TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

せとだ文楽 『二人三番叟』『傾城阿波の鳴門』巡礼歌の段 ベル・カントホール

広島県生口島で行われた「せとだ文楽」へ行ってきた。

生口島は、瀬戸内海の中ほどに浮かぶ大きな島。広島県に属し、本州(広島県尾道市)四国(愛媛県今治市)をつなぐ「しまなみ海道」上に所在している。東京からは新幹線でも飛行機でも、およそ5時間ほどかかる場所だ。

なんで生口島
場所が唐突すぎんか??

と思われる方も多いだろう。
実はこれ、錣太夫さんの地元凱旋公演なのだ。
これがもう本当に……、いままでに行った文楽公演の中でも、一番、心温まる公演だった。島の雰囲気、公演の空気感に、まるで自分が昭和の人情映画の中に入り込んだような感覚を覚えた。
そういうわけで、今回は、いつもの公演感想とはちょっと違う体裁でお送りします。

 

 

 

◾️

「せとだ文楽」の「せとだ(瀬戸田)」とは、生口島の町の名前。錣さんは中学生までを生口島瀬戸田で過ごしたそうだ。この公演は、その時代のご友人、小学校同級生の方が中心となって企画されたとのこと。そのため、公演名には「六代目竹本錣太夫襲名記念特別公演」という冠がついている。

公演当日の朝、快晴のもと、三原から高速船に乗って瀬戸内海を渡ること25分。瀬戸田港に着くと、こじんまりと静かな町の風景がそこにあった。チェーン店や大きなビルなどは見えず、新旧の小ぶりな建造物が路地沿いにちょこちょこと立ち並んでいる。昭和の時代より随分人口が減ったそうだが、住宅はたくさんあり、生活している人は多いようだ。海沿いの漁船の係留場所では漁師さんが船の手入れをしていたり、防波堤に設置されたベンチや商店の前でご近所さん同士が歓談していたり、お寺の住職さんが法衣のまま軽トラ運転していたり。小綺麗に整備された港の前の小さな広場では、中高生くらいの子たちがひっきりなしに遊んでいて、おしゃれに気を使ってます!という格好の地元風の若者も歩いており、過疎化・超高齢化といったような荒廃した雰囲気はない。人の息吹のあるのどかな田舎町といった風情だ。
島にはいくつか観光スポットが存在し、近年出来たらしい若者観光客向けの店や宿泊施設もある。そういった場所にはしまなみ海道経由で来ているらしきサイクリング客や観光客が散策していた。

f:id:yomota258:20240319115004j:image

f:id:yomota258:20240319133049j:image

f:id:yomota258:20240319115007j:image

f:id:yomota258:20240319115015j:image

f:id:yomota258:20240319115011j:image

 

会場は、港から島の中心部へ向かって15分ほど歩いた場所にある「ベル・カントホール」。島の文化会館的な施設で、数十年の潮風にさらされて古びた雰囲気のコンクリート打ちっぱなしの建物が、図書館や観光案内所と共に建っていた。

f:id:yomota258:20240319114010j:image

当日はとても天気が良い日だったので、しばらく施設前の広場に置かれたベンチでのんびりしていたのだが、暇だしそろそろ行くかと思って、開演45分前くらいにロビーに入ったら……

 

ツメ人形ウルトラ大パーティーが始まっていた!!!!!!!!!

 

狭いロビーが人でごっちゃになっており、ツメ人形ウルトラ大パーティーとしか言いようがない騒ぎになっていた。
うそやん。
外、あんなに静かやったやん。

『ひらかな盛衰記』松右衛門内の段の冒頭で、権四郎宅の近所に住んでいる在所ツメ人形たちが茶飲み話(実は法事)で大盛り上がりしている場面、ありますよね。ガバガバ茶ぁ飲んで、野放図に喋りまくってる。まんま、あれ。あの場面はツメ人形4体しか出てないですけど、おツメたちが数えきれないほど集まってきたらどうなるか、想像してみて。ロビーが狭い会場のため、溢れかえったツメ人形が通路やホール内でもわあわあ大騒ぎ状態だった。ツメ人形、大集合ッ。
こはいかに!?!??!??!と思っていたら、私服和装の錣さん本人がロビーに受付として立っていた。そこがツメ人形大騒ぎの中心地で、同級生やお知り合いと思われる方々が集まり、ひっきりなしに大盛り上がりしていた。

錣さんの同級生が企画幹事とは聞いていたものの、自治体が文楽協会から単発公演のパッケージを買った(=錣さんを通して公演を買い取った)公演かと思って来たので、「ほ、本当に『六代目竹本錣太夫襲名記念特別公演』だったんだッ!!!!!!!!」と、ものすごくびっくりした。お知り合いや同級生に囲まれ、錣さんは「タメ口」ではしゃいでいた。心からの満面の笑み、とても嬉しそうで、開演前の時点ですでに感動してしまった。

大騒ぎしているのはお知り合いの方々だけではない。ご来場されている方々が全体的に大騒ぎツメ人形と化している。人形(おつる)のグリーティングの記念撮影に人が並んでいるのは言うまでもないが、なぜか『二人三番叟』の顔出しパネルが設置されており、そこにも人がたかっている。

そういえば、会場の直接販売分の紙チケットはちゃんとオリジナルデザインだし、入場時に2つ折とはいえオリジナルパンフレット(錣さんコメント、出演者全員の顔写真つき)をいただいた。会場の規模に比して案内係の方もたくさん立っているし、相当力が入った公演だ。地域を挙げての大イベントなのか???

 

 

 

◾️

開演時間になると、コンパクトな場内は観客で埋め尽くされた。

そもそも、人、集まりすぎてて、驚く。私がこの公演の存在に気づいたのは、公演日の1ヶ月ほど前。チケット発売後から2週間ほどしか経っていなかったはずだが、その時点でぴあ販売分が完売していた。やばいと思って会場へ直接電話し、会場手持ちの残席を取り置きしてもらったが、2階後方しか残ってなくて、と言われた。そして当日は満席。
コンパクトといっても、このホールの定員(今回販売している1〜2階の合計席数)は530席ほど。そもそも、生口島の人口は8,300人ほどのはず(2023年国勢調査)。私のように文楽自体が引いている外部の客がそれなりに来ているにしても、ロビーや客席でワイワイやっている方々の漏れ聞こえる話を聞いていると、来場者は地元の方が多いようだった。あまりに住民が集まりすぎていて、驚いた。ツメ人形はツメ人形を呼ぶ!!!

でも、一番驚いたのは、午前中、島の中を観光していたときに見かけた地元住民の方が来場されていたこと。あんな「普通に歩いてる人」が「文楽」に来るんだ!!!!! しかも錣さんの知り合いなんだ!!!!!(受付で歓談されていた)と、本気で驚いた。
(「驚いた」が多い文章)(丹波哲郎?)

 

公演の番組編成は、次のようになっていた。

  1. 司会より開会の挨拶(FMおのみちパーソナリティ・河上典子)
  2. 尾道市長挨拶
  3. あらすじ解説(竹本聖太夫
  4. 『二人三番叟』
  5. 『傾城阿波の鳴門』巡礼歌の段
  6. アフター・トーク「おかえりなさい!錣太夫さん」〜錣太夫さんに聞く、文楽の魅力(竹本錣太夫/河上典子)

まずは司会の河上典子さんから、瀬戸田出身の錣さんが2020年に「錣太夫」の名跡を襲名したこと、2022年に太夫の最高格である「切語り」に昇格したことが説明された。
尾道市長の挨拶がついているのは驚いた。確かにこの公演、主催が「尾道市」と「中国新聞備後本社」の連名になっている。そのなかで「尾道市のエライ人」が挨拶するのは「田舎」の行事らしいと思うのだが、市長!?!?!??!?!? こういうの、普通、副市長とか、文化事業関連の上の人じゃない!?*1 市長さんは、住民への挨拶(生口島尾道市)はスムーズにお話しされていたが、文楽についての説明でテンパられて、ツメ人形と化していた。実は司会の方(この人は三人遣い顔だった)も文楽全然わからないため、のちほど大変な事故が起こることになる。

 

 

 

◾️

太夫さんによる簡単な(カオスな)演目解説ののち、『二人三番叟』。

三番叟が踊っているのを見ていて、ああ、これは、錣さんの襲名披露のお祝いなんだろうなと思った。
錣さんは襲名時、ご本人の意思によって口上幕を設けず、簡単に床で呂太夫さんが口上したのみでしたよね。そのぶん、大阪では直前に上演した景事『七福神宝の入舩』で寿老人役の玉志さんがお祝いのプチ幕を下ろすなど、出来るだけのことを皆さんなされていた。
でも、典型的な祝儀演目である『二人三番叟』をつけて「六代目竹本錣太夫襲名記念特別公演」を行うというのは……、これが錣さんの本当の襲名披露公演なんだなと思った。『二人三番叟』自体の出来自体はどうかと思ったが(突然の冷静感想)、これで本当に襲名のお祝いができたのだと思ったら、泣けてきた。

籾の段(鈴の段)に入ってから客席から手拍子が起こってしまい、カオスになった。ツメ人形が大集合すると、大変なことになる。

 

 

 

◾️

本編『傾城阿波の鳴門』巡礼歌の段。

今回の公演のメイン、錣さんの出番。
いまの文楽で「巡礼歌の段」を語らせたら、錣さんが一番だろう。お弓・おつるそれぞれの持つ健気さ、一瞬訪れたかに見えた幸せがホロホロと崩れていく空気感がよく出ていた。彼女ら個々にある性質、内面の表現の的確さは非常に秀逸。かなり世話がかった場の中で、お弓はどう振る舞うのか、親のことをよくわからず育ったおつるはどういう言動をするのか。それが自然な形で舞台にあらわれていたように思う。

錣さんの語りには、「こころが動く時間、向き」がある。人物の目線がどこに行っているのか、どこに向かって声を出しているのかがわかる。いま、彼や彼女の心のうちを大きく占めているのが何なのかが語りのうちにあらわれている。お弓なら、目の前にいる実の娘おつる。もう気になってしかたない。落ち着かなければいけないのに落ち着けず、口から声が先に出てしまっているようだ。『曾根崎心中』のお初なら、彼女の心のうちにあるのは徳兵衛。しかし徳兵衛は打掛の内側に入れて足元に隠しているので、彼女は目を閉じて、自分の心の内面に目を向けて思いを語る。そのため、悪魔憑きのような口調になる。
そういった、目線が動く向き、その時間をあらわす「間(ま)」、声が出る向きと、これまたその「間」が伝わるというのが、良い。

錣さんはいつも床が回ったときには口をかばのようにモゴモゴとしているが、緊張されているのか、このときはじっと固まっていた。

 

 

 

◾️

トークショー

緞帳の前に床机を並べ、司会の河上典子さんが錣さんに話を聞くという形式。
司会の河上さんがつないでいるうちに、錣さんが汗をフキフキ現れた。「すごい汗ですね」と声をかけられると「最近は全然汗かかないんですけどねぇ」とおっしゃっていた。いやいや、袴に、水たまりみたいに汗落ちてるから。と、観客のツメ人形全員が思った。
以下、トークの内容。適宜補足し、内容をとりまとめています。

※ここから撮影可

f:id:yomota258:20240319115120j:image

 

▶︎さきほどはすばらしい演奏でした。太夫さんというのは、役になりきって語られているのでしょうか?

なりきる直前で止める! なりきってはいけない。なりきりる寸前で、それを冷静に見ている自分がいる。(いなくてはならない)

 

▶︎本日は同級生の方がたくさん来場されています。昨夜は緊張して眠れなかったとか。

文楽は、初春公演が毎年1月3日から。2日は稽古がある。そのため同窓会に呼ばれてもでられず、いつしか全く呼ばれなくなった(笑)。さっき受付で来てくださったみなさんに挨拶したが、もう誰が誰だか全くわからなかった(笑)。

 

▶︎ふるさと・瀬戸田の思い出は? 帰ってこられてのご感想は?

わたしが育ったころは一番人口が多く、小学校は45人学級が2つあった。当時は柑橘類の栽培の嚆矢で、いまは衰退したが、銅、造船も地域の産業として大きかった。当時は耕三寺(瀬戸田にある大きなお寺)の出来始めで、「動物園ができるみたいやで」などの話題でもちきりだった。
きのう港のまわりに行ってみたら、崩壊した家や崩壊しかかった家が並んでいたのがすっかり綺麗になっていて、驚いた。いまはサイクリングの人が多いようで、兄貴の車に乗せてもらってしまなみ海道を走っていると、自転車がどんどん横をすり抜けてきて、怖かった!
この会場の向いにある平山郁夫美術館は、きのう、連れていっていただいた。館長さんともお話させていただいたが、最近は入場者数が頭打ちとのことで、みなさん、行ってください!(それ今ここで言うか!?)

 

▶︎錣太夫さんは大学は法学部に入学されたとのことですが、そこから文楽に入門したというのはどういった経緯なのでしょうか?

大学に入って法律の教科書を見たが、ちんぷんかんぷんだった(勉強として理解できないという意味ではなく、人間を法律でコントロールしようとするのはおかしいという意味。アナーキー。当時は学生運動が盛んで、授業が開講されないまま1年を過ごしていた。
そんなとき、NHKのテレビ放送で文楽を観て、特に太夫の声での表現に惹かれた。
この人たち、ちゃんと生活しとるみたいやで、お金はそんなにもらえてなさそうだけど、生きてはいけるんやなと思った。
それで国立劇場に電話したら、当時ちょうどお宅にいた竹本津太夫師匠を紹介された。ほかの方はみな夏の巡業に行かれていたので、師匠とのこの出会いは運命だった。
人生を儚めばなんでもできる。20歳のときに入門した。

錣さんて、中大の法学部中退ですよね。錣さんのご年齢からすると、当時の中大法学部は相当レベル高かったはず。経歴は「高校から島を出た」とのことですがど、高校は本州の進学校に行かれて下宿されてたということですかね。当時の大学進学率も考えると、「田舎」でそこまでしてくれる親御さんというのもすごいことのはずで、それで「普通の生活」を捨てることを決断するとは、本当にこの人、すごいなというか、やばいなと思った。津太夫は錣さんが初めて目の前に現れたとき、どう思ったのだろうか。

 

▶︎こちらの色紙の文字「福壽」は津太夫師匠がよく書かれていた言葉と伺いました。

師匠はよく「和」「福壽」「壽」と書いていた。わたしもその真似をして、「福壽」と書かせていただいた。
師匠は豪放磊落だと言われていたが、同時に、語りに深い情(じょう)のある人だった。

f:id:yomota258:20240319115157j:image

 

▶︎小学校の同級生の方から、「小学生の頃は大人しくて努力家だった」と伺いました。

努力家かはわからないが、群れるなどはしなかった。でも、天神さんのお祭りなどはみんなと一緒に楽しんだ。子供のころは、六尺ふんどしで海へ飛び込んで魚や貝をとったりしていた。今やったら怒られるが、当時はおおらかだった。(剣道やってたと聞きましたがと尋ねられ)あ、剣道やってたのは高校からです。
子供のころから、「エエ声しとるなぁ」と言ってくれる人もいた。しかし、自分で自分の声を聞くほど苦痛なことはないですよ。テープに起こして(録音して)聞くと、気持ち悪くて仕方ない。「ボクはもっと上手かったのになぁ!?」と思う。「君の声、気持ち悪いで」と言ってくるような意地悪な先輩もいた。
でも、今は恥を恥とも思わずやっている。勇気がいること。
入門したとき、わたしのこの道の筆おろしをしてくれた先代の寛治師匠(注:私たちの知っている寛治さんのもうひとつ前の人)に、文楽でやっていくのに大切なのは「運、根、鈍」の三つだと言われた。「運」とは運命、運、出会い。「根」は根気、「鈍」はどんくささ、不器用な生き方を指す。師匠との出会いは運命。わたし自身は「鈍、鈍、鈍」だった。


▶︎「錣太夫」を襲名するに至った経緯は? 名前にはもう慣れましたか?

先代の錣太夫(五代目)は、寛治師匠と仲が良かった。五代目は身内が文楽におらず、名前を継がせる人がいないまま亡くなった。亡くなるとき、「ええ人がおったら継がせてくれ」と寛治師匠に名前を預け、寛治師匠はそのことをずっと気にしていた。寛治師匠は稽古は非常に厳しかったが、稽古が終わってから五代目錣太夫のことを話してくれるときには、「錣太夫がな、錣太夫がな」と嬉しそうにいつもニコニコしていた。五代目は芸は「鬼」と言われたが、私生活は「仏」と言われていたそうだ。
「錣太夫」の名前はまだ慣れない。慣れるにはまだ時間がかかる。

 

▶︎2022年に太夫の最高位である「切語り」に昇進されました。

「切語り」とは、私にとっては津太夫、越路太夫、綱太夫といった錚々たる師匠方。わたしが「切」と言われていいのか。いまでも、口上で「ただいまの切」と言われると、緊張する。さっき(巡礼歌)は、言われるかな、言われるかなと思っていたけど、「切」と言われなくて、ほっとした。(そこは海に沈めて牡蠣のエサにしてあげないと🥹)
しかし、このドキドキ感がなくなってはいけない。そして、この「怖さ」を克服してこその「切語り」だと思っている。
いまの切語りは、こないだ咲太夫兄さんが亡くなったため、呂太夫さん、千歳くんと、わたしの3人しかいない。高齢者ばかり。死ぬまでに次の切語りを育てるのが使命。

上記は言葉を整えています。錣さんは本当にやばいので、「呂太夫」さんの名前をド忘れし、「えーと、次に十代目若太夫になる〜〜〜〜〜、……………………………………………XXXさん」と、本名で紹介していた(狂)。司会者の方も、文楽に詳しい方ならすぐに「豊竹呂太夫さんですね」と言えたと思うが、全然わからない方だったので、かなり、危機的な状態になっていた。尾道市長は文楽尾道の関係を話している途中に「植村文楽軒」という言葉をド忘れされたが、さすが挨拶や演説の機会も多いであろう首長、ポッケにカンペを持っていたので、助かった。私も最前列で錣さんの目の前の席なら「呂太夫」と書いたプロンプト出せたんですけど、残念!!!!! 錣さん的には、「呂太夫」というのは、24年前に亡くなった五代目なのだろう。

 

▶︎今、文楽技芸員になるための研修生を募集していると聞きました。

技芸員には広島出身者がわたし以外にもいる。
さっきの『二人三番叟』で三味線の2番目に座っていた鶴澤清公くんは、三原の出身。清公くんは子供のころ、ピアノを習っていて、発表会でこのホールでピアノを演奏したことがあるらしい! 巡業に出ており今日は来ていないが、鶴澤燕二郎くんは東城町の出身。広島ではない近隣出身だと、『二人三番叟』の三味線の3番目に出ていた鶴澤清允くんは海のむこう側の香川県の出身。このへんの出身でも技芸員になることはできる。
さっきガチガチに緊張して解説していたわたしの弟子の聖太夫も、研修生出身。
さきほど言ったとおり、技芸員はその給料でなんとか生活していける。10年後には。今は親がかりでしょうね。これ言うと引かれますけど。
みなさんのお知り合い、ご親族で興味がある方がいらっしゃったら、ぜひおすすめしてください。

清公さんは実は瀬戸田から見て対岸、本州側の広島県三原市出身とのことで、清公さんのご実家の話題が出された。かなりのローカルネタというか、さすがにやばいレベルの豪速球の個人情報なのでここでは伏せさせていただくが、どうも、ご来場者全員、清公さんのお父さんを知っているようだった。うしろの席の人とか、普通に、「へー、あそこの息子さんなんだ」と言っていた。錣さんのお父さんと清公さんのお父さんも、(お互いの息子が文楽技芸員で知り合い同士とは知らないままに)接点があったとのことだった。田舎というのは、やっぱり、全員が知り合いなんだッ!!!!!!と思った。私も田舎出身なのでわかるが、さすがに船で25分かかる対岸に住んでる人まで知り合いなのはすごい。
また、技芸員の給与の話は実際引いた。でも、「普通の勤め人」であっても、大企業に就職しない限り、新卒の子が本人の給料だけで独立したまともな生活ができるかというと、そうではないですよね。ただみなさん声を大にして言わないだけで。しかしSHIKOROは言うッ。正直だからッ。狂ッ!!!

 

▶︎今後の目標は。

体力が伸びることはない。現状をどう維持しようか、それが問題。むかしは時間があると歩いたり走ったりしていたが、みなさんもうこの歳になると運動しちゃダメですよ! こけたら終わり!(突然のリアリスティック後期高齢者トーク
体力が衰えたら衰えたなりに、使える声の幅を広げなくてはならない。
お客さんと共振するものを目指していきたい。

 

▶︎次回公演の宣伝をどうぞ。

4月の大阪公演では、『御所桜堀川夜討』の「弁慶上使の段」を語る。ちょっとメチャクチャな話で、昔風の英雄豪傑が活躍する、金平(きんぴら)浄瑠璃*2とでもいうような話。意味を考えたら「そんなこと、ありゃせんじゃろ」という内容。よくできた話なんですけどね。よろしければぜひお運びください!

f:id:yomota258:20240319115310j:image

 

錣さんのお話は時々伺う機会があるが、錣さんて、喋り方は標準語ベースの「関西弁」ですよね。このトークショーでも、かなり関西弁がかった喋り方をされていた。そりゃ20歳から現在(75歳)まで大阪にずっと住んでいるので、どうやっても関西弁に寄っていくだろう。しかし、一瞬、「広島弁」になるときもあったのが良かった。*3

司会から会場へ「今日文楽を初めて観るという方」「錣太夫さんの同級生の方」という質問があった。「今日文楽を初めて観るという方」は、意外と挙手が少ないなと思った。いや、たくさん挙手されていたんですけど、意外と“ほぼ全員”とかではないんですよね。
それは、「錣太夫さんの同級生の方」が会場内に多く、どうもその方々は文楽を観たことがあるらしいからのようだった。みなさん、大イベントだからいまはじめて来たとかじゃなく、もともと一定の親交があり、広島公演や大阪公演へ行かれてたんだなと思った。おそらく幹事が押さえているであろう同級生用良席の方々とかは、ほぼみなさん、手挙げてなかった。
私は後方席だったからか、周囲は「別に錣さん知らんけど来てみた」系の方が多いようで、「今日文楽を初めて観るという方」に多くの方々が挙手されていた。

 

 

 

◾️

生口島で公演を観られて、本当に良かった。

尾道市の主催ならば、本州の尾道市街地にある大きなホールでやってもよかったと思う。実際、尾道で地方公演がある場合は、そういう場所で公演しているのではないか。でも、あえて錣さんの本当の出身地である生口島瀬戸田で開催したというのが、良いよねえ。島ののどかな風景と、集まってきたお客さんたちの楽しそうな空気感、それを喜ぶ錣さんの笑顔が、本当に素晴らしかった。

なにもかもが、まるで昭和30年代の松竹の人情映画のワンシーンのようで、ものすごく感動してしまった。『二十四の瞳』は本当だったんだ!!!!!!!!と思った。

昔の人情映画って、途中でビターなシーンが必ずあるじゃないですか。それは錣さんの人生にもいろいろあったと思う。苦労、忍耐、理不尽。私が観るようになってからの範囲でも、寛治さんが弾いてはいても(高齢の寛治さんが弾いていたからこそなのかもしれないが)良い役は全然つかなかったし、襲名したのは師匠の名前じゃないし、切になったときに肝心の「切り場」が配役されなかったし、おかしいとしか思えないことがたくさんあった。
でも、この公演は映画の最後のシーンの、ハッピーエンドの部分なんだろうなと思った。錣さんの芸人人生がこれで終わるわけじゃないけど、これまでの苦労がひとつのかたちとしてやっと報われたんだ、という気がした。

人情映画みたいというのは、イメージ上の例え話ではない。私、昭和30〜40年代の日本映画がすごく好きなんですよね。当時の映画に描かれている、ほろ苦くともじんわり暖かく、優しい世界は、世界の美化ではなく、ただありのままの純粋性をたたえていて、美しい。しかし、あれは失われた時代のものだと思っていた。自分が当事者たりえることはないと、ファンタジー、ノスタルジーとして接していたが、あんな世界がこの世に実在していたとは。本当に映画の中に入り込んだような体験だった。そういう意味でも、非常に衝撃を受けた公演だった。

(そういう意味では、突然細かいこと言うと、『二十四の瞳』は良い映画ながら、最後の場面はハッピーエンドに見えて本当はかなりビター。なので、本当のハッピーエンド人情映画でいうと、松竹の詩情あふれる人情映画というより、『トラック野郎』シリーズ(東映)とか、『喜劇〇〇〇〇』と題されているものなどのテンプレート踏襲ベタ路線のほうが近い。主人公が音楽関係、地方の漁師町を舞台に人情が描かれ、ラストシーンがホールでの大舞台という点では、『トラック野郎 故郷特急便』の世界だな。話が細かすぎてすみません)

 

こんなに気持ちがいい公演になったのは、なにより、錣さんのお人柄なんだろうな。
錣さんは襲名公演のとき、ロビーに受付で立っていたら、なぜかお客さんが並びはじめ、本人に直接お祝いを言ってサインをもらう行列が形成されるという謎のレジェンドを打ち立てたじゃないですか。文楽のお客さんがいくら「素朴」でも、襲名披露の本人受付に話しかけていいのは「ご贔屓」だけってことくらい、みんな本当は知っていますよね*4。実際、ほかの人の襲名披露公演のときは、「ご贔屓」以外、本人受付に行っていなかった。それでも人が並んでしまうのは、なぜなのか。

錣さんは目立ちたがりの振る舞いをしたり、派手なマスコミ露出があるという人ではない。それでも人が集まってくるというのは、錣さんになにか人の心を打つものがあるのだろう。
私は、錣さんの持つ「なにか人の心を打つもの」というのは、「常に全力、一生懸命」であることだと思う。まいにち一生懸命義太夫を語る姿が、ただそれだけで人を感動させたり、勇気づけたり、励ましたり、幸せな気持ちにさせているのだと思う。

そして、この公演といい、襲名披露の謎の行列といい(「文楽祭」でも謎行列ができていた)、東京で行われている素浄瑠璃会もそうなのだが、本人が派手な振る舞いをしないからこそ、まわりの「ツメ人形」たちが興奮しだして、ますますコトがデカくなっていくんじゃねぇかと思った。
※この公演の後、本物の「ツメ人形ウルトラ大パーティー」、同窓会が開催されたそうです。

 

錣さんは本当に幸せな人だと思う。
でも、それを引き寄せたのは、なにより、ご本人なのでしょうね。
行って本当に良かった。

 

 

 

 

 

◾️

以下、いつもの通りの、文楽公演としての感想。ここから突然真顔のツメ人形になります。

会場「ベル・カントホール」は、町の行事や発表会等に使われていると思われる多目的ホール。築40年ほどとのこと。リフォームなどはあまりされてようで、懐かしささえ抱かせるような古いしつらえがそのまま残されているが、綺麗に手入れされており、気分よく利用できる。
ホール内は2階層。会場側の設定では1階席、2階席、3階席という設定だが、1階と2階は通路で区切られているだけで実際の空間としてはつながっており、3階席だけ張り出し式の別階層になっていた(今回販売なし)。客席は横広がりに配置されてり、奥行きが狭目。そのため、音響がかなり文楽向き。太夫の声はやや反響があるのものの、空間にしっかりと満ち、ゆきわたっている。三味線の音は国立劇場小劇場相当の聞こえ方で、まったく問題ない。本舞台で打つ柝の音だけほとんど響かなかったのが惜しいが、「ここが生口島じゃなかったら、ここで東京公演やったらええんとちゃう?」というくらい、音の環境は良かった。
調べてみると、「ベル・カント」というのはカンツォーネの歌唱法をさす言葉で、ホール自体、室内楽専用に設計されているようだ。そういえば入り口の前にサックスのクソデカオブジェがあったわ!!!!
定式幕は張れないようで、備え付けの緞帳で対応。緞帳は島出身の画家・平山郁夫による図案。島の高台から見渡した海の風景と向上寺の三重塔、瀬戸内海の海の恵みをあらわす魚群を織り込んだデザインになっていた。舞台間口はかなり狭く、内子座より小さいかも。本舞台の大きさの問題で、演目に制約があったようだ。

 

演目解説は、錣さんの弟子・聖太夫さんがひとりで緞帳の前に立って行った。
太夫さんが解説するのは初めて見た。おや、ずいぶん落ち着いている。外見と同じく、貫禄のある子なのか。と思ったら途中からテンパりはじめ、ツメ人形になってしまった。緊張しすぎて、何言ってるか自分でもわからなくなっているッ! 落ち着けッ! がんばれッ!
今回、『傾城阿波の鳴門』の上演を「巡礼歌」で止めている(おつるが帰るところで終了する)のは、初めて文楽をご覧になる方のため、おつるが実父に殺される残酷なシーンを避ける配慮をしたのだと思われる。が、「おつるはぁ、このあとぉ……」と、おつるが十郎兵衛に殺されることを喋ってしまいそうになっていた。そこで喋っちゃったら、ヤバさの方向性が師匠と一緒だよ!! と思った。

 

『二人三番叟』は、正直、大変なことになっていた。本公演でこれならブチ切れてた。(真顔ツメ人形)
人形が全然合ってないのはいいんですけど(ええんかい)、床、がんばれっ。『二人三番叟』は緩急のメリハリが重要な演目だと思うが、のっぺりと均一に演奏してしまっていた。少なくとも三味線は、人形を見て演奏するのはやめよう。人形待ちでもないのに人形を見て弾いてしまうと、竹本になってしまう。そこは「三味線が人形に合わせさせる」ではないのか。
問題は緩急のメリハリを誰がリードするかで、それは三味線のシンだろう。若いから仕方ないという部分はあるが、この方のこの手の(あえてこの言葉を使うと)失敗、何回も見ている。そろそろ階段を上がるための何かが必要なのではないか。

 

『傾城阿波の鳴門』は、人形配役は2021年4月大阪公演と同じく、お弓・勘十郎さん、おつる・勘次郎さん。
大阪とまったく同じ感想。有名どころでとにかくめいっぱいやって、観客の紅涙を絞る方向にいきすぎている。お弓という人の内面を表現しているのではなく、シチュエーションを説明している状態。文楽の場合、主人公が自分自身より大切な存在を思いやっているという心情が物語の要(かなめ)として設計されている場合が多い。この心情をどう表現するかが重要だと思うが、感動シチュエーションであることにとどまって、お弓とおつるという個人のドラマが表現されず、「お涙頂戴」の紋切り型になっていると思う。

でも、こういった場所で見ると、なぜ勘十郎さんがここまで過剰に「やりすぎる」のか、なぜ「お涙頂戴」へ向かうのか、わかる気がする。
和生さんは、「ただ人形を持って出ただけで、お客さんはわかってくれる」と新聞のインタビューに答えていた。しかし、勘十郎さんは真逆、「ただ人形を持って出ただけでは、お客さんはわかってくれない」と思っているのではないか。
こういった「前受け」狙いの芝居は、普通は、「俺が俺が」という目立ちたがり屋のエゴのあらわれだと思う。でも、勘十郎さんは、そういった部分はあるにせよ、大部分は、「極端にやらなければお客さんはわからない」「お客さんには、何かあからさまに形になったものを持って帰ってもらう必要がある」と思っているのが理由なのではないか。
お客さんをどういう存在だと捉えているのか、なにを求めて舞台に立っているのか。
「お客さん」って、どういう存在なんだろうね。私は、「お客さん」なのかな。

2021年4月公演は床があまりにもひどかったので、今回、太夫が錣さんで聞けて良かった。
やはり錣さんは「観音様」を「くゎんのんさま」で発音してるな。『壺坂観音霊験記』でもそうしていたので、意図的にこの発音でやっていると思う。

 

上演中は、客電をかなり暗く落としていた。文楽は、本公演は客席が明るい状態で上演する。地方公演では古典演目であっても暗めにする会場は確かにあるが、この会場はいわゆる普通の演劇等の公演くらいまで暗くしていた。錣さんなど技芸員の許可を得てやっていると思うが、「文楽初めての人でも、暗くすれば『いまから始まる!』と思ってもらえる!」という判断なのかしらん。

ところで、開演前にロビーのベンチで隣に座っていた人たちが、「これ知ってる。“ととさんの名は十郎兵衛、かかさんはお弓”っていうやつでしょ」と話していた。
「巡礼歌の段」は〈昔〉は〈みんな〉が〈知っていた〉演目で、特にこのおつるのセリフのくだりは有名だという話は、耳に三原名物オクトパスが1000000000000匹住み着くくらい、聞く。しかし、それってせいぜい大正時代くらいまでの話でしょ? そうでなければ地元の徳島の人が知識として知ってるくらいなんじゃないの? と思っていた。本当に〈知っている〉人が存在するとは。話していた人は広島弁系の喋り方だったので、おそらく地元の人だと思う。外見からすると60歳前後だと思われたが……、本当に驚いた。

 

あと、錣さんを初めて見たらしき人が、トークショーを聞いて「あの人、話聞いてると性格良さそう」「お人柄だね」と言っていた。そう思うよな……。私もそう思う。

 

  • 『二人三番叟』
    • 義太夫
      豊竹芳穂太夫、竹本聖太夫/鶴澤寛太郎、鶴澤清公、鶴澤清允
    • 人形
      三番叟[又平]=桐竹紋秀、三番叟[検非違使]=吉田簑紫郎

  • 『傾城阿波の鳴門』
    • 義太夫
      切=竹本錣太夫/竹澤宗助
    • 人形
      女房お弓=桐竹勘十郎、巡礼おつる=桐竹勘次郎

    • 人形部=吉田勘市(吉田簑之休演につき代役)*5、吉田簑太郎、桐竹勘介、桐竹勘昇

 

 

 

◾️

配布パンフ。

行かれなかった方も錣さんのコメント文面が読めるよう、写真アップしておきます。

f:id:yomota258:20240319115441j:image

f:id:yomota258:20240319115453j:image


ロビーにあった三番叟の顔ハメパネル。
又平、検非違使ともに顔部分がくり抜かれており、はめたいほうを係の人にお伝えすると、パネルの顔をはずしてもらえて、自分の顔を差し込めるという画期的(?)な設計。
これ、初めて見たが、文楽協会の所有物? この公演の主催者が作った? 人形との記念撮影以外のフォトスポットとして、いいな。

f:id:yomota258:20240319115419j:image


SHIKORO・揮毫・色紙。

f:id:yomota258:20240319115509j:image

 

 

 

 

 

◾️

生口島の思い出。

f:id:yomota258:20240319115559j:image

生口島への行きのアクセスは、三原から出ている高速船を利用した。JR三原駅すぐ近くにある三原港から瀬戸田港まで、定員70人ほどの小さな船が1時間に1、2便程度、運行している。地元の人しか利用しない航路のようだった。桟橋から船に乗り移る用にかける板が若干アバウトで、船に乗り慣れていない私は若干海へ落ちそうになった。船体からは相当な歳月を感じられ、若干ちいかわになりそうになった。

終点瀬戸田港までの所要時間は約25分、料金は920円。チケットは港の自販機で購入し、船内で検札するという方式。瀬戸田より手前の途中の桟橋で降りる人は乗務員に声をかけてくださいと言っていた。ローカルなバス路線でよくある「降りたい場所で挙手してください」のさらにデンジャーなやつ?

f:id:yomota258:20240319115533j:image

前述の通り、生口島は「普通の生活の場」というニュアンスが強い島ではあるが、しまなみ海道サイクリングなどの観光客が来るようで、一部、観光化している場所もある。例えるなら、内子町・直島などの最近発展した超小型に観光地化した場所と、小豆島のような古くからの中規模観光地とのあいだくらい。ただ、瀬戸田の町の中心部は島の北部、しまなみ海道は島の南部を通っているので、島の南部へ行くとまた様子も違うのかもしれない。島自体はかなりどでかいため、海岸線から離れると普通の「陸地」感覚となり、滋賀のどこかを旅行しているような気分になった。

島自体はでかくとも、町の規模が小さいので、技芸員さんがそこらをうろうろしていた。50m以上離れていてもわかるジジイ、島の名物とか全然関係なく「肉」の買い食いに並ぶ若造などがいた。その人らが写っちゃったんで、せっかく撮ったのにここには上られない写真が発生した。アイパーで写り込まないでッ! 途中まで、「田舎」やからアイパーの方がいまでも普通にいてはるんかなと素で思とったわ!

f:id:yomota258:20240319135251j:image

f:id:yomota258:20240319132920j:image

海はとても美しい。水の透明度が高く、浅瀬を撮っても青く写る。波がほとんど立たないせいか、海面すぐ近くまで降りられる階段や、海面沿いの遊歩道などがあった。

f:id:yomota258:20240319133246j:image

 


生口島の名所その1、向上寺の三重塔。

f:id:yomota258:20240319115641j:image

f:id:yomota258:20240319115645j:image

島いちばんの名所、向上寺は、港すぐそばの高台にあるお寺。名所と言っても、地元の菩提寺の機能が大きいと思わる。ぱっと見はごくごく普通の小さな町のお寺だが、見どころは本堂のさらに上にある三重塔。室町期のものがそのまま残っており、国宝。私しか参拝客がいなかったので、ゆっくりとお参りできた。
三重塔からさらに高台へ登った先にある展望台は見晴らしがきき、周囲の島々を見渡せた。この風景が、ベル・カントホールの緞帳の図案になっているのだと思う。

f:id:yomota258:20240319115707j:image

 

 

生口島の名所その2、耕三寺。

f:id:yomota258:20240319115742j:image

f:id:yomota258:20240319115745j:image

瀬戸田で一番派手な観光地。宗教施設としてのお寺ではなく、博物館として営業しているお寺。入場料が薬師寺醍醐寺並み(というか、それより高い)で、びびった。
中はむちゃくちゃド派手で壮麗。地獄巡りができる洞窟、心象風景をあらわした(?)丘など、かなり個性の強い施設があった。トークショーで「昔は動物園があった」などのすごい話が出ていたので、どういうこっちゃと思って調べてみたのだが……、どうも、昭和初期に「立志伝中の人」的な実業家が建立したお寺で、「シュヴァルの理想宮」的なアレのようだった。
地元の方(というか錣さん)は「昭和に入ってから発展した新しいお寺」というイメージを抱かれているようだが、よくわからず入ってしまった観光客がめちゃくちゃ多数群がっていた。ホールから徒歩数分で行ける場所だからか、技芸員さんもいた。

f:id:yomota258:20240319135127j:image

 

生口島の名所その3、亀の首地蔵。

f:id:yomota258:20240319115848j:image

生口島と高根島の海峡に建っているお地蔵さん。漁師町では防波堤にお堂が建っているのをよく見かけるが、このお地蔵さんは海面からダイレクトに像が建っている。波が穏やかな瀬戸内海ならではか。
海の中とはいえ、お地蔵さんの帽子やエプロン、お供えしてある造花は綺麗で、普段から手入れされているようだった。防波堤にお地蔵さんの近くへ降りられる階段が設置されていたので、干潮になるとすぐそばまでいけるのかもしれない。
なお、「亀の首地蔵」という不穏な名前が示す通り、このお地蔵さんには文楽並にヤバすぎる伝説があるようだ*6

前述の通り、海の中に建っているため、あることを知っていないと防波堤に阻まれて見えず、存在に気づかない。特に観光案内で派手に宣伝しているわけではないが、世が世なら「バエ」るとして人がつめかけそうな「エモ名所」だと思う。
瀬戸内海は外海側のような波はほとんどないが、高根島と生口島の海峡だけは、海面に白い角が立って、潮が流れているのが見えた。

 

 


柑橘類が島の特産品のようだ。ところどころにレモンジュースのスタンドが営業していて、様々な種類の柑橘類を観光客向けに売っている八百屋さんもあった。お土産風の柑橘類は観光客向けに少し値段を盛っていると思われるが、それでも、国産レモンが東京ではまず考えられないほど安く売られていた。
お昼にはレモンパンケーキとレモンスカッシュを頂いた。国産の特権である皮ごと使用で苦味をいかした調理がされており、おいしかった。
郵便ポストや隣島へ渡してある橋がレモンイエローだったり、観光案内所の前には信じられないほどデカい柑橘類のオブジェがあったりと、町としてもアイデンティティを示すアイコンとして押し出しているようだ。

f:id:yomota258:20240319120002j:image

f:id:yomota258:20240319120105j:image

f:id:yomota258:20240319115957j:image

 

 

島の至るところに、小さなお堂がたくさんあった。ぱっと見渡して視界に3つくらいあったりと、相当の密度。滋賀・琵琶湖沿いなどもお堂の多い地域だが、それよりも多い。港近くの防波堤にも、お地蔵さん用のぷち祠が数メートル間隔で埋め込まれていた。どれも古びているが、つねに手入れされているようだった。生活の一部だという息遣いを感じた。土地に根付いた信仰がたくさん残っている地域なのだろうか。

f:id:yomota258:20240319120427j:image

f:id:yomota258:20240319120423j:image

f:id:yomota258:20240319120419j:image

f:id:yomota258:20240319120415j:image

 


帰りは尾道行きの小型フェリーに乗った。尾道行きは三原行きに比べて便数が非常に少なく、1日5便程度の運行のようだ。乗客全員明らかに観光客・サイクリング客で、地元の人は乗らないらしい。船自体も、サイクリング客対応として自転車の大量積載が可能な設計になっているものだった。
こちらは船に乗る直前に、乗務員さんに運賃を渡すという方式。瀬戸田から尾道まで1300円だったと思う。

f:id:yomota258:20240319120623j:image

f:id:yomota258:20240319120620j:image

f:id:yomota258:20240319120627j:image

f:id:yomota258:20240319120630j:image

尾道駅周辺を少しだけ散策したあと、JRで福山へ移動し、のぞみに乗って東京へ帰った。楽しい旅だった。

 

 

 

*1:パンフに載っているこの公演の幹事の方のお名前で検索すると、なぜこんなにも大規模な公演を行えたのか、なぜ市長が直々に挨拶するのかをなんとなく察することができる。「シャカイテキチイ」のある「コウフンシタツメニンギョウ」は、「ヤバイ」。

*2:江戸で発展した、荒事を見せ場とした荒唐無稽な内容の人形浄瑠璃のこと。

*3:ただ、広島弁は「じゃろ」とか「じゃけぇ」みたいな語尾変化はともかく、イントネーション面では元々標準語にかなり近いらしい。とはいえ、広島の知り合いに聞いたら、よそものからすると一見標準語で喋っているように聞こえても、広島出身者同士だと、「あの人、めちゃくちゃ訛ってる!」と思うとのことだった。会場にチケット取り置きで電話したときや、来場して周囲の方が喋ってているのを聞くとほぼ標準語だと思ったが、司会のラジオパーソナリティーの方の完全標準語イントネーションを聞くとその落差がわかり、たしかにみなさん「なんか訛ってる」と感じる。しかし、どこが訛っているのか、私には説明できない。自分自身は関西弁ネイティブで、強いイントネーションがかかるタイプの母語のため、わずかな変化には鈍感なのかもしれない。

*4:大阪公演の初日は本人がロビー通路につっ立っているという心底謎の状況だったが、それでも人がたかり、列をなしていた。これまた別に「ご贔屓」でもなんでもない、ただの一般客が……。そしてそれを取材・撮影しているNHK……。カオスでしたね……。

*5:……って、なんでここまで格上のお兄さんがまろび出てくるんだ!?!??!? 勘十郎さんは自分が緊急で休演のときも勘市さん出てもらったり、かなり勘市さんに頼ってるみたいだけど。

*6:むかしむかし。瀬戸田水道(生口島と高根島の海峡)は潮の流れが穏やかで、船が多数往来する栄えた場所であった。それと同時に、このあたりにはたくさんの亀が住んでいた。そのうち「亀主」という亀の総大将が、通りかかる船を沈めては人をとって食べていた。やがて亀主を恐れて船の行き来が途絶えるようになると、亀主は村の住民に人身御供を要求するようになった。住民が迷惑していると、向上寺の小僧が出てきて、自分を食べてもいいので人身御供の要求はやめて欲しいと亀主にかけあった。しかしそれには「小僧を食うのは向上寺のご本尊の前で」という条件があった。亀主はそれを受け入れ、小僧について行くか、陸地へ上がって山の上にある向上寺への参道を登るうち、海の生き物である亀はだんだん弱ってきてしまった。そこを狙った小僧が刀で亀の首を刎ねるッ!! 亀主の首は飛翔し、海に落ちて、亀の首の形をした大きな岩になった。亀主がいなくなって船の往来は平和を取り戻すが、瀬戸田水道の潮の流れが速まり、亀の首岩付近で海難事故が多発するようになった。そこで住民は亀主の回向と航海の安全を願い、このお地蔵さんをおまつりした……とのことです。人喰いまくり亀も、人喰い亀を騙し討ちした小僧も、潮の流れが変わったのが亀の呪いなのかはわからないけど急に海難事故が起こり始めたのも、すべてが、怖いッ。亀=海亀=海の生き物という観点は、生活と海とが近しい島地域の伝説らしくていいですね。山沿い生まれの私にとって、亀とは、田んぼの用水路に這ってるやつです。たにしとかは食ってるかもしれないけど、人食うのは無理だね〜。