TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

映画の文楽4 内田吐夢監督『浪花の恋の物語』3:めんない千鳥をめぐる謎

┃ 過去の記事

 

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┃ 孫右衛門の「めんない千鳥」

私がこの映画の劇中劇「新口村の段」におぼえた違和感とは、クライマックスのもっとも重要なシーン、人形浄瑠璃において孫右衛門と忠兵衛が再会するところ。この部分の人形の演出が文楽の現行上演と異なっているのだ。

人形の演技に注目して該当部分の手順を追ってみる。映画でいうと、「〽大坂を立ち退いて」と義太夫が入ってきて、有馬稲子の人形振りから人形浄瑠璃へと映像が切り替わった後。梅川のクドキ、孫右衛門の述懐。そののち、梅川はそばにあった手ぬぐいを取り、姿を見なければ差し支えはないだろうと言って孫右衛門に目隠しをさせる。すると忠兵衛が奥の一間から飛び出てきて、孫右衛門は手探りで忠兵衛を求め、忠兵衛は父にすがりつき、二人は手を取り合う。ここまでは映画も文楽現行上演も同じ手順を踏む。

文楽『傾城恋飛脚』の現行上演では、このあと、梅川がそっと孫右衛門の背後へ回り込んで目隠しを外してやり、親子を対面させてやる。孫右衛門は驚いて一瞬梅川のほうを見るが、すぐに忠兵衛へ視線を戻し、孫右衛門と忠兵衛は見つめ合って改めて抱き合う。梅川は上手側にはけて柱にもたれかかり、二人の再会を喜び、手拭いを噛んで涙する。そしてこのあと、「〽折から聞こえる数多の人音」と入り、多数の捕手の足音を察した孫右衛門は二人を逃がそうと家の裏口へ押し込んで……となって次のシーンへ移行する。

もう一度、映画のクライマックスを思い出して欲しい(思い出せない人はDVD買って……💓)。『浪花の恋の物語』では、人形の梅川は孫右衛門に目隠しをしてやるが、孫右衛門は手ぬぐいを目元に巻いたままで、最後まで目隠しを外さない。梅川は嘆き悲しみながら親子二人を見守るだけだ(っていうか、抱き合う二人の中になんとなく混じってる)。浄瑠璃はそのまま「〽涙湧き出づる水上と、身も浮くばかりに泣きかこつ」までいってフェードアウト、映画自体がここで終わる。もし映画が続いていたとしても、このあとに手ぬぐいを取るタイミングはもうない。文楽の現行上演に照らし合わせるとこのあとすぐに捕手が現れるので、孫右衛門は梅川・忠兵衛を外へ突きやり、そのまま別れてしまうからだ。なので、この映画での人形演技の手順では、どうやっても「孫右衛門と忠兵衛は直接顔と顔を見合わせずに終わる」という結末になっている。

なぜこの映画の梅川は目隠しを外さないのだろうか?

 

 

 

┃ 目隠し演出の変遷

まず、実際の文楽の上演状況を確認しよう。

そもそも浄瑠璃の詞章そのままを受け取ると「目隠しを外す」とは書いていないので、本来は「目隠しは外さない」はず。となると、「目隠しを外す」というのは、どこかの時点で人形演出上の判断によりはじまった特例演出であると考えられる。そこで、人形の演技の型に関する資料を確認していくと、「梅川が目隠しを外してやる」というのは、近年生まれた演出であることがわかった。なぜこれに気づいたかというと、上演資料集に次のような記述があったからだ。

この親子が会っては養母の妙閑に義理がすまぬと手拭で目かくしした孫右ヱ門が忠兵ヱと手を取り合って嘆く所の人形の演出では最近では孫右ヱ門が一目忠兵衛の顔を見たいと一寸手拭を額に押しあげて見る近松の描いた孫右ヱ門の性格に反する事をし、見物も救われたようにハ…と笑う場面であるが、ここを語った古靭太夫(山城少掾)が太夫が心で泣いて語る所を笑われてはと孫右ヱ門を遣っている先代吉田栄三(引用者注:初代)と相談したところ、相手役の文五郎(引用者注:四代目)と話しあって、親子が抱きあっている所を後ろから梅川が手拭をほどいてやり、孫右ヱ門は一寸驚いて梅川をふり返り心で拝んで忠兵ヱを見る。梅川はその手拭をくわえて泣くという型にしたことがあった。この方が人物も浮き出てよいと思うが、最近は再びもとの演出に帰った。

義太夫の演出 芸談 「冥途の飛脚」聞き書き 下の巻 新口村の段 二世野澤喜左衛門(吉永孝雄)」 国立劇場芸能調査室=編『国立劇場上演資料集 198 第13回文楽鑑賞教室 傾城恋飛脚 1981.12』1981/国立劇場
*記事初出『羽衣学園短期大学紀要』第1号(1965/羽衣学園短期大学)

注:上記の原稿は芸談というかたちで掲載されているが、喜左衛門師匠は特にこれと言って話をしないうちに「出番だから」と言って速攻帰ってしまい(衝撃の展開)(なんと記事の15%くらいのところで帰っちゃいます)(師匠〜〜〜😭)、大半が聞き取りをした吉永孝雄本人の考えの記述になっている。上記の引用部分も二世喜左衛門の談話ではなく、吉永孝雄の個人の感想(え!?)。しかしこの人の文章、不明瞭で時制の表現に厳密性を欠くのがかなり気になる。

この文章からすると、目隠しにまつわる演出は以下の変遷を経ていたことが推測できる。

  1. もともとの演技は「目隠しは一切外さない」だったと思われる
  2. あるとき「孫右衛門が自分で手拭いを押し上げる」という演出が発生
  3. 観客の反応を鑑み、さらに「梅川が目隠しを外してやる」という演出が新たに発生

「梅川が目隠しを外してやる」という演出は、どの時代・どの人形遣いにも必ず共有されている型ではなかったのだ。この「梅川が目隠しを外してやる」型が生まれた経緯は、山城少掾自身の談話が残っている。

 (初代吉田栄三は)どこまでも理詰めで押してゆくタチで、人形のほうでは読む人は少いんですが、五行本も読んでいました。それに相談の出来る人でした。ご承知のように私は息が短いので、咄合いをして人形の仕勝手を替えて貰うこともときどきありましたが、そんな場合にも快く相談に乗ってもらえました。
「新口村」の孫右衛門が忠兵衛に逢うところで、
 〽慮外ながらとめんない千鳥−−
と梅川に手拭いで目隠しをして貰うのを、
 〽悦ぶ中に忠兵衛は、嬉しき余り馳出でて互いに手と手を取りかはせど、互いに親共我子共、云はずいわれぬ世の義理は、−−
 で、これまでだと孫右衛門が、あげたり下げたりして忠兵衛の顔を覗きますが、人形のこの仕科で、いつもドッとくるんです。こっちにすると、せっかく語り込んできた大事なところでドッとこられるのはどうも困りますので、私が、そこんとこをなんとか工夫を替えて貰えないか、といいましたもんで、栄三さんは文五郎さんと相談して、親子が抱き合ううしろから、梅川がそっと近付いて孫右衛門の目隠しを取るという只今やっている型に替えてくれたんです。文五郎さんもあのとおりの淡白な人ですので、相談の筋がとおっていれば、よろしよま、そないやりまよ、といつも快く引受けてくれられます。……しかし、栄三さんが亡くなったとなると(引用者注:昭和20年(1945)死去)、新口村にしても、こんどはあとの人がどうやりますかな……。ただじっと抱き合ったままでその場を持ち応えるにはまた、それだけの芸の力量(ちから)が要るわけですからね……。

豊竹山城少掾・談/茶谷半次郎・記『山城少掾聞書』和敬書房/1968

この話と上演年表、配役、当時の劇評を突き合わせたところ、「梅川が目隠しを外してやる」演出が生まれた公演を昭和14年(1939)3月四ツ橋文楽座公演と特定することができた。うーん、それでも戦前からあったのね。

 

 

 

┃ 目隠しの演出の歴史

次に気になるのは、この演出がどういう経緯を経て現在定着するに至ったのかだ。吉永孝雄の記事から推測するに、「目隠しを一切取らない」という演出も過去には存在したはず。そこで、この目隠しをめぐる人形の演技の変遷を調べるため、過去の劇評・筋書き等を洗うことにした。目隠しの処遇の決定権はおそらく孫右衛門役(と梅川役)の人形遣いにあり、その配役によって左右されると思われるため、当時の人形配役および念のため床の配役も記す。床は前後分割の場合は後の配役。

  • もともとの演出では「目隠しは一切外さない」だったと推測される。
    浄瑠璃の文面通り、手を取り合うのみ。捕手が押し寄せてくる場面に移行した後、三人が引き別れてから孫右衛門が慌てた拍子に外れ、偶然少しだけ忠兵衛の姿が見えるという演出だったか?(歌舞伎では昔はそうなっていたらしい)
  • 「孫右衛門が自分で目隠しを外す」演出がどこかで生まれる。
    昭和9年(1934)の段階でこの演出が存在。若月保治『近松人形浄瑠璃の研究』第一書房/昭和9年(1934)に記載がある。最近発生した演出という認識のようなので、極端に遡るわけではないと思われる。これが人形遣い問わず共通した型になっていたようだ(武智鉄二『かりの翅 武智鉄二劇評集』千歳書房/昭和16年(1941)に記載あり)。
  • 昭和14年(1939)3月 四ツ橋文楽座公演 山城少掾・初代吉田栄三・四代目吉田文五郎の話し合いにより、「梅川が目隠しを外してやる」演出が生まれる。
    武智鉄二による劇評に、この演出を見たのはこのときが初めての旨の記述あり。この公演が栄三の孫右衛門初役で、山城少掾の談話、武智鉄二の劇評を突き合わせて考えるに、ここが「梅川が目隠しを外してやる」演出の初出と推測される。
    「梅川が目隠しを外してやる」演出は武智鉄二ら評論家に好評を得るが、すぐに定着することはなく、「もとの演出」(孫右衛門が自分で押し上げて外す演出?)に戻ったらしい。*1
    太夫=豊竹古靭太夫*2、三味線=鶴澤清六/人形:孫右衛門=初代吉田栄三、梅川=四代目吉田文五郎、忠兵衛=二代目桐竹紋十郎]
  • 昭和17年9月 南座公演 「梅川が目隠しを外してやる」演出が行われる。*3
    太夫=豊竹古靭太夫、三味線=鶴澤清六/人形:孫右衛門=初代吉田栄三、梅川=四代目吉田文五郎]
  • 昭和20年(1945) 初代吉田栄三死去。
  • 昭和23年(1948)ごろは「孫右衛門が自分で目隠しを外す」「梅川が目隠しを外してやる」が混在した状態という認識だったか(実演がどうだったかは不明)。当時の人形演出解説*4では両方の型が併記されている。
  • 昭和24年(1949) 文楽座が因会・三和会に分裂。
  • 昭和31年(1956)8月 道頓堀文楽座公演(因会) パンフレットに掲載されている吉永孝雄の記事に、「梅川が目隠しを外してやる」演出は初代栄三死去後、踏襲する者がいない旨が書かれている。つまり、少なくとも因会では「梅川が目隠しを外さない(孫右衛門が自分で外すを含む)」演出が行われていたと推測できる。
  • 昭和33年(1958)1月 東京三越劇場公演(三和会) パンフレットに掲載されている舞台写真は目隠しを外していない状態
    →撮影時期クレジットなしだが、昭和30年(1955)12月 三和会東京三越劇場公演の写真ではないかと思う。孫右衛門が両手で忠兵衛を抱き、梅川が舞台上手の柱へもたれかかっている状態の写真なので、ここから梅川が目隠しを外しに行くか、孫右衛門が自分で目隠しを外すかどうかまでは読み取れない。どうも梅川が奥の一間をあけてから孫右衛門の後ろに回り込み目隠しを外すまで何をやっているか、どれくらい距離をとるかが進行状況や梅川役の人形遣いによって違うようなので、柱にもたれかかっているからと言って目隠しを外さないとは断言できない。ただ、目隠しを取る前に柱にもたれかかるまでやっている人はあまりいないようで、現行ではたいていの人は障子をあけて忠兵衛を呼び込んだ後に二人を観察、そろそろと孫右衛門に近づき、目隠しを取ってすぐ上手ははけ、柱へ寄りかかる演技。このことからすると、目隠しを取らずに上手へはけたまま待機し、柱へもたれているのではと考えられる。でも超すばやい梅川な人もいるから、わからないですね……。間合いをはかることに気がいきすぎて孫右衛門と忠兵衛を見る梅川の目つきがサイコパスめいている人とか、暗殺者のごとくものすごいスピードで背後へ回り込む人もいますから……(新口村の映像を見すぎて変なところにばかり注目するようになってきた人)。
    太夫=豊竹つばめ大夫*5、三味線=二代目野澤喜左衛門、人形:孫右衛門=五代目吉田辰五郎、梅川=桐竹紋之助*6、忠兵衛=桐竹紋二郎*7 ……か?]

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  • 昭和33年(1958)9月 道頓堀文楽座公演(因会・三和会合同)で、目隠しの趣向自体を行わない演出が行われたらしい。再会シーンを飛ばして遠見の人形を孫右衛門が見送る形式にした模様。原作「新口村」を復活させたわけではなく改作をアレンジしての上演だったようで、浄瑠璃をどう処理していたかは不明だが、この演出は特例的なもので定着しなかったようだ。*8
    太夫=十代目豊竹若大夫(三和会)、三味線=五代目鶴澤燕三(三和会)、人形:孫右衛門=二代目吉田玉助(因会)、梅川=二代目桐竹紋十郎(三和会)、忠兵衛=二代目吉田栄三(因会)]
  • 昭和34年(1959) 『浪花の恋の物語』公開。劇中では「目隠しを一切外さない」演出。
    太夫=豊竹つばめ大夫、三味線=二代目野澤勝太郎/人形:孫右衛門=ノンクレジットだが当時の三和会の状況からすると五代目吉田辰五郎の可能性が高い。梅川=二代目桐竹紋十郎、忠兵衛=二代目桐竹勘十郎もしくは桐竹紋二郎と思われる]
  • 昭和35年(1960)10月 南座公演(因会)、昭和36年(1961)5月 道頓堀文楽座公演(因会・三和会合同)、昭和37年(1962)10月 道頓堀文楽座公演(因会) パンフレットの解説記述では、「手拭いで目隠しをしたまま忠兵衛と手を取り合うことができた」という記述で、外すことには触れていない。実演がどうなっていたかは不明。
    太夫=豊竹松太夫*9、三味線=鶴澤藤蔵/人形:孫右衛門=二代目吉田玉助、梅川=桐竹亀松、忠兵衛=初代吉田玉男
    太夫=七代目竹本土佐太夫(因会*10)、三味線=鶴澤藤蔵(因会)/人形:孫右衛門=吉田玉市(因会)、梅川=二代目桐竹紋十郎(三和会)、忠兵衛=二代目吉田栄三(因会)]
    太夫=七代目竹本土佐太夫、三味線=鶴澤藤蔵/人形:孫右衛門=吉田玉市、梅川=桐竹亀松、忠兵衛=初代吉田玉男
  • 昭和38年(1963)文楽協会設立。因会と三和会が統合されふたたび一座に戻る。
  • 昭和47年(1972)10月 朝日座公演(学生教室公演) パンフレットの解説記述では、「手拭で目隠しをしたまま忠兵衛と手を取り合うことができた」となっている。実演がどうなっていたかは不明。
    太夫=豊竹十九太夫、三味線=野澤吉兵衛/人形:孫右衛門=二代目桐竹勘十郎・初代吉田玉男、梅川=四代目豊松清十郎・吉田簑助、忠兵衛=吉田文雀・二代目吉田玉昇]
  • 昭和50年(1975)1月 朝日座公演 「梅川が目隠しを外してやる」演出。*11
    太夫=四代目竹本越路大夫、三味線=二代目野澤喜左衛門/人形=孫右衛門:二代目桐竹勘十郎、梅川=吉田簑助、忠兵衛=二代目吉田文昇]
  • 昭和60年(1985)6月 大阪文楽劇場公演 「梅川が目隠しを外してやる」演出。*13
    太夫=竹本伊達路大夫*14、三味線=鶴澤叶太郎/人形:孫右衛門=吉田作十郎、梅川=吉田簑助、忠兵衛=二代目吉田文昇]
  • 昭和64年/平成元年(1959)1月 大阪文楽劇場公演 「梅川が目隠しを外してやる」演出。これ以降、国立劇場所蔵の映像資料で確認する限り、すべて「梅川が目隠しを外してやる」演出。以降、国立劇場所蔵の記録映像はすべて目隠しを外す演出。文楽劇場所蔵は上記の公演分以外未確認。
    太夫=七代目竹本住大夫、三味線=五代目鶴澤燕三/人形:孫右衛門=初代吉田玉男、梅川=吉田文雀、忠兵衛=桐竹一暢]
  • 平成5年(1996)6月 大阪文楽劇場公演 第10回文楽鑑賞教室公演のパンフレットの解説に、「梅川が目隠しを外してやる」ことが明記される。以降、ほとんどの回のパンフレットに「梅川が目隠しを外してやる」ことが文章や解説イラストとして明記されているため、平成以降は確実に「梅川が目隠しを外してやる」が技芸員・劇場制作側、全員の確定的な共通認識事項になり、これ以外の演技がなくなったのではないかと思われる。梅川が目隠しを外した瞬間の写真(本記事のトップ画像)をパンフレットに使っている公演もあり、文楽座として確信的に同意してやっていることと思う。

 

 

以上の調べ物で、「目隠しを取る」というのは伝承のある型ではなく、近代に入ってから生まれた演出ということがわかった。

しかし、目隠しをめぐる演出は想像以上に変遷があったようで、どういう事情があって現行の「配役に関わらず必ず梅川が目隠しを外してやる」が定着したのか、明確なところはわからなかった。国立劇場開場前は資料が少なく、確認が難しい(注:いちばんの必殺技、当時から芸歴のある人形遣いに問い合わせる等はやっていません)。梅川が目隠しを取る演出は初代栄三死去とともに一旦すたれたと思われ、ある程度の期間、「梅川が目隠しを取ってやる」というのはおそらく珍しいケースだったと推測される。

次に、梅川が取らないとして孫右衛門が自分で目隠しを外すかどうかという問題になるが、これが微妙。同時代のパンフレットの記述からすると「目隠しをしたまま手を取り合う」となっているのが問題。戦前から今日にかけて、「新口村」が上演された公演のパンフレットのうち、国立劇場が所蔵しているものはほぼすべて確認したが、目隠しの処遇については取るとも取らないとも書かれていなくて、どうとでも取れるようぼかした記述のものが圧倒的に多い。にも関わらず、この頃のパンフレットのみ、「目隠しをしたまま手を取り合う」という「目隠しを外さない」明確な表記になっている。この当時、「外さない」を主張していた権力ある出演者がいたのか、それとも実演とは関係なく、その頃のパンフレットのライターの個人的な考えなのか(文章に流用の形跡が見られるので)、そのあたりは不明。

『浪花の恋の物語』が公開された昭和30年代は、文楽が因会・三和会に分裂した状態で、それぞれ人数が少なかったため、各座で時代物の大曲等を上演することができず、それこそ「新口村」のような一幕だけでも映える曲の見取り上演が多かった。そのため、「新口村」の上演頻度は、他の時代と比べても大変多い(2座でやっているんだから興行回数自体が増えるのは当たり前ではあるが)。この頃、それぞれの一座がどういう演出で上演していたかが一番知りたいことであるものの、明確にわかる資料はなかった。ただ、高木浩志『文楽のすべて』(淡交社/1982)を読むと、学生時代(60年代)から文楽を観ていた著者の認識として、新口村の見所に「梅川が目隠しを外してやる」が挙げられているので、その演出自体は60年代頃から復活してある程度定着していたのだろうと思う。でないと、さすがに見所とは書かないと思うので……。*15

今回の調べ物でひとつ気付いたことがある。映像資料を観ると、70年代後半の上演では梅川が目隠しを取るタイミングが現行より微妙に遅い。「涙湧出づる水上と、身も浮くばかりに泣きかこつ(傍線部)」あたりで梅川が孫右衛門の後ろにさっと回り込んで外す。つまり、目隠しをしたまま抱き合っている時間のほうが長くて、そちらに見所の主体がある印象。90年代の映像を見るともうすこし早くなって、現行と近くなってくる(演技進行上のムラもあると思うけど)。現行ではこの直前の「親子手に手を取交せど、互ひに親とも我が子とも、言はず言はれぬ世の義理は」あたりで外すので、目隠しを取って顔を確認し合い、改めて抱き合うところに主体があると感じる。

ここは本来なら顔を見合わせられない再会をする親子の精一杯の情愛をみせる場面だと思うが、演出の変化の影響を受け、浄瑠璃の間合いの意味の持たせ方も変化しているのかもしれない。また、浄瑠璃や原型の演出からすると、手を取り合う演技がたいへん重要になるということがわかったので、次回新口村が上演されるときはそこに注目したい。とくに玉男さんは手元の演技がうまいので、孫右衛門役には玉男さんを期待する。それと、みなさんご存知だと思うが、玉也さんは初代栄三の芸を継承しているので、他の人とは孫右衛門の演技が異なる(特に段切れが特徴)。あれは人と違うことをやりたいとか、思いつきでやっているのではない。平易にいうと古い型を踏襲しており、この演出がはじまったときの原型の演技に近い可能性があるので、それにもより注目していきたいと思う。

  

 

 

┃ 歌舞伎『恋飛脚大和往来』での対応 

この孫右衛門の「めんない千鳥」をめぐる演出に関し、文楽太夫人形遣いの談話に「なぜ外すのか」「外すことに対してどう考えているのか」の話がないかを探しているが、現状では発見できていない。 しかし、歌舞伎に関しては見つけることができた。歌舞伎の場合、演出への役者の干渉が大きいため、「梅川が外してやる」のほかに「一切外さない(『冥途の飛脚』原作ママ上演を含む)」、「孫右衛門が自分で外す(現行で存在するかは不明)」のパターンが存在し、演出意図に合致するものを採用しているらしい。本作の製作年代からやや時代が下るが、昭和48年(1973)の十三代目片岡仁左衛門・加賀山直三(歌舞伎評論家)他の対談をご紹介しておく。

片岡 それで、今の長いせりふが終り、ひと目逢うてくだしゃんせ、と梅川がいうと、あゝやくたやくたいもない、いや、顔みたら。縄かけわたさにゃならぬ。こうですね。
「たとえ言葉かわいさいでも、顔みあわせたら、縄をかけるか、おれが口から訴人せにゃ、容姿親への義理が立たぬ」と、そうすると、「あゝもっともでござんす。そんなら、顔をみえぬ様に、御慮外ながら」と、そうすると、面ないをしますね、さあっと忠兵衛がよろこんで出てくると、面ないをしていると、顔がみえないから、まず下に顔をさわって、男髪だから、忠兵衛とわかり、だんだんその手が肩の方へ行き、抱きしめることに、これはあの、ちょっと、ほかの、こうして、こう抱いて、抱きつく、その時にね、父がたまらなくなって、これ(目かくし)を、ちょっとこう上にあげるんです。本文からいうと、すこし違う演技になるかもしれないけど、顔を見る方が、お客がよろこぶし、ちょっとあげて、結局、しまいに、顔をみてしまうんだけどね。

加賀山 これは、百姓のおやじさんだから、それ位当り前じゃないですか、その、わざわざする必要ないとか何とか言うけどもね。

片岡 私はあれ、受けるしね、愛嬌というと語弊があるけどね。その舞台を見てね、これは面白い、何かこう見ててね、さもありなんと、私はみるけどね、ある一部の評論家は、あれでは面ないちどりの趣向がこわれるとね、書いてましたけどね。

国立劇場芸能調査室=編『対談集「歌舞伎の型」3 恋飛脚大和往来 十三世片岡仁左衛門・杵屋富造・加賀山直三・尾沢靖一』国立劇場芸能調査室/1973
注:明らかな誤植と思われる部分は修正。

 

 

 


┃ 原作『冥途の飛脚』の「新口村の段」

最後に、近松原作『冥途の飛脚』「新口村の段」について解説しておきたい。前回述べたとおり、現行での上演はないものの、テキスト自体は残っているため内容を確認することはできる。原作と改作『傾城恋飛脚』「新口村の段」は、内容としてはほぼ似通っているが、その結末が異なっている。一番違うのは後半、「忠兵衛と孫右衛門が面と向かって会えるか」。

まずは『冥途の飛脚』『傾城恋飛脚』それぞれの「新口村の段」に共通している前半の展開を整理する。

  • 大坂を逃れた忠兵衛と梅川は、忠兵衛の故郷・大和新口村へたどり着く
  • 父孫右衛門の家を直接訪ねることはできないので、縁故ある百姓・忠三郎の家へ隠れる。
  • 忠三郎は不在だったため、その女房に呼びに行ってもらうことにして、二人は留守番をする。
  • 忠三郎宅の前を偶然孫右衛門が通りかかる。孫右衛門は泥に足を取られて転んしまい、梅川が思わず飛び出して介抱する。
  • 孫右衛門は梅川の様子から、彼女こそが忠兵衛が連れて逃げた遊女であることに気づく。孫右衛門は梅川へ話しかける体裁をとって、すぐ側にいるが姿を隠している忠兵衛への思いを語る。
  • 孫右衛門が「介抱の御礼」という体裁で、二人で逃げるための路銀を渡す。

展開が異なるのはこのあとだ。

『冥途の飛脚』ではこの後、孫右衛門は養子先への義理から忠兵衛と会うことに逡巡を続ける。梅川が会うよう説得するが拒否。同じ屋根の下にいながらもついに息子と向かい合うことはなく、何度も振り返りながらその場を離れようとする。梅川は引き止めようとするが叶わない。孫右衛門と入れ替わるようにして、忠三郎が帰ってくる。忠三郎は忠兵衛にすぐそこにまで追っ手が迫っていることを話し、二人を逃がしてやる。すんでのところで息子夫婦を逃してくれた忠三郎に孫右衛門は感謝するが、梅川と忠兵衛はすぐに追手に捕らえられる。引かれてきた息子夫婦の姿を目のあたりにしてしまった孫右衛門はショックで卒倒。忠兵衛は、罪科を犯したことは間違いないので処罰は覚悟しているが、親の嘆きを見たくないとして、手ぬぐいで顔を包んで隠して欲しいと懇願する。捕手たちは情けで手ぬぐいを取って彼に目隠しをしてやり、物語は終わる。

つまり、原作の『冥途の飛脚』では、孫右衛門は最後まで養子先に義理立てして、捕まって処刑されることがわかっている息子と会うことを徹底的に拒む。孫右衛門と忠兵衛は面と向かって再会することはなく、孫右衛門が息子の姿を見ることができたのは忠兵衛が捕まってしまうところで、それを目の当たりにした孫右衛門が倒れるという残酷な最後。原作において手拭いで覆い隠されるのは、義理立てのために息子の顔を見ることができない孫右衛門の目ではなく、あまりの親不孝のために父親の顔を見ることができない忠兵衛の目なのだ。原作と同じ流れでありながら、孫右衛門と忠兵衛を再会させ、目隠しを換骨奪胎し情緒としていかした『傾城恋飛脚』の「改作」のアレンジはおもしろい。

 

ただ、最初にも書いたが、浄瑠璃本文からすれば、改作でも「面と向かって顔を合わせて再会する」というわけではない。目隠しは取らないで終わるのが本来のはず。

なぜ目隠しを外す演出が定着したのか? 歌舞伎等の記事を読んでいくに、目隠しを一切外さない演出の時代には「せっかく会えたのに顔も見られないのはあまりに悲惨すぎる」という反応が観客からあったようで、文楽でもそのような観客(あるいは出演者)の心情を受けて目隠しを外す演出が生まれたのだろうとは思う。 

その中で、この映画はなぜ「一切外さない」としたのか? 当時の三和会の上演状況の実際がわからないので断言はできないのだが、私は、映画演出上の意図ではないかと感じる。たとえ当時の三和会で「一切外さない」演出で上演していたとしていたとしても、それが映画演出上の意図に合致していたのだと思う。なぜ私がそう考えるのかは、本作がどうして『冥途の飛脚』+『傾城恋飛脚』の構成になっているのかを含めて次回記事で詳述する。

 

 

 

 

TIPS. 3 『傾城恋飛脚』「新口村の段」 文楽現行の詞章

参考までに、映画の中で義太夫の演奏になっている部分(人形振り〜人形浄瑠璃)の詞章を以下に紹介します。便宜的に、セリフの末尾に喋っている人物名を追記しています。

「大坂を立ち退いても、私が姿目に立てば、借駕籠に日を送り、奈良の旅籠屋三輪の茶屋、五日三日夜を明かし二十日あまりに四十両使ひ果して二歩残る。金ゆゑ大事の忠兵衛様、科人にしたも私から、さぞ憎からふお腹も立たふが因果づくと諦めてお赦しなされて下さりませ。親子は一世の縁とやら、この世の別れにたつた一目、逢ふて進ぜて下さんせ」[梅川]
と、奥の障子を開るを
引止め
「アゝコレやくたいもないやくたいもない。たつた今も言ふ通り譬へ詞は交さいでも顔見合はしたりや縄かけるか、おれがロから訴人せにや、養ひ親への義理が立たぬ。何ぼ義理が立てたいとて、親の手づからどふ縄がかけられう、どふ縄がかけられふぞいの」[孫右衛門]
「ヲゝ御尤もでござります。そんなら顔を見ぬやうに」[梅川]
と側にあり合ふ手拭取り、泣く泣く後に立ち回り『慮外ながら』と、めんない千鳥
「ご不自由にはあらうが、かうさへすれば、側にござつても構ひはあるまい」[梅川]
「ヲゝ忝うござる忝うござる。もの言はずと顔見ずと、手先へなと触つたら、それが本望逢ふた心。親子一世の暇乞ひ。ナコレ必ずこなたの連れ合ひにもの言はして下さるな」[孫右衛門]
と悦ぶ内に忠兵衛は嬉しさ余り駆出でて
親子手に手を取交せど、互ひに親とも我が子とも、言はず言はれぬ世の義理は、涙湧出づる水上と、身も浮くばかりに泣きかこつ

現行上演では、「〽言はず言はれぬ世の義理は」あたりで梅川が孫右衛門の背後に回り、目隠しを外します。

 

 

┃ 次の記事

映画の文楽4 内田吐夢監督『浪花の恋の物語』4:映画に語られる浄瑠璃 - TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

 

 

 

┃ 参考文献

*1:国立劇場芸能調査室=編『国立劇場上演資料集 198 第13回文楽鑑賞教室 傾城恋飛脚 1981.12』1981/国立劇場義太夫の演出 芸談 「冥途の飛脚」聞き書き 下の巻 新口村の段 二世野澤喜左衛門(吉永孝雄)参考

*2:後の豊竹山城少掾

*3:『浪花名物 浄瑠璃雑誌』第414号(昭和17年(1942)11月号)/浪花名物浄瑠璃雑誌社、大西重孝による劇評。国立劇場調査記録課・国立劇場芸能調査室・編『国立劇場上演資料集 545 源平布引滝・傾城恋飛脚・二人禿・絵本太功記・生写朝顔話 平成23年(2011)5月』日本芸術文化振興会/2011 に転載あり

*4:大西重孝『文楽人形の芸術』演劇出版社/昭和43年(1968)所収。初出:古典芸能研究会・編『文楽』昭和23年(1948)4月号/誠光社

*5:のちの四代目竹本越路太夫

*6:のちの四代目豊松清十郎

*7:吉田簑助

*8:『幕間』第13巻第10号 昭和33年(1958)10月号/和敬書店、吉永孝雄による劇評。

*9:のちの三代目竹本春子太夫

*10:このころには多分因会所属……。

*11:NHKエンタープライズ発行・販売のDVD『人形浄瑠璃文楽名演集 冥途の飛脚』で確認。

*12:のちの七代目竹本住太夫

*13:国立文楽劇場 第109回文楽公演(平成20年(2008)1月公演)パンフレット掲載の舞台写真で確認。

*14:のちの五代目竹本伊達大夫

*15:出演者判断で突然発生した特殊演出でいうと、『妹背山婦女庭訓』四段目「道行恋苧環」の冒頭部、浅葱幕が降りているときに人形で3番の「里の童」を出すというのがあると思う。2016年4月の通し上演(大阪公演)では出していたが、今回の2019年5月の通し上演(東京公演)では出していなかった。いちばん最初に行われたのは昭和42年(1969)2月の東京公演のようで、このときの「里の童」役は和生さん、勘十郎さん(それともうお辞めになった方1人)がつとめていたそうだ。この演出は至極若い人形遣いに役をつけるための特殊な処置のようで、いまのところ定着はしておらず、あれを伝統だとは誰も思ってないと思う。今回の妹背山、人形で役がついていない若い子がいるので、里の童をやらせてあげればいいのにと思ったが、初演と近しい状態でやりたい(段の順序を入れ替えたり、変な演出は入れたくない)という東京の制作の判断だろうか……。