TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 10月地方公演 ・昼の部『花競四季寿』『冥途の飛脚』グランシップ静岡

秋の地方公演、今年は初めて静岡公演へ行ってみました。せっかくなので、昼の部の記事は、静岡verでお送りします。

 

 

会場は「グランシップ」という大型文化施設で、最寄駅は東静岡(静岡駅の1駅隣、東京側)。東静岡の駅前はきれいに整備されて再開発されており、広大な土地に新しげなタワマンがポチポチ建っていた。グランシップはその駅の真横にあるが、いかんせん静岡という土地そのものが広いのと、駅を含めた建物がすべてクソデカなので、徒歩5〜7分くらいかかった。

↓ 建物全体が船の形をしているそうです。

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ホール系施設は大ホールと中ホールがあり、文楽は中ホールでの上演。中ホールといっても900席超え2階層という大きな空間。オーケストラピットが備えられており、通常公演時にはその上を塞いで椅子を設置する状態になるため、客席前方では人が歩くたびに地面がめちゃくちゃ揺れまくっていた。
本舞台は高さ80cm程度と低め。奥行きのある舞台で、人形はステージかなり奥で演技をしていたが、前列席でも見上げにならないので迫力があった。持ち込みの定式幕が引けないタイプの会場で、会場備え付けの引き上げ式の黒幕で対応していた。
仮設床は、本舞台に対して通常よりもかなり垂直気味に設置。客席側に向いてではなく、向かいの壁に向かって設置してある状態になっていた。会場の構造上の問題か、太夫三味線が出入りする袖が激せまで、みなさんシュッとなっていた。音響面としては、極端に飛ぶ音域はないが、空間が大きいせいか全体的に遠い感じがする。狭苦しくはないけれど、音が一回り、二回り遠のいて聞こえるようだった。ただし、細かな音やそのニュアンスもちゃんと聞こえるため、試し弾きや人形の雑談など、余計な音はやかましく聴こえてしまっていた(それ自体は行儀の問題だが)。残響や反響はほぼなく、三味線はもともとの音の出し方が上手くないと厳しい印象だった。

前説(豊竹亘太夫)で、静岡公演は東京から足を運んでの来場者が多いと話していたが、どうだろう? 客席マナー的な部分から推測するに、(当たり前だが)実際には地元の人が圧倒的多数だろうと思った。
ていうか、みんななんでそんなに早々から座りっぱなしなん!???!? 建物自体にもホール自体にもベンチがない会場のためか(一応ホールロビー中2階には少しあるが)、開演15分前でもみなさん着席しておられた。
集客はそこそこ良好なようで、午前の部では1階席が8割程度、2階席は3分の1ほど?埋まっているようだった。着物の人が結構いたのも印象的だった(着物での来場者にプレゼントがあったらしい)。

 

 

 

昼の部、花競四季寿、万歳・鷺娘。

万歳は人形が簑一郎さん&清五郎さんという超ちゃんとした人配役で、非常に安定。二人が一体どういう状況で、どういう関係なのか、何をやっているのかが明確な舞台になっていた。なんだこのケンカップルは……。うまい具合にお二人のタイプの違いが出ていた。また、やや煤けたところも見えて、太夫や才蔵が芸人らしいのも良かった。

鷺娘は、本人は頑張っているのだろうけど、師匠や先輩がかなり具体的なところまで踏み込んで指導すべきではと思った。
この方を含め、ぶっかえりをする役がきた方が、その成功可否が自分の仕込みの責任でどうこうということをブログやSNSに書いているのを見かける。しかし、彼らの問題の本質はそこではないと思う。また、そういった紋切り型の言葉を安易に使ってしまう姿勢自体、よくないと思う。

床は音がかなり散乱した状態になっていた。

 

  • 義太夫
    竹本小住太夫、豊竹亘太夫、豊竹薫太夫/鶴澤藤蔵、鶴澤友之助、鶴澤清允
  • 人形
    太夫–吉田清五郎、才蔵=吉田簑一郎、鷺娘=吉田簑紫郎

 

 

 

冥途の飛脚、羽織落としの段。

演目発表では「羽織落とし」からとなっていたが、実際に羽織を落とす夜道の場面だけでなく、「淡路町」(舞台転換前)の末尾、亀屋に300両が届くところから上演。義太夫は一応冒頭の「みをつくし」から入って中程をカットする手法。大道具としては下手に亀屋の出入口を茶屋のように少しだけ張り出させて、舞台中央から上手は町並の書割を置く。人形たちは亀屋の口あるいは下手小幕から出入りし、人形演技は下手のみで完結。もうひとりの手代(手代伊兵衛)はおらず、宰領・店員はツメ。
この場面を中途半端にくっつけてもあまり効果的とは思えなかった。逆に、やたら下手寄りでチマチマした芝居が続く状態になって、散漫な印象になっている。羽織を落とす夜道の場面も話の趣旨が曖昧な印象になっており、なんなら「封印切」からでもいいのでは。

忠兵衛は勘十郎さん。かなり試行錯誤されているというか、どうやって見せるかをいろいろと検討されていると感じた。ただ、それが良い方向には出なかったかな……という印象。
脱げていく羽織って、左遣いの手前、客席側に落とすんじゃないの??? 今回、忠兵衛の人形の真後ろに落としていたが、肝心の羽織が左遣いの影に隠れて、見えない。「落ちた」ではなく、単に「羽織がなくなった(隠した)」ように見える。これ、介錯のミスではないよね? さすがにこれをいいと考えた理由が知りたい。この手の「やってみた」は、やっただけで終わる自己満足や、狭い範疇への内輪受けに思えてしまう。仮に介錯や左のミスだとしたら、芝居の見せ場を理解していないことになり、それこそぶっ返しの失敗よりまずい。それとも、全員、素朴な気持ちでやってらっしゃるんだろうか……*1。勘十郎さんは国立劇場で忠兵衛役をやったとき、やたら速く羽織を落としていたが、今回は普通にゆっくり落としていた。これはよかったと思う。
いぬには本当にぬいぐるみ石を当てていた。

結果論として今回わかったのだが、忠兵衛は、「羽織(=社会性)をまとっていること」自体に観客の注意を引いておく必要がある。淡路町の冒頭から上演すると、最初は羽織を着ず愚行をかましているのがわかるので、「社会性ゼロのアホがお仕着せながら羽織着ちゃいました、でも速攻逸脱」という話の筋がよくわかる。ここから上演するなら、多少あざとくても、わざとらしく羽織を振るなりして、衣装を見せつける所作をしたほうがいいと思った。

羽織落としはいらないと書いたが、ここを弾いた清治さんは良かった。清治さんのうまさには他の人とは違う要素があり、こちらへ解釈を委ねてくるような、やや突き放したような面があるのが良い。これはそうそうできることではないと思う。

 

 

封印切の段。

清十郎さんの梅川の良さの理由がわかった。清十郎さんの梅川は、忠兵衛にだけ、距離感がすごく近い。ほかの人に対するのと距離が区別されているので、二人の親密さが自然とわかるのだ。話すときにはちゃんと忠兵衛を見ている。見ているどころか、顔を覗き込んでいる。しっかり身体ごと抱きついていて、その所作から、恋人を本当に大切に思う気持ちがよくわかる。清十郎さんって必ず「相手のいる芝居」をしていて、本当に相手役のこと好きそうだよなあとずっと思っていたけど、あの懸命さはこういうところにあったのかと気づいた。清十郎さんは、よい意味で、「他者」がいなくては成立しえない芝居だね。清十郎さんの人形の瞳には、いつも誰かが映っている。
梅川のクドキは人形・床ともに良かった。封印を切るところは浄瑠璃がボヤッとしていたり、人形の芝居として小判が一気に落ちてしまったのもあって少し「???」になっていたため、クドキがしっかり効いていた。
発見だったのは、忠兵衛が封印を切ったあと、これは養子に来たときの持参金だと言い出すところの梅川について。八右衛門はじめあの場にいる全員、それが嘘だとはわかっているが、それこそ忠兵衛の顔を立てて彼の言葉を否定せず、金を受け取っていく。しかし、清十郎さんの解釈だと、梅川は忠兵衛の言葉を真に受けてるってことなのね。このときの梅川はぐっと顔を突き出して目をきらきらさせて、期待感いっぱいに忠兵衛を見ている。ちゅーるを見たネコチャンのように……。それまでの暗く気詰まりな表情とは打って変わっての輝きだ。かわいそうに。
梅川は、冒頭の陰鬱さを含め、清十郎さんにとても似合う役だと、あらためて思った。

 

前から若干思っていたが、勘十郎さんの忠兵衛って、忠兵衛というより、徳兵衛(曾根崎心中)みたい。
そうなんだよねえ……。勘十郎さんは、手数自体は多いんだけど、それはあくまで大まかな動作のことであって、かしらの演技、つまり額や顎の表情の芝居や、肩との関係性をいかした細かい心理表現はほとんどない。顔まわりがかなり素朴な印象になるため、忠兵衛のようにすぐぺトンと座ってしまう役だと、なんか、朴訥とした人になっちゃうんだよね……。今回については、よくも悪くも、八右衛門〈吉田玉輝〉のほうが目線や顎使いなどで芝居らしい濃度のある演技になっていた。いや、タマキはまったく悪くないけど……。タマキは普通にうまいし、そのうまさは止められない……。
これらは、羽織の落とし方とは違って、直すことはできないと思う。ただ、もう少し芝居として踏み込んだ感情の盛り上げがないと、もともと『冥途の飛脚』を知っている人以外、どういう話なのかわからないのでは。懐で小判を探っているのを大袈裟に見せる、小判をできるだけ派手に落とす(手すりを超えて落とす)などを工夫しているのはわかるんだけど、忠兵衛の性根とは関係のないテクニックとしての舞台映えの話だからねぇ……。性根の表現に凝るのではなくそこを試行錯誤するというのが、なんとも勘十郎さんらしいとは言えるが……。
そもそも、梅川のこと、別に好きそうじゃないのが気になった。

 

禿役の勘昇さん。三味線を弾き語りするところで一生懸命三味線を弾こうとして、本当に弦にバチを当てようとしすぎ、実際の三味線を弾く姿勢(三味線の胴に手首を引っ掛けて、手首から先を動かして弾く)から逸脱してしまった。勘十郎さんが阿古屋や袖萩でそうやっているから真似しているのかな。本当にそれが人形の演技としてベストかどうかは、今後本人がいろいろな役を実際にやっていく上で考えていけばいいと思った。
二階の屋台の中は照明が当たらず、妙に暗くて、押入れの中かのようになっていた。

 

 

  • 義太夫
    羽織落としの段=豊竹呂勢太夫鶴澤清治
    封印切の段=豊竹呂太夫/鶴澤清介
  • 人形
    亀屋忠兵衛=桐竹勘十郎、花車=吉田勘市、遊女梅川=豊松清十郎、遊女千代歳=吉田簑太郎、遊女鳴門瀬=桐竹勘次郎、禿=桐竹勘昇、丹波屋八右衛門=吉田玉輝、太鼓持五兵衛=吉田玉延

 

 


地方公演といっても本公演と遜色ない配役で、「いつも通り」な気持ちで見られた。また、示唆を受けることが多かった。特に『冥途の飛脚』は、暗さがあってよかった。地方公演だと本公演ほどパカーンとした光が当たらないこともあり、屋台の中の人形に光が回らないことがその一因だろう。しかし、その暗い雰囲気の多くは、清十郎さんの悲惨オーラが牽引している部分があると思う。

桐竹紋十郎は、「どんな役をやっても名人いう人はどこにもおらん。なにか一つやって、あの人のあれはよかったと言われるような、人形遣いにならないかん。そやけど、それは自分で決められるもんじゃない。わしやて、わしの師匠(吉田文五郎)にほめてもろたんはたった一回だけ、八重垣姫だけやった」と言ったそうだ*2。清十郎さんが人に褒めてもらえる役というのは、哀れな中にも清十郎さんのまっすぐな心のよく出た『冥途の飛脚』の梅川かもしれないな。少なくとも悲惨系の役が上手いというのは、お客さん全員が思っていることだと思う。歌舞伎学会の『歌舞伎 研究と批評』の文楽劇評でも書かれているのを見て、「やっぱりみんな思ってたんだッッ!!!!!」と感動した。

 

勘十郎さんの忠兵衛は、ちょっと「あれ?」という印象だった。歌舞伎的な、役者主体的な演技をしているのだと思えばそういうもんかもしれないが、文楽では、芝居を知ってる人向けの答え合わせ的な手法が不自然に浮いているように感じた。夜の部の「寺子屋」の玉志さんの松王丸でも感じたのだが、本人が没入しづらい性質の役にどう対応するかというのは、一生懸命やる人ほど、試行錯誤が裏目に出て難しいのだろう。勘十郎さんは、本人が本当に真面目で内向的な面が強く、忠兵衛のクズムーブは理解できないんだろうなと思った。そして、その試行錯誤は、観客にとっては興味深いものになるのだなと思った。

 

かしらの操演で内面を表現するというのは、文楽人形のセオリーとして当たり前かのように錯覚するけど、現状、基本的に、初代吉田玉男の直の弟子筋と、あとは和生さんくらいしかやっていないのだと思った。あの人たちは、かしらだけ持たせて「はい、では切腹してください」って言われても、切腹できると思う。簑助さんは、それとはまた異なる文体としてのかしらの使い方をしていて面白かったな。あれは簑助さん一代で終わりなのだろうか。

過去の資産(観客はみんなその芝居を知っているという前提)に頼る芸は、文楽では勘十郎さんで終わりだろう。「みんなが知っている」ことが前提にできた時代は、もうとうに過ぎている。勘十郎さんがいまなぜわざわざそれを選んでいるのかは本当に気になるけど、後進の人々がどうしていくかも、気になる。もっと言えば、興行形態としてのみどり上演がいつ崩壊するかも、気になるな。私は、大阪の客入りが悪いのはみどりでやっているから、あるいはそれを長く続けてしまったからという部分があるのではないかと思っている。

 

大道具がなんとも微妙な感じだったが、いつもと業者さんが違うのだろうか。タッチや色使いがなんだか悪目立ちする感じになっていた。照明は明らかにミスであろうものがあった。地方公演の照明ってよく謎なことになっているけど、一体何なんだ。

 

夜の部の感想はこちら


 

↓ 東静岡駅前。めちゃくちゃだだっ広かったです。

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昼の部終了から夜の部開演まで、2時間半も待ち時間があったので、静岡の名所、「炭火焼 さわやか」へ行った。
大人気で休日は超長時間待ちと聞いていたのでソワソワしたが、会場に近い店舗は立地上地元の人しか来ないようで、わりとすいている方っぽかった*3。私が行った15時50分ごろには、整理券を取って数分で席に案内してもらえた。

「げんこつハンバーグ」。

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さわやかのハンバーグは、SNSで見かける写真ではおはぎサイズのが2個乗ってるってことだと思っていたのだが、実際にはテーブルには巨大なボール状のものが運ばれてきて、店員さんがアツアツ鉄板の上で肉汁をほとばしらせながら2つに切ってくれるという仕様だった。しかも、思ったよりもデカい。普通のハンバーグ2個状態。
味はまじうまい!!! 牛肉さほど好きではない私でも「えーーーー!!!!おいしーーーーーー!!!!!」と思う美味しさ。シンプルに肉の味がするあらびき肉のほろほろさにあっさりしたたまねぎソースがからむ。脂ぎっていないので、量が多くても平気。どんな人にも食べやすいよう、適度に固めてあることも良かった。値段も気取らないものだし、これは話題になるのもわかる。なんなら来年も、さわやか食べるために静岡公演へ行きたい。

プチデザートも良かった。

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現地ではファミレスポジションのお店のようで、80年代ごろの主婦に流行ったような鄙びたアメリカンカントリー風の内装が懐かしく、もっさりした雰囲気がかわいかった。あと、接客がめっちゃよかった。(地元民だらけのお客さんの中、私だけあからさまな「おのぼりさん」だったんですが、いろいろ説明してもらえました。テーブルにハンバーグが届いたときに、お客も参加する「儀式」があるんです)

なお、さわやか食べたさに、昼夜の間にあった勘十郎さんの無料トークショーはさぼりました。勘十郎すまんの。

 

さわやか 静岡池田店
会場(グランシップ)から徒歩15分弱

https://www.genkotsu-hb.com/shop/ikeda.ph

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*1:ここでいう「素朴」とは、「何も考えてない」の意です。

*2:広告批評』1998年7-8月号、桐竹紋寿・淀川長治対談。国会図書館の利用者登録している人はオンラインで読めます。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1852937

*3:あと、お客さんがみんな本当に地元民で、食ってすぐ帰る系なので、回転が激速。ハンバーグの写真をわざわざ撮ってるの、私だけだった……。