TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 3月地方公演『義経千本桜』椎の木の段、すしやの段 府中の森芸術劇場

権太は、悪から善へと変じた人物なのだろうか?

私は当初、権太をそのように理解していた。前半は「実は小心者のゴロツキ」、後半は「親想いの善人」であるという解釈が正しいと。その転換点が「椎の木の段」の一度目の引っ込みと二度目の出のあいだ、あるいは「椎の木の段」と「すしやの段」のあいだにあると思っていて、その転換点をみるのが「高等な見方」だと思っていた。

しかし、文楽をしばらく観続け、さまざまな浄瑠璃を読むうち、権太の本来の性質は、はじめから終わりまで変わっていないのではないかと思うようになってきた。彼の性根そのものは一貫しており、変わったのは周囲の彼を見る目、受け止め方。その変化によって、彼が「善」だと捉えられるようになったのではないか。本当に悪人から善人へ転じる『源平布引滝』の瀬尾太郎や、『大塔宮㬢袂』の鷲塚金藤次とは違うと思う。

ただ、一般論でいうと、権太はやはり、「粗暴なゴロツキが改心し、突然善人になった」という解釈が王道だと思う。王道という言葉に語弊があるようなら、そのように演じるのが芝居としてのルールだと言ってもいい。なんなら前半は過剰に露悪的な盛り付けがあってもいい。実際、勘十郎さんはそうしている。前半は「実は小心者のゴロツキ」、後半は「親想いの善人」というように、かなりはっきり分けてわかりやすく表現している。

 

今回の地方公演での「すしや」は、玉男さんが考えている権太の〈性根〉とはどのようなものなのかという点が私の注意を引いた。

玉男さんは、権太を「彼の性根そのものは一貫している」キャラクターとして演じているのではないかと思う。
たとえば『菅原伝授手習鑑』寺子屋の段の松王丸、『一谷嫰軍記』熊谷陣屋の段の熊谷は、玉男さんは前半と後半で演じ分けをしている。しかし、彼らの内面はあくまで一貫している。前半は芝居を打っているという設定で、彼らは内面のわからない怪物、「悪」や「冷酷」として見えるように演じている。後半の彼らは本来の言動に戻り、家族への慈愛、本人自身の感情を示す。つまり、彼らの性根そのものは変わらず、行動が変わることによって、他者からは変わって見えるという建て付けだと思う。
権太は、これら松王丸や熊谷と同じカテゴリとして演じられているように感じる。*1

ここまでは、私と「解釈一致❤️」なのだが、問題はこの先だ。私が玉男さんをすごいと思うのは、権太を特段の「善人」と表現していない点だ。

私の考える「彼の本来の性質は変わっていない」というのは、「権太はなんらかのきっかけで運悪く周囲から誤解を受けてゴロツキだと思われてしまい、孤立したために本人もゴロツキにならざるを得なかっただけで、本来は悪人ではなく、繊細で“まとも”な人物」という意味。一種の孤独な被差別者のキャラクターとして捉えていた。『無頼』シリーズの渡哲也みたいな🥺(余計わかんねぇよ) もっとわかりやすくいえば、『ごんぎつね』のごん🥺🥺🥺 というか、ごんぎつねのごんって、権太のごん????

玉男さんの権太は、少なくとも、「善人」ではない。彼は自分自身の心に沿って行動しているだけだ。前半でも後半でも、常に自分が「正しい」と思った行動をする人物であり、その「正しい」が他人の目には凶悪であったり、親孝行であったりするように映るだけのことのように思えてくる。その行動を周囲が悪ととらえるか、善ととらえるかというだけの話。

 

なぜそう思ったか。前半の権太の凶行は、悪意ない行為で、かつ「芝居」でもないと感じたからだ。

「椎の木の段」で、権太が出てくるとき。下手(しもて)の小幕から出て、茶屋の店先の若葉の内侍や六代君が座っている床机の前を通り過ぎるとき、彼女らを横目にチラと見るタイミングが速すぎる。玉男さんは目線の使い方が非常に的確で、向きや動かすタイミングに、その人物の性根をあらわす大きな意味がある。これが普通の役で「なんや人おるな」程度のときは、もっとゆっくりと振り向く(もしくはそもそも一瞥もしない)はずだが、権太はかなり早いタイミングで、盗み見するように一瞬だけ目線を動かす。これは獲物を品定めしたということだろう。やっぱりこいつ、「悪人」なんだなと思った。

また、「芝居がかり」が一切ないせいで、小金吾への「ゆすり」が「大衆演劇的」なそれではなく、東映実録路線のヤクザとか、韓国映画や香港映画のヤクザみたいになってる。速度が早すぎる。「芝居」の中の人物ではない。モノホンのやばい人。怖い。
刀を抜きかかりそうになる小金吾を避け、床机を立ててその陰へ隠れる演技。ここ、普通は「床机の陰に避難!!!!!」的な「ビビり」風にするところ、とくにビビってなさそうだった。いつでも小金吾を捻り殺せるが、おや、こんなところにいいものがある、この床机で叩き潰そうかと考えていそうだった。

権太にはこのあと、息子の善太と遊んでやるくだりがある。この部分では、「父としての暖かさ、子供への情(じょう)」を滲ませるのが普通で、さきほどの追い剥ぎ行為との落差を見せることで、権太が決して類型的な悪役、薄っぺらい人物造形でないことを表現する。のが、普通。普通はそうなんだけど、玉男さんの権太は、「自分がおもしろいからサイコロ転がしをしている」ように見えるんだよね。サイコロ転がしてるとき、サイコロだけ真剣見すぎ。本当の意味で、「一緒に遊んでいる」ようだった。このあと、善太が「すもうしよ〜!」とばかりに抱きついてきて、権太も家に帰っていくが……、その抱きつかれているときの表情も、なんか、違和感あるんだよね。普通はそこで「きょうは賭場へ行くのはやめて、かえろ、かえろ、おうちへかえろ」みたいな顔をすると思うのだが、必ずしも善太への父親としての愛情を滲ませるという芝居ではないような気がする。

「すしや」に入っても、お里と維盛を追い払う様子、ママへのお小遣いせびりなどに、芝居っぽさがない。「本当に異常」な兄が帰ってきた状態。

とにかく、「凶暴さ」のリアリズムが突出し、そのほかの属性を覆い隠しているように感じられる。

個々は「役の研究不足」「演技ミス」ともとれることだ。しかし、玉男さんの場合、あまりに首尾一貫しているので、あながち「下手」とも思われない。
「椎の木」で小金吾が投げた金を権太が足で引き寄せる場面があるが、ここで「一度手で取ろうとしてから、躊躇してしゃがんで足で引き寄せる」という、他の人より細かい演技もやっているので、演技の抜き等も含め、設計と思われる。
ここからあらわれてくるのは、凶暴でありつつ妻子への情がある。悪辣でありながら父母を思いやる気持ちがある。ただそれがいちいち手前勝手すぎて、誰にも伝わっていないし、伝わるわけがない。そういった権太の人物像だ。これは「芝居」では表現が非常に難しい。でも、こういう人、現実には、無数にいる。きわめてリアルな人間像だ。


これ、深作欣二監督の映画『仁義の墓場』だな。『仁義の墓場』の渡哲也が中世〜近世の吉野にいたら権太になるなと、玉男さんの権太を観て思った。
渡哲也演じる『仁義の墓場』の主人公・石川力男は、親分や仲間までもが手を焼く凶暴なヤクザだ。終戦直後の混乱と利権闘争の中、渡哲也は当初はその「蛮勇」を買われていたものの、みなが「蛮勇」だと思っていたものは一種の「狂気」だった。彼のあまりに非論理的な行動に周囲の人間はドン引きして、コミュニティから排除しようとする。が、渡哲也はそれでもしつこくまとわりついてくる。やがて彼はヘロイン中毒になり、言動のおかしさはどんどん加速していく。心身、境遇ともに破滅的な状況に至り、刑務所に収監されるが、刑務所屋上から投身自殺をはかってその生涯を閉じる。
仁義の墓場』の渡哲也って、本当に意味不明なんですよね。どうも本人にはなんらかの行動原理があって、それに沿って行動に出ているのはなんとなく察せられるんですが、こっちからするとあまりに意味不明で不条理。絶対共感できないし、擁護できない。最強に意味わかんないのは、自分と親友とで一緒に入る墓を勝手におっ建てるんですけど、その親友、自分が殺してるんですよ。しかも、墓石にはなぜか「仁義」という文字が刻まれている。なんで???? すべてが意味不明。映画館で観てるお客さんも、全員、ドン引き。しかしとにかく、本人にもなんらかの内面があることだけはわかる。絶対に掴めないが。
権太もそう。彼の本質は誰にも理解されない。異常なまでの凶暴さ、一貫しない奇矯な行動に惑わされ、誰も彼の本質を見ることができない。父・弥左衛門はいついかなるときも彼を愛し、彼やまだ見ぬ孫のことを気にかけていたが、それでも弥左衛門は、自分の息子を誤解し続けていた。それ自体が悲劇であり、それゆえの悲劇。

玉男さんは『女殺油地獄』の与兵衛をやったときも、よく喧伝されるような「青少年の心の闇!キレる若者!」という像ではなく、周囲に理解され得ない独特の心情を抱いた孤独な若者として彼を描いていた。これは日活ヤクザ映画で渡哲也が演じていたキャラクターに近い。『仁義の墓場』も、『無頼』シリーズをはじめとした日活ヤクザ映画も、それまでの任侠映画のクサさやファンタジー性を排除したリアリズムヤクザ映画だ。

 

これらは独特の人物像だが、いずれも、浄瑠璃原作自体に書かれていることとズレているわけではないんだよね。そりゃお前の思いつきで単なる逸脱だろっていう「ボクはこう思いました!新演出でやってみました!」とかではない。あくまで浄瑠璃に沿った「こう解釈することもできる」というギリギリのキワをついている。そのリアリズムが、浄瑠璃をただの「むかしばなし」「高尚なカルチャー」にさせない強度を作り出している。

玉男さんのこのリアリズムは初代吉田玉男にはなかった要素だと思われ、私はこれこそが当代玉男さんの芸風上の特徴だと思う。
玉男さんの師匠・初代吉田玉男は、リアリズムを持ち込んだ高度な心理描写で文楽人形の演技を大幅に改革した、空前絶後の名人である。いまの玉男さんも、この初代玉男の影響を大きく受け、その芸を受け継いでいる。しかし、師匠の持っていたリアリズムと、玉男さんのリアリズムは、全然違う。師匠のリアリズムを受け継いだのは玉志さんだった。師匠・玉志さんと、当代の玉男さんとのリアルさの方向性の違いを比較すると、師匠・玉志さんは「本来他人にはわかり得ない人間の内面を、人形の姿を借りることによって(人形の姿を借りられるからこそ)直接的に観客へ伝える」ことを目標としているように思う。しかし玉男さんは違っていて、「いついかなるときも、本当の人間の内面というのは、他者から見ること、見つけることはできない」と描写しているように思う。熊谷で比較すると一番よくわかると思う。師匠・玉志さんは、前半であっても、熊谷自身の心の内を言葉とは逆に全面に出し、細部まで非常に丁寧に描写している。しかし玉男さんは、彼が心のない怪物かのように、内面を意図的に遮蔽して描写している。松王丸もそう。そこには、一種の諦念さえ感じる。

玉男さんの年齢を逆算すると、リアリズムヤクザ映画が台頭した時期(1960年代末〜70年代)に10代後半から20歳前後を迎えている。世代的に「美化されたフィクションへの不信・唾棄」という転機があった時代に多感な時期を過ごし、その当事者となったのか。とはいえ、同世代の勘十郎さんは、その歳ですら古いんじゃないかというくらいベタな路線にいっているから、そんな安直な話ではない。一体このリアリズムはどこからきているのか。

私は、こう思っている。さきほど、あくまで浄瑠璃に沿った「こう解釈することもできる」というギリギリのキワをついていると書いたが、玉男さんからすると、「こうとしか解釈できない」という、本人の感性による自然な理解をそのままやっているにすぎないのではないか。計算してわざとやっているにしては「完成度」が高すぎ、「整合性」がありすぎなのだ。思いつきでやってる人、浅い計算でやってる人は、どこかに破綻が出る。それが全然ない。
忠兵衛(冥途の飛脚)のあまりのリアリズム的上手さについては、「玉男さんが本当にそういう人なんだろう、素のご自身なのだろう」と思ってきたが(なんか今、失礼なことを言ったような?)、権太も与兵衛も、実はそうなのかもしれない。

私、玉男さんのコメントで、はっとしたことがあるんですよね。文楽はものすごい縦社会で、下の者は理不尽だろうがなんだろうが忍従しなくてはならない場面が多い。そういったことについて、玉男さんが「嫌だ嫌だと思ったら、本当に嫌になってしまう」とコメントするのを目にしたことがある。玉男さんの思う「人間の心とはどのようなものなのか、なんなのか」をあらわした、かなり深い言葉だと思う。

ただ、これは私の想像。なぜこのように演じるのか、しっかりしたインタビューを取って残してほしい。考えてやっていたら、初代の才気を形を変えて受け継ぐセンスの持ち主、天然だったら、稀有なる本物の天才だと思う。*2

 

古典の〈再解釈〉演出は、〈再解釈〉であることをわかりやすく際立てるため、「現代の社会問題を盛り込む」「現代の社会問題と重ね合わせる」という手法が一般的だと思う。しかし、それだと浄瑠璃自体が持っている、本質的で普遍的なテーマがずれるんだよね。なぜその浄瑠璃が古典として現代に生き延びたのかを殺してしまっていると思う。実際にはそのような「トッピング」をせずとも、現在に訴えかける〈再解釈〉を本公演で上演することが可能なのではないかと、私はかねがね考えている。それが和生さんの『心中天網島』おさんであったり、玉男さんの権太、与兵衛なのではないかと思う。

 

 


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ここから普通の感想。
3月地方公演は、府中の森芸術劇場へ行った。

昼の部『義経千本桜』すしやの段の人形メイン配役は、2019年3月地方公演とほぼ同じ。しかし、5年の歳月が経過するうち、ご出演の技芸員さんたちは変わり、私の感じ方もだいぶ変わったようだった。

 

維盛は2019年と同じく和生さん。改めて見ると、和生さんの維盛は、玉志さん・玉男さんの維盛と全然違う。
玉志さん・玉男さんは若々しく、貴公子ながら武張った印象が強い。しかし、和生さんの維盛は山岸涼子作画の官僚系貴公子という印象。玉志さんと玉男さんの維盛は全然違うなと思っていたけど、和生さんがそこに入ってくると、彼らの違いは彼ら自身の芸の雰囲気に起因する誤差レベル。

和生さんの維盛は、玉志さん・玉男さんのそれよりも厭世観がかなり強いのではないか。特に違うのはお里への態度。玉志さんでいうと、お里との新枕を拒絶するシーンは「この子を傷つけたくない、弥左衛門にも申し訳ない」「わたしには若葉の内侍と六代君が」と思っているから、「二世の固めは赦して」と言っているように見える。玉志さんの維盛は人間として優しくて、お里をはじめとした周囲の人を思っやっているからこその断り。
しかし、和生維盛は、明確に心の距離がある。誰の維盛よりも、冷たい。普通にお里、嫌いだろ。むしろウッスラ気持ち悪がってないか。二人きりになるまでもなく、それまでも、全然、目ぇ合わせてない。いや、お里だけを嫌いなんじゃなくて、もはやこの世すべてが嫌になってるでしょ。弥左衛門の押し付けも、追ってくる若葉の内侍や六代君も、死んだ小金吾も。和生さんの維盛と心が通じ合っているのは、浄瑠璃の本文通り、頼朝だけだと思う。違和感を覚えるほどの貴品の高さも、そこに起因しているように感じる。

演技そのものは、玉志さん・玉男さんはいうまでもなく、和生さんも、初代吉田玉男師匠の維盛を写し取って演じている可能性が高いだろう。しかし、根本的に、性根への理解が違うんじゃないかな。変化のポイントでそれは顕著になる。本作の維盛の重要な変化である「出家」、出家を思い立ったタイミングが違うのではないか。和生さんの場合は、最初に天秤棒かついで出てきたときから出家を決意していると思う。『勧進帳』の冨樫も、いつ冨樫が弁慶を許すと決めたのか、玉志さんと和生さんでタイミングが違うように思ったし、そのあたりは個人の考え、判断なんだろうなと思った。

ところで、維盛って、前半(お里たちに避難させられるまで)と後半(梶原景時が去った後)で雰囲気がまったく違って見えるが、かしらは同じなんですよね。衣装はでんち(チョッキみたいやなつ)を脱いで刀を差し、かしらは前半はシケ(ぴよっとした横毛)があるけど後半はない(収納している?外している?)のはわかるけど。しかし、シケの有無以上の違いがあるような気がする。人形遣いの演技力によるものか。微妙な人(失礼)で観たら、また見え方が違うかもしれない。と思った。

 

玉志さんの弥左衛門は、カクシャクとした強気のジジイ。権四郎(ひらかな盛衰記)、合邦(摂州合邦辻)と並ぶ、剛毅に見えて慈愛に溢れた老人役、ハッキリとした所作が似合っていて、上手い。文七などを使う主役系の配役のときは凛とした佇まいで一切動かず(若干おもしろくなってくるほど動かない)、バタバタした芝居は一切しない人だが、むしろこういうギャンギャン騒ぐ役もいいなと思う。メリハリが強いので、小さな人形でも見栄えがするし、彼がただの隠居ヨボジジでない性根を感じる。強気ぶりがすごいので、維盛と二人きりになることろでは、往時の重盛と弥平兵衛宗清(弥陀六)の対面、みたいなことになっていた。
しかし、弥左衛門もやっぱりなんかかしらを「プルルッ」としてるな……。顔が玉子塗りの在所ジジイだからかな……。どでかい役よりは振り幅が小さいのだが、かしらによって振り幅を変えていること自体がだんだん怖くなってきた……。近年は、悪目立ちという意味での「ピョコォォッ」はしなくなってきたなと思っていたけど、「プルルッ」は健在で、なお盛んである。

今回の小金吾〈吉田玉勢〉、若葉の内侍〈桐竹紋臣〉、六代君〈吉田玉路〉は揃って真面目な人に配役された。そのため、「椎の木の段」の出は、みなさん真面目に「慣れない人が京都から奈良まで無理に歩いてきて……歩き疲れている……!」と激しく思い込まれているようで、旅疲れを通り越して『八甲田山死の彷徨』状態になっていた。

小金吾の玉勢さんは、以前同じ役を拝見したとき、小金吾の性急さは若葉の内侍や六代君を守りたいがためのことという、役の性根で一番重要なところが脱落していた。しかし今回は、若葉の内侍や六代君のことを気にかけているがゆえに感情の揺れが起こっていることが自然に感じられた。何が変わったのか。権太役の人の受けの芝居のうまさもあるとは思うが。

若葉の内侍はスラリとしたまさにお人形さんのような姿。といっても前近代ではなく、中原淳一デザインの着せ替え人形があったらこんな感じとでもいうべき、手足がしなやかに長いスタイル。強いシナがかかっており、元女官の身分を考えると若干世俗的な色気が強すぎるように感じるが、若葉の内侍は所詮脇役だから、逆にこれくらいやってもいいのかもなと思う。言い方はなんだが、いつも良い役をもらえていればこうはならないものを、これしか役がないからこうなると思うと、強くは言えない。

お里は逆に色気がなさすぎる。先日のせとだ文楽の記事で、勘十郎さんのお弓にはシナがありすぎると書いた。この若葉の内侍のシナ、お弓のシナをもっと具体的に言えば、そのひとつには、肩の落とし方がある。肩を落とすというは、動きの中で手前(客席)にくる側の肩を大きく下げるなどする姿勢で、肩と顔/そのほかの身体との関係性を見せる動き。女方は肩の落とし方に演技上の重要なポイントがあり、適切な場面で適切に肩を落とすことで、彼女の内面や社会的属性が表現される。つまり、若葉の内侍・お弓はそれが過剰なので、見応えはあっても役を逸脱しているように感じるということ。だが、お里は逆に肩を落とすところがないため、全体的に案山子みたいに棒立ちになっちゃってるんだよね。クドキを見ていると特によくわかる。体を左右にゆすっているだけになっていて、肩を落とすという立体的な上下の動きが入っていない。権太に「イーッ」とするところだけ力いっぱいやっても仕方ない。簑助さんの良いところを取り入れてほしい。

玉男さんの権太については先に細かいことに言及してしまったが、何をやっても人形がクソデカごん太(ぶと)化する玉男さんということで、人形の姿は大変素晴らしかった。
「すしや」での懐手の出や、後半、もろ肌脱ぎになってねじり鉢巻をしめ、鮓桶を持ってかけ出すところなど、堂々たる体躯と美しい姿勢で、さすがと思わされた。人形の体がバラけて動いていないのが上手いよね。それが当たり前のはずなのだが、現在の配役では、そうはいっていないことが多いから。
ママへの甘えも可愛らしい。本当にバカっぽいというか、まるで幼児還りしているみたいで、良い。これも玉男さんならでは。ここ、高確率で小芝居になるからねぇ。玉男さんは本当に純粋に演じていると思う。
しかし権太の左、ずいぶん良い人をつけてきたな。権太を自分でやってもおかしくない人でしょ。和生さん維盛、玉志さん弥左衛門という配役もあって、こんな座組でやったら本公演よりレベル高いだろ、と思った。

「椎の木」は、小金吾と権太の対比がうまく出ているのが良かった。やや焦ってせかせかする人と、マイペースな人と。これは配役の妙で、小金吾が同じで玉志さんが権太をやったら、所作上の区別はここまでつかないだろうなと思った。
配役のコンビネーションでは、「すしや」の弥左衛門と権太の親子感も良かった。権太がママにお小遣いをおねだりしているときに弥左衛門が帰ってきて、扉が閉まっているので弥左衛門は癇癪起こして大騒ぎ、権太はパパに見つかりそうで大慌てというシーン。ここで、ちゃんと弥左衛門と権太の動きのタイミングが合っている。打ち合わせして示し合わせている、どちらかかがどちらかに合わせているのではなく、お互い勝手にやっているだけながら二人とも義太夫に合わせた間合いで動いているから、客席から見るとシンクロして見えるのだと思う。玉男さん玉志さんは言われないとわからないほど芸風が違うが、さすが同じ師匠から教えを受けた兄弟弟子、と思った。

「すしや」の冒頭、おすしを買いに来ているツメ人形が、おかねを落とした。落としたおツメ、お里、ママともに「「「あ」」」という顔になったが、おツメが自分でおかねを拾って、ことなきを得た。これは「すしや」だとまあまあよくある事故だ。しかし、落下がもう一件。途中、六代君の周囲からカツンという音がいて、何かを落としたようだった。その瞬間はよくわからなかったのだが、もしかして左手が落ちちゃったのかな? 途中、後ろ向きになって、なにかごそごそしていた。


「すしや」といえば、2023年1月大阪公演が人形床ともに限度を超えてひどくて、むちゃ切れしてしまった。しかし、今回聞いて思ったのは、呂太夫さんは、全体の声が小さいことに問題はあれど、間合いのメリハリはきちんとついていたんだなということ。今回はそのあたりがかなりノッペリしていた。浄瑠璃がストレート流路の流しそうめんのように流れていった。浄瑠璃って、結局、「音が出ていない間」こそが一番大事なのかもしれない。そこが均一化してはいけないし、維盛とお里の喋り方が同じなわけない。維盛だけはなおしてくれ。
上記は苦手だろうがなんだろうが必ずやらなくてはならないことだと思うが、三味線については、「すしや」が向いている、向いていないがあるなと思った。吉野ののどかでほがらかな風景をイメージさせる演奏ができるかどうか。もうこれはセンスでしかなく、よく言えば、向き不向きがある。悪く言えば、やれと言ってもできない人はできない。と思った。


ひとつ、非常に気になったことがあった。ある人形の若手、人形よりもしきりに自分の顔を動かしていて、役柄にすらない変なシナが出てしまっている。この人、いつもそう。でも、彼の師匠はまったく顔を動かさない。おそらく、師匠はその師匠から余計な動きをしないよう厳しく躾けられていたのだと思う。自分の弟子にはその指導をしていないのか? 1、2年目でもないのにこの程度(?)のことに留意して舞台に上がれないというのはその人自身も悪いが、「悪いくせ」として注意するよう指導してあげるのが師匠としての勤めだと思う。

 

 

  • 義太夫
    • 椎の木の段
      口=竹本南都太夫/鶴澤燕二郎
      奥=豊竹靖太夫/鶴澤清𠀋
    • すしやの段
      切=竹本千歳太夫/豊澤富助
      奥=豊竹藤太夫/鶴澤清志郎
  • 人形
    権太倅善太=吉田玉延、権太女房小仙=桐竹紋吉、主馬判官小金吾=吉田玉勢、六代君=吉田玉路、いがみの権太=吉田玉男、娘お里=吉田一輔、弥左衛門女房=吉田文昇、弥助 実は 平維盛=吉田和生、すしや弥左衛門=吉田玉志、梶原平三景時=吉田玉助

 


◾️

「すしや」、やっぱり、何度観ても面白い。本当に、文楽を代表する傑作だと思う。
文楽現行上演がないものを含めると、人形浄瑠璃には、権太のように「粗暴なゴロツキが誰にも言わず突然改心し、自己犠牲をもって誰かを助ける」という展開が多数存在する。彼らは文字通り、ゴロツキが「突然」改心して、別人のように「善人」になるという設定になっている。権太が彼らと違うのは、善太・小仙との関係(妻子を憎からず思っている)、ママとの関係(甘え)、パパとの関係(やっぱりちょっと怖い!)があらかじめしっかり描かれることだ。これによって権太は非常に立体的な人物となっており、また、(意図的に)描写が欠落させられていることもあって、解釈の幅が非常に広いキャラクターになっている。それ魅力となり、浄瑠璃の豊かさとなって、「すしや」という演目を傑作にしているのだと思う。

コロナ禍のはじまりのころ、大阪で企画されていた『義経千本桜』の通し上演が中止になった。あのとき、権太には玉志さんが配役されていた。玉志ええ役やん! 平右衛門もうまかったし、ええやんええやん! と思ったけど、正直、権太が似合いきるとは思えなかった。ていうか、「綺麗なジャイアン」になるおそれがあるんとちゃうかと思っていた。
しかし、今回の玉男さんの権太を見て、「権太が他者に理解され得ない孤独な青年だとすれば?」という観点を得たところからすると、玉志さんも本人の解釈によって、権太が似合いそうだな。もっとも、玉志さんの場合は、「本当はいい子なのに、周囲にずっと誤解されて孤独だった。最後に家族には本当の彼をわかってもらえて、誤解がとけて、報われた」という解釈のほうが合うと思う。ご本人が権太をどう解釈しているかはわからないし、最も似合うのは維盛だし、なんなら知盛とかやりたいのかもしれないけど、いつか、玉志さんの権太を見てみたいものだ。師匠も権太をやっていたようだけど、どんな権太だったのだろうか。

 

府中会場となっている「府中の森芸術劇場」は、来年度は改修工事のため休館とのこと。府中は音響が良好なので、ここでの公演が拝見できなくなるのは、残念。
3月の地方公演、来年度の東京都内公演はどうなるんだろう。以前あった大田区公演は、会場改修による休館でなくなり途切れたままだ。府中市が別会場を設定して行ってくれるか、都内どこかに立候補してくれる会場があるといいのだが……。来年度の公演スケジュールを見ると、もはや本公演すらまともにできない状態なので、高崎へ行く羽目になっても仕方ないのかな。

 

最後に、今回の地方公演の感想を素直ツメ人形風に3つにまとめると

  1. 景事がないのが良かった。
  2. 昼の部にジジイ固まりすぎ。和生長右衛門やれや。
  3. 解説中のヤスさんの目の死に方はすごい、人形みたい。

と思いました。
でも、ヤスさんの解説は良い。あらすじをどこまで喋るか、つまり、お客さん自身が自分の目と耳で確認すべきはどこからなのかをしっかりと示唆している。解説は、相手に行動を促す内容でなければならない。一方的に説明を読み上げるだけなら、チラシを読めば終わることだ。

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*1:残念だが、本当に内面が変化する人物、『大塔宮曦袂』の金藤次を観たのはだいぶ前なので、いま記憶だけで安易に比較することはできない。瀬尾太郎はやってるの見たことないから、比べられん!

*2:それでいうと、「すしや」。縄をかけ猿轡をかませた小仙と善太を連れてきて、梶原景時に引き渡す際、権太は屋体の横でうしろを向いて手拭いで背中を拭く。その際、うしろを向いたまま、汗を拭くのに紛らわせて涙をぬぐう演技を入れる場合が多い。しかし、玉男さんはこれをやっていなかった。ママにお小遣いをせびるところではオイオイ泣き真似をしていたのに。と思ったが、ここであからさまに泣くと、下賜された陣羽織を頭から被るところ(=密かに泣くところ)と「こっそり泣く」演技が重複するからか? 世の中には、陣羽織を頭から被ることが何を意味するのか察することができない人もいる。わかりやすく「お涙頂戴」したけりゃ後ろ向きになっている段階で泣くべきだが……。玉男さんの場合、浄瑠璃の演奏が過剰に早まり、人形との噛み合いが悪くなると、演技の手順を切って進行し、人形の動きがテンポはずれになることを防ぐ傾向がある。しかし、特にそういうことは起こっていなかった。気分等もあるのかもしれないし、私から見えない位置でなにかしていたのかもしれないが、ここを切ったのは、かなり高度な判断だと感じた。

せとだ文楽 『二人三番叟』『傾城阿波の鳴門』巡礼歌の段 ベル・カントホール

広島県生口島で行われた「せとだ文楽」へ行ってきた。

生口島は、瀬戸内海の中ほどに浮かぶ大きな島。広島県に属し、本州(広島県尾道市)四国(愛媛県今治市)をつなぐ「しまなみ海道」上に所在している。東京からは新幹線でも飛行機でも、およそ5時間ほどかかる場所だ。

なんで生口島
場所が唐突すぎんか??

と思われる方も多いだろう。
実はこれ、錣太夫さんの地元凱旋公演なのだ。
これがもう本当に……、いままでに行った文楽公演の中でも、一番、心温まる公演だった。島の雰囲気、公演の空気感に、まるで自分が昭和の人情映画の中に入り込んだような感覚を覚えた。
そういうわけで、今回は、いつもの公演感想とはちょっと違う体裁でお送りします。

 

 

 

◾️

「せとだ文楽」の「せとだ(瀬戸田)」とは、生口島の町の名前。錣さんは中学生までを生口島瀬戸田で過ごしたそうだ。この公演は、その時代のご友人、小学校同級生の方が中心となって企画されたとのこと。そのため、公演名には「六代目竹本錣太夫襲名記念特別公演」という冠がついている。

公演当日の朝、快晴のもと、三原から高速船に乗って瀬戸内海を渡ること25分。瀬戸田港に着くと、こじんまりと静かな町の風景がそこにあった。チェーン店や大きなビルなどは見えず、新旧の小ぶりな建造物が路地沿いにちょこちょこと立ち並んでいる。昭和の時代より随分人口が減ったそうだが、住宅はたくさんあり、生活している人は多いようだ。海沿いの漁船の係留場所では漁師さんが船の手入れをしていたり、防波堤に設置されたベンチや商店の前でご近所さん同士が歓談していたり、お寺の住職さんが法衣のまま軽トラ運転していたり。小綺麗に整備された港の前の小さな広場では、中高生くらいの子たちがひっきりなしに遊んでいて、おしゃれに気を使ってます!という格好の地元風の若者も歩いており、過疎化・超高齢化といったような荒廃した雰囲気はない。人の息吹のあるのどかな田舎町といった風情だ。
島にはいくつか観光スポットが存在し、近年出来たらしい若者観光客向けの店や宿泊施設もある。そういった場所にはしまなみ海道経由で来ているらしきサイクリング客や観光客が散策していた。

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会場は、港から島の中心部へ向かって15分ほど歩いた場所にある「ベル・カントホール」。島の文化会館的な施設で、数十年の潮風にさらされて古びた雰囲気のコンクリート打ちっぱなしの建物が、図書館や観光案内所と共に建っていた。

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当日はとても天気が良い日だったので、しばらく施設前の広場に置かれたベンチでのんびりしていたのだが、暇だしそろそろ行くかと思って、開演45分前くらいにロビーに入ったら……

 

ツメ人形ウルトラ大パーティーが始まっていた!!!!!!!!!

 

狭いロビーが人でごっちゃになっており、ツメ人形ウルトラ大パーティーとしか言いようがない騒ぎになっていた。
うそやん。
外、あんなに静かやったやん。

『ひらかな盛衰記』松右衛門内の段の冒頭で、権四郎宅の近所に住んでいる在所ツメ人形たちが茶飲み話(実は法事)で大盛り上がりしている場面、ありますよね。ガバガバ茶ぁ飲んで、野放図に喋りまくってる。まんま、あれ。あの場面はツメ人形4体しか出てないですけど、おツメたちが数えきれないほど集まってきたらどうなるか、想像してみて。ロビーが狭い会場のため、溢れかえったツメ人形が通路やホール内でもわあわあ大騒ぎ状態だった。ツメ人形、大集合ッ。
こはいかに!?!??!??!と思っていたら、私服和装の錣さん本人がロビーに受付として立っていた。そこがツメ人形大騒ぎの中心地で、同級生やお知り合いと思われる方々が集まり、ひっきりなしに大盛り上がりしていた。

錣さんの同級生が企画幹事とは聞いていたものの、自治体が文楽協会から単発公演のパッケージを買った(=錣さんを通して公演を買い取った)公演かと思って来たので、「ほ、本当に『六代目竹本錣太夫襲名記念特別公演』だったんだッ!!!!!!!!」と、ものすごくびっくりした。お知り合いや同級生に囲まれ、錣さんは「タメ口」ではしゃいでいた。心からの満面の笑み、とても嬉しそうで、開演前の時点ですでに感動してしまった。

大騒ぎしているのはお知り合いの方々だけではない。ご来場されている方々が全体的に大騒ぎツメ人形と化している。人形(おつる)のグリーティングの記念撮影に人が並んでいるのは言うまでもないが、なぜか『二人三番叟』の顔出しパネルが設置されており、そこにも人がたかっている。

そういえば、会場の直接販売分の紙チケットはちゃんとオリジナルデザインだし、入場時に2つ折とはいえオリジナルパンフレット(錣さんコメント、出演者全員の顔写真つき)をいただいた。会場の規模に比して案内係の方もたくさん立っているし、相当力が入った公演だ。地域を挙げての大イベントなのか???

 

 

 

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開演時間になると、コンパクトな場内は観客で埋め尽くされた。

そもそも、人、集まりすぎてて、驚く。私がこの公演の存在に気づいたのは、公演日の1ヶ月ほど前。チケット発売後から2週間ほどしか経っていなかったはずだが、その時点でぴあ販売分が完売していた。やばいと思って会場へ直接電話し、会場手持ちの残席を取り置きしてもらったが、2階後方しか残ってなくて、と言われた。そして当日は満席。
コンパクトといっても、このホールの定員(今回販売している1〜2階の合計席数)は530席ほど。そもそも、生口島の人口は8,300人ほどのはず(2023年国勢調査)。私のように文楽自体が引いている外部の客がそれなりに来ているにしても、ロビーや客席でワイワイやっている方々の漏れ聞こえる話を聞いていると、来場者は地元の方が多いようだった。あまりに住民が集まりすぎていて、驚いた。ツメ人形はツメ人形を呼ぶ!!!

でも、一番驚いたのは、午前中、島の中を観光していたときに見かけた地元住民の方が来場されていたこと。あんな「普通に歩いてる人」が「文楽」に来るんだ!!!!! しかも錣さんの知り合いなんだ!!!!!(受付で歓談されていた)と、本気で驚いた。
(「驚いた」が多い文章)(丹波哲郎?)

 

公演の番組編成は、次のようになっていた。

  1. 司会より開会の挨拶(FMおのみちパーソナリティ・河上典子)
  2. 尾道市長挨拶
  3. あらすじ解説(竹本聖太夫
  4. 『二人三番叟』
  5. 『傾城阿波の鳴門』巡礼歌の段
  6. アフター・トーク「おかえりなさい!錣太夫さん」〜錣太夫さんに聞く、文楽の魅力(竹本錣太夫/河上典子)

まずは司会の河上典子さんから、瀬戸田出身の錣さんが2020年に「錣太夫」の名跡を襲名したこと、2022年に太夫の最高格である「切語り」に昇格したことが説明された。
尾道市長の挨拶がついているのは驚いた。確かにこの公演、主催が「尾道市」と「中国新聞備後本社」の連名になっている。そのなかで「尾道市のエライ人」が挨拶するのは「田舎」の行事らしいと思うのだが、市長!?!?!??!?!? こういうの、普通、副市長とか、文化事業関連の上の人じゃない!?*1 市長さんは、住民への挨拶(生口島尾道市)はスムーズにお話しされていたが、文楽についての説明でテンパられて、ツメ人形と化していた。実は司会の方(この人は三人遣い顔だった)も文楽全然わからないため、のちほど大変な事故が起こることになる。

 

 

 

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太夫さんによる簡単な(カオスな)演目解説ののち、『二人三番叟』。

三番叟が踊っているのを見ていて、ああ、これは、錣さんの襲名披露のお祝いなんだろうなと思った。
錣さんは襲名時、ご本人の意思によって口上幕を設けず、簡単に床で呂太夫さんが口上したのみでしたよね。そのぶん、大阪では直前に上演した景事『七福神宝の入舩』で寿老人役の玉志さんがお祝いのプチ幕を下ろすなど、出来るだけのことを皆さんなされていた。
でも、典型的な祝儀演目である『二人三番叟』をつけて「六代目竹本錣太夫襲名記念特別公演」を行うというのは……、これが錣さんの本当の襲名披露公演なんだなと思った。『二人三番叟』自体の出来自体はどうかと思ったが(突然の冷静感想)、これで本当に襲名のお祝いができたのだと思ったら、泣けてきた。

籾の段(鈴の段)に入ってから客席から手拍子が起こってしまい、カオスになった。ツメ人形が大集合すると、大変なことになる。

 

 

 

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本編『傾城阿波の鳴門』巡礼歌の段。

今回の公演のメイン、錣さんの出番。
いまの文楽で「巡礼歌の段」を語らせたら、錣さんが一番だろう。お弓・おつるそれぞれの持つ健気さ、一瞬訪れたかに見えた幸せがホロホロと崩れていく空気感がよく出ていた。彼女ら個々にある性質、内面の表現の的確さは非常に秀逸。かなり世話がかった場の中で、お弓はどう振る舞うのか、親のことをよくわからず育ったおつるはどういう言動をするのか。それが自然な形で舞台にあらわれていたように思う。

錣さんの語りには、「こころが動く時間、向き」がある。人物の目線がどこに行っているのか、どこに向かって声を出しているのかがわかる。いま、彼や彼女の心のうちを大きく占めているのが何なのかが語りのうちにあらわれている。お弓なら、目の前にいる実の娘おつる。もう気になってしかたない。落ち着かなければいけないのに落ち着けず、口から声が先に出てしまっているようだ。『曾根崎心中』のお初なら、彼女の心のうちにあるのは徳兵衛。しかし徳兵衛は打掛の内側に入れて足元に隠しているので、彼女は目を閉じて、自分の心の内面に目を向けて思いを語る。そのため、悪魔憑きのような口調になる。
そういった、目線が動く向き、その時間をあらわす「間(ま)」、声が出る向きと、これまたその「間」が伝わるというのが、良い。

錣さんはいつも床が回ったときには口をかばのようにモゴモゴとしているが、緊張されているのか、このときはじっと固まっていた。

 

 

 

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トークショー

緞帳の前に床机を並べ、司会の河上典子さんが錣さんに話を聞くという形式。
司会の河上さんがつないでいるうちに、錣さんが汗をフキフキ現れた。「すごい汗ですね」と声をかけられると「最近は全然汗かかないんですけどねぇ」とおっしゃっていた。いやいや、袴に、水たまりみたいに汗落ちてるから。と、観客のツメ人形全員が思った。
以下、トークの内容。適宜補足し、内容をとりまとめています。

※ここから撮影可

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▶︎さきほどはすばらしい演奏でした。太夫さんというのは、役になりきって語られているのでしょうか?

なりきる直前で止める! なりきってはいけない。なりきりる寸前で、それを冷静に見ている自分がいる。(いなくてはならない)

 

▶︎本日は同級生の方がたくさん来場されています。昨夜は緊張して眠れなかったとか。

文楽は、初春公演が毎年1月3日から。2日は稽古がある。そのため同窓会に呼ばれてもでられず、いつしか全く呼ばれなくなった(笑)。さっき受付で来てくださったみなさんに挨拶したが、もう誰が誰だか全くわからなかった(笑)。

 

▶︎ふるさと・瀬戸田の思い出は? 帰ってこられてのご感想は?

わたしが育ったころは一番人口が多く、小学校は45人学級が2つあった。当時は柑橘類の栽培の嚆矢で、いまは衰退したが、銅、造船も地域の産業として大きかった。当時は耕三寺(瀬戸田にある大きなお寺)の出来始めで、「動物園ができるみたいやで」などの話題でもちきりだった。
きのう港のまわりに行ってみたら、崩壊した家や崩壊しかかった家が並んでいたのがすっかり綺麗になっていて、驚いた。いまはサイクリングの人が多いようで、兄貴の車に乗せてもらってしまなみ海道を走っていると、自転車がどんどん横をすり抜けてきて、怖かった!
この会場の向いにある平山郁夫美術館は、きのう、連れていっていただいた。館長さんともお話させていただいたが、最近は入場者数が頭打ちとのことで、みなさん、行ってください!(それ今ここで言うか!?)

 

▶︎錣太夫さんは大学は法学部に入学されたとのことですが、そこから文楽に入門したというのはどういった経緯なのでしょうか?

大学に入って法律の教科書を見たが、ちんぷんかんぷんだった(勉強として理解できないという意味ではなく、人間を法律でコントロールしようとするのはおかしいという意味。アナーキー。当時は学生運動が盛んで、授業が開講されないまま1年を過ごしていた。
そんなとき、NHKのテレビ放送で文楽を観て、特に太夫の声での表現に惹かれた。
この人たち、ちゃんと生活しとるみたいやで、お金はそんなにもらえてなさそうだけど、生きてはいけるんやなと思った。
それで国立劇場に電話したら、当時ちょうどお宅にいた竹本津太夫師匠を紹介された。ほかの方はみな夏の巡業に行かれていたので、師匠とのこの出会いは運命だった。
人生を儚めばなんでもできる。20歳のときに入門した。

錣さんて、中大の法学部中退ですよね。錣さんのご年齢からすると、当時の中大法学部は相当レベル高かったはず。経歴は「高校から島を出た」とのことですがど、高校は本州の進学校に行かれて下宿されてたということですかね。当時の大学進学率も考えると、「田舎」でそこまでしてくれる親御さんというのもすごいことのはずで、それで「普通の生活」を捨てることを決断するとは、本当にこの人、すごいなというか、やばいなと思った。津太夫は錣さんが初めて目の前に現れたとき、どう思ったのだろうか。

 

▶︎こちらの色紙の文字「福壽」は津太夫師匠がよく書かれていた言葉と伺いました。

師匠はよく「和」「福壽」「壽」と書いていた。わたしもその真似をして、「福壽」と書かせていただいた。
師匠は豪放磊落だと言われていたが、同時に、語りに深い情(じょう)のある人だった。

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▶︎小学校の同級生の方から、「小学生の頃は大人しくて努力家だった」と伺いました。

努力家かはわからないが、群れるなどはしなかった。でも、天神さんのお祭りなどはみんなと一緒に楽しんだ。子供のころは、六尺ふんどしで海へ飛び込んで魚や貝をとったりしていた。今やったら怒られるが、当時はおおらかだった。(剣道やってたと聞きましたがと尋ねられ)あ、剣道やってたのは高校からです。
子供のころから、「エエ声しとるなぁ」と言ってくれる人もいた。しかし、自分で自分の声を聞くほど苦痛なことはないですよ。テープに起こして(録音して)聞くと、気持ち悪くて仕方ない。「ボクはもっと上手かったのになぁ!?」と思う。「君の声、気持ち悪いで」と言ってくるような意地悪な先輩もいた。
でも、今は恥を恥とも思わずやっている。勇気がいること。
入門したとき、わたしのこの道の筆おろしをしてくれた先代の寛治師匠(注:私たちの知っている寛治さんのもうひとつ前の人)に、文楽でやっていくのに大切なのは「運、根、鈍」の三つだと言われた。「運」とは運命、運、出会い。「根」は根気、「鈍」はどんくささ、不器用な生き方を指す。師匠との出会いは運命。わたし自身は「鈍、鈍、鈍」だった。


▶︎「錣太夫」を襲名するに至った経緯は? 名前にはもう慣れましたか?

先代の錣太夫(五代目)は、寛治師匠と仲が良かった。五代目は身内が文楽におらず、名前を継がせる人がいないまま亡くなった。亡くなるとき、「ええ人がおったら継がせてくれ」と寛治師匠に名前を預け、寛治師匠はそのことをずっと気にしていた。寛治師匠は稽古は非常に厳しかったが、稽古が終わってから五代目錣太夫のことを話してくれるときには、「錣太夫がな、錣太夫がな」と嬉しそうにいつもニコニコしていた。五代目は芸は「鬼」と言われたが、私生活は「仏」と言われていたそうだ。
「錣太夫」の名前はまだ慣れない。慣れるにはまだ時間がかかる。

 

▶︎2022年に太夫の最高位である「切語り」に昇進されました。

「切語り」とは、私にとっては津太夫、越路太夫、綱太夫といった錚々たる師匠方。わたしが「切」と言われていいのか。いまでも、口上で「ただいまの切」と言われると、緊張する。さっき(巡礼歌)は、言われるかな、言われるかなと思っていたけど、「切」と言われなくて、ほっとした。(そこは海に沈めて牡蠣のエサにしてあげないと🥹)
しかし、このドキドキ感がなくなってはいけない。そして、この「怖さ」を克服してこその「切語り」だと思っている。
いまの切語りは、こないだ咲太夫兄さんが亡くなったため、呂太夫さん、千歳くんと、わたしの3人しかいない。高齢者ばかり。死ぬまでに次の切語りを育てるのが使命。

上記は言葉を整えています。錣さんは本当にやばいので、「呂太夫」さんの名前をド忘れし、「えーと、次に十代目若太夫になる〜〜〜〜〜、……………………………………………XXXさん」と、本名で紹介していた(狂)。司会者の方も、文楽に詳しい方ならすぐに「豊竹呂太夫さんですね」と言えたと思うが、全然わからない方だったので、かなり、危機的な状態になっていた。尾道市長は文楽尾道の関係を話している途中に「植村文楽軒」という言葉をド忘れされたが、さすが挨拶や演説の機会も多いであろう首長、ポッケにカンペを持っていたので、助かった。私も最前列で錣さんの目の前の席なら「呂太夫」と書いたプロンプト出せたんですけど、残念!!!!! 錣さん的には、「呂太夫」というのは、24年前に亡くなった五代目なのだろう。

 

▶︎今、文楽技芸員になるための研修生を募集していると聞きました。

技芸員には広島出身者がわたし以外にもいる。
さっきの『二人三番叟』で三味線の2番目に座っていた鶴澤清公くんは、三原の出身。清公くんは子供のころ、ピアノを習っていて、発表会でこのホールでピアノを演奏したことがあるらしい! 巡業に出ており今日は来ていないが、鶴澤燕二郎くんは東城町の出身。広島ではない近隣出身だと、『二人三番叟』の三味線の3番目に出ていた鶴澤清允くんは海のむこう側の香川県の出身。このへんの出身でも技芸員になることはできる。
さっきガチガチに緊張して解説していたわたしの弟子の聖太夫も、研修生出身。
さきほど言ったとおり、技芸員はその給料でなんとか生活していける。10年後には。今は親がかりでしょうね。これ言うと引かれますけど。
みなさんのお知り合い、ご親族で興味がある方がいらっしゃったら、ぜひおすすめしてください。

清公さんは実は瀬戸田から見て対岸、本州側の広島県三原市出身とのことで、清公さんのご実家の話題が出された。かなりのローカルネタというか、さすがにやばいレベルの豪速球の個人情報なのでここでは伏せさせていただくが、どうも、ご来場者全員、清公さんのお父さんを知っているようだった。うしろの席の人とか、普通に、「へー、あそこの息子さんなんだ」と言っていた。錣さんのお父さんと清公さんのお父さんも、(お互いの息子が文楽技芸員で知り合い同士とは知らないままに)接点があったとのことだった。田舎というのは、やっぱり、全員が知り合いなんだッ!!!!!!と思った。私も田舎出身なのでわかるが、さすがに船で25分かかる対岸に住んでる人まで知り合いなのはすごい。
また、技芸員の給与の話は実際引いた。でも、「普通の勤め人」であっても、大企業に就職しない限り、新卒の子が本人の給料だけで独立したまともな生活ができるかというと、そうではないですよね。ただみなさん声を大にして言わないだけで。しかしSHIKOROは言うッ。正直だからッ。狂ッ!!!

 

▶︎今後の目標は。

体力が伸びることはない。現状をどう維持しようか、それが問題。むかしは時間があると歩いたり走ったりしていたが、みなさんもうこの歳になると運動しちゃダメですよ! こけたら終わり!(突然のリアリスティック後期高齢者トーク
体力が衰えたら衰えたなりに、使える声の幅を広げなくてはならない。
お客さんと共振するものを目指していきたい。

 

▶︎次回公演の宣伝をどうぞ。

4月の大阪公演では、『御所桜堀川夜討』の「弁慶上使の段」を語る。ちょっとメチャクチャな話で、昔風の英雄豪傑が活躍する、金平(きんぴら)浄瑠璃*2とでもいうような話。意味を考えたら「そんなこと、ありゃせんじゃろ」という内容。よくできた話なんですけどね。よろしければぜひお運びください!

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錣さんのお話は時々伺う機会があるが、錣さんて、喋り方は標準語ベースの「関西弁」ですよね。このトークショーでも、かなり関西弁がかった喋り方をされていた。そりゃ20歳から現在(75歳)まで大阪にずっと住んでいるので、どうやっても関西弁に寄っていくだろう。しかし、一瞬、「広島弁」になるときもあったのが良かった。*3

司会から会場へ「今日文楽を初めて観るという方」「錣太夫さんの同級生の方」という質問があった。「今日文楽を初めて観るという方」は、意外と挙手が少ないなと思った。いや、たくさん挙手されていたんですけど、意外と“ほぼ全員”とかではないんですよね。
それは、「錣太夫さんの同級生の方」が会場内に多く、どうもその方々は文楽を観たことがあるらしいからのようだった。みなさん、大イベントだからいまはじめて来たとかじゃなく、もともと一定の親交があり、広島公演や大阪公演へ行かれてたんだなと思った。おそらく幹事が押さえているであろう同級生用良席の方々とかは、ほぼみなさん、手挙げてなかった。
私は後方席だったからか、周囲は「別に錣さん知らんけど来てみた」系の方が多いようで、「今日文楽を初めて観るという方」に多くの方々が挙手されていた。

 

 

 

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生口島で公演を観られて、本当に良かった。

尾道市の主催ならば、本州の尾道市街地にある大きなホールでやってもよかったと思う。実際、尾道で地方公演がある場合は、そういう場所で公演しているのではないか。でも、あえて錣さんの本当の出身地である生口島瀬戸田で開催したというのが、良いよねえ。島ののどかな風景と、集まってきたお客さんたちの楽しそうな空気感、それを喜ぶ錣さんの笑顔が、本当に素晴らしかった。

なにもかもが、まるで昭和30年代の松竹の人情映画のワンシーンのようで、ものすごく感動してしまった。『二十四の瞳』は本当だったんだ!!!!!!!!と思った。

昔の人情映画って、途中でビターなシーンが必ずあるじゃないですか。それは錣さんの人生にもいろいろあったと思う。苦労、忍耐、理不尽。私が観るようになってからの範囲でも、寛治さんが弾いてはいても(高齢の寛治さんが弾いていたからこそなのかもしれないが)良い役は全然つかなかったし、襲名したのは師匠の名前じゃないし、切になったときに肝心の「切り場」が配役されなかったし、おかしいとしか思えないことがたくさんあった。
でも、この公演は映画の最後のシーンの、ハッピーエンドの部分なんだろうなと思った。錣さんの芸人人生がこれで終わるわけじゃないけど、これまでの苦労がひとつのかたちとしてやっと報われたんだ、という気がした。

人情映画みたいというのは、イメージ上の例え話ではない。私、昭和30〜40年代の日本映画がすごく好きなんですよね。当時の映画に描かれている、ほろ苦くともじんわり暖かく、優しい世界は、世界の美化ではなく、ただありのままの純粋性をたたえていて、美しい。しかし、あれは失われた時代のものだと思っていた。自分が当事者たりえることはないと、ファンタジー、ノスタルジーとして接していたが、あんな世界がこの世に実在していたとは。本当に映画の中に入り込んだような体験だった。そういう意味でも、非常に衝撃を受けた公演だった。

(そういう意味では、突然細かいこと言うと、『二十四の瞳』は良い映画ながら、最後の場面はハッピーエンドに見えて本当はかなりビター。なので、本当のハッピーエンド人情映画でいうと、松竹の詩情あふれる人情映画というより、『トラック野郎』シリーズ(東映)とか、『喜劇〇〇〇〇』と題されているものなどのテンプレート踏襲ベタ路線のほうが近い。主人公が音楽関係、地方の漁師町を舞台に人情が描かれ、ラストシーンがホールでの大舞台という点では、『トラック野郎 故郷特急便』の世界だな。話が細かすぎてすみません)

 

こんなに気持ちがいい公演になったのは、なにより、錣さんのお人柄なんだろうな。
錣さんは襲名公演のとき、ロビーに受付で立っていたら、なぜかお客さんが並びはじめ、本人に直接お祝いを言ってサインをもらう行列が形成されるという謎のレジェンドを打ち立てたじゃないですか。文楽のお客さんがいくら「素朴」でも、襲名披露の本人受付に話しかけていいのは「ご贔屓」だけってことくらい、みんな本当は知っていますよね*4。実際、ほかの人の襲名披露公演のときは、「ご贔屓」以外、本人受付に行っていなかった。それでも人が並んでしまうのは、なぜなのか。

錣さんは目立ちたがりの振る舞いをしたり、派手なマスコミ露出があるという人ではない。それでも人が集まってくるというのは、錣さんになにか人の心を打つものがあるのだろう。
私は、錣さんの持つ「なにか人の心を打つもの」というのは、「常に全力、一生懸命」であることだと思う。まいにち一生懸命義太夫を語る姿が、ただそれだけで人を感動させたり、勇気づけたり、励ましたり、幸せな気持ちにさせているのだと思う。

そして、この公演といい、襲名披露の謎の行列といい(「文楽祭」でも謎行列ができていた)、東京で行われている素浄瑠璃会もそうなのだが、本人が派手な振る舞いをしないからこそ、まわりの「ツメ人形」たちが興奮しだして、ますますコトがデカくなっていくんじゃねぇかと思った。
※この公演の後、本物の「ツメ人形ウルトラ大パーティー」、同窓会が開催されたそうです。

 

錣さんは本当に幸せな人だと思う。
でも、それを引き寄せたのは、なにより、ご本人なのでしょうね。
行って本当に良かった。

 

 

 

 

 

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以下、いつもの通りの、文楽公演としての感想。ここから突然真顔のツメ人形になります。

会場「ベル・カントホール」は、町の行事や発表会等に使われていると思われる多目的ホール。築40年ほどとのこと。リフォームなどはあまりされてようで、懐かしささえ抱かせるような古いしつらえがそのまま残されているが、綺麗に手入れされており、気分よく利用できる。
ホール内は2階層。会場側の設定では1階席、2階席、3階席という設定だが、1階と2階は通路で区切られているだけで実際の空間としてはつながっており、3階席だけ張り出し式の別階層になっていた(今回販売なし)。客席は横広がりに配置されてり、奥行きが狭目。そのため、音響がかなり文楽向き。太夫の声はやや反響があるのものの、空間にしっかりと満ち、ゆきわたっている。三味線の音は国立劇場小劇場相当の聞こえ方で、まったく問題ない。本舞台で打つ柝の音だけほとんど響かなかったのが惜しいが、「ここが生口島じゃなかったら、ここで東京公演やったらええんとちゃう?」というくらい、音の環境は良かった。
調べてみると、「ベル・カント」というのはカンツォーネの歌唱法をさす言葉で、ホール自体、室内楽専用に設計されているようだ。そういえば入り口の前にサックスのクソデカオブジェがあったわ!!!!
定式幕は張れないようで、備え付けの緞帳で対応。緞帳は島出身の画家・平山郁夫による図案。島の高台から見渡した海の風景と向上寺の三重塔、瀬戸内海の海の恵みをあらわす魚群を織り込んだデザインになっていた。舞台間口はかなり狭く、内子座より小さいかも。本舞台の大きさの問題で、演目に制約があったようだ。

 

演目解説は、錣さんの弟子・聖太夫さんがひとりで緞帳の前に立って行った。
太夫さんが解説するのは初めて見た。おや、ずいぶん落ち着いている。外見と同じく、貫禄のある子なのか。と思ったら途中からテンパりはじめ、ツメ人形になってしまった。緊張しすぎて、何言ってるか自分でもわからなくなっているッ! 落ち着けッ! がんばれッ!
今回、『傾城阿波の鳴門』の上演を「巡礼歌」で止めている(おつるが帰るところで終了する)のは、初めて文楽をご覧になる方のため、おつるが実父に殺される残酷なシーンを避ける配慮をしたのだと思われる。が、「おつるはぁ、このあとぉ……」と、おつるが十郎兵衛に殺されることを喋ってしまいそうになっていた。そこで喋っちゃったら、ヤバさの方向性が師匠と一緒だよ!! と思った。

 

『二人三番叟』は、正直、大変なことになっていた。本公演でこれならブチ切れてた。(真顔ツメ人形)
人形が全然合ってないのはいいんですけど(ええんかい)、床、がんばれっ。『二人三番叟』は緩急のメリハリが重要な演目だと思うが、のっぺりと均一に演奏してしまっていた。少なくとも三味線は、人形を見て演奏するのはやめよう。人形待ちでもないのに人形を見て弾いてしまうと、竹本になってしまう。そこは「三味線が人形に合わせさせる」ではないのか。
問題は緩急のメリハリを誰がリードするかで、それは三味線のシンだろう。若いから仕方ないという部分はあるが、この方のこの手の(あえてこの言葉を使うと)失敗、何回も見ている。そろそろ階段を上がるための何かが必要なのではないか。

 

『傾城阿波の鳴門』は、人形配役は2021年4月大阪公演と同じく、お弓・勘十郎さん、おつる・勘次郎さん。
大阪とまったく同じ感想。有名どころでとにかくめいっぱいやって、観客の紅涙を絞る方向にいきすぎている。お弓という人の内面を表現しているのではなく、シチュエーションを説明している状態。文楽の場合、主人公が自分自身より大切な存在を思いやっているという心情が物語の要(かなめ)として設計されている場合が多い。この心情をどう表現するかが重要だと思うが、感動シチュエーションであることにとどまって、お弓とおつるという個人のドラマが表現されず、「お涙頂戴」の紋切り型になっていると思う。

でも、こういった場所で見ると、なぜ勘十郎さんがここまで過剰に「やりすぎる」のか、なぜ「お涙頂戴」へ向かうのか、わかる気がする。
和生さんは、「ただ人形を持って出ただけで、お客さんはわかってくれる」と新聞のインタビューに答えていた。しかし、勘十郎さんは真逆、「ただ人形を持って出ただけでは、お客さんはわかってくれない」と思っているのではないか。
こういった「前受け」狙いの芝居は、普通は、「俺が俺が」という目立ちたがり屋のエゴのあらわれだと思う。でも、勘十郎さんは、そういった部分はあるにせよ、大部分は、「極端にやらなければお客さんはわからない」「お客さんには、何かあからさまに形になったものを持って帰ってもらう必要がある」と思っているのが理由なのではないか。
お客さんをどういう存在だと捉えているのか、なにを求めて舞台に立っているのか。
「お客さん」って、どういう存在なんだろうね。私は、「お客さん」なのかな。

2021年4月公演は床があまりにもひどかったので、今回、太夫が錣さんで聞けて良かった。
やはり錣さんは「観音様」を「くゎんのんさま」で発音してるな。『壺坂観音霊験記』でもそうしていたので、意図的にこの発音でやっていると思う。

 

上演中は、客電をかなり暗く落としていた。文楽は、本公演は客席が明るい状態で上演する。地方公演では古典演目であっても暗めにする会場は確かにあるが、この会場はいわゆる普通の演劇等の公演くらいまで暗くしていた。錣さんなど技芸員の許可を得てやっていると思うが、「文楽初めての人でも、暗くすれば『いまから始まる!』と思ってもらえる!」という判断なのかしらん。

ところで、開演前にロビーのベンチで隣に座っていた人たちが、「これ知ってる。“ととさんの名は十郎兵衛、かかさんはお弓”っていうやつでしょ」と話していた。
「巡礼歌の段」は〈昔〉は〈みんな〉が〈知っていた〉演目で、特にこのおつるのセリフのくだりは有名だという話は、耳に三原名物オクトパスが1000000000000匹住み着くくらい、聞く。しかし、それってせいぜい大正時代くらいまでの話でしょ? そうでなければ地元の徳島の人が知識として知ってるくらいなんじゃないの? と思っていた。本当に〈知っている〉人が存在するとは。話していた人は広島弁系の喋り方だったので、おそらく地元の人だと思う。外見からすると60歳前後だと思われたが……、本当に驚いた。

 

あと、錣さんを初めて見たらしき人が、トークショーを聞いて「あの人、話聞いてると性格良さそう」「お人柄だね」と言っていた。そう思うよな……。私もそう思う。

 

  • 『二人三番叟』
    • 義太夫
      豊竹芳穂太夫、竹本聖太夫/鶴澤寛太郎、鶴澤清公、鶴澤清允
    • 人形
      三番叟[又平]=桐竹紋秀、三番叟[検非違使]=吉田簑紫郎

  • 『傾城阿波の鳴門』
    • 義太夫
      切=竹本錣太夫/竹澤宗助
    • 人形
      女房お弓=桐竹勘十郎、巡礼おつる=桐竹勘次郎

    • 人形部=吉田勘市(吉田簑之休演につき代役)*5、吉田簑太郎、桐竹勘介、桐竹勘昇

 

 

 

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配布パンフ。

行かれなかった方も錣さんのコメント文面が読めるよう、写真アップしておきます。

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ロビーにあった三番叟の顔ハメパネル。
又平、検非違使ともに顔部分がくり抜かれており、はめたいほうを係の人にお伝えすると、パネルの顔をはずしてもらえて、自分の顔を差し込めるという画期的(?)な設計。
これ、初めて見たが、文楽協会の所有物? この公演の主催者が作った? 人形との記念撮影以外のフォトスポットとして、いいな。

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SHIKORO・揮毫・色紙。

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生口島の思い出。

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生口島への行きのアクセスは、三原から出ている高速船を利用した。JR三原駅すぐ近くにある三原港から瀬戸田港まで、定員70人ほどの小さな船が1時間に1、2便程度、運行している。地元の人しか利用しない航路のようだった。桟橋から船に乗り移る用にかける板が若干アバウトで、船に乗り慣れていない私は若干海へ落ちそうになった。船体からは相当な歳月を感じられ、若干ちいかわになりそうになった。

終点瀬戸田港までの所要時間は約25分、料金は920円。チケットは港の自販機で購入し、船内で検札するという方式。瀬戸田より手前の途中の桟橋で降りる人は乗務員に声をかけてくださいと言っていた。ローカルなバス路線でよくある「降りたい場所で挙手してください」のさらにデンジャーなやつ?

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前述の通り、生口島は「普通の生活の場」というニュアンスが強い島ではあるが、しまなみ海道サイクリングなどの観光客が来るようで、一部、観光化している場所もある。例えるなら、内子町・直島などの最近発展した超小型に観光地化した場所と、小豆島のような古くからの中規模観光地とのあいだくらい。ただ、瀬戸田の町の中心部は島の北部、しまなみ海道は島の南部を通っているので、島の南部へ行くとまた様子も違うのかもしれない。島自体はかなりどでかいため、海岸線から離れると普通の「陸地」感覚となり、滋賀のどこかを旅行しているような気分になった。

島自体はでかくとも、町の規模が小さいので、技芸員さんがそこらをうろうろしていた。50m以上離れていてもわかるジジイ、島の名物とか全然関係なく「肉」の買い食いに並ぶ若造などがいた。その人らが写っちゃったんで、せっかく撮ったのにここには上られない写真が発生した。アイパーで写り込まないでッ! 途中まで、「田舎」やからアイパーの方がいまでも普通にいてはるんかなと素で思とったわ!

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海はとても美しい。水の透明度が高く、浅瀬を撮っても青く写る。波がほとんど立たないせいか、海面すぐ近くまで降りられる階段や、海面沿いの遊歩道などがあった。

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生口島の名所その1、向上寺の三重塔。

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島いちばんの名所、向上寺は、港すぐそばの高台にあるお寺。名所と言っても、地元の菩提寺の機能が大きいと思わる。ぱっと見はごくごく普通の小さな町のお寺だが、見どころは本堂のさらに上にある三重塔。室町期のものがそのまま残っており、国宝。私しか参拝客がいなかったので、ゆっくりとお参りできた。
三重塔からさらに高台へ登った先にある展望台は見晴らしがきき、周囲の島々を見渡せた。この風景が、ベル・カントホールの緞帳の図案になっているのだと思う。

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生口島の名所その2、耕三寺。

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瀬戸田で一番派手な観光地。宗教施設としてのお寺ではなく、博物館として営業しているお寺。入場料が薬師寺醍醐寺並み(というか、それより高い)で、びびった。
中はむちゃくちゃド派手で壮麗。地獄巡りができる洞窟、心象風景をあらわした(?)丘など、かなり個性の強い施設があった。トークショーで「昔は動物園があった」などのすごい話が出ていたので、どういうこっちゃと思って調べてみたのだが……、どうも、昭和初期に「立志伝中の人」的な実業家が建立したお寺で、「シュヴァルの理想宮」的なアレのようだった。
地元の方(というか錣さん)は「昭和に入ってから発展した新しいお寺」というイメージを抱かれているようだが、よくわからず入ってしまった観光客がめちゃくちゃ多数群がっていた。ホールから徒歩数分で行ける場所だからか、技芸員さんもいた。

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生口島の名所その3、亀の首地蔵。

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生口島と高根島の海峡に建っているお地蔵さん。漁師町では防波堤にお堂が建っているのをよく見かけるが、このお地蔵さんは海面からダイレクトに像が建っている。波が穏やかな瀬戸内海ならではか。
海の中とはいえ、お地蔵さんの帽子やエプロン、お供えしてある造花は綺麗で、普段から手入れされているようだった。防波堤にお地蔵さんの近くへ降りられる階段が設置されていたので、干潮になるとすぐそばまでいけるのかもしれない。
なお、「亀の首地蔵」という不穏な名前が示す通り、このお地蔵さんには文楽並にヤバすぎる伝説があるようだ*6

前述の通り、海の中に建っているため、あることを知っていないと防波堤に阻まれて見えず、存在に気づかない。特に観光案内で派手に宣伝しているわけではないが、世が世なら「バエ」るとして人がつめかけそうな「エモ名所」だと思う。
瀬戸内海は外海側のような波はほとんどないが、高根島と生口島の海峡だけは、海面に白い角が立って、潮が流れているのが見えた。

 

 


柑橘類が島の特産品のようだ。ところどころにレモンジュースのスタンドが営業していて、様々な種類の柑橘類を観光客向けに売っている八百屋さんもあった。お土産風の柑橘類は観光客向けに少し値段を盛っていると思われるが、それでも、国産レモンが東京ではまず考えられないほど安く売られていた。
お昼にはレモンパンケーキとレモンスカッシュを頂いた。国産の特権である皮ごと使用で苦味をいかした調理がされており、おいしかった。
郵便ポストや隣島へ渡してある橋がレモンイエローだったり、観光案内所の前には信じられないほどデカい柑橘類のオブジェがあったりと、町としてもアイデンティティを示すアイコンとして押し出しているようだ。

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島の至るところに、小さなお堂がたくさんあった。ぱっと見渡して視界に3つくらいあったりと、相当の密度。滋賀・琵琶湖沿いなどもお堂の多い地域だが、それよりも多い。港近くの防波堤にも、お地蔵さん用のぷち祠が数メートル間隔で埋め込まれていた。どれも古びているが、つねに手入れされているようだった。生活の一部だという息遣いを感じた。土地に根付いた信仰がたくさん残っている地域なのだろうか。

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帰りは尾道行きの小型フェリーに乗った。尾道行きは三原行きに比べて便数が非常に少なく、1日5便程度の運行のようだ。乗客全員明らかに観光客・サイクリング客で、地元の人は乗らないらしい。船自体も、サイクリング客対応として自転車の大量積載が可能な設計になっているものだった。
こちらは船に乗る直前に、乗務員さんに運賃を渡すという方式。瀬戸田から尾道まで1300円だったと思う。

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尾道駅周辺を少しだけ散策したあと、JRで福山へ移動し、のぞみに乗って東京へ帰った。楽しい旅だった。

 

 

 

*1:パンフに載っているこの公演の幹事の方のお名前で検索すると、なぜこんなにも大規模な公演を行えたのか、なぜ市長が直々に挨拶するのかをなんとなく察することができる。「シャカイテキチイ」のある「コウフンシタツメニンギョウ」は、「ヤバイ」。

*2:江戸で発展した、荒事を見せ場とした荒唐無稽な内容の人形浄瑠璃のこと。

*3:ただ、広島弁は「じゃろ」とか「じゃけぇ」みたいな語尾変化はともかく、イントネーション面では元々標準語にかなり近いらしい。とはいえ、広島の知り合いに聞いたら、よそものからすると一見標準語で喋っているように聞こえても、広島出身者同士だと、「あの人、めちゃくちゃ訛ってる!」と思うとのことだった。会場にチケット取り置きで電話したときや、来場して周囲の方が喋ってているのを聞くとほぼ標準語だと思ったが、司会のラジオパーソナリティーの方の完全標準語イントネーションを聞くとその落差がわかり、たしかにみなさん「なんか訛ってる」と感じる。しかし、どこが訛っているのか、私には説明できない。自分自身は関西弁ネイティブで、強いイントネーションがかかるタイプの母語のため、わずかな変化には鈍感なのかもしれない。

*4:大阪公演の初日は本人がロビー通路につっ立っているという心底謎の状況だったが、それでも人がたかり、列をなしていた。これまた別に「ご贔屓」でもなんでもない、ただの一般客が……。そしてそれを取材・撮影しているNHK……。カオスでしたね……。

*5:……って、なんでここまで格上のお兄さんがまろび出てくるんだ!?!??!? 勘十郎さんは自分が緊急で休演のときも勘市さん出てもらったり、かなり勘市さんに頼ってるみたいだけど。

*6:むかしむかし。瀬戸田水道(生口島と高根島の海峡)は潮の流れが穏やかで、船が多数往来する栄えた場所であった。それと同時に、このあたりにはたくさんの亀が住んでいた。そのうち「亀主」という亀の総大将が、通りかかる船を沈めては人をとって食べていた。やがて亀主を恐れて船の行き来が途絶えるようになると、亀主は村の住民に人身御供を要求するようになった。住民が迷惑していると、向上寺の小僧が出てきて、自分を食べてもいいので人身御供の要求はやめて欲しいと亀主にかけあった。しかしそれには「小僧を食うのは向上寺のご本尊の前で」という条件があった。亀主はそれを受け入れ、小僧について行くか、陸地へ上がって山の上にある向上寺への参道を登るうち、海の生き物である亀はだんだん弱ってきてしまった。そこを狙った小僧が刀で亀の首を刎ねるッ!! 亀主の首は飛翔し、海に落ちて、亀の首の形をした大きな岩になった。亀主がいなくなって船の往来は平和を取り戻すが、瀬戸田水道の潮の流れが速まり、亀の首岩付近で海難事故が多発するようになった。そこで住民は亀主の回向と航海の安全を願い、このお地蔵さんをおまつりした……とのことです。人喰いまくり亀も、人喰い亀を騙し討ちした小僧も、潮の流れが変わったのが亀の呪いなのかはわからないけど急に海難事故が起こり始めたのも、すべてが、怖いッ。亀=海亀=海の生き物という観点は、生活と海とが近しい島地域の伝説らしくていいですね。山沿い生まれの私にとって、亀とは、田んぼの用水路に這ってるやつです。たにしとかは食ってるかもしれないけど、人食うのは無理だね〜。

文楽 『木下蔭狭間合戦』竹中砦の段 まつもと市民芸術館

『木下蔭狭間合戦(このしたかげはざまがっせん)』の松本公演へ行った。

地方自治体の独立した自主企画公演だが、文楽座としては、3年前にロームシアター京都の企画で復活された同演目の再演という体裁になっている。これは、京都公演の際のプロデューサー的立場だった木ノ下裕一氏が会場「まつもと市民芸術館」の芸術監督に今春就任予定という縁での企画だと思われる。このホールで文楽が上演されるのは、20年ほど前の開場以来、初とのこと。



 

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まつもと市民芸術館」は、JR松本駅から大通り添いに15分ほど歩いたところにあった。
公演当日の天候は雪。湿って冷えた空気に大粒の雪がふわふわと舞い散る中、会場に向かった。

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外見は、地方自治体によくあるモダンな建築デザインのアートホール。しかし中に入ると、驚くほど空間に余裕のある建物だった。ヨーロッパの社交場を思わせるなだらかで長大なエントランス階段、ホール外周を取り囲む天井高のある広く長いホワイエなど、幕間に散歩できるほどにゆったりとした設計。土地に余裕がある立地とはいえ、本当にものすごく広くて、驚いた。最近はロビーが尋常じゃなくケチくさい(失礼)会場にばかり行っていたので、びっくらこいた。白と赤を基調とした空間、ランダムに配された有機的な形のくりぬき窓もしゃれている。
上演ホールは、4階層ある大型のもの。ダークトーンでシックにまとめられた内装で、建物自体のモダンさとは逆に、ややクラシカルな雰囲気。椅子がシアター用のそれではなく、「洋館にありそうな上品な椅子」を擬しているのが面白かった。左右で連結されていなくて、それぞれに脚がちゃんと4本あるんですよ! 巨大な空間に普通の椅子が並べてあるようだった。シートに張られたファブリックも家具調(シルク風?)で、上品かつ愛らしい。
音響はかなり良かった。巨大な空間であるにもかかわらず、太夫の声・三味線の音に違和感がない。文楽劇場国立劇場の中間くらいの音の質感。人形の足拍子もほぼ違和感がない。ここが松本でなかったら、今後の東京公演ここでええやん!というくらい、良かった。
本舞台はよくある地方公演会場と同じ。本舞台のやたら奥のほうに人形が出る/舞台面が高い状態だったので、人形の見え方は特にいいわけではなかった。また、客席の傾斜はかなりどきついほうだったので、後方席だと人形遣いの足元まではっきり見えていたと思う(解説でも言われていた)。

ただ、このホール、劇場としての機能に、ひとつ大きな問題がある。客席の椅子の前後間隔がめちゃくちゃビッチリ詰まっていて、足元の余裕がまったくない。歌舞伎座の幕見席より狭いんちゃうかという恐ろしい狭さ。小柄な女性でもひざが前の席に当たりそうになるくらいで、座りにくいし、出入りがものすごくしづらい。あまりに狭すぎて、場内に上着や荷物を持ち込むとしんどいほど。エントランスやホワイエがあんなに広いのに、なんで肝心の場内がこんな狭苦しい設計なのか不思議。私が松本市の納税者だったらブチ切れてるところだった。

観客は、地元の方が多かったのではないかと思う。事前説明での「今回文楽を初めて見る方〜」という会場向け質問では、8割程度の挙手があったようだ。ただ、前列席はおそらく普段から文楽を見ている人だと思う。私含め、前列席の人はほぼ挙手をしていなかった。

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浄瑠璃演奏は、3年前の京都と同じく、竹本錣太夫・鶴澤藤蔵。
かなり大変な曲のため、錣さんの年齢を考えると大丈夫かいなと思っていたが、前半は京都公演より明らかに良くなっていた。それぞれの人物や状況に対する描写力、表現力が上がっている。物語全体に対する登場人物のプライオリティ、社会的位置付けも整理されており、多数の登場人物が次々登場しても混乱することはない。関路の華麗さは人形の不足を補っていた。素浄瑠璃でも成立する演奏だった。
後半は、官兵衛の心変わりの表現、微笑みが漏れるかのような孫への言葉はとても良かった。当吉は老獪な官兵衛とはまったくキャラクターが違っていて、凛々しく若々しいのも好ましい。大落としはやや弱い。彼は手負いの老人なので、極端な大声で泣き叫ぶことはないことはわかる。ただ個人的には、そのジェットコースターの上り坂が少し低かったかなと感じた。本曲の一番の聞きどころは大落としではないので、わざとなのかもしれないし、大落としは状況によってうまくいく/いかないがあるのは理解しているけど、1回きりの公演だと、なかなか難しい。

 

人形は、良くも悪くも京都公演と同じだった。
配役・演出(演技)とも、京都公演をほぼ踏襲。そのため、京都公演からの3年間で出演者がどう変化したのか/しなかったのかが、はっきり見える状態だった。正直、同じか、なんなら……という人が多いように感じた。自分でテーマをもって追求しない限りは、再演といっても個々のその場限りの「頑張りました」でしかないので、まあ、こうなるか……。と思った。

そういうわけで、人形に対する感想はいろいろな意味で京都公演と同じになるため、詳細な感想は京都公演の記事を読んでいただきたい。以下、特記事項。

千里〈吉田一輔〉が自害するところは演技に変更があった。京都では背後にある矢立から矢を取って喉を突いていたが、今回は盃代わりの柄杓の柄を抜いて喉を突いていた。確かに、柄杓の柄の先端はものによって斜めにカットされて尖っている場合もあるが……、感覚的にわかりづらすぎないか? 矢立のそばまで移動するのがまどろっこしいと感じてのことなら、矢立をあらかじめ千里のそばへ移動させておけばよいのではと思うが……。本公演でも、いつのまにか動いている鎧櫃とか、心霊現象よく起こってるし……。
千里と犬清は、手負の演技をよく研究してほしい。京都では目をつぶったが、2回目でこれはない。これでははじめからずっと死んでいる。

当吉〈吉田玉志〉が清松を抱いて子守唄を歌ってやるところはド派手。子守唄を歌って踊る役といえば『ひらかな盛衰記』逆櫓の段の権四郎。それと同じにしたんだろうけど、権四郎はパンピーおじいちゃんのため人形が小さく、衣装も軽装。舞台で、可憐に、悲哀を帯びて見える。当吉だとあまりにも人形がでかすぎて、ショッピングモールのゲームコーナーのこども用乗り物が揺れているみたい。しかも衣装が派手、しかも船底でやる、そのうえ玉志がやってるせいで不要なまでに上手いため、インパクトがありすぎるッ。玉志さんは玉志さんで「すこし控えめに……」と考えてやっているようだったが、うーん。カオスッ。と思った。不用意にダイナミックに見えないよう、演出的な策が必要だったと思われる。
玉志さんは持ち前の真面目さを炸裂させて、ちょっとした所作にも凝りまくっていた。最後、「抱き上げたる後紐、蜻蛉結びも秋津国」というところで、清松を抱き上げて背中の帯(リボン結びみたいになっている)を客席に向け、めちゃくちゃしっかりアピっていた。玉志ッ! 浄瑠璃を重視しすぎて、肝心の人形の見せ方が不自然になってるッ!! 子供が死んでるように見えるでッ!!! と思った。この手の玉志さんの真面目すぎるゆえの迷走、個人的にはかなり好きだが、何度も観たことがあるわけではない演目でやられると、文脈の理解速度が遅れるため、くそやば感がすごい。ホンをちゃんと読んでない人は本当にダメだけど、玉志さんは玉志さんで過剰すぎるので、この思いつめを他の人にも分けてあげて🥹と思った。
ところでこの当吉、かなり上手い左がついていた。その人が当吉でもいいだろレベルの人では。上手い左といえば、官兵衛の左もかなり上手い人だと思われる。普段勘十郎さんの左に入っている人とは違う。本蔵やったことある人ではないでしょうか。

小田春永〈吉田玉男〉は、玉男さんに稀にある「本人にもよーわかっとらんのとちゃうか」系の状態になっていた。じっとしてて上品で貫禄があるところはいいんだけど、どちらかというと「くそでかい動物はあんまバタバタとは動かん」的な感じだった。玉男さんなのであえて書くが、京都のときのほうが凛としていてよかったかな。そもそも、春永、タマカ・チャンのほうが良かったんちゃうかとは思う。(本作の春永は「熊谷陣屋」の義経的役割。最後に出てきて、本来はNGのはずのことを通し、建前を作ってくれる役。寛仁さと颯爽とした気風が必要。タマカ・チャンにタリピツの役🥺)
春永が歩いて出てくるのが本当に良いのか、従者の出し方がそれでよいのかは、玉男さん自身も含めて検討してほしかった。

 

この演目についている人形の振り付けは、別の曲の流用や、文楽としての基本的な動作の踏襲が多い。そういった動作がどれだけできるか、普段の取り組みの如何も見えていた。また、話の流れを理解せず演じていると思われる役や、ひとりの人間の「像」としてまとまらず演技がパーツごとに細切れ化してしまっている役がみられた。そのような人が一場面に固まるとどうなるのかを見てしまったというのが正直なところ。ただ、いわゆる「名作」だと、配役問わず、なんとなくではあってもそれなりの見栄えが保証される。後述するが、人形全体の見応えがいまいちなのは、演出の問題が大きいとは思う。

あとは、足がやばいことになっている役が多かった。なぜこんな若手会並みのめちゃくちゃなことに???

 

 

 

  • 義太夫
    竹本錣太夫/鶴澤藤蔵
  • 人形
    娘千里=吉田一輔、左枝犬清=吉田玉助、竹中官兵衛重晴=桐竹勘十郎、妻関路=吉田勘彌、斉藤義龍=吉田玉佳、大垣三郎=吉田玉勢、樽井藤太=吉田簑紫郎、四の宮源吾=吉田文哉、小田春永=吉田玉男、此下当吉=吉田玉志、一子清松[黒衣]=桐竹勘昇
    吉田簑一郎、吉田勘市、桐竹紋臣、桐竹紋吉、吉田玉翔、吉田玉誉、吉田簑太郎、桐竹勘次郎、吉田玉彦、桐竹勘介、吉田玉路、吉田玉延、吉田簑悠、吉田玉征、豊松清之助
  • おはやし=望月太明蔵社中

 

 

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本編上演後、座談会。
基本的には京都公演でのトークショーと同様の内容だったため、差分のみ書く。錣さんは京都での登壇がなく、今回トーク初登場なので、内容詳しめです。

※源太夫(9代目)は藤蔵さんの父。早大での「竹中砦」復活演奏当時は綱太夫(9代目)を名乗っていたため、木ノ下さんは「綱太夫」とおっしゃっていることもあったが、藤蔵さんや錣さんにとっては最後の名前「源太夫」なのと、現在一般的にいう「綱太夫」は8代目(咲さんのパパ)をさすことが多いと思うので、以下、藤蔵パパはすべて「源太夫」に統一しています。

 

竹本錣太夫

「竹中砦」は、かつて、師匠・竹本津太夫も演奏した。とても大変な演目で、自分が文楽に入門した際、師匠のところへ挨拶に行ったら、おかみさんが「うちのお父さんすごいんですよ、竹中砦をラジオで入れはった(収録した)んですよ」と自慢されたほど、太夫にとって負担が大きい、激しい曲。
藤蔵さんと組むにあたり、藤蔵さんと源太夫師匠のやりかた、師匠(四代目竹本津太夫)のやりかたが違っており、2人で話して「こちらでは源太夫師匠のやりかたを」「ここは津太夫師匠の方が良い」と検討し、仕上げていった。(藤蔵さんから、「竹中砦」はいろいろな人形座で伝承されていた曲なので、人によってやりかたに細かいバリエがあるという説明あり)
今回使った自分の床本は、津太夫師匠のものをお借りして、あらたに書き直したもの。津太夫師匠の本はお返しして、自分のものには心覚えを書き込みまくっている。藤蔵さんの持っている、越前少掾から代々伝えられている床本とは違って、なんの価値もありません!!!(笑)
「竹中砦」は、登場人物が全員、自己主張が強い。普通はまわりの人が引き下がって遠慮するところ、だれも引き下がらず、「わたしはこう思う!!!!」と言い続ける。お客さんにとってはうるさくて仕方ない!
どこが大変か? 3人の注進が大変だと言われる場合があるが、注進は三味線に乗って流れでやればいい。走って止まっての計算はやりやすい。そういう意味では「しんどそうにやればいい」だけ。難しいのは、抑えたところ。官兵衛が悔しがり「よくも恥辱を取らせたな」と言うところや、孫に対する情愛といった、「自分の気持ち」を表現するところ。大きな声を張り上げることはできない。大きな声は太夫にとっては実はラク。ぐっと締めて一生懸命やるところこそ大変。
かしらに合った表現は重要。今回はまず楽屋入りしたら、人形のかしらを見に行った。関路に婆を使うのか、老女形を使うのかで、表現が変わってくる。稽古も2通りで準備しておき、決定した老女形のかしらで演奏した。かしらについては、若い頃に大序をやっているとき、語りとかしらが違うと先代桐竹勘十郎師匠からお叱りを受けたことがある。

 

鶴澤藤蔵

三味線も、激しいところのほうが発散できるのでラク。お客さんが退屈するようなところのほうがしんどく、難しい。具体的には、マクラ(官兵衛の出)。三段目の切の雰囲気を出して、三段目らしく弾く。
(そのほか、かつて早大で素浄瑠璃復活演奏をした際のいきさつや復元方法、父源太夫の曲に対する思い入れ等を説明。越前少掾から源太夫に伝わった床本を「わたしは三味線弾きなので、舞台では使わないんですけど」と言いつつ、お持ちになっていた)

 

桐竹勘十郎

官兵衛のかしらに「口開きの鬼一」を選んだのは、普通の口が閉じた鬼一より、口角が「へ」の字型に締まっているいるから。その引き締まりが欲しかった。
(そのほか、京都での復活上演依頼当時のいきさつや、廃曲になったのが昔すぎて、簑助さんに聞いても「知らん!」と言われた話などを披露)


錣さんは妙にテンションが高かった。ふだんは落ち着いた喋り方の方だと思うが、いつもより元気よくお話しされていた。演奏後すぐのご出演で、興奮されていたのかな? 微妙に髪の毛がグシャっていて、かばのように口を左右にもごもごしているのが、かなり良かった。(かばみたいで好き)(口もごもごは本編で出てきたときからやってたが)(かば大好き)(もごもごしている理由は謎)

勘十郎さんは「官兵衛は口あきのかしらでも、口を開くところはない」と話されていた。しかし、実際には開いているところがあった。無意識なのか、それとも操作のアヤなのか。勘十郎さんは言っていることとやっていることが違う場合が多くあるが、それにどういう意味あるいは意図があるのか。いつも興味深く思うところだ。
簑助さんは、かつて「竹中砦」が最後に人形入りで上演された当時は「1歳」だったので、実際の舞台がどのようなものだったかは知らないそうだ。吉田文雀師匠は、文楽劇場発行の『文楽のかしら』の「鬼一」のページの解説で「(鬼一は)『木下蔭狭間合戦』の竹中官兵衛に使う」と書いている。文雀師匠は、かつて「竹中砦」が実際に舞台にかかっていた当時の出演者から伝え聞いた話を残してくれたのだろうか。文雀さんの場合、最後の上演当時は6歳なので、本人が直接観ている可能性自体はあるのと、当時の舞台写真で官兵衛が写っているものが残っているので、それを見て言っている可能性はあるけど。先人から伝え聞いている可能性があるという点では、簑助さんも一切知らないわけでもなさそうだ。

かしらと語りが合っているべきという話はよく聞く。文楽イイ話のテンプレの一つと言って過言ではない。しかし、その話をしている当人であっても、はたしてかしらにあった遣い方をしているかというと、私の感覚では必ずしも「そうではない」と感じる。かしらに合った表現とは何なのか。文楽の大きなテーマだと思う。

少し残念なのは、先人へのリスペクトに欠けているのではと思われる部分があったこと。かしら割は、かつて早大の復活企画の際に源太夫が考案したものなどを参考にしているのではありませんか。関路に老女方を振る考え方も、源太夫がほぼ同じことをコメントしているはず。誰がやってもこうなるだろうなという割り方だし、すべて完全一致しているわけではない。でも、一言あってしかるべきではと思った。

 

 

 

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なにはともあれ、「竹中砦」を再演ができたことは良かった。場所が前回は京都、今回は松本ということで、お客さんの層は大きく入れ替わっていると思うが、とにかく、やれて良かった。
会場側もよくこの演目で承諾してくれたなと思う。本来はもっと平明で派手な演目のほうが良かっただろうに。京都や滋賀、石川の自治体だと、文化事業にかなり力を入れている(予算を持っている)ところがあるイメージがあるが、松本市も結構やる気がある自治体なのだろうか。本当にありがたいことだ。

次の再演は、もしかしたら違う配役になるかなと感じる。いずれ「竹中砦」が国立劇場の公演に採用され、演出等を検討しなおした上で再演されることを望む。

 

 

 

 

┃ 備考記事

全段のあらすじ解説

2021年ロームシアター京都公演 本編感想記事

トークショーまとめ記事

 

 

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付記1 「わかりやすい」の押し付け

「わかりやすい」って、本当にそんなにも大事なことなのだろうか?
このブログでは繰り返し書いているテーマだが、今回公演ではより深刻にそれを感じた。

この公演では、本編上演前に45分の前説と、詞章だけではない解説字幕を出すというサービスを行っていた。
前説で、文楽鑑賞教室公演でやるような「人形の動かし方」説明をやるのは、良いと思う。人形は文楽の一番キャッチーな点で、美術品としての価値も高いので、ゆっくり見てもらえる良い機会だと思う。
でも、あらすじ説明が25分近くあるのは、長すぎ。竹中砦の場合、話自体はたいして面白くない。延々とあらすじだけ、しかも時系列で並べ立てるだけを図解もなく25分喋られても、かなり、苦痛。それは、「わかりやすく解説しました!」と言えることなのだろうか。『勧進帳』のうしろのほうでずっとじっとしている四天王や番卒の気持ちになって拝聴した。
また、字幕で「ここに注目!」というみどころを表示するという件。一部の能楽公演においては、間狂言は演者が喋っている内容を字幕表示するのではなく、シーンとしての概略を表示している場合がある。また、文楽でも、鑑賞教室の英語字幕公演だと、字幕には概要を表示している。寺子屋だと "Yodarekuri is a litte of fool." とか出る。ただ、上演中にそれを見るようにと勧めるというのは、エゴがすぎるし、そもそも、第三者の「注目ポイント」なる解説を二十箇所とかのレベルで上演中に出す必要があるのかと思う。利用が任意であるイヤホンガイドで「見どころ」を解説するのは、それを聞きたい人だけが借りればいいので、理解できる。が、字幕は強制的に視界に入ってくる。あまりにも嫌すぎたので、字幕は一切見なかった。解説が長くて嫌だった云々は、極論、嫌だったのに退席しなかった私が悪い。聞きたくなければ出ればよかったんだから。でも、字幕は本編にぶら下がっていることなので、拒絶できない。本当に勘弁してしかった。(とはいえ、もとから字幕は一切見ないので、偉そうに言っても滑稽なんですが。字幕を見ない理由は、見なくてもわかるからとかではなく、となりの席の人がゴソゴソしてるとか拍子取ってるのが不快なのと同じ意味で、私にとっての文楽鑑賞の主目的である人形以外の余計なものが視界に入るのが嫌だからです)
字幕で配慮すべきは、ワンポイントアドバイスを表示することではなくて、詞章を旧かなづかいではなく新かなづかいで表示することなのではないのかと私は思う。

古典芸能の「現場」での、わかりやすい、わかりやすいの連発には、違和感しかない。
「初心者」の方が、わかりやすいのがいい!と願うのは構わない。でも、「やる側」が無責任に放言することばじゃないと思う。じゃあいったい、あなたたちはなにをわからせたいの? あなたたちがやってることは「わかりやすい」とみずから名乗るほどのクオリティがあるの?
わかりやすい、わかりやすいとばかり言っていると、古典芸能が「確実にわからないといけないもの」「わからないと許されないもの」のようにとらえられる。そもそも、程度問題はあるとはいえ、完璧にわかることなど、ありえない。何十年も見ている観客どころか、演者、研究者であっても、わからないことは確実にある。なのにしつこく「わかりやすい」ばかり強調される現状は、おかしい。
「わかりやすい」を、わからないことへの脅しの言葉、わかることを強要する言葉に使うのは、やめてほしい。わからなければ、また見るか、調べればいいことを伝える。また見る方法や調べる方法を知らせることのほうがよっぽど大切だと思う。
というか、わかりやすいとかわかりにくいとか以前に、京都でもそうだったのだが、解説に微妙に間違っているところがあるのが気になった。誤って捉えられかねない言い方をするのもやめてほしい。

 

 

 

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付記2 人形演出に関しての批判と検討

同じ配役で同じ演目の再演ということで、いろいろ思うことがあった。
前述の通り、人形演出はほぼ京都公演を踏襲していたが、せっかくの再演なら改良を目指して欲しかった。

この演目、話の内容や演奏は『絵本太功記』尼ヶ崎と雰囲気が近く、切れ目なくスピーディに畳み掛けるような迫力がある。にもかかわらず、人形は、『増補忠臣蔵』本蔵下屋敷みたいなんだよね。本蔵下屋敷、誰も面白いと思っていない演目の筆頭(失礼)。むしろ、本蔵下屋敷は最後に琴を弾くシーンがあるだけ、まだマシ。それくらい、人形演出が退屈というか、単調。

  1.  人形の空間的位置移動がない。メインの登場人物がずっと屋体の中にいるままなので、舞台空間の立体性が感じられない。
  2.  前向きか横向きの演技しかない。後ろ姿(振り返り)などの見た目に変化が出る振りがない。また、常に単独の演技であり、ペアになる演技などの変化がない。
  3. 動きのテンポにメリハリがなく、画一的。メリヤスや人形待ちなど、音と人形のバランスをみた緩急づけがない。
  4. 演技上の強調点がない。曲のハイライト=大落としなどの聞きどころが見どころとリンクしていない。

真逆なのが、「尼ヶ崎」。「尼ヶ崎」は、本当によく出来ていると思う。
光秀や操は、詞章と関係なく、屋体・庭先を行き来して演技を行う。操は特にそうで、通常時は屋体の中で手負いの介抱をしているが、クドキになると、文章自体とは関係なく庭先に降りて踊る。クドキのあとには、光秀と屋体/船底で向かい合って決まるという、2人ペアとなる動きもある。
最後に光秀が物見の松に登るところでは、本床の演奏を止めてメリヤスになり、光秀が松に登る上下移動(+道具を引く背景転換あり。背景書割と屋体が動く)のも、物語の区切り、転換点として大きい。久吉が武将の出立となって再度出るところでは、光秀が後ろ姿となってその出を迎えるという型があり、舞台上の複数箇所にアイキャッチが作られている。
伝承曲、しかも人気があり上演回数が多い演目というのは、本当に洗練されているのだなと、よくわかった。何百年もかけて、出演者と観客によって磨かれてきた演目というのはすごい。古典芸能としての価値が歴然とある。と思った。

上記は、個々のシーンの演技のパーツをどうするかに気を取られ、浄瑠璃の全体像の設計(山と谷、緩と急、緊張と緩和)の把握ができていないことによるものだと思う。全体を見てディレクションする演出家が存在しないことが原因だろう。もしくは、それに準じる役割を果たすことができる文楽座座員がいればいいのだが、そういうわけでもない。それはもう仕方ない。先細り業界の宿命だと思う。

 

ただ、浄瑠璃本文を大切にすることはできるはずだ。以下の2点は文章に沿った検討をしなおすべきだったと思う。

関路の軽視は問題が大きい。
彼女は、屋体の中を右往左往してるだけの、なーーーんもできず、状況に泣くだけのかよわいお母さん、ではない。全段上演した場合、関路はかなり重要な人物に設定されている。「竹中砦」は竹中官兵衛(斉藤軍)と此下当吉(小田軍)の軍師対決の構造を下敷きにとっているが、実は、直前の段に、前哨戦として官兵衛の妻・関路と当吉の妻・賤の方が対決する場面が入っている。関路もまた官兵衛と同等に頭が良く、貫禄がある女性なのだ。そもそも犬清を砦へ連れて帰ってきたのは関路だし、清松を当吉側に譲ったのも関路。政治的取引として彼女が犬清と清松を引き換えたのだ。また、今回上演では端場がカットされているのだが、その部分で関路と千里が重要な話をするくだりがある。カットされるのが惜しまれる大切なシーンで、そこでも関路は大きな存在意義を持っている。上演部分に関路の主体的な活躍の場がないからこそ、彼女の重要性を踏まえた演出が必要だと思う。
ただ、極論(というか、文楽の一般論かもしれないが)をいえば、自分に蓄積がない役は演じられないし、演出できないということだとは感じた。

最後の官兵衛と清松との対面で、清松を鎧櫃に乗せる演出。
2人が顔を向き合わせて対面する演出自体は、良いと思う。でも、鎧櫃に乗せることについて、「赤ちゃんを戦争の象徴である鎧櫃に乗せるという対比が云々」と誉めそやした解説がされていたことに違和感がある。私は、だからこそ、ダメだと思うからだ。
当吉が密かに連れてきた清松を皆に見せるとき、彼はどこから清松を出すか? 背中につけている母衣(ほろ)の中からですよね。

「ヤア/\官兵衛。義龍が首取ったる当の敵。左枝犬清、見参せん」
と槍提げて駆け来る母衣武者。歩み寄って頬当兜かなぐり取れば此下当吉。御前に向ひ謹んで。
「この久吉が下知に従ひ敵地に入て命を落し。謀を行ひしはあれ成る犬清。又戦場にて義龍を討ち取り。武功を顕はす犬清は則是に」
と槍投捨。母衣絹取れば背負し稚子。ヤア清松かと手負の千里寄るも寄られぬ深手の苦痛。母も心根思ひやり千々に乱るゝ胸の糸。久吉重ねて。此稚子の犬清に御勘気御赦免下さらば。我に加増の君恩にも遥に増る御仁恵と思ひ。入てぞ願ひける。

母衣とは、騎馬戦の際、流れ矢を防ぐために背中にかける袋状や吹き流し状の布。防具、つまり武具。文楽では『一谷嫰軍記』で熊谷や敦盛が出陣の際の衣装として身につけており、ご覧になったことがある方も多いだろう。
ははのころもと書いてほろと読ませる優しい字面なのに、実は戦争の道具。そこから赤ちゃんを取り出すというギャップのインパクトは、浄瑠璃本文の中にすでに備えられている。
また、織田信長は、側近の中から優秀な者を選りすぐり、黒あるいは赤の母衣をまとわせた精鋭「母衣衆」を形成し、戦場に出陣していた(そもそもの「小田軍の母衣武者が無双の活躍をする」という設定も、この逸話から来ているのだと思う)。その小田軍の母衣の中から清松を出している時点で、「犬清を許す、官兵衛を仲間へ迎える」という春永や当吉の心も表現された、非常によく出来た仕掛けにもなっている。

「赤ちゃんと戦争の対比」という鮮烈な見せ方は、清松が登場した時点で終っているにもかかわらず、対面の場面でも安直に重ねることは本当に必要なのだろうか。そこで描くべきは、生命と戦争の対比といった「一般論」ではなく、官兵衛という個人と社会、彼がそれまで信じていたものと新しい価値観との葛藤、相克なのではないか。

私は、官兵衛と清松の対面は、官兵衛が屋体から降りて、船底にいる当吉から受け取るという方法にしたほうがいいと思う。重要なのは、官兵衛の心理の変化をどう表現するか。人形の居場所がこれまでとは変わるという見た目の変化は言うまでもないが、官兵衛がはじめて主体的に動き、立ち位置(物理的にも精神的にも)を変えるという意味も打ち出すことができる。あの屋体というのはまさしく官兵衛の心の砦で、そこにずっと閉じこもっていたにもかかわらず、孫(家族)によってそれが突き崩され、彼の心境は変化し、外へ出ていくのだから。
もし、「赤ちゃんと戦争の対比」が何度も繰り返して表現しなくてはいけないほど重要であると考えているなら、重ねる意義を持たせるためのひねり、洗練が必要だと思う。

 

京都初演時は、まず復活させたこと自体が立派なので、ある程度荒削りでも仕方ない、ズレた手柄話が出ても仕方ない。アガリに文句言うだけなら誰にでも出来るし。そう思って余計なことを言うのは控えたけど、今回は再演。検討しなおすチャンスだったと思う。
木ノ下さんは本来はプロの演出家とはいえ、この企画ではプロデューサーだろうから、演出へはノータッチなのだろう。変な持ち上げを言うのはやめて欲しかったが、責任を問われる立場ではない。けど、文楽座の座員(出演者)はクオリティアップへの責任がある。本当にこれを言ったら終わりだとは思うけど、人形が浄瑠璃演奏よりもクオリティが数段低い状態になっているのは否めない。いまは一人の天才やスターが座を牽引している時代ではないし、創造性があることと小手先が器用なことは違う。だから、チームとしての力が必要だと思う。「より一層いいものを作ろう」という目的を共有することが、本当は、座(チーム)として、一番大事なことだと私は思う。次の上演機会には、より洗練された舞台を望む。

 

この公演を見る前日、国立映画アーカイブで、栗崎碧監督の『曽根崎心中』を観た。
文楽の『曾根崎心中』を劇映画として撮影したという映画で、徳兵衛役として初代吉田玉男が出演している。大きなスクリーンで見てよくわかったのが、徳兵衛の振り付けの秀逸さ。
徳兵衛の内面性や性格を表現する現代的リアリズムを踏まえた演技。舞台に華やかさや文楽らしさをもたせるための人形の型の特性を踏まえた演技。そして、女形の足を使って情感を表現するという、古典にはなく新たに発案された興行の目玉となる演技。これらがバランスよく盛り込まれている。
これらの徳兵衛の演技は、初代玉男によって復活上演のために考案されたものだ。つまり、これも、伝承が無く、手がかりもない状況から、復活にあたって新しく振り付けを考案したということ。あれ見て、「徳兵衛の演技がのっぺりしてる」「単調で飽きる、深みがない」とか、誰も思わないよね。なんなら近松初演からああいう演技だったんじゃない?とみんな思っているでしょう。伝承曲である『冥途の飛脚』や『心中天網島』の人形振り付けに劣るとは思わない。
むろん、復活初演の初日や再演の2回目からこのクオリティだったとは思わない。初代玉男は浄瑠璃に寄り添い、より情感をもって徳兵衛という人物を表現するには?という研鑽を重ねたからこそ、あの徳兵衛が成立しているのだと思う。生涯をかけて研鑽を重ねれば厚みが違ってくるのも当然といえる。その「研鑽」が、本当に重要なのだと思う。そもそも、「自分のやったことを顧みて改善する」「納得できるまで検討する」ことができる、それ自体がなにものにもかえがたい才能なのだろうなと思った。