TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 2月東京公演『艶容女舞衣』『戻駕色相方』『五条橋』『双蝶々曲輪日記』 日本青年館

 

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2月東京公演は、神宮外苑にある日本青年館で上演。日本青年館てこんな場所やったっけ??と思ったら、2017年の建て替え時に場所ごと微妙に移動してたのね。

最近知ったのだが、日本青年館という施設は大正時代からあり、そもそもは明治神宮造営とともに計画されたものだそうだ。なぜこんな施設が神宮外苑にあるのか、なぜ「青年館」なのかは、山口輝臣『明治神宮の出現』(吉村弘文館/2005)に詳しく書かれている。この本、おすすめです。

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場内は、12月の「シアター1010」と同じく、「地方公演のうち、いい方の会場」という印象。2階層かつ客席に縦の奥行きのあるホールで、1階のみで815席あるとのこと。2階席の位置が高く、また、天井高もかなり高いのが特徴だった(2階席は販売なし)。本舞台の間口は国立劇場くらいだろうか。広すぎず狭すぎず、文楽として標準的と感じる幅。いわゆる緞帳はないようで、開演していないときは定式幕のみ張っている状態だった。本舞台上手には回転できる出語床を設置。もともと舞台まわりに大きな余裕があり、また、舞台袖が張り出している設計のため、客席を潰しての設置ではなく、上手の袖にそのまま出語り床を乗せているようだった。

音響は、天井高のためなのか、三味線の音が少し散り気味のように感じられた。音域の脱落はないが、低音の余韻が飛ぶため、やや軽く聞こえる。また、太夫の声を含め、上手ブロック床付近の席よりも、中央ブロックのほうが浄瑠璃が自然に聞こえるように感じた。
本舞台上の音は、かなり強く反響するようだった。人形が手を叩くときに木同士が触れ合うカチンという音まで客席に響いていた。足拍子は、いわゆる伝統芸能的な低い響き方ではないのだが、音はかなり大きく出ていた。踏んだときの振動は、国立劇場以上に伝わってきた。

人形の見えは、良くない。見えるか見えないかの話でいうと、客席の傾斜が強いので、後列席からでも人形が見えるというメリットは大きいと思う。ただ、問題は前列席。ステージ自体が高く、客席との距離が遠いため、極端にいえば、お祭りで山車の上の人形を見ているかのような状態になる。たとえば第三部『双蝶々曲輪日記』「引窓」は、もともと濡髪が2階座敷に出る演出があり、それがより見上げ姿勢になるのは良いのだけど、演目によってはしんどいものも出てきそうだった。

ロビーが激狭なことは気になった。1Fが入場前ロビー、階段上がってすぐにチケット改札があり、2Fは入場後ロビーとなっているのだが、これらのロビーが、ロビーというより、ただの通路。
特に2Fは、今回、義援金募集やお土産物販の机、イヤホンガイド・プログラム販売の机が出ていたけれど、もうそれだけでまともに通行できない状態になっていた。休憩用ベンチがないとかそういう次元ではない。休憩時間にロビーに出ていられない。入場階段付近や階段自体も狭いので、出入りがやたら混雑する。文楽は1階席のみしか販売していないし、今回は満席まで入ってなかったので人混みはまだましな方だと思うが、2階席まで人を入れる完売公演の場合はどうなっているのだろうか。

「シアター1010」と同じく、ここも、客席に電波が届く仕様。ある日、「引窓」で延々携帯鳴らしまくっているヤツがいて、5人目になりたい…ってコト!?と思った。

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第二部、艶容女舞衣、酒屋の段。

久々に清十郎さん復帰。まずはあまり重くない役からということなのか、三勝を演じていた。特に以前と変わりない様子だった。三勝は手拭いをかぶっている時間が長いため、そこの見せ方には検討が必要だと感じた。

お園〈桐竹勘十郎〉がおかるみたいなことになっているのが気になった。言いたいことはわかる。だが、話から乖離しているし、本人の持ち味からも浮いている。相手役が目の前にいないと、過剰になってしまうということなのか。それとも、簑助さんを意識しすぎなのか。

お園にはお園の才能が必要だ。お園のやっていることは、「自分が一生懸命相手を想っていることには至上の価値がある、相手や世間はそれを認めるべきだ」的な、推し活を履き違えた女子に近しいアレがある。自分が半七の立場で、「ここで死んだら来世では妻ッ!」とか言って悦に入ってる女が「自宅待機」しつづけてるとしたら、怖すぎて、ほんまに、家、帰れん。
この完全なるヤバみを崇高性をもって表現できる人でないと、お園というキャラクターは成立しない。まず「クソヤバい」、しかし着地点としてその異常さの突き抜けが崇高性を帯びている、というのが重要だ。
こういう虚構性は、おそらく、簑助さんが得意だったんだろうな。いま配役されるような人は、簑助さんを模倣しようとしているから、変になるのだと思う。そうでない出発点からはじめないと、「十種香」の八重垣姫と同じく、「簑助のほうがうまい」としか言いようがないのだと思った。

長太〈吉田玉彦〉は、中央線の居眠りサラリーマンのように、「いつでも起きれます」な寝方だった。冒頭のこの寝姿は結構難しいと思う。寝ているように見えない場合が多い。今回は少なくとも寝てはいる。
勘壽さんは半七パパ・半兵衛に来たか。確かに半兵衛は建前が極めてきちんとしている人物なので、これくらいキリッとした人がやらないと締まらない。勘壽さんの真面目な商人役らしい居ずまいで、首をぎゅっとかためたような姿勢が印象的だった。対してお園のパパ・宗岸にまわったのは玉也さん。半兵衛より宗岸のほうが若干柔和なので、これが合っているのかもと思った。
それはそうとして、半兵衛のパパママは、初孫と初対面🤩❤️✌️なのに、生まれてからずっと一緒に住んでそうだった。初孫が初めて遊びに来ておひざに乗ってきたら、おるのかおらんのかわからん息子とか、どうでもええし〜ってなりそう。

 

床は良かった。
錣さんは、自分のことはさておき娘息子のことしか頭にないジジババの心境がリアルに描写されていた。それと、錣さんは、五人組の頭*1に似ているのが、良い。
今回は、床と本舞台のあいだが狭すぎるせいか、白湯汲みが客席から見える位置にはついていなかった。酒屋は、白湯を出していたかどうかも見えなかった(「引窓」は出していた)。
清治さんは、今後このままずっとこうしていくつもりなのか。腕そのものが大きく落ちたとは思わないし、年齢からくる不安感をやわらげるためにやむを得ないとも思うが、やっぱり、生きていくというのは、最後は、自分の気力との勝負なのか。

 

 

 

  • 義太夫
    中=竹本三輪太夫/鶴澤清友
    切=竹本錣太夫/竹澤宗助
    奥=豊竹呂勢太夫鶴澤清治

  • 人形
    丁稚長太=吉田玉彦、半兵衛女房=吉田文昇、美濃屋三勝=豊松清十郎、娘お通(黒衣)=吉田和登(前半)豊松清之助(後半)、舅半兵衛=桐竹勘壽、五人組の頭=桐竹亀次、親宗岸=吉田玉也、嫁お園=桐竹勘十郎、茜屋半七=吉田勘市(代役、吉田清五郎全日程休演につき)

 

 


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戻駕色相肩、廓噺の段。

地方公演の景事みたいだった。

駕籠かき二人(実は正体がある)とカムロチャンがお国(?)自慢をするという建て付けだが、彼らはお互いに興味はなさそうだ。次郎作〈吉田玉佳〉だけ、カムロチャンの羽突き大失敗に微妙に目線を送っていた。前に玉志さんが次郎作をやったときには「目ぇあけたまま寝てんのか?」ってくらいガン無視していたので、タマカ・オリジナル・キヅカイなのかもしれない。でも、木に引っかかった羽根を無駄にデカい図体をいかして取ってあげるわけではない。長柄に肘をついて見ているだけ。よくわからないのんき話。

ただ、客がこれを気楽に見るのは勝手だけど(傲慢)、出ているほうは慎重にやってくれと思った。特に人形。主遣いはともかく、左がガチャガチャしているのが非常に気になった。
ある日、この演目ではない別のものを、客席ではなく、ロビーのモニタで見た。ロビーのモニタで流されている映像は、1階席最後部か2階席最前列から撮っていると思われ、舞台の床面がすべて見える状態だった。ここは船底がない劇場なので、足もかいしゃく(介錯、小道具の出し入れなどをする係)も、舞台上にいる人全てが、どう動いて、なにをしているかを見ることができた。
その演目は、客席から見ると、主役の足がズレているというのが気になっていた。足遣いは、普通に客席から見ているのでは手すりに隠れてほとんど見えず、なにをどうやっているのか、客にはわからない。それこそ「足がズレている」ということだけが端的に見える状態だ。ところが、舞台全体を高いアングルから写したモニタで見ると、足遣いの全身が見える。そうすると、ずいぶんとぐるぐる、そして、あちこち動き回っていることがわかる。人形がターンする際には、人形自体は動かず、人形遣いは人形をよけ、自分自身がその周囲をまわらなくてはいけない。足遣いはより一層外周を大きくまわり、かつ、その自分の移動ロスを埋めるように急いで遣わなくてはいけない。
それを見て、ああ、自分自身が動き回っているから、それで「ものすごくやっている気」になってしまって、肝心の「曲に足を合わせる」ことがおろそかになっているのに気づいていないんだなと思った。足自身も主遣いも。左も同じで、やること自体は多いから、客席から見てガチャガチャになっているだけに見えても、それこそ、本人は「ものすごくやっている気」なのだろうなと思った。
人形が演技をしている状態になっているかを意識しながら遣えるまで、遠い道のりなのだろう。
話が突然辛辣になってしまった。でも、客からどう見えているか意識せずに舞台に上がってはいけないのは、本当。

床は、燕三さんがここというのは、違う気がする。

 

 

  • 義太夫
    次郎作 豊竹藤太夫、与四郎 豊竹靖太夫、かむろ 竹本碩太夫/鶴澤燕三、鶴澤清𠀋、鶴澤清公、鶴澤燕二郎(カーテンを自分で閉める係をかねる!!)
  • 人形
    浪花次郎作=吉田玉佳、吾妻与四郎=吉田玉勢、かむろ=吉田一輔

 

 

 

 


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第三部、五条橋。

地方公演の景事みたいだった(その2)。

今回の出演者の方がどうこうという話ではないのだが、「五条橋」、頻繁に出るわりに、「これだッッ!!」というほど決まることって、ないですよね。義経・弁慶でタイミングを合わせなければ成立しない演技があまりにも多いし、振り付けそのものが根本的に難しいのだろうか? それはそれで、演目としての致命的欠陥のような気がするが……。誰がどうやっても何となくなんとかなるという意味では、『二人三番叟』のほうがよく出来た振り付けなのか?

プログラムの解説も、ここまで同じような演目を繰り返していると、サボり意図でなくとも、「コピペ」になる。それでも、児玉竜一氏は、義弁強火勢である。(逆カプだったらすんません)

 

 

  • 義太夫
    牛若丸 豊竹咲寿太夫、弁慶 豊竹亘太夫、豊竹薫太夫/鶴澤清志郎、鶴澤友之助、鶴澤清允、鶴澤藤之亮

  • 人形
    弁慶=吉田簑太郎、牛若丸=吉田玉誉

 

 

 

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双蝶々曲輪日記、難波裏喧嘩の段。

「難波裏喧嘩の段」は人形黒衣。
濡髪〈吉田玉志〉以外、若い人ばかり。なにげない段だが、いろいろとわかることがあった。

この場面、登場するほとんどの人形に、「転ぶ」という演技が含まれている。それを見ていると、みな、「転び方」が師匠にそっくりだ。転び方がうまい人の弟子は転び方がうまく、「あー」という人の弟子は「あー」という転び方をする。良くも悪くも、師匠からしか学べないのだなと思った。本当は、自分の師匠であっても、参考にすべきところ、そうでないところがあるはずだが、それに気づくまでには、時間がかかるのだろう。よほど周囲をよく見ていないと、ほかのお師匠さんがどう転んでいるか、意識もしないだろう。転び方は、本当に、侮れない。

もうひとつ。現在の文楽の人形のかしらは、昭和を代表する人形師・大江巳之助さんによって制作されたものが多く使用されている。ほぼ大江さんの作品だといっても過言ではない。大江さんのかしらは、顔の正中線が、胴串(人形のかしらの持ち手)に対して、本当にまっすぐになるよう作られていると言われている。人形遣いからすると、大江さんのかしらが文楽で多用されている最大の理由は、この「顔の正中線がまっすぐ」という点だそうだ。顔の造作が綺麗だからではなく、自分の意図通り、精緻に遣える構造になっていると。過去の人形師の作品は、そうは出来ていないらしい。
でも、かしらがまっすぐに出来ていることと、舞台で人形遣いが本当にまっすぐに持っているかは、別の話ですよね。不必要にゆがんでいる人、たくさんいる。まっすぐ持てていなかったり、正中線が頻繁にぐらついたり、ヨレたり。ベテランでもそうだ。この段は若い人が多く、黒衣なこともあって、歪んで持っていると、それが最大の情報になってしまい、「歪んで持っているな」ということが一番目立ってしまう。
逆に、本当にまっすぐに持っている人は、人形がものすごく端正に見える。歪ませて持っているときがあれば、それは意図があることだとわかる。人形をまっすぐ持つことができる技術というのは、貴重で、重要なことだと思った。

 

 

 

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「八幡里引窓の段」から出遣い。

最近何度か出ている「引窓」、今月が一番良い。床、人形とも、やや時代物向きの人が並んだこともあってか、並木宗輔の理知的な世界と、そこに滲む人間の情が爽やかに出ていた。
いかにも引窓でございとでもいうような油臭さがないのは、良い。「それっぽさ」を変にこさえると、浄瑠璃は中年太りしてしまう。でっぷり太った役者がでっぷり太った節回しをするのを文楽で見たいわけじゃないから、そういう意味で、シンプルでストレートな今回の引窓は、私の嗜好に合ったものだった。
脂ギッシュ(死語)にやられても困るのだが、「文字通り」にやられても困る話ではある。ロジックが勝ちすぎて、「はあ、ようできた話ですな」以上のものになれない。「昼夜によって対応が変わる」という時刻を使った理詰めのロジックは、ともすればドキつすぎる。このロジックが崩れるからこそ「引窓」は面白いのだが、そのロジカルさの塩梅が難しい。今回はそれがうまくいっていた。
真剣な話、濡髪が関取かどうかを確認するために劇場に足を運んでいるわけじゃないんで、床にしても人形にしても、過剰な「関取」こさえはいらないかな。少なくとも。千歳さんはもともと声が太めのため、濡髪に作り込みがいらないというのもあるけど、濡髪が自然なのがいい。

 

「難波裏喧嘩の段」で、人形のかしらが本当に正面を向いているかの話題を出したが、「引窓」の人形演技では、「本当に正面を向いているとき」と、「そうでないとき」の区別がいかされている。端的には、どこをどう見ているかで、その人物の心のうちがわかるようになっていた。
濡髪は、常に若干顎を引いて、うつむいている。露骨に表には出していないが、心のうちは深刻である。そして、せっかく会いに来たのに、ママ〈吉田和生〉から顔をそらせている。まっすぐ正面を見ているようで、上手にいるママからやや顔をそむけ、わずかに下手を向いて、どこか遠くを見ているような表情。彼は、せっかくママに会っても、ママに迷惑をかける、心配をかけてしまうと心を悩ませており、ママの顔を見られない心境である。
十次兵衛〈吉田玉男〉は、顎をあげてまっすぐ正面を向いている。検非違使のかしらにふさわしい表情だ。しかし、彼もまた、ママの様子がおかしいことを悟ると、ママの顔を見なくなる。ママはなぜ自分に隠し事をしているのか、そのママの想いを叶えるにはどうしたらいいか。強い視線はそのままに、思慮をめぐらせている。濡髪を助けると決意したあとは、ふたたびきりりと正面を向くようになる。
でも、ママはちゃんと息子たちの顔を見ているのが、印象的。ママは常に息子たちに対して分け隔てなく、ママなのだ。

濡髪が玉志さん、十次兵衛が玉男さんというのは、本来的には役が逆だと思う。大柄で愚直な濡髪には玉男さんが似合うし、凛と理知的な十次兵衛には玉志さんが似合う。「十次兵衛のほうが役が大きい」というのは慣例にすぎず、当人たちに似合う役をつけたほうがいい。本来的には。
でも、今回は、これで良かったのかもなあとも思った。誰もが手を差し伸べ助けたくなるような素直な若者である濡髪には瑞々しい玉志さんが似合うし、役目があっても暖かい気持ちを忘れない大人である十次兵衛には優しい玉男さんが似合うよなぁ。演技の上手い下手とか、得意不得意ではなく、玉志さんは玉志さんとして存在するだけで瑞々しいし、玉男さんは玉男さんとして存在するだけで優しげだ。これは、その人自身が持っている特性。
玉男さん十次兵衛は、11月大阪公演の時点では「役作りに迷っているのかな?」と感じていたが、結果としてそのまま、優しげで自然な大人の男性として落ち着いたということね。
自然な優しさというのは、玉男さんならではの持ち味だ。たとえば『心中宵庚申』の半兵衛とか、『卅三間堂棟由来』の平太郎とか、あの「穏やかでいい人な大人の男性」ぶりは、玉男さんにしか出せない上手さがある。彼らのゆったりとした動きは、心のゆとりだ。ちょっとキョトンとしたり、どこかかわいらしい仕草も挟まるのも、人柄をしのばせる。
十次兵衛が彼らと役として同系統といったら、本当は違うと思う。玉志さんが十次兵衛をやったなら、誠実さと篤実さが全面に出て、「彼は心が清く篤い人だから、ロジック(建前)を立てつつ、役目に背くことなく濡髪を助けた」という見え方になったと思う。弁慶を助ける冨樫(勧進帳)、若君を助ける畠山重忠(ひらかな盛衰記)のように。本当はこちらのほうが浄瑠璃に対して正しいだろう。でも、玉男さんの場合、十次兵衛がなぜ濡髪を助けたのかの理由が、彼が、自分のことよりママを思いやれるような「穏やかでいい人な大人の男性」だから、に見えている。
逆に、玉志さんの濡髪は、本来の役以上に颯爽として、若々しい。スッと伸び上がる特徴的な動きも、濡髪に若さゆえの誠実さを添えている。そして、所作のいずまいがきちっとしている分、図体に似合わない細やかな心根の人物に見える。玉男さんが濡髪であれば、くそでっけー赤ちゃん的な、愚直で素朴な人物像になるだろう。そして、めちゃくちゃ、ドスコイ化するであろう。濡髪もまた、本当はこっちのほうが浄瑠璃に対して正しいと思う(特にドスコイ)(ああどす恋どす恋)。しかし玉志さんの濡髪は、若く繊細に見えるぶん、真面目になりすぎるところが非常にリアリスティックになってくる。話の進行としてはぶっちゃけうざったい「でも、やっぱり」の繰り返しも、繊細さの範囲に落ちる。
濡髪も十次兵衛も、ある意味では類型的な役だ。そういった役に対し、本質的にはまった配役でないからこそ、はみだした部分にその方ならではの特性が出て、それが個性として役にうつるのだろうなと思った。玉男さんは濡髪やったことあるだろうし、玉志さんもいつか十次兵衛がくるだろうから、いまはこれでいいのかな。玉男さんの十次兵衛自体、まだまだ未完成ということだろうし。

 

濡髪についてもう少し。
濡髪は、玉志さんにしては動きが非常に大きく、また多い役だ。主役で文七のかしらを遣うときには、緻密にコントロールされた微細な動き(動いてるのか動いてるのかわからんレベル)を中心にすることが多い人だが、濡髪は町人・若者・アスリートだからか、身体の動きを多めに入れ、予備動作も大きく遣っていた。もとの動きの速さもあいまって、大きな動きを思い切りやっていることが、人形に映えている。また、玉志さんの場合、大きな動きが入っても、止めではかしらの位置が一発できっちりFIXするのが特徴だが、濡髪を見ていると、肩、腕の関節といった身体のアクセントになる部分も変なブレやぐらつきがなく、一発でFIXしていることがわかる。これが、フォームのトレーニングを積んだ本物のアスリートのようで、良い。段切の旅立ちで、門口で大きく振りかぶって体をかえす所作は、きびきびと引き締まっている。自分が体を動かしているかのような気分になり、さっぱりと気持ちよかった。
ママに対し、自分よりも十次兵衛をとるよう迫る場面も、立役らしい横顔の美しさを見せつつ、左肩から背中を客席側に向けて体全体を大きく落とした、迫力のある所作。ここだけは、それまでちょこんと振る舞っていたママに対しても、大きく遣う。
いずれも、昔の玉志さんだったら、あそこまで大きく動かさなかっただろうな。いつからふっきれたのだろうか。
濡髪役を重ねるにつれ、だんだん、すこしずつ、ドスコイ化してきているのは、おもしろい。全然太ってはいないけど、若干重めに筋肉ついてきた。「喧嘩」は立ち姿勢が多く上半身が下着なのでスラッとして見えるが、「引窓」では着付けをだいぶふかふかさせており、座り姿勢も二の腕の位置に工夫をこらすなどして、姿が大きく見えるように遣っていた。今回は、鈴木亮平くらいにはなっていたのではないでしょうか。


「引窓」の真の主役、ママは、今回は和生さんが配役。ママは、人形遣いがついていることを忘れるほど、自然だった。最初に出てきたときは、和生さんらしく折目正しいママだなと思っていたが、だんだん「和生さんが遣っている」ということを忘れ、前髪を落とすところでママが前のめりにかがむのを見て、「背後におるこのオッサン、何??????」と素で思った。それは和生。ひさびさに「人形遣いが消える」という感覚を味わった。
折目正しいといっても、ママは、在所の百姓・町人身分の奥さんだ。ツッコミ入れのときは濡髪の膝をばしっと叩く(武家女房ならおそらく床か自分の膝をトンと軽く叩く程度)、立ち上がりながら振り返るといった複合的な「ついで」風動作をするなど、やや素朴な動作が織り込まれていた。大名の乳人である政岡の、端々まで行き届いたそれとはまったく違った所作だ。和生さんは全体的に上品なのでわかりづらいが、やはり、細かく遣い分けているんだなと思った。
濡髪を元服させるところの前髪の剃り方は、勘壽さんとは少し違っていた。勘壽さんは上手側(濡髪からすると左側)から剃り始め、おはやと濡髪のあいだへ移動しながら剃っていたが、和生さんはおはやと濡髪のあいだに立って下手側(右側)から剃り始め、その位置のまま、すべてを剃っていた。そして、めっちゃ細かく、丁寧に、産毛を剃っていた。(そのあいだずっと体を倒して和生さんをよけている玉志さん。腰が大変そう)

お早〈吉田勘彌〉は、引窓の引縄を引く姿に彼女の置かれた立場があらわれていて、良かった。夫・十次兵衛の、濡髪を捕縛するという言葉に、お早は思わず引窓の縄を引き、窓を閉めてしまう。そのとき彼女は、縄を引くとともに体を下手に向かせて、顔も夫から大きくそらし、うなだれる。窓を閉めることで濡髪とママを助けることはできるが、何も知らない夫を本意でなく裏切ってしまう。その悔恨の心情。この場面、かならずしも毎日決まりきった角度・表情でやっているわけでなく、そのときの感情の流れにあわせてやっているようで、そこも良かった。
冒頭の里芋剥きは、里芋の毛を剃っている感じだった。ぞりぞり(里芋に包丁を小刻みに当てて引く)、なすなす(包丁についたものを横に置いた樽のへりにこすりつけて落とす)。全部剥いて茹でたやつ(?)はママが月見台に乗せてお供えしてるし、これから作るのは、家族の夕ご飯用に毛だけとって丸焼きにするってことなのか? 里芋の丸焼き、ホクホクしてうまそうだな??
それはそうとして、お早、今月から役名が突然漢字になった。どういうこっちゃ。

 

総合的には、濡髪、ママ、お早の、演技のタイミングがバッチリ噛み合っているのが、良かった。急に動いてカラミとなるところでも、もちゃもちゃせず、ごまかしていない。「引窓」の場合、三味線のリズムに乗って舞踊的にからむというより、コトバ(セリフ)とともにからむパターンが多いので、タイミングをはかるのが難しいと思うが、浄瑠璃をよく聞いて、間合いを把握しているということか。
間合いが合っているというのは、人形同士だけではない。床と人形もだ。ママが「お前が捕まって死ぬ気ならワシのほうが先に死んだるわ!」とカミソリで自害しようとすると、濡髪はそれを引き留め、「誤りました」と大きく嘆いて倒れ伏す。この「誤りました」を語る太夫の間合いは(あるいは回数も)、おそらく日によるアドリブだと思うが、よく合わせに行くよな。同じフレーズの繰り返しは義太夫には非常によく見られる手法だけど(12月の『源平布引滝滝』にもありましたよね)、床の語り方がワンパターンにならないよう工夫が必要なのはもちろん、人形もまた同じ所作の繰り返しにならないような設計が必要。一般的には最後の1回をもっとも強調するという処理になるとは思うが、間合いにアドリブが含まれてくると、大変だなと思った。

引窓の開閉タイミングはもう少し正確に、びしっと曲に合わせてやってほしい。おはやが最初に引き縄を引くところはいいんだけど、特に最後、十次兵衛が濡髪を縛った引き縄を切るところで引窓があくタイミング。十次兵衛や濡髪自身が開閉するわけではないせいか、いったい何を契機に引窓があいたのか、わからない。本質的には実際に開閉を行うかいしゃくの問題だろうけど、十次兵衛や濡髪役の主遣いも含めて、決めておいてほしい。


11月の大阪公演ではぐにゃぐにゃしていた平岡丹平〈吉田文哉〉、三原伝蔵〈桐竹紋秀〉は、今月はシャッキリしていた。これくらいシャッキリで頼む。

 

  • 義太夫
    • 難波裏喧嘩の段
      長五郎 豊竹靖太夫、郷左衛門 竹本津國太夫、有右衛門 竹本文字栄太夫(2/6?〜13、竹本文字栄太夫休演につき、代役・竹本南都太夫)、吾妻 竹本碩太夫、与五郎 竹本織栄太夫、長吉 竹本南都太夫/竹澤團吾
    • 八幡里引窓の段
      中=豊竹芳穂太夫/野澤錦糸
      切=竹本千歳太夫/豊澤富助

  • 人形
    平岡郷佐衛門(黒衣)=吉田玉路、三原有右衛門(黒衣)=吉田玉延、山崎与五郎(黒衣)=桐竹勘介、藤屋吾妻(黒衣)=吉田和馬、濡髪長五郎=吉田玉志、放駒長吉(黒衣)=桐竹勘次郎、下駄の市(黒衣)=吉田玉峻、野手の三(黒衣)=吉田簑悠、女房お早=吉田勘彌、長五郎母=吉田和生、南方十次兵衛=吉田玉男、平岡丹平=吉田文哉、三原伝蔵=桐竹紋秀

 

 

 

 

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『双蝶々曲輪日記』の作者・並木宗輔は、〈理〉と人間性の拮抗を強く意識した作品が多い。彼の描く〈理〉とは、社会制度上の不条理であることが多い。〈理〉は人間の社会を規定しながらも、人間の人間性を否定する。そのとき人間は、どうするのか。遺作『一谷嫰軍記』は、その真骨頂だろう。『双蝶々曲輪日記』は少し違っていて、この作品を支配する〈理〉とは、時間である。なるほど、本作は世話物で、町人が抗えない〈理〉といえば、金と時間。時間は天体の運行をもとにしており、人間が絶対に介入することのできない〈理〉である。しかし、この物語では、人間の情が時の流れを曲げてしまう。時代物の〈理〉=社会制度上の不条理(でも所詮人間が勝手に決めたこと)は絶対に曲げられないのに、それよりも絶対に曲げられないはずの自然現象が人間の情によって曲げられるだなんて、ロマンチックだと思う。並木宗輔は、あれだけ残酷な物語を多数描いておきながら、やっぱり最後には、人間を信じたかったのかなと思う。

 

今月も会期が短く、あまり見られないのが残念だった。5月は二部制、通常会期に戻るので、楽しみ。

最近いろいろ考えることがあり、玉志さんは、人が若いときに持っている強さ、気高さを、年をとっても失わなかった人なんだなーと思った。そういった純粋さ、清潔さが、濡髪にあらわれていると思った。


今月の文楽公演の良いところは、プログラムに、全ての人形の顔写真が載っていること。各演目に、人形の顔写真(免許証の証明写真みたいなアレ)入りの人物関係図ページがもうけられていた。
おかげで、『双蝶々曲輪日記』、なんか、6人くらい似たようなツラのアホがボコボコ出てくるけど、1秒で顔忘れる。という問題を解決できた。『双蝶々』雑魚のみなさんは、並べた写真で見比べてもやっぱり似たようなツラで、良かった。というか、兄弟役には、ちゃんと顔かたちの似たかしらを割り振ってるのね。と思った。近くの席の方は、人物関係図ページを見て、「この人たち、すぐ死んじゃうんだよー」と身も蓋もないことをおっしゃっていた。

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↓ 2023年11月大阪公演『双蝶々曲輪日記』感想、濡髪玉志さん、十次兵衛玉男さん。

↓ 2021年9月東京公演『双蝶々曲輪日記』感想、濡髪玉志さん、十次兵衛勘十郎さん。

 

↓ 『双蝶々曲輪日記』全段のあらすじ解説記事。「引窓」の理解に必要な、江戸時代の身分制度や時刻制度についての解説もつけています。

↓ 『艶容女舞衣』全段のあらすじ解説記事。この記事を書いた頃はくずし字が読めなかったけど、いまは浄瑠璃本ならまず読めるようになった。そういう意味では、『艶容女舞衣』は私に勉強のきっかけを与えてくれた大切な演目です。

 

 

 

*1:いつも「長」という表記だったと思うが、今回は「頭」。