TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 1月大阪初春公演『染模様妹背門松』生玉の段、質店の段、蔵前の段 『戻駕色相肩』廓噺の段 国立文楽劇場

ハッピーニューイヤー!!
正月から、子殺し! 親殺し! 心中! の文楽らしさ3連発の文楽劇場初春公演へ行ってきました。

f:id:yomota258:20211020170353j:plain



 

染模様妹背門松。前半部分(「油屋」)を切り、お染と久松の行末のみに絞った上演。

 

生玉の段。
下手二重に歌祭文の掛小屋、その手前に井戸。久松・お染は上手小幕からの出。

不穏さがすごい。

お染〈豊松清十郎〉がホラー状態。久松とお染は、鮮やかな若緑の日傘を相合傘に差して出てくる。そのとき、お染は久松に合わせているのか、人形の位置を下げすぎており、人形の姿勢がひしゃげていた。久松にぶらさがっているような状態になるので、顔だけは可愛らしくとも異様に傾いだ身体が不気味で、久松に取り憑いた悪霊のように見えるのですが……。気づいてないのは顔しか見てない久松だけ、的な。
なぜそこまでするのか、お染だって主人公なんだから、お染が綺麗に見えていればいいじゃないか、あとは勘彌さんがなんとかするだろと思ってしまうが、この病的さ、周囲が見えていない異様な執着心、私の清十郎さんの好きところでもあるから一方的にネガティブなことは言い難い。この人、次に『薫木累物語』が出たら、間違いなく累役が来るなと思った。
久松に肩を抱かれて、下手に立った小屋から漏れ聞こえてくる歌祭文を聴くところなど、通常の義太夫から浮いた祭文の調子もあって不気味としかいいようがなく、独特の雰囲気だった。

久松〈吉田勘彌〉はスラリとした雰囲気。勘彌さんお得意の、雑味や混じりけのない、中身の一切ない美男子で、良かった。所作もすっきりとしていて、美しい。

善六〈吉田簑一郎〉は、お染をじーっと見ながらよだれを拭いてるのがきもくて、良かった。簑一郎さんは、出番これだけでは、もったいない。

 

この段、いわゆる「夢オチ」なのだが、その「夢」を表す演出が、前回観たときと少し変わっていた。「夢」という文字が下がってくること自体は同じ。ただ、今回は「夢」という字がふわっと白く光る、LED看板プレートになっていた。そして、その「夢」の字を光らせたまま暗転させて大道具を転換し、「質店」へ直接移行していた。2017年初春公演で観たときは、単に丸いプレートに「夢」と書かれていただけだったと思う。技術の進展を感じた。

吉田玉男 文楽藝話』に載っている初代吉田玉男の談話によると、この「夢」という文字は、かつては「心」であったという。『義太夫年表』大正篇に収録されている道具帳(大道具の下絵)を見てみると、たしかに「心」という大きな文字が舞台に出ていた。背景に書かれている?吊り下げにしている?場合のほか、直前の道行(ここも夢の場面)では、幕に書かれている場合もあるようだった。

 

 

 

質店の段。
舞台中央から上手に質屋の屋体。上り口に番台、上手に一間。下手に狭く門口。
わかりづらいが、ここ、油屋の竪町支店で、善六が任されている店ということのようです。

この段もなんだか異様な雰囲気。

それはおそらく床〈竹本千歳太夫/豊澤富助〉のためだと思う。久作はとても良い。芝居としてのリアリティがあり、描写の彫りが深く、克明である。声を荒げる部分のメリハリも驚きを引き出す。
ただ、久作が良くても全体が異様に感じるのは、久作にだけ力が入っていて、ほかの人物とアンバランスになっているからだと思う。皮足袋のところは確かに聞きどころだが、その前後がかなりしんどい。お勝にゆとりがあるのは良いのだが、久松とお染の喋り方は年齢に比して幼稚で、甲高い。ストーリー上、この二人があまりに幼く浅慮だというのはわかるけど、それぞれが本人なりに真剣であることは表現に落ちていたほうがいいのではと思った。

 

人形で目を引いたのは、質入女房〈吉田清五郎〉。何も飾りをつけていないほつれた髪に青白い顔、細身で背の高い姿で、ごく小さな赤ん坊を抱いて現れる。出てきた瞬間、舞台が異様な雰囲気。立ち枯れるまで間もない病んで変色した植物。その冷たさに客席は霜がおりたよう。夫が病に伏し生活が苦しいので、赤ん坊に着せ掛けていた着物を買い取って欲しいと久松に頼む。もはやこの世の人でないような姿で、飴幽霊のように見える、悲しく美しい女だが……、そもそも、抱いてる赤ん坊、死んでいるのではないか? いや、家に行ったら、一家心中していて、夫婦と赤ん坊の遺体があるのではないか? さきほどまでの悪夢の続きなのか、それともこれからはじまる悪夢の予兆なのか? そんなホラー味があり、わずかな出番で物語の濃度を高めた。清五郎さんのすっとした雰囲気、どことなく漂う哀れさや、それでいていやらしくない世話味がいかされた適役。ただ、こんな一瞬の役では勿体ない人だと思うが……。
この女が出てくる部分のみ、浄瑠璃の節回しも通常とは異なっていた。これが文弥節なのだろうか。
質入れされる赤ん坊の着物は、『本朝廿四孝』桔梗原の段で、慈悲蔵が息子峰松にかけているものと同じかな? あれ、可愛いよね。

 

玉也さんの久作はとても良かった。はじめは、裾をからげた在所ジジイらしい姿で(そのカッコで往来歩いとったんかい!?)、ホヤホヤとやってくる。ここでは好々爺だが、そんな父を一種舐めた態度で帰そうとする久松に、お染とのことをたしなめるくだりでは、姿が人形が大きく見える。以前は久作は玉男さんで見たが、玉也さんは玉男さんよりも大人物、いかにも芝居らしい老父の姿として描いているように感じた。今回の舞台を見て、玉男さんは、久作の小さな心の誠実さに寄せているかなと思った。

「質店」の久作は、「野崎村」の久作よりも、久松とはどこか他人のように思える。いかにも芝居っぽいからかな。個人的には、脇の甘いところがある「野崎村」のほうが、本物の親(単なる血縁者という意味でなく、すぐ側で自分をずっと見守ってくれていた人)のように感じる。

 

久松は、冒頭の、番台に肘をついて居眠りしている姿の美男子ぶりが良い。第一部の千代が連れている下男は東京メトロ東西線の居眠りリーマン風居眠りなのに、イケメンは違いますな。本当に居眠りしている奴はそうはなっていないからな。上演中、おもいっきり寝入っている隣の席の男性がめちゃくちゃコッチに倒れてくるのを避けながら、そう思いました。

お染の母・おかつ役で、文昇さん、久々の本公演本役復帰。余裕のある家の奥様らしい丁寧な遣い方で、良かった。

 

↓ やらされ感がすごい玉也宣伝動画。久作のターンが舞台同様に律儀なのが良い。

 

 

 

蔵前の段。
背景黒幕。下手二重に離れ座敷風の屋体、その前に枝折戸。中央奥に梅の木。上手に二階建て風の蔵。

暗がりの中、赤い縁取りのぼんぼりを振袖で包み、駒下駄をカポカポ言わせながら奥庭へ出てくるお染の姿がキラキラとして幻想的。お染はこの段が圧倒的に良い。浮ついた目線が愛らしい。人間(現実)では絶対できない演技、ぼんぼりを後ろ手に持って大きく体をそらせる姿も純情な雰囲気。うっとりとした表情に、清十郎さんのストレートな清楚さがよく出ていた。ふんわりとした身体とやわらかい着物の表現にすぐれ、左も上手い人をつけていると思う。

太夫が織太夫さん全日程休演で代役・藤太夫さんに変更。不思議な雰囲気で、面白かった。
特徴的なのは、久松とお染の喋り方。これがなんとも不思議。単なる裏声や甲高い調子とはまた違う何か。16歳の男の子と女の子を直接的に表現しているというより、歌舞伎の若衆や女方の喋り方を再現しているようだった。藤太夫さんって、ここ最近、娘の役の喋り方が不思議なことなってる気がしていたけど、一回「人間」に戻してからやっているということなのか?
太郎兵衛は久作ほど重くなく、しかし娘を(娘自身に過剰な心配をかけないように気遣いつつ安心させるようにしながらも)心配している老爺の雰囲気が出ていた。久作ほど激しくは言ってこないが、お染に自分でよく考えるように促す。親にもいろいろな親がおる。
冒頭部の高音がうまくいっていないのだけ、残念。

 

今回は最後に心中する、原作通りの上演。正月から残忍な自殺描写で、すごい。さすが文楽。首を吊った久松は見せないのね。首吊りした人形はたしかに過剰に残酷で生々しいので(『夏祭浪花鑑』の道行を見ると、怖い)、リアクションのみで表現する演出は納得する。

山家屋清兵衛が出るくだりはカット。「油屋」がなく、清兵衛が諸々の調整をしてくれている部分が一切ないと、大人たちがお染に嫁入りを強く勧める理由があまりに一方的であるように感じた。

この場面の大道具で出ている梅、いるか? さっき久作が土産に持ってきた梅の枝は一体?

 

↓ 2017年1月大阪公演での感想。

 

  • 義太夫
    生玉の段=豊竹希太夫、ツレ 豊竹亘太夫/鶴澤清馗、ツレ 鶴澤清方
    質店の段=竹本千歳太夫(冒頭部の祭文売りのみ[舞台袖] 竹本碩太夫)/豊澤富助
    蔵前の段=豊竹藤太夫(竹本織太夫休演につき)/竹澤宗助
  • 人形役割
    娘お染=豊松清十郎、丁稚久松=吉田勘彌、番頭善六=吉田簑一郎、祭文売り=吉田玉路(前半)吉田和馬(後半)、質受男=桐竹勘次郎、質入女房=吉田清五郎、百姓久作=吉田玉也、母おかつ=吉田文昇、親太郎兵衛=吉田玉輝

 


戻駕色相肩。
桜の木々と菜の花畑(苗を植える前の田んぼ?)が描かれた書割、二重に土手、上手に大きなしだれ桜の作り物。

駕籠かき二人組、大坂出身の浪花次郎作〈吉田玉志〉と江戸出身の吾妻与四郎〈吉田玉助〉がそれぞれの土地の廓の賑やかさを語り競い、駕籠の客として乗っている京島原のかむろ〈吉田簑二郎〉もまたその話に混じっていくという内容。
景事だが、よく出る踊りっぱなしタイプのものと異なり、芝居成分が多く、また、一人ずつが違う芸(踊り)を披露していく形式。次郎作は羽織と扇での踊り、与四郎は細く折った手ぬぐいでの踊り。かむろの芝居の後、三人で踊る。人形遣いの踊りが上手ければ面白い演目だと思われた。

そんなわけで人形の配役が重要になると思うのだが、この3人、芸歴的にほぼ同期で番付の順位が近いとかそういうことなんだろうけど、なんというか、唐揚げと栗きんとんとブルーベリーヨーグルトを一緒の皿に盛ったような組み合わせだと思った。1月5日くらいの正月末期の朝飯状態……。それもまた正月の風景。

 

玉志サンは、ゆったり悠々と踊っていた。人形に気楽さと余裕があるのが良かった。今日は日曜日的なのんびりとしたOFFの風情がある。ご本人も、先月の由良助では緊張しすぎで真っ赤になっておられたのに、今回はレア演目にも関わらずリラックスしておられるのか、通常通りの超色白に戻っておられた。次郎作は文七のかしらを赤く塗ってあるからか、時々、プルルッとしていた。
廓の様子を語り踊るときにかむろから借りる大陣羽織には、紙子のように文字が刺繍されていた。何と書いてあるのだろう。
次郎作の左は、こんなどうでもいい演目(失礼)の左につけなくてもいいほど上手い人がやってるような気がした。珍しい出し物なので、できる人が限られているということか。足もまとも。
ちなみに玉志サンの袴の色はペールライラックだった。

 

カムロチャンは、羽根突きを見せる*1。カムロチャンが羽根をつくと、その羽根が大きなしだれ桜の枝に引っかかってしまう。羽子板で枝を叩いたり、木の幹を揺らしたりするが、羽根は落ちてこない。困るカムロチャン。
その間、駕籠かき二人は駕籠のかつぎ棒に肘をついて、じーっと見ている。デケェ図体して、なんで取ってあげないの? こいつら目ぇ開けて寝てんのか? それともキングクリムゾン発動しとるんか? ちなみに今回、次郎作・与四郎、二人とも両肘をついていたが、プログラムに載っている過去舞台写真(次郎作=和生さん、与四郎=勘十郎さん)だと、片肘つき。肘をどうつくか、二人で話し合ってるんでしょうか。
なお、カムロチャンは、最終的には木に石飛礫を食らわせて羽根を落としていた。斬新な方法。

 

  • 義太夫
    次郎作 豊竹睦太夫、与四郎 豊竹靖太夫、かむろ 豊竹希太夫、豊竹咲寿太夫、竹本小住太夫、竹本文字栄太夫/鶴澤清友、竹澤團吾、鶴澤友之助、野澤錦吾、鶴澤清允
  • 人形役割
    浪花次郎作=吉田玉志、吾妻与四郎=吉田玉助、かむろ=吉田簑二郎

 

 

 

まったくもって不思議なセンスの第三部だった。

『染模様妹背門松』って、結局、どういう話なんだろう。前に観たときはお染の人形が失敗していることに気を取られ話がよくわからなかったのだが、今回はまたそれとは違う意味で時空が歪んでいたため、再びよくわからなかった。もともとよくわからない話なのかもしれないが……。不条理演劇に片足突っ込んでいた。

しかし、舞台として無理矢理ドラマチックな大層ぶったことにせず、話の不自然さや不整合さがそのまま残っているというのは、良いと思った。こういうのが古典演劇や世話物の味、醍醐味なのかもしれない。最近は「わかりやすさとは、そんなにも価値や意味があるものなのか」という疑問を強く意識することが多くなった。

 

 

 

初春公演恒例、にらみ鯛ちゃん

f:id:yomota258:20220110140723j:image

 

鏡餅ちゃん

f:id:yomota258:20220110140757j:image

 

 

*1:カムロチャンが持っている羽子板を見て思い出した。むかし、実家の実家では、お正月に豪華な押絵のついた羽子板がいくつも並べて飾られていた。遊びたい盛りだったので、子供心に「実用性がない、羽根が突けない」と思っていた。カムロチャンが持っている羽子板も立体的な押絵がついたものだが、裏側で羽根を突いていた。なるほど、そうすればよかったのか。やったら怒られたと思いますが!