TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 6月大阪鑑賞教室公演『五条橋』『仮名手本忠臣蔵』殿中刃傷の段、塩谷判官切腹の段、城明渡しの段 国立文楽劇場

文楽劇場の前で、集合してくる学生さんたちを待ち構えていた先生らしき小柄な女性が、高く掲げた扇子を振って、学生さんたちを招き寄せていた。
うーん、熊谷より貫禄があるッ! ほんとに若者寄ってきてるし!! と思った。



 


今年の鑑賞教室は、『仮名手本忠臣蔵』殿中刃傷の段、塩谷判官切腹の段、城明渡しの段。

鑑賞教室公演は配役が何パターンもあることから、常連客向けには、演出の違いを見ることができます、と言われている。本公演ではありえない配役や抜擢を見ることができるお祭り的な機会だ。「個性の違いが楽しめる」。それは間違いないのだが、この演目だと、結構、大変なことになる。2021年12月東京本公演において幹部抜きで上演されたときにも思ったが、この演目、本当に難しい。どの役も、その人が持っているものが浮き彫りになる。『絵本太功記』や『夏祭浪花鑑』は誰がやってもおトクな演目なのに、この曲はまったく違う。お客さんも真剣に見ている。非常に残酷な演目だと思う。『仮名手本忠臣蔵』は、なぜここまではっきり実力とでも言うべきものが出るのか……。

 

第一に、この演目は、身分が高い人しか出てこない点。品性の表現が曲の質感を大きく左右することが、この演目の難易度を上げている気がする。
由良助のような、いかにも品位がある人物だけではない。高師直薬師寺次郎左衛門でも下劣に表現することはできず、高家大名であることの建前はしっかり立てないといけない。塩谷判官にしても、全部が全部恨み丸出しでは「大名の懐子(ふところご)」であるキャラクターが成立しないだろう。こういった人物は、時折語尾などにチラチラと「素」が覗くからこそ、内にある思念の強さがより一層感じられるのではないか。文司さん、玉志さん、希さんの高師直は、この点、とても良かった。

床は、解説コーナーで「語り分け」について説明しているせいなのか、個々の違いを強調することへの自縄自縛になっているのではないかという気がする。「語り分け」は、声色なり速度なりを変えること自体に意味があるわけではない。身分やその人の置かれた状態が表わされている状態をいうのだと思う。そうでない「語り分け」を一曲の中でやりはじめると、その場その場の前後の区別でしかなくなり、曲の途中で人物の印象が変わってしまう。塩谷判官と石堂右馬之丞のどちらが喋っているのかわからない人がいるのは、このためではないだろうか。

第二に、非常に長い時間の「我慢」が必要な演目であるという点。「塩谷判官切腹の段」は、由良助が走り込んでくるまで、抑えた表現が1時間近くずっと続く。そのあいだ、我慢ができるか。これは非常に重要なポイントだと思う。
そう考えると、燕三さんは本当に上手い。三味線の音が鳴っているのに、とても静かに感じる。それぞれの人物の所作も慎重なものとして描写される。様々な人の出入りと館のうちの静けさが両立した表現をし続けている。周囲がどんな状況であってもきちんと弾いていて……、この人、本当にメンタルが強いんだなと思った。特に、一期一会でしかないお客さんを信用しているというのが、心から、すごいと思う。

また、「判官切腹」は、重要な人物とそうでない人物を、しっかり区別することが必要だと思う。この場で重要なのは塩谷判官と由良助。それ以外の人物は抑制しておかないと、曲の佇まい、バランスが崩れる。ツメ人形で出る諸士も同じ。主君に尽くすことだけが正しいと思い込んでいる人物は、五〜六段目の勘平の悲劇として存分に表現される(あるいは七段目の平右衛門としても)。本当に熟考と忍耐を強いられる演目だと感じる。

 

古典芸能の世界では、特に若めの人は「頑張っている」こと自体を賞賛される機会が多いと思う。実際、今回も、みなさん頑張っておられる。けど、その場限りの頑張りでは、本作の持つ巨大なオーラに太刀打ちできない。『仮名手本忠臣蔵』の前では、技芸員は人形よりもけなげな存在だ。いい演目だけど、やはり、本当に難しい狂言だと思った。そして、そのぶん、やり甲斐、見甲斐のある演目なのだと思う。

 

 

 

五条橋。

冒頭の「さいとうの むさしぼう べんけいは〜」というところ、弁慶の名前が「斉藤(の)武蔵坊弁慶」……ってコト!? と思っていたが、今回、字幕を見て気づいた。「(比叡山の)西塔」ね……。

Cプロが良かった。玉誉さんは牛若丸をかなり女性的に遣っており、顔が薄衣で見えなければ、たしかに袴姿の女性に見える。橋の欄干ですっくと伸びる姿も美しかった。弁慶役の簑太郎さんは、周囲の先輩同僚のよいところ、悪いところをよく見てるんだなと思った。

人形を左手に持っている人形遣いの役、みたいなことになっている人がいる。人形より自分のほうが先に、かつ派手に動いてしまっているのが最大の原因だと思うが、それに合わせて、人形を自分の身体に過剰にくっつけて持っているのもあるかなと思った。人形と人間が接近すると、遠近効果が消えて、人間がでかく、人形がちっちゃく見える。上手い人は、人形を自分の身体から離して持っていると思う。

前から思っていたが、この手の演目の最後に客電つける演出、文楽だと逆効果になる気がする。段切から幕が閉まるまでが長いので、たんに現実に返ってしまい、しらける。

※Aプロのみ未鑑賞。

 

 

 


解説。

人形解説のみ。鑑賞教室の客層を考えると、これが妥当ということか。(「大人のための文楽鑑賞教室」のみ、太夫・三味線解説あり)
衣装を着せていない人形を使った解説があったのがよかった。

それよりみんな、大変だ。

文楽ファンのあいだで長らく囁かれてきた「カズマは英語喋れるらしいで🗣」は、ホンマやった。

もはや解説自体と一切関係ない感想だが、今年の鑑賞教室、これが一番びっくりした。
「Discover Bunraku(外国人のための文楽鑑賞教室)」は解説の内容が独自で、お客さんに人形遣い体験をしてもらうパートが組まれていた。外国人のための…と銘打っている関係上、選ばれたのは(外見的に)外国人の方だったのだが(こどもが「わたしはこどもだからだめなの!?」とおこっていた)、ステージに上がった参加者の方々に、左に入っていた和馬さんが人形の遣い方を英語で説明していた。いかんせん左のためマイクをつけていなかったので、聞こえたのは周囲の席に人だけだと思うが……、えー!! これだけ喋れるなら、カズマが自分で英語で人形解説すればいいじゃん!!! 和生さんのスーパードヤ顔が見えたわ。うちの弟子、かしこいでな📖💗👍という和生のささやきが聞こえるッ!!!! いや本当、和馬さんが英語解説をやるべきだと思う。技芸員自身が説明したほうが説得力がある。
もちろん、英語が喋れることだけが解説役に向いている理由ではない。そもそも和馬さんは人形遣うの上手いですからね。個別の本役、和生さんの左はもとより、今回の実演にしても、非常にしっかりしていて、精緻。あんなバタバタした環境でも、左手の動き・位置が一発できっちり決まっている。というか、カズマよ、決まるのが速いな。もたつきのある右手より速く、かつ綺麗に決まっていた。和生チルドレンだけあって所作が清潔だ。そういう意味でも、解説役をやる資格がおおいにあると思います。ぜひご検討を。

 

「この解説を聞いたお客さんに何を感じてほしいのか/持って帰ってほしいのか」は、いつもながら、モンヤリしている。
このあと起こして欲しいアクションを想定したストーリーがあったほうが、訴求力は高まると思う。技術解説をするにしても、たとえば、「かしらには古いものもある」ということを話している人がいますよね。それで終わってますけど、せっかく話すなら、もうひとつ踏み込んでみては。「今日出るかしらで一番古いのは、悪役の高師直というおじいさん役に使っている『大舅』と呼ばれているものです。明治初期に作られたものではないかと言われています。だいたい150年くらい前のものなので、本当におじいさんですね。本編がはじまったらすぐに出てきますので、注目してみてください!」と言い添えるとか。本編にブリッジさせることで解説の意義が立つ。なんらかの能動的なアクションを喚起することを心がけたほうがよさそうだ。
また、まずもって、『仮名手本忠臣蔵』がいかに文楽にとって重要な演目であるか、あるいは、この曲が当時から現代にかけての社会にどのような影響を及ぼしたのかを話したほうがいいと思った。

 

研修生ゼロの問題がさすがにまずいということなのか、解説中に「研修生を募集しています」という話を入れていた。ロビーにもその説明係の人が立っている(説明チラシを置いた長机の前に立ってしまっているせいで、逆に寄っていきづらい状況になっていたが……)。しかし、一番重要な「日本国籍の男子のみ」という点は言っていない。夏に行われるワークショップでも「中学生以上の男女」とわざわざ応募規約に書いてある。そりゃ言えないわな。
以前にも書いたけれど、実際問題としては年齢制限の問題が大きいのと、実力主義と言いながら世襲優遇丸出しの状況では、技芸員候補として欲しいような真面目な子は応募してこないだろうなと冷たいことを思った。


↓ 「大人のための文楽鑑賞教室」の人形解説は、特例で撮影可能でした。客席はツメ人形のみなさんが大半だったためか、意外とみんな普通に見ていて、新しい人形を出したらちょっと撮る、程度でした。

🖐️

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🦟

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仮名手本忠臣蔵、殿中刃傷の段。

この段からはじまると、あまりに唐突すぎて、冒頭の詞章カットしてやってんのかと思った。ヲクリ部分の三味線さんの弾き方の問題で、ちょっと中途半端になっている回もあった。『五条橋』抜いて「馬場先進物」やるのでもよかったのではないかしら。


勘彌さん(B・Cプロ)の塩谷判官は相当に良い。若い大名の清涼な気品、おぼっちゃん育ちのおっとりした雰囲気がよく出ている。所作は美しく整理されていて、道具の扱いもしなやかで申し分なし、品性が自然と備わった塩谷判官らしさを感じた。高師直と行き合うくだりでの「……(ナンノハナシ……?)」風の表情も良い。
この人、少なくとも主催公演では初役だよね? 2020年12月東京本公演の勘平もすばらしかったが、塩谷判官も良い。浄瑠璃の主人公のなかに、けなげに一生懸命いきてる生き物感と、人形らしい濁りのなさの調和があり、本当に上手いなと思った。
ただ、自然天然で上手いわけではないですよね。さらーっとやっているように見えて、勘彌さん、汗びっしょり。やはり塩谷判官というのは、ただ普通にしているだけでは出来ない役なのだなと思った。


高師直は、文司さん(Cプロ)と玉志さん(Dプロ)が非常に良かった。高師直の気品ある悪辣さがあった。
この二人の高師直は、あくまで鷹揚、大人物としてゆったりと振舞っている。過剰なほどのものやわらかげな受け答えのなかに、しかし、ときどき、苛立ちの鋭い針が見え隠れする。喋り方でいうなら、ゆったり喋っていたはずなのに、語尾が急に速く、キツくなる感じ。しかしそれがすぐに元に戻るという不気味さがある。
玉志さん高師直は、若狭助におべんちゃらを使ったあと、すっと目をそらし、チッと舌打ちするような仕草をしていた。その点、文司さんより鋭い悪意がある。あと茶坊主をゴミ扱いしてるのもいいですね。文司さんは本物の鷹揚邪悪だった。
今回は、見比べによってネガティブチェックをしてしまうような部分があった。
高師直の重要な演技として、塩谷判官を扇で挑発する所作がある。このとき、塩谷判官の身体に扇を当ててはいけない。なぜならば高師直は品格のある人物だから。という話がある。でも、当ててる人、結構いますよね。インタビューで「扇を当ててはいけない」と言っている人自身がやっていたりする。今回、文司さんと玉志さんは、塩谷判官の身体に扇を当てずに最後まで進行していた(自分の胸を打つときにも音を立てて当てない。玉志さんの場合は最後に自分の膝を打つときにのみ音を立てる)。これを見ると、当てたら終わりだなと、実際問題として思う。
高師直が塩谷判官に斬りかかられるときの帽子の跳ね上げ。文司さんと玉志さんの2人は、自然に後ろへ跳ね飛ばす手法にしていた。手で取っている人もいたけど、手で取るのと後ろへ跳ね飛ばすのとでは、意味と印象が全然違う。手で取る人は、手軽にかつ確実にできるからそうしているのだろうが、どういうシチュエーションなの?という疑問が挟まる。
今回の配役では、文司さんのみ、大紋の扱いが異なっていた。顔世御前の文を読むときには両袖を跳ね上げ、小袖を出すやりかただった。今回は配役されていないが、玉也さんも袖をそのままにしないやり方だったと思う。どういう違いなのだろうか。
それにしても、高師直の右手と左手の動きが揃っている人といない人がいるのは、なぜ? 高師直には大紋の袖を振ったり、左右の手を同時に張り出す演技が何回かあるが、あれ、たいてい揃ってなくて、非常に見苦しいことになりますよね。ところが、玉志さんだけなぜか比較的揃っている。特別よい左がついているというわけではなさそうだが、技術的に左がついていきやすい遣い方ということなのだろうか? かなり不思議。


若狭助は玉佳さん(Aプロ)の鮮烈さが良い。刀に手をかけて高師直に向きあうとき、人形の手が刀の鍔に当たってカチカチとわずかに音を立てているのが効果的だった。植物の青い茎のような生硬さがあるのが良い。
若狭助役で、太刀ではなく脇差に手をかけてしまっている人がいたのが気になった。文脈がおかしくなるだけでなく、脇差に手をかけると、体のひねり・右肩の下げも足らなくなるため、姿勢に迫力が出ない。中央特快高尾行きで、中野発車後に急におなかがいたくなって大変なことになってきたサラリーマンみたいなポーズになっていた。誰か教えてあげて。

失敗といえば、ツケ打ちがすさまじくめちゃくちゃになっている日があった。なんなんだ。


床は全般に個々人の研究が感じられて非常に好ましかった。
芳穂さん(Aプロ)、小住さん(Bプロ)は、なにを表現したいのか、いまの自分にできることは何か、それが見据えられた演奏だったと思う。虚勢を張ることなくストレートに、やりたくなっちゃうけどやってはダメなことは我慢してと、自分自身の現在位置を見据えた語りになっていた。二人ともニュアンスを乗せやすい声質だが、それを大切にしているのもよかった。
希さん(Cプロ)は、高師直の表現に研究がみられ、自分がよいと考えたペースで落ち着いて語っているのがよかった。あくまで鷹揚に、鷹揚に。あからさまに声を荒げたり、嫌味になるのは、最後だけ。ヤスさん(Dプロ)は過去の配役時には高師直の長セリフがまったく間持ちしなかったが、大いに改善されていた。


塩谷判官が高師直に斬りかかったのは、冷静に考えると、やっぱり不自然だな。高齢者にここまで異様な言動を取られると、おかしさ自体のほうに気を取られて「え……なにこの人(あとで由良チャンに愚痴ラインしよ!)」か、「男性更年期……? それとも、ちょっと認知症になってきてるのかな……」という方向に思考が逸れそうな気がする。
そして、高師直が塩谷判官に当たってきた理由って、ひとつじゃないですよね。それでこその浄瑠璃の悲劇だと思うけど、文楽劇場twitterアカウントは、なんでそれをひとつの理由だと決めつけるクイズを出題しちゃったんだろ。素朴な無邪気さでやっちゃってるんだろうけど、自分とこで配っている解説パンフにも複合的な理由だと書いてあるのに、大丈夫なのかなと思った。

 

 


塩谷判官切腹の段〜城明け渡しの段。

Bプロ・玉志さんの由良助は、2021年12月本公演の初役時より大幅に安定していた。今回もっともよくなった点は、主役の間合いが表現されていたことだ。
人形は義太夫の演奏に合わせて演技をしているように見えて、実際には「彼」や「彼女」独自の時間を持っている。特に主役には独特の時間がある。由良助は、浄瑠璃の主人公のなかでももっともこの間合いの感覚が重要なキャラクターだと思う。由良助は余計なことを喋らない人物で(原作ではわりと喋るのを、現行では演出変更によって無口キャラにされている)、間合いによって彼の個性や内面が表現される。鑑賞教室や分割通し上演のような特殊配役の機会に、番付で上のほうにいくような人が由良助をやってもイマイチなことが多いのは、この間合いがうまく表現されていないからだと思う。
玉志さんは、初役当時は、「判官切腹」を超超全力投球、「城明渡しの段」は残りの力で全力投球と、なにもかもを全力で根をつめてやっていた。人形持ったまま途中で倒れるんじゃないかと思うほどの息の詰め具合で、私は玉志さんのそういう常に真剣なところが好きで、実際その気迫が活き、「判官切腹」は初役初日の時点で非常によかったと思った。ただ、「判官切腹」で力を使いすぎて、「城明渡し」の由良助の間合いがあいまいになり、表現の強度が足りないと思っていた。あれから1年半が経過しての再度の由良助役、その間に主役の感覚が身についたのか、「城明渡し」が非常に落ち着いた雰囲気になり、由良助という人物の間合いができて、彼個人の内面性が出ていたと思う。

玉志さんの由良助はとても若くて、純粋そうだ。まず、走ってくるところからして若い。由良助は広間へ駆け込んでくるわけだが、速度だけでいうと、意外と「走って」いない。大股に歩いている。それでもなぜ彼が大急ぎで走ってきたかのように見えるのかというのも、玉志さんの演技を考えるうえでポイントだろう。
玉志さんの由良助は、塩谷判官の姿を見て、はっ!と驚いて立ち止まる。まじで頭の上にでっかいビックリマークついてる!! 玉志さんは人形の遣い方として伸び上がりによるアクセントをつける人だが、ここではもう、伸び上がるというか、ピョコ!となってる。家老がピョコるわけないだろ!と思うけど、由良助と玉志さんのあまりの一生懸命さに、ピョコってても納得してしまう。そこでの跳び退きと、塩谷判官に顔をぐっと近づけるときのコントラストも非常に鮮やか。顔を近づけるときには、判官の顔の高さと自分の顔の高さをきっちり合わせるところもいい。この人一倍の顔の近さ……こいつら絶対付き合ってる!!レベル。「委細承知……」でトントントンと後ろに下がるところもクリクリとした切れがあり、お目得したばかりの若侍のような瑞々しさを感じる。
玉志さんの由良助は、この人、いつでも塩谷判官に一生懸命だったんだろうな……というこれまでの彼らの関係を感じさせる。玉志さんの由良助の良さは、本人の個性が出た上で、それが由良助というキャラクターに繋がっているところだと思う。*1
塩谷判官の遺骸を乗せた輿の扉を閉める手つきのやるせなさは、やはり、絶品。由良助の無念と悔しさが存分に出ていた。

「城明渡しの段」の段切は、あいかわらず(?)、かけ声を入れていなかった。人形が決まると同時に太夫に入らせる方式。今回は、太夫・三味線は本舞台上の御簾ではなく、床の上の御簾内で演奏しているため、人形ほとんど見えないんじゃないかしら。決まる直前の足拍子の入り方で判断しているんだと思うけど、大変すぎる。玉志さんがなぜこうしようと思ったのか、知りたい。奇ッッッッッ!!!!!!!


玉佳さん(Dプロ)は由良助初役だと思うが、良かった。
失礼だけど、思っていた以上に「由良助」になっていた。というか、「由良助」にほかならなかった。なんなら、「城明渡し」の提灯を切るところは、玉志さん以上に上手いかもしれん。
由良助は非常に難しい役だ。その意味では、明らかに技術的に未熟。でも、由良助って、そんなこと関係ない役なんだと思った。由良助の本質がとらえられているので、おかしく感じない。むしろ、小手先のごまかしがなく、由良助の清潔な性根にふさわしい芸。人形が由良助という人になっている。由良助の本質がどこにあるのか、玉佳さんを見れば、わかるのではないだろうか。
傾向は玉志さんの由良助と非常に近接しており、初代吉田玉男の由良助はこうだったのではないかと感じる。由良助の身体にグッと力が入るタイミングが同じで、ああ、初代玉男はここが由良助の性根のポイントになると考えていたのだな、とわかるというか。もちろん、映像を見れば初代玉男がどのように演じていたかという型自体はわかるんだけど、遠方から撮っているVHS映像だと、「力み」のポイントは判別しにくい。生の舞台を共にした人ならではの感覚、観点だと思う。というか、力みのポイントの精緻さ、あるいは力みのポイントをつくること自体が、初代玉男の芸だったのかもなと思った。玉佳さん、玉志さんの由良助を通して、初代玉男が由良助の心の流れをどう考えていたか、わかった気がした。
なにより、由良助が玉佳さんを引っ張ってあげている感じだった。玉佳さんは入門してからいままでのずっと長いあいだ、本当に一生懸命頑張ってきたのだと思う。そのあいだ、由良助は、師匠の横で、玉男さんの横で、ずっと玉佳さんを見守っていたのだ。おーい玉佳、あせるなよー!おれがついてるぞー!という由良助の声が聞こえた。
比喩とかじゃなくほんとにそう。由良助は勝手に動いていて、弟分のタマカチャンを引っ張っていってあげてる感じ。にいさーーんそっちいくんですかーーーー涙涙!と玉佳さんは一生懸命ついて行っている。簑助さんの三勝(艶容女舞衣)でも、三勝が勝手に動き出すのを簑助さんが引き止めているように感じたことはあるけど、文楽には不思議なことがあるなと思った。人形の持つ気迫に負けている人は多かれど、人形に引っ張ってもらっている人は、珍しいですね。
左は普段タマカ・チャンにお世話になっている方でしょうか。この人(と私が思い込んでいる人)、自分が主遣いやるときと左やるときでなんか感じ違うように思うんですけど、いったいどういうセンスしてんだ???


由良助全般について思ったのは、顔の向き(目線)、胸の向きが非常に雄弁となる人形だということ。
由良助の人形は小柄で、衣装もシンプルなので、ちょっとした姿勢が全体のイメージへ跳ね返る。目線が意味のある方向を向いていないといけないのは当たり前だけど、結構重要なのは、胸。胸がのぺーっとなっていると、棒立ちのツメ人形みたいになる。由良助の内面の強さを表現するには、胸をしっかり張り出していないといけない。人形の大胸筋に緊張感がないといかん。そのニュアンスが難しいと思った。
少し話は飛ぶが、由良助の武士らしさは、存外、姿(拵え)できっちり出るのかもと思った。由良助は、人形に対して下げている刀がアンバランスに大きい。塩谷判官や若狭助は、身体に対して小さい刀に見える(塩谷判官の場合、殿中の場面は殿中だから小さい刀を差しているのだが)。上品な由良助の人形が無骨な刀を差しているビジュアル上のインパクトは強い。人形遣いは由良助の優美さ、気品に全振りしても、意外と彼の武士らしさは担保できるのでは?と思った。


緊張のしすぎなのか、ドタバタと音を立てて歩く力弥がいた。静かに歩く練習をしたほうが良さそうだね。あと名指しですまんが、カズマ(Cプロ)よ、小柄を取り出すのが早すぎて、ヤバい殺し屋みたいになってる!! 塩谷判官の後ろに行ったときに出して!!! とにかく、みんな、頑張れ!!!!

 

ふすまの締まりがめっちゃ悪くて、モンヨシ・ハラゴー(Bプロ)がなかなかふすまを閉められず、ずっと後ろ向きになっていたのが、焦った。もう一生正面向けないかと思った。

 

床は呂勢さん(Aプロ)が非常に良かった。やっぱり呂勢さんは上手い。トーンを低く、小さく語る時間をかなり長く確保して、閉門に処された館の雰囲気がよく描写されている。自分の興奮を抑え、声のトーンに抑制がきいていること自体が、上手さだわ。

この段について、解説で「シーンと静まり返った緊張感が……」という説明をしている。これ、必ずしも人形待ち(床の演奏が止まる箇所)だけのことを言ってるわけじゃないですよね。床が演奏していても、シーンと静まり返っているように聞こえなくてはいけない。静かだからむしろ、音がよく聞こえてくる。真夜中の静寂の中だと、遠くの線路を走る貨物列車の音や、離れたところにある幹線道路を走る救急車のサイレンが聞こえる。学生時代を思い返すと、筆記テストの時間には、シャープペンシルの先端が紙をこする音が絶え間なく聞こえていた。小さな音が拡大して聞こえる空間。息が詰まるほどに静まり返ったこの館の中で、観客もまた人形たちと一緒に身じろぎもせず、静かにときを待っている一員であると感じさせるのが重要なのだなと思った。
太夫さん(Cプロ)もそのあたりはかなり整理した語りになっていた。さすがベテラン。そこからあと一歩の描写の踏み込みのように思った(それは経験がなすものだと思うけど)。

先にも書いたが、Bプロ・燕三さんは、お客さんを信用しているのだろうなと思った。
ただ、そもそも、太棹三味線で「小さい音」を安定して出すこと自体が難しいのだろうと感じた。きっちりやるだろうと思っていた宗助さん(Cプロ)の音に微妙に迷いがあったのが意外だった。慣れれば安定するとは思う。

「はったと睨んで」を入れるワカゾーたちは、かなり、よかった。えらいっ!!!!!!

 

 

  • Aプロ(前期日程・午前の部)
    • 義太夫
      • 殿中刃傷の段
        竹本小住太夫/野澤錦糸
      • 塩谷判官切腹の段
        豊竹呂勢太夫/鶴澤藤蔵
      • 城明渡しの段
        竹本碩太夫/鶴澤燕二郎
    • 人形
      桃井若狭助=吉田玉佳、高師直=吉田玉輝、茶道珍才=吉田簑悠(代役、吉田簑之全日程休演につき)、加古川本蔵=桐竹亀次、塩谷判官=吉田簑二郎、原郷右衛門=吉田玉翔、石堂右馬丞=吉田文昇、薬師寺次郎左衛門=吉田玉誉、大星力弥=桐竹勘次郎、大星由良助=吉田玉也、顔世御前=吉田清五郎

  • Bプロ(前期日程・午後の部)
    • 義太夫
    • 人形
      桃井若狭助=吉田一輔、高師直=吉田玉助、茶道珍才=吉田玉峻、加古川本蔵=吉田勘市、塩谷判官=吉田勘彌(代役、豊松清十郎全日程休演につき)、原郷右衛門=桐竹紋吉、石堂右馬丞=吉田簑一郎、薬師寺次郎左衛門=吉田簑太郎、大星力弥=吉田玉路、大星由良助=吉田玉志、顔世御前=桐竹紋臣

  • Cプロ(後期日程・午前の部)
    • 義太夫
      • 殿中刃傷の段
        豊竹希太夫/竹澤團吾
      • 塩谷判官切腹の段
        豊竹藤太夫/竹澤宗助
      • 城明渡しの段
        竹本聖太夫/鶴澤清允
    • 人形
      桃井若狭助=吉田玉勢、高師直=吉田文司、茶道珍才=吉田簑悠、加古川本蔵=桐竹亀次、塩谷判官=吉田勘彌、原郷右衛門=桐竹紋臣、石堂右馬丞=吉田清五郎、薬師寺次郎左衛門=桐竹勘介、大星力弥=吉田和馬、大星由良助=吉田玉助、顔世御前=吉田簑一郎

  • Dプロ(後期日程・午後の部)
    • 義太夫
      • 殿中刃傷の段
        豊竹靖太夫/鶴澤清馗
      • 塩谷判官切腹の段
        豊竹睦太夫/野澤勝平
      • 城明渡しの段
        豊竹薫太夫/鶴澤清方
    • 人形
      桃井若狭助=吉田簑紫郎、高師直=吉田玉志、茶道珍才=吉田玉延、加古川本蔵=吉田文哉、塩谷判官=吉田一輔、原郷右衛門=吉田勘市、石堂右馬丞=吉田文昇、薬師寺次郎左衛門=桐竹勘次郎、大星力弥=吉田玉彦、大星由良助=吉田玉佳、顔世御前=桐竹紋秀

 

 

2021年12月中堅公演の『仮名手本忠臣蔵』は、いろいろな意味で、大変な状態になっていた。その経験があったからか、今回は妙に冷静で、「まあ、こううなるわな」と思った。

きちんと積み重ねてきた人は、たとえ初役であっても、本質を捉えることができるということが改めてわかった。人形は、浄瑠璃は、修行を重ねた日々に応えてくれるのだ。積み重ねるべきものは技術面もあるけど、一番大きいのは浄瑠璃への理解だと思う。まず、本人が本質的にその役や演目に思い入れがあり、どうしたいのかが明確になっていないと、そもそも客に伝わるものにならないんだろうね。その人が描きたいものが明瞭になっていないと、浄瑠璃の像を共有しえないというか……。
初役は、どんなクソヤバド失敗をしようとも、やったこと自体に価値がある。それは間違いない。だからこそ、2回目には向上していないとなぁ……と思った。そういう意味では、簑二郎さんの塩谷判官は改善されていた。前はやはりアガりすぎが失敗の原因だったんでしょうね。今回は落ち着いた演技になっていた。少なくとも、前とは違っていた。

 

今回、学生団体が多く入っていた日もあり、普段の本公演では取らないような、いろいろな場所の席を体験した。前々から思っていたが、人形は、うしろの席から見ると、上手い人しか上手く見えない。
やたら大きく人形の首(くび)をかしげさせる人がいるが、大抵、そもそもの状態からして人形がフラついてる人だな。普段からフラついていることは遣ってる本人も身体的にわかっていて、だからこそ「なんか演技するとこ」では普段との差分をつけなきゃ的な潜在意識で、やたらかしげてんだなーと思った。首を大きくかしげるやつが大根にしか見えない理由がわかったッ!と思った。

あと、学生さんで、「前に見たときのほうがおもしろかった」と言っている人がいた。そう、学生さんだからといって、全員が「初心者」なわけではないんですよね。夏休み公演の親子劇場と同じで。若い人は、素直ッ!!!!!!!!!! と思った。

 

文楽を観ていると、ときどき、この人、なんかの映像か録音を真似してんのかな、と思うことがある。
場合によっては、ああアレの真似してんのね、と元ネタがわかることもある。言い方は悪いけど、極端にわかりやすいところだけつまみ食いして、そこだけ誇張してやっちゃってるんだろうなと思う。実物を見たことがない江戸時代の絵師が伝聞だけで描いた象のような違和感。過去にどういう舞台があったのか、自分なりに勉強するのはすごくよいことだ。ただ、自分の特徴を把握して、それに沿った取捨選択やアレンジをしないと、いびつなことになる。せっかく一生懸命やってることなんだし、若い人なら、誰かに確認してもらって「きみならこうしたほうがいいよ」と指導してもらうのが一番いいと思うが、残念だけど、そんな状況じゃないのかなと思う。

それにも関連するが、最後に、解説について感じることを書いておく。
若いほうの方をそのままにしていてはだめでしょう。喋りの上手い下手以前に、人形の実演の動きや間合いがあまりにもおかしい。初めて解説をやるならともかく、以前見たときよりもさらにおかしくなっている。
師匠や先輩はちゃんと見てあげたうえで、しっかり指導するべきだ。この人、おそらく、あがり症の自覚があり、自分がやっていることは不十分だとわかっているうえで、前向きに頑張ろうとしているのでしょう。そういう頑張っている弟子・後輩に対して、やるべきことがあるのではないでしょうか。チャンスというのは、与えること自体に意味があるわけではない。そこでやったことがどうであったかを見返し、改善することのほうが重要だ。チャンスだけ与えられて放置され、全然成長していない「若くない若手」がいるのは、悲惨だよ。頑張ってるんだからとお目こぼししてもらえるのも、リミットがある。
頑張っている若い人の努力が具体的な実を結ぶように応援し、指導するのが、上の者の義務だと思う。私自身も年をとってきたので、実感として本当にそう思う。

 

 

 

↓ 2021年12月東京中堅公演の感想。由良助=玉志さん。

↓ 2019年4月大阪公演の感想。由良助=玉男さん。

 

 

 

終演後、天王寺へ激走して、あべのハルカス美術館で開催されていた「絵金 幕末土佐の天才絵師」展を観た。

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初めて絵金の本物を見たが、すごすぎる。驚いた。
絵金といえば、ギラギラした色合いのキワモノ血みどろの残酷な絵を描いていた土着の絵師……というイメージを抱いていた。実際そうなのだが、なぜ彼の絵はキワモノ血みどろの残酷な絵なのか? それは、絵金が描いていたのが、浄瑠璃の芝居絵だったからなのだ。しかも彼が描いていたのは、浮世絵にあるような役者絵ではなく、あくまで浄瑠璃の内容そのもの。寺子屋、判官切腹、御殿、妹背山、草履打、すしや、志渡寺……。まさに浄瑠璃の情景そのものが描き出されている。異常なのは、絵金じゃなくて、浄瑠璃ッ!!! 切腹!!!! 生首!!!!!! 子殺し!!!!!!登場人物全員狂人!!!!!!!  すべて、浄瑠璃要因ッッッッ!!!!!!!!!!!
文楽を見るようになったいまなら、ここに描かれている世界を理解できる。むしろ、私には、文楽の舞台はこのように見えていたのかもしれないと思えた。

先述の通り、役者絵ではないというのがポイントで、役者絵にはなりにくい変わったシーン・演目や、しょうもないキャラまでびっしりと書き込まれているのもよかった。背景の遠くのほうでさぼってる人とか。ツメ人形か? 深刻なシーンなのに笑っている人物がいるのも興味深い。
土佐という、いわゆる都会からは離れた土地で、ここまで大量に浄瑠璃の絵が描かれていたというのもすごい。浄瑠璃本を相当読み込んでいないと意味がわからない絵も多く、当時の土佐での浄瑠璃の人気に思いを馳せた。

一番よかったのが、「判官切腹」。
展示では、現地の祭礼と同じように大きな櫓にはめ込み、高い位置に置かれていた。これはとても素敵な展示方法。あべのハルカス美術館はとても小さい美術館だけど、凝った展示だと思った。
しかし、実はこの作品は本来看板絵ではなく、屏風絵。旦那衆の注文で描かれたものだと思われるので、座敷で「ハ」の字型に二つ折にして置かれる想定の構図なのではないかと思う。そう考えると、由良助は異様なほど塩谷判官に顔を近づけて断末魔の苦しみを見据えていることになる。サイズもかなり大きく、高さ163cmあるので、実際に座敷に置いたときには、登場人物たちは人間の実物サイズに見えてくるのではないだろうか。
本当に異常な絵だけど、「判官切腹」とは本当にこんな話なのだと思う。

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文楽現行上演にない画題も多かったが、ここ数年、廃曲を含めた浄瑠璃本講読を続けてきたため、幸いほぼすべての画題の内容が理解できた。この曲が上演されていたころ(あるいは義太夫のみや浄瑠璃本で知られていたころ)は、人々は浄瑠璃のなかにこのような情景をみていたのだろうかと思った。

高知県外での絵金の大規模展示は50年ぶりのようだ。絵金の作品は、高知県立美術館等などのアート施設が所蔵しているものもあるけど、多くは現地町内会等が管理しているらしい。次は現地の祭礼などで飾られている様子をぜひ見てみたい。夏祭りの時期に高知へ長期滞在して見に行きたいと思う。

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*1:備考。玉男さんの由良助は玉志さんほどには大急ぎには見えず、急ぎ足で堂々としている。塩谷判官を目の当たりにしても、しっかりと塩谷判官を見据えて、若い主君を落ち着かせるように振舞っているように見える。少なくとも塩谷判官が息を引き取るまでは動揺しない。国元で急報を受けた時点で、すべての運命は決まっているから、あとは主君の最期がいかに穏やかであるべきかということだろう。