TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 大阪7・8月夏休み公演『かみなり太鼓』『西遊記』 国立文楽劇場

コロナ第9波の中での夏休み公演。8月頭の休演日に、急遽、以降4日間の公演中止が発表された。会期前半に休演者が続出していたから、許容人数を超えてしまったのか。当初発表された中止期間のみで公演再開ができたから良かったが、おじいちゃんが多い業種だし、どう対策していくのだろうか。

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夏休み公演恒例、第一部、親子劇場。

初心者向けをうたう鑑賞教室公演は「初心者」がほとんどいない場合がしばしばあるが、親子劇場は本当にお子さんがワシャーーーーッといる。今回は中止期間開けすぐの日曜日に行ったが、第二部、第三部よりもお客さんがたくさん入っていた。



1本目、かみなり太鼓。

小佐田定雄による平成期の新作。天満の太鼓職人一家のもとに自宅警備員系「かみなりさん」のトロ吉がやってきて、一家の助けを借りて太鼓の修行に精進し、立派な「かみなりさん」となって天へ帰っていくという話。2014年初演、2019年再演に続く、3度目の上演。

内容・演出は基本的に2019年上演と同じ。
トロ吉が天から落ちてくるとき、ぬいぐるみを「体育座り」に丸めたものを上から落としているのが庇にワンバンしていて、「絶対死んだ」と思った。トロ吉ママのお手紙が読み上げられる際、隣の席の子供が「とろきちのおかあさん、かわいそう」と辛辣なことを言っていた。客席のお子様にそう思わせる、玉佳トロ吉なのであった。
クライマックスでトロ吉がお空へ旅立つ際、過去の公演では花道から客席上への宙乗りをしていたが、今回は本舞台上の宙乗りだった。黒雲リフトは改良され、ぶら下がった雷部分にLED電球がつけられてデコトラのように光っていた。

 

そういう改良はいいんだけど、おとうちゃんが別人になってはる!!!!!!!!!!!!!!!
別人っていうか、かしらが前回と変わっていた。
前回は、「端役」のしょくぱん風フェイスのかしらだったはず。プログラムのかしら割にも端役となっている。ところが今回の実際の舞台では「手代」になっている。1Fロビーの絵看板にも手代として描かれているので、かしらの故障等による緊急の差し替え措置ではないと思われる。なぜ変更したのか? おとうちゃん、いわゆる手代の性格ではないので、ちょっと違和感がある。
おとうちゃんはフンイチで登場し、「このさきっちょの布を肩にかければ外出OK」というようなことを言っていたが、第一部を見る前日、神戸へ行ったら、住宅街の中を海パン一丁で闊歩しているおじさんを目撃した。関西ではパンイチも外出着として認められているんだなと思った。

かあちゃんには足があった。

寅ちゃんのたまはまっすぐに降りていた。

トロ吉のおへそはでべそ。

 

義太夫大阪弁、といわれるが、古典演目だとそもそも文章が近世上方語(=古語)で構成されているため、現代の大阪弁と距離があるゆえに、私個人としては大阪弁云々より、まずは近世らしさをしっかり踏まえてくれやという感想が大きい(「くゎんしょうじょう」といった合拗音、「しゃべつ」などの現代語との発音・意味違いがある言葉の認識など)。
しかし本作は「新作」であるぶん、セリフが現代大阪弁になっている。そうなると、古典演目よりもイントネーションの不自然さがかなり気になってくる。大阪弁でなくとも関西弁の範疇に落ちればいいと思うのだが、たとえば、本作の基本用語である「かみなり」のイントネーションがおかしい人がいるよね……? 「か」の入り方が不自然というか……。ところどころ標準語のイントネーションが混じる人がいたり、今回の太夫、全員、非関西弁圏出身……? と思った(調べていないので実際のところはわかりません)。脚本上、非ネイティブにもわかる程度の言葉遣いになっているのは確かなのだが、どのへんまでをよしとするかは要検討かなと思った。

 

全般に、せっかく再演するなら、技芸の向上、詰めを見せて欲しいと思った。

 

『かみなり太鼓』専用(?)幕。なぜ妖怪(付喪神?)なのかは不明。

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↓ 2019年7・8月大阪公演での『かみなり太鼓』感想

 

  • 義太夫
    豊竹希太夫、豊竹靖太夫、竹本小住太夫、竹本碩太夫/鶴澤清馗、鶴澤清𠀋、鶴澤清允、鶴澤清方
  • 人形
    寅ちゃん=桐竹勘次郎、おかあちゃん=吉田簑紫郎、おとうちゃん=吉田勘市、かみなりトロ吉=吉田玉佳

 

 

 

解説。

内容は鑑賞教室でやっている人形解説だったが、紹介する演技をこのあとの舞台で見せるわけでもないので、子供向けにアレンジしたほうがいいのではと思った。

 

本来は体験コーナーが設けられていたようだが、公演中止期間直後ということで中止。代わりに質疑応答コーナーが臨時設置されていた。
「さんにんの、いきが、あわなかったら、どうなっちゃうんですか」という質問が出ていた。私が代わりに答えたろかと思った。

真剣な話として、舞台稽古が1回しかないことについて「毎日の舞台が練習です」と言うのは、よくよく考えたほうがいい。客は「練習」を見学しにきているのではない。手前の都合でしかない「お為ごかし」を「美談」かのように語ってしまうのは、「伝統芸能」の非常に悪いところだ。
師匠や先輩の言葉を右から左へ流すように喋るのではなく、その質疑を通して文楽について何を伝えたいのか、お客さんにどう聞こえるのかを十分に考えたうえで発言してほしい。毎日の舞台が練習ですと言って許されるのは、簑助和生レベルが「おれは永遠に慢心せん!!(狂)」の意味で語るときだけではないでしょうか。

 

  • 解説=吉田簑太郎(前半)/桐竹勘次郎(後半)




2本目、西遊記

あらすじ

閻魔王宮では、閻魔大王〈吉田文昇〉&赤鬼〈吉田玉延〉&青鬼〈吉田簑悠〉が死人の裁断に勤しんでいる。やってきた唐の太宗皇帝〈桐竹亀次〉は自らの早世を儚み、蘇生を望む。閻魔大王は寿命は天命として変えられないと告げるが、そこへ踊り込んだ孫悟空〈吉田簑二郎〉は「なんでワシが死ななアカンねん」とクレームをつけ、閻魔大王が持っている閻魔帳の寿命を塗り潰してしまう。また、悟空は太宗皇帝の寿命ページにも書き加えをして天命を伸ばす。喜んだ太宗皇帝は、悟空へ玄奘三蔵の天竺への旅の護衛を頼む。悟空と太宗皇帝は觔斗雲に乗って地上へと帰る。

太宗皇帝の王宮の庭には、西王母の桃の木が生えていた。女官たちがこの桃を食べると寿命が伸びると噂していると、悟空がやってきて桃をすべて打ち落としてしまう。悟空が桃を持ち帰ろうとすると、桃の番人の才覚延〈吉田文哉〉がやってきて叱りつける。悟空は逃げようとするものの、木の根につまづいて転倒し、才覚延らに捕らえられてしまう。

(ここまで人形黒衣、以降人形出遣い)

才覚延に捕らえられた悟空は、油が煮えたぎる釜でいまにもフライにされようとしている。窮地に陥った悟空が呪文を唱え、天に向かって息を吹きかけると、空に虹がかかる。才覚延の手下は悟空を釜へ放り込むが、手下たちが油はねに気を取られているうちに、悟空はいつの間にか空に浮かんでいた。悟空の呪文によって釜へ放り込まれた才覚延は大騒ぎ。そのすきに悟空は天高く舞い上がっていくのだった。

2016年親子劇場から7年ぶりの西遊記もの。

孫悟空のかしらが明確に「人間ではない」のは良かった。能面には「泥眼(でいがん)」という狂気を表す面があり、目の白目部分が金の塗料で塗られている。ただ、金色は言われたらわかるという程度で、現在の能楽堂の照明では目立って見えることはほとんどない。だが、「孫悟空」のかしらの目はガラスでできているためか、人形の顔に陰が落ちるときでもピカピカと金色に光っており、異形の佇まいが出ていた。

青鬼はうんこしそうだし(子供があのポーズをとりはじめたらトイレへ連れていかなくてはいけない)、太宗皇帝は傾いてるし、閻魔大王は落ち着きがないし、地獄は大変なことになっていた。地獄の炎を風に吹き上げられ揺れ動く布と照明で表現していたのは迫力があった。
地獄で悟空が閻魔帳の寿命のページを塗りつぶすところは、小道具の「お習字」的なものに実際にグルグルと線を書いていた。ただ、その線が細すぎて、前方席から見ても塗りつぶされているように見えなかった。舞台上で実際に墨を使ってベタベタ塗るのはできなかったのかな? 『絵本太功記』「妙心寺の段」では光秀の人形が墨汁と筆を使って句を書く場面があるし、取り扱いに気をつけさえすればできると思うのだが……。

桃園のシーンの桃のぬいぐるみがぺしゃんこなのが可愛かった。蟠桃(中国の平たい桃)? モルモット用の座布団って感じだった。孫悟空の持っている如意棒は、振るとシュッと伸びる構造の何かを改造して作られているようだった。

宙乗りでは、觔斗雲に乗るのではなく、舞空術的に宙に浮いている設定。宙を力強く踏みしめていることを表現するため、半着ぐるみ風(人形使いの下半身に人形と同じたっつけ袴的な衣装をつけ、人形の上半身をそれにつなげて見せる)にしていた。簑二郎さんはわりと小柄なので、自然に見えていた。

 

上記のように細部は可愛らしくできているのだが、戯曲としての内容・演出のレベルが非常に低いことが気になった。

場面は3場(3段分)あるのだが、登場人物に相互の関係性がないためドラマがなく、3場のあいだにストーリーとして有意な関係性がないため、「話」になっていない。そもそも「西遊記にこんなシーンあったっけ?」という場で、なぜこの3場を抜き取って上演しようと考えたのか、疑問に感じる。(というか、近隣の席の子供さんらは、「西遊記」自体を知らないと言っていた。「孫悟空」=ドラゴンボールのイメージらしい。親御さんが「図書館行って西遊記の本借りよー」と言っていた。世間一般ではどうなのだろう?)

「ケレン」的な仕掛けは散漫。細かい「工夫」はいろいろとあるものの、チマチマしていて効果は小粒。物語に立体感が出ていない。また、客席上の宙乗りを併用するにしても、舞台のどこに注目したらいいかわからなくなって、逆にノッペリとしてしまっていた。文楽はセリフ類が床に集約されているため、「声のする方」に目を向ければいいという手法が使えない。そこには照明などで工夫があるべきだったと思う。

ここまでのケレン連発は「文楽では」珍しいかもしれないが、世の中一般のエンタメはもっと「派手」。「文楽は普段はケレンとかなくやっている」という前提を共有している常連客に向けて他愛なくやってしまっていると思う。
それならそれで「軽い景事」と位置付けることも可能だろう。その考えで『西遊記』→『かみなり太鼓』の順で上演したほうがよかったのではないか*1。話がなさすぎて、「こんな薄っぺらいもので終わり?」感が拭えなかった。

 

あまりにもひどすぎないかと思い、過去の『西遊記』『五天竺』上演時の劇評をあたってみたところ(主に1980年代の上演)、今回の私の感想とほぼ同じ所感が挙げられていた。

文楽の魅力とは何か/文楽でしか表現できないものは何かという研究が必要で、ケレンは人を驚かせなければ意味がなく、アニメーションやSFX映画に慣れた現代の観客はなまじのメカニックな仕掛けでは驚かない云々……。

本当にその通りで、なにより、「喜怒哀楽のない猿の行動につきあうのはつらい」という批評、辛辣だけど、本当にそう。思わず太字にしちゃったよ。感情のない主人公というのは、浄瑠璃の根幹、最重要点を致命的に外してしまっている。

「桃園の段の悟空が木の根につまづくところで、人形の演技がつまづいているように見えない」という指摘のなされた劇評があった。実は今回公演で私もまったく同じことを思ったので、ドキッとしてしまった。当時の孫悟空は簑助さんだったようだが、今回の孫悟空役の人は、悪いところまで引き継いでしまっているのか。簑助さんのほかの弟子にも、「つまづき」ができていない人に心当たりがある。40年の時を超えて欠点が改善されていないことに恐ろしさを感じた。

 

 

三味線は珍しく楽譜ありでやっていた。

 

 

なぜか全員孫悟空のかしらと同じ表情になっている写真。

 

 

↓ 2016年7・8月大阪公演での『西遊記 Go West!』感想。こちらは完全新作・演出。

 

 

  • 義太夫
    竹本三輪太夫、竹本津國太夫、豊竹亘太夫、竹本聖太夫、豊竹薫太夫/竹澤團七、鶴澤友之助、野澤錦吾、鶴澤燕二郎
  • 人形
    閻魔大王=吉田文昇、赤鬼=吉田玉延、青鬼=吉田簑悠、太宗皇帝=桐竹亀次、孫悟空=吉田簑二郎、番人才覚延=吉田文哉

 

 

 

「親子劇場」は確かにほほえましい企画で、技芸員さんたちの「お子さんに楽しんでもらいたい」という気持ちも感じ取れる。

ただ、たとえば古くからの観光地で、観光促進の「現代化」がスベっているものがしばしばあるけど、そういうのと近い、なんともいたたまれない感覚も感じる。地元の人が頑張ってるのはわかるんだけど……的な、なんともいえない気持ちになるというか……。企画そのものの洗練性のなさが、こういった所感につながっている気がする。

西遊記』がとくに顕著だが、そりゃ、「子供向け」に、「わかりづらい要素」をどんどん排除していけば、こうなるだろう。でも、「わかりづらい要素」を排除すれば、「面白いもの」になるわけではない。何を見てほしいのだろう?

『かみなり太鼓』は、非常に工夫のある作品だ。しかし、いま、数十年前の新喜劇的なノリをやることがどう見えるのかは考慮がいる。この作品、最初に作られてから10年ほどが経っている。当時も「レトロ路線」だったと思うが、だんだんと本当に古くなり、現代の親子世代ではなく、その祖父母世代以上向けになってきていると思う。そもそもが年配者に「懐かしい」と思ってもらおうとしている懐古主義的な内容だよね。私自身は土曜の昼下がり的なノリは嫌いではないが、いまこのノリをそのまま差し出すことで、文楽がどのようなイメージを持たれるのか。
また、今回の番組編成だと、市井の庶民を主役にしたコメディ調の話としては、第二部『妹背山』の「井戸替」「杉酒屋」のほうがはるかに面白い。親子劇場で『妹背山』やるのでよかったのでは、と思った。
バランスの問題がいろいろとあるのかもしれない。

企画自体だけでなく、プロモーション・施策等含め、いろんなことを「身内」だけで回してしまっているせいで、感覚が世の中から置いていかれていることに気付けなくなっているんだろうと思った。(辛辣)

 

 

 

付記 文楽の「西遊記」について

現行『西遊記』と銘打たれている演目は、江戸末期に作られ、人形浄瑠璃では明治期に断絶した『五天竺』*2をもとにアレンジを加え、昭和期に復活・新作化されたものである。

といっても、『五天竺』自体は、いわゆる「西遊記」の話ではない。仏教の広まりをモチーフとしたインド・中国の広域にわたる様々な出来事を描く壮大なストーリーで、釈迦の事績+玄奘三蔵の事績を交互に描く構成になっている。そこに彩りとして西遊記要素が若干入ってくるという仕掛け。メインストーリーでは、釈迦は王宮を出て修行に邁進し、三蔵は紆余曲折の末に長安を旅立ち(サル・ブタ・カッパがくっついてきながら)、最後に二人は祇園精舎で邂逅を果たす。

え? 釈迦と玄奘って生きてた時代が全然違うんじゃ?

と思ってしまうがそこには目をつぶってください。大石蔵之介だって史実では切腹前の浅野内匠頭に会えないけど、みんな喜んで『仮名手本忠臣蔵』見てんじゃん。
とにかく、ドラマの中心はこの2人やその周辺人物で、彼らの悲哀が物語のエンジンになっている。また、灌仏会、「貧者の一灯」など仏教にまつわる有名な説話が多く取り込まれており、魔王や観音菩薩が起こす非現実的な奇跡の場面も見せ場となっている(生き返り・転生あり)。神仏の奇跡があり、そのうえ場面がポンポン転換していくこともあいまって、人間ドラマの詰めが甘くなっている感は否めない。

西遊記要素は薄いものの、「悟空がお釈迦様の手の上から逃れられない」等の有名な展開は踏まえられている。*3

今回上演されている「閻魔王宮の段」「桃園の段」「釜煮の段」は、『五天竺』でいうと「地獄の段」「人参果の段」「釜煮の段」という段にあたる。内容的にはほぼ同等。現行「桃園の段」のみ、「人参果の段」とは設定がやや異なっている。『五天竺』の「人参果の段」で悟空が勝手に取って食おうとするのは、「人参果」という、人間の赤ん坊にそっくりな形の木の実。効能は寿命延長で、西王母の桃(不老長寿)とほぼ同じである。なお『五天竺』にも「桃園の段」と名付けられた段があるが、話の内容は異なっている。天界に生えている西王母(天帝の娘)の桃の番を命じられていたはずの悟空が桃を食い散らかすわ仙薬を全部舐めるわで観音様が激おこする話。

昭和期の『五天竺』『西遊記』の上演記録を調べてみると、わりと面白い(であろう)段も上演可能のようだ。のちに玄奘三蔵となる赤ん坊を盗賊に捕らえられた母がやむなく捨てる「白蓮子別れの段」、経山寺の和尚に拾われ稚児となっていた玄奘が転生した父母に再会する「経山寺の段」、転生した玄奘の父母は盗賊を討つも、盗賊の妻がそれを恨み、天竺へ向かう玄奘一行へ罠を仕掛ける「一つ家の段」(猪八戒が仲間になる段でもある)など、浄瑠璃としてそれなりにドラマが成立している段がレパートリーに存在している。

 

 

 

┃ 参考資料

『五天竺』の全文は、国立劇場芸能調査室・編『未翻刻戯曲集8 五天竺 付・二世豊竹此太夫について』(国立劇場芸能調査室/1981)で読むことができる。

ただ、入手しにくい本なので、国会図書館デジタルコレクションに収録されている明治12年(1879)5月文楽座での『五天竺』上演時の筋書を読むと、全体のあらすじ&明治期の演出がどのようなものであったのかがわかり、参考になる。
地獄には、赤鬼・青鬼以外に、黄鬼がおったらしいで。(黄?????)

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同じく国会図書館デジタルコレクションに収録されている斎藤清二郎『文楽首の研究』(1943)に、明治大正期に使われていたと思われる「孫悟空」のかしらの写真が掲載されている。うーーーーん。猿やな。

※利用者登録していれば自宅閲覧可




 

 

*1:調べてみると、『かみなり太鼓』の初演時(2014)も『西遊記』との抱き合わせで同じ順の上演だったようだが、その際の『西遊記』はまだドラマ性のある段をもってきてきていたようだ。

*2:文化13年[116]7月初演、大阪御霊境内芝居初演、佐川藤太、吉田新吾近松梅枝軒の合作。

*3:本来は「お釈迦様の手の上」だが、『五天竺』では「観音様の手の上」。本作は釈迦と玄奘が同時代に生きている設定であり、また、お釈迦様誕生以前に悟空がイキる話を持ってきているため、お釈迦自身様は登場できず、かわりに観音様が出動する。観音様、悟空がしょうもないヤラカシをやると走ってきて注意するなど、お忙しいです。