TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 1月大阪初春公演『寿式三番叟』『菅原伝授手習鑑』寺入りの段、寺子屋の段 国立文楽劇場

今月の展示室「文楽座の歴史」の展示品、ロセコレが多すぎて笑った。

f:id:yomota258:20211020162309j:plain

 

 

 

寿式三番叟。

千歳〈吉田勘市〉、近来ない巧さ。とても気品のある千歳で、所作が美しい。しかしなんだろう、やたら色っぽい。首のシナが強いのか、目線に意味がありすぎるのか。緊張のあまりか?

三番叟の片方の人は、演技の意味をわからずにやってるんじゃないのかと思った。籾の段の部分、右手に持った鈴を振っているだけになっていたが、三番叟は、左手に持った扇を籾箱に見立て、そこから籾を取って、鈴を振る動作によって種まきを表現しているんじゃないでしょうか。

時折、年配の人形遣いさんが「今の人はビデオで演技を覚えようとするから……」と言うことがある。映像使用をややネガティブにとらえたニュアンスで、なぜそう言うのかと思ったいたが、なんとなくわかった気がする。実際の舞台でなら周囲の師匠なり先輩なりが教えてくれるであろう動きの意味が伝わらず、表面的なカタチだけが見よう見まねになることにリスクを感じているということなのかな。若い方の中にそういう人、結構いるように思うので……。いや、三番叟は呪われてんのかと思うほど頻繁に出るので、ビデオ学習をするような演目ではないとは思うが、それでもわかってないのは和生なんとかしてくれと思った。

ただ、もう片方の人は最後まで集中して振りを崩さず踊っていた。繰り返される鈴を突き出す振り、かしらの捻りに乱れがない。何がこの違いを生んでいるのだろう。

 

  • 義太夫
    翁 豊竹呂勢太夫、千歳 豊竹靖太夫、三番叟 竹本小住太夫、三番叟 豊竹亘太夫/野澤錦糸、鶴澤清志郎、鶴澤寛太郎、鶴澤清公、鶴澤燕二郎
  • 人形役割
    千歳=吉田勘市、翁=吉田和生、三番叟[又平]=吉田玉勢、三番叟[検非違使]=吉田簑紫郎

 

 

 

菅原伝授手習鑑、寺入りの段〜寺子屋の段。

いつもと雰囲気が違った。
寺子屋」の床の錣さん、咲さんがとても良かった。義太夫がサラサラ流れていかず、ところどころに結節がある。溢れる気持ちや涙が玉になってぽろっ、ぽろっと落ちていくようで、それが良かった。

錣さんは源蔵・戸浪を大きくフィーチャーしたかなり特殊な語り。間合いの取り方が非常に特徴的で、とくに首実検のくだりは間をきつく詰めていてかなり速く、源蔵と戸浪の一種の「青さ」ともいえるような心の焦り、高潮、緊迫感が感じられる。音程高めで追い立てていくような演奏は、緊張と興奮が高まると、高音の耳鳴りがして、まわりの音が聞こえなくなる、あの感覚に近い。これほどのベテランで、人形ありでここまで詰めてくるのは珍しいように思う。よほど人形を信用しているのか。藤蔵も止めろやと思うがそこを止めないのが藤蔵、いや藤蔵も藤蔵でかけ声でけえよ、錣さん止めてくれ的な普通に考えたら狂ってるだろっていう演奏だが、こういう「奇人」が突然前触れもなく全身にイルミネーションを纏いながらものすごい勢いで反復横跳びしながら飛び出してくるのが文楽の楽しみ。
そして、戸浪の微妙な表現が上手い。元腰元、駆け落ちの末、現在は田舎暮らしで近所の子供の世話をしているという経歴めちゃくちゃの人物の絶妙さが、なんともいえない「そのへんにいる人」のリアリティをもって造形されていた。作り物にならないのが良いところ。
あと、松王丸が独特の病み感だった。難波近辺の昼飲みやってる店には、ああいうおっさん、おる(え?)(ランチにうっかり入った店が実は昼飲みやってて、気づいたら私以外の周囲のおっさん全員定食食いながらビール飲んどった)。

咲さんの寺子屋切(奥)は以前に拝聴したことがあるが、そのときとはまた雰囲気が違い、描写をより細かく丹念に、もったりとしたとろみをつけた表現に寄せていた。前との繋ぎが的確で、太夫交代の違和感を抑える。おじいちゃんでこのテンションから始めるのは、本当すごいことで、大変だと思うわ。
咲さんも戸浪の表現が大変に細かく、千代の悲しみに寄り添う心の動きが感じられた。戸浪の嘆きは、ところどころ途切れ、詰まりがちになる。突然放り込まれる、音楽としてでないリアルな人間の嘆きにはっとさせられる。千代はしめやかさ、か細さが美しく、勘彌さんの千代もその雰囲気によく合い、舞台として秀麗だった。
また、松王丸の泣き笑いの笑い部分が長いのは特徴的。この部分、やりすぎると大時代的、悪い意味で役者主体まがいになってしまうと思うが、咲さんの芸風上作為が低く、声が大げさでないため、笑いが長くとも、芝居のアクセントになる部分なのでたっぷり取っているという意味で、義太夫の時間の伸縮表現としてうまい塩梅に落ちていたと思う。

 

玉男さんの松王丸は非常に安定しており、いつ見ても彼の性根がぶれることはなく、それこそ大雪を乗せた松の大樹のように堂々としている。
この松王丸の重く巨大な独特の雰囲気は、首が常にしっかりと座っていること、二の腕から肘にかけての表情が強いことにあると思う。
首の座りは強い意思の表現には不可欠。不用意な揺れ、動作につれた無駄なブレがなく、人形が本当に「無表情」なのが良い。また、“普通”にしているときの微妙なあごの引きの角度にも特徴があると思う。人形は、目線が非常に重要だ。玉男さんの人形は、どこも見ていないと感じる。首が座っていなくて変な方向を向いているのとは違って、目の焦点が合っていないのように見えるのだ。最初に寺子屋の屋体の中央で、源蔵や戸浪に一瞥もなく向き直るところの不気味さに端的にあらわれている。そのとき、観客は覆い隠された彼の意思の底知れなさを感じる。対して、後半の出以降はどこを見ているかが明瞭で、そこで松王丸は等身大の人間に戻るのだ。
腕の動かし方はとても個性的。腕を差し出すときに、肩と肘で「ぐるり……」と弧を描くように、大きくゆったりとした動きをつける。人形の肩と二の腕の緊張を感じる、肘の存在と動きを強く意識した動作だ。刀を取り直すなり、目の前のものを掴むなりといったシンプルな動作が、芝居としてアクセントになる。玉男さんの人形には、技術的な部分だけでなく、肩に物理的な表情がついているのが、それを一層強調している。そもそも、ほかの役を含めて、肩が痩せて見えることがまずない。人形の拵えの時点で、肩の表情作りが上手いのかもしれない。腕の動きと連動した指先の開閉のタイミング、また、人形の指先の真鍮が鳴る「チャキッ」という音も特徴的。玉男さんは余計な動きを省くタイプの遣い方なので、時折挟まるこの動きと音が非常に効果的に観客の注意を促している。

以上のような特徴は玉男さんの松王丸のあらゆる場合において言えることだが、今回は、床に錣さん・藤蔵さんという常にない人が来たので、わずかに変化が生まれていて、興味深かった。
前述の通り、錣さんは間合いの取り方がかなり特殊だった。特に首実検のところ。玉男さんが松王丸の芝居においてどこで間を持たせるかというのは基本的に常に同じなんだけど(寺子屋、あまりに頻繁に出るので、だんだん覚えてきた……)、錣さんは、源蔵が威嚇してから松王丸が蓋を開けるまでの部分がかなり速い。そのため、玉男さんもタイミングのコントロールがいつもとは若干変化していた。また、初日に噛み合わなかった部分は二日目には合っていて、ベテランの適応力の早さを感じさせられた。

今回、「玉男さんって本当すごいな」と改めて思ったのは、松王丸の出のところ。松王丸は駕籠から降りてすぐ、寺子屋の門口で、長い時間、立ちっぱなしになる。よくもあんな長いこと安定して立っていられるなと思う。人形がまっすぐ立っているというのはとても難しいことだ。今回の公演、本当は玉男さんと勘十郎さんの配役は逆にして欲しかった。しかし、得手とする役が何なのかはともかく、松王丸の人形の重量を考えると、こうならざるを得なかったのかもしれない。

松王丸は、毛がふわふわしていて、冬毛のネコのようで、触りたくなった。

 

和生さんの源蔵も、いつもと同じく知的でシャープであるが、床の演奏の違いのためか、今回はより鋭く感じられた。源蔵の独自の思い込みからくる得体の知れない怒りと覚悟。最初に舞台へ入ってくるときのセカセカとした苛立ち、首桶の蓋を開けようとする松王丸の手を振り払うときの強さが印象的だった。蓋から松王丸の手を振り払う所作は、以前はここまでキツくいってはいなかったのではと思うが。和生さん、まったくの孤高で動じないかのように思えるが、実は周囲を本当によく見てやっている面白い人だと思う。細かいところを拾っていっています。
それにしても、源蔵は後半、千代が嘆いているときにもっともらしくうつむいて「かわいそうに」みたいな顔をしているが、こいつおかしいんとちゃうかと思った。

 

千代は勘彌さん。静かで澄んだ佇まいが良かった。身体が華奢にこぢんまりと見え、冬の寒さに凍える小さな鳥のように見えた。
小太郎を戸浪に預けて寺子屋を去るところのゆっくりとした足取りと、悲しげな目線の冷たい美しさは、勘彌さんらしい。一方、松王丸が駕籠で去ったあと、入れ違いに寺子屋へ戻ってくるときの焦りぶりは印象的。勘彌さんって、焦ってる人形の焦りぶりが、本当に焦っているよね。基本的にはゆとりを持った優美な所作の人だが、動きが突然大きくなる。あの情熱は愛おしい。
いろは送りはかなり上手い。単なる踊りの振り付けにならない情感ある佇まいで、彼女の内に秘めた静かな悲しみ、悼みがよく感じられた。後ろ向きの振りも表情豊かで、大変美麗。生身の人間では表現しえない人形らしい心の純粋さが感じられ、良かった。
勘彌さんが玉男さんのカップル役は珍しい。清十郎さんが玉男さんの相手役をやると、いつでもずっと恋人気分に見えるが、勘彌さんがやるとなんともいえない肌のなじみや惰性感があるのが良いな。勘彌さんの雰囲気的にも、『曲輪文章』か『冥途の飛脚』で見てみたいカップル配役。

 

戸浪〈吉田一輔〉は、動き自体は丁寧で好ましいものだが、果たしてこれは戸浪なのだろうか。これだと、乳母や女中がなにもかもやってくれる武家公家の奥様では。ド田舎のイモ・チルドレン5人6人の世話をしている人には思えない。一輔さんはいつも丁寧にやっているのは本当に良いことだと思うのだけど、どの役も演技が画一的なのが非常に気になる。良い役には責任を伴う。研究とその表現の実現を願いたいです。

 

よだれくり〈吉田玉彦〉、「とっつぁん坊や」というより、「坊やみたいなとっつぁん」になっていた。動きが悠々としているのがオッサンっぽいのだろうか……? あまりに絶妙すぎる田舎のおじさん感が……(正月には軽トラにしめ飾りしてる系おじさん)。「坊やみたいなとっつぁん」がなぜ寺子屋に預けられているのかを考えはじめると深いものがあるが、歌舞伎の寺子屋のような感覚だった。歌舞伎だと、よだれくりだけ大人の俳優がやって、ほかのイモ・チルドレンは子役だから、よだれくり役の人が子供達の誘導とかちょっとしたお世話をするじゃないですか。ああいう感じ。よだれくりは、ちょっと「プルルッ」としていた。玉志サンの謎の「プルルッ」はタマヒコが引き継いでくれるのかもしれない。

菅秀才〈吉田玉征〉、最初にお習字しているところでは、おなかいっぱいのでっかいハムスターみたいだった。玉征さんのでっかいハムスター感はすごい。

ツメ人形では、首実検の際、ツメ・チルドレンのひとりの動きが、床の演奏にベタ付きにしすぎているのが気になった。また、松王丸が連れてる捕手ツメ、声がでかい(※ツメ人形自身が返事するところのこと)。いままでで最大のデカ声だった。

 

蛇足ながら、「寺入り」の床〈豊竹芳穂太夫/鶴澤清𠀋〉。喋り方そのものを意識しすぎなのか、逆によくわからなくなっている箇所が散見されたのが気になった。菅秀才の喋り方が平坦すぎて聞きづらい。ヨシホさんには以前にも貴人役で似たようなことがあった。ただ二日目にはやや直ったので研究中なのだろう。戸浪と千代が二人とも裕福な武家の奥様のように聞こえるのは改善を望む。人の目を気にせず、頑張って欲しい。

 

  • 義太夫
    寺入りの段
    豊竹芳穂太夫/鶴澤清𠀋
    寺子屋の段
    前=竹本錣太夫/鶴澤藤蔵
    切=豊竹咲太夫/鶴澤燕三
  • 人形役割
    菅秀才=吉田玉征(前半)桐竹勘昇(後半)、よだれくり=吉田玉彦(前半)桐竹勘介(後半)、女房戸浪=吉田一輔、女房千代=吉田勘彌、小太郎=吉田玉峻、下男三助=吉田簑之、武部源蔵=吉田和生、春藤玄蕃=吉田文哉(前半)桐竹紋秀(後半)、松王丸=吉田玉男、御台所=桐竹紋吉(前半)吉田玉誉(後半)

 

 

 

またかよ!みたいな演目2本セットだけど、寺子屋の床の面白さで、存分に楽しめた。やはり舞台は実際に行ってみるまでわからない。演目としての“いかにも”ぶりが期待される「寺子屋」で、当て込みより個々の出演者のこだわりを反映した舞台になったのは嬉しいことだ。若手中堅の起用もあり、舞台全体としては周辺部にややバラけた印象ではあったが、日程を経てどうなっていくか、何度も足を運びたいと思わせる公演だった。

 

 

 

文楽劇場のサイトに、研修生募集プロモーションの一環として、玉路さんのインタビューが掲載されていた。
入門10年なのかな? かなりしっかりしてるなと思っていたけど、意外と芸歴短い。客席からの見え方に十分な注意をして足を遣える人だと思う。それは今後大役の左、主遣いになっても活きてくるだろう。
「この世界…周りはいろんな人がいますよ」が実感こもっていそうで、良かった。あとは師匠を、頼むッッッッ!!!!!!!!!

 

 

 

御堂筋線なんば駅なんばウォーク側改札に文楽劇場の広告が出稿していた。淀屋橋にも、光秀と阿古屋の写真をあしらった大きなホーム広告が出ていた。
文楽って、一般的にイメージされている、いわゆる「江戸時代」、いわゆる「和風」とはまた異なる文化だと思う。それこそが文楽の最大の魅力だと思うが、どうしたらこれをアピールすることができるのだろうかと考える。

f:id:yomota258:20220113154931j:image