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文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽『端模様夢路門松』『木下蔭狭間合戦』竹中砦の段 ディスカッション(木ノ下裕一・桐竹勘十郎・鶴澤藤蔵) ロームシアター京都

『端模様夢路門松』『木下蔭狭間合戦』上演ののち、第三部は「ディスカッション」として、木ノ下裕一さん・勘十郎さん・藤蔵さんのトークショー

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もくじ

 

 

はじめに 『木下蔭狭間合戦』上演史


本題に入る前に、トークショーの話題をより楽しんでいただくため、『木下蔭狭間合戦』の上演史を解説しておく。

『木下蔭狭間合戦』の初演は寛政元年[1789]1月、豊竹此吉座。当時は「太閤記物」が流行しており、本作はその時代の流れを象徴している。
同じ「太閤記物」でその決定打となった『絵本太功記』は、本作の初演から10年後の寛政11年[1799]7月、道頓堀若太夫芝居初演。

『木下蔭狭間合戦』は、戦前まで舞台上演が続いていた。人形付きでの上演は、昭和9年[1934]1月四ツ橋文楽座が最後となっており、今回の上演はそれ以来、87年ぶり。ただ、この時点ですでに珍しい曲となっていたようで、当時の番付には「偖初春興行の文楽座は数々の名作至芸の打揃ふた中に珍らしく「木下蔭狭間合戦」竹中官兵衛のだんを津太夫(引用者注・三世)が」と書かれている。その前の上演は大正9年[1920]なので、そこから14年ぶりの上演だった。*1

浄瑠璃では、その後も上演が行われることがあった。
昭和40年[1965]9月に、四代目竹本津太夫・六代目鶴澤寛治の演奏がNHKラジオで放送*2
また、それから38年後、平成14〜15年[2002〜2003]に早稲田大学演劇研究センターの研究・企画*3によって素浄瑠璃復活が試みられ、九世竹本綱太夫(後に源太夫)・鶴澤清二郎(現・藤蔵)が2003年5月に国立文楽劇場、12月に早稲田大学小野記念講堂で演奏を行なっている。
今回の義太夫演奏は、三味線に2003年の復活に携わった藤蔵さんが起用されており、早大の企画をベースに行なっている旨が配布パンフレットに書かれていた。今回端場がないのは、上記の演奏いずれもに端場がついていないため先例に倣うことができず、本企画のために新規で復元するのは難しいという判断だったのだろうか。しつこいけれど、実に惜しいことだ。

『木下蔭狭間合戦』の全段解説はこちらから。

備考 早稲田大学21世紀COEプログラム「演劇の総合的研究と演劇学の確立」での『木下蔭狭間合戦』素浄瑠璃復活に関しては、早大リポジトリを「木下蔭狭間合戦」で検索すると、報告や解説、演者インタビューを読むことができる。→早稲田大学リポジトリ

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ディスカッション(トークショー


以下に概略を示しますが、2日開催の両日でお話の内容が一部異なっていたため、内容を編集・統合しています。これそのままの構成で話していたというわけではありません。ご了承願います。


┃ 『木下蔭狭間合戦』の復活企画経緯について

木ノ下裕一 ロームシアターさんからこの話をいただいた際、文楽の今後につながる内容にしたいと考えた。
まず、2018年の秋の地方公演の際、静岡公演の勘十郎さんの楽屋を訪問し、「こういう企画があり、新作と時代物を」と説明して、引き受けていただいた。その時点で「竹中砦」をやりたいと思っていたが、そう言ったら断られそうなので、黙っていた。
その後、新作は勘十郎さんが若い頃に作った『端模様夢路門松』をやりたいとお願いして、勘十郎さんも再演したかった演目ということで、お引き受けいただいた。肝心の「竹中砦の段」については、演目を申し上げたところ、絶句された。

桐竹勘十郎 いつもやっているような演目の中からやればいいのかと思っていた。『木下蔭狭間合戦』は、外題は聞いたことはあるが、見たことがなく、だいたいの話しか知らなかった。

鶴澤藤蔵 ぼくは2003年に父(当時九代目綱太夫、後の源太夫)と文楽劇場・早稲田で素浄瑠璃でやったことがあり、人形が入るとどうなるのかなァと思っていたので、二つ返事で引き受けた。

太夫を誰にお願いしようかという相談になったが、四代目津太夫師匠がNHKラジオでやったことがあるので、津駒さん(当時)にお願いすることにした。「津駒さ〜ん、竹中砦やってくれませんか〜?」とお願いしたら、絶句していた(笑)。去年はコロナのために中止になって、今年はどうなるかなあと話していたが、あまりに大変な曲なので、「今年中止になったら、来年は無理や」と言っていた(笑)。

 

 

  

┃ 昭和初期で断絶した理由

木ノ下 かつては『絵本太功記』より上演回数が多かったのに、なぜ『木下蔭狭間合戦』は上演されなくなったのでしょう。(注:江戸時代〜近代の上演記録を調べると、実際には『絵本太功記』のほうが圧倒的に上演回数が多いはずです。何か違うことをおっしゃろうとして、言い間違いされたのか?)

藤蔵 昔は通し上演の興行が多かった。通しでやたっときに、筋がややこしいからではないか。かなりちゃんと見ないと、人間関係がややこしい。みんなが知っている話の『太功記』のほうがわかりやすい。『木下蔭狭間合戦』は、よっぽと通な人が好きだったんじゃないか。

木ノ下 『木下蔭狭間合戦』全段でみると、当吉と石川五右衛門が幼少だったころから、それぞれが大物になる数十年もの長い時間を描いていますもんね。

勘十郎 大河ドラマなら、一年間観ないといかん内容。『太功記』なら、有名な十段目(尼崎の段)だけでもマアマアわかる。

 

 

 

┃ 2003年の素浄瑠璃復活

木ノ下 藤蔵さんは、2003年に素浄瑠璃で「竹中砦」が復活された際の三味線を演奏されました。そのときはどのように作り上げていったのですか。

藤蔵 2003年に父と素浄瑠璃で復活した際は、昭和40年[1965]に四代目津太夫・先代寛治師匠がNHKラジオで素浄瑠璃をやったときの音を元に、豊澤仙糸師匠(四代?)の朱を照らし合わせ、ここが違うなどと言いながら父と作り上げた。いろんな人がやっていて、どれが「ホンマ」かはよくわからない。人気のある曲なので、いろんなやり方をしていたのではないか。父は「風(ふう)」を重視していたので、麓風(東風)を意識した復活になった。

木ノ下 「風」とは何ですか。

藤蔵 有名なのは、豊竹座と竹本座の曲風の違いを言う「西風」「東風」。『妹背山婦女庭訓』「山の段」の背山は「西風」、妹山は「東風」と言われる。
「風」の前に人の名前がついているものは、その曲が最初に書き下ろしで舞台にかかったときに演られた太夫の芸風のこと。「竹中砦」は、豊竹麓太夫が初演で語ったので「麓風」という。ほかに「麓風」と言われるのは、『絵本太功記』「尼崎」、『日吉丸稚桜』「駒木山」など。こう言うと、似たような感じとわかると思うけど。「竹中砦」の水盃をしているところの「ツンツンツントーン」と、「尼崎」の「水揚げかねし風情なり」の「ツーンツーントーン」のところなど、似ている。

きょうは、そのときに父が使った床本を持ってきた。ぼくは三味線弾きなので、自分では使わないんですけど。古い本で、竹本越前大掾(五代目竹本染太夫)→六代目染太夫→五代目弥太夫→九代目染太夫*4八代目竹本綱太夫に渡った。昭和41年に国立劇場で復活させたいという話が出たとき、それを父(当時五代目織太夫)が語るようにという話があり、八代目綱太夫師匠から譲られた。
床本には、わかる人が見たらどう演奏するかわかるような記号が書かれている。たとえば最初のほう、官兵衛が縁下から出てきた犬清を睨む「じろりと見遣り」のところには、「コハ」と書いてある。これは、三味線の「コハリ」から出る/「コハリ」の音階に寄るということ。この床本にはいろんなことが書いてあるので、虎の巻として使った。いろんなヒントがある。
床本は基本的に人に見せないものだが、ほかの人にはわからないよう、二つ折りにして袋状に綴じてある間に、自分が考えたこと、苦労したことのメモが入っていた。

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2003年に素浄瑠璃をやったときは、直前の東京公演で『加賀見山旧錦絵』「長局の段」の役がきていて、その舞台が終わってから「竹中砦」のお稽古をしていた。めちゃくちゃえらい(しんどい)。「長局」は陰に籠もってグーッとなる内容。「竹中砦」は発散型。

 


┃ 人形の復活

勘十郎 『木下蔭狭間合戦』は、非常に長いこと人形つきの上演が断絶していた。人形つきで上演していた時代の写真は数枚しかなく、木ノ下さんから提供してもらったのを見た。昭和41年の国立劇場の復活計画が頓挫した後、また復活させようという話が出たとき、かしら割を作ったらしいが、それも中止された。
復活は、曲があるのとないのとではえらい違いがある。今回は曲がすでに素浄瑠璃で復活されていて、CDが聴けるというのが大きい。

官兵衛には、口アキの鬼一を使った。鬼一は、50〜60代の男性に使うかしらで、『鬼一法眼三略巻』の吉岡鬼一法眼からきているかしら。本を読んで音を聞いたときに、鬼一だと直観的にわかった。
関路は婆のかしらかとも思ったが、老女方にした。女方は男性のかしらに比べて種類が少なく、娘(未婚、10代)、老女方(既婚、20代〜40代程度)の上は婆しかなく、悩ましい。千里は娘だが、単に若い娘というわけではなく、子供がいるちょっと特殊な立場。
2003年に素浄瑠璃を復活した綱太夫師匠も、かしらの見当をつけて語っていた(綱太夫も官兵衛は鬼一と解釈)。ちゃんとかしらに何を使うのか踏まえていないと、太夫は表現ができない。太夫の指導では「かしらを見てこい」という言葉がよくあり、今回、錣さんもかしらに何を使うかの確認に来た。
話はそれるが、父(先代桐竹勘十郎)のおもしろい話がある。舞台本番で若い太夫さんが語っていたとき、父にとってそれは「かしらが違う」語りだったため、父は上手に寄り、床のほうに人形の顔を向けて、「これ!これやで!」とかしらを猛アピールしていたらしい(笑)。

大道具の参考には、古い道具帳があった。不思議だったのが、「竹中砦」は逆勝手(人形の出入りが上手からになる舞台のこと)であること。普通、逆勝手になる演目には理由がある。たとえば、『仮名手本忠臣蔵』「山科閑居の段」では、本蔵が力弥に槍で突かれる場面がある。人間の役者なら左右どちらでも構わないが、人形で演じるとなると、下手側から突かれるようにしないとならない。上手から突くと、力弥の左遣いが前に出て(客席側に来て)人形を遮ってしまうので、見苦しくなる。そのため、文楽では下手の一間から槍を持って出てきた力弥が上手の本蔵を突くことになっている。しかし、「竹中砦」にはそのような場面は見当たらないので、どうしてかなと。強いて言えば、官兵衛が烽火台に刀を投げ込んで狼煙をあげるところは、下手から上手に向かって刀を投げるが……。いろいろ考えたが、最後に春永が出るからではないかと思った。段切、幕が閉まるとき、官兵衛が屋体で義龍の首を抱いて極まるのに、総大将の春永が下手にいては決まらない。やはり上手じゃないかと。また、そのままでは官兵衛と春永の目線の高さが合わないので、春永は最後は馬に乗って極まることにした。

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木ノ下 床では、素浄瑠璃と人形つきとでは、演奏にどのような違いがありますか。

藤蔵 演奏への気合いは同じだが、人形つきの場合、人形の見せ場があるなら、その間を大きくとってあげる必要がある。歌舞伎の竹本のように人形に合わせて弾くわけではないが、「こないいきます!」(ここでこう動くんですよ)というサインを出してあげる。また、人形が退出しきっていないのに次の場面がはじまってしまわないよう、退場のタイミングを作ってあげたり。この曲はまだ何べんもやっていので、そういうのもまだハマってないけど。

 

 

 

┃ 三味線について

木ノ下 今回は、床に予備の三味線を一挺置いて演奏されていましたね。

藤蔵 激しい曲なので、三味線は二挺用意した。リスクがある曲は、必ず替え三味線を用意する。本公演なら、もし糸を切ったり、皮を破いても、壁をコンコン!と叩けば床世話の人に横の扉からすぐ予備を出してもらえるが、ここ(床が仮設置で三味線側に扉がない)では間に合わないので、自分のすぐ横に置いておいた。

「竹中砦」は官兵衛が出てくるまでのマクラが重い雰囲気で、一番しんどい。「三段目」の雰囲気を出さなくてはならない。その後、犬清切腹→千里自害→注進と続くが、犬清切腹後の水盃が一番難しい。ほかは惰性やぶちかましでも成立するが、静かなところはそうはできないので、大変。押さえたところ、しっとりしたところの変化を弾くのがしんどい、だから前半が大変。
太夫も、調子が激しところ/落ち着いたところが急に切り替わる部分、急に落ち着いた詞(コトバ)に戻るところが大変なのではないか。太夫も生き物ですから、自分のしんどい息を押さえながら語る。『一谷嫰軍記』「熊谷陣屋」で、熊谷が首桶を掲げながら「言〜〜〜上〜〜〜〜す〜〜〜〜!!!!」と大音声で言ったあとに、義経が落ち着いて喋りはじめるところなどの、「戻ってくる」ときのしんどさがある。

そのあと、2回目の注進が激しく長い。しんどく、いっぱいいっぱいになって弾く。ただ、ここは馬力でいけるんですけど。昭和9年文楽座で、三代目津太夫と一緒に演奏した(四代目鶴澤)綱蔵先生という方はよく手が回る方で、「竹中の砦に光る機関銃」とうたわれた(笑)。

木ノ下 舞台稽古の際、たくさんの三味線を並べていらっしゃったことに驚きました。

勘十郎 来たら、楽屋に置いてある荷物が藤蔵さんのだらけ。藤蔵さんの、藤蔵さんの、これも藤蔵さんの、なんでこんな藤蔵さんのが(笑)

藤蔵 2月の東京公演の千穐楽(2月22日)で、この公演にも使おうと思っていた三味線の皮を破ってしまって。京都の三味線屋さんにすぐ送って、27日に間に合いますか?と電話したが、「ちょっと難しいかもしれませんね」と言われたので、いくつかの三味線のうちどれにするか、試していた。しかし、本番直前になって「張り終わりました!」という電話がかかってきた。棹を持ってきていなかったので、急いで文楽劇場へ取りに行った。

木ノ下 三味線はどのような使い分けをしているのですか。

藤蔵 三味線それぞれに、音の個性がある。その三味線自体が大きい音がするとか、世話物向き、景事向きなど。持っている三味線が何に向いているかは、何回か弾いているうちにわかるようになる。
大きいホールで使うときは、さら(新品)の、皮が張りたてのものを使うと、打ち撥の「パパッ」という音がしっかり出る。時代物の「ノリ」という打楽器のような派手な手は、さらの三味線でパーッと弾くと「らしい」音が出る。こういうときに「鳴らん」三味線でやると、三倍えらい(しんどい)。思てるのと違う、「ボコ…」という音がすると疲れる。
逆に、『艶容女舞衣』の酒屋、『仮名手本忠臣蔵』の勘平腹切は、わざと「鳴らない」ものを使う。芝居の雰囲気で、「鳴らんほうがいい」。また、赤姫が出てくるようなもの(『本朝廿四孝』十種香など)は、「チーン」といういい音がするものが良い。
皮が張り終わり、出来上がってきてすぐは、弾き込んでいかないと音が違う。この三味線も、明日は音が違うと思う。事前にずっと弾いていないと、音があったまってこない。しかしそのままだと糸が痛んでしまっているので、楽屋に来て、弾いて、糸を替えて舞台に出る。

 


┃ 人形の演技について

勘十郎 官兵衛はかしらが鬼一なので、あんまり動かないようにした。その上、官兵衛は矢が当たって休みをもらっている身なので、気をつけた。鬼一は顎(おとがい。アゴ)の使い方が重要。鬼一のアゴは細くなって少し前に出ている。文七の頬がちょっとこけると、鬼一になるイメージ。
じっとしている役は難しい。自分はだいたい動かす方、動かしたいんですけど。どうしても手をグッと出してしまったり。うちは先代から動かす役。玉男さんはわりとじっとしている。今日もじっとしている役(小田春永役。出てきてすぐに座ったら段切までそのままじっとし続ける)。これは先代からそう。

官兵衛が清松と対面するところは、わざとらしく鎧櫃の上に下ろしてもらった。文章通りなら、当吉に背負われたままのはずだが、当吉役の玉志くんに「一回下ろして」と頼んで。

木ノ下 舞台稽古でこの演出を初めて拝見したとき、いくさの象徴の鎧櫃の上で、それとは真逆のイメージの子供が平和に眠っているというコントラストに「これは!」と思わされました。(すみません、言葉あいまいです)

勘十郎 当吉はエエ役ですね〜。当吉やりたかった。出番の時間が短い上に、最後に出てきて、いいところをパァーッと持っていく。

 

 

┃ 『端模様夢路門松』について

勘十郎 昭和59年に初演し、その後何回か再演した後、もう一度やってみたかったが、声がかからなかった演目。長いことやっていなかったが、木ノ下さんからリクエストを受け、これでよかったらとお応えした。
スペシャルゲスト・門松くんが登場。おひざに門松くんを孫のように乗せる)
この本は、30歳くらいのときに、ある日突然思い立って書いた。ツメだけの芝居があってもおもしろいんちゃうかと。それまでに、ツメ人形で解説をやったことがあり、それを舞台の袖から見て笑ったりしていたのが発想元。ブワーッと一気に書いた。小学校の作文は書くのに何日もかかったのに(笑)。

木ノ下 早く主遣いになりたい、三人遣になりたいという気持ちが現れていたのかもしれませんね。当時は足を遣っていたのですか。

勘十郎 足と、簡単な左を遣っていた。足を最後に遣ったのは、父が病気になり、最後に団七を遣ったときの足だった。余談だが、そのときあまりにも丸胴(裸になる人形に使う胴体)がボロボロだったので、新調して、刺青をぼくが描いた。

ツメ人形は、入門してすぐ、誰でも触ることができる人形。三人遣いの人形は、衣装をつけて出来上がったら、その人の許可がなくては、他の人は一切触ることはできない。でも、ツメは廊下に吊ってあり、誰でも触ることができる。よく使うお百姓さんや町人(の胴体)はいつでも出来ていて、頭を挿すだけで使えるようにしてある。

木ノ下 頭の後ろにある釘で吊るしてあるんですね。

勘十郎 鏡の前で、見よう見真似で練習する。そんなことをやっているうちに、ツメ人形が好きになる。いろんな顔があって、みんな好きなかしらがある。配役が出て、「ア!軍兵やな!」とツメ人形の役(大ぜい)がついていると、みんなバーッと取りに行って、取り合いになる(笑)。
ツメ人形だけで芝居する話というのがあって、『一谷嫰軍記』「脇が浜宝引きの段」は面白い。登場するお百姓さんのツメ人形それぞれに個性がある。太夫も、ちゃんと語れる上のほうの方がやる。ツメだけで芝居が成立する。

ツメ人形のかしらは普通、文楽劇場所有のものだが、門松くんは個人のもの。ぼくの弟弟子の簑二郎が彫った。彼が研修生(3期生)のとき、研修の一環で当時ご健在だった鳴門の人形師・大江巳之助さんのところへ泊まりがけで行って、人形のかしらがどのように作られているのかを学ぶため、大江さんの指導を受けて彫った。でも、自分ではほとんど彫っていないと言っていた。チョコ…と恐々彫っていたら、大江さんに取り上げられて、大江さんが彫ってしまう(笑)。

門松くんの頭はあつかましいほど大きい(笑)。本当はツメ人形の頭はもっと小さい。三人遣いの人形を引き立てるために、三人遣いより小さくなっている。だから本当はもっと彫り込んでいかなくてはいけないんですけど。門松くんは初演のときからこれを使っていて、ぼくがずっと預かっている。

初演のときは、豊竹嶋太夫さんに太夫を頼んだ。嶋太夫さんは、「ツメだけで芝居するんか?」と絶句していた。ツメ人形には感情を込めたらいかんと、こんこんとお説教をされて、それはわかってるんですが、こういうのをやりたくて、とお願いして、ご理解をいただき、語っていただいた。初演の三味線には、燕三さん(当時燕二郎)や藤蔵さん(当時清二郎)にも出てもらった。 

 

 

┃ これからやりたいこと

藤蔵 今回の「竹中砦」は官兵衛の出からの上演だったが、本当は端場からやりたかった。壬生村(九冊目)も人形つきでやりたい。せっかく父とああだこうだやって、復活させたので(2005年に文楽劇場早稲田大学で素浄瑠璃を演奏)。父も形になることを願っていた。父は20歳ごろ、(八代目野澤)吉彌さんに教えてもらったらしい(とおっしゃっていたと思うが、綱太夫の談話を確認すると、野澤吉彌の指導を受けたのは16歳ごろという発言がある)父と「壬生村」をやったCDコロムビアから出ている。次回実現したらと思う。文楽劇場で竹中砦と壬生村がかかりますように。

勘十郎 「竹中砦」に端場をつけ、「壬生村」と一緒に、もうちょっと形を整えて上演できたらと思う。『木下蔭狭間合戦』も、五右衛門が出てくるだけでも魅力的。父は埋もれている面白い演目がたくさんあるとよく言っていた。もっとやらないかん、もったいないと、『摂津国長柄人柱』なんかをやりたいと言っていた。ぼくは明日68歳になり*5、父が亡くなった歳を超える(父が亡くなった年齢になるまでは「こういうふうに過ごす」という目標・目安があったというようなことを話されていましたが、それが何だったか、忘れました……)。この年で、あんな長い時間人形が持てるのは冥利に尽きる。これからの68歳で、何ができるか。次の年も、また次の年も。いつかまた復活物ができればと思う。

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……というわけで、『端模様夢路門松』、『木下蔭狭間合戦』、ディスカッション、合わせて約4時間に及ぶ長丁場だった。こんな長時間公演、久しぶりだ。

なにはともあれ、この公演が開催できて本当に良かった。1年待って、やっと上演できてよかったと思ったのは、主催者・出演者だけでなく、われわれ観客も同じ思い。観客の中には、去年チケットを購入して中止に落胆し、今年改めてまた取り直した方がかなりいたのではないだろうか。自分もなんとか再企画して頂きたくて、形に残る要望をしないとと思い、払い戻しのチケット返送の際に要望の手紙を入れたりしたけど……、本当に再企画され、そして公演が無事に実現して、感無量だった。

今回の公演を通して、自分自身の文楽の見方について気づいたことがあった。この公演自体は大変面白いものだったけど、私が文楽に求めているのは、古典芸能としての、何度も上演を重ねることによって完成された練度なんだな。本公演でなんども上演を重ねられているものの練度の高さ、古典芸能の「伝統」そのものの重みをいままでになく実感した。『木下蔭狭間合戦』も『端模様夢路門松』も、国立劇場文楽劇場の本公演に採用され、この先数十年に渡ってなんども上演され、「珍しい復曲作品」でなくなったときにこそ、価値が出るのだと思う。そして、文楽がこの先も長く続いてゆくよう、ファンの立場から守っていかなくてはならないと思った。

 

ところでこの企画、京都市の文化事業予算等を財源にしているのだろうか? パンフの販売あるのかなぁと思って行ったら、なんとパンフと床本を無料配布でもらえた。客席案内のスタッフは潤沢、場内で使う不織布の荷物袋も配布。なにより出演者にレベルの高い技芸員を揃えているし、舞台装置も本公演相当。にっぽん文楽もおふねパワーでかなりの資金力を感じたが、京都のみなさんありがとうございますと思った。また、ロームシアターからは昨年の中止時、今年の会場変更時ともに、説明の電話連絡を頂いた点も有り難かった。今回の会場変更もわざわざ電話がかかってきて、どういう変更になっているかを案内していただきました。

ただ、ロームシアターも木下さんも勘十郎さんも、SNS等にこの公演の舞台写真を載せていないのが非常に勿体無い。報道にもほとんど出ていないのではないだろうか。気になった人が後から追ったり、観に行った人が知人に「こういうの行ったよ」と伝えづらいのは、もったいないことだと思う。

 

 

この公演本編の記事

 

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*1:さらにその前は、大正5、2年、明治44、41、38年……(以下略。文楽座・彦六座合算)となっており、実際に上演がもっとも多かったのは江戸時代、文化・文政・天保期である。江戸時代を通しての上演回数は、『木下蔭狭間合戦』65回、『絵本太功記』171回。近代での上演回数は、『木下蔭狭間合戦』24回、『絵本太功記』48回。カウントは『演劇学』第33号(早稲田大学演劇研究室/1992年3月)所収、宮田繁幸「近世における人形浄瑠璃興業傾向について−義太夫年表資料を中心として−」による。この資料は、義太夫年表に収録されている興業をカウントしているとのこと。これによると、ほかの太閤記物では『三日太平記』(近松半二ほか作、明和4年[1767]初演)が人気だったようだ。『三日太平記』は江戸時代には80回上演されているが、近代に入ると上演が途絶える。

*2:これが放送されたのって、当時大河ドラマで『太閤記』やってたから?

*3:21世紀COEプログラム「演劇の総合的研究と演劇学の確立」のうち古典演劇研究(人形浄瑠璃コース)の活動による。

*4:ここで一度豊竹山城少掾に渡ってから、八代目綱太夫、三代目津太夫に渡る? 「竹中砦」の伝承された床本は、どうも2冊あるみたいですね。

*5:勘十郎さんの誕生日は公演翌日。閏年の2/29生まれなので、平年は3/1がバースデーになるということのようです。閏年の29日生まれの人って、ふだんは誕生日いつになるの?と思っていましたが、意外なところで知ることができました。