TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 9月東京公演『寿式三番叟』『双蝶々曲輪日記』国立劇場

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第一部、寿式三番叟。

三番叟役を勤めた人形遣いさんが、客席に向かって本当に一生懸命に鈴を振っている姿に心を打たれた。
その人は今までに、私が見飽きたどうこうとか言い出す以上に、なんどもなんども三番叟を踊っていると思う。しかし、この人は、『寿式三番叟』が祝儀演目であり、五穀豊穣を祈る三番叟は福を振りまいているということをいまも忘れずに、毎回の舞台を勤めていた。舞台や観客に対する真摯さ・誠実さと、長い修行の中で弛むことのない強靭な精神力を持っている人なんだなと思った。
ここ1年で『二人三番叟』何度も拝見しておりますゆえ、もう学芸会レベルのもん観たくないがな、と思っていたけど、今回はこの人の三番叟が観られてよかったと思った。*1

和生さんの翁は堅実。
「とうとうたらり……」のくだりでよく見ていると、舞台の奥のほうで翁がごくわずかに首を動かしていた。「あ、この人が言ってるってことね」と思って、なんか、良かった。
翁の演技では、初日に左がすさまじいド失敗をしたくだりがあった。こ、これはやばい、と思いつつ中日にまた観に行ったら、やりかたそのものを変えることで、絶対に失敗しないように改めていた。古典芸能といえど、根性でなんとかする、のではないのだな。

床(三味線)の演奏速度というか、籾の段でのスピードアップ度が日によって異なり、人形がついていくのが大変そうだった。人形は数テンポ前から動かないといけないので、よほどちゃんと聞いて予測していないと合わせられない。床はノリでやってるんだろうけど、人形さんたちは大変そうだなと思った。もはやお囃子もついていってなかったし、正直良し悪しある。
でも、三番叟がオタマジャクシ子ではなく、あの水準の配役だからやったんだとは思う。そもそもここまでスピードアップする三番叟は、久しぶりに聞いた。予定調和じゃないのは面白い。

 
 
 
 
 
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  • 義太夫
    翁 竹本錣太夫、千歳 豊竹芳穂太夫、三番叟(又平) 竹本小住太夫、三番叟(検非違使) 豊竹亘太夫、竹本碩太夫、/鶴澤藤蔵、野澤勝平、鶴澤友之助、鶴澤清公、鶴澤燕二郎
  • 人形役割
    千歳=吉田簑紫郎、翁=吉田和生、三番叟(又平)=吉田玉助、三番叟(検非違使)=吉田玉佳

 

 

 

双蝶々曲輪日記。
「蝶々」というのは、「長五郎」と「長吉」の、2つの「ちょう」から取られているそうです。長吉のほう、通し上演だと確かにもっと出番あるけど、脇役顔(人形的に)なので、言われなわからんがな、と思いました。


難波裏喧嘩の段。

アホボンボン・山崎与五郎〈吉田簑太郎〉とその恋人の遊女・藤屋吾妻〈吉田玉誉〉は、廓を逃れて難波の畑までやってくるが、彼らを追う平岡郷左衛門〈桐竹勘介〉と三原有右衛門〈吉田玉路〉に捕まってしまう。

そこへ駆けつけたのは、与五郎が贔屓にしている相撲取り・濡髪長五郎〈吉田玉志〉だった。長五郎は二人を庇い、吾妻を無理矢理身請けしようとしていた郷左衛門に譲歩を迫る。引き下がったかに見えた郷左衛門だったが、突然長五郎に斬りかかったため、やむなく長五郎は郷左衛門と有右衛門を始末してしまう(かわいそ〜)。

その騒ぎの中、長五郎と義兄弟の契りを交わした素人力士・放駒長吉〈吉田玉翔〉が駆けつけ、与五郎と吾妻を預かるので、長五郎はしばらく身を隠すように勧める。その言葉に大坂を去ろうとした長五郎だったが、様子を見ていた長吉の旧友・下駄の市〈吉田簑之〉と野手の三〈吉田玉峻/吉田玉延〉が脅迫してきたため、この二人までも殺してしまう。いよいよ大坂にいられなくなった長五郎は、三人を残してどこかへと去っていくのだった。

颯爽と現われた玉志サンの濡髪長五郎が爽やかすぎて、びびった。

誰!?!?!?!?!?!??!? 

観客全員「え!?!?!?!?!??!?!」と思ったわ(巨大主語)。
かしらが文七で、その着付で、なぜそんなに爽やかになれるのか……。キラキラしとる!!!!!!!!!!! と思った。

『双蝶々曲輪日記』、話は確かに面白いし、よく出来てる。よく出来ているとは思うが、どうにも内容が類型的でベタすぎ、お定まりすぎて、脂っぽさにお腹いっぱい、という印象がある。いわゆる「浪花節」感がすごすぎてっていうか(「浪花節」ではありませんが)。
濡髪はその中でもキャラクターがかなり類型的なので、脂ぎったヒーロー然と演じる人も多い役だと思う。が、それを吹き飛ばす、北海道のハッカ畑に吹く夏風のごとき爽やかさ。
言われなければある意味濡髪とはわからない若々しさと清廉ぶり、透明感。いや原作をよく読むと、濡髪はくそガタイの良い力士という設定ではあるが、内面は若く溌剌とした、気持ちのよい男である。確かそうとも解釈できる……。

爽やかさというのは、外見に引きずられるものだと思って生きてきた。それでいうと、文楽は人形で演じるので、本来、「見てくれ」は誰がやっても同じになるはずである。しかし、玉志さんにはぶっちぎった爽やかさと清潔感、透明感がある。若手が未熟さゆえに爽やかになってしまっているのとはまた違うモノホンの清涼感。もはや、なぜここまで爽やかに見せられるのかが意味不明すぎて、玉志さんはすごいと、心の底から思った。

濡髪は動き始めや返事をするタイミングなどで「プルルッ」と首を素早くごくわずかに振る仕草をしていた。あれは玉志サン的なワイルド表現というか、豪傑はプルるということなのかな。過去の役だと、平右衛門とか鱶七、和藤内もプルルッとしていた。動物みたいで、良い。

段切の濡髪の演出は、会期前半と後半で違っていた気がする。前半は濡髪が舞台上に留まり、去っていく途中で定式幕が閉まっていたと思うが、後半は幕が閉まる前に濡髪が小幕へ退出し、残った3人で極まるやりかたになっていた。

 

放駒長吉もきっぷのよさを活かした爽やかな演技で、良かった。顔はコロコロしているけど、しっかり者である。
しかし長吉、「もう人殺ししちゃったんだから、何人殺しても同じ♪」とか言って友達だったはずの奴らを濡髪に殺させるの、どういう神経してるんだ? 狂ってんのか???

 
 
 
 
 
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八幡里引窓の段。

あすは放生会という秋のある日。八幡の里、南与兵衛の実家では、老母〈桐竹勘壽〉と女房おはや〈吉田勘彌〉が月見の準備に大忙し。
おはやは元は遊女・都で、与五郎が連れて逃げた吾妻とは姉妹のように仲が良かった。しかし彼女はいち早く南与兵衛とともに廓から逃れ、この里に落ち着いて“在所のおかみさん”となっていた。そして、放蕩のために笛売りに身を堕していた与兵衛も近頃ついに復職が叶い、今日は代官所へ召されて外出していた。

老母とおはやが談笑しているところへ、笠で顔を隠した濡髪長五郎が訪ねてくる。実は老母は長五郎の実母であり、長五郎は幼い頃に出されて生き別れとなっていた。しかし近頃偶然再会して、お互いの健在を知ったのだった。しかし、老母は再嫁した先の故・南方十次兵衛と義理の息子・与兵衛への義理から、長五郎との再会を息子夫婦には隠していた。
老母は長五郎と顔見知りだというおはやに事情を話し、これからは3人の子供たちに囲まれて暮らせると大喜び。だが、長五郎は南与兵衛には自分のことを話さないで欲しいと頼み、長崎の相撲へ下るのでもう長く会えないと言う。事情を知らない老母はここで暮らせばいいと引き留め、おはやとともに食事や酒の準備をする。長五郎は母の心づくしに胸を痛め、「欠け椀に一膳盛り」でよいとだけ告げて、二階へと上がる。

そうしていると、父の名を授かり、武士の出で立ちとなった南方十次兵衛〈桐竹勘十郎〉が二人の武士〈平岡丹平=吉田文哉、三原伝蔵=桐竹紋秀〉を連れて帰ってくる。十次兵衛はおはやと母を下がらせて、武士たちから新任にあたっての最初の要件を聞く。その内容とは、二人の武士、平岡・三原の兄弟が力士濡髪に殺害され、その濡髪がこの界隈に逃げ込んでいるとの噂があるため、夜間捜索は土地勘のある十次兵衛が仕切って召し捕るようにというものだった。

話を聞いていた老母とおはやはびっくり。二人の武士が帰っていくと、おはやは夫に長五郎の捜索を止めるように勧める。そのため十次兵衛と言い争いになるが、老母が割って入り、十次兵衛は濡髪を見知っているのかと問う。すると、十次兵衛は懐中から近所へ配るという人相書きを取り出す。そこに描かれた大前髪に右頬の黒子の大男、それは紛れもない濡髪の姿だった。濡髪は二階から階下の様子を覗いていたが、十次兵衛はその姿が庭先の手水鉢に映っていることに気づく。夫の目線に気づいたおはやは慌てて天井の引窓を閉めて光を遮り、夜になったので引窓を閉めたと言う。だが、十次兵衛が夜こそ自分に任せられた時間と立ち上がるので、おはやは慌てて引窓を開ける。

夫婦の様子を見ていた老母は、十次兵衛の前に手箱から取り出した金の包みを置く。それは彼女が檀那寺へ差し上げ永代経を読んでもらうために兼ねてから貯めていた金だった。老母はその金で濡髪の姿絵を売って欲しいと頼む。それを聞いた十次兵衛は両腰を投げ出し、刀を帯びていなければ今まで通りの八幡の商人・与兵衛なので、望みの品を譲ろうと言う。そして、鳴り響く暮れの鐘の音を聞くと、八幡から河内への秘密の抜け道をつぶやいて、「詮議」へと出かけていく。

十次兵衛が出ていくと、始終の様子を聞いていた長五郎が飛び出てくる。長五郎は十次兵衛を追いかけて彼の縄にかかると言うが、老母が引き止める。長五郎が牢に入る覚悟はわかっていた、しかし十次兵衛の心遣いを無にする気か、親への孝行に逃れられるだけ逃げて欲しいと泣き叫ぶ母に、長五郎も思いとどまる。おはやは姿の目立つ長五郎が逃げるには姿を変えなければいけないと言い、母は目立つ前髪を剃り落とそうと言うが、長五郎は命惜しさにやったと言われたくないと断り、やはり十次兵衛へ突き出して欲しいと願う。それを見た母が剃刀を取り出して自害しようとするので、長五郎は観念して母の言うことに従うのだった。

こうして長五郎の前髪は母の手によって剃り落とされ、元服するが、彼の右頬の黒子はまだ目立つ。これをなくせば人相は大きく変わるが、亡くなった父譲りの黒子まで剃り落とすのは心苦しいと涙する母。おはやと母が濡髪に取り付いて嘆いていると、外から「濡髪捕った」と声がかかり、濡髪に何かが打ち付けられる。見ると彼の右頬の黒子は潰れてなくなっており、床には先ほど十次兵衛が受け取った母の金の包みが落ちていた。その表書きには「路銀」と認めてある。母とおはやは十次兵衛の心尽くしに表を拝む。しかし、長五郎はいよいよ思いつめ、母の手で縄にかかりたい、そうでなくては亡くなった夫・十次兵衛へ義理が立たないと懇願する。

長五郎の心からの言葉に母は思いを改め、昼間に長五郎を一度は庇って実の子を慈しみ、いま夜になって継子の十次兵衛への義理を立て、両方の父親への言い訳もできたとして、引窓の引き縄で長五郎を縛る。老母の「濡髪長五郎召し捕った」の声に、与兵衛が駆け入ってくる。与兵衛はお手柄と言って長五郎を受け取ると、おはやに今の時刻を聞く。おはやは何の気なしに夜半になるかと答えるが、与兵衛は先ほど7つ半(午前5時ごろ)の鐘が鳴ったと言って、引窓の引き縄を切ってしまう。引窓はあいて月の光が室内に差し込み、長五郎は解放される。与兵衛は夜が明ければ十次兵衛としての役目は終わる、今日は放生会だとして、長五郎を送り出す。老母とおはやは与兵衛の心遣いに手を合わせ、長五郎は与兵衛に感謝しながら旅立っていくのだった。

ロジックの仕掛けが多く、話を説明しはじめると長くなってしまうが、基本的に軸はシンプルで、長五郎への母の慈愛、十次兵衛の心遣いを描く内容。いかにも芝居らしい展開。
プログラムの児玉竜一さんの解説に「今以上に養子縁組が多かったと思われる江戸時代にあって」とあったけど、養子関係については、むかしの映画を観ていても感じる。いまは、家族=血縁であることが伝統的で当たり前と思っている。しかし、ほんの数十年前までは「家族」のかたちがたくさんあって、血縁以外で結ばれた「家族」がたくさんいて、いまとは「家族」の感覚そのものがだいぶ異なっていたんだろうなと思う。そして、近代、近世、その時代時代でまた違っているのだとうなと想像した。

 

それはそうと、誰!?!?!?!?!?!??!?(2回目)
こっちがコッテリきたか、十次兵衛……。
勘十郎、やりすぎやろ!!!!!!!!!! おいしい役をおいしくやりすぎというか、玉志サンとは違う意味で異次元にいきすぎてて、また鬼のようにクセが強いやつ出よったな、と思った。

勘十郎さんて、動かし方として、女方みたいに立役を遣うよね。そういう首の捻り方はしないんじゃないか、というような極端な演技。十次兵衛の本来の眼目(世話物的な町人と武士の行き来のテイスト)を超えて、重苦しい演技そのものが目を引く。勘十郎さんはいろいろな談話で人形を「つい動かしたくなる」と語っているが、この手のセオリーを外した芝居は、意図的にやっていると思う。つまり、歌舞伎のように役者主体でやりたい、個人の特殊性を売りにしたいということなんだろうなと想像している。

勘十郎さんからは、もう何をどう頑張っても追いつくことはできない師匠世代とはまた違ったことがやりたいという強い願望を感じる。
いま現役の人が、実力そのもので簑助さん、あるいは初代吉田玉男師匠といった師匠世代に追いつくことは不可能だろう。そのために、切り口を変え、役者主体的な志向に行こうとしているのではないかと思う。単なる目立ちたがりや、人と違うことをしたいという願望を超えた、得体の知れない執着心を感じる。一種の妄執だと思うが、妄執であるがゆえに惹かれるものがある。
勘十郎さんは、ご自身の体力があるうちに、その理想をどこまで達成することができるのか。
それには、ご本人の体力や年齢だけの問題ではなく、文楽業界と社会の関係性による面も大きいと思う。でもどのみちもうチャンスはいましかない。
以上、いろいろ書きましたが、全部私の思い込みです。

 

勘壽さんの老母役は本当に素晴らしい。
清楚な品があり、決して豊かとはいえない田舎暮らしをしていても、本来の端正さが匂う。それでいて、息子のためには全てを投げ打つことができる情熱がある。どんな環境にあっても誇り高く生きる人という、人形浄瑠璃の描く人間としての理想の姿が描かれているように思う。「どれだけ歳を重ねても身も心も背筋がしゃんと伸びた人」を描写できるのは、すごいことだ。
老母は、一本気な濡髪が自首すると言い出したとき、宙をもがくように手をゆらめかせていたのが印象的だった。

 

「難波裏喧嘩」では濡髪は爽やかだと書いたが、「引窓」に入り、母の家の中に入って座った姿勢になると、かなりシッカリした演技になる。
ここを観ると、玉志さん、以前に比べて人形がどっしりしたなと思う。とはいえ単なるデカブツではなく、瑞々しく柔らかな雰囲気がある。肩から二の腕にかけての、弧を描きながらしなやかに落ちていくラインが美しかった。クマ系ではなく、ものすごくデッカい気品のある猫科動物がシッポを体に巻きつけてお行儀よく座っている的なものがある(猫飼ってる方ならわかっていただけるはず!)。
母に十次兵衛へ突き出して欲しいと懇願するところでは、いままで以上の肚の重さ、気迫があり、良かった。もうひと押し! 平生清楚にしてるんだから、ここぞというときにしっかりアピールすれば、主人公としての懸命さももっと伝わるっ! と思った。

濡髪は老母に前髪を剃ってもらい、元服する。どうやるのかなと思ったら、前髪とサイドの一部が外れる仕掛けになっており、老母が濡髪の背後に回って剃刀を当てる際、根元から剥ぎ取る(身も蓋もない言い方)というものだった。そこは勘壽さんがうまいのでいい感じになっていた。
一度、このくだりになる前に、サイドに束ねた髪の仕掛けが外れてしまって頰に長く垂れ、濡髪が前髪パラリ状態になった日があった。シケがある人形とかそういうレベルではない束状態で垂れたため、なんというか、往年の時代劇の二枚目というか、大衆演劇のスタアというか、宝塚の男役みたいになっていた。うーん、玉志サン持ち前のキラキラが大増幅され、文楽の次元を超えた状態になっていた。濡髪の左の人は直そうとしたが戻せず、気づいとらんの玉志だけ状態でソワソワしたが(違和感があったのか、後で気づいたご様子)、髪を剃るくだりで勘壽さんがなんとなくうまくごまかしてくれたので、良かった。
濡髪が持っている革の煙草入れはドンキで売ってそうな感じだった。玉志サンの濡髪は、ドンキ行かないと思いますが……。たぶん、『冥途の飛脚』の八右衛門とオソロのやつだな。

 

勘彌さんのおはやは前歴のある訳アリ感がむんむんで、良かった。出てくるときのおてて拭き拭きまでエロ可愛かった。この調子では八幡の里大炎上であろう。『丑三つの村』始まってまう。勘彌さんの人妻は良い。

 

靖さんは立ち上がりのところの低音の不自然さが緩和されていて、良かった。全体の調音そのものを上げているのかもしれないが、どうしても低音が出ないという無限ループを抜けられたのかな。

 

今回の上演部分は、やたら人形人口が多かった。三人遣いの役にも関わらず、一瞬出てきて即いなくなる、いかにもどうでもいい顔でどうでもいい行動しかしない「どうでもいい〜」って感じのキャラが6人も出てきたのが衝撃的だった。どうでもいい奴らですが、一応、端敵(郷左衛門)、有衛門(小団七)、市(端敵)、三(端役)、丹平(陀羅助)、伝蔵(与勘平)と、顔の区別がつくようにしてありました。つきませんでしたが……。

あとは、段の名前にもなっている「引窓」、江戸時代の日本家屋にも天窓みたいなものってあったんだーと思った。(まったく中身のない感想)

 

 
 
 
 
 
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  • 義太夫
    難波裏喧嘩の段
    豊竹希太夫/鶴澤清馗

    八幡里引窓の段
    中=豊竹靖太夫/野澤錦糸
    奥=豊竹呂太夫/鶴澤清介

  • 人形役割
    平岡郷佐衛門=桐竹勘介、三原有右衛門=吉田玉路、山崎与五郎=吉田簑太郎、藤屋吾妻=吉田玉誉、濡髪長五郎=吉田玉志、放駒長吉=吉田玉翔、下駄の市=吉田簑之、野手の三=吉田玉峻/吉田玉延、女房おはや=吉田勘彌、長五郎母=桐竹勘壽、南方十次兵衛=桐竹勘十郎、平岡丹平=吉田文哉、三原伝蔵=桐竹紋秀

 

 


もう、みんな、自由に生きてくれ……。
みんな違って、みんないい……。
って感じの第一部だった。

「引窓」は、濡髪より十次兵衛を格が高い人がやる暗黙の了解があるというのは抜きにしても、率直に言って、玉志サンと勘十郎さんで、役が逆なのだろう。
ヒーロー然として脂っこいキャラが望まれる濡髪は勘十郎さん、凛々しく颯爽としたキャラの十次兵衛は玉志サンがやったほうが、浄瑠璃に描かれた本来のそれぞれの特性に適合する。
でも、それがひっくり返ってるのは、偶然とはいえ、芝居の雰囲気として面白みが出ている。この配役だと、母への気遣いからだけでなく、若く一本気な濡髪を助けたいと思う、世間を知った大人の十次兵衛の気持ちにシンプルに共感できる。浄瑠璃の上での十次兵衛の行動そのものは予定調和のよくあるテンプレだけど、なぜ十次兵衛は、濡髪をかばおうと思ったのか。文章以上の色彩が出てくるのが、良い。

 

 

 

*1:これ書いちゃうともう誰のことだかわかっちゃうとは思いますけど、ご本人が嬉しそうというか、ものすごいスマイルなのもいいよね。出てくるときに嬉しそうな場合と、翁が退出したあと真ん中に出てくるときに嬉しそうな場合と、籾の段を踊り出したときに嬉しそうな場合があるのも最高に面白かった。なんやねんその嬉しさタイミングのムラ。