TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 3月地方公演『義経千本桜』椎の木の段、すしやの段 府中の森芸術劇場

権太は、悪から善へと変じた人物なのだろうか?

私は当初、権太をそのように理解していた。前半は「実は小心者のゴロツキ」、後半は「親想いの善人」であるという解釈が正しいと。その転換点が「椎の木の段」の一度目の引っ込みと二度目の出のあいだ、あるいは「椎の木の段」と「すしやの段」のあいだにあると思っていて、その転換点をみるのが「高等な見方」だと思っていた。

しかし、文楽をしばらく観続け、さまざまな浄瑠璃を読むうち、権太の本来の性質は、はじめから終わりまで変わっていないのではないかと思うようになってきた。彼の性根そのものは一貫しており、変わったのは周囲の彼を見る目、受け止め方。その変化によって、彼が「善」だと捉えられるようになったのではないか。本当に悪人から善人へ転じる『源平布引滝』の瀬尾太郎や、『大塔宮㬢袂』の鷲塚金藤次とは違うと思う。

ただ、一般論でいうと、権太はやはり、「粗暴なゴロツキが改心し、突然善人になった」という解釈が王道だと思う。王道という言葉に語弊があるようなら、そのように演じるのが芝居としてのルールだと言ってもいい。なんなら前半は過剰に露悪的な盛り付けがあってもいい。実際、勘十郎さんはそうしている。前半は「実は小心者のゴロツキ」、後半は「親想いの善人」というように、かなりはっきり分けてわかりやすく表現している。

 

今回の地方公演での「すしや」は、玉男さんが考えている権太の〈性根〉とはどのようなものなのかという点が私の注意を引いた。

玉男さんは、権太を「彼の性根そのものは一貫している」キャラクターとして演じているのではないかと思う。
たとえば『菅原伝授手習鑑』寺子屋の段の松王丸、『一谷嫰軍記』熊谷陣屋の段の熊谷は、玉男さんは前半と後半で演じ分けをしている。しかし、彼らの内面はあくまで一貫している。前半は芝居を打っているという設定で、彼らは内面のわからない怪物、「悪」や「冷酷」として見えるように演じている。後半の彼らは本来の言動に戻り、家族への慈愛、本人自身の感情を示す。つまり、彼らの性根そのものは変わらず、行動が変わることによって、他者からは変わって見えるという建て付けだと思う。
権太は、これら松王丸や熊谷と同じカテゴリとして演じられているように感じる。*1

ここまでは、私と「解釈一致❤️」なのだが、問題はこの先だ。私が玉男さんをすごいと思うのは、権太を特段の「善人」と表現していない点だ。

私の考える「彼の本来の性質は変わっていない」というのは、「権太はなんらかのきっかけで運悪く周囲から誤解を受けてゴロツキだと思われてしまい、孤立したために本人もゴロツキにならざるを得なかっただけで、本来は悪人ではなく、繊細で“まとも”な人物」という意味。一種の孤独な被差別者のキャラクターとして捉えていた。『無頼』シリーズの渡哲也みたいな🥺(余計わかんねぇよ) もっとわかりやすくいえば、『ごんぎつね』のごん🥺🥺🥺 というか、ごんぎつねのごんって、権太のごん????

玉男さんの権太は、少なくとも、「善人」ではない。彼は自分自身の心に沿って行動しているだけだ。前半でも後半でも、常に自分が「正しい」と思った行動をする人物であり、その「正しい」が他人の目には凶悪であったり、親孝行であったりするように映るだけのことのように思えてくる。その行動を周囲が悪ととらえるか、善ととらえるかというだけの話。

 

なぜそう思ったか。前半の権太の凶行は、悪意ない行為で、かつ「芝居」でもないと感じたからだ。

「椎の木の段」で、権太が出てくるとき。下手(しもて)の小幕から出て、茶屋の店先の若葉の内侍や六代君が座っている床机の前を通り過ぎるとき、彼女らを横目にチラと見るタイミングが速すぎる。玉男さんは目線の使い方が非常に的確で、向きや動かすタイミングに、その人物の性根をあらわす大きな意味がある。これが普通の役で「なんや人おるな」程度のときは、もっとゆっくりと振り向く(もしくはそもそも一瞥もしない)はずだが、権太はかなり早いタイミングで、盗み見するように一瞬だけ目線を動かす。これは獲物を品定めしたということだろう。やっぱりこいつ、「悪人」なんだなと思った。

また、「芝居がかり」が一切ないせいで、小金吾への「ゆすり」が「大衆演劇的」なそれではなく、東映実録路線のヤクザとか、韓国映画や香港映画のヤクザみたいになってる。速度が早すぎる。「芝居」の中の人物ではない。モノホンのやばい人。怖い。
刀を抜きかかりそうになる小金吾を避け、床机を立ててその陰へ隠れる演技。ここ、普通は「床机の陰に避難!!!!!」的な「ビビり」風にするところ、とくにビビってなさそうだった。いつでも小金吾を捻り殺せるが、おや、こんなところにいいものがある、この床机で叩き潰そうかと考えていそうだった。

権太にはこのあと、息子の善太と遊んでやるくだりがある。この部分では、「父としての暖かさ、子供への情(じょう)」を滲ませるのが普通で、さきほどの追い剥ぎ行為との落差を見せることで、権太が決して類型的な悪役、薄っぺらい人物造形でないことを表現する。のが、普通。普通はそうなんだけど、玉男さんの権太は、「自分がおもしろいからサイコロ転がしをしている」ように見えるんだよね。サイコロ転がしてるとき、サイコロだけ真剣見すぎ。本当の意味で、「一緒に遊んでいる」ようだった。このあと、善太が「すもうしよ〜!」とばかりに抱きついてきて、権太も家に帰っていくが……、その抱きつかれているときの表情も、なんか、違和感あるんだよね。普通はそこで「きょうは賭場へ行くのはやめて、かえろ、かえろ、おうちへかえろ」みたいな顔をすると思うのだが、必ずしも善太への父親としての愛情を滲ませるという芝居ではないような気がする。

「すしや」に入っても、お里と維盛を追い払う様子、ママへのお小遣いせびりなどに、芝居っぽさがない。「本当に異常」な兄が帰ってきた状態。

とにかく、「凶暴さ」のリアリズムが突出し、そのほかの属性を覆い隠しているように感じられる。

個々は「役の研究不足」「演技ミス」ともとれることだ。しかし、玉男さんの場合、あまりに首尾一貫しているので、あながち「下手」とも思われない。
「椎の木」で小金吾が投げた金を権太が足で引き寄せる場面があるが、ここで「一度手で取ろうとしてから、躊躇してしゃがんで足で引き寄せる」という、他の人より細かい演技もやっているので、演技の抜き等も含め、設計と思われる。
ここからあらわれてくるのは、凶暴でありつつ妻子への情がある。悪辣でありながら父母を思いやる気持ちがある。ただそれがいちいち手前勝手すぎて、誰にも伝わっていないし、伝わるわけがない。そういった権太の人物像だ。これは「芝居」では表現が非常に難しい。でも、こういう人、現実には、無数にいる。きわめてリアルな人間像だ。


これ、深作欣二監督の映画『仁義の墓場』だな。『仁義の墓場』の渡哲也が中世〜近世の吉野にいたら権太になるなと、玉男さんの権太を観て思った。
渡哲也演じる『仁義の墓場』の主人公・石川力男は、親分や仲間までもが手を焼く凶暴なヤクザだ。終戦直後の混乱と利権闘争の中、渡哲也は当初はその「蛮勇」を買われていたものの、みなが「蛮勇」だと思っていたものは一種の「狂気」だった。彼のあまりに非論理的な行動に周囲の人間はドン引きして、コミュニティから排除しようとする。が、渡哲也はそれでもしつこくまとわりついてくる。やがて彼はヘロイン中毒になり、言動のおかしさはどんどん加速していく。心身、境遇ともに破滅的な状況に至り、刑務所に収監されるが、刑務所屋上から投身自殺をはかってその生涯を閉じる。
仁義の墓場』の渡哲也って、本当に意味不明なんですよね。どうも本人にはなんらかの行動原理があって、それに沿って行動に出ているのはなんとなく察せられるんですが、こっちからするとあまりに意味不明で不条理。絶対共感できないし、擁護できない。最強に意味わかんないのは、自分と親友とで一緒に入る墓を勝手におっ建てるんですけど、その親友、自分が殺してるんですよ。しかも、墓石にはなぜか「仁義」という文字が刻まれている。なんで???? すべてが意味不明。映画館で観てるお客さんも、全員、ドン引き。しかしとにかく、本人にもなんらかの内面があることだけはわかる。絶対に掴めないが。
権太もそう。彼の本質は誰にも理解されない。異常なまでの凶暴さ、一貫しない奇矯な行動に惑わされ、誰も彼の本質を見ることができない。父・弥左衛門はいついかなるときも彼を愛し、彼やまだ見ぬ孫のことを気にかけていたが、それでも弥左衛門は、自分の息子を誤解し続けていた。それ自体が悲劇であり、それゆえの悲劇。

玉男さんは『女殺油地獄』の与兵衛をやったときも、よく喧伝されるような「青少年の心の闇!キレる若者!」という像ではなく、周囲に理解され得ない独特の心情を抱いた孤独な若者として彼を描いていた。これは日活ヤクザ映画で渡哲也が演じていたキャラクターに近い。『仁義の墓場』も、『無頼』シリーズをはじめとした日活ヤクザ映画も、それまでの任侠映画のクサさやファンタジー性を排除したリアリズムヤクザ映画だ。

 

これらは独特の人物像だが、いずれも、浄瑠璃原作自体に書かれていることとズレているわけではないんだよね。そりゃお前の思いつきで単なる逸脱だろっていう「ボクはこう思いました!新演出でやってみました!」とかではない。あくまで浄瑠璃に沿った「こう解釈することもできる」というギリギリのキワをついている。そのリアリズムが、浄瑠璃をただの「むかしばなし」「高尚なカルチャー」にさせない強度を作り出している。

玉男さんのこのリアリズムは初代吉田玉男にはなかった要素だと思われ、私はこれこそが当代玉男さんの芸風上の特徴だと思う。
玉男さんの師匠・初代吉田玉男は、リアリズムを持ち込んだ高度な心理描写で文楽人形の演技を大幅に改革した、空前絶後の名人である。いまの玉男さんも、この初代玉男の影響を大きく受け、その芸を受け継いでいる。しかし、師匠の持っていたリアリズムと、玉男さんのリアリズムは、全然違う。師匠のリアリズムを受け継いだのは玉志さんだった。師匠・玉志さんと、当代の玉男さんとのリアルさの方向性の違いを比較すると、師匠・玉志さんは「本来他人にはわかり得ない人間の内面を、人形の姿を借りることによって(人形の姿を借りられるからこそ)直接的に観客へ伝える」ことを目標としているように思う。しかし玉男さんは違っていて、「いついかなるときも、本当の人間の内面というのは、他者から見ること、見つけることはできない」と描写しているように思う。熊谷で比較すると一番よくわかると思う。師匠・玉志さんは、前半であっても、熊谷自身の心の内を言葉とは逆に全面に出し、細部まで非常に丁寧に描写している。しかし玉男さんは、彼が心のない怪物かのように、内面を意図的に遮蔽して描写している。松王丸もそう。そこには、一種の諦念さえ感じる。

玉男さんの年齢を逆算すると、リアリズムヤクザ映画が台頭した時期(1960年代末〜70年代)に10代後半から20歳前後を迎えている。世代的に「美化されたフィクションへの不信・唾棄」という転機があった時代に多感な時期を過ごし、その当事者となったのか。とはいえ、同世代の勘十郎さんは、その歳ですら古いんじゃないかというくらいベタな路線にいっているから、そんな安直な話ではない。一体このリアリズムはどこからきているのか。

私は、こう思っている。さきほど、あくまで浄瑠璃に沿った「こう解釈することもできる」というギリギリのキワをついていると書いたが、玉男さんからすると、「こうとしか解釈できない」という、本人の感性による自然な理解をそのままやっているにすぎないのではないか。計算してわざとやっているにしては「完成度」が高すぎ、「整合性」がありすぎなのだ。思いつきでやってる人、浅い計算でやってる人は、どこかに破綻が出る。それが全然ない。
忠兵衛(冥途の飛脚)のあまりのリアリズム的上手さについては、「玉男さんが本当にそういう人なんだろう、素のご自身なのだろう」と思ってきたが(なんか今、失礼なことを言ったような?)、権太も与兵衛も、実はそうなのかもしれない。

私、玉男さんのコメントで、はっとしたことがあるんですよね。文楽はものすごい縦社会で、下の者は理不尽だろうがなんだろうが忍従しなくてはならない場面が多い。そういったことについて、玉男さんが「嫌だ嫌だと思ったら、本当に嫌になってしまう」とコメントするのを目にしたことがある。玉男さんの思う「人間の心とはどのようなものなのか、なんなのか」をあらわした、かなり深い言葉だと思う。

ただ、これは私の想像。なぜこのように演じるのか、しっかりしたインタビューを取って残してほしい。考えてやっていたら、初代の才気を形を変えて受け継ぐセンスの持ち主、天然だったら、稀有なる本物の天才だと思う。*2

 

古典の〈再解釈〉演出は、〈再解釈〉であることをわかりやすく際立てるため、「現代の社会問題を盛り込む」「現代の社会問題と重ね合わせる」という手法が一般的だと思う。しかし、それだと浄瑠璃自体が持っている、本質的で普遍的なテーマがずれるんだよね。なぜその浄瑠璃が古典として現代に生き延びたのかを殺してしまっていると思う。実際にはそのような「トッピング」をせずとも、現在に訴えかける〈再解釈〉を本公演で上演することが可能なのではないかと、私はかねがね考えている。それが和生さんの『心中天網島』おさんであったり、玉男さんの権太、与兵衛なのではないかと思う。

 

 


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ここから普通の感想。
3月地方公演は、府中の森芸術劇場へ行った。

昼の部『義経千本桜』すしやの段の人形メイン配役は、2019年3月地方公演とほぼ同じ。しかし、5年の歳月が経過するうち、ご出演の技芸員さんたちは変わり、私の感じ方もだいぶ変わったようだった。

 

維盛は2019年と同じく和生さん。改めて見ると、和生さんの維盛は、玉志さん・玉男さんの維盛と全然違う。
玉志さん・玉男さんは若々しく、貴公子ながら武張った印象が強い。しかし、和生さんの維盛は山岸涼子作画の官僚系貴公子という印象。玉志さんと玉男さんの維盛は全然違うなと思っていたけど、和生さんがそこに入ってくると、彼らの違いは彼ら自身の芸の雰囲気に起因する誤差レベル。

和生さんの維盛は、玉志さん・玉男さんのそれよりも厭世観がかなり強いのではないか。特に違うのはお里への態度。玉志さんでいうと、お里との新枕を拒絶するシーンは「この子を傷つけたくない、弥左衛門にも申し訳ない」「わたしには若葉の内侍と六代君が」と思っているから、「二世の固めは赦して」と言っているように見える。玉志さんの維盛は人間として優しくて、お里をはじめとした周囲の人を思っやっているからこその断り。
しかし、和生維盛は、明確に心の距離がある。誰の維盛よりも、冷たい。普通にお里、嫌いだろ。むしろウッスラ気持ち悪がってないか。二人きりになるまでもなく、それまでも、全然、目ぇ合わせてない。いや、お里だけを嫌いなんじゃなくて、もはやこの世すべてが嫌になってるでしょ。弥左衛門の押し付けも、追ってくる若葉の内侍や六代君も、死んだ小金吾も。和生さんの維盛と心が通じ合っているのは、浄瑠璃の本文通り、頼朝だけだと思う。違和感を覚えるほどの貴品の高さも、そこに起因しているように感じる。

演技そのものは、玉志さん・玉男さんはいうまでもなく、和生さんも、初代吉田玉男師匠の維盛を写し取って演じている可能性が高いだろう。しかし、根本的に、性根への理解が違うんじゃないかな。変化のポイントでそれは顕著になる。本作の維盛の重要な変化である「出家」、出家を思い立ったタイミングが違うのではないか。和生さんの場合は、最初に天秤棒かついで出てきたときから出家を決意していると思う。『勧進帳』の冨樫も、いつ冨樫が弁慶を許すと決めたのか、玉志さんと和生さんでタイミングが違うように思ったし、そのあたりは個人の考え、判断なんだろうなと思った。

ところで、維盛って、前半(お里たちに避難させられるまで)と後半(梶原景時が去った後)で雰囲気がまったく違って見えるが、かしらは同じなんですよね。衣装はでんち(チョッキみたいやなつ)を脱いで刀を差し、かしらは前半はシケ(ぴよっとした横毛)があるけど後半はない(収納している?外している?)のはわかるけど。しかし、シケの有無以上の違いがあるような気がする。人形遣いの演技力によるものか。微妙な人(失礼)で観たら、また見え方が違うかもしれない。と思った。

 

玉志さんの弥左衛門は、カクシャクとした強気のジジイ。権四郎(ひらかな盛衰記)、合邦(摂州合邦辻)と並ぶ、剛毅に見えて慈愛に溢れた老人役、ハッキリとした所作が似合っていて、上手い。文七などを使う主役系の配役のときは凛とした佇まいで一切動かず(若干おもしろくなってくるほど動かない)、バタバタした芝居は一切しない人だが、むしろこういうギャンギャン騒ぐ役もいいなと思う。メリハリが強いので、小さな人形でも見栄えがするし、彼がただの隠居ヨボジジでない性根を感じる。強気ぶりがすごいので、維盛と二人きりになることろでは、往時の重盛と弥平兵衛宗清(弥陀六)の対面、みたいなことになっていた。
しかし、弥左衛門もやっぱりなんかかしらを「プルルッ」としてるな……。顔が玉子塗りの在所ジジイだからかな……。どでかい役よりは振り幅が小さいのだが、かしらによって振り幅を変えていること自体がだんだん怖くなってきた……。近年は、悪目立ちという意味での「ピョコォォッ」はしなくなってきたなと思っていたけど、「プルルッ」は健在で、なお盛んである。

今回の小金吾〈吉田玉勢〉、若葉の内侍〈桐竹紋臣〉、六代君〈吉田玉路〉は揃って真面目な人に配役された。そのため、「椎の木の段」の出は、みなさん真面目に「慣れない人が京都から奈良まで無理に歩いてきて……歩き疲れている……!」と激しく思い込まれているようで、旅疲れを通り越して『八甲田山死の彷徨』状態になっていた。

小金吾の玉勢さんは、以前同じ役を拝見したとき、小金吾の性急さは若葉の内侍や六代君を守りたいがためのことという、役の性根で一番重要なところが脱落していた。しかし今回は、若葉の内侍や六代君のことを気にかけているがゆえに感情の揺れが起こっていることが自然に感じられた。何が変わったのか。権太役の人の受けの芝居のうまさもあるとは思うが。

若葉の内侍はスラリとしたまさにお人形さんのような姿。といっても前近代ではなく、中原淳一デザインの着せ替え人形があったらこんな感じとでもいうべき、手足がしなやかに長いスタイル。強いシナがかかっており、元女官の身分を考えると若干世俗的な色気が強すぎるように感じるが、若葉の内侍は所詮脇役だから、逆にこれくらいやってもいいのかもなと思う。言い方はなんだが、いつも良い役をもらえていればこうはならないものを、これしか役がないからこうなると思うと、強くは言えない。

お里は逆に色気がなさすぎる。先日のせとだ文楽の記事で、勘十郎さんのお弓にはシナがありすぎると書いた。この若葉の内侍のシナ、お弓のシナをもっと具体的に言えば、そのひとつには、肩の落とし方がある。肩を落とすというは、動きの中で手前(客席)にくる側の肩を大きく下げるなどする姿勢で、肩と顔/そのほかの身体との関係性を見せる動き。女方は肩の落とし方に演技上の重要なポイントがあり、適切な場面で適切に肩を落とすことで、彼女の内面や社会的属性が表現される。つまり、若葉の内侍・お弓はそれが過剰なので、見応えはあっても役を逸脱しているように感じるということ。だが、お里は逆に肩を落とすところがないため、全体的に案山子みたいに棒立ちになっちゃってるんだよね。クドキを見ていると特によくわかる。体を左右にゆすっているだけになっていて、肩を落とすという立体的な上下の動きが入っていない。権太に「イーッ」とするところだけ力いっぱいやっても仕方ない。簑助さんの良いところを取り入れてほしい。

玉男さんの権太については先に細かいことに言及してしまったが、何をやっても人形がクソデカごん太(ぶと)化する玉男さんということで、人形の姿は大変素晴らしかった。
「すしや」での懐手の出や、後半、もろ肌脱ぎになってねじり鉢巻をしめ、鮓桶を持ってかけ出すところなど、堂々たる体躯と美しい姿勢で、さすがと思わされた。人形の体がバラけて動いていないのが上手いよね。それが当たり前のはずなのだが、現在の配役では、そうはいっていないことが多いから。
ママへの甘えも可愛らしい。本当にバカっぽいというか、まるで幼児還りしているみたいで、良い。これも玉男さんならでは。ここ、高確率で小芝居になるからねぇ。玉男さんは本当に純粋に演じていると思う。
しかし権太の左、ずいぶん良い人をつけてきたな。権太を自分でやってもおかしくない人でしょ。和生さん維盛、玉志さん弥左衛門という配役もあって、こんな座組でやったら本公演よりレベル高いだろ、と思った。

「椎の木」は、小金吾と権太の対比がうまく出ているのが良かった。やや焦ってせかせかする人と、マイペースな人と。これは配役の妙で、小金吾が同じで玉志さんが権太をやったら、所作上の区別はここまでつかないだろうなと思った。
配役のコンビネーションでは、「すしや」の弥左衛門と権太の親子感も良かった。権太がママにお小遣いをおねだりしているときに弥左衛門が帰ってきて、扉が閉まっているので弥左衛門は癇癪起こして大騒ぎ、権太はパパに見つかりそうで大慌てというシーン。ここで、ちゃんと弥左衛門と権太の動きのタイミングが合っている。打ち合わせして示し合わせている、どちらかかがどちらかに合わせているのではなく、お互い勝手にやっているだけながら二人とも義太夫に合わせた間合いで動いているから、客席から見るとシンクロして見えるのだと思う。玉男さん玉志さんは言われないとわからないほど芸風が違うが、さすが同じ師匠から教えを受けた兄弟弟子、と思った。

「すしや」の冒頭、おすしを買いに来ているツメ人形が、おかねを落とした。落としたおツメ、お里、ママともに「「「あ」」」という顔になったが、おツメが自分でおかねを拾って、ことなきを得た。これは「すしや」だとまあまあよくある事故だ。しかし、落下がもう一件。途中、六代君の周囲からカツンという音がいて、何かを落としたようだった。その瞬間はよくわからなかったのだが、もしかして左手が落ちちゃったのかな? 途中、後ろ向きになって、なにかごそごそしていた。


「すしや」といえば、2023年1月大阪公演が人形床ともに限度を超えてひどくて、むちゃ切れしてしまった。しかし、今回聞いて思ったのは、呂太夫さんは、全体の声が小さいことに問題はあれど、間合いのメリハリはきちんとついていたんだなということ。今回はそのあたりがかなりノッペリしていた。浄瑠璃がストレート流路の流しそうめんのように流れていった。浄瑠璃って、結局、「音が出ていない間」こそが一番大事なのかもしれない。そこが均一化してはいけないし、維盛とお里の喋り方が同じなわけない。維盛だけはなおしてくれ。
上記は苦手だろうがなんだろうが必ずやらなくてはならないことだと思うが、三味線については、「すしや」が向いている、向いていないがあるなと思った。吉野ののどかでほがらかな風景をイメージさせる演奏ができるかどうか。もうこれはセンスでしかなく、よく言えば、向き不向きがある。悪く言えば、やれと言ってもできない人はできない。と思った。


ひとつ、非常に気になったことがあった。ある人形の若手、人形よりもしきりに自分の顔を動かしていて、役柄にすらない変なシナが出てしまっている。この人、いつもそう。でも、彼の師匠はまったく顔を動かさない。おそらく、師匠はその師匠から余計な動きをしないよう厳しく躾けられていたのだと思う。自分の弟子にはその指導をしていないのか? 1、2年目でもないのにこの程度(?)のことに留意して舞台に上がれないというのはその人自身も悪いが、「悪いくせ」として注意するよう指導してあげるのが師匠としての勤めだと思う。

 

 

  • 義太夫
    • 椎の木の段
      口=竹本南都太夫/鶴澤燕二郎
      奥=豊竹靖太夫/鶴澤清𠀋
    • すしやの段
      切=竹本千歳太夫/豊澤富助
      奥=豊竹藤太夫/鶴澤清志郎
  • 人形
    権太倅善太=吉田玉延、権太女房小仙=桐竹紋吉、主馬判官小金吾=吉田玉勢、六代君=吉田玉路、いがみの権太=吉田玉男、娘お里=吉田一輔、弥左衛門女房=吉田文昇、弥助 実は 平維盛=吉田和生、すしや弥左衛門=吉田玉志、梶原平三景時=吉田玉助

 


◾️

「すしや」、やっぱり、何度観ても面白い。本当に、文楽を代表する傑作だと思う。
文楽現行上演がないものを含めると、人形浄瑠璃には、権太のように「粗暴なゴロツキが誰にも言わず突然改心し、自己犠牲をもって誰かを助ける」という展開が多数存在する。彼らは文字通り、ゴロツキが「突然」改心して、別人のように「善人」になるという設定になっている。権太が彼らと違うのは、善太・小仙との関係(妻子を憎からず思っている)、ママとの関係(甘え)、パパとの関係(やっぱりちょっと怖い!)があらかじめしっかり描かれることだ。これによって権太は非常に立体的な人物となっており、また、(意図的に)描写が欠落させられていることもあって、解釈の幅が非常に広いキャラクターになっている。それ魅力となり、浄瑠璃の豊かさとなって、「すしや」という演目を傑作にしているのだと思う。

コロナ禍のはじまりのころ、大阪で企画されていた『義経千本桜』の通し上演が中止になった。あのとき、権太には玉志さんが配役されていた。玉志ええ役やん! 平右衛門もうまかったし、ええやんええやん! と思ったけど、正直、権太が似合いきるとは思えなかった。ていうか、「綺麗なジャイアン」になるおそれがあるんとちゃうかと思っていた。
しかし、今回の玉男さんの権太を見て、「権太が他者に理解され得ない孤独な青年だとすれば?」という観点を得たところからすると、玉志さんも本人の解釈によって、権太が似合いそうだな。もっとも、玉志さんの場合は、「本当はいい子なのに、周囲にずっと誤解されて孤独だった。最後に家族には本当の彼をわかってもらえて、誤解がとけて、報われた」という解釈のほうが合うと思う。ご本人が権太をどう解釈しているかはわからないし、最も似合うのは維盛だし、なんなら知盛とかやりたいのかもしれないけど、いつか、玉志さんの権太を見てみたいものだ。師匠も権太をやっていたようだけど、どんな権太だったのだろうか。

 

府中会場となっている「府中の森芸術劇場」は、来年度は改修工事のため休館とのこと。府中は音響が良好なので、ここでの公演が拝見できなくなるのは、残念。
3月の地方公演、来年度の東京都内公演はどうなるんだろう。以前あった大田区公演は、会場改修による休館でなくなり途切れたままだ。府中市が別会場を設定して行ってくれるか、都内どこかに立候補してくれる会場があるといいのだが……。来年度の公演スケジュールを見ると、もはや本公演すらまともにできない状態なので、高崎へ行く羽目になっても仕方ないのかな。

 

最後に、今回の地方公演の感想を素直ツメ人形風に3つにまとめると

  1. 景事がないのが良かった。
  2. 昼の部にジジイ固まりすぎ。和生長右衛門やれや。
  3. 解説中のヤスさんの目の死に方はすごい、人形みたい。

と思いました。
でも、ヤスさんの解説は良い。あらすじをどこまで喋るか、つまり、お客さん自身が自分の目と耳で確認すべきはどこからなのかをしっかりと示唆している。解説は、相手に行動を促す内容でなければならない。一方的に説明を読み上げるだけなら、チラシを読めば終わることだ。

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*1:残念だが、本当に内面が変化する人物、『大塔宮曦袂』の金藤次を観たのはだいぶ前なので、いま記憶だけで安易に比較することはできない。瀬尾太郎はやってるの見たことないから、比べられん!

*2:それでいうと、「すしや」。縄をかけ猿轡をかませた小仙と善太を連れてきて、梶原景時に引き渡す際、権太は屋体の横でうしろを向いて手拭いで背中を拭く。その際、うしろを向いたまま、汗を拭くのに紛らわせて涙をぬぐう演技を入れる場合が多い。しかし、玉男さんはこれをやっていなかった。ママにお小遣いをせびるところではオイオイ泣き真似をしていたのに。と思ったが、ここであからさまに泣くと、下賜された陣羽織を頭から被るところ(=密かに泣くところ)と「こっそり泣く」演技が重複するからか? 世の中には、陣羽織を頭から被ることが何を意味するのか察することができない人もいる。わかりやすく「お涙頂戴」したけりゃ後ろ向きになっている段階で泣くべきだが……。玉男さんの場合、浄瑠璃の演奏が過剰に早まり、人形との噛み合いが悪くなると、演技の手順を切って進行し、人形の動きがテンポはずれになることを防ぐ傾向がある。しかし、特にそういうことは起こっていなかった。気分等もあるのかもしれないし、私から見えない位置でなにかしていたのかもしれないが、ここを切ったのは、かなり高度な判断だと感じた。