TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 12月東京公演『源平布引滝』竹生島遊覧の段、九郎助住家の段/鑑賞教室公演『団子売』『傾城恋飛脚』新口村の段 シアター1010

今年の12月公演は北千住の劇場「シアター1010」(足立区芸術文化劇場)で開催。
会場は、駅すぐ横の商業ビル(マルイ)の最上階に入っている。ビルの11階ゆえにエレベーター待ち等にかなり時間がかかるため、駅直結といっても結構早めに行かなくてはならないのがやや難点か。ビル外壁に掲示されているイメージキャラクターを見た方が「御器被り?」とおっしゃっているのが良かった。普段は一般演劇や、2.5次元舞台などが上演されているようだ。

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「シアター1010」はマルイの外観自体に比べるとかなり古ぼけていた。わかりづらい動線・フロア構成やグレイッシュな雰囲気など、平成の景気が良かった頃にできたのかなという風情。ロビーや周辺設備は古い印象だが、ホール内自体は改装がされているのか、わりと新し目。壁面のブロック装飾は最近よくあるモダンデコラティブだったが、謎にゴージャスなカーテン飾りが張り巡らされているなど、やりたいことが混在した装飾過剰がちょっと不思議だった。
コンサートホール等ではない、いわゆる「普通のホール」のため、客席には強い傾斜がついていた。「座高が高い人、前のめりの人、頭盛ってる人が前列にくると本日終了」という最悪状況が回避できるので、これ自体は良い。ただ、傾斜がものすごいので、最後列付近だと、おそらく人形遣いの足元が見えるのではないか。地方公演横浜会場の神奈川県立青少年センター(紅葉坂ホール)くらいの傾斜だった。人形遣いの足元が見えるといえば、会場自体は2階席もあるが、一般販売は1階席のみで、2階は関係者席としているようだった。
なお、1階前方席、左右ブロックは舞台中央に向かってフリがついているという「ゆるコの字カッコ(\__/)」風の椅子配置だった。

 

観劇環境を総合的にいうと、「地方公演の中でも良い会場」という印象。
本舞台は、国立劇場とほぼ同等の間口、なのかな。舞台の元々の高さが低いことに加え、手すりの高さを下げるなどして、客席から人形「見上げ」になりすぎないよう配慮が施されていた(大道具等の配慮については、清十郎ブログ参照)。照明は地方公演に比べて圧倒的に良く、本公演同様。地方公演では人形の顔に不自然な強い影が落ちることが多いけれど、本公演としてきちんと組んでいるということなのか、人形の顔や衣装に光が周りきり、自然な印象だった。また、地方公演だと、大道具を舞台のかなり奥に組んでいるでいで距離感を感じることがあるが、この会場では比較的「前のほう」に舞台が組立てられていて、演技が客席から遠いという違和感のある構造にはなっていなかった。

音の聞こえは良好。反響がやや強く出るので、三味線の小さな音にブレが出るというのはある。けれど、音域の脱落といった聞こえ方そのものの歪みはない。今回観劇した前方席に限った印象ではあるが、太夫の声も十分行き渡っているように感じた。
床は客席に大きく張り出して造り付けがされており、本公演同等、盆が回る形式だった。国立や文楽劇場より高さが低く、客席からみると、ちょっとしたバーカウンターのようになっていた(?)。

あえて欠点を挙げると、人形の足拍子の響きは、悪い。低音が飛んで、均一化している。客席が振動するほどに踏んでいることは本公演と変わりないのだが、会場舞台そのものが「演出として大きな足音を立てる」という伝統芸能用の設計になっていないからだろう。足拍子の踏み分けが曖昧な人というのがいるが、そこに輪をかけてなんでもいいから強く踏むという傾向が強まっていた。もちろん、足拍子の「下手」は師匠や主遣いの監督責任だと思うけれど、やり方を考えていかないと、足拍子の聞かせ方が崩壊していきそうだなと思った。

 

細かい設備の話でいうと、字幕は本舞台上部に横書き表示で出ていた。なめらかな文字表示が叶うモニタ式ではなく「電球の集合体」系で、ドットが目立って読みづらかった。いや、自分自身は字幕一切見ないので別にいいんですけど、明らかに初心者が多い学校観劇主体の公演で、なぜ、地方公演より粗悪な字幕なの……???? Gマークくんを、かりたほうが、いいんじゃない……?????
また、売店(文化堂や菓匠文楽)は出店がなく、イヤホンガイド貸し出しとプログラム販売が1つの長机で一括して行われていた。動線がめちゃくちゃなことになっていたが、プログラムとイヤホンガイドで机を分けたほうがいいと思う……。結局、2列整列になるんだし……。

 

この会場との比較で、「ああ国立劇場小劇場はいい会場だった」と感じたのは、ロビーの設計。国立劇場小劇場のロビーは、ホール出てすぐの広いワンフロア設計で、どこからもロビー内すべてを見渡せるようになっていた。これは、観劇前後に歓談するのにぴったりの設計だったんだなと思った。チケットを連番で取って一緒に観劇するとか、事前に約束をしているとかしなくても、知人を見つける機会が多かった。「あ!XXさん!来てたんですか!」という「偶然」が誘発され、挨拶や話ができたのは、あの設計によるものだったんだな。



 

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本公演、源平布引滝。

例年の12月本公演は、上位の技芸員を抜いた状態のメンバーで時代物の大作の半通し公演を行うというチャレンジ企画。多少とっ散らかろうが、スベッていようが、浄瑠璃の持つドラマのダイナミックさと、それに翻弄される出演者の頑張りを見られる公演として楽しみにしていた。
ところが、国立劇場開催でなくなったためなのか、普通の見取り上演に。見応えとしては、かなりのパワーダウンである。これだと、チャレンジ配役であることが上演クオリティにそのまま跳ね返ってしまうのではと思ったが、少なくとも人形は、堅実に成立していた。

 

斎藤実盛は玉志さん。玉志さん持ち前のクールな雰囲気と透明感、誠実さが役へ非常にマッチし、浄瑠璃で描かれる人物像、そして人形の姿かたちそのままの、颯爽とした実盛に仕上がっていた。実盛という役の持つ知的さと玉志さんの人形の知的な佇まいが一致していたのが良かった。思ったよりもピリピリはしておらず、クールさはありながら柔和な物腰が印象的だった。

凛々しさは、いわゆる「物語」、および、段切に騎馬になる場面で、よく活きていた。強いメリハリをつけた構成で、平静な場面は抑えめの処理となっていたため、物語と段切の華やかさが鮮やかに立っていた。
物語は、「陣屋」(一谷嫰軍記)の熊谷直実役を経たからこそのものだったと思う。印象的なのは、メリハリのついた立体的な所作。肩や上体の傾けといった人形の所作における奥行きが意識された芝居だった。肩の動きといえば女方のそれ(特に落とし方による色気表現)が芸談や劇評で語られることが多いが、立役も肩による奥行きの表現ができるできないで、観客へ与える印象がまったく変わってくると思う。物語というと、わかりやすい身振り手振りに注目が集まりがちだが、目線が語るものも大きい。目線を浮かせて「天地」、とか、中空を見回して「霊魂が漂う」、といった、彼の感じた周囲の様子をあらわす表現がしっかりしていた。彼の語るものが演技としてくっきりと眼前に現れているのが良かった。この点においては、玉男さんより明らかにうまいと思った。
「お?お?意外???」と思ったのは、小まんの腕を打ち落とすくだりの語り。実盛の物語は、「陣屋」での熊谷の物語とは異なり、当時の状況を忠実に再現していると言われている(プログラムにもそう書いてある)。しかし、玉志さんは必ずしもそうはしていなかった。小まんの腕を打ち落とす部分、「竹生島遊覧」では、「宗盛の御座船というごまかしがきかない重要な場所に、源氏の白旗を持った女が突然出現してしまい、この緊急事態を一気に片付けるにはどうしたらいいか、一瞬で判断する」といった演技の流れにしていた。具体的には、小まんが白旗を掲げた瞬間に目線が定まっており、すでに彼女の腕を切り落とす決意をしている/実際に即座に打ち落とす演技になっていた。その動き自体に躊躇はなく、即座に刀を振り下ろしており、白旗(腕)が湖に落ちたところで初めて当惑の感情を示す。しかし、この「九郎助住家」で語られる物語では、小まんの腕を切り落とす際、一瞬の躊躇が滲んでいた。また、刀を振り下ろしたあとの表情は震えており、それは「陣屋」の熊谷が敦盛(実は小次郎)の首を切り落としたことを語る部分と同じ演技になっていた。「竹生島遊覧」は、平家の忠臣としての仮面を被った源氏の忠臣としての実盛、「九郎助住家」では、一人の人間としての実盛……、小まんを血の通ったひとりの人間として扱っているという描写になっているのだろうか? かなり細かい演じ分けだ。同じエピソードが前場、間狂言後場で何度も再話される能だと、こういった客観/主観の微細な描写の違いを見ることができる演目も多いが、文楽でやる人は珍しいなと思った。*1

段切で実盛は馬に飛び乗り、大人になったのちの太郎吉との再戦を約する。その際、九郎助が「太郎吉が大人になる頃には、貴方は白髪で皺顔の老人になっており、誰なのかわからなくなるだろう」と告げる。これを聞いた実盛は、脇差を少し抜き、そこに自分の顔を写し見る。刀に自らの姿を写す演技といえば『祇園祭礼信仰記』「金閣寺の段」段切の雪姫の身繕いのくだりが有名だが、男性でもやる役があるのね。これ、玉男さんはやっていなかったはず。玉志さんは誰を真似してやってるんだ? いままでの傾向をみるに、玉志さんは師匠・初代吉田玉男の最終形(最高レベル状態)を参考に演じている場合が多いので、初代玉男の芸談を収録した『文楽藝話』(日本芸術文化振興会/2007)を確認してみたが、「実盛が脇差を抜いて己が姿を映して見るしぐさを入れる人もありますが、私はやりません」となっていた。初代玉男は公演によって演技を変える場合も多いので、「私はやりません」がそのインタビューが採録された時点の話なのか、生涯一度たりともやらなかったのかはわからない。なお、初代吉田栄三の人形演技が記録されている大西重孝『文楽人形の芸術』(演劇出版社/1968)では、特記なしだった。
玉志さんの場合、すらりと凛々しい印象から人形が大変な美男子に見えるのと、颯爽として若々しい雰囲気が非常に強いため、刀に写した自分の姿を見る演技はかなり似合っていた。逆にいえば、玉志しかできん、と思った。さらにこのあとの「老武者の悲しさは軍にしつかれ風にちゞめる…」の部分も演技が別れるところ。玉志さんは手綱を引いて、両手を身体の中央につくような所作だった。自分に似合う演技を選んでいるのかな。

最後、実盛は騎馬状態で扇を掲げ、スラリと伸び上がる。胸の張り方が非常に美しく、男装の麗人的なファンタジックさがある。オスカル様状態。そこで馬も一緒にスラリと伸び上がってるのが、めちゃくちゃ良かった。お前いままでたいして伸び上がってなかっただろ。
実盛は騎馬状態になる場面が非常に長いからか、移動をしない場面では、人形遣いは舞台上にしつらえた台(いわゆる箱馬的なもの)に乗っての演技をしているようだった。騎馬シーンのある役は、普通は人形遣いが高い舞台下駄をはいての演技になるところだが、足元の悪さから、どうしてもフラフラしがちだ。箱馬の上だと人形の姿が非常に安定し、姿勢がすらりと見えて、良い。玉志さんは、身長的に、騎馬状態の武将役は厳しい。特に馬が歩いているときには人形が提灯になりがちで(胴体が潰れて縮こまってしまう)、どうしようもないとはいえ、改善の方法を考えられないのかと思っていたが、動かないなら、この手があるか。他の役でも、ある程度静止するなら、このやりかたがいいと思う。というか、誰が実盛をやるにしても、このほうが安全だし。
あと、玉志さんて、お辞儀するときに、女方のように両手をちょこんと綺麗に揃えて頭を下げますよね。この実盛でも、「竹生島遊覧の段」で宗盛に挨拶するときとか、そうしていた。*2。そんな玉志実盛が乗っている馬も、偶然ながら両手(両前足)を手すりにちょこんと綺麗に揃えて立っていたのが、めちゃくちゃ良かった。玉志と馬のセットで、無限に笑えた(クソ失礼)。馬役の方、お疲れ様でした。

 

人形は、実盛だけでなく、小まん、九郎助、ママ、太郎吉、葵御前、いずれも良かった。

小まん〈吉田清五郎〉はごくわずかな出番しかないけれど、清楚でスラリとした佇まいがよく表現されていた。田舎の美人おかあさん感がある。

九郎助〈吉田文司〉は非常に良い。田舎の普通のおじいさんという九郎助らしさがある。やや弱々しい印象なのが、良い。権四郎(ひらかな盛衰記)や孫右衛門(傾城恋飛脚)、弥左衛門(義経千本桜)のようなひとかどの人格者や地域のリーダー「ではない」、普通の老人らしさがしっかりと表現されているというのは貴重で、また、浄瑠璃に対して正確、誠実である。非常に文司さんらしい役だった。

非常にゆったりとした所作が印象的なママ〈吉田文昇〉は、舞台の「空気感」を牽引していた。冒頭ののれんからの出など、目を引くほどのゆっくりさだ。老衰しきっているからノロノロ動いているのではなく、彼女がそういったゆったりした所作の人であるという、人形が「その人物の時間」を生きている感がある。所作のペースが「段取り」になってしまう人も多い中、よく「彼女」のペースを保って芝居をし続けたなと思った。
ママは実盛に「生まれた腕」を渡すとき、
しっかりと彼に目線を合わせ、受け渡しの手で意思を通じ合っているのも良かった。一瞬だけど、とても、意味のある演技。

太郎吉〈吉田玉彦〉は、いかにも「デッカイ子供」って感じの可愛らしさだった。腕を大きく伸ばす動きが多い太郎吉は、「大元気、かつ健気に腕を振り回す子供」といった風情。子供の体格のイメージを逸脱した、無理に腕を引っ張るような遣い方をしていないのは、上手い。これ、ネガティブチェックに聞こえるかもしれないですけど、人形自体の体格を考慮しない単なる振り回しをやらかしちゃってる人って、いわゆる中堅やベテランにもかなりいるので、若いうちからそれを「しない」というたしなみを身につけているのは、すごいことだと思う。誰かが教えているのか、自分で気づいたのか。
太郎吉は、周囲に対してちゃんとリアクションしてたのも良かった。ママを殺された!と思って実盛に挑みかかろうとするも、実盛に見つめられて、ちょっとびびる、けど、ちゃんと勇みなおすのとか。
それにしても、でかいお子様だった。どでか感は、良かった。

葵御前〈桐竹紋臣〉の生命力を感じる清楚さも良かった。この手の役は文昇さんも得意だと思うが、お香の薫りのしそうな幽玄な文昇さんの老女方とは異なり、紋臣さんの葵御前は、「生き物」感があるのが良かった。葵御前は途中で出産する役ということもあり、人形が虚像となっていないのは、良い。

仁惣太〈吉田玉翔〉は、悪くはないが、ご本人が思っているよりも軽薄な見え方になっているのではと思った。もうちょっと重量感がある所作の方が良いような。いかにも、わたでできたふわふわちゃんです!!っていう動きになっていた。高望み?



床は、頑張っているのはわかる。しかし、これだと、「わかるところ」「やりやすいところ」を思い切りやった、で終わっている状況だよね。端的にいうと、全体から逆算した整理ができていないため、どこがドラマの強調点なのかわからない。なんでもいいから絶唱すればいいというものではない。やりたいところだけをやった結果、実盛の人格描写に著しく欠けることも気になった。
もちろん、自分がやりたいところだけ思い切りやればいいという選り好みなく、浄瑠璃の流れに沿った描写をしている方もいる。たとえぱっと聞きが「派手」でなくとも、そのような人を支持していきたい。
三味線は締まってなかった。締めて🥺 ていうか、やたらミスってるとか、音が変な人いたけど、なんなんだ。稽古しとらんのか。はじめは会場の音響が悪いのかなと思ってたけど、勝平以降は普通だったし、なんなんだ。

 

話は逆順になるが、「竹生島遊覧の段」は、道頓堀でドンブラコしとる観光船かいという状況になっていた。プログラム(今月から1000円!!!!!!!!!)によると「優雅な場面」と解説されているが、優雅さゼロ。琵琶湖はどでかいせいか意外と波が高く、竹生島行きの船に乗るとぐわぐわ揺れるし、なんなら風速5m程度を超えると欠航するので(本当)、ドンブラコ感は事実に基づいているのかもしれないですが、なにはともあれ平家の貴公子の乗っている御座船なので、品がいると思った。

ちなみに、人形も道頓堀化していた。地蔵化している宗盛、目をあけたまま寝かけている飛騨左衛門、盃を一気飲みする実盛。誰かなんとかしてくれ。(実盛については、玉志よぉ〜妹背山の鱶七もだけどさぁ〜酒飲む役で一気飲みしすぎなんだよぉ〜自分のペースじゃなくて「人形のペース」で飲んでくれよぉ〜と思っていたら、会期後半には、一応、治った)
小舟に乗った実盛が宗盛の御座船に近づいてくるくだりは、良かった。玉男さんが実盛だと、実盛のゴジラレベルのクソデカさに「そんなコッパ舟、沈没するだろwwwwww」と毎回指差して笑っていたのだが(クソ失礼2)、玉志実盛は玉男実盛より体重が20kgほど軽そうなため、安全航行に見えるのが、良かった。
あと、途中で来る人(塩見忠太)が亀次さんなの、笑ってしまった。「義賢館」出さないなら、いらないだろこいつ、感がすごい。しかし、今月、玉也さんも玉輝さんも休みなのに、亀次さんは、出てるの?

 

 

 

  • 義太夫
    • 竹生島遊覧の段
      竹本小住太夫/竹澤團吾
    • 九郎助住家の段
      中=豊竹亘太夫/鶴澤清𠀋
      次=豊竹希太夫/野澤勝平
      前=竹本織太夫/鶴澤藤蔵
      後=豊竹芳穂太夫/野澤錦糸

  • 人形役
    宗盛公=桐竹勘次郎、飛騨左衛門=桐竹紋吉、斎藤実盛=吉田玉志、船頭=吉田玉峻、娘小まん=吉田清五郎、塩見忠太=桐竹亀次、矢橋仁惣太=吉田玉翔、葵御前=桐竹紋臣、倅太郎吉=吉田玉彦、百姓九郎助=吉田文司、瀬尾十郎=吉田玉助、庄屋=吉田玉延

 

 

 

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鑑賞教室公演、団子売と、傾城恋飛脚・新口村の段。

Bプロが大変素晴らしかった。新口村、登場人物それぞれの、至極普通の人の普通の情動が限りない純粋性を持って表現されていた。

まず、人形・床を総合したすべての出演者の力によるものとして、しっとりとした大和の雪の情緒が描き出されていたことが、良い。青森とか北海道のような北国の硬い粉雪ではなく、本州のまんなからへんで降る、ちょっと湿度を帯びた、涙に湿ったような雪。ロマンチックにではなく、ゆっくりと、重々しく降る。降り積もった雪は音を吸収し、あたり一帯はシンと静まり返る。ごく間近にいる人の声しか聞こえない、人形たちの密やかな会話。観客にはなぜかそれが聞こえている……。そんな情景が舞台上に出現していた。『傾城恋飛脚』の「新口村」の最大の特徴は、この雪である。改作前の近松作『冥途の飛脚』の「新口村」ではみぞれの設定のはずなので、それよりも白さと寒さを感じさるファンタジーの世界に染め上げつつも、原作にあった湿り気を持たせているのは、この演目にふさわしい。
物語の始まりと終わりで、雪の降る速度や量が変わって聞こえるのも、良かった。そういえば、この会場、雪が無音で降るな! 国立劇場だと、「カサ!カサ!」という音が興醒めレベルに大きく聞こえていたのに! その点は、いい会場だな!!

勘彌さんはやはり梅川が似合う。こういう子いそう。というのが、良い。外見的には巻き髪で派手ネイル、高価な服飾品を身につけているのに身だしなみに品がないせいで全部が安っぽく見える子、なんだけど、内面は純粋で真面目な良い子というのが滲んでいる……という感じがする。ハンギョドンの絆創膏を数枚ポーチの中に忍ばせていて、道ゆくこどもがコケて怪我をしたら、そっとそれを差し出してくれそうなんだよな(実際に差し出すのは白い延紙だが)。孫右衛門と梅川のやりとりでは、二人が取り交わす「紙」に意味があるが、その演技がわざとらしくないのも良かった。

玉佳さんの孫右衛門は、玉佳さんらしい温かみのある姿。玉佳さんって、ちいかわでいうとシーサーだと思うけど、シーサーがおじいちゃんになったみたいな感じがするんだよね。ものすごくしっかりしていて、大人で、立派で、健気なんだけど、どこか脆いところがある感じ。そういった人柄が、よく考慮された芝居と一体化していて、絶妙のバランスでもって「孫右衛門」という人物を描き出していたと思う。孫右衛門って、ちょっとしたことの積み重ねでしか表現ができない人柄を持っているよね。どういうふうに出てくるのか? どういうふうにこけるのか? どういうふうに梅川に助けられるのか? どういうふうに「もう大丈夫だから」というのか? 忠兵衛への想いを口にするよりも前にあるこれらは、彼の「情に脆い父」以外の人格を描き出す上で、とても重要。玉佳さんの孫右衛門はここがしっかりしているから、忠兵衛を抱きしめるくだりや、段切で遠ざかりゆく息子夫婦を見送って雪の中を彷徨い出るところも、絵になるのだと思う。

太夫さんは「新口村」当たり役。情緒に富んだ、というか、情緒しかない、それに振り切った世界が存分に表現されていた。本当はそちらに流れていってはいけないはず、だが、しかし、それゆえの人間らしい感情の横溢があった。

 

Bプロは解説〈吉田簑太郎〉も良かった。「新口村ってどこ?」「飛脚屋ってどういう仕事?」という、現代に鑑賞するうえでの、かの時代との接点を話しているのが良かった。

『団子売』の人形〈杵蔵=吉田文哉、お臼=桐竹紋秀〉も夫婦らしく愛嬌があり、落ち着いてこなれた雰囲気もあって、好ましかった。紋秀さんはやはり客席に向かって愛嬌振り撒いてますね。この演目だけでしかできない演技。

 

 

Aプロ「新口村」は、残念な状態だった。本人にとって初役だとか、師匠もやったことがない役だとか、決してハマり役ではないとか、いろいろと「理由」を見つけることはできる。しかし、「新口村」は近年何度も出ている演目だし、そもそもが文楽の定番中の定番演目だ。『源平布引滝』は「まあまあそんな腹立てず、若気の至りということで」と言える部分もあるけれど、この芸歴の人たちでこの状況でこれだと、いくら「チャレンジ配役だから」といっても、もう少しやるべきことはあっただろうと思う。芸歴30年ではすまない人たちが出ていてこれは、ないんじゃない……? ここまでBプロと落差が出るとは思わなかった。
ひとつだけこれは確実に軌道修正が必要だと感じる点を述べる。人形も床も、すべての間合いが均一化しすぎ。「情緒」、平たく言えば、「表情」が消えている。人形はスタスタ歩いてはいけないし、床は文章をスラスラ読んではいけない。「新口村」は、スムース「でない」ことが要点となる演目だと思う。

 

これは配役グループ関係ない話だが、ここまで頻繁に「新口村」が出ていると、人形の演技が飛んだときにはすぐにわかる。「間違い探し」「答え合わせ」のために観劇しているのではないし、別に常に何もかもを定型に忠実にやるべきとまでは言わないが、重要な演技が飛んだり、そのタイミングがおかしかったりするのは、気をつけましょう。と思った。特に、「その人物が、他者に対して、どう感じているか」を示す演技は、飛ばしたり、適当に思いついたタイミングでやるのでは、いけない。と思った。

 

[Aプロ]

  • 『団子売』
    • 義太夫
      お臼 豊竹咲寿太夫、杵造 豊竹薫太夫、竹本織栄太夫/鶴澤寛太郎、野澤錦吾、鶴澤藤之亮
    • 人形
      お臼=吉田簔一郎、杵造=吉田勘市
  • 解説
    豊竹亘太夫/鶴澤清公
  • 『傾城恋飛脚』新口村の段
    • 義太夫
      口=竹本碩太夫/鶴澤清允
      前=豊竹靖太夫/鶴澤清志郎
      後=豊竹呂勢大夫/竹澤宗助
    • 人形
      忠三女房=吉田簑太郎、八右衛門=吉田和馬、亀屋忠兵衛=吉田玉勢、遊女梅川=吉田簑二郎、水右衛門(黒衣)=吉田玉路、伝が婆(黒衣)=吉田玉延、置頭巾(黒衣)=吉田玉征、藤治兵衛(黒衣)=豊松清之助、道庵(黒衣)=吉田玉彦、親孫右衛門=吉田一輔、捕手小頭=桐竹勘介

[Bプロ]

  • 『団子売』
    • 義太夫
      お臼 竹本南都太夫、杵造 竹本聖太夫、竹本織栄太夫/鶴澤友之助、鶴澤清公 鶴澤清方
    • 人形
      お臼=桐竹紋秀、杵造=吉田文哉
  • 解説
    吉田簑太郎
  • 『傾城恋飛脚』新口村の段
    • 義太夫
      口=竹本聖太夫(前半)豊竹薫太夫(後半)/鶴澤燕二郎

      前=豊竹睦太夫/鶴澤清馗
      後=豊竹藤太夫/鶴澤燕三
    • 人形
      忠三女房=吉田玉誉*3、八右衛門=吉田簑之、亀屋忠兵衛=吉田簑紫郎、遊女梅川=吉田勘彌(12/5?休演、代役・吉田簑二郎)、水右衛門(黒衣)=吉田玉峻、伝が婆(黒衣)=吉田簑悠、置頭巾(黒衣)=桐竹勘昇、藤治兵衛(黒衣)=吉田和登、道庵(黒衣)=桐竹勘介、親孫右衛門=吉田玉佳、捕手小頭=吉田玉路

 

 

 

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『源平布引滝』実盛は当代の玉男さんでしか見たことがなく、どうなるか心配だったが、玉男さんと玉志さんでは、実盛という役に対する考え方が違うんじゃないかなと思った。役に迫るという意味では玉志さんのほうが合っているのかもしれない。玉男さんの実盛は敵か味方かわからないミステリアスさ、不気味さが魅力だけど、玉志さんは、偶然巡り合った在所のごく普通のファミリーに誠実に接し、幼い子供も対等に扱って、最後には一抹の悲しみを漂わせながらも颯爽と去っていくという実盛のキャラクターが綺麗に成立していた。昔、『ひらかな盛衰記』の樋口をやったときも相当に颯爽としていて、物語の流れの不自然さを押し流していたが(樋口の誠実さによって権四郎が絶対に無理なところを折れてくれるという話なので、樋口がいかに誠実に見えるかが重要となる)、こういう役、得意なのかもなぁと思った。『源平布引滝』は正直なところ好みの演目ではないが、少し前向きに楽しめるようになった。

「新口村」は近年何度も出ている演目のため、私の中では「見比べ専用演目」と化してきており、「上手い人は上手い、それなりの人はそれなり」が浮き彫りになってたなーと感じた。「偶然上手くいく」ということはあっても、「偶然下手になる」ということはありえない。これが実力だと思う。偶発性に左右される演出がないような演目は、残酷。

12月公演、全般には、「玉也さんと玉輝さんがいないと、こういうことになっちゃうのね〜」というのが、素直な感想かもしれない。おじいちゃんなので寒い時期はおうちでゆっくりしていてほしいけれど、玉也と玉輝、文楽には、なくてはならないッ。と思った。

 

会場変更については、どのみち、国立劇場の取り壊しが始まっているならともかく、現存しているのに、ここでやるメリットを感じないというのが、私の正直な感想。
毎年夏に「内子座文楽」の公演を行なっている内子座は、来年から長期改修工事に入るため、今年でいったん最終ということになっていた。ところが最近になって、工事を1年延期することになったため、技芸員と協議して、来年も内子座文楽を開催することになった、ぜひご来場をという案内状がきた。そりゃ内子座と東京の本公演では規模は全然違う。でも、前向きに公演開催に取り組むという最も重要な点、そして、顧客に丁寧な説明を行うという誠意において、国立劇場との大きな違いを感じた出来事だった。

 

 

 

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2023年の文楽公演全般について。

今年一番良かったのは、玉男さんが人間国宝に認定されたこと。玉男様の実力は誰もが認めるところだし、なんならもともと特別天然記念物級の傑物だったが、晴れて世に認められる社会的地位となって、良かった。そんな中でも、玉男さん自身は、「今後も3人で頑張っていきたい」と、和生さん勘十郎さんのことに触れてインタビューに答えられていたのが、本当に、良かった。これが玉男さんの良さだよなぁ。いつまでもずっとこのままでいてほしい。本当に。

若手では、この人、良いなと感じていた人は、ますます良くなった。玉彦さんなど、顕著に良くなっている。人形を通じて何を伝えたいのかという意思のあらわれは、芸歴10年強とは思えない。和馬さんも、すべての役に誠実であることが、より一層プラスにあらわれるようになってきたと思う。目がガンギマリしてるのはご愛嬌。
床の最若手4人は、まだどうなるか未知数ながら、ひとつひとつのことば、音に誠実に向き合っているのが、好ましい。その素直さとストレートさをいつまでも忘れないでほしい。

 

ネガティブな点としては、明らかに上演クオリティが落ちたことが残念でならない。昨年末、今後は間違いなく上演クオリティは落ちていくだろうと感じていたが、実際にそうなった。良い舞台もたくさんあったが、「これはないやなぁ」と当惑する公演が顕著に増えた。まったく向上がなく、千穐楽になっても改善のない舞台にも引っ掛かりを覚えた。

『源平布引滝』で触れた、「わかるところ」「やりやすいところ」だけを思い切りやるという傾向は、今年一番気になったことだ。内々の稽古や若手会公演なら、これでいいと思う。でも、本公演の、お客さん入れてやってる舞台でこれはない。今回は終演後、まったく同じ感想を口に出している方が周囲の席にいらっしゃった。こういった声を聞くのは今回が初めてではない。客が疑問を覚えているのに、幹部や師匠が誰も指導していないのかというのが怖い。

上記にもいえることだが、床・人形ともに、「いい役」をもらっているにもかかわらず、この人、何を表現したいのかわからんという人がいるのは、気になる。芸術において、「なにを表現したいのか」という意思を持ち、それを表現しようとすることは、きわめて重要。多少「なにをやっているか」が未完成であっても、「なにをやりたいのか」という意思が伝わることが必要だ。逆に、自分がやっているのは芸術ではなくエンタメだと思って舞台に出ているのだとしたら、それはそれで、「この舞台にどのような印象を受けてほしいのか」というさらに難易度の高い意思とそれを支える技術が必要になる。いまは、それが非常に不明瞭な場合が多いですよね。まずは、自分自身がどのような舞台にしたいと考えているのか、明確になるようにと願う。

 

ベテラン層の体力・気力の著しい減退には、強いショックを受けた。人形をまともに持てないとか、まともに演奏できないとか、いつかそういうときがくるのはわかってはいたが、観客として、辛い。人形のかしらがガクガクしていたり、音がぱらけているのは、若い人なら「なにやっとんじゃスカタン!! でけんのやったらいまの100倍稽古して1ミクロンでも改善せぇ!!」と思えるけれど、この人たちは、もう、改善することはないんですよね。それでもインタビュー等では表面上、「今後も頑張りたい」的な言葉を添えて前向きなコメントをしているというのは、言葉に尽くせない痛々しさと悲しみを覚える。
簑助さんの引退前は、出演・休演が不安定だったり、様子が不安なこともあったけど、「痛々しい」とまでは思わなかった。そう思われる前に、引き際を自分で決めたというのは、やはり、すごいことだと思った。

 

いろいろあるけれど、今年、一番残念に思ったのは、国立劇場閉場および文楽東京公演への日本芸術文化振興会のおさなりな対応である。
私は、国立劇場の建て替え自体には賛成だ。劇場設備の古さは否めなかった。あのままでは、上演や観劇の品質が下がることはあっても、上がることはなかっただろう。しかし、国立劇場「建て替え」のための閉場と言っておきながら、建て替えの見通しが全く立っておらず、しかも、それについて観客へのアナウンスがないというのは、いったいどういうことなのか。なぜ文楽東京本公演はこんなクソ条件での上演でOKだと思っているのか。強い不快感と不信感しかない。世の中全体がどんどん貧しくなっているとはいえ、ほんと、あまりにも終わってると思う。
今回公演で、来場者にアンケートを取り、その謝礼としてプチギフトを配っていたのだが、それがあからさまに売れ残りの歌舞伎グッズなのも、誠意なさすぎだろと思った。モノ自体は悪くはないけど、9月文楽千穐楽のカラの大入袋と同様、客に対して失礼すぎて、驚いた。
いずれも、改善ができないことではないと思うので、改善を、強く望む。



 

 

 

*1:大西重孝『文楽人形の芸術』によると、初代吉田栄三は、「竹生島遊覧」の御座船の段階で、切り落としに躊躇のある演技をしていたようだ。初代玉男がどうしていたかは未確認。

*2:この綺麗な両手揃えの所作は、初代玉男から受け継いだものだと思うが、いまとなっては弟子でもそうしている人は少なく、玉志さん独特のものになっていると思う。たrとえば当代の玉男さんはそうはしないので、普段玉男さんの左についている人が玉志さんの左にくると、惰性?で揃えてくれず、せっかくのお辞儀所作で両手が揃わない事故が起こって、笑える。由良助役のときとかが顕著なんだけど、今回も揃ってなくて、笑った。いや、この方でなくては由良助や実盛の左はこなせないような、大変に上手い方なので、笑ったら失礼なのだけど。

*3:唐突だけど、玉誉忠三女房、やっぱり、お出かけのときはエプロンを帯に挟んでるよね。