TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 10月地方公演・夜の部『団子売』『菅原伝授手習鑑』ひらしん平塚文化芸術ホール

首都圏の秋の地方公演、神奈川県主催公演。例年、神奈川県立青少年センター(横浜市桜木町)で行われていたが、いつも使っていたホールが耐震工事を行なっているらしく、別会場へ移転。平塚市にある「ひらしん平塚文化芸術ホール」で開催された。地方公演夜の部の記事は、静岡公演を踏まえつつ、この平塚verとして書きたいと思う。

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ひらしん平塚文化芸術ホール*1は今年3月に開場したばかりの新しい施設で、平塚駅から徒歩10分程度の場所にあった。行ってみると、区画一帯が真新しい建物ばかり。以前は市庁舎?があったところを再整備してできた区域のようだった。
ぱっと見はかなり小さくて、最初、そこにあるのがホールの建屋だとわからず、え!こんな小さいの!とびっくりした。地域の図書館くらいのサイズ感だ。典型的な最近の公共施設といったルックで、内装もかなりカジュアル・シンプル、建築自体に力を入れてアート感やリッチな体験を提供する大型施設とは異なる。ホール以外は基本フリースペースとなっており、なんというか、でっかい公民館的な感じだった。綺麗な施設だが、正直なところ、建材や設備にいかにもなコストダウン感を覚えて、やっぱり社会ってどんどん貧しくなってるんだなと感じ、物悲しい部分もあった。
ホールの前は芝をしいた公園として整備されており、近所のこどもやその家族、いぬさんぽをしている人がたくさんいた。

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ホールそのものは3階層1200席の大規模なものながら、客席に奥行がないためコンパクトに感じる。そのせいか音響は良好であり、空間に音がまわりきる印象で、国立劇場小劇場を反響強めにした感じ。マイクを入れた前説の段階では反響がややうるさいかもと思ったけど、生の声・音にはよく合っていた。音はこもらず透明感をもって伝わり、小さい音でもかなり拡大されて聞こえるようだった。
静岡と同じく、本舞台ステージは低め、1m程度だろうか。舞台奥行は浅めで、書割ではなく幕の背景を下ろす『団子売』ではかなり手狭な印象だった。定式幕は引けず、会場備え付けの黒幕の引き上げで対処。
なお、客席の設計が少し変わっていて、ステージに対して平行ではなく、\_/型に設置されていた(特にステージが張り出しているわけではない)。自分はセンターブロックだったので「いつもと同じ見え方」だったけれど、両サイドブロックの方はどうだったのかな?

文楽では1階席のみ(約660席)の販売で、昼は9割、夜は半分ほどお客さんが入っているようだった。

去年まで500円だったプログラムが700円に値上げされていたのが衝撃的だった。いや、去年まで500円だったことのほうが衝撃的なんですが。

 

 

 

団子売。

「とびだんご」って、そういうことだったんだ……。(ノゾミ・前説)

お臼役の紋秀さんがやる気ありすぎて、かなり驚いた。相当きちんと踊っている。顔の向きや肩の動き、回転の綺麗さにもかなり気を使ってるし、かしらを娘からお福に変えた後はちゃんとキャラも変えている。もちつき?がちょっと適当に斜め振り下ろしてご愛嬌程度なのがいかにもそれっぽい。(杵蔵はまじめについてます! さすが玉勢!) やりすぎではあるのだが、これくらい前のめりでやったほうがいい、よくやったと思う。紋秀さんは師匠やお兄さんとは違って体格がいいし、立役、しかもややラフなヤツやチャリのほうが似合うわなあと思っていたけど、それを女方にいかすいい考えだと思う。なるほど、愛想のよい親しみやすい女房キャラという発想はなかった。地方公演では稽古ができるわけでもないだろうし、モン・ブラザーズとは離れてのひとりの地方公演だと思うが、ここまでやりこめるのは本当に立派だと思った。

客席に挨拶をしながら去っていくお臼へ反射的に手を振っている人がいたが、それが今回の紋秀さんの成果だと思う。

床はこなれた印象でよかった。

 

  • 義太夫
    お臼 竹本三輪太夫、杵蔵 竹本津國太夫、竹本聖太夫/鶴澤清馗、鶴澤寛太郎、鶴澤清方
  • 人形
    団子売杵蔵=吉田玉勢、団子売お臼=桐竹紋秀

 

 

 

菅原伝授手習鑑、寺入りの段〜寺子屋の段。

いままでに見た寺子屋の中で一番、戸浪と千代の区別がついていた。戸浪〈桐竹勘壽〉がかなり色っぽい方向で若い雰囲気、千代〈吉田簑二郎・代役〉がかなり暗い方向で落ち着いた雰囲気にいってるからだと思うが、両者の違いが克明に出ている。
っていうか、勘壽さんはなんなんだ!???!?? いままでで一番色っぽくないか??? なぜ突然地方公演でこれを????
これまでに拝見していた戸浪は婀娜っぽさが匂う雰囲気だったが、今回は肩と首の動き、上体のひねりに艶かしさを強く出した相当に直球のお色気。これまでの勘壽さんの戸浪をソツがないだけと言っている人を、ヲ丶ヲ丶、勘壽さんの仄かな華やぎや色気に気づいとらん気づいとらん、おこさまやのう、小学生じゃ幼稚園児じゃとほくそ笑んでいたのに、これでは全国民が理解する。
しかもよく見ると着付も色っぽいな。肩から胸元・腕、胸元からウエストのラインが綺麗に出ていた。ゆったりめの拵えだったけど、動いても無駄なたるみが出ず、ふんわりと柔らかにまとまっているのがスゴイ。抱きつきたいマシュマロ感がある。
一人遣い状態(手習子姿)のときの菅秀才の衣装の裾は、戸浪がお世話演技にまぜて軽く整えてやる場合が多い。私も整えられたい。静岡公演では菅秀才が裾が結構乱れた状態で座ってしまい、戸浪お直しタイムで直しきれなかった部分を戸浪の左の人が一生懸命直していたのが良かった。

 

松王丸〈吉田玉志〉は、まず、玉志さんの本気ぶりに驚いた。いつでも本気の人だけど、ただならぬ気合いを感じた。特に静岡公演では、松王丸と本人のこめかみの血管がブチ切れそうだった。いくら大役といえど初役でもないのに、60代後半にしてここまで本気で役に飛びかかってる人(飛びかってるとしか言えない)、びっくりする。
そして、玉志さんが以前に松王丸を演じた2019年6月大阪鑑賞教室公演とは、見えや演技が一部異なっていた。前回見たときは美少女のような松王丸で、透き通るような懸命さが印象的だっだが、今回は見えそのものがかなりしっかり、くっきりした。人形の重量感が増したのが見え方の変化の一番の理由だろう。しかし若い雰囲気はそのままで、青年のよう。演技が一部異なるという点においては、当代の玉男さんの松王丸でもなく、師匠(初代吉田玉男)の松王丸でもない方向へ行こうとしているのだと思う。その変化の途に、玉志さんのよいところと悪いところが如実に出ていた。

一番よかったのは、最後のいろは送りの白装束姿(水裃)。非常に慎重に構成された演技で、繊細でやわらかい所作に松王丸の優しさがよく出ていた。玉志さんの場合、大切なものや自分より弱いものに触れるときの手つきが必ずとても優しげなんだよね。女方かのようにふんわりちょこんとした手つきで、「そっ……」と触る。千代を優しく抱き寄せる仕草に、松王丸の内面の繊細さ、彼女に寄り添う心を感じる。この人、本来は基本的にすごくおとなしいのでは?って感じがいいですね。また、小太郎の遺骸を乗せた駕籠の扉を閉めるとき、閉めきったあとに名残惜しそうにそのまましばらく手を添えているのには情感がある。このあたりは昨年12月の『仮名手本忠臣蔵』判官切腹の由良助でも、塩谷判官の遺骸を乗せた輿の扉を閉める由良助の手つきがとても良かったので(もちろん閉め方自体は全然違うが)、ご本人のこだわりポイントなのかもしれない。玉男さんのクソカスゴミクズ男の手つき演技もいいけど、玉志さんの繊細な性格の男性の手つき演技も、現代文楽人形演技の必見ポイントだと思う。11月大阪の熊谷役でも、是非注目したい。

次によかったのが、二度目の出、物先羽織に野袴姿の部分。松王丸本来の清澄な雰囲気が出ている。ここでの演技は、以前見た「佐田村」の松王丸とそのままつながっていた。物先羽織は9月東京公演『碁太平記白石噺』の宇治兵部助と同じ衣装だが、身分や性根の使い分けがされていた。もう一押しすれば、身分は低いが真面目で清い心を持った松王丸の主人公らしさがさらに強く打ち出せると思う。かしらの使い方も松王丸の内面をあらわした丁寧なもので、よかった。

寺子屋」の見所となっている雪持松の衣装の部分では、首実検の緊迫感がしっかりと出ており、寺子屋らしい息が詰まる空気感がある。やや理知的で生真面目な雰囲気が、玉男さんの不気味さや巨大感とは方向性が異なる緊張感を出していた。腕の動かし方、その際の手指のチャキッという鳴らしは実際には玉男さんと同じようにやっているはずだが、怜悧な印象。やや源蔵に寄っていてクールな浄瑠璃〈竹本錣太夫/竹澤宗助〉にはまっていた。(話はそれるが、錣さんは寺子屋の間合いが結構独特なのに、ちゃんとマッチしてたな。源蔵の玉也さんもそうだけど、ベテランはそういうところがやっぱり上手い)
静岡公演の段階では、重量と衣装のかたさの困難からか、身体がきれいに捌けていない状態になっていることがあった。中日にもなってこれ大丈夫なのかとかなり心配してしまったが、平塚では大幅に改善。形が整い、姿勢もかなり自然になった。少なくとも玉志さんらしい範疇におさまった。特殊衣装のこなしはそう簡単に対応できないと思っていたので、静岡から平塚までの数公演で見せ方がなおっていたことには驚いた。
松王丸の姿を美しく見せるには、自分の肘から下に松王丸の羽織の袖をうまく引っ掛けて広げ、人形の上体のシルエットを大きな△型に見せるのが美しく見えるテクニックなのかな。人形遣い自身の肘の位置にコツがありそうだ。座り姿勢のときの胸元のたるみ感が改善したのは、どうやったのだろう。人形の高さは変わっていないようにも見えるが、微妙な違いによるもの?

ただ、気になることもある。もうもうもう……、大抵のことじゃござんせぬ!!!!!!!!!!!!!!!!
実際問題としては、松王丸の役作り自体が、まだ手探り段階の、もどかしい状態だと感じられた。特に気になったのは、演技の作り込みのやりすぎと、人形の全体の見え方の安定性について。
まず演技の作り込みについては、作り込んでいること自体はいいんだけど、考えすぎじゃないかと思う。特に、駕籠からの出から寺子屋の屋体の門口に立つところには、課題が残る。相当な病気オーラを出していて、かなりきわどいラインに接近していた。玉志具合悪いんかッ!???!???って感じ*2。松王丸が直立しているのはこの場面だけなので、ここでしっかり立たないと、単に人形演技が不安定なだけに見えてしまう。ふらつくのは、咳をする瞬間のみでいいのではないだろうか。かしら自体にぐらつきがないのと人形の位置の高さはさすがだと思ったが、それをそのまま活かさんかい!と思った。
見せ方に迷いがあるように感じられるのは、松王丸のトータルでの見せ方がまだ本人の中で固まっていないからだろう。私が見方に迷っているだけかもしれないけど、さすがに全肯定できない。これも結果論としてわかったことだが、他者(源蔵、戸浪、玄蕃、そして観客)にとって、松王丸はどういう存在で、どう見えるべきかという太い筋を作るべきだろう。それを軸にして、表現すべきは、松王丸が寺子屋の中で起こることにどう対処していくのか、どれくらい心理に揺れが出てくるのかなのでは。

ただ、細部を研究している分のよい面として、細かい芝居には神経が払われていた。「松王丸はどこで小太郎との別れをするのか」について、今回の玉志さんは、蓋自体はさっと閉め、閉め終わったあとに蓋を押さえる演技で出していた。首桶の蓋に体重をかけ、正面を向いてこらえるような表情、かなり泣きそうになっていたというか、もはや泣いていた。首実検が終わり、寺子屋をあとにする松王丸が、一度門口で立ち止まり、じっと寺子屋の奥のほうに目をやる所作。小太郎の体はまだここに残ってる……という心残りなのだと思うが、小さな💬が浮いているようで、よかった。
ちなみに、「それいるか!??!?」と思ったのは、手習子たちを実検するとき、玉志サン自身もちゃんと子供の顔を見ていた点ですね。いちいち見んでも次に出てくるヤツ覚えとるやろ! なんなら、最初の1人、2人は、松王丸自身すら一瞥もしなくていいと、私は思っている。でも、玉志松王丸は真面目なので、ちゃんと全員目視確認してました。そこは玉志成分300%配合で、律儀。

去年の熊谷を見て、人材不足をかなり心配した左と足は、とても頑張っていた。水裃姿のときの左は、玉志さん松王丸の内面の優しさをよく受け止め、その繊細さを表現した左になっていた。最初の寺子屋の門口に立つところは、タマカ・レクチャー、頼む。少なくとも誰か姿勢をチェックしてあげて欲しい。足は寺子屋の屋体の中で座るとき、よい位置に下ろしていた。やや揃えがちにしていることもあって、少し几帳面な雰囲気が出ていて良かった。手習子たちを実検するところだけ頼む、足の高さを左右揃えてほしい。松王丸がパンチラしてまう。

 

千代は勘彌さん休演のため、簑二郎さんが緊急出動*3。簑二郎さんのおとなしさがプラスに出て彼女の内面の美しさとしてあらわれており、玉志さんの真面目げな松王丸とも似合っていた。細かい所作にはまだ緊張がのぞき、所作が目的化しているので、もっと役をやり込んでいった姿が見られればと思った。「寺入り」で小太郎を預け、寺子屋を一旦出るときの「よそ見」など、なんとも惜しい感じ!


聞こえるッ! 天からの声が聞こえるッ!! 「三助はいきなりガクッと寝落ちするんやないで。いつの間にか、ウトウト居眠りしてまうんやで……(天から聞こえるKAZUO VOICE)」を一生懸命やりすぎて、三助と本人〈吉田和馬〉がものすごいガンギマリの目つきになっていた。すきをついて菅秀才を強奪する気かもしれない。でも、一応、ゆっくり、次第に居眠りしていたし、三助が眠そうなのもわかった。本人の緊張がとれれば、「客が気づかんうちにいつの間にか寝とるヤツwww」になれると思う。目つきのガンギマリ具合はなくすには惜しいんで、若狭之助とか塩谷判官が来たときにとっといてくれ。

菅秀才〈豊松清之助〉はおっとりした所作が愛らしい。でも、他人と会話してないときの目線が妙に上向きになりすぎて、おなかいっぱいのドデカハムスターみたいになってる!!! 誰か教えてあげて!!!!!!

手習子を迎えに来るジジパパツメ人形のうち、松王丸の駕籠と一緒に出てくる最初の三人組、顔が似すぎじゃない? 梅王松王桜丸ブラザーズより似ている。「おもしろ」でやっているのかもしれないけど、舞台効果として単に意味不明で、シーンがぼやける気がする。

あとは御台所が意外配役すぎて、「そこッ!!???!?!?!」と思った。

 

床はいずれも非常によかった。希さん・錣さん・芳穂さんそれぞれの真面目さと張り切りが感じられて、楽しめた。
特に芳穂さんはめざましい張り切り。寺子屋の難点、松王丸が帰る前後で切ると、そこで舞台が冷めてしまって話がつながらないという残念事案をカバーする熱量があった。紋秀さんと同じく、お前やりすぎなんだよ感も良い。いい場面すぎてかしこまりすぎ、手が縮むということがないのと、変な誤魔化しをしないのがいかにも若々しく、好ましかった。

 

  • 義太夫
  • 人形
    菅秀才=豊松清之助、よだれくり=桐竹勘介、女房戸浪=桐竹勘壽、女房千代=吉田簑二郎(代役、吉田勘彌休演につき)、小太郎=吉田簑之(代役、吉田玉峻休演につき)、下男三助=吉田和馬、武部源蔵=吉田玉也、春藤玄蕃=吉田文哉、松王丸=吉田玉志、御台所=桐竹亀次

 

 

全般に、「なんでみんなこんなにはりきってるのッ!?」と驚かされた夜の部だった。紋秀さん、勘壽さん、玉志さん、芳穂さん。もちろんほかの方も。正月初日の第一部に来たかのような見応え。俺が一番気合い入れとる合戦なのか。いつからこの人たち闘ってたの?

昼の部の感想に、勘十郎さんは性質的に合わない役、当人が理解しきれない役がきた場合に、見えを確保することに一生懸命になって、本質と違う部分に力が入っているということを書いた。力むポイントは違うけど、玉志さんの松王丸もそれと同じ状態だと思う。玉志さんのよさというのは、私は、清澄な心を持った人物を、濁りのないストレートさをもって表現できることだと思う。松王丸、特に雪持松の衣装のときは、それがやりにくい役だから混線しているのだろう。まず見た目を作ろうとする勘十郎さんとは逆で、玉志さんは浄瑠璃の文章や性根の研究に走りすぎて太い筋が形成されづらくなり、ぱっと見がわかりづらい(何も考えずに見ている人には伝わらない)ことになってしまうのだと思う。
そしてもうひとつ、最後までしっかり演じるのはさすがだが、ほとんどのお客様が松王丸に期待しているのは、やはり、「首実検がいかに派手か」である。雪持松の衣装のときをしっかりと作って欲しい。
一番出来に納得していないのはご本人だと思う。いま、手探りの状態になっているのは、それが必要であることに気づいた変化の途上にあるからだと感じる。それを良いことと捉えたい。今回で端緒は掴んでいると思うので、今後もっと松王丸を演じていけば、松王丸自体の雰囲気が変化し、向上すると思う。
玉志さんが今後どうなっていくかを、見守りたい。
(毎回見守ってないか?)(これ以上玉志を見守ると、私、怪人)

 

忠兵衛も、松王丸も、玉男さんは圧倒的に上手いと思った。性根の見せ方も、人形そのものの見せ方も。そして、玉男さんは相当計算してやってるわ。誰も勝てないと思う。玉男さんと最も競合できる人たちを配役してもこれということで、それならば彼らは相当に自分にしかできない表現を追求しなくてはならない。その結果、二人とも迷走したのかもしれないが。素直すぎるが、それが秋の地方公演の一番の感想かもしれない。

 

今回の地方公演は、残念なことがあった。それは「寺入り」の冒頭の手習子たちの演技。
特に静岡公演で、人形の「若手」の「悪ふざけ」が見苦しく、ここまで次元が落ちたか……とガッカリした。はしゃいでいるのは手習子ではなく、人形遣い。内容や動きの速さが浄瑠璃の雰囲気にまったく合っていない。静岡公演でのよだれくりは浄瑠璃の「自分の番」を忘れて、義太夫に出遅れてしまっていた。そして、彼らの喋り声は客席へかなり聞こえていた。
端役のユーモアと内輪受けの悪ふざけは違う。いくら騒ごうとも、芝居として巧けりゃ誰も何も言わない。実際、はしゃぎ演技によって物語をふくらませるように遣う巧い人はいる。でも今回は、面白いのは当人たちだけ。前々から浄瑠璃の文章を読んでいない演技が目立つなと思っていた人については、浄瑠璃に沿った芝居をする意識自体がなく、本当に義太夫聞いてないんだなとわかってしまった。*4
今回については地方公演でこれをやってしまうというのも残念で、年々減っていく地方公演でもリピートを頂いている主催者や、文楽見るのが人生最初で最後のお客さんへの責任感を持たなくてはいけないのではないだろうか。いくら「若手」といっても、一般社会で「入社10年以上」の者が、取引先客前でこんな態度をとるかと考えれば、幼稚さがわかる。
注意しない師匠や先輩たちは、非常に残念である。こういう若者って、考えなく素朴な気持ちでやっちゃったり、何を注意されているか理解できないことが多いから、周囲の大人には何がどうよくないかに気づかせる責任があると思う。やりたくない子にとっては同調圧力になることもあるので、注意が必要だ。

 

 

昼の部の感想はこちら

 

 

↓ ホールロビーから見える風景。

 

 

 

おまけ 昼の部『冥途の飛脚』メモ@平塚ver

忠兵衛の羽織落としは、平塚公演でも人形の真後ろに落としていた。というか、もたもたしすぎて、落とすのではなく、単に脱がしている状態になっていた……。以前、清十郎さんはぶっ返りの仕掛けは失敗しても構わないと書いたけど、勘十郎さんは絶対ダメ。そこを見せる芸風なんだから。もう普通に、自分に似合う綺麗な落とし方の仕掛けや、手順自体の研究をしたほうがいいと思う。
あとはやっぱり、全般通して、右手で演技していることが多いなと思った。動きが右手からはじまることも多い。勘十郎さんは、かしらより右手のほうが雄弁である。

封印切では、梅川が向かって左に挿しているシルバーのシャリシャリかんざしが、顔を近づけたときに忠兵衛の鬢に引っかかってしまった。忠兵衛が軽く頭を振っても落ちず、舞台上の人&お客さん全員が固唾を飲んで見守ったが、結構激しく絡んでしまったようで、最終的には左の人がかんざしを壊さないようにむしりとっていた。稀にかんざしやクシが吹っ飛ぶのは見ることがあるが、他の人形にひっかかるのは初めて見た。

そして、勘十郎さんの忠兵衛は、クズムーブパートより、最後に「わーん!😭」となるパートのほうが良いな。あの場面は、勘十郎さんの中にあるプリミティブな強迫観念、いつか自分も絶対逃げられない最悪事態に陥るのではないかという恐怖心に語りかけてくるんだと思う(決めつけ)。あそこのビエエエン感やおびえだけは、クズが持続していて「もーあかん、逃げるど!」感の強い玉男さんよりある意味リアル。でも、あそこらへんまでいくと、お客さんみんな疲れててあんま見てない。これも、松王丸の首実検と同じく、封印を切るまでをガッチリ決めなくてはいけないのだと思った。

 

 

 

 

*1:施設名の頭の「ひらしん」とは、平塚信用金庫ネーミングライツで、5年契約の可変部分のようだ。「ひらしん」が施設の愛称なのかと思ったよ。

*2:玉志サン、「合邦庵室」冒頭の合邦のしょんぼり演技もやりすぎて本人が体調不良に見えるほどで、基本すべてやりすぎなのだと思う。合邦だと、玉手のことを心配してしょんぼりするのは彼の性根に直接つながることので、やりすぎても問題ないんだけどね。

*3:個人的には、この代役、清五郎にやらしたりぃやと思ったが、番付上のそれなりの顔を揃えなくてはいけないということなのかな。もちろん、簑二郎さんが悪いという意味ではないです。

*4:演技が文脈をなさない支離滅裂なものになっているのは、『冥途の飛脚』冒頭に出てくる荷物を背負った仲仕も同じ。荷物が重いのか軽いのか、持ち上げ動作の演技がばらついていてわからないし、仲仕同士の演技も余分で、単に、目立ちたいんだなー。という感想ですね……。