣がいて、笑った。最近になって口上を任されるようになった人だろう。緊張してより一層デカ声になっているのだと思うが、段の雰囲気を考えずその声のデカさでやると太夫さん困っちゃうから、がんばれッ。と思った。口上はボソボソ調こそ好ましけれ。
そういえば、だいぶ昔、とある外部公演で、人手不足が超絶的に極まって、玉男様が口上していたことがあった。おいアイツ明らかに普通のツメ人形とちゃうど的な、よだれくりがやっとんのかという口上で、かなり良かったな。あれくらいの違和感があった。(?)

 

八・九段目を含めた完全通しにできなかったのは、残念。大序〜四段目と九段目を同じ日に上演しないと、『仮名手本忠臣蔵』にならない。九段目でなぜ本蔵があのような行動に出て、由良助へあのようなことを言うのかが重要なのだ。その「大きな物語」が綴じられていくことによって、そのはざまで運命の車輪に轢き潰される弱い人々の「小さな物語」もまた収斂してゆく。
同じ日に上演するとしたらこの配役ではいられなくなり、目玉となる段がガッチャガチャになるのは目に見えているが、通しでないことによる話の見え方の中途半端さのほうが問題だ。それにいますでに七段目がガッチャガチャになっているので毒を食らわば皿までじゃ。『靱猿』を抜き、10:00開演21:00終演でも全通しにして欲しかった。
仮にこの秋・正月2分割の上演形態でやるにしても、ここで切ると、勘平・おかるが物語の核心となり、責任重大となる。そのあたりの調整(要するに配役)に、工夫がいると思った。いまの状態だと、登場人物中、もっとも深い懊悩をしているのが顔世御前になっとるがな。

 

 


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展示室のモニターで、文楽劇場開場当時と、10周年記念時の全員出演『寿式三番叟』の映像が流されていた。
見てよくわかるのが、いまの人形遣いの技術レベルの高さ。特に左遣い。記念演目として人形全員出遣いで出演しているため、左遣いが誰なのかわかる状態になっていた。左遣いにはいまの幹部が入っているが、正直、「彼ら」よりも、今の大役の左を遣っている人のほうが上手いと思った。

10周年記念の映像では、いまの玉男さんが初代玉男の翁の左を遣っていた。なんか、すんごい、人形の正面を覗き込んでいた。なるほど、いまの玉男さんの客席正面から見たときの人形の見え方が綺麗なのは、若い頃からその意識があり、師匠がどう遣っているか、自分が遣っている部分がどう見えているかを耐えずチェックしていたからか。と言いたいところだが、実際のところはクソ邪魔だった。人形の前を遮るな!!!!!!!! いま人形の前に回り込むような遣い方をする左がおったら、「お前を見にきたんとちゃうわ!!!!! 引っ込めボケナス!!!!!!!!」とブチ切れるとこやわ。でもほかの左よりは上手い。和生さんと玉男さんだけ上手い。和生は当然前を覗き込んだりしないので完璧左。和生は若い頃からまとも。若い頃から顔が同じ(本当)(本当)(本当)。

記念演目の場合、「記念」であること自体が重要なので役が序列順となる。そのため、本来的な意味では役に対して不適格な配役になっている場合がある。体力的にもうその人形を持てない人が無理に配役されている場面も多々ある一方、初代玉男は爆裂上手くてめちゃくちゃに目を引き、やっぱりこの人、本当に上手かったんだなと思った。

 

 

 

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今回の会期中に、簑助さんが亡くなった。

自分が大阪へ行っていた日は、亡くなった当日7日と、その翌日8日、逝去が正式に発表された日だった。

文楽協会からの正式発表があり、報道へ出たのは、8日の夕方。五〜六段目の上演中だった。最初に出た報道直後に25分休憩が入ったが、当然ながら劇場ロビーへの貼り出し等はなく、来場されているお客さんのほとんどは気づいていなかったと思う。(休憩時間のツメ人形はメシを食うのに夢中なため)

七段目のおかるは、勘平の死を知らずに茶屋の軽薄な雰囲気に酔っている。お客さんも同じだと思った。みんなの大切な人だった簑助さんが亡くなったことを知らず、派手な演目を呑気に楽しんでいる。「むかし、この場面、簑助さん出とったよなぁ」という近くの席の人たちの話し声が、無性に悲しく感じられた。
そして、技芸員さんたちは幕が開く限り、人形のようにこの劇場に縛り付けられている。人形は自分の意思で動くことはできない。

簑助さんのおかるは、みんなのこころの中で、いまも、かわいらしく艶やかに微笑んでいる。