TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 1月大阪初春公演『義経千本桜』椎の木の段、小金吾討死の段、すしやの段 国立文楽劇場

第二部は吉野。
吉野・金峯山寺近辺は、文楽聖地探訪のなかでも行ってよかった場所のひとつです。

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↑ 餅花は発泡スチロールでできていると思い込んでいたが、実はもなかの皮のようなお菓子素材で出来ていると知り、よく観察してみたら、確かに金魚すくいカップみたいな感じだった。

 

 

 

第二部、義経千本桜、椎の木の段。

段の名前は「椎の木」なのに、登場人物たちが拾うのが「栃の実」なのはなぜなのか。段名は、阿知賀に椎の大木と茶店があったという伝承に由来している可能性があるようだ。「機嫌とるかや栃の実を…」のかや(榧)は、実際に吉野でよくとれて、江戸時代には土産物として販売されていたらしい(『和州巡覧記』)。栃の実も古くからの特産品のようだ。*1

善太〈豊松清之助〉はよく考えてやっているんだなと思った。初日は、出てきたあと、客席に背を向けて振り返り姿で床几を袖でフキフキしていた。「ママのお手伝いをする」演技自体はいいのだが、子役の小さい人形で後ろ向きになると、人形が人形遣いに隠れてしまって何をやっているのかわからない。床几の後ろ側に回り込めばいいのにと思っていた。ところが二日目、ちゃんと床几の後ろ側へまわりこんで、客席に正面を向いてフキフキしていた。自分で気付いたのか、誰かが教えたのか。
善太が舞台下手でしゃがみ、地面の何かをつまんでいるのは、彼も栃の実を拾っているということなのだろうか? きれいな石を集めているのか?

小仙は紋臣さんらしい世話女房。清之助善太とかなり親子感があり、まじで産んでそ〜。と思った。胸の前で腕をかまえるとき、手首を胸にむぎゅっと押し当てるような仕草が可愛い。たぶんこれ自体に意味はなくて、癖でやっているのだと思うけど、衷心な女性の印象がある。薬を買って帰ってきたとき、権太が小金吾らにたかっているのを無言のうちに見ている姿も良かった。

若葉の内侍も、清五郎さんらしく、透明感のある高貴な美貌がよく出ていた。あの髪型の役が似合いすぎ。そして、目を閉じ、右手を目頭に当てて、左手をそれに添えるポーズがうますぎる。
六代君〈吉田簑之〉はチョン!と頑張って座っていて、良かった。なんか椅子に座ってるみたいになっていたが、現代の道端のこどもも空気椅子に座ってることあるからな、いいか。

小金吾〈吉田玉勢〉は怒りを我慢するという演技に注意がいきすぎて、それが若葉の内侍や六代君のためであるという小金吾の本質を忘れていると思う。頑張りすぎなのだろうけど。左は良い。

 

 

 

小金吾討死の段。

小金吾が最期に松の枝を切り落とすのは、どういうこと?

弥左衛門〈吉田文司〉は素朴な雰囲気が良い。ただ、小金吾の首を切り落として持ち帰る演技、何をやっているのかわからない。ミステリー的、あるいは次への伏線に、わざとわかりづらく演じているというより、単にうまくいっていないように見える。弥左衛門は次の「すしや」ではその朴訥さがよい方向に出ているだけに、ここはしっかり見せてほしかった。

というか、落ちてる死体の首をお持ち帰りするな。

 

 

 

すしやの段。
冒頭、おすしを買いにくるおツメさんたちの動きは、ある程度アドリブなのね。

玉男さんの維盛は非常に美麗。男性的なイケメン感が強く、地方公演で見た玉志さんの貴公子系キラキラ維盛とは違った上品さだ。強靭な気品にあふれた姿は、田舎っぽい衣装を着ていても、とても一般人には見えない。手ぬぐいで手を拭く仕草も、町人のそれとはなんだか違って見える。腰のあたりがなんか寂しい感じがするのが玉男さんらしくて、最後の出で、(1本だけど)刀を差しているのを見ると、安心する。
ただ、お里を軽く抱いてやる演技の手つきがゴミクズすぎて、お〜い!!と思った。完全に手ェつけてるだろ。
維盛は、外見が美しく、内面も清廉潔白ないい人に見えるが、小金吾の死を突き放して冷静に見ていたり、お里に表面でだけ対応していたりと、身分の高さならではの世俗離れした冷たさがある。権太はパパ弥左衛門が重盛に助けられたことを知っていたので重盛の子である維盛を助けようとしたわけだが、それに対してもわりとクールな反応をする。こういった突き放した雰囲気をどう表現するか。身分表現をもっと引き上げることで匂わせるのか? もうちょっと、なにかあるのかもしれない。

権太ママ・勘壽さんもとても良かった。おばあちゃんらしいちっちゃい身体でワタワタとしている感じが良かった。勘壽さん、ご本人はどんどん「おじいちゃん」になっていくけど、人形はどんどん元気になってきている気がする。歯がびっしり生えそろってそうだった。

 

清治さんは田舎を嫌味なくオシャレに弾くのがうまい。あの店が吉野のトレンドスポット(?)のように思えた。しかし元気ないな、もうおじいさんだから仕方ないのかなと思ったら、翌日(2日目)、コロナ感染で休演の掲示が出ていた。無理して出ていたのだろうか……。
呂勢さんは、お里の愛らしさ、権太のチャーミングさが自然に滲み出ていて、良かった。今月のプログラムの技芸員インタビューで話されている内容も、とても良かった。こういうふうに自分を客観的にみられる人でないと、こうは語れないわなと思った。

 

 

 

そういうわけで、良い人は良いし、なんなら良い人のほうが多いのだが、全体としては相当どうかと思う状況だった。「すしや」は、権太が救いようのない無駄死にであるということがドラマとして重要だと思うが、これ観ても、わからん。

人形も床も、全体の見取り図がなく、単調。その場その場の逐次的なことを作業的にやっている印象だった。そして、全般にのっぺりとして、曖昧になっている。このために核心部分がどこにあるかわからず、なんの話をしているのか、直感的にわからない状態だった。

そして、権太のキャラクター表現。権太は類型的なキャラクターではある。現行上演がない浄瑠璃にも、権太のような「粗暴な若者が命と引き換えに善に立ち返る」という話はごまんとある。けれど、権太にはそれらにはない大きな特徴があって、彼は「モドリ」の前であっても、一概に憎たらしい悪者とはいえないのだ。権太は、悪人のように見えるし、いい人のように見えるし、でもやっぱりやってることは悪いし、しかし本当の根っこのところは親思いのいい子だったという行き来に魅力がある。そして、愛嬌。ビビりなところがあったり、子供と遊んであげてそのまま帰宅しちゃったり、ママにはごろにゃんと甘えたりという可愛いところがあるからこそ、粗暴な部分が不気味で恐ろしく見え、また、無駄死にが実感をもって悲惨に見えるのはないか。そのあたりの表現が不足している。

 

床を「すしや」だけに絞って述べるなら、その悲劇性を語るにはエネルギー不足と言わざるを得なかった。
「すしや」を前後2分割する場合、従来は、「御運の程ぞ危うけれ」(梶原平三の来訪を知りお里が惟盛らを逃す/交代して権太の出)で切りますよね。しかし、今回は「親御の気風残りける」(布団に入ったお里を見た維盛の述懐/交代して若葉の内侍らの出)で切って交代していた。これだと、後半がもっ……のすごく長い。体力がない方が誤魔化し誤魔化しで語れる長さではない。
配役や切る位置は色々内部事情があるのだろうが、それならもういっそ3分割にして、権太がのれん口から走り出るところからは元気な方にやらせてほしかった。

人形は、主役がその役柄を表現できていない状態になっていた。
権太は、演技が何を意味しているのかわからないのが致命的。そして、愛嬌ある人物像が表現できなければ、「すしや」は成立できない。権太のキャラクターは人形演技で表現される部分も多い。お里は、シーンによって人物像がバラバラなのが非常に気になる。
企画意図としては、「花形」を盛り上げるために、技術的には至らなくとも、彼らに似合う役をと配役されていたのだろう。それなら細かい内面描写はできなくとも、キャラクターの特性をとらえて表現する勉強はしておいてほしかった。今後のためという話も、何ヶ月も連続して首をかしげる状況だと、寄り添うのは難しい。
権太かお里、どちらかは手慣れた人がやってほしかった。

 

人形の演技について、今回の舞台によって勉強になったことを書くと、いわゆる「普通の演技」には、意味があるんだな〜……と思った。
具体的なことをひとつだけ書くなら、権太の「涙」の見せ方。実家へやってきた権太は、ママにお小遣いをせびるため、泣き真似として、細く折った手ぬぐいを目に当てる。後半、小仙と善太を若葉の内侍・六代君に化けさせて引いてきた権太が、彼女らを梶原平三に引き渡す際、ここでもまた後ろを向いて再び細く折った手ぬぐいを目に当てる演技をする場合が多いと思う。今回は、この後半の後ろ向き演技の際、丸めた手ぬぐいを目を当てていたのだが、やはりここはママの前と同じく、細く折った手ぬぐいを目に当てるほうがいいと思った。一般的に人形の演技では同じ動作の繰り返しを嫌うが、この場面では、「前半では泣き真似だったのが、後半では本当の涙に変わってしまった」という意味があるので、繰り返し自体に皮肉な効果がある。これは従来の演技を見ているだけでも察せることではあるが、今回あらためて効果がわかった。

 

 

 

 

  • 義太夫
  • 人形
    権太倅善太=豊松清之助(前半)吉田和登(後半)、小仙=桐竹紋臣、主馬小金吾武里=吉田玉勢、六代君=吉田簑之、若葉の内侍=吉田清五郎、いがみの権太=吉田玉助、猪熊大之進=吉田文哉、すしや弥左衛門=吉田文司、娘お里=吉田一輔、弥左衛門女房=桐竹勘壽、弥助 実は 平維盛=吉田玉男、梶原平三景時=吉田玉輝

 

 

 

今回は、現状の文楽の問題点がもろに析出してしまっていたと思う。ベテラン、若手、それぞれにある問題がダイレクトに舞台に出てしまっている。いままで公演そのものをここまで強く批判したことはなかったが、この状態を放置しているのは、さすがに情けない。せめて人形か床、どちらかは、ドラマを駆動させ得る人を入れるべきだったと思う。公演のクオリティはどうすれば保てるのか、差し迫った重大な問題になっていると思う。

本公演の「すしや」は、簑助さんが現役のときにやって欲しかった。残念。

 

 

2019年3月地方公演、権太=玉男さん、お里=簑二郎さん、維盛=和生さん。

 

2018年10月地方公演、権太=勘十郎さん、お里=清十郎さん、維盛=玉志さん。

 

 

 

ロビーに、吉野・下市町のキャラクター、ごんたくんが遊びにきていた。
ごんたくんはかなり小柄だった。お客さんに突撃されまくっていた。ごんたくんの付き人?の方に、ノベルティの吉野杉のおはしをもらったが、歌舞伎、っておもいきり書いてあるのが味わいだった。

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ごんたくんぬいぐるみ、買っちゃいました。やわらかくて手触り最高なのに、なんと500円でした。

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ほかにクリアファイルやメモ帳などもあった。メモ帳の表紙がなぜか「カブトムシがトッピングされた海鮮丼(?)を食べるごんたくん」で、かなり目を引いた。
そのほか、下市物産展として、吉野杉グッズも扱われていた。本当はまな板だと思うが、鮓桶のフタにしか見えないものも売られていた。遠目に見たとき、ちびりそうになった。

 

 


 

*1:権太は木になっているやつを取れ、落ちとるやつは虫が食っとるとジモティーらしいことを言っていたが、奈良県立民族博物館の調査を読んだら、実際の地元の人、普通に落ちてるやつを拾ってるそうです。虫抜きは長めに水につけることで行うみたいですね。