TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 3月地方公演『花競四季寿』『冥途の飛脚』『団子売』『菅原伝授手習鑑』府中の森芸術劇場

実に4年ぶりとなった府中公演。今年は無事開催されて、本当に良かった。

 

 

 

府中会場の「府中の森芸術劇場 ふるさとホール」*1は何度も文楽を見たことがある会場ながら、近年、様々なホールを体験したあとで久しぶりに来てみると、気づくこともあった。

この会場の大きな特徴は、ステージのかなり手前側へ人形の舞台(大道具)を立てていること。一般のホールでは、舞台の奥深くへ大道具を立て込み、演技をしている場合が多いと思う。しかしここは客席と人形の距離感が近いので、文楽劇場国立劇場のように、人形の演技を間近で観られる感覚があった。来年度以降、会場が変更になる東京文楽公演でも、できるだけ客席と人形の演技位置を近づけてほしいと思う。

音響はやや素朴。音の厚みが目減りする印象だった。特定の音域が目立って抜けるとか際立つとかはなく、全体的にバランスよく脱落するので、「文楽劇場の、床から遠い席」の感覚。ストレスにはなりにくい。ただ、床付近の席になった場合の、不自然なハウリング的な反響は気になった。こういう会場、たまにあるけど、陰でマイクを入れているのか、構造上の問題なのか。

客席左右に桟敷風の位置高めの席が設置されている会場ながら、今年は上手桟敷は販売していないようだった。下手桟敷は販売。過去の公演では、上手も一部を除いて販売していた気がする。

府中の森芸術劇場は、来年2024年4月から改修のため、1年間の休館に入るようだ。改修後はどのようなホールになるのだろうか。

f:id:yomota258:20230318200638j:image

 

 


昼の部。

『花競四季寿』万歳、鷺娘。
万歳〈太夫=吉田玉翔、才蔵=吉田玉勢〉は、つきあいたての高校生カップルのようだった。そして、「初デートがディズニーランド」状態で、待ち時間90分のアトラクションでこのカップルのうしろに並んでいる人のように、ソワソワした。何やってんだかよくわからないので芝居になるところは目線に注意しなさいとか、所作の末尾の処理を綺麗にしなさいとか、いろいろ言いたいことはあるが、一生懸命生きていることはわかった。一生懸命生きているように見える。人形にとっては、それは一番大事なことです。と思った。

鷺娘〈桐竹紋臣〉は、動きそのものが可愛い。常に浮遊しているという文楽人形の特性をいかした重量感のないふんわりぷりんとした柔らかな動きが愛らしい。
動きが可愛いというのは、女形の芸として強度がある。訴求力が強い。簑助さんもそう。簑助さんの可愛さというのは、小動物のようなクルクルとした動き自体の可愛さだった。簑助さんの人形の構え方の可愛さ(体が小さく華奢に見える)は勘彌さんが引き継いでいると思うけど、動きの可愛さを継承した人は一門の中には見当たらない。別の師匠についていた人だが、「動きの可愛さ」という方向性を持つ人が若い層の中にいて、良かった。
引き抜き・ぶっかえりなどの見せ場では瞬間的に緊張感を持たせるなど、舞踊としてのアクセントになるメリハリを強めにつけると、派手なところは派手に見えてくるようになると思った。曲のまとまりや品を重視してやっていないのだろうが、全体の所作は充分流麗なので、やって破綻したり、下品になることはないと思う。
最後に決まるときの傘の使い方は、ほかの人とは違っていた。大抵は客席側に傘の上面を向けて回転させ(円形を見せる)、その上に乗ると思うが、真横に立てて回転させていた(側面を見せる)。なるほど見た目の変化は出るが、良し悪しあるなと思った。

ちなみに、うちの近所に生息している鷺はこんなに可愛くない。眼光鋭く巨大でどっしりしておられ、玉男様の斎藤実盛のようです。こんな鷺、どこにおんの?

 

 

『冥途の飛脚』。

今回の注目点は、梅川を和生さんが演じていること。低級の女郎の役が和生さんにいくことは本公演ではありえないので、まさに地方公演ならではの配役だ。出での首をすっと伸ばした姿が印象的で、これまでに見た梅川とはまったく違う。本来こんなところにいる女性ではない雰囲気で、彼女の内面の気高さが漂う……って、さすがに女郎としての価格帯が違いすぎでは感があるが、梅川は一応まだギリ公娼だからいいか。このまま夜鷹まで滑り落ちていくだろうなっていう清十郎さんなり勘彌さんのほうが、むしろミラクルなのかもしれない。非常に清楚な雰囲気だった。忠兵衛のお姉さんというか、微妙に保護者感があるのが、和生テイスト。
芝居のトータル設計の上手さは、前半と後半の悲しみの演じ分けとして出ていた。八右衛門〈吉田玉也〉が訪ねてきたときに二階で悪口を聞くときの悲しみと、忠兵衛が封印を切って駆け出てきたときの悲しみ。両方均一に泣き崩れるのではない。後半に華を持たせるため、二階で泣くときは大きく顔を伏せすぎず、展開に沿って次第にうつむいていくようにされていた。床の配役の問題で後半は間持ちしないかもなと思っていたけど、抑制のきいた前半に対し姿勢を崩してしどけなさを出す姿が効果的で、クドキも見応えがあった。

 

忠兵衛〈吉田玉男〉はグッド・クズネスだった。
玉男さんの忠兵衛は、封印を切っての後悔が1ミリもないのが良い。この場面の忠兵衛を「上方の若旦那の悲劇」として観客の憐憫を一身に集めるのなら、いかにも仕方がないことだったかのように、もっと惨めに哀れっぽくやるのが効果的だと思う。しかし、玉男さんの場合は、惨めさ1ミリもなし。梅川が飛び出してきてからのバタバタのさなかも、勘十郎さんの忠兵衛はオドオドしていているのに対し、玉男さんは「これ以外にどうしろっていうわけ?」。梅川になんと言われても、動じない。このよくわからない方向への意思の強さ。モノホンのクズやでぇ! という感じで、良い。それが(「解説」でよく言われる)世間体のためとは1ミリも見えないのが最高。「個人としてのクズ」の描写であることは、『冥途の飛脚』を現代に上演することにおいて、非常に有効だと思う。
だからといって(?)、玉男さんは単なる天然でやっているわけではないよね。たとえば、小判の落とし方。パラパラ、キラキラと綺麗で断続的に落としているので、単なる「行為」ではなく、「表現」になっている。前後の余分な力みやバタつきが抑制されているため、あの場面で動いているのが小判だけというのも有効で、ゆっくりとした落とし方がむしろ観客の目を引く。所詮小道具でもちゃんと「貴重なお金」に見え、技術的に非常に巧い。

しかし忠兵衛……、元気が有り余っとるな。「淡路町」など、スタコラ出てくるときの、バカっぽさがたまらない。ついさっき、友達の店の金を使い込んで謝り倒したとは思えないピョンピョコピョンな陽気ぶり。道端で犬と本気で喧嘩してるし(小学生か?)。「淡路町」で戯曲として重要な部分=前半を切ってしまっているがゆえに話が軽薄に見えてしまうというのが最大の原因だとは思うけど、要するにこれによって忠兵衛の出番が少なくなっているので、玉男様のお元気パワーを消費しきれないのかもしれない。あえて書くが、玉男さんは元気が有り余りすぎなのかもしれんと思った。前、白太夫がきたときも、ものすごい大元気なスーパーカクシャクジジイになってたし。このあとラジオ体操を第二まで全力でやってから帰りそうだと思った。

玉男忠兵衛が店の前で用水桶の影にそっと隠れるところの可愛さは、書かずにはいられない。隠れきるまで微妙に時間がかかるあの感じ、飼い猫がのそのそとコタツに入っていったのを見て「入った、入った」と喜ぶ飼い主の気分になった。(なんかこういう話、前も書いたことがある気がする)

 

「封印切」全体に関しては、はっきり言って、遊所には見えないわなというのが最大の感想。軽薄は軽薄でも、00年代センスの個人経営の居酒屋では。季節感を表現しているのが人形の文昇さん(花車)だけというのも理由のひとつかな。このような情緒面の積み重ねが、曲の花街らしさにつながる気がする。
そのあたりはトミスケなんとかしてくれ部分が多いが(すでになんとかしてくれてはいるが)、富助さんご本人はあいかわらず、ひよこカムロチャンのがんばり三味線演奏に協力していないようで協力している……ようで別にそこまで協力していない(偏見)のが笑えた。今回は竿をトントン叩いてくれていました。

 

あとは、上演中、梅川をじっと見ている人形遣いさんがいたのが印象的だったな。いつか梅川を遣いたいんだろうな。その才覚はあると思うけどね。
それにしても、太鼓持ち役のドデカハムスター系青年、物理的に成長してないか? どんどんでかくなってきている気がする。玉男さんより、ふた回りほどデカくなってないか。

 

↓ 秋配役の感想


 

  • 解説=竹本織太夫
  • 『花競四季寿』
    • 義太夫
      豊竹芳穂太夫、豊竹咲寿太夫、竹本碩太夫/野澤錦糸、野澤勝平、鶴澤燕二郎
    • 人形
      [万歳]太夫=吉田玉翔、才蔵=吉田玉勢
      [鷺娘]鷺娘=桐竹紋臣
  • 『冥途の飛脚』
    • 義太夫
      羽織落としの段=竹本織太夫/鶴澤清𠀋
      封印切の段=竹本千歳太夫/豊澤富助
    • 人形
      亀屋忠兵衛=吉田玉男、花車=吉田文昇、遊女梅川=吉田和生、遊女千代歳=桐竹紋吉、遊女鳴渡瀬=吉田玉誉、禿=吉田簑悠、丹波屋八右衛門=吉田玉也、太鼓持五兵衛=吉田玉征

 

 

 

夜の部。

『団子売』。
人形・お臼〈吉田清五郎〉はこなれた所作で、親しみやすく、かつ清楚な雰囲気。ちょっと機嫌よさそうに「ウフ!」としているのが良い。舞踊ながら作為を感じさせない自然な佇まいが垢抜けている。
それにしても、床で、『団子売』にしか出番がない人は、いったいどのような気持ちで地方公演を巡っているのだろうと思った。ある意味、「好きじゃないと続けられない」の究極のような状況だ。

 

 

『菅原伝授手習鑑』。

玉彦さんのよだれくりの味わい深さ。なにが良いかって、阿呆ぶりが曲の調子に乗っているところだ。曲の幕開けの朗らかさにふさわしい、緩慢な「のら〜っ」とした動きが可愛らしい。よだれくりがゆっくりしているので、ほかの子供たちもゆとりのある動きになり、あの寺子屋がちょうどよい加減のノンキな田舎っぽさに彩られていた。床交代の繋ぎで余計な動きを入れないのも良かった。客から自分がどう見えているか、よくわかっている。そして、普段から周囲の「おじさん」たちをよく観察しているのだなと思った。次は子太郎(妹背山)頼む!
なお、菅秀才〈吉田和登〉は、よだれくりよりもさらにおっとりムーブだった。字ぃ書いているうちに半紙が墨汁でシミシミになりそう。どでかゾウガメの才能を感じた。

玉佳玄蕃は、体育会系OB筋肉ダルマ若手営業職って感じで、かなり良かった。爽やかでキビキビした青年。いままでの玄蕃役の人に比べて、相当若く、颯爽として見える。この手の役への「勘違い」としてよくある、所作の無駄なせわしなさがないのが良い。
あまりに爽やか筋肉すぎて、「次の打ち合わせ、ランチタイムにかかるから、軽食用意しといて」と頼んだら、人数×2個のまい泉カツサンドを買ってきそうだと思った。それにびびっていたら、「足りないですかね!?!??!??!?!??! 普通のひれかつ弁当とかのが良かったですか!??!???!!! もっかい行ってきます!!!!!!!!!!!」と言って走り去っていきそうな感じがした。衣装の素袍の袖がちゃんとアイロンかかってる風に「ピン!!!!!」としているのも、爽やか感を増幅していて、笑った。
玄蕃は、真面目に仕事をこなして、直帰(?)していった。今日は子供の保育園のお迎え担当なんで帰ります!!!!!!! 首はジップロックで包んで自宅の冷蔵庫のチルド室に入れて、明日朝イチで会社に持っていきますんで!!!!!!!!

今回とても良かったのは、簑二郎さんの千代。余計なバタつき、性急さが徹底して抑えられており、千代の可憐さがよく出ていた。やや不自然だった暗さが抜けて、しっとりと濡れたような悲しみが前に出ているのが好ましい。昨年秋公演の代役時に引っかかった、「寺入り」で一旦引っ込む際の「よそ見」もとても自然になっていた。
寺子屋」後半で千代が戻ってきたとき、寺子屋の戸口をかなり激しく打ちたたいていたのは驚いた。円滑な芝居の進行としては唐突な印象があるけど、個人的には、この、ごく普通の人の一生懸命さが、簑二郎さんの良さだよなあと思った。
これまでの簑二郎さんを知らなければ、単にこの千代だけでは、良いとか悪いとかいう評価にはならなかったと思う。そのうえで、すでに芸歴の長い人でも、少しずつでも成長していくのだなと感じた。

寺子屋」名物、御台所の配役が謎化する現象については、今回は思ったのとは別方向で謎だった。和馬さん。この若さで御台所を気品をもってこなすのは、立派。「和生の子」感があって、良かった。和生の子ではないが。
三助〈吉田玉路〉は、地下鉄で居眠りするサラリーマン風だった。いつでも起きる用意ができていた。

 

以上の部分は良いのだが、舞台全体として浄瑠璃の内容をいかに表現しているかについては、浅いことになっているなーと感じた。いつもは「地方公演」だから、とスルーすることだが、最近は本公演と地方公演の境界線が消えてきているので、文章化しておこうと思う。
一番言いたいのは、なんでも大げさにやればいいものではないし、決まっている手順を事務的にやればいいというものでもないということ。これは、派手すぎてダメだとか地味すぎてダメだとかいう加減論ではなく、ともに、表面にとらわれて内容の表現ができていないのではないかという観点からの所感だ。ストーリーの趣旨、登場人物の心境の変遷や登場人物同士の関係といった情感が後退し、画一的になっているのが気になった。特に、「松王丸の感情の起伏がわからない」「2組の夫婦役が夫婦役に見えない」は、マイナス要因として大きい。曲への素朴な惰性、あるいは、いい役だからいい役をやっている状態のように思えた。役の不慣れへの多少のぎこちなさは構わない。けど、そもそも内面表現への意思がないと、「なんかモタモタしてるけど、なにかやろうとしてるんだな」という気配も感じ取れないからなぁ、という感想。

 

最後に、上記を抽象論でなくするために、人形について具体的な部分を書いておく。
松王丸は出入りするごとに雰囲気がまったく変わってゆく人物だ。そのうち、首実検を例に挙げると、威圧感の中に彼の緊迫感や神経質さ(本心としての玄蕃や源蔵への警戒)を出すため、目線を使った表現が重要になる。それにはもちろん、客席から松王丸の目線がわかるように、髪で目元が隠れがちなかしらの角度を調整し続けなくてはならない。これまでいろいろな人の松王丸を見てきたが、松王丸のかしらにはかなりの重量があり、「前髪で目元が見えるか見えないかのギリギリくらいに微妙にうつむいている」という状態をキープするのは相当難しいと推測している。特に、子太郎の首を見ているときに首が根本からガクッと真下に落ちてしまう人がいる。技術と経験、そして研究が如実に出ると感じる場面である。
また、夫婦役同士は、互いの距離感を「他人」の登場人物とは区別してとった上で、目線を合わせるときはしっかりと合わせることが重要だ。松王丸と千代なら、いろは送りの部分など、目線の合わせ方やお互いへの手の掛け方が重要になる。逆に、夫婦はいちいち言葉を交わさずとも心が通っていることを表現するため、目線を外していても演技のタイミングをしっかり合わせることも表現の鍵となる。源蔵が逸る戸浪を刀の鞘で制する場面は、目線は二人とも同じ方向に向けつつ、足の動きをはじめとした演技のタイミングをしっかり合致させることでそれが表現されるだろう。
本公演で持ち役になっているような人は、こういったことを当たり前にこなしている。しかしそれは意志をもってやっているからであって、いわゆる「自然天然」で上手い人というのはいない。
と思った。

 

↓ 秋配役の感想

 

 

 

  • 解説=豊竹藤太夫
  • 『団子売』
    • 義太夫
      お臼 豊竹靖太夫、杵蔵 竹本南都太夫、竹本碩太夫/野澤勝平、野澤錦吾、鶴澤燕二郎
    • 人形
      杵蔵=吉田文哉、お臼=吉田清五郎
  • 『菅原伝授手習鑑』
    • 義太夫
      寺入りの段
      豊竹睦太夫/竹澤團吾
      寺子屋の段
      前=豊竹藤太夫/竹澤團七
      後=竹本織太夫/鶴澤燕三
    • 人形
      菅秀才=吉田和登、よだれくり=吉田玉彦、女房戸浪=吉田一輔、女房千代=吉田簑二郎、一子小太郎=吉田玉延、下男三助=吉田玉路、武部源蔵=吉田文司、春藤玄蕃=吉田玉佳、松王丸=吉田玉助、御台所=吉田和馬

 

 

 

 

満足な部分もあるけど、こんなもんかな、とも感じる公演だった。
「こんなもんかな」と感じた理由は、しっとりとした場面や曲をしっとりと表現できない、「ミニマム」を表現することへの軽視が出ている点。悪意的な無視ではなく、素朴さからくる結果論的なものだとは思う。だが、素朴でいい、あるいは「マキシマム」しかなくてもいいのは、若手会くらい。それ以外の通常の公演では、丁寧な「ミニマム」表現、最大から最小までの階調の豊かさを望む。いまの文楽の、(もはや個々人でなく)一座としての大きな課題だと思っている。

 

今後、「寺子屋」が出たときによく見ておきたいと思った点は、源蔵の表現。
文楽人形は、外見の時点ですでに、その人物が社会的にどういう存在か、完全に表現されている。舞台では、彼ら彼女らの中面を表現しないと、むしろ、人形の外見を目減りさせてしまう。
源蔵は、浪人して田舎暮らしをしているとはいっても、心はあくまで立派な武士、いまなお菅丞相の忠臣(弟子)ですよね。あいつ、出てきたときから、なんか変な感じするじゃないですか。それは、舞台はモロな在所なのに、ヤツの髪型は武士のもので、刀も2本差しているからだろう。本気で菅秀才を匿うのなら、町人百姓のふりでもしとけよって思いますが、それをやらないのが、源蔵の異常者たる所以。町人みたいな芝居をしてはいけない。また、源蔵と戸浪は不義を働いて駆け落ちしてきた(させてもらった)人たちなので、夫婦であることの見せ方には、かなりの注意が必要だと思った。

 

文楽を観るようになって、8年目を迎えた。最近つくづく思うのは、自分は、出演者が頑張っているのを見たいとか、応援するために文楽を見ているわけではない、ということ。踏み込んだ言い方をすれば、応援という活動をしたいがために文楽が好きなわけではない。その意味で、実際の舞台で、この現代において浄瑠璃の内容はいかに表現されているのか、そこにこだわって観ていきたいと思う。

 

 

 

 

 

最近、「文楽」と「一般社会」のズレをどのように考えるか、ということに思いを巡らせることが多くなった。

研修生募集に関しては、以前とあるイベントで、司会者から「大卒生を重視してはどうか」という話が出ていたが、本当にその通りだと思う。高校卒業生が200万人程度と少子化が進行しており、さらには56%超が大学進学する現代では、大卒者を主要な募集対象として考えるべきだろう。
応募がないことの最大の原因であろう、待遇公開関連の改善は不可能だろうけど、せめて門戸を広く解放していますという方向を明示してはどうか。年齢制限の目安も引き上げるべきだろう。実際にはもっと上でもOKということを若手技芸員の個人SNSで言わせるなよと思う。
私は、ある程度の社会経験(学校であろうとも、広い層への対人経験)のある新人が入ってくることは、最終的には文楽へポジティブな結果をもたらすと思う。なぜなら、時代とともに、「お客さん」もまた、変化してきているから。文楽は庶民の芸能だといっても、その「庶民」は、何十年も前とおなじではないでしょう。

文楽世襲ではない」というのは、「入門年齢が若ければなんでもよいというわけでもない」と同義だと思う。そもそも「若くなければいけない」なんていう「脅し」は非常に品がないので、匂わせ程度であっても絶対に止めてほしい。
ていうか、年齢にこだわるなら、まず先に、「若い」うちに入門したのに「上手くない」人を責任持って何とかしてくれ。(突然のブチキレ)

 

 

  • 2023年3月地方公演
  • 昼の部
    『花競四季寿(はなくらべしきのことぶき)』万歳、鷺娘
    『冥途の飛脚(めいどのひきゃく)』羽織落としの段、封印切の段
    夜の部
    『団子売(だんごうり)』
    『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』寺入りの段、寺子屋の段
  • http://www.fuchu-cpf.or.jp/theater/

*1:メシの食い場所がないことで有名な府中会場だが、今年は、会場内のレストランでランチを食べてみた。「本日の魚料理1,680円」。この立地でこの値段、相当微妙なものが出てきそうだなと内心思っていたら(近隣の公共施設内のレストランはそういう系)、ソース手作りのどでかい白身魚フライで、サラダーバー付き、ファミレス風のドリンク飲み放題、ごはん・スープも食べ放題で、びっくりした。サラダバーは相当ガッツリしており、ホテルのランチバイキングのような感じで種類が多く、食材もそれだけでお腹いっぱいになるような、食いでのあるものだった。周囲のツメ人形のみなさんは、まさにツメ人形のように、めちゃくちゃに食いまくっていた。こんな小柄な年配の人らがこんな食うの!?みたいな勢いで食っておられて、まじでツメ人形みたいだった。かく言う私もツメ人形のように「タダ食い大好き!」(タダじゃないけど)と即座に食ったので、写真はありません。