TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 2月東京公演『冥途の飛脚』国立劇場小劇場

2月は全日程公演できて、本当に良かった。

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第三部『冥途の飛脚』、淡路町の段。

勘十郎さんの忠兵衛は真性のクズというより、小心者のビビリゆえに的外れなところで大胆になり、重大犯罪をやらかしてしまうという印象。地銀の地味な行員がやらかした巨額横領事件っぽい。個人的には現代的な解釈として納得いく解釈で、小説『青春の蹉跌』や映画『鉄砲玉の美学』の主人公を思い出した。あいつらはもっと痛いヘタレ方だけど。玉男忠兵衛は真性のクズであり、天然由来成分100%ゆえにクズに理由がなく、理解不能の底知れない闇を感じて「う、うわぁ〜……」とドン引きしてしまうのだが(そこが好き❤️)、現代的な感覚からいうと、物事に何らかの理由付けがあったほうが見やすい。安心して見られるから。
勘十郎さんの演技傾向には説明的な部分があり、特に男性の役ではその傾向が強いように感じる。なぜ説明的装飾をしているのかは非常に興味深いことで、普通、過剰な説明をすると、技量がないのを糊塗しているとか、客の感受性を信用してないとか、ネガティブに捉えられると思う。これについては率直なところをインタビュー等で語っていただきたいところなのだが、今回の忠兵衛はそういった作為というより、素質に適合している部分が大きいと感じた。良い意味で玉男さんと違う方向に行っている。

忠兵衛は家内の様子を探ろうと下女・まん〈吉田玉佳〉に色仕掛けで迫る場面で、意を決したように話しかけていたのが笑ってしまった。明らかに玉佳まんのほうが強そうで、頭からかぶりつかれてベロベロされそうだった。涙目になってそうで、良い。勘十郎様が本気で色男としておやりになっていたようでしたら本当に申し訳ありません。でもあの手のクソムーブ、誰がどう逆立ちしても玉男様には絶対勝てないから。
まんは「ピョコォォォぉっっっっ!!!!」という立ち上がり方も良い。足がある女方は立ち上がり方が可愛い。しかし当日行くまで、玉佳さんと紋臣さん(手代伊兵衛)の配役、逆だと思っていた。紋臣さんが手代というのは本公演では珍しいというか、配役、そこか?という……。役の数の問題や、ランクの高い女方の左をしなくてはいけないのはわかりますが、沖の井やおきさ相当の役はやって欲しい方。

亀屋のメンバー、勘市妙閑、勘十郎忠兵衛、紋臣手代だと、なんかこう、堅実でちゃんとした飛脚屋って感じ。全員、やりすぎレベルの真面目で、配達証明にものすごい超達筆で認めてある手書きFAX送ってきそうです(メールとかじゃなく、あくまでFAX)。
あと、荷物を運んでくる馬が妙にロン毛だった。何らかの時代考証によるものだろうか。

床の小住さんは大変元気で、八右衛門や武士が良かった。ただ小所帯の商家にしてはちょっと角がごつごつしすぎか。特に手代。本作の手代伊兵衛は他の曲の図々しいヤツらと違い、かなり繊細で真面目なタイプだと思うので、もう少し抑えて欲しかった。慌ただしい飛脚屋の情景はとてもよく感じられた。

 

忠兵衛が亀屋を出て以降は緊迫感がなく、ちょっと冗長。予定調和になっていて、逡巡の印象が薄いのだろうか。この曲に限ったことではないが、芝居だから予定調和になるのは当たり前なのだが、そうでなく見せるというのは、難しいことだなと思った。

疑問に思ったのは、人形の羽織落としの仕方。落ちた(落ちたのにも気づかず新町へ向かった)というより、脱いだ(羽織を脱ぎ捨てて新町へ向かった)って感じ。三味線に乗せて肩からだんだんずり下がっていく段階がないので、一気に引っ張られたようにしか見えない。わざとやってるにしても、そうすることで何の意味があるのか、何をどう表現したいのか、よくわからない。そこは通常通り、羽織=社会の象徴であり、ここで忠兵衛はどんどん社会から逸脱していくという表現になっているべきなのでは。
最近は、失敗例含め、衣装まわりのやりかたに首をかしげることが多い。

ぶち犬に投げつける小石のぬいぐるみは、なんだかデカかった。

 

 

 

 

封印切の段。

『冥途の飛脚』のほうで梅川の配役が勘彌さんになっているのは初めて観たが、とてもよかった。
清十郎さんだと梅川が「不幸な美人」と前アクセントだけど、勘彌さんだと「不幸な美人」で後ろアクセントな感じ。梅川は大半の場面を嘆いて過ごしているが、体を伏せて嘆くシーンがたいへん美しかった。以前、内子座で佐太村の八重をされていたとき、この人、お辞儀系の演技が非常に綺麗でうまいなと思ったけど、梅川のような始終悲嘆に暮れる役だとそれがMAX活きる。八右衛門の出以降、二階の障子の影で悲嘆に暮れる姿の美麗さ。「二階には畳に顔を擦り付けて声を隠して泣きゐたり」のところ、本当に人形の顔を畳に擦り付けることはできないわけだけど、では何をしているのか、今までよくわからなかったが、着物の襟を立てて顔を隠して泣いているということね。すっとした大人の美しさがあった。
衣装の着崩しも非常に美しい。梅川は上に羽織ったものをドロップショルダー状に落として肩を出しているが、みじめな着崩し感でなく、どことなく粋。下級遊女といっても、梅川本人が持っている気品が出ている感じ。
ただこの忠兵衛梅川は、恋人同士とか、腐れ縁には見えないな。役でやってる感が強い。なぜそう感じるのかはわからない。

人形の忠兵衛は幼稚な感じにされているようだった。ちょっと哀れを引く、キャンキャンした感じ。でも、かわいそうとは思わないが。
今回観て、忠兵衛が封印を切ったのはあくまで八右衛門に50両叩きつけたいからであり、梅川を身請けするために切ったのではないのが、本当に救いようがないなと思った。性根がしょぼすぎる。八右衛門はあそこで忠兵衛を完全に見切る。ドライだ。廓の衆はヤバイ金とはわかっていても、金は金として受け取るというのも怖い。しかし、梅川だけ、切った直後はあれだけ大げさにかき口説いておきながら、そのあと忠兵衛の「養子に来たときの持参金」という嘘に騙されている(?)のがよくわからん。

そういえば、千穐楽前日に観に行ったら、八右衛門役の文司さんが梅川のクドキの最中に一時退出されていた。途中で人形に後ろを向かせ、黒衣さんの出入りがあり、元々左だった方が主に変わって、左の人を新しく呼んでいた(と思う)。文司さんは八右衛門の衣装をちゃんと整えてから出ていかれたのと、すぐに戻っていらっしゃったので、ご体調が悪いとかいうわけではなさそうだったのでよかったが(🚹?)、お客さんみんな梅川どころじゃなくなっていた。
八右衛門は全体的に悠々とした感じ。たとえば玉輝さんがやるときよりはちょっとリアリストで厳しい感じというか、目線が若干高いのが面白かった。

 

千歳さんは、封印切までは面白いんだけど……、そのあとにくるメチャクチャ長い梅川のクドキがどうにも一本調子な印象だった。末尾や泣き声のニュアンスがしっかりしていないと、あの長さは耐えられない。八右衛門の語りは非常に良く、梅川も人形の演技は良いので、舞台として惜しい。現状の文楽だと、女性描写に一番実力の差が出ると思う。女性描写の向上を願っている。

それにしても、「封印切」冒頭の禿の三世相は長い。長すぎる。今回の舞台がどういうという話ではなく、原作からして。子供が本人はよくわかっていない女郎の悲哀を歌う設定がおもしろいっていう構造はわかるけど、あそこまで長いと、本来は歌自体を聞かせようとした作劇(歌謡映画の歌謡シーン的な扱い)なのではという印象を受ける。当時は人形浄瑠璃の楽しみ方が現代とはだいぶ違っていたのではないか。今となってはそれを娯楽と受け止められないので、違和感があるのか。映画『多羅尾伴内 鬼面村の惨劇』だったかで、主演の小林旭が(唐突に)持ち歌一曲フルコーラスを歌うシーンがあり、映画館内が「お、おう……」という空気になったのを思い出した。
でも、この場面、たいていオタマジャクシクラス(足が生えてきたような気がするレベル)の子が人形の禿役をやるので、そこには見所がある。まず三味線の手つきに客が全員ハラハラする。曲を覚えている子がいれば覚えていない子がいたり、三味線さんも若い人形遣いさんがやりやすいよう合わせてくれる(?)人と独自路線の人がいたり、お姉さん女郎役のお兄さん人形遣いさんが緊急事態にそなえてオタマジャクシ子をすごい表情で凝視していたり、コクがある。

 

 


道行相合かご。

ご出演の方には本当に申し訳ないんだけど、いるか? 道行……。道行を改作で上演するなら原作重視の意図もないわけだし、それなら封印切で終わったほうが面白い。違う景事つけたほうがまだいいんじゃないか。三輪さんとか、配役ホントにここでいいのかって感じだし。

とはいえ、後半、お地蔵さんが出てからの梅川は官能的で良かった。手ぬぐいで縛り首の振りをする姿に冷たい美しさがあった。左と足の対応が速く、人形が後ろ向きになるときにイイ感じにどいてくれるのも良かった。
そして忠兵衛の羽織落としは淡路町の段切よりこっちのほうがうまくて、「こっちで!?」と思った。

 

  • 義太夫
    淡路町の段
    口=竹本小住太夫/鶴澤清𠀋
    奥=竹本織太夫/竹澤宗助

    封印切の段
    竹本千歳太夫/豊澤富助

    道行相合かご
    梅川 竹本三輪太夫、忠兵衛 豊竹芳穂太夫、豊竹亘太夫、竹本碩太夫/竹澤團七、竹澤團吾、鶴澤友之助、鶴澤清允
  • 人形役割
    手代伊兵衛=桐竹紋臣、国侍甚内=桐竹亀次、母妙閑=吉田勘市、亀屋忠兵衛–桐竹勘十郎、下女まん=吉田玉佳、丹波屋八右衛門–吉田文司、宰領=吉田玉峻、花車=吉田簑一郎、遊女梅川=吉田勘彌、遊女千代歳(下手にいるほう)=吉田玉翔、遊女鳴渡瀬(上手にいるほう)=吉田玉誉、禿=吉田簑悠、太鼓持五兵衛=吉田玉延、駕籠屋–吉田玉路&吉田和馬

 

 

 

今回は、全体的に「長いな〜」という印象が強かった。休憩時間を挟んでいないからというのもあるが、山場作りや緊張感のコントロールの問題だろうか。
配役がいつもと違うのは良かった。同じような配役で同じような演目を何度も観るのは辛い(5月の宵庚申の人形、そうでもしないと間が持たないのはわかるけど、またその配役!?と思ってしまった)。