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映画へ〈改作〉される古典芸能:『妖刀物語 花の吉原百人斬り』  1 歌舞伎『籠釣瓶花街酔醒』からの改変点

映画『妖刀物語 花の吉原百人斬り』がアマプラの東映オンデマンドで配信開始されているのを見つけた。

『妖刀物語 花の吉原百人斬り』

 


あらすじ

野州佐野の絹商人・次郎左衛門〈配役=片岡千恵蔵〉は、大きな機織り場を経営し、絹織物を江戸へ下ろすことで莫大な身代を築いた商人である。彼はその誠実さによって仲間内の信頼も厚いばかりか、使用人たちを大切にし対等に扱っていたため、番頭手代から機織り娘、飯炊き婆にまで慕われる篤実な人物だった。
こうして何不自由なく暮らしているように見える次郎左衛門は、この家の嫡子というわけではなかった。彼は生まれたばかりの赤ん坊の頃、寺の門前に捨てられていたのを先代に保護された捨て子だった。そのため次郎左衛門は自分を育ててくれた先代に恩を返すべく、嫁取りをして家を後代へ残すことを希望していた。が、彼の右ほおには大きな痣があったため、相手に敬遠され、見合いは毎回破談になっていた。
この夏も懇意の問屋・越後屋の紹介によって江戸で見合いをすることになった次郎左衛門だったが、次郎左衛門の痣を見た先方は早々に断りを入れてくる。次郎左衛門自身はもとより諦めていたため、すぐに佐野へ帰って仕事へ戻ろうと、宿で出立の支度をしていた。そこへ、越後屋と仲間衆が尋ねてくる。彼を励ますべく、江戸の名所、吉原へ遊びに繰り込もういうのだ。真面目な次郎左衛門は遊里には興味がなかったものの、越後屋の心遣いを悟り、付き合いのつもりで彼の馴染みの仲之町・兵庫屋へついていく。しかし、そこでも遊女たちが次々に彼の痣を嫌うので、次郎左衛門はますますいたたまれない心境に陥り、宴の場は気まずい雰囲気になってしまう。
ところで、兵庫屋には、深川の岡場所(私娼窟)の取り締まりによって公儀から下げ渡されたお鶴〈水谷良重〉という女が飼われていた。岡場所上がりの最底辺の女郎は吉原の格式を誇る兵庫屋には似つかわしくなく、朋輩女郎たちはまだ店先に出されないでいるお鶴を見下していた。越後屋の座敷への対応を迫られた兵庫屋の主人〈三島雅夫〉は、面白半分に下賤の出のお鶴を玉鶴と名付け、座敷に出して次郎左衛門につける。彼女は次郎左衛門の痣にまったく動じなかった。それどころか、痣が気にならないかと心配する次郎左衛門に、「心の中まで、痣があるわけじゃないだろう?」と言って、彼の痣を吸う。
この玉鶴の言葉に魅了された次郎左衛門は、彼女のために吉原へ通い詰めるようになる。次郎左衛門はそれまでと打って変わって明るい性格になり、使用人・治六や越後屋は吉原通いを心配をしながらも幸せそうな彼を見守っていた。
次郎左衛門に親しむようになった玉鶴は、すべてを見返すために松の位の太夫になりたいと語る。それには千両以上もの資金が必要だった。次郎左衛門は資金を捻出し、玉鶴に太夫見習いの稽古事をさせるようになる。しかしそれは豪商の次郎左衛門をしてもやや無理のあることだった。兵庫屋は次郎左衛門につけ込み、法外な請求をし続ける。
そうしているところへ、野州で大規模な雹害が起こり、蚕の死という原材料不足から絹織物産業は危機に陥る。これによって次郎左衛門は佐野へ帰り、地元で事業の立て直しに尽力することになる。だが次郎左衛門は玉鶴のことを見切ったわけではなかった。兵庫屋の主人の指図で玉鶴が次郎左衛門へ催促状を出したため、次郎左衛門は佐野から吉原へ仕送りをしていた。しかし家に残された資金は乏しく、さらに、よそから取り寄せた糸の品質の悪化によって絹が織れず、商品が作れないという致命的な状況へ陥る。次郎左衛門は最後に残された資産として、自分が捨てられていたときに添えられていた親の形見の守り刀を売って商売の建て直しの元手にしようと考える。一方、取り急ぎの資金調達のため、次郎左衛門は越後屋に頼み、絹問屋仲間一同から千両の手形を出してもらう。越後屋からの融資の条件は、「吉原にはもう足を踏み入れない」ということだった。
ところが、次郎左衛門は、「兵庫屋へ頼み、玉鶴の太夫の披露目を伸ばしてもらう」という理由で、また吉原へ足を運んでしまう。密かに尋ねていった兵庫屋で彼が見たものは、着々と進む玉鶴の位定めであった。太夫の披露はもう止められないのである。そうしているところへ、守り刀を売りに行った治六が戻ってくる。鑑定の結果、守り刀は実は徳川家に祟りをなすとされる禁刀・村正に間違いなく、買取をしてくれる店はどこにもなかった。その場を越後屋に見咎められた次郎左衛門は、千両の手形を越後屋へ返却する。次郎左衛門は盛り上がる兵庫屋を後に佐野へ帰り、次六とその恋人の機織り娘に店の跡式を任せ、自分は上方で一から出直すと告げて佐野を去る。
やがて、桜の季節。吉原では、玉鶴あらため八ツ橋太夫の披露目の花魁道中が豪奢に行われていた。これは兵庫屋が次郎左衛門から阿漕に搾り取った金で行われているものだった。その道中を眺める見物の中には、編笠姿の次郎左衛門があり……

 

 

本作は、歌舞伎『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』(初演=明治21年[1888]4月、作=三世河竹新七)を原作としている。

かつて『浪花の恋の物語』についての記事で書いた通り、映画監督・内田吐夢は、古典芸能を映画に置き換えることについて、非常に意識的な監督だった。内田吐夢は映画という現代メディアの中に古典の世界を継承することを強く意識した作品作りをしており、『浪花の恋の物語』は古典演劇にみられる〈改作〉という手法を映画で実現した稀有な作品だ。1959年9月公開の『浪花の恋の物語』の次に発表されたのが、この『妖刀物語 花の吉原百人斬り』(1960年9月公開)である。

私の場合は、まず映画を観て、多いに感動した。大傑作だと感じた。そののち、古典芸能に興味を持つようになり、原作である歌舞伎『籠釣瓶花街酔醒』を知った。
そこで驚いたのが、映画と歌舞伎の違いの大きさである。

確かに、本作のプロットを構成するパーツそのものは、『籠釣瓶花街酔醒』にあるものを使っている。「吉原の遊女に惚れ込んだ田舎商人が女に裏切られ、殺人事件を起こす」という大枠の流れは同じだ。しかし、肌触りは、映画と歌舞伎とでまったく異なったものとなっている。パーツは同じでも、組み立て方やその土台となる部分を大幅に改変しているからである。肉じゃがとカレーは材料が同じなのに、味付けや調理法によって違う料理になっている、的な。驚きと同時に、歌舞伎そのままを映画に移し替えていたら、こんな傑作にはならなかっただろうなと思った。
原作自体は歌舞伎として人気が高い演目で、内容に手を入れようがないものでもある。にもかかわらず、大幅改変を行なったこの映画は、なぜ、傑作たりえたのだろうか?

映画自体は東映映画のオールタイムベストに上がってくるような人気作なので、インターネット上に感想もたくさんあると思う。私も、簡易ではあるが過去記事で感想を書いたことがある。
今回の記事では、「古典芸能の改作」視点から映画を読み解いていきたい。映画と歌舞伎原作を比較し、古典芸能題材でありながら、この映画がまったく違った肌触りになったのはなぜなのか、なにを目指してつくられた映画なのかを私なりに論じてみたいと思う。

 

 


原作改変の鮮烈さ

この映画の成功の最大の理由は、「主人公が遊女に惚れた理由」「遊女が裏切った理由」の鮮烈さだろう。
この部分こそが映画の最大の核心、『妖刀物語 花の吉原百人斬り』が名作と呼ばれる根幹となっている。そのため、映画だけを観た人は、むしろ、原作にあるものをなんらかのかたちで踏襲していると思われるかもしれない。
ところが、これらの「理由」が、映画と原作歌舞伎では、実は全く違うのである。映画だけしか観たことがなかった人が歌舞伎を観るとビックリするし、歌舞伎でしか観たことがなかった人が映画を観ると驚愕するだろう。これによって、同じ題材のはずなのに、まったく違う話になっているのだから!

 

[主人公が遊女に惚れた理由]

歌舞伎での「主人公が遊女に惚れた理由」は、「遊女の容姿(美しさ)」だ。
田舎者の男が、都会の洗練の局地である花魁の容姿の美しさに一目惚れをする。シンプルな立て付けである。次郎左衛門が遊び気分で吉原見物をしているところに偶然花魁道中が通りかかり、吉原筆頭の太夫として練り歩いている八ツ橋を見かける。ツンとすまして歩いていた八ツ橋が突然次郎左衛門を振り返り、艶笑を投げかける。それに腰を抜かし、同時に彼女に惚れてしまう次郎左衛門の様子が〈見どころ〉になる。純粋に容姿に魅了された、という描写だ。
文章で書くと、歌舞伎をご覧にならない方にはあまりに単純すぎやしないかと思われるかもしれないが、それくらいシンプルで端的だから良いのである。過剰に特殊で豪華な衣装を着て大量のライトを浴びた八ツ橋役の役者、本来は「上級」でありながらみずぼらしく醜い田舎者になりきっている次郎左衛門役の役者。生の舞台で、この役者の仕様を眺めるのが面白いのだ。
また、この花魁道中は、現行上演では冒頭に配されている。クライマックスに花魁道中がくる映画と真逆!! 花魁道中が八ツ橋と次郎左衛門の〈出会い〉の場面となっているという点は、歌舞伎の見取り上演は、最も盛り上がる場面から始まってもかまわないという、ジャンルならではの特性ともいえる。

さて、歌舞伎では、次郎左衛門には「顔中にあばたがある」という設定がなされている。歌舞伎ではこの容姿をけなす者は実はさほどおらず、言っても「まあちょっとね」程度で、観劇している客としては途中からほとんど「そんな設定あったっけ?」状態になる。そもそも、次郎左衛門の「あばたメイク」は隈取り等ほどはっきり描いているわけではないので、劇場では役者から近い席か、オペラグラスを使ってじっくり観るかしないと、あばたがあること自体、よく見えない。「田舎者役なので赤茶色い玉子塗り、白塗り美男子メイクではない」ことのほうが明確に伝わってくる。そう、あえて言えば、あばたより、「田舎者であること」が彼がバカにされる要素だろう。歌舞伎なのでなおさらのことだ。次郎左衛門は田舎訛りで垢抜けない言動をしているが、彼以外は「かっこいい」江戸弁で喋り、「かっこいい」江戸風の立ち居振る舞いをするのである。その差は顔のあばた以上に歴然としている。

(なお、歌舞伎では、次郎左衛門にあばたがある「理由」が設定されている。次郎左衛門の父親は、実はこの家の嫡子というわけではなかった。彼はもともとただのごろつきで、かつて、内縁の妻(夜鷹だったのを引かせた)を疎んで彼女のもとから逐電し、佐野の絹商人の婿養子に入って妻子をもうけ、その身代を手に入れたのだ。ところが商売の旅の最中、梅毒であばただらけになり乞食の身に落ちた内縁の妻と偶然再会してしまう。内縁の妻は追いすがってくるも、彼女を邪魔に思う次郎左衛門の父に斬られる。女は呪詛の中死んでいくが、その呪いで、豪商の娘との間に生まれていた息子・次郎左衛門もあばただらけになってしまったという設定。これは現行上演がされていない部分に描かれており、歌舞伎を普段からご覧になっている方でもご存知の方は少ない設定だと思われる。このうち、「次郎左衛門の父は婿養子だった」「殺された内縁の妻は元夜鷹だった」というのが、映画の次郎左衛門、八ツ橋の人物造形に影響を与えていると思われる)

 

対して映画では、次郎左衛門が八ツ橋(出会った時点では玉鶴と呼ばれている)に惚れる経緯は複雑である。

歌舞伎では次郎左衛門は顔全体にあばたがあるが、映画では右頬にのみ大きな痣があるという設定になっている。セリフでは痣と表現されているが、一般的に痣という言葉からイメージされるようなものからはやや離れている。次郎左衛門を演じる片岡千恵蔵の頬には、ケロイドのような「グロテスク」なかたまりが特殊メイクで刻まれているのだ。その容姿は、歌舞伎以上にひどく疎まれている。使用人たちや越後屋ら身近な者は次郎左衛門の性格の良さのほうに目を引かれているので気にしていないが、見合い相手、遊女たち、茶屋の者、全ての他人はあからさまに蔑んでくる。映画版の次郎左衛門の被差別者としての設定は異常レベルで、顔の一部が醜いための単純な容貌差別を超えているようにも思う。ハンセン病差別などのイメージを投影しているのではないか。次郎左衛門自身はこれを非常に引け目に思っており、次郎左衛門を慕うがゆえに過剰な気遣いをする使用人たちの存在も、彼の痣を嫌がる者たちに厳しい目を向ける越後屋の存在も、それはそれで彼にとってはプレッシャーになっているようだ。

ところがそこに、彼を蔑みもせず、気遣いもしない人物が現れる。それが玉鶴である。彼女は次郎左衛門の痣をあらゆる意味でまったく気にしない。
玉鶴はそれを、「心の中まで、痣があるわけじゃないだろう?」と言う。
この言葉は、終始痣を気にしていた次郎左衛門にとっては価値観の転換であり、次郎左衛門は玉鶴に魅了される。次郎左衛門は、玉鶴の容姿に惹かれたのではなく、この言葉に魅了されたのだ。

心の中にまで痣があるわけではない。深い言葉だ。玉鶴は「営業」や「サービス」でこう言っているのではない。彼女の本心そのものである。なぜこれが彼女の本心なのか、その本心はどのようなものなのか、そして、彼女の内面を次郎左衛門がどう受け取ったのかが、これからはじまる不幸の物語の発端なのだが……。これらの複雑さは、細かなシーンを多数重ねることで人物の内面を重層的に描く、映画ならではの技法だ。
あからさまに垢抜けない駆け出しの女郎である玉鶴、裕福ではあっても醜い容姿によって人々から蔑まれる次郎左衛門という、お互い最底辺の存在という主人公描写もまた、スター興行である歌舞伎ではなし得ない人物設定といえる。そして、次郎左衛門が玉鶴を最底辺の存在「同士」(同志)と思ってしまったこともまた、不幸の発端となる。

 

 

 

[遊女が裏切った理由]

「遊女が裏切った理由」は、惚れた理由以上に鮮烈に異なっている。
歌舞伎の縁切りは、「本当の恋人(間夫)のため」。八ツ橋には栄之丞という浪人の恋人がいる。ひらたく言えば「ヒモ」で、小さな家に婆たちをつけて住まわせてある。栄之丞は元はそれなりの武家の子息なのか、立ち居振る舞いは一人前で素直な良い男だが、自力では何をどうするということもできない「お坊ちゃん」的な人物だ。八ツ橋の援助は当然のことのように受け止めている。そのうえ、廓の衆に疎まれていて客観的評価があからさまに低い悪人の虚言に乗せられ、子供めいた我儘を抜かして八ツ橋を困惑させる。
「仕事と私とどっちが大切なのっ!!?!??!?」という恋人からのこの激詰めに答えるため、「貞女」である八ツ橋は、満座の中で次郎左衛門に縁切りを宣告する。次郎左衛門は気立もマナーもよいお客さんであり、本来は大切にしたい。遊女という職業人としての義理も立たず、申し訳ない。しかし栄之丞の顔を立て、「貞女」たりえるには、次郎左衛門を切るしかない。彼女の本意に反する縁切りなので、その苦しみは壮絶である。しかし同時に、これは彼女を「貞女」たらしめる美談でもある。この2つのさまを見せる〈縁切り場〉は、舞台の〈見どころ〉として成立している。

(ただし、八ツ橋が「次郎左衛門の相手をしていたのは客として美味しかったから、実際には何の感情も抱いていない」という点は歌舞伎でも同じ。歌舞伎の八ツ橋は、客だという認識には変わらないものの、一応、「一時の個人的事情で、恩のあるお客様に対し大変失礼なものいいをした」という反省の感情は抱いており、後日謝罪をしようとするシーンがある)


映画の八ツ橋が次郎左衛門を見切ったのは、「金がなくなったから」。これ以上でもこれ以下でもない、極めてシンプルな理由。
え、栄之丞、どこいった??? 映画版では、歌舞伎版の八ツ橋があれほどに愛していた栄之丞は、途中で死ぬ。死ぬっていうか、殺される。
映画での栄之丞は、歌舞伎のそれとキャラクター造形が異なっている。歌舞伎では世間知らずのお坊ちゃん浪人だが、映画の 栄之丞は、玉鶴の身元の請人であり、「腐れ縁」をダシに彼女へたかる寄生虫チンピラとして描かれている。歌舞伎をご覧になったことのある方は気づくと思うが、「立花屋店先の場」に登場する悪辣な八ツ橋の身元の請人、釣鐘権造のキャラクターを混ぜ込んでいるのだ。ただ、それだけだと、『洲崎パラダイス赤信号』のように、極度のダメ男でも(だからこそ)私がなんとしてでも世話してあげなくちゃ❣️的に栄之丞と玉鶴の関係が描かれる……のかと思ったら、彼のようなヒモの存在は吉原の最高位の太夫を目指す玉鶴そして兵庫屋にとって邪魔になったため、玉鶴から棒読みで「兄さん」呼ばわりされた挙句、兵庫屋の差し向けた廓の護衛(要するに地廻りのヤクザ)に泥田の中でさくっと殺された。上映時間の半分くらいで出番終了!

そう、原作歌舞伎と映画で一番違う点は、実は八ツ橋の性格設定である。
歌舞伎の八ツ橋は、男に従属する「貞女」である。「貞女」の役割を与えられんがために出てくる人物と言っても過言ではない。しかし、映画の玉鶴(八ツ橋)は、ひとりの「人間」である。彼女には主体性があり、はじめから終わりまで、誰にも従属しないし、誰のために行動することもない。彼女の行動原理はひとつ。最高位の太夫「八ツ橋」になるという目的のために、なんでもするというだけ。なりふり構わない。本当に心底一切構わない。次郎左衛門も、栄之丞も、どうでもいい。玉鶴のうちにあるのは、最高位の太夫になり、これまで彼女を見下してきた全てのやつらを見返してやるという気持ちだけだ。
このキャラクター、古典演劇では成立不可能。古典演劇の若い女というのは、性格はいろいろあれど、行動の原動力が「男」「恋愛」であることが圧倒的多数だ。それ以外にないと言ってもいい。脇役ならともかく、主役級でこんな自己中心的な奴が出てきたら、話にならないのである。

 

本作(映画)、歌舞伎を比較してわかるのは、本作の特徴は、舞台演劇である歌舞伎としての〈見どころ〉をそのまま流用するのではなく、異なったメディアである映画としての〈見どころ〉を確立させている点である。
見せ場という意味では、歌舞伎でも、「主人公が遊女に惚れた理由」「遊女が裏切った理由」、それぞれ理由自体は違うものの、これらが立ち現れる場面(いきさつ)が最大の〈見どころ〉である。花魁道中、縁切り場は歌舞伎としての屈指の〈見どころ〉で、観客はそれを見に来ていると言っても過言ではない。そここそが「歌舞伎らしさ」を象徴しているからだ。
〈見どころ〉であることは変えず、その内容を映画としての〈見どころ〉に変換=「改作」する。これは非常に高度なテクニックだ。

 

 

 

〈悲劇〉への成長と回帰

ここで一旦ちょっと違う話。
現在の舞台観劇界隈では、舞台を見たら、出演者の一挙一動を「プラス方向」に「深読み」して、「かわいそう!切ない!共感しました!感動しました!」という感想を述べるのが「正しいファンの姿」「マナー」かのようになっている。それがたとえ読み違えや誤認であってもだ。もともとあった「感動ポルノ」ブームを土壌に、近年の「推し活」ブームが極大化させた歪みだと感じているが、興行側が意図的にピントずらしを誘導している側面もあるのだから、こうなるのは必然だと思う。
一般的なエンタメ舞台だけでなく、古典芸能、私が普段見ている文楽にもその風潮は侵入してきている。歌舞伎もまた、Xのおすすめタブに流れてくる感想などを見ていると、「泣ける」「深読み」をして感想を書くのがファンとしてのつとめ、出演者・業界への貢献だと思っている方がある程度いらっしゃるのだろうなと感じる。無論、そういった感想が出演者・業界への商売上の貢献になることは、事実だろう。
先日、『籠釣瓶花街酔醒』が歌舞伎座で上演されたときも、そのような感想が多数書かれていた。ただ、この演目は、もともと、「感動もの」ではなかったと思う。見取りが残っている箇所が示す通り、「見どころアラカルト」の機能が強かったと思われる。役者のスター性を楽しむために作られている脚本(正しく述べるなら、見取り上演の形態)であり、物語自体に感動してもらうために書かれたり、上演されているものではないだろう。「深い」内容の演目はほかにいくらでもあるので、あえて言えば、お芝居のお約束の実行や、ショーとして楽しむ側面が強いのが、『籠釣瓶花街酔醒』という演目だと思う。

 

そんな中で、これらの「改作」は、この物語の〈悲劇〉化に関わっている。
『妖刀物語 花の吉原百人斬り』の特徴は、豪華スター出演のショー的な映画ではなく、〈悲劇〉としての劇映画として成立していることだ。決してスターのスター性を楽しむための映画、名場面集ではない。上記の2つの改変によって本作は、古典演劇文化の流れを汲む「悲劇」として、強靱に成立している。

内田吐夢はまずもって悲劇が上手い。ここでいう悲劇とは、解決不能などうしようもない境遇に陥り、異常な過ちを犯すというもの。「運命の歯車に巻き込まれると逃れられない」といった人間の宿命そのものと、宿命という極限状態に直面した人間がどのような行動に出るか、どのような反応をするかの描写が圧倒的。『飢餓海峡』『血槍富士』など、内田作品で名作と言われるものは、抗い得ない宿命的悲劇を描いたものが多い。
やむを得ないものごとに苛まれ、自分がどうしようもない境遇に陥ったとき、人間はどのような行動をするのか? これは、浄瑠璃文楽の演目。歌舞伎では義太夫狂言)のもつ、非常に重要なテーマでもある。

 

本作では、〈悲劇〉のトリガーとして、気持ちのすれ違い、しかも一方的なものを扱っている。

原作歌舞伎では、すれ違っているわけではない。お金を出していた遊女に縁切りされた、衆目の前で恥をかかされたからヤケになって殺したと、話の筋がしっかり通っている。これは私からすると話が順接しすぎているので、「悲劇」ではない。

『妖刀物語 花の吉原百人斬り』では、遊女と主人公の気持ちは、見て見ぬふりができないほどにすれ違う。玉鶴は、自分の野望に非常に忠実だっただけだ。彼女にとっての次郎左衛門はその欲望をかなえるための踏石だった。悪意で次郎左衛門を騙していたわけではない。次郎左衛門は、八ツ橋の中に人間の真心を見つけたと思っていた。八ツ橋のビジネス接客としての一面を自分に都合よく受け取っていた。しかし、彼女は情など持ち合わせていなかった。そこに「すれ違い」があった。いや、本当は彼女は仕事でやっているのだとはわかっていたはずだ。それでも、彼女には思いやりがあるはずだ、「心の中まで、痣があるわけじゃないだろう?」とまで言えるのだから、男と女でなくとも、人間と人間とのあいだの情で、建前だけは立ててくれると思っていた。そこが「すれ違い」をより重大な悲劇にさせた。

古典演劇の場合、親子の関係、主従の関係のうえに起こる感情にフューチャーした悲劇が多いが、「とある個人」そのもの、属人性の高い個人の内面の動きにフューチャーした悲劇は少ない。本作では、現代の映画としてそれを成し遂げているのである。
また、本作をものすごく端的に言えば、「勘違いしたモテない男の末路」という、いかにも現代的なテーマと捉えることもできる。しかし、本作は、近代・現代のこれらを扱う創作物とは肌触りが少し異なっている。迫り来る運命の車輪の強大さと内面描写によって、次郎左衛門は特になにもしない百凡の(?)モテない男ではなく、悲劇の主人公たりえている。その畳み掛け、内面の変遷の描写がいかにも古典の世界の物語であり、素晴らしい。

(次郎左衛門が「建前だけは立ててくれると思っていた」という点は歌舞伎にもある。しかし、そこはさほど重要ではないだろう。歌舞伎の場合、次郎左衛門は、商売仲間もいる満座の中で縁切りされたことにより、「メンツを汚された」こと自体に激怒する側面が大きい。演出としても、同座の仲間からの罵倒がたっぷり盛り込まれている。メンツ汚しによる最悪事件勃発は『伊勢音頭恋寝刃』『心中天網島』にもある芝居のセオリー。程度こそあれ、メンツ汚しをそのまま生きてはいけないほどの侮辱とするのは、現在だと理解しづらい観念で、古典芸能観劇の際にひっかかりがちなポイントである。本作が書かれた明治期には、まだ世間一般に通用していた観念なのだろうか)

 

本作、『妖刀物語 花の吉原百人斬り』は、原作歌舞伎を〈成長〉させ、〈悲劇〉へと構成しなおしている。本作にあるのは、古典悲劇の王道、「すれ違い」の現代化だ。 何がどう「すれ違った」のか、そして、いったい、誰にとっての「悲劇」だったのか。そこを突き詰めてある。
本作に描かれる〈悲劇〉は現代的である。しかし、同時に、古典への回帰でもある。この2つを同時に叶えている点が素晴らしい。

これは、「社会」からつまはじきにされた人々の物語だ。卑しい出自で上昇志向が異様に強い八ツ橋、裕福で真面目で気立てはいいが容姿に恵まれない次郎左衛門。ふたりは押し迫る社会の狭隘な枠組みの中で偶然袖が触れ合ってしまい、意図せず運命の歯車に巻き込まれる。社会という無限の強靭な動力の中、彼女と彼の袖を引き込んだ歯車は回り続け、ゆっくりと2人を轢き潰す。最後は、何のかっこよさも、美しさも、救済もなく終わる。美しいのはラストシーンに舞い散る桜だけ。

 

 

 

長くなったので、この記事はここまで。

今回は、歌舞伎『籠釣瓶花街酔醒』を映画『妖刀物語 花の吉原百人斬り』に仕立てるにあたっての改作の巧みさ、悲劇への成長、あるいは古典への回帰について書いた。
次回は、『妖刀物語 花の吉原百人斬り』のディティールをみていきながら、原作歌舞伎、あるいはシナリオからの飛躍について書きたいと思う。本作の骨子は依田義賢によるシナリオ(脚本)の段階で大方できていた。しかし、シナリオと仕上がった映画とで異なっている点もある。シナリオからすら変更した点とはどんなものだったのか。それもまた、本作を傑作にせしめているのである。

 

つづく

 

 

 

┃ 参考

内田吐夢の古典芸能原作映画についての過去記事

『浪花の恋の物語』(冥途の飛脚/恋飛脚大和往来/傾城恋飛脚)

 

『恋や恋なすな恋』蘆屋道満大内鑑)