TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 11月大阪公演『心中宵庚申』国立文楽劇場

 

今年は秋公演が10月〜11月にまたがらないので、「錦秋公演」という冠はないようだ。

 

 

第一部、心中宵庚申。

『心中宵庚申』は、それなりの頻度でやっているわりに、観客に理解されていない演目のような気がする。この話、仮に、近松というエクスキューズがないとしたら、受け入れる観客は少ないのではないだろうか。

『心中宵庚申』のおもしろいところを挙げるとすれば、私は、「なんでそういう方向にいくんだ?」という不条理に満ちていること自体だと思う。夫婦で心中すること、お千代が義母から疎まれていることは、現代流に解釈したうえでよく言えば、物語上の不条理。悪く言えば、説明不足の不整合。後者、つまり明らかな傷と捉えてモヤつく方は多いと思う。それが自然な反応で、だからこそ江戸時代の時点で『八百屋献立』というわかりやすい改作が隆盛したのだろう。

でも、国立劇場系列は『八百屋献立』よりも『宵庚申』のほうが秀でているんだという建て付けでやっているわけで、それなら、いかにこの曲がすぐれているのか、プログラムでの解説を手厚くするなどのフォローがいると思う。そもそも、合理性を求めるべき話ではないことを言っておいたほうがよいように感じる。踏み込むならば、「話が複雑でわかりにくいこと自体に価値がある」と言ってしまったほうがいいのでは。そうでも言わないと、近松ならなんでも素晴らしいんだという近松神話を匂わせるだけでは無理な時期にきていると思う。本当にやる価値があるという事業であるならば、ある程度の押し付けがましさがないと、だんだん「微妙」になっていく演目なのではないかと感じた。
もちろん、国立劇場文楽劇場の立場というか、倫理観としては観客に強い押し付けは基本的にはできないので、プログラムの解説はお定まりの「実説ではこう」「ほかの派生作はこう」という話題になってしまうのだろう。観客が欲しい本作についての解説としては、初代玉男の談話をおさめた『吉田玉男 文楽藝話』にある初代吉田玉男の半兵衛役への見解に実感があり、いちばん役に立つのではないかと思う。今月のプログラムに紹介されている初代玉男師匠の言葉は、この本からの引用だ。興味のある方はチェックしてみてください。(一般書店には流通していない書籍です。いまだと菓匠文楽の通販で買えます。国立劇場売店・文化堂も、店頭だと在庫出てました。)

 

 備考   いま、わかりやすいと書いた『八百屋献立(やおやのこんだて)』は、義母がまじで狂ってるレベルの性悪ババア設定で、わかりやすいとかわかりにくいとかいう次元を超えて、すごいです。
「半兵衛に気があるから千代が邪魔」というわかりやすい設定があるにはありますが、そんな設定がチマチマしてチンケに見えるほど異様に強い意志をもってお千代を排斥しようとします。親族一同が怒って「ええ加減にせえ!」と注意しても頑として折れない。複数人から相当厳しく批判されるにもかかわらず、本当にまじでまったく動じない。『絵本太功記』に混入していてもおかしくないほどの大豪傑。いやここ尼崎じゃないんで。なんでこんな話になってるんだ。いや、そういう人が「実在」することはわかるんですが、それでも。

なお、『宵庚申』だとなぜ養父伊右衛門がお千代に助け舟を出さないのかが不自然ですが(自分の来世の助けを願う信仰心はあっても、現実の目の前の人の助けはしてくれないという表現だと思いますが)、『八百屋献立』では養父は死没している設定になっているので、クソババア独裁体制自体にはわりと筋が通っています。

そのほか、同じ事件を扱った浄瑠璃に、紀海音作の『心中二つ腹帯』があります。実は、この紀海音作のほうが、近松よりも先行作。こちらでは、義母はお千代を離縁し、持参金付きの武家娘を新しい嫁に迎えようとしている設定で(あわよくば半兵衛も追い出し、甥を家督に据えて)、話の筋はかなり通っています。また、『心中二つ腹帯』では、『宵庚申』においては存在感の薄い甥っ子が実はいい人で、半兵衛夫妻の味方というのがポイント。『八百屋の献立』でも、甥は二人の味方設定。『八百屋の献立』はいまでは『宵庚申』と並べて語られることが多いですが、実質は『二つ腹帯』の改作と取れます。

 

 

話はどうあれ、配役そのものはしっかりしているので、舞台としてはちゃんとしている。
まず、主役二人について。

勘十郎さんはやはり不思議な人で、地味だったり暗めの性質の役(=余計な動きが嫌われる役)は苦手な傾向があるのに、お千代だけはそこそこ良い。朝顔や袖萩、お弓、梅ヶ枝は暗い芝居自体が目的化してしまっているにもかかわらず、このお千代だけは良いというのは、不思議な感じがする。暗さの演技が目的化している部分はあるものの、鼻につくとまではいっていない。また、「いつもの勘十郎さん」なら、婚家へ帰ってきたお千代をもっとはしゃぎ回って遣ってもおかしくないのに、わりとおとなしいまま。簑助さんのやりかたの影響なのだろうか?

勘十郎さんはスターだから、やたらいろんな役をやらされているけれど、当然ながら向き不向きがある。むしろ、向き不向きが大きい人だと感じる。もし、あきらかに似合わない役は無茶振りされず(本人が前向きに取り組むかどうかということではない)、ある程度適性に合った配役が多かったら、散漫にならずに自分の内面の研究に集中できたのではないだろうか。そうなれば芸風がもう少し違ってきて、深みのある部分が出てきていたのではないかと思ってしまう。たとえばこのお千代も、正直、踏み込みが足りない部分があると感じる。そこが踏み込まれ、もっと完成度が高まって、その完成度が朝顔、袖萩などに波及したのではないか。無益ではあるが、なんとなく、そういうありえた(でも、ありえない)「現在」を想像した。

抽象論の御託はここまでにして、具体的な演技について。
とある昔の劇評で、上田村の後半に対する以下のような批判を読んだことがある。
曰く、折角復活したにもかかわらず、人形の演技、演出が練り込まれていない。たとえば半兵衛と一緒に大坂へ帰ることになったお千代が喜んで帯を直す「はや締め直す抱へ帯(先を手繰つてにじり寄る父は…と続く)」の部分、お千代の人形が形式的に帯を締め直す型をするだけなのは安易すぎである。この部分で、婚家に帰ることができる喜びをお千代、平右衛門ともにあらわすべきだ。
……というもので、なるほどなと思いつつ、いままでいろいろな本を読んだり、トークショーへ参加すりなりしてきたけど、「あの人ら」にはそういう観点が良くも悪くもないんだよなぁ、永遠になおさないだろうなぁ、と思った。ただこの部分、勘十郎さんはいわゆる帯を締め直す所作(後手にグイグイやる仕草)だけではなく、襟をさすって直して髪も整えるなど、ややしつこく身繕い演技をしていた。勘十郎さんの志向からすると順当ではあるが、もしかしたら、そういう劇評の存在を知っているのかもなと思った。個人的には、本当に原文通りにするなら、平右衛門役の人もお千代の身繕いを手伝うべきだと思う。
お千代のはやる気持ちでいえば、お千代は半兵衛と平右衛門がまだ喋っているときから、半兵衛の荷物を整理しはじめて、彼が持ってきたお土産(なんだあの樽?うなぎパイ?)を実家へ渡す準備をしている。半兵衛が合羽を羽織終わるくらいのタイミングで荷物を持たせるのも、妙にうまい。お店やホテルなんかでそのタイミングで荷物渡されたら「気が利かないなー、せかしてんのかよ」と思うだろうけれど、夫婦家族だと「ん」と思うくらいのタイミングになっていた。観劇日によってこのタイミングは微妙に違い、そこはまじで「夫婦」状態なんだと思うと、ちょっとおかしかった。

上田村のお千代は、しゅっと伸び上がって、細長めに座る。勘十郎さんの場合、町の女房役がそもそも少ないので普段どうしているかの比較ができず、なんともいえないが、いわゆる「普通の町人の女房」はこういう座り方はしない。簑二郎さんのおかるの座り方と比較すると、明確だろう。しかし、上田村では、彼女の心情として、やや緊張感のあるこの座り方自体はわかる、と思った。

 

玉男さんの半兵衛はとてもよい。「真面目で優しい男性」の雰囲気がよく出ている。
半兵衛はかなりフンワリした、捉えどころのない役だと思う。かといって、元武士階級という設定に安易に引きずられすぎると本質を逸してしまい、話が意味不明になるのが最大のトラップだろう。生まれはどうであろうと、いまは所詮武士ではないことが彼のコンプレックスなのだから。玉男さんの半兵衛は、真面目な商人風ながら、忠兵衛(冥途の飛脚)や徳兵衛(曾根崎心中)のような生まれからして町人の役とは異なる雰囲気になっており、その匙加減がうまいところに落ちている。
玉男さんは、装飾を引き算しきったあとの姿勢や所作の整え方によって人物を表現する傾向が強いと思う。半兵衛は、驚いたときと、おとなしくしているところのコントラストがしっかりしている。真面目そうに背筋を伸ばした座り方も良い。その端正さの担保が、忠兵衛・徳兵衛とは違う、玉男さんなりの「彼らしさ」になっている。

あとはやっぱり、お千代の背中に回す手元の所作の優しさが、とてもいいですね。

半兵衛は、八百屋の最後、家を去る前の合掌がかなり綺麗に左右揃っていて、本当に人間が合掌しているみたいだった。それと、心中場の最後で、帯をたらすタイミングがうますぎる。まるで血が吹き出ているよう。このあたりを見るに、半兵衛は、けっこういい左をつけているのではないか。と思った。

 

 

 

そのほかの役について。脇役もよい出演者を取り揃え、充実している。

上田村は、玉也さんの平右衛門が良い。お千代のことが心配すぎて力を失い、布団から滑り落ちる手が印象的だ。平右衛門に「父」以外の要素をつけない点も特徴だと思う。和生さんや玉志さんが平右衛門をやると、彼自身の人格、つまり、これまでの長い人生を感じさせる矜恃、世間体としての謹厳さの鱗片がわりとはっきり見える。それが娘への愛で崩れてゆく変化が彼らの芝居の見所なのだが、玉也さんの場合、もちろん気の強さは表現されているけど、大きく泣き崩れるタイミングがかなり早く感じられる。あくまでお千代の「父」としての演技に徹している印象。そのやりかたが人物描写の安易さ、浅薄さへ転ばないのは、さすがだと思う。

姉おかる〈吉田簑二郎〉も良かった。変な緊張はなく、自然な雰囲気。簑二郎さんは、やっぱり、「普通の人」の普通さ、普遍的な感情の表現がとてもナチュラルで、うまい。

上田村冒頭で見られる下女子たちの糸繰り仕事。あれが何をやっているかは、師匠なり先輩なりがちゃんと指導している感じだった。ただ、下手側の下女子は体を伏せすぎだな。指導をめちゃくちゃ真面目に受け止めて、本人なりに考えてリアル演技しちゃった結果だろう。鏡なり映像なりを見てチェックすれば、良くなるのではと思った。

上田村の床は、とてもいいんだけど、おかると千代と半兵衛の喋り方、もう少しどうにかならんかと思った。特に女性。平右衛門の喋り方はよいが、舞台に出ているのは平右衛門だけではなく、平右衛門のみをしっかり語れていればOKなわけでもないので、頼む。

 

八百屋は伊右衛門女房〈桐竹勘壽〉がよかった。勘壽さん、最近元気だな! イキイキ因業ババアしとった。クソババアというより、めちゃくちゃセカセカ・ムーブな「やばいババア」な感じだった。ほかの共演者はああいう義太夫を逸した変に速い動きはしないので、異様さ(笑)(そう、カッコワライ的な)が際立っている。そして、勘壽さんクソババアは、上品であることとはまた違うニュアンスの「どことなく行儀がよい」ところがあり、きせるで背中をかいた後は、必ずきせるの口を膝でシュッシュと拭くのも良い。
そんな女房の勢いにびびって、じいさん〈伊右衛門=吉田玉輝〉が微妙に後ずさりするのも良かった。絶妙な夫婦感。

丁稚〈吉田玉路〉、下女〈吉田和馬〉、甥っ子〈吉田玉翔〉は、脇役中の脇役と割り切っておとなしめに演じていると思うが、もう少しだけ、押してもいいかなと思った。あの一家(特にお千代が疎外されていること)をどう思っているのか、少し匂わせてもいいのでは。原作には書かれておらず、判断つきにくいラインではあるが。下使い二人は、口は出せなくとも彼女に気遣いをしている印象ではあった。

 

道行は床が結構しっかりしてた。なんでもいいからとりあえず大声で頑張りますとはせず、雰囲気をどう表現するが検討されているように感じた。これはほかの部の若手にはない良さである。幕が落ちるところを語る”若造”も、初舞台から1年そこそこで、よく「学芸会」でない声の出し方ができるようになったなーと思った。

心中場では、緋毛氈の色が刀に反射して、刃が血に染まっているように見えるのが良かった。

 

 備考    心中場での二人は「白装束」を着ている設定。しかし、どこが「白装束」かわからないという感想を聞きました。
それは、襟です。

文楽では、人形が一番内側につけているフカフカの綿が入った襟を「棒襟」、その外側にペラ布でつけている襟を「中襟」と呼びます。

町人階級の場合、襟がすべて白ということは通常ありえません。「上田村」や「八百屋」を見るとわかりますが、男性の棒襟は基本黒が多く、女性の場合、棒襟・中襟は色付きで、一番外の小袖に黒の掛け衿をしているというルールがあります。心中場では、それがすべて白というのが異様なのです。

なお、お千代の場合、「上田村」と「八百屋」で違う中襟をつけています。中襟の色が人形の顔にうつり、顔色まで変わって見え、彼女の心情にあわせた衣装拵えになっていることがわかります。

武士階級の場合は町人とはルールが異なります。主役サイドの男性は白の棒襟が基本ですが、水色の中襟をつけることが慣例になっています。敵役の赤ら顔の人形だと、色付きの襟の役もあります。
女性の場合、格式の高い武家女房は棒襟・中襟ともに白。これは彼女たちの服装が式服であることをあらわしています。今回公演でいうと、第二部の相模や藤の局(彼女は武家というより、公家の妻ですが)は白の棒襟・中襟です。武家女房でも色付き襟の場合もありますが(平服の老婆役など)、襟が白の場合と色つきの場合とでは、人形の遣い方も変わってくるそうです。

 

  • 義太夫
    • 上田村の段=竹本千歳大夫/豊澤富助
    • 八百屋の段=豊竹呂勢大夫/鶴澤清治
    • 道行思ひの短夜=半兵衛 竹本南都太夫、お千代 豊竹芳穂太夫、豊竹咲寿太夫、竹本聖太夫、豊竹薫太夫/野澤錦糸、野澤勝平、鶴澤友之助、鶴澤燕二郎
  • 人形
    下女お菊=吉田玉峻、下女お竹=吉田玉延、下女お鍋=吉田簑悠、姉おかる=吉田簑二郎、駕籠屋=豊松清之助・吉田和登、女房お千代=桐竹勘十郎、百姓金蔵=吉田文昇、島田平右衛門=吉田玉也、八百屋半兵衛=吉田玉男、丁稚松=吉田玉路(11/??〜16?休演、代役・吉田玉彦)、伊右衛門女房=桐竹勘壽、下女さん=吉田和馬、甥太兵衛=吉田玉翔、西念坊=桐竹亀次、八百屋伊右衛門=吉田玉輝、庚申参り(娘)=吉田玉誉、庚申参り(若男)=吉田簑太郎

 


これを言ったらおしまいではあるが、この配役でやるなら、違う演目がいいんじゃないかというのが、正直なところ。そして、『心中宵庚申』をこの頻度でやるのだとしたら、人形の主役二人は後続世代に交代させたほうがよかったのではないだろうか。せめてどちらかは、やったことがない人に任せるべきだったのではないか。特に、難易度の高い近松ものの源太系の役ができる人を早めに養成したほうがいいと思った。

 

個人的な感覚だけでいうと、『心中宵庚申』は、上田村のみが面白いと感じる。私が上田村を面白いと思うのは、話がある意味類型的で、テーマが明確だから。そして、そのテーマが、現代の鑑賞にも耐えうるものだからだと思う。それ以外の段に関しては、正直、話が惰性じゃないですか? 八百屋とか特に、みんな、面白いと本気で思ってるのか? 復活事業から時間が経ち、「復活した」こと自体の新鮮味が下がったいまとなっては、わざわざ45分もかけてこの話を見せられてもと思ってしまう。こういうのはつまらなくてもいいんだ、芸術的だから良いんだという論法を始められてしまうと、それを言いはじめると能のほうが遥かに「いい」んではないかと思ってしまう派です。

そしてこの演目、上の巻(半兵衛の故郷浜松で起こる話)を上演しないと、あまり効果的ではないのではと思う。上の巻では、半兵衛は真実の愛を貫こうとする者の心中を止めて祝福する側なのに、今回上演の後半部分では、その本人が心中に向かってしまうというのが、ストーリー全体として皮肉だということなのでは。「いまいちよくわからない」感は、こういう上演形態の不備も理由のひとつではないだろうか。

 

 

 備考   現行上演が失われている上の巻は、半兵衛の帰省先の浜松で起こる話。
前半は、半兵衛が得意の料理をテキパキ作り、藩主に気に入られる話。後半は、めちゃかわ美少年な半兵衛の弟・小七郎(家を継いで武士になっており、小姓をつとめている)がいろんな男に言い寄られる話。
小七郎は大量に来る恋文に一切返事をしていなかったが、兄半兵衛が帰省していることを知った男たちが取りなしを頼もうと、どんどこ集まってくる。半兵衛は男たちに刀を差し出して「本当に小七郎のことが好きならここで刺し違えて死ね」と告げる。武士たちはシーンとなってしまうが、本来侍とは同座できない一番身分の低い奴(やっこ)だけが小七郎と刺し違えて死ぬと刀を取る。半兵衛は奴の意気地が見えたとしてそれを止め、奴に弟を任せることにする。二人のことは主君に頼んで正式に契らせると約束し、半兵衛は浜松をあとにして上田村へ向かう(今回上演の上田村の段へ続く)。

武家の世界ではこんなに「社会性」のある半兵衛が、なぜ町人の世界ではうまく世渡りできないのか。そこが、本来のプロットのポイントなのではないでしょうか。