TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 11月大阪公演『冥途の飛脚』淡路町の段、封印切の段、道行相合かご 国立文楽劇場

第三部、冥途の飛脚。

この物語に登場する「丹波屋八右衛門」とは、どのような人物なのだろうか?

現在では、八右衛門が茶屋の衆の前で語る鬢水入れの暴露は、「友情による忠兵衛を廓に出入りさせないようにするための行為」であり、八右衛門は「いい人」と理解されることが多いと思う。
しかし、実は、昔の文楽のプログラムの解説や書籍では様相が異なっている。八右衛門のあの行動は、忠兵衛をバカにしたモラル的にアウトの行為と解釈しているものが結構あるのだ。「八右衛門いい人説」を批判しているものもある。『心中天網島』で、治兵衛は商人としての顔が立たなくなったから心中したという「近世商人の面子の重要性」の「理屈」をこちらにも引きつければ、その解釈になって当然だと思う。
今回の販売プログラムを開いてみると、解説には、「廓の人々に対して聞かせる悪口も忠兵衛が道を踏み外さないようにするためだと当人は語ります
」とある。ぱっと読み、八右衛門が「いい人」かのように取れる書き方だが、「いい人」と断言されてはいない。「と当人は語ります」という記述にとどめられている。
何が言いたいかというと、八右衛門は、受け取る人によって人物像が変わる程度に、曖昧に書かれている登場人物なのだ。

八右衛門が「いい人」「悪い人」かのの区別が原作にはっきり書かれているわけではないことは、『冥途の飛脚』を理解する上で、最も重要なポイントになると思う。わかりやすい類型化、ひらたく言えば「キャラ」化がなされていないことこそが、八右衛門の魅力、近松作品の魅力だと思う。決して「ヒロイックで侠気溢れるオイシイ役」として描かれてはいないことが、浄瑠璃が舞台エンタメとして高度化していない近松時代ならではの味わいだと感じる。

文楽での理解のされかたに目線を向けてみても、本当に「いい人」という定義であれば、かしらは現行のような陀羅助ではないのではないか。陀羅助は、しっかりとした目鼻の作りの中に、どこか皮肉な印象を受ける顔立ちだ。仮に、八右衛門のかしらが孔明検非違使だったら、舞台の様相がまったく変わってくる。

解釈はいくらでも並べ立てられるが、舞台ではそれが表現としてアウトプットされなければならない。八右衛門は、どのように表現されるのが最も「それらしい」のだろうか?

 

 

 

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今回の『冥途の飛脚』で一番良かったのは、勘彌さんの梅川。
忠兵衛の「お金配り」に「え?え?」「ほんとに大丈夫?」と困惑しているのが良かった。封印を切った金を“養子にきた時の持参金”と称して配ってまわる忠兵衛へ手を差し出し、目線はウロウロ、マゴマゴとして彼を追っている。この困惑ぶり、リアル。梅川役でもここで「そうなんだー♪ 安心☺️」という反応をする人もいるが、あの金が養子に来たときの持参金なわけがない。普通に考えたら、「ほんまかえ?」が当然の反応だろう。
ただ、後半の文章で、「あのお金は本当は商売の預かり金」という忠兵衛の告白を聞いた梅川が超ビックリする場面があるので、原作に沿うという観点からすると、ここで疑念を抱いているのはおかしいともいえる。後半をいかに「や、やっぱり!」に見せるしか回避方法はないが……、人形だけで「やっぱり!」的な複雑な感情を出すのはなかなか大変で、難しいところだと感じた。

全般的な人形の印象として、「童顔の夜職の子」って感じなのが良かった。あの夜職っぽさはたまらん。バッグはディオールで、そこにクロミちゃんコラボのプチプラコスメを直で入れてる感じ(アイシャドウが割れて粉がこぼれてしまい、バッグの底がなんかキラキラしてる)。冒頭の出でピンク色の羽織物を肩から大きく落としているのとか、本来この手のやりすぎは浄瑠璃の世界観を逸した下品さになって浮くはずだが、独特の印象になっている。傾城や遊女の渡世が身体に染み込んでしまった女性の諦念や悲哀が似合う。
勘彌さんは、襟の返し方(遊女役が右側の襟を裏返して裏地の赤を覗かせ、色気を表現するやつ)が結構独特で、遊女はこういうルールだから以上のおしゃれのような感じになっていた。この襟の返しは人形遣いによってやり方が少しずつ異なっていて、今回の『冥途の飛脚』だけ見ても、上手い人と、若干謎な感じになっている人がいて、ちょっと面白い。

 

勘十郎さんの忠兵衛の本当に良いところは、自然に梅川をいたわる場面のある道行だと思う。9月東京公演『菅原伝授手習鑑』天拝山の白太夫もそうだったけど、ご本人の自然な人柄が出るような部分のほうが、上手く見える。そもそも勘十郎さんは、梅川のほうが合うんだろうな。ダメな人を見たら「も〜っ」と言いながら世話焼いてそうだし……。

「羽織落とし」が自然になっていたのは良かった。これまで見た勘十郎さんの忠兵衛は、私の感覚からすると羽織の落ち方を「工夫」しすぎて、悪目立ちしていた。しかし今回はいわゆる普通の部類で、三味線に乗せてゆっくりと落とす手法。左腕側が抜けるのを見せながら落とすのではなく、背中側へ羽を伸ばすように落とすという方法は過去同様だが、三味線のリズムに乗っているだけでここまで自然になるのかと思った。

 

 

 

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人形の梅川と道行の忠兵衛は良いけど、「この配役でやると、良くも悪くもいつもと同じだよねぇ」というのが、公演全体の率直な感想。いつもと同じというのは、忠兵衛の存在感が薄い、梅川のクドキがゆるいの2点。

 

一番気になるのは、忠兵衛の存在感の薄さ。
忠兵衛がふわっとしてしまう理由として、床が八右衛門を立てすぎているのは、大きいと思う。ここで、冒頭の「八右衛門とはどんな人物なのか?」に話が戻る。「淡路町」「封印切」通して、八右衛門の「男振り」が力一杯になっており、忠兵衛の魅力が立っていない。
八右衛門の「男振り」はわかりやすく、前受けとして儲けのある要素だ。しかし、八右衛門はあくまで脇役として処理したほうがいいと思う。前述の通り、八右衛門はヒロイックで侠気溢れる人物なのではなく、曖昧な人物であることが重要で、そこが彼の魅力でもあるからだ。
八右衛門の力加減に加え、忠兵衛の描写自体を、もう少し踏み込んでほしい。現状だと、意図的な引き算というより、よくわからないからやっていないというように感じられる。もとより原作には彼の「いいところ」などまったく書かれていない。周囲からどう見られているという輪郭から攻めるのか(これができるのは一人ですべての人物を語る義太夫だけ。現状も、これがやりたいのだろうとは思うが)、自分でも自分の性質をどうしようもできない彼自身の内面の苦しみから攻めるのか、そういった、個々の出演者ならではの視点、戦略があるといいのだが……。
いままで、「八右衛門はまともな大人だし、しっかりした感じが良い」と漠然と思っていたけど、忠兵衛よりも力んでやってしまうと、本来とは違う話、義民ものや義侠もののように聞こえるんだな。たとえば『仮名手本忠臣蔵』十段目(天河屋の段)の天河屋義平ならこれがいいけど、ああいうヒロイックな人物じゃないからこそ、八右衛門は良いんだなと思った。
八右衛門の人形〈吉田玉輝〉は、このあたり、よく考えられていると思う。人形さんは、変にハラや性根を見せず、感情移入をしにくくして、あえて「客観的」に見えるように演じる人が多い。想像の余地の残し方が原作同様になっており、こういった微妙なラインの芝居は、舞台芸術として、上手いと思う。

 

一方、勘十郎さんは、忠兵衛をスター芝居として演じている。「トップスター役者がやる、上方狂言を代表するつっころばしの役」という観点で忠兵衛をやっていると思う。その責任感、やりたいことは非常にわかる。ひとつの所作、所作に拍手がくるような舞台を目指していると思う。
勘十郎さんの忠兵衛は、内田吐夢監督による『恋飛脚大和往来』の映画化、『浪花の恋の物語』(東映/1959)で中村錦之助が演じている忠兵衛に近い。中村錦之助梨園から映画界に移ってきた人。歌舞伎役者を続けていたら逆に絶対にやれないような、歌舞伎ものの大役に思い入れがあったから忠兵衛役をやっているんだと思う。実際に映画を見てみると、それが良くも悪くもあらわれている。『浪花の恋の物語』自体は素晴らしい映画だけど、錦之助がどうかというと、忠兵衛自体がどうこうというより、何かを真似したり、工夫したりしたんだなということ自体が強く出ている。そして、本人自身しか持っていない魅力が、薄まっている。真似や工夫云々は、頑張り確認、答え合わせ的な鑑賞を望む場合には、いいと思う。でも、本人の個性が意味をなさないのは、惜しいんだよね……。そういう感じ。

 

現状だと、床は八右衛門に力み返っていて、人形は忠兵衛が力み返っている。それぞれ、物語の核心ではないところに「工夫」をしすぎて、そこだけが突出して見えているため、チグハグになっている状況だと思う。

床にしても人形にしても、忠兵衛をどう表現するべきかは、たしかに、難しいと思う。文楽だと、忠兵衛は、「かわいそうな人」ではない。「他人にもたれかからないと生きていけない社会不適合者」だ。忠兵衛のしょうもなさ、救いようのなさ、それと引き換えの愛らしさ、そして、彼自身の感じている生きにくさが欲しい。極端な話、やる本人が「忠兵衛的な要素を持ち合わせた人」でないと難しいのではという気もする。そもそもが、「上手い人」の絶対的人数が少ないキャラなのかもなと思った。文楽なら、なおのこと。

 

 

千歳さんが「封印切」をやると、八右衛門がなんやかや言っている前半はいいんだけど、後半の梅川のクドキが平板に感じる。今回は、これまでよりはマシだとは思う。でも、記者会見にあった「お客様に梅川のクドキをしみじみと楽しんでいただけるように語りたいです」という発言は何だったんだ……。ここを切り取った文楽劇場もどうかと思う。劇場的には、師匠の得意演目を弟子が継承するという「ストーリー」的なことをやりたいのかもしれないが、「世襲偏重」含め、いまの状況は、本当に、いろいろと、かなり、滑ってる気がする…………………………。
むろん、千歳さんの場合は、本人が師匠の得意演目を本当に継承したいと思っているなら、それが聞きたい。かつては会期後半は声が枯れきってて「お前何やっとんじゃ」状態だったのを克服したという実績があるので、女性の語り方の見直しもやっていただきたいと、切に願う。

 

 

 

  • 義太夫
    • 淡路町の段=竹本織太夫/鶴澤燕三
    • 封印切の段=切・竹本千歳太夫/豊澤富助
    • 道行相合かご=梅川 竹本三輪太夫、忠兵衛 豊竹芳穂太夫、竹本碩太夫、竹本聖太夫/竹澤團七、竹澤團吾、鶴澤清公、鶴澤清允、鶴澤藤之亮

  • 人形
    手代伊兵衛=吉田勘市、国侍甚内=桐竹亀次、母妙閑=吉田文司、亀屋忠兵衛=桐竹勘十郎、下女まん=吉田文昇、宰領=吉田玉峻、花車=吉田簑一郎、遊女梅川=吉田勘彌、遊女千代歳[上手のほう]=吉田玉翔、遊女鳴渡瀬[下手のほう]=吉田簑太郎、禿=吉田簑悠、太鼓持五兵衛=豊松清之助(前半)吉田和登(後半)、駕籠屋=吉田玉路、駕籠屋=吉田和馬




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この演目は、一応、近松門左衛門300回忌という建て付けで上演されている。いつもは改作で上演されている「道行相合かご」も、原作詞章を採用したバージョンだ。
一部では「せっかくの300回忌に、これしかやらないのか」と言われているが、実際問題として、近松出しても、客、入ってないよね。東京の5月9月も、今月も、まじで、やばい。特に今月は、本当に冗談ではすまされないほど、やばい。観客側からは見放されているわけで、興行側はやっただけまだ誠意があるほうだと思う。

客が入らないこと自体は、同じ演目ばかりやって常連客からの信頼を失墜させたのが原因だろう。その要因のひとつに、安直な近松ブランド信仰があり、昭和の感覚のまま突き出していることが、かえって文楽の衰退を誘発するようになってきているのではないかと思う。近松演目を大切にすることは必要だけど、どのような「再評価」をするのか、どう打ち出すのかをしっかりと検討する必要性があると思う。

 

近松といえば……、忠兵衛が封印を切ったあと、茶屋の人たちにチップのように小判を配る「お金配り」シーン。現行ではどうでもいいシーンかのように処理されているけれど、あそこ、本当は、重要だと思う。近松はお金の話が多い、とよく言われるけど、世の中は金、金、金、金は命より重いという側面にこだわった描写をする人はあまりいない気がする。

 

 

 

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展示室に展示されていた忠兵衛の衣装。

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今回は1Fロビーにも謎の展示物が設置されていたが……、うーん?? 関空に「大阪カルチャーの紹介」として置くならわかるが、なんであれを文楽劇場に置こうと思ったんだ…………? ご事情を感じる……。