TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 4月大阪公演『嬢景清八嶋日記』花菱屋の段、日向嶋の段『契情倭荘子』蝶の道行 国立文楽劇場

和生さんのことをお母さん、玉男さんのことをお父さんだと思い込んでいる節があります。

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第三部、嬢景清八嶋日記、花菱屋の段。
人形黒衣。

太夫さんの語りは、それぞれの人の個性的なキャラクターが出ており、街道筋の遊女屋の賑やかさ、集う人々の睦まじさが感じられ、楽しかった。向田邦子ドラマ的。

左治太夫〈吉田玉志〉は、ギャグ顔の肝煎(女衒)なのだが……、優しそうな雰囲気、若い娘さんが無防備に親しんできてくれる感じは、よくわかる。
それは置いといて、ビシ!!と毅然とした雰囲気と、糸滝への見守りオーラがすごすぎて、近所の学問所の先生か?って感じになっていた。見守りぶりが重い。糸滝がちゃんとお話できるか、ものすごい前のめりで始終見守っていた。花菱屋の人々に負けず劣らずの奇人だった。
かなり律儀そうで身だしなみも良く、あの居ずまい、学問所の先生じゃなかったら、大坂で三指に入る豪商だ。一人だけ、世界観が西鶴になってる感じがした。

糸滝〈豊松清十郎〉は、ソワソワしていて可愛かった。糸滝は、清十郎さんの人形のどこか病んだような雰囲気に合った役だと思う。何をそんなに気にしているのか、小動物のように落ち着きがなくクルクルとしているところは、簑助さんに近い。黒衣で見ると人形が浮き立ち、低くウネウネした動きが人外めいていて、不思議だ。(擬音語が多い文)

 

 

 

日向嶋の段。
景清ハウスのボロぶり、台風来たらどうなっちゃうのかと心配になった。

 

景清〈吉田玉男〉は、冒頭の独白が超見どころ。
なんだ? この禍々しい大きさは? 
玉男さんの景清は、本当に人形の姿そのままの人が、そこに立っているようだ。気迫による圧とでもいうべきものが、舞台の重力をつくりだしている。巨大で空虚な立ち姿、侍大将としての衰えぬ気骨と勇猛さ。人形ならではの虚無的な雰囲気があり、いまも心には敗残者としての闇が立ち込めている。重盛が死んでからずっと、彼の時は止まっているのかもしれない。その瘴気が景清を巨大に見せている。観客は、緊張を強いられる。

頬骨が浮いて目が落ち窪んだかしらには、ドラマティックな影が落ちていた。襤褸の衣装がインパクト大だが、ツキアゲ*1の竹が、黄色に黒の斑点がある、自然そのままのものだった。景清の衣装に合わせてあるのかな? 黒(茶色?)に塗ってあることが多いと思う。人形の指の仕掛けの継ぎ目が、骨ばった節目に見えるのも、骸骨が動き回っているかのような景清の姿に似合っていた。いかにも骨太そうで、死んだ時に、お骨上げで骨壷に入り切らなさそうな感じがした。(突然現実的な感想)

景清の長い独白につけられた振りは、決して写実的なものではない。しかし、彼の心情をあらわす所作としては極めて自然で、様式や芝居には感じず、景清の荒れ狂う無念さをそのまま手に取るように感じられる。
玉男さんの場合、ここのポーズがよかった!とか、ここの見せ場がよかった!とか、そういうのではないんだよね。変な言い方だけど、いわゆる「見どころ」「有名シーン」がどこなのかわからない遣い方というか。(実際には、見せ場はちゃんと決めていますが、それをことさらに目立たせるような遣い方はしないという意味です)
すべての動きに思念がこもり、きわめてシンプルだが、一挙一動に強いインパクトがある。人形の遣い方としてブレがなく、そこに迷いがないことが、その説得力を生んでいるのだと思う。さらには、その動きと動きのあいだの、つなぎの精緻さが生む余白が、より一層、イメージを増幅させている。運筆の雄弁さ。玉男さんの芝居のどこが見どころ?と聞かれたら、動きと動きのあいだを見てくれっ!と叫ぶ。

それぞれの所作の精緻さ、そしてそれが文字通り緊密に結び付けられていること、それが玉男さんの人形が秘める思念の大きさなのかもしれない。
モノとして存在するそれ(人形)を、演者の観客へ与えるイマジネーションが悠々と超えてゆく。文章通りでありつつ、決して逐語的にならない。人形ならではの表現で、まさに、文楽の醍醐味にして、玉男さんの真骨頂だ。

 

糸滝と左治太夫は、『平家女護島』とは異なり、ちゃんと小舟に移り乗ってやってくるのが可愛い。(それはそう)

小船が岸へ近づいてゆくとき、糸滝は緑色の右袖を抱いて、ソワソワとしきりに岸辺のほうを気にしている。清十郎さんの糸滝は、いっしんな目線が良い。日向にいるあいだ、目線の示すものがぶれることはない。彼女の心を占めているのが何なのか、その目線からよくわかる。その愛らしさに胸を打たれる。

玉男さん景清も、清十郎さん糸滝も、相手のことをとっても気にしてるのが良かった。清十郎さんは、いつも相手役の人のことがとっても大好きそうだし、玉男さんも、相手役を「ソワ…」と気にしているのが愛らしい。こういうところは、清十郎さん玉男さん自身の持っている愛嬌だ。
むすめ、すき! おとうさん、すき! とばかりに、「きゅっ!」と抱きしめ、抱きついている。その可憐で汚れない姿は、文楽人形のなし得る、純粋性の極地だと思う。

それにしても、正面を向いて黙念とする景清に糸滝がすがりつくくだりでは、糸滝役と景清役とで手を繋いでいるのだろうか。チョコ…としていて、可愛かった。

 

日向嶋では、左治太夫は見守り体勢がさらに高まっていた。
この几帳面さというか、神経質さ……。完全に「玉志〜」って感じになっていた。2019年9月の東京公演で『嬢景清八嶋日記』を観たときの左治太夫役は簑二郎さんで、まめやかで暖かい人柄がかなり良かったが、その人の個性がかなり反映される役ということね。玉志左治太夫は、しきりにソワついていて、素直になれない景清に、「もー!もー!もー!もー!もーーーーーーーーー!!!!!!!🐮」と言いたそうだった。それと、「ハイッ!」って感じで糸滝を抱っこして、船の乗り降りをさせてあげているのが、可愛かった。
あと、プルルッとしていた。ギャグ顔でも、かしらに色が塗ってある役は、玉志サン的には「プルルッ」とするということなのか。ご本人の中では高度な整合性がとれているのだと思うが、他人からは意味がまったくわからなくて、良い。

 

糸滝は、小舟が岸を離れていくときも、ソワソワとお父さんのほうを気にしていた。お父さんには見えないんだけど、それでもお父さんに向かって一生懸命に手を振っているところが、たまらなく愛らしかった。

 

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花菱屋の長、完全にネコミミってるのが良い。

 

 

↓ 2019年9月東京公演の感想。景清=玉男さん、糸滝=簑助さん(激かわ)。

 

  • 義太夫
    花菱屋の段=豊竹藤太夫/竹澤團七
    日向嶋の段=竹本千歳太夫/豊澤富助
  • 人形役割
    花菱屋女房=吉田文司、花菱屋長=吉田玉輝、肝煎左治太夫=吉田玉志、娘糸滝=豊松清十郎、遊君=桐竹勘次郎、遊君=(前半)吉田和馬、(後半)吉田簑之、遣り手=吉田玉峻、小女郎=吉田簑悠、久三=吉田玉路、飯炊き女=吉田玉延、悪七兵衛景清=吉田玉男、船頭=(前半)吉田玉彦(後半)桐竹勘介、土屋軍内=吉田文昇、天野四郎=吉田簑一郎

 

 

 

契情倭荘子、蝶の道行。

みんな頑張ってる。ちゃんと稽古してると思う。出ている人からすると、全力パフォーマンスだと思う。

しかし、人形の振付、どうにも、人間用のものだよね。「人形という小道具を持った舞踊家の踊り」なら、これでいいと思うけど……。なるほど、伝承演目の演出はよく出来ていると思った。

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  • 義太夫
    助国 竹本織太夫、小巻 豊竹芳穂太夫、豊竹亘太夫、竹本聖太夫、豊竹薫太夫/鶴澤藤蔵、竹澤團吾、鶴澤清𠀋、鶴澤友之助、野澤錦吾、鶴澤燕二郎
  • 人形役割
    助国=吉田玉助、小巻=吉田一輔

 

 

 

景清は、まるで玉男さんへの当て書きみたいな役なんだけど、300年前からある演目なのが不思議だ。以前はどのような上演をしていたのだろうか。玉男さんの景清を見ると、景清は元からこういう人だと思わされる。

プログラムの阪口弘之氏の解説は、以下のように書かれている。

(略)日向嶋の老残落魄の景清の乞食姿には古の武人の面影はなく、どこか「鬼界が嶋」の俊寛をさえ思わせる。

今回の実際の舞台はそうなっておらず、玉男さんの景清は、「今」を拒絶して過去に執着し、平家の武人であることを忘れていない。しかし、突然やってきた娘かわいさに過去を全て捨ててしまう。その強烈な人間性への説得力と賛歌もまた、玉男さんの景清ならではだと思う。

玉男様は、無限に良い。
玉男様・心から・LOVE💞の気持ちを新たにした。

それにしても、玉男様のTOGA PULLA的袴の柄は、何?

そして、清十郎は、なんで最近、ブログを書かないの?

 

番組編成として、「乞食に身を落とした盲目の男性をうら若い娘が尋ねてくる」という物語構造が、第二部と第三部で被っているのはどうなのか。大道具被りも気になる。最近、みどりの断片化が著しいからか、この手の被りがよくあるけれど、意図的にやっているのなら、やめて欲しいです。

 

 

 

おまけ 『嬢景清八嶋日記』の現行上演部分以外はどういう話なのか

『嬢景清八嶋日記』の、現行上演がある部分の前後の話がどうなっているのかを知りたくて、原作『大仏殿万代石楚(だいぶつでんばんだいのいしずえ)』を読んだ。

現行『嬢景清八嶋日記』の「花菱屋」と「日向嶋」は、『大仏殿万代石楚』の三段目の抜き取りを改題して上演している。『大仏殿万代石楚』の話全体は、平家敗北後の景清を主人公とし、その命運を描き出している。群像劇ではなく、景清本人のありようの変化を追っていく構成になっている。屋島の戦いでの錣引きで景清と戦った水保屋四郎(美尾谷十郎国俊)がショボキャラの悪役に設定されているのが特徴。

初段、二段目は、景清が日向に流されるまでに至る話。熱田神宮の大宮司の娘である正妻(=糸滝のママ。このあと亡くなる)のもとに潜伏し、頼朝の命を狙ったり、家臣に取り立てようとする頼朝に恩義を感じるも、目をえぐって源氏の世を見られないようにするという、景清にまつわる有名な設定やエピソードを用いた物語が描かれていく。娘の存在は示されるが、すでに乳母に預けられていて長く断絶しており、意図的に無視しているという設定になっている。

三段目は、現行「花菱屋の段」と「日向嶋の段」の間に、糸滝と左治太夫の船路の道行がある。また、日向嶋の冒頭に、日向の地元の人々が景清のご飯の準備をしているくだりが入っている。

問題は、現行上演部分のあと。四段目では、日向嶋から帰った糸滝の行く末が描かれる。のだが、あれだけ大騒ぎしておきながら、糸滝は結局遊女になっている。ええーーーー!!!!!! 船追いつかなかったの!!???!? 左治太夫、Business Person として意外とシビアだ。
しかも、糸滝に彼氏できてるし。お父さん大ショック。その彼氏ってのがまた源氏の重臣畠山重忠の息子で、先方の親御さんもエエていうてるということで、結婚することになる。

五段目では、景清もその結婚式に呼ばれ(特に前振りなく、いつの間にか唐突に参列してる)、娘が幸せになったのを見て安心し、切腹して「この血の色は平家の赤」的な感じで死ぬ。景清、日向嶋のくだりでかなりの奇人だとは思っていたが、娘の結婚式でそのムーブはすごいと思った。

 

 

 

 

以前、玉男さんがお話会で、「タマユキは体がおっきいから、ずっとしゃがんでるのが、大変(><)」とお話しされていた。そのときは、「しゃがましとけばいいんじゃない?」と思っていた。しかし、Tamasho insta のこの投稿の2枚目の写真を見て、「なるほど。」と思った。なんでこんな体格ええねん。筋肉が邪魔でしゃがめなさそう。でっかいハムスターみたいな方だなと思っていましたが、カピバラ級に、かなり、相当、大きかったようです。

 
 
 
 
 
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┃ 参考文献

*1:男性の人形の右脇から出ている細い竹の棒。根元は人形の肩についているとのことで、これを使って人形のバランスをとったり、胸回りの厚みを出したりしているそうです。玉男さんの場合、使い方がうまいのか、ツキアゲはほとんど見えませんが。