TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 1月初春大阪公演『伽羅先代萩』竹の間の段、御殿の段、政岡忠義の段、床下の段 国立文楽劇場


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初春公演、第二部、伽羅先代萩

1月は、『先代萩』がいちばん良かった。

これぞ文楽の誇る格調高き世界。63万石を誇る大藩の奥御殿、その洗練が舞台上にあらわれていた。政岡・和生さん、沖の井・勘彌さん、八汐・玉志さんという洗練された方が重要な役を担っていたことが大きいと思う。洗練は洗練でも、3人のタイプが分かれているのも、良かった。

 

和生さんの政岡は、これまでに何度も観ている。コロナ禍による長期休演ののちに上演された、2021年2月東京公演の『先代萩』は、本当にものすごい舞台だった。そのときの政岡から感じたのは「情熱」。燃え上がり、また、血潮が噴き出すような姿だった。特に「政岡忠義の段」では、彼女のあの真っ赤な衣装は、息子を失った慟哭によって、まさにいま、彼女自身から吹き出した血で染まったばかりなのではないかと思わされた。
そのときの和生さんは、あらゆる意味で、本当に真剣に舞台に取り組んでいたと思う。公演が行われることそのものの意義、今後“普通”の公演がどこまでできるのかという危機感、そして自分の今後の舞台人生や体力的なリミットといったことが、そうさせていたのだと思う。政岡という役がもつ情熱、和生さんが文楽にかける情熱がかけあわされた極限的な世界で、これ以上の『先代萩』があるだろうかと感じた。

今回の政岡は、それとは少し異なる。一言で言えば「情愛」。鶴喜代君や千松への深い愛と、愛ゆえの慟哭が滲んでいた。2021年2月の政岡の表現は、彼女自身の感情が主体だが、今回は子供たちへの感情が主体という印象だ。それは、端々の仕草や目線の柔和さによるものだと思う。あの真っ赤な衣装が、子供達をあたためる血の温もり、生命の象徴のように思えた。
今回は、「御殿の段」がとても良かった。政岡の矛盾は、千松を見殺しにするよりも前から始まっている。今回は、子供達に満足にご飯を食べさせられない政岡の苦しみが強烈に感じられた。政岡は子供達の世話をしながらご飯の準備をしている。子供ふたりに何やかや言って大人しくさせようとしているときは模範的ママとして冷静沈着だが、茶室(キッチン?)でひとりになると、個人としての彼女に戻り、子供たちの不遇に涙をこらえきることができない。政岡は、直接目を向けていないときであっても絶え間なく子供たちへ想いを注いでいて、彼女の心のうちはそれに占有されている。子供たちの前にいるとき、ひとりでキッチンに立つときの、感情のあらわれの違い。しかしながら、それは政岡というひとりの女性の心情として、シームレスである。これは今の親にでもおなじようにありえることで、普遍的な感情が普遍的に表現されている。だからこそ、「飯炊き」が、単なる「特別な演技」「みどころ」に堕落していない。和生さんならではの芝居といえる。

2021年2月東京公演が終わったときは、これ以降は和生さん、政岡役を固辞するんじゃないかという「一世一代」の芝居に思えたが、また引き受けてくれて、そして、より深みのある政岡の描写を観ることができて、良かった。今回の公演についての和生さんのインタビューで、「心を込めて勤める」という発言をされていたものがあったが、まさに心のこもった政岡だったと思う。私は、平生、舞台人が「心を込めて」などと言うのは、研究も努力もできない奴のいう逃げ口上だと思っている。しかし和生さんは、真実、心がこもっているのだッ。と、思った。

それと、本当はこれが一番よかったことかもしれないが、「御殿」の左遣いは、前までと違う人なんじゃないかな。いままで本公演でついていた人と変えていますよね。前までの人は、本当に上手く、文句のつけようもないほど手慣れた人だった。今回の人は、姿の見せ方はとても美しく、かつ、和生さんに合っているが、飯炊きのところの手順が時々焦り気味になってしまう。でも、私は、この人に変えて良かったと思う。和生さんは大変だったと思う。しかし、和生さんがこの人のことを思って遣うことが、政岡の母性やいたいけな者たちへの慈しみをより一層深めていたんじゃないかしらん。そして、この人を左につけたことで、和生さん自身も、「成長」したのではないかと感じる。この人がいつか政岡を遣う日がくることを、心から願っている。

 

玉志さんは、八汐への配役は今回が2度目。前回よりも上手くなっていて、驚いた。こんな役が上手くなることがありえるのか、と思った。
正しい表現をすれば、「洗練された」。八汐というのは「なんか憎たらしくすればいい役なんでしょ」的なイメージがあったが、そこにとどまらず、類型を排して独自の悪意を表現している。憎たらしいババアにすればいいんだろ、とか、どうせこんな役、とかの思考停止をしていない。玉志さんの悪役といえば、『夏祭浪花鑑』の義平次では、昆虫的な不気味さ、人間には理解できない生命の機構や意思の存在を感じさせたが、八汐はいうなれば鳥類。人間とは隔絶した、埒外の不気味さをたたえていた。鳥が嫌いな人の気持ちがわかるッ。寄り目にするところなどはかなり一気にどきつくやっており、主役系立役の寄り目とは一線を画する不気味さ。女方の悪役で自分をどういかすか、和生さんの政岡との対比をどう出すか、よく考えられていると感じた。玉志さんは京極内匠(彦山権現誓助剣)松永大膳(祇園祭礼信仰記)のような色悪・国崩しといった主役系悪役も幅と深みのある独自の人物像だったし、蘇我入鹿(妹背山婦女庭訓)のような公家悪も俗化させず華麗。「悪さ」の表現に幅がある。不思議な才能だ。

「女性」性に寄せすぎなかったのも、良かったと思う。いかにも女、女といった仕草を付け足すのではなく、シャープさや神経質に尖った雰囲気を押し出すことで「八汐」というキャラクターを立体化させた。たとえば段切で決まるときの胸の張り方など、凛々しい立役風で、中性的な雰囲気。ホンに描写されているよりも、だいぶ気高い方向へ寄っていて、モダン。舞台写真でも紹介されるようないわゆる「みどころ」、上手側をキッと向き、打掛を引き上げて政岡にすごむ姿勢の、かしらの動きと右手の動きのバランスは秀逸で、高音でせり立てる緊迫感のある雰囲気が出ていた(むろん、それを受ける和生さんが政岡を低く倒し、たおやかに遣っているからこそ、八汐の鋭さがより立っているのだが)。どこまで意図的にやっているのかはわからないが、演技設計として、上手い。
ただ、女性性を全く排しているわけでもなく、前回より女性特有の所作は洗練され、自然な雰囲気に寄っていた。打掛の引き上げ方などは、前回配役時の単に所作がキツすぎる状態から劇的に改善されて、気性の激しい女性の所作として落とし込まれていた。扇子を帯に挿す所作も、イケメンすぎる印象が抑えられた。ただ、男女で帯を締める位置が異なるなど、人形の構造自体が違うこともあってか、立役ならまずミスらないところで手間取るなど、加減に苦労がある部分がみられた。
変に「女々」せずとも役が成立したのには、元々あった中性的な雰囲気が結果的に強みになったのだと思う。「こういうオバチャンいるよね〜」にならないのは、強い。まったくもって女方ではないのに、あの中性的な雰囲気というのは不思議。初代玉男の健在当時、師匠がなにをやっているのか、よく見ていたのか。あるいは、師匠が女方をやったときの左についていたことがあり、その影響があるということなのだろうか。

それにしても、首を「プルルッ」と振る玉志サン特有のあの仕草、女方でもやるんだ。と思った。振る幅は男性役よりもかなり狭めだが、八汐が動き出す前のアクセントとして多用されていた。本当、なんなんだ、あの、「プルルッ」。顔が白塗りではない、性根がメガテンでいうところの「ロウ」属性ではない、身分がある一定基準値以下である等、いくつかの条件のうち、複数の項目にあてはまった場合にやっているように思うが、ご本人の中でなんらかの定義づけがあるのは間違いないけど、わしには、わからんッ。*1

 

鶴喜代君〈吉田玉彦〉は非常に上品で、いかにも王子様な雰囲気。おなじ子役でも、12月の『源平布引滝』の太郎助ときちんと区別がされている。ちまちました仕草が愛らしく、座り姿がかなりちょこりんとしており、まるできんちゃく袋が座ってるみたいで、良かった。
雀が飛んでいくときには、目線を高めに浮かせて、視線でしっかり追っている。そこには「カゴの中の鳥」である自分とは異なり、自由に羽ばたきどこへでもいける雀への羨望が含まれている。役の目指すところをふまえた演技で、良い。

千松が、床も人形もちょっと身分低すぎになっていたのは、気になった。ここまでの大身の大名の小姓で乳兄弟ともなると、「ただのガキ」ではすまされないはずだ。具体的には、床は、間合いが早すぎ。食い気味になっているのはただのクセだろうから、正してほしい。人形は、身分感が周囲から浮いている。床につられてしまっているのだと思うが、動きがバタついて折目正しさに欠けるのと、細かい所作での鶴喜代君との落差とでもいうべきものが気になった。

鶴喜代君と千松は、「御殿の段」の最後で、炊き上がったごはんを激喰いする。前から思っていたが、食ってる量、多すぎんか? ご飯を圧縮した「にぎにぎ」(おにぎり)であのサイズ、しかも6個。ひとり3合近く食っているように見えるのだが……。政岡の茶釜、小さそうに見えて、5.5合炊きなのだろうか。もしふたりが無事に成長したら、近日中に茶釜を1升炊きに買い替えて、1日3〜4回炊かないと、飯の量が間に合わなさそうだ。

↓ クソデカ・ニギニギ

 

栄御前は簑助さんがやったときがロリババア感最高で良かったからな〜!と思っていたが、ミノジロオ・サカエ・ゴゼンもかなり良かった。古式ゆかしい少女漫画の嫌味なお嬢様キャラ(でも最後には主人公を助けてくれる)みたいだった。簑二郎さんの欠点ともいえる硬さが役に活きたかたちとなった。栄御前は緋色の袴をはいているので、普通の女方と異なり、座り姿勢になるときに正座にならず、武将役が床机にかけたときのような姿勢になる。このとき足の形がメチャクチャなことになる場合が多いと思うのだが、今回は綺麗に座っていて、それも良かった。

 

床は、「御殿の段」はストレートで、とても良かった。千松の喋り方は相当どうかと思ったが、政岡が千歳さんの地声をいかしたままの喋りで、変なこさえすぎがないのが良かった。間合いはもう少し精緻なコントロールがいると感じた。
「政岡忠義の段」はちょっと形式的に感じられた。率直に言って浮いている。「政岡忠義の段」の後半に描かれているのは彼女の心情の世界だ。そこまでの華麗な奥御殿の世界とは異なり、表面的な華やかさだけでは成立しない。仮に歌舞伎であれば、役者を引き立てるという意味ではこれでいいかもしれないけど、文楽だと白々しい。12月の「新口村」もそうだったけど、呂勢さんには、義太夫を綺麗に演奏すること以上の領域を発見する必要があるように思った。

 

 


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今回は珍しく「床下の段」も上演。
奥御殿で騒ぎが起こっているころ、床下では、怪しい巨大ネズミがお家の系図書を盗み、走り去ろうとしていた。ところが床下には行方知れずと思われていた忠臣・松ヶ枝節之助が潜んでいて、すんでのところでネズミを捕える。実はこのネズミは、お家乗っ取りをたくらむ奸臣・貝田勘解由が化けたものだった。しかし、勘解由は忍術を使って節之助の前から姿を消す……という話。文楽劇場のセリ機構を使った演出がふんだんに盛り込まれる。

文楽で、これ、いるかな? 歌舞伎ならいいけど、文楽にこういうケレンはいらないでしょ。
……とも言えるが、これがショボく見えるのは、配役要因だと思う。床はともかく、人形はこういうところこそ上手い人に締めてほしい。これだけ見て、貝田勘解由が御殿に渦巻く陰謀の中心にある巨悪だとわかる人はいないだろう。やるならやるで、「ちゃんとその役を演じられる人」をつけないと、「政岡忠義」の情感が削がれ、逆効果。

松ヶ枝節之助のグリーンのベルベットの小袖、黒地に金糸の刺繍に大きく牡丹をあしらったド派手な衣装は面白い。そのカッコでずーーーーーっと床下に隠れとったんかい。「変質者は変質しているから24時間でも溝にずーーーーーっと潜んでいられる」という事件を思い出した。
着ぐるみで演じられる巨大ネズミは、当たり前だが、歌舞伎のほうが動きにキレがあって、怪異感があるなと思った。文楽の巨大ネズミは、地下帝国にいそうっていうか、「正月コタツでゴロ寝してただろ」って感じで、気が緩みきったカピバラみたいだった。カピバラ長風呂対決に参加してください。
あと、この御殿、床下の柱がものすっっっっっっっっっっっっっっっっっっごい高いけど、高床式なの?という点が非常に気になった。

 

↓ 話がかなりわかりづらいと思いますので、参考用、全段のあらすじまとめ記事です。

 

 

 

  • 義太夫
    • 竹の間の段
      豊竹芳穂太夫/野澤錦糸
    • 御殿の段
      切=竹本千歳太夫/豊澤富助
    • 政岡忠義の段
      豊竹呂勢太夫鶴澤清治
    • 床下の段
      竹本小住太夫(前半)豊竹亘太夫(後半)/竹澤團吾

  • 人形
    八汐=吉田玉志、沖の井=吉田勘彌、鶴喜代君=吉田玉彦、千松=桐竹勘次郎、政岡=吉田和生、小巻=吉田玉誉、忍び=吉田玉峻、栄御前=吉田簑二郎、松ヶ枝節之助=吉田簑紫郎(前半)吉田玉勢(後半)、貝田勘解由=吉田玉勢(前半)吉田簑紫郎(後半)

 

 

 


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やはり和生は上手い。と思った。

和生がピンで上手いだけではない。和生さんが出ていると、和生さんを中心に舞台がまとまる。いったい、ほかの人と、何が違うのだろうか。そりゃ、和生さんの権力(?)をもってすれば、「ああせえ、こうせえ」と言っただけで全ての人が「はいわかりました」と返事する(せざるを得ない)だろうけど、単にそれだけのこととは思えない。和生さんが出演している場合、「この人……、ちょっとなぁ……」という共演者をも、ある一定水準まで持っていってるからなぁ。相当厳しい方と聞いたことはあるが、単にキツく言っただけでは下手な人(失礼)が急に上手くなるわけがない。和生さんは、指摘のポイントやその伝え方が的確ということなのか? みんなを「巻き込む」あるいは「引き摺り込む」のがうまいのだろうか? 和生著のビジネス書『どんなチームでもプロジェクトを成功させるリーダーの秘訣10』の出版が待たれるッ。

でも、本当、文楽のように細々とした体制の古典芸能で重要なのは、いかに後進を指導し、チームとしての目的を達成するかだと思う。ひとりだけ上手いとか、目立っているとか、私からすると、意味がない。初代吉田玉男のインタビューを読んでいると、後進の指導に力を入れていることに繰り返し言及がなされている。そこからは、自分を良く見せたいがためのイイ話といった次元を超えた何かを感じる。初代玉男師匠は、自分だけが上手くても、舞台上では何の意味もないことをよくわかっていたからこそ、そう発言していたんじゃないか。最近は、よく、そう思う。

 

先代萩』は、戦中戦後には慰安演目としてよく上演されていたという。〈忠義〉のために子の命を捧げる母の姿が描かれているからだ。実際に、戦時中に義太夫の演目が国策にあっているかどうかを審査した資料では、『先代萩』が〈忠義〉を描いた物語として称賛されているのをみることもできる。そもそもの物語自体は、〈忠義〉のために私情を殺さなくてはならないのは不条理であるという話であり、また、江戸時代当時の一般客は、〈忠義〉のために我が子を捧げるなどということがなかったからこの演目を楽しめたはずだが、残酷なことだ。
当時もっとも共感されたのは、「御殿」、子供達にご飯をお腹いっぱい食べさせたいという親としての願望の部分ではないだろうか。江戸時代の東北地方では、冷害などによりすさまじい大飢饉が起こり、筆舌に尽くし難い悲惨な状況に至っていたという(天明の大飢饉天保の大飢饉)。それは、よく聞ような「娘を身売り」どころではない惨状だったそうだ。人形浄瑠璃が興行しているような都会では生命の維持にこと欠くとか、食事にこと欠くまではいかなかっただろうが、飢饉の話は聞かれていただろう。そのとき、千松や鶴喜代君の空腹、政岡の苦悩は、どのように受け取られていたのだろうか?

 

 

 

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展示室の政岡さん。展示室の政岡さんのヘアスタイルはいつも「これ」だけど、舞台の和生さんの政岡は、違いますよね。和生さんの政岡は髷の前に櫛を挿しておらず、かんざしは笄より下に挿している。どういう理由なのだろう。

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*1:今月の東京公演『双蝶々曲輪日記』の濡髪は、「難波裏喧嘩の段」で1度だけ軽く「プルルッ」と振る。どういう判定なんだ?