TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 8・9月東京公演『菅原伝授手習鑑』三段目〜五段目、『寿式三番叟』 国立劇場小劇場

例年9月東京公演は第一か第二土曜日が初日のところ、「さよなら公演」のためか、繰り上げて8月31日初日というイレギュラーなスケジュール。会期が通常より長めの設定となっている。

 

 

第一部〜第二部は、『菅原伝授手習』。5月公演の続きで、三段目から五段目まで。普段は上演されない四段目「天拝山の段」「北嵯峨の段」、五段目「大内天変の段」もつけて全段上演となった。

天拝山の段」がよかった。
番組編成の都合なのか第二部の最後、「桜丸切腹」の後に入っているが、本来は四段目の冒頭に位置する段。「北嵯峨」・「寺入り」の前にある。
舞台は都周辺から離れ、九州太宰府。筑紫へ流された菅丞相のもとにたどりついた白太夫は、往時と変わらず、牛を牽いて軽口を叩き、焦燥した丞相を慰めている。しかし菅丞相は、都から来た時平の手下が時平の陰謀を暴露するのを聞き、怒り狂って雷神と化し、都へと飛んでいくという話。
「普段は上演されない段」というのはえてして微妙なものだ。『平家女護島』の「舟路の道行より敷名の浦の段」とか、上演ないほうがむしろ面白いまであるし(極論)。しかし、「天拝山」はかなり面白く、興味深い内容だ。怒りを発した菅丞相が梅の花を口に含むと炎を吹き出すという、花火を用いた演出が有名だが、花火がどうとか、そういう問題ではなかった。
菅丞相のすさまじい豹変ぶり。尋常じゃないブチ切れに、白太夫も「そんなの今わかったことじゃなく、はじめからわかってたじゃん」みたいなことを言ってなだめようとするが、そんなこと聞いちゃいない菅丞相は天拝山へ駆け上がり、雷神となって飛び去ってゆく。
文楽の物語は基本的に人間の世界の話であり、神仏の奇跡が起こらないからこそのドラマが紡がれる。しかしこの段では、人間としての感情が極限的に高まった結果、菅丞相は神になってしまう。菅原道真は今でこそ受験生にありがたがられる「なんか頭よさそうな神様」だけど、『菅原伝授手習鑑』が初演された当時は、ハイパワーな怨霊、御霊(ごりょう)としての存在感が人々の意識の中にまだ強く残っていたのだろうか。
人形の動きは、もはや人ではない。上品とか下品とかそういった次元ではない超常的な所作となり、あえていえば『小鍛冶』の稲荷明神に近い神々しさがある。かつてはもっと見せ物的な意味合いがあったのかもしれないが、玉男さんの強靭な動作によって、この世ならざるものを目の当たりにしているように感じられる。人間どころか人形とすら思えない。定式幕が閉じられてやっと人心地つく。なぜ人間が神にまつりあげられ、御霊となったのか納得させられる演技だった。
和生さんが菅丞相をやりたいと思っている(いた)話は知っているし、なんなら学者官僚としての気品や知性は玉男さんより玉志さんのほうが向いてんじゃねと感じていた。しかし、この段を見ると、菅丞相は玉男さんにこそふさわしい役だと思わされた。

 

珍しい段を入れ込んでいるとはいえ、今月の番組の並べ方では、「見取り」だと感じた。むろん、本当に通し狂言にすることができなかったという企画不備が最大の問題だ。それには強く抗議したい。
ただもうひとつ、いかにもな「見取り」感が出てしまっているのには、人形に物語を語ることのできる人が配役されていないこともあるのではないかと思った。
私は、浄瑠璃の物語には大きな流れがあり、文楽の舞台ではその「流れ」を表現することが非常に重要だと考えている。いうまでもなく、太夫三味線は演奏の緩急大小でそれを表現することを目指している。対して、人形遣いの場合、浄瑠璃の「挿絵」「絵解き」的な表現を志向する人と、みずからも物語を語ることを目指す人がいると思う。私は、みずからも物語を語ろうとする人形遣いを見たいと思っている。
「物語を語る人形遣い」とは何か。最近、プロモーションの一環として、国立劇場文楽劇場が舞台のダイジェスト映像をSNSに流している。有名シーンをブツ切れにして寄せ集めた、ある意味ひどいシロモノだが、あれで見ると、和生さんがずいぶんバタバタしているように見える。和生さんはゆったり落ち着いた所作をしているイメージだから、こんな力いっぱいにバッ!ザッ!と動いているなんて、意外だ。そう思うのは、和生さんが「流れ」を大切にして、メリハリをつけた演技をしているからなのだろう。彼女や彼の動きは物語の描く波や渦とシンクロしている。ゆえに、盛り上がったところだけ切り取ると異様に見える。実際の舞台では、和生さんの人形を見ていると、自然と物語の流れに溶け込むことができる。「物語を語る人形遣い」というのは、このことだ。「物語を語る人形遣い」は周囲の役にも影響を及ぼし、物語に巻き込むことができるため、一人いるだけでも、相当、強い。演技は一連の流れであり、ワード単位に結びついた説明ではないというのは、重要なことだ。

あらためて「佐太村」「寺子屋」を読み返すと、細かいところまで非常に作り込まれたストーリーであることがよくわかる。それに呼応した舞台であることを望む。

 

 

 

以下、各段の感想。あらすじはリンクをご参照ください。

 

 

 

第一部、車曳の段。

冒頭部、道で出会った梅王丸〈吉田玉佳〉と桜丸〈吉田勘彌〉が密かに語らうところは、いままでに見た車曳の中でも最も良い。清廉な若々しさがあった。

玉志さん〈藤原時平〉は本当に神経が細かいと思った。文楽の悪役独特の大嗤いを、ちゃんとひと嗤いひと嗤い、フリを変えている。文楽では本当に嗤いが長いから、単に首を振ったり口をパクパクしているだけでは途中で見飽きてくるけれど、少しずつ、首の振り方、口の開け方を変えている。4月大阪公演の『妹背山』蘇我入鹿役もそうだったけど、本当によくやるよなあと思った。謎にエネルギーが有り余っており、そこまでやるかというほど異様に力みはじめるのが、らしいというか、すごい。

 

梅王丸、松王丸、桜丸の三人は、前髪がある姿をしている。これは、中世の牛飼い童が生涯童子形で過ごしたことを踏まえているのか(社会的身分が低い人は童子形でいつづけることを強要された)。それとも、もっと単純な話で、元服してなけりゃ「前髪」という江戸時代のルールを適用しているまでの話であり、設定として彼らは本当に若いということなのか。

 

 

 

茶筅酒の段〜喧嘩の段〜訴訟の段〜桜丸切腹の段。

桜丸は簑助さんが独占的に演じてきたが、今回は勘彌さんに配役。
生きてる、って感じだった。簑助さんの桜丸は儚げで、のれんから出てきた時点で半透明になっているようだったが、勘彌さんの桜丸は生気があり、まだまだ十分元気に生きていける将来ある青年という印象が強かった。八重の「なぜ死ぬのじゃ」という問いかけに似合う像だ。
切腹のくだりは、もう少し役に慣れれば印象が変わっていくだろうか。現状だと、なりゆき的に流れていっているように思った。ただし、桜丸自体は動きが完全に決まっていて制約が多いため、周囲の役が桜丸を引き立て、ドラマをより盛り上げていかないといけない。そういう意味で、何をやってるのかわからなかったかな。よく言えば過渡期的な演目になっているということだろうか。

これまで白太夫は玉也さん、和生さん、玉男さんと様々な配役を見てきた。今回は勘十郎さん。やる人によって随分印象の変わる役だと感じる。
勘十郎白太夫は、なんというか、「おい、これ、素じゃねえか?」と感じさせるところがあるリアルジジイだった。和生義平次とはまた違うジジイぶり。言っていいのかどうかわからないが、あまり首を動かさず、目線が下がっているのが、マジモンのジジイっぽい。微妙に相手に目を合わせていないというか……。こういう高齢者、いますよね……。そもそも勘十郎さん自身がトークショー等で「自分の番じゃない」とき、こういう「無」の目線で微妙にうつむいてるし……。ただ、人形でやると、「おじーちゃん、そろそろ認知症が出てきたのかな?」感が妙にリアルで、微妙に怖いッ。
太夫で配役による違いが出やすいのは、「八重が誕プレに持ってきた三方を見たときの反応(茶筅酒の段)」と、「氏神参りからの帰宅後、桜の木が折れているのを見たのときの反応(訴訟の段)」だと思う。いずれも、周囲は無意識にやっていることだが、「結末」を知っている白太夫の目には桜丸の死を暗示するものである。勘十郎さんの場合はシンプルに「後ろにいくほど慟哭が大きくなる」という解釈でやっているようで、三方にはノーリアクション、折れた桜をずっと見ているという演出でやっていた。三方をスルーしたのは意外だったが(極端な演技として箸を落とす人もいるので)、折れた桜については、あそこまでじっと見ている人、初めて見た。
介錯の鉦の「外し打ち」をしなかったのは、なぜ?

太夫は段切、旅装束になって庭へ降りた際、松の木に向かって杖を振り上げる。この演技自体は決まった演技だ。ただ、配役によって振り上げの印象が異なっている。人によっては、すぐに杖を下ろす。白太夫は本当に松王丸を「悪いやつ」だと思っていたのかどうかの解釈の違いだろうか。
私は、この演技自体が白太夫の性根とズレているように感じる。聡明な白太夫が松王丸の心のうちを一切察していないとは思えない。様子がおかしいと気づいているはず。振り上げるとしたら、家族の離散をあまりに無念に思うゆえの一瞬の八つ当たり、自身の心情に対する困惑だろうか。

春〈吉田清五郎〉と千代〈吉田簑二郎〉は、そこいらは絶対いぬのおしっこスポットだろってところの草を抜いていた。あの葉っぱ、どんどん色褪せてきてるような気がする。
春は上手い。顔が細いかしらなのか、構え方なのか、かなりすっきりとした顔立ちに見える。ひねって座る姿勢もいつもながらきれい。動きが妙に素早いのは気になる。
クッキングの大根は、半分くらいたくあんになりかけていた。最近はうちの近所の八百屋の大根も弱っている。

 

『菅原』の主人公は、完全通しで見れば、桜丸なのだろうと思う。全編でもっとも出番が多く、彼の目線で展開する場面も多い。でも、分断すると、よくわからなくなる。と思った。

 

 

 

天拝山の段。

冬の田んぼが見える田舎道、梅の花が咲く安楽寺の境内、闇に包まれた岩山の頂の、3場面の大道具が出る。

菅丞相は、「丞相」というかしらを使っているそうだ。俊寛の顔色が悪いver的な感じか? ただし、途中で面相が替わる演出があり、出てきた時点では俊徳丸(摂州合邦辻)のように面をつけた状態になっている(と思う)。そのためかのっぺりとメリハリに欠ける表情で、違和感を覚えた。怒りを発して面を落とすと、痩せこけた蒼白な表情になる。ここからが文楽のかしらとしての本領発揮である。玉男さんの演技力を考えると、はじめからかしら素のままでも成立すると思う。初代吉田玉男が装飾的なからくりのあるかしらをすべて廃止してこれに至っているようだが、もう、面もいらないんじゃないかしら。

衣装はライラックに白の梅の紋が縫い取られた綿入りの羽織、白の着付、淡いミントグリーンに白で梅の紋を縫い取った裾絞りの袴。凄惨な表情のかしらと若やぎを感じる衣装がチグハグに感じるが、どういう演出意図なのだろう。
怒りを発する演出として、頭頂部の毛髪がもふ!もふ!と膨らむのがおもしろかった。にわとりみたいだった。

うしがしつこすぎて笑った。うし、出番多すぎやろ。色違いのうしも用意してほしい。菅丞相が女子高生のように横座りでうしに乗っているのも最高に良かった。

 

ここでの白太夫を見ていると、勘十郎さんが「新作では喜劇(ハッピーエンド)をやりたい、文楽は悲劇が多いから」というようなことを語っている理由がわかる気がする。佐太村より人形の佇まいが明らかに自然だ。白太夫の元来の朗らかさだけでなく、菅丞相に気を遣ってわざと明るく振る舞っていることもきちんと滲んでいる。佐太村よりこちらのほうが役を自然に捉えられるということだと思う。むしろこちらを自然にかつしっかりと見せることのほうが、本来は難しいと思う。
文楽は悲劇を主体として発展してきた。ゆえに、悲劇への理解力、描写力が高い人が圧倒的に有利な芸能だ。悲劇以外の道を選ぶことはできない。「世襲」だと、素質と関係なくそこから逃れられない。

 

 


ここから第二部。

寿式三番叟。
やること自体が目的の祝儀演目だが、国立劇場再建の目処が立たず、東京公演の今後の先行きの見えない状況でこんな演目見せられてもなという気持ちが拭えない。以前の『寿柱立万歳』と同じく、押し付けがましく感じる。出演している技芸員さんたちを思うと、いたたまれない。

三味線の人数が多すぎて、出語り床は三味線でいっぱいになり、太夫の三番叟役以下の人は本舞台にはみ出しすぎて、見えない状態になっていた。そして普通に揃っていなかった。(え?)

咲さんの全日程休演は残念。わかっていたことではあるが……。配役変更の影響で、「そんなコテコテの千歳がいるわけないだろ!」って感じの千歳が爆誕してたのは笑った。鈴木則文ワールドからまろび出てきたのかと思った。

 

人形は、能の動きを参考にしたほうがいいのではと思った。世間に流布している能のイメージをなんとなく(それこそイメージで)やっているのだと思うが、実際の能楽の動きを取り入れたら、平板になることはないと思う。
三番叟は、どうせなら一番若い子にやらせればよかったのにと思った。

(「思った」が多い文章)

 

 

 

 

北嵯峨の段。

林の中の質素な家の大道具。門口に鳥居型の門が置かれている。人形黒衣。

内容はただのつなぎ、説明。これは上演されなくなるわな。昔は、隠れ家を急襲する時平の手下をおバカキャラにしてチャリ展開を盛り込む増補版も存在していたようだが、確かにそれくらい盛ってないと間持ちしない。

それにしても法螺貝がまじうるさくてびっくりした。わざとそうしているのだと思うけど、義太夫に対して変な合間で入ってきて、本当に耳障りで、すごい。私が春ならほうきで1000回ぶっ叩き、先端の柴のトゲトゲでケツを突き刺しまくっていた。

 

 

 

寺入りの段〜寺子屋の段。

床は良い。特に寺子屋の後。床が回ってすぐに清治さんが弾き始めたため、源蔵と戸浪の人形が止まっている時間が短く、話の繋がりがスムーズだった。最初に言うのそこかいって思われるかもしれないですけど、貫禄を出したいのか、話をよくわかっていないのか(?)、しばらく止めちゃう人がいるじゃないですか。清治だからこそ出来ることだよなあと思った。
太夫さんにせよ、呂勢さんにせよ、もはや「おりこう」な感じでなくてもよいのではないかと思った。誰をどう見せたいかといった個性がもっとはっきり立ってくるほうが、客としては楽しい。
呂勢さんはそのあたり王道から踏み外したくないというタイプなのか。王道をいくには声にクセがありすぎることを考えると、自分の声を立てることのできる設計でやったほうが「らしさ」が活きるように感じる。それとも、まだ「未熟」だから、我流でいく前に基礎を盤石に固めようとしているということなのか。演奏自体は上手いと思うんだけど、贅沢な感想かな。
太夫さんも、はたして本当に若太夫と同じ演目を得意とする……ように立ち回る意味があるのだろうか。世話めいた演目のほうがはるかに適性が高く、そちらこそが本人にしかできない至芸になると思っていたのだが……。同じ演目にしても、別に若太夫のなにもかもが完璧なわけでもなし(どの名人もそうだけど)、自分にしかできないことを強調したほうがいいように思う。文楽のお客さんのすべてが、大声で派手に語ることだけが上手いすごいと思っているわけではないだろうに、個性と違うことを求められる/求めてしまうのは、「世襲」に囚われたゆえのことなのだろうか。

 

玉也さんはうまいとこ突いてるなと感じる。いろいろな意味で古風、人形芝居の荒唐無稽な面をいかした遣い方、芸風の人だと思う。しかしよく見ていると、かしらでの表現がしっかりとなされている。首(頸部)や肩の表現が多く、先にかしらを動かす意識が強い。その点は間違いなく現代の潮流の中にある。所作が大ぶりだったり、身体の動きがバタついていても、芝居として薄っぺらく見えないのは、そのためだと思った。
千代は、寺子屋はいいのだが、佐太村をもう少ししっかり立てておかないと、寺子屋の鎮痛さが活きないように思った。
寺子たちの遊びは、やること自体が一概にダメだとは思わない。が、いまの状況ではただの悪目立ち。6月の「判官切腹」の諸士のツメ人形もそうだったが、物語全体を見たうえで、その役の役割や程度を十分に考える必要がある。これはツメ人形や端役であってもその役のつもりになって遣うべき云々とはまったく別の話。

 

最近「寺子屋」は相当頻繁に出るが、舞台のレベルが上昇するわけではなく(そんなにすぐに「上手くならない」のは当たり前だけど)、よくも悪くも惰性になっていっているのかなと感じた。ここまで何度も「寺子屋」を出すのなら、出演者の個性を出した、そのときそのときの「寺子屋」を観たい。
個性というのはクセが強いということではなく、その人の考え方の強度のことだ。たとえば、通し狂言として初段の「筆法伝授」を踏まえると、源蔵はもっと強い自己主張を持った人物として語られて/演じられてよいと思う。彼はある意味、松王丸と同じかそれ以上の主役のはずだ。床だとたまに源蔵・戸浪を中心とした描写を行う演奏をする人がいるけど、その意図がよくわかった。人形の源蔵でも、もっと自己主張をする人を見てみたいと思う。

 

それにしても、松王丸って、なんで病気のふりしてるんだっけ……? 時平の舎人をやめる前振りのためだけにやってんのか……?

 

 

 

大内天変の段。

初段の「大内」と同じく、御殿の大道具。雷に見舞われる御所に、斎世親王・苅屋姫・菅秀才がやってきて菅秀才の菅家相続を願うが、菅秀才は時平にとっつかまってしまう。しかし、雷神となって荒れ狂う菅丞相の念によって、希世・清貫が雷に打たれて黒焦げ化。時平が慌てふためく中、桜丸と八重の亡霊が現れるという内容。

 

ずいぶん昔に文章で読んだことがあり、一度は観てみたかった段。「時平が玄蕃に“オメーがちゃんと確認せんと適当に持って帰ってきたから偽首掴まされたやろがい!”とブチ切れる」、「時平が耳から蛇を出す」ということは知っていたが、うーん、おもろ。あらすじでしかなく、時平のキャラクターが破綻しているし、冗長と言ってしまえばそれまでなのだが、許せる。大阪7・8月公演で出た『妹背山』の最後の段よりはだいぶ良い。

時平はイキッているので、冠のピョコが長い。メタリックカラーなこともあって、アレが避雷針になってしまうのかと思いソワソワした。石井輝男監督の『異常性愛記録 ハレンチ』みたいな狂ったオチになるのではないかと……*1。雷が誰に落ちるかスリル満点。しかし、まっさきに雷に打たれたのは、希世と清貫だった。雷は小道具等では表現せず、強い照明で処理していた。ピカーッとしたライトに当てられてポーズをキメる人形は、古き良き時代のロックスターのようだった。
へびは、「そんなにリアルな必要、ある?」という、いつもの小道具のリアルへびを白にしたやつだった。小蛇じゃなくて、デカかった。時平が菅秀才を誘拐するくだり、「つかまえたっ!」が対面だっこだったため、子供をヨシヨシしてるお父さんみたいになっていた。あとは時平が玄蕃の首を素手でねじ切ったのが良かった。みんな笑ってた。(?)
桜丸と八重の亡霊が現れたり消えたりするくだりは、スーパーファミコン時代のアクションゲームのザコキャラのような動き。それはそれでいいのだが、出現のしかたなどを工夫しないとかなり冗長で、恐怖を伴ったリフレインにならない気がした。

 

前回のプログラムの解説に、『菅原伝授手習鑑』の菅丞相は、単に恨みをもった怨霊ではなく、時平の謀反から皇室を守護する意思を持った忠臣である、神ではなく人間だという旨が書かれていた。
私は、人間である限り人にはいろいろな側面があり、『菅原』は聖人菅丞相についてもそれを巧みに描いているがゆえに傑作であると思っている。人間のとある側面が極端化した雷神の姿も、その一端ではないか。実際には、「大内天変」の原文には「恨」という直接的な言葉が使われており、菅丞相の「恨」のために天変が起こっている旨が書かれている(現行では該当箇所カット)。プロットとして「実は菅原道真は怨霊ではなかった、ピンポイントで悪人だけ誅罰して忠義を果たした」と明確に落としているわけではない。合作ものでは段のあいだに矛盾が発生しがちということを抜きにしても、すべてに祟りをなす御霊の側面、神の側面を否定しなくてもいいのではと思った。

 

 

 

  • 義太夫
  • 人形
    舎人梅王丸=吉田玉佳、舎人桜丸=吉田勘彌、舎人杉王丸=桐竹紋吉、舎人松王丸=吉田玉助左大臣時平=吉田玉志、親白太夫=桐竹勘十郎、百姓十作=吉田勘市、女房八重=吉田一輔、女房千代=吉田簑二郎、女房春=吉田清五郎、菅丞相=吉田玉男安楽寺の僧=吉田玉輝、弟子僧=吉田玉征(前半)桐竹勘昇(後半)、鷲塚平馬=桐竹亀次、御台所=吉田文昇、星坂源吾=吉田玉路、菅秀才=吉田簑悠、よだれくり=桐竹勘介、女房戸浪=桐竹勘壽、小太郎=豊松清之助(前半)吉田和登(後半)、下男三助=吉田玉峻、武部源蔵=吉田玉也、春藤玄蕃=吉田文司、法性坊阿闍梨=吉田簑一郎、斎世親王=吉田玉翔、苅屋姫=吉田玉誉、左中弁希世=吉田玉彦、三善清貫=吉田和馬

 

 


天拝山」「大内天変」の上演があったのはよかった。

また、今回は床が全般に良かった。その人の考える人物像や場の雰囲気が伝わってくる段が多かった。多少スベッていても「気持ちはわかるで」と思える。これまでは「人形はいいけど床(太夫)がちょっと……」と思うことが多かったが、次第に逆転してきているのかもしれない。特に下のほうから良い流れが出来てきているのだろうか。

 

繰り返しになるが、やはり二分割上演では、「通し」の意味がないよね。逆に二段目と三段目のあいだで切ったらまずいことがわかった。この段のあいだは深い溝として設定されていて、そこで三兄弟の関係性が変わることに大きな意味が持たせられていると思う。桜丸の雰囲気がまったく変わってしまうのは言うまでもなく、松王丸が突然違和感のある言動をしはじめるのも、脚本上の設計だと思う。現行上演のないものも含め浄瑠璃をいろいろと読んでいると、松王丸のように、途中の段から何の説明もなく人格が豹変し、それを放置して物語がグイグイ展開するので「あれ?」と思っていると、最後にその豹変の理由が解き明かされ、なんらかの目的のために芝居を打っていたことがわかるという設計のものがよくみられる。『菅原』もそうした設計の物語だと思うが、二段目と三段目のあいだで切ると、桜丸は少女漫画風の美少年、松王丸は派手な主役でしかなくなり、「人には他人からは計り知れない様々な側面、内面がある」という『菅原』の物語の良さが消えると思った。
前述の、主人公としての桜丸の存在、極め付けとしての源蔵の狂気についても、やはり、分割しては表現し得ないことだよなあと思った。

 

『菅原』は、物語全般としては非常によくできた話だ。しかしこうして見ると、女性描写がどうにも弱い。近松もののように「女」であること以外に役割がないとまではないが、嘆く以外にやることがない。本来もっと見せ場があっていいはずの千代も八重も苅屋姫も、状況に対して受け身すぎて、いるのかいないのか、わからん。女性キャラクターの貧弱さは三代名作すべてにいえる、致命的な欠点だと思う。だからこそ、並木宗輔の絶筆であり、その弱さを脱した『一谷嫰軍記』はすごいのだが。
こんにちの舞台へかけるのならば、その段を語る人、その役を遣う人は、内面造形の解釈を深め、男性登場人物以上の工夫をこらさなければならないと思った。派手にやれとかドタバタしろとか、そういうことではない。かつて『心中天網島』の和生さんのおさんの現代的解釈には非常に唸らされた。そういった感性が必要なのではないだろうか。
なんか出てもいない和生をやたら絶賛してるな、この記事。

 

 

 

おまけ

もう最後だしと思って、国立劇場の隣にあるホテル「グランドアーク半蔵門」に泊まってみた。
部屋に大きな窓があり、眺望は抜群。高層ビルが周囲にないし、緑が多く半分皇居なので、余裕のあるゆったりと贅沢な景観を楽しむことができた。

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国立劇場の屋上はどうなっているのか気になって泊まってみたのだが、部屋が結構皇居寄りになった。それ自体は皇居の向こうの眺望まで見える良い部屋でありがたいけど、国立劇場はギリ、見えるかどうか。スマホのカメラ越しならそこそこ見えるものの、肉眼だと窓に貼り付かないと見えなかった。窓に貼り付く怪人になった。覗き込んで見てみると、なんか、線のようなものが引かれていて、それに沿って、テンテンのようなものが、あった。夜に皇居の森の中の街灯がついたり消えたりするのが面白かった。

ホテル自体は平成前期のシティホテルという感じで、端々にどこか懐かさがあり、滞在を楽しめた。いまさらですが、おすすめです!

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*1:不気味なストーカーに追われる女性を描いた映画。最後にキモストーカーが突如雷に打たれて死ぬというものすごいオチ。オチをネタバレすんなって思われるでしょ? ところがオチがわかっていても、いざキモストーカーが雷に打たれたら「え!????!!!!!」とツメ人形のようにメチャクチャ驚いてしまう、そんなエネルギーを持った異常映画。