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文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

『双蝶々曲輪日記』十次兵衛の二重身分、帯刀について [文楽あいうえお]

ごくたまに、文楽鑑賞のための豆知識メモ「文楽あいうえお」をtwitterに投稿しています。
twitterだとイラストで説明するコンテンツには便利なのですが、文章での説明が長いものは書けないので、テキスト主体の拡大版を、ブログに載せていこうと思います。

 

はじめに

『双蝶々曲輪日記』「引窓の段」に登場する南方十次兵衛は、夜はお上から仰せつかった役目を負い、昼は町人商人に戻るという二つの側面を持つ人物として設定されている。彼は、役目を負っているときには領主から授かった「南方十次兵衛」の名を名乗り、拝領した大小(太刀と脇差)を帯びている。しかし、町人に戻れば「南与兵衛」という名になって、大小を投げ出す。この二面性が、「引窓」の物語の大きな鍵となっている。

現代の価値観からするとあくまで芝居のギミック、レトリックのように思われるが、江戸時代においてこれはどのような意味を持っていたのだろうか。十次兵衛の振る舞いについて、本作が18世紀半ば(寛延12年[1749])初演であることに注目し、なぜそんな設定が存在しているのか、当時それはどのような意味を持っていたのかを考えてみたいと思う。

 

「二重身分」とは何か

「引窓の段」の南方十次兵衛は、うらぶれた暮らしをしていた日々から念願の「郷代官」に服し、大小(太刀・脇差)を携えた武士の姿で濡髪捕縛の役目を母と妻に語る。しかし、母が濡髪を助けたいと願っていることを知ると、大小を投げ出してもとの町人・南与兵衛へ戻り、役目で預かった人相書を商売として母に売る。
このさまを指し、芸談などにおいては十次兵衛は「武士と町人を行き来する」などと言われる。しかし、実際には、本文中で十次兵衛自身や彼に近しい人物が彼を指して「武士」と呼ぶことはない*1。「人に人を使うた家柄」
「人に知られた」などの立場・名誉を表現する表現にとどまっている。これは、「郷代官」という特殊な立場を表してのことだと思われる。

 

江戸時代というと、厳格な身分制度があり、それは世襲され、おのおのは完全に隔絶した存在かのようなイメージが抱かれている。しかし、本作(寛延12年[1749]初演)が書かれた18世紀には、「武士」「町人」「百姓」*2といった単独の枠におさまりきらない人々がいた。
本来武士であっても、主君を持たないために秩禄がなく、町中に住み刀を隠して商売を営み暮らす者。百姓や町人であるが、医師や神人(神社に奉仕する者)といった、役割のために苗字・別名を持ったり、刀を帯びることのある特殊職業。あるいは、公家に仕える者、藩や幕府の御用達・役目を受けて、苗字を名乗り帯刀する者。もしくは、名字帯刀の権利を金で買う者。このような複合的・中間的な立場「二重身分」「中間的身分」は、18世紀中期以降、多数現れるようになっていた。

十次兵衛の「郷代官」の立場も、これに類している。
「郷代官」とは、百姓身分ながら、領主の村方支配機構に属し、年貢徴収などに携わる職務のこと。普段の身分は百姓(本作では町人の設定)であるが、役目によって特例的に帯刀を許可されるという立場だ。帯刀は許されているが、軍役は負わない。あくまで百姓身分のままというのがポイントで、召抱えられた(専業の武士身分として登用された)のではない

この町人兼武士という不思議な立場は、18世紀から行われるようになった、百姓・町人を元の身分のまま下級役人に任用し、本来の身分と兼業させるというシステムによるものだ。彼らは役儀中は苗字を名乗り、帯刀し、周囲からも武士として扱われた。しかし、仕事が終われば、彼は百姓であり、苗字は名乗れないし帯刀もできないのだ。南方十次兵衛/南与兵衛の切り替えは、この二重身分のありようをそのままに表現していると言える。

 

普通の武士キャラは、私情(家族)よりも「忠義」を優先する。しかし、十次兵衛自身は、「忠義」という言葉は口にせず、「役目」という言葉しか使わない。
これは、彼がいくら「武士」のガワをしていても、本来は「百姓」「町人」であるという中間的身分であるからだと思われる。忠義云々の葛藤は時代物の本職の武士キャラに負わせるものであり、十次兵衛が「役目」「手柄」よりも母への想い(義母への義理、あるいはママの濡髪への愛を立ててやること)を優先したのは、彼は本来的には町人であることによるのではないだろうか。本物の武士だったら、主君の命に反して見逃しをかけたらば、それこそ切腹して始末つけてもらわないといけないですからね。

 

 

 

江戸時代において「帯刀」とは何だったのか

さて、現行文楽の舞台では、武士は常に二本差だが、町人はたいてい丸腰でウロチョロしている。町人でカタナ=脇差を差しているとしたら、心中へと向かう者だけである。これは「正確な風俗描写」なのだろうか? 町人は丸腰なのが本当に「普通」だったのだろうか?

まず、江戸時代でいう「帯刀」というのは、「刀」、つまり「太刀」を帯びることである脇差を差すのは「帯刀」に入らなかった。江戸時代において、「刀」と「脇差」は、まったく意味が異なるものだった

江戸初期には、武士だけでなく町人も百姓も、太刀と脇差の2本を差すことは自由だった。世の中がおさまっていくにつれ、風俗統制として帯刀への規制が段階的に行われていった。寛文8年[1668]には、江戸町触により町人に向け、帯刀で江戸の町中を歩き回ることが禁じられた。ただし、旅行、火事、祭礼での帯刀は許容されていた。町人の帯刀が全面的に禁じられたのは、天和3年[1683]のことだ。これは江戸だけでなく、諸大名にあてても同様のことが命じられた。そこでは、太刀は武器であり、戦闘従事者である「武士」以外は不可という線引きだった。*3。また、それを受けて上方・京都では元禄5年[1692]から帯刀改がはじまり、百姓・町人が常時帯刀になることや、私用での帯刀が禁じられた。
以上の規制は基本的に「ファッションで、刀、差すな! 風紀が、乱れるがな!!」ということが目的だったが、このような過程を経て、「刀」を帯びていること(外見的標識)は身分標識とイコールになり、その認識は
広く浸透していったものと思われる。

そんなこんなで、刀(太刀)と脇差の2本を差すこと(=帯刀)はドヤ・ステータスとして大きく、パンピーでも帯刀許可を得たいと願う者は多かった。いろいろなことにかまけて帯刀できるように許可を得る者は多くあったが、町人や百姓身分は帯刀許可が下りたとしても、限定的。上記「二重身分」についての項目でも述べたが、役目以外のときの帯刀は禁じられていた。つまり仕事タイムオンリー、私用タイム不可という区分があったのだ。十次兵衛が役目を仰せつかった「武士」から「町人」へ戻るとき、人形が刀(大小)を投げ出すことにもそれは象徴されている。芝居のノリでやってるだけではない。

 

いっぽう、脇差は扱いが異なっていた。「刀」=「太刀」の禁止以降も、脇差のみであれば町人でも差すことができた。町人男性のあいだでは、脇差を差したスタイルがファッションや礼儀、あるいは護身の方法として広がっていた。脇差を差すことは一種の対人マナーであった。浮世草子など出版物の挿絵などを見ると、一般町人でも脇差らしき刀を一本差しているのを認めることができる。
江戸時代を通し、幕府が町人・百性の脇差を規制することはなかった*4。しかし、脇差は義務ではなくファッションであったがゆえに、盛衰があった。常に脇差を差すという傾向は18世紀半ばから減少してゆき、18世紀末にはほとんどなくなったようだ。しかし、旅行、年始の挨拶・婚礼・葬礼といった儀式で礼装として差すことは明治まで続いた。

これに照らし合わせると、本作(寛延12年[1749]初演)で、町中での濡髪や長吉が脇差を差していたり、生真面目な町人の与次兵衛(与五郎のパパ)が遠出先で脇差を持ち歩いている設定になっているのは、町人男性の一般的な風俗といえる。
また、『桂川連理柵』(安永5年1776]初演)の「石部宿屋の段」で、丁稚長吉が脇差を持っているのは、旅行の際に護身用の旅差・道中差として脇差を携行する習慣があったためだと思われる。

 

さて、これらより前の時期の浄瑠璃では、さらに「持っていて普通」ということになる。
女殺油地獄』(​​
享保6年[1721]初演)の与兵衛は、最後に豊島屋を訪れるときに、脇差を持っている。これは彼が“ナイフを持った不良少年”だからではなく、装身具や習慣として普通に持っていただけなのではないか。
また、『心中天網島』の最後、大和屋の場面で治兵衛が脇差を持っている理由も、それ自体がすなわち“心中に向かう決意をしていたから”ではなく、一般風俗であると理解するのが穏当かと思われる(治兵衛と大和屋主人との脇差についてのわざとらしいやりとり自体は、伏線としての物語上の演出だけど)。
作品理解として、与兵衛や治兵衛が脇差を所持していたことを「深読み」する向きもあるが、そこを過剰解釈すると、物語の本来の意図とはズレた解釈に陥ってしまうのではないだろうか。
なお、『心中天網島』は享保5年[1720]初演だが、享保4年[1719]成立の町人の教訓書『町人嚢』には、脇差差したくない!と言い、一生丸腰で過ごす主張をする町人の話が載っているそうだ*5。世の中平和なんだから、護身用の刃物なんか持ち歩く必要がないという主張をしている人の話だが、そのような人物は当時の価値観からすると奇人であったから本のネタになるのであって、つまり、当時はみんな脇差を差していたと考えることができるとのことだ。

 

刀や脇差が、どの時期に/誰に/どのくらい持ち歩かれていたかについては、尾脇秀和・著『刀の明治維新 「帯刀」は武士の特権か?』に詳しく説明されているので、読んでみてね。一般書なので読みやすく書かれています。上記はほぼこの本の受け売りです。

 

 

 

おわりに

身分、帯刀。いずれも現代では、近代的思考や「時代劇」の影響を受け、初演当時とは抱かれるイメージが変わってしまった要素だと思う。

以前から、浄瑠璃に描かれる物語をどう受け取るかが時代によって変化していくことに関心があった。『伽羅先代萩』の「政岡忠義」の戦争利用や、『壷坂観音霊験記』は夫婦愛を描くことを目的として書かれたわけではないという問題である。

先代萩』や『壷坂』は、プロモーション手法や観客への受け取り方の示唆(レクチャー)の問題だ。『先代萩』の戦争協力引用や『壷坂』を利用した女性抑圧はかなりヤバく、有害な問題で、警戒しなければならない。
いっぽう、「引窓」は、近代になって完全に失われ、理解が断絶した風俗の受け取り方が変形してきているという問題だ。これをどうするのか。史学研究の進展、その知識の普及にどう対応するのか、しないか。歴史的事実に照らし合わせて「違っていること」をパフォーマンスとして行うことがあったとして、私たちはそれを古典芸能としてどのように捉えるべきなのだろうか。
人形の衣装の紙子や千早*6のように、事実とは違なるが、舞台向けの美的解釈が舞台効果となっており、物語進行にも差し支えがない場合や、それこそ町人の人形たちが脇差を差していないといったことは、気にならない。十次兵衛を「武士」として処理するのも、表現の手法、舞台の様式美として、間違っていないと思う。*7
でも、もし、それまで継承されてきた「役の考え方」に変化を要請されるような研究の進展があったら、出演者はどうするのか。作劇の根幹に関わるような歴史的事実があったとしたら、舞台にそれを反映するのか、しないのか。初演当時の歴史的事実と異なった演出がつけ加えられていた場合、その「変形」はいつ起こったのか。最近の思いつきならともかく、戦前、大正、明治まで遡るとしたら、伝統芸能は、どこからどこまでが、「正しい」「伝統」なのか。観客はそれをどう受け止めるのか。気になることが、たくさんある。

 

 

 

┃ 参考文献

  • 鳥越文蔵他『新編 日本古典文学全集77 浄瑠璃集』小学館/2002
  • 「近世の身分感覚と芸能作品—『双蝶蝶曲輪日記』にみる」/『お茶の水史学』53号 読史会/2009
  • 辻達也=編『日本の近世 10 近代への胎動』中央公論社/1993
  • 尾脇秀和『壱人両名 江戸日本の知られざる二重身分』NHK出版/2019
  • 尾脇秀和『刀の明治維新 「帯刀」は武士の特権か?』吉村弘文館/2018

*1:最後の段、九段目では、十次兵衛(らしき人物)を指して「侍」と呼ぶ台詞はある。これは、濡髪捜索の追手として「侍」が接近してきているという場面に使われる言葉で、遠方から見たときの外見は本物の侍同様ということを指しての意味と思われる。

*2:江戸時代の「百姓」とは、生業が農業の者のみを指すわけではない。村に所属して年貢納入を行う者などをさし、農業従事者だけでなく、農商兼業の者、商売だけを営む者も含む。当時の「身分」は、その人がどの管轄に所属しているのか(支配を受けているのか)で区分されていたためで、現在の「百姓」という言葉(農業従事者を軽視して呼ぶ蔑称)とは意味合いが異なっている。

*3:ちなみに天和3年の時点では、百姓への帯刀規制はなかった。

*4:安永・天明期にファッションとして長脇差が流行したが、禁止された。無頼の徒に長脇差が広まっていたための規制。

*5:『町人嚢』は国会図書館デジタルライブラリーでも読めます。 https://dl.ndl.go.jp/pid/757776/1/37

*6:『絵本太功記』「尼が崎」の光秀が着ている鎧を模した衣装。言われなわからんわ! チョッキかと思たわ、どこが鎧やねん!!

*7:ただ、出演者が「もっともらしいこと」を言いたいがために、観客への「レクチャー」として、勉強不足のまま誤った通俗理解を披露するのは、まずいと思う。また、批評家の場合は、言い訳ご無用に、アウトだと思う。