TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 7・8月大阪夏休み特別公演『心中天網島』国立文楽劇場

玉男さんの「本物」感って、本当にすごいと思う。




今月の第二部、『心中天網島』は、圧倒的に「紙屋内」!

和生さんのおさんは、「おさん」という人、そのものだと思う。

今回、和生さんのおさんを見て感銘を受けたことが2つある。
1つ目。おさんは治兵衛の妻であること。設定でそうなっているので当たり前じゃないかと思われるかもしれないが、その説得力。
おさんは、嫉妬や悲しみの心情を言い立て、そうしながらも自分や子供の衣類を治兵衛のために質入れする準備をする。治兵衛もおさんの気持ちに気づき、それに応えてシュン…となるが、おさんはそんな治兵衛のひざを「ぽん」と叩いて、気を取り直させる。
これは小春にはできんわ。おさんはやっぱり治兵衛の妻で、過ごした時間の長さが小春よりもはるかに長く、その分、治兵衛を思う気持ちも濃厚でなんだなと感じた。治兵衛はそのことに気づいていないとしても、これができる度量の大きさ。この「ぽん」には、ここからは湿っぽさを振り払い、これからもまた治兵衛と一緒に生きていくという気持ちが感じられた。励ますような膝ぽんの、その自然さがすばらしく、おさんという人のことが少しわかった気がした。これができるのが、和生さんのおさんのすごさだと思った。
(治兵衛がそんなおさんに「おかあさん」に甘えるようにシュンとなるのも、ヤツにイラつく要因なのですが!)

そして2つ目。これが大きい。
自分のおさんへの違和感の正体は、苦心の原因は社会構造にあることに本人が気づいていない点ではないかと思ったこと。
心中天網島』の感想としてよく耳にするのは、「おさんが何故そこまで治兵衛をかばうのかわからない」という疑問だろう。私もそう思う。これには、大抵、「江戸時代は体面が何より大事だったから」とか「“女子は相身互”が描かれているから」という“答え”が用意されている。そりゃそういう理屈(言い訳?)は無限にくっつくんだろうけど、では、そんな価値観が通用しない現代で、この作品を上演し続ける意味は何なのだろう? 舞台の上で、何を表現するのだろう? それがなくては、ただただ不快な話でしかない。*1 

近松以後の後世の時代物では、女性登場人物は自らを縛る社会構造に従わざるを得ないゆえに悲劇に巻き込まれることに非常に自覚的だ。たとえば『伽羅先代萩』の政岡は、愛する息子千松を見殺しにせざるを得なかった社会的矛盾を自覚している。忠義第一という社会構造と人間の感情との矛盾、社会の歪みを十分に認識しており、その葛藤が物語の最大の見所だ。これまで自分がそれを肯定してきたこと、そして実行したことを含めて葛藤している点がドラマになっている。社会通念を守ることこそ美徳という建前を鵜呑みにはしていない。むしろ、彼女たちはその葛藤の苦しみを大声で泣き叫ぶ。

心中天網島』は建前の美徳のみの世界になっている。その中だけで生きている人の話(あるいはそれが戯曲の限界の時代の話)なんで、そういうもんなんだけど、後世の作品を知っていると、まったく物足りない。
ただ、そんな中でも今回の『心中天網島』は、ある程度腑に落ちた。それは、「おさんが社会の強要してくるものの異様さに気づいていない」ということ自体を気づかされる舞台だったからだと思う。和生さんのおさんは非常に聡明に見えるが、それでも自らの不幸の本質的要因に気づいていないことが、この物語自体を含めての構造的悲劇だと感じられた。それは戯曲(近松)の意図ではなく、出演者による現代的解釈としてのもので、演技上、意図的な違和感が残っているとでもいうのかな。それを具体的に表現できる場面があるわけではないので、総体としての印象論だが、演技の流れの整理、ボリューム感やメリハリ付けのチューニングによるものがかなり大きいと思った。治兵衛に選ばれなかった悲しみを過度に強調したり、芝居で言い訳を加飾しなかったのが、私にこれを感じさせたのだと思う。

この点に関しては、和生さんの人形だけではなく、床の錣さんの語り方によるものも大きいと思う。錣さんは、現代ではとても理解できない浄瑠璃の倫理観や、それを舞台でどう表現するかに非常に自覚的だと思う。以前、そういった「とても理解できないこと」そのもののの葛藤を、そのままに表現するという旨を話していらっしゃた。その話を聞いたときは、この人すごいこと言うな、でもどうやって実際の舞台の上でそれを実現するのだろうと思った。が、舞台で聴くと、本当に、理解できないこと、その葛藤がそのまま表現されていた。ある意味ストレートだった。そして、そのことによって、変に説明の整合性を作り込むよりも、かえって物語が理解しやすくなっていた。
また、錣さんはクセが強いけれども、意外と芝居がかっていない。たとえば「母」だとか「妻」だとかの類型としての役割より、個々の人格表現を行っている。ウェルメイドな社会的類型の文脈に安易に寄りかからないところが「紙屋内」にかなり適合したのだと思う。そして、錣さんの持っている暗さ(陰を通り越した、本当の暗さ)も、近世の町家やおさんの抱える無自覚の闇をあぶりだしているだろう。

言うなれば、今回私は、和生さんの芝居、錣さんの語りによって、不条理劇のように、(現代的な感覚からすると)筋が通っていないこと自体が(現代の上演における)テーマだと感じた。近松作品は女性登場人物に自我がないし、全員言動が同じ。その違和感自体は拭えない。誰が出演しようが、依然として好きではない。それでも今回、そんな作品をいま上演する過去と現代の結節点の可能性を知ることができて、感慨深かった。

 

もちろん、おさんには、いつもながらの和生さんらしさ、つまり、気高さ、気丈さがしっかり表現されている点もすばらしかった。人形の外見だけにおさまらない美人感があった。和生さんの美人度、最近、ますます高まっている。

 

 

 

そして、玉男さんは、やっぱりすごい、と思った。

「紙屋内」であれだけおさんに対して反省しておいて、次の「大和屋」でなんでいきなり小春と心中する決意をしてるの? というのも、『心中天網島』に対する疑問のひとつだと思う。しかし、治兵衛の演じ方によって、この不整合も意外と自然に感じられるようになるのだなと思った。

まず、あのクズ(治兵衛)、なんだかんだ言うて、おさんに愛されるに足る男なのだ。
治兵衛は、顔はいいけど性格がだらしないダメ男だと、みんな、思ってるでしょう!?
最後までダメな男だけど、色男だから仕方ないと、みんな、思ってるでしょう!?!?
でも、違うわ!!!
こいつ、だたのクズやないで!!!!
本人なりに真面目にやっとるわ!!!!!
真面目の方向性がおかしいだけで、本人は、大真面目!!!!!!
「おれもおさんと同じくらい、真剣に小春に向き合おう」と思った結果がアレなのでは!??!!!????

「本人は大真面目のめちゃくちゃやばい人」、これぞ、玉男さんの真骨頂だと思う。
玉男さんの治兵衛は、物語の進展につれて、どんどん正気づいていくように感じられた。「河庄」の治兵衛は、目線がふらつき、夢うつつ。浮ついた気持ちだけで行動している。魂が身体より前に出てしまって、それがフワフワ引っ張られているようだ。「紙屋内」に入っても、最初はウネウネ泣いたり、マゴマゴしている。しかしおさんの話を聞き、また、実際に彼女が行動でその心意気を示すことによって、治兵衛もまた最後にはおさんをしっかりとした眼差しで見据えるようになる。懐手で思案してからの表情は真摯になり(懐手ポーズ、玉男さん得意だな)、魂が彼の胸に戻ったような印象。おさんの語ったことや行動をちゃんと理解し、本人なりに真剣に事態に向き合っているのだ。そして、その真剣な姿を見ると、おさんがあれだけ治兵衛に惚れているのも、わかる気がした。「紙屋内」後半の治兵衛は、凛々しく透明感に満ちて、普通にいい男だもんね。
ただ、不幸だったのは、その真面目さの行き着く先が、心中だったというだけで……。

もうひとつの玉男さんの治兵衛のすごさは、ふわ〜っとしたり、へにょ〜っとしていたり、ショボボーンとしていたり、キリっとしたりという感情の変化がバラバラにならず、ひとりの男性の内面の揺れ、多面性として自然に表現されている点。治兵衛は段ごとに言動の雰囲気が変わってしまうのでコントロールが難しいキャラクターだと思うが、今回は「紙屋内」で内面の変化がしっかりとあらわれていたため、全編がひとりの人物の多面性としてシームレスに繋がっていた。特に、「紙屋内」の懐手をしての思案からすっくと背筋を伸ばした姿への移行は印象的だ。「河庄」の浮つきと「大和屋」の深刻さをつなぐものになっていた。

このような治兵衛の内面描写が、「お芝居の見どころ集」的な拵えごとではなく、「真性」のものに見えるのも、すごい。こういった「いかにも芝居」という類型的な性格の役の場合、「その役を演じている役者」を演じるように人形を遣ったり、語ったりする人がいる。いやわかりますよ。そうする理由と気持ち。しかし、玉男さんはそういったワンクションを置かず、ダイレクトに役そのものを表現している。自然体でやったらこうなりました……なわけはなく、強い意思を持ち、自分を信じることができなくては、出来ないと思う。逃げがない。そして実際にそれを表現し得ていることに、感動する。
意思の強さやセンスも重要とはいえ、それが成功するかどうかは、天性の才能としか言いようがない。普通、そんな「生(き)」のものを不用意に出してしまうと生々しくなってしまい、「本物」をお出ししないでくれ!と言われてしまう。でも、玉男さんは、なんか、イイんだよね……。内面から滲み出るような愛らしさがあるからかな……。あの愛嬌、まじ、才能…………。愛嬌だけは、自然体なのではという気がする……。その愛嬌こそトキシックなのが、まさに、オーガニック(?)。玉男さんの天然由来成分100000%系の役では、団七(夏祭浪花鑑)、忠兵衛(冥途の飛脚)、六助(彦山権現誓助剣)が好きなんだけど、治兵衛もかなり好きになった。

 

 

 

以下、個々の段に関して。

北新地河庄の段。

「河庄」の治兵衛は、28歳という年齢設定よりも若い雰囲気だった。気持ちに引っ張られて、胸から先に歩いていっているような動き。よく言われる、文楽では出のときに文章通り「とぼとぼ」出てはいけない、それは時系列的にはもっと前のことで、ここでの治兵衛は小春に客がついたと聞いて焦っているのだ、という件。今回の治兵衛は、「とぼとぼ」でも焦りでもなく、スゥーッとした、吸い寄せられるような歩み。河庄の前で周囲を伺うためにクルリンと回転する動きや、ソワソワッとした感じ、なんか独自の妄言を並べ立てるくだりで一人で納得したり、プイするような演技も可愛い。落ち着き皆無の小動物のようだ。下手を見てのごくわずかな顎こくこく(周囲の様子伺い?)は可愛かったが、いつもやっているわけではなさそうだった。

格子に縛り付けられて恥じている様子は玉男さんらしいヘタレ演技で、自然なショボさがとても良かった。自然なショボさって何だ。5月東京公演の紀有常役で「デカすぎだろ!!!!」と観客全員(巨大主語)に突っ込まれた玉男様とは思えないくらい、ちっちゃく縮こまっている。孫右衛門に叱られてぴえん🥺するくだりも、オーガニックすぎる情けなさで、とても良かった。

ただ、怒りの演技は、良くも悪くもかなりシッカリしているなと思った。アホの強気の範囲ではあるが、身長187cmくらいありそうだった。崩れた髪と着付で小春に食ってかかる大きな動きそのものは美しい。

服のVネック的な感覚だろうか。「河庄」と「道行」の治兵衛は、かぶった手ぬぐいの額の上の部分をちょんと摘んで尖らせているのが良い。顔をシャープに見せるためかな?

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孫右衛門〈吉田玉也〉は、治兵衛よりかなり年上の雰囲気。玉男さん、玉志さんの孫右衛門は治兵衛よりも数歳程度年上に感じていたが、玉也さんの孫右衛門は一回り、二回り違うように感じる。芝居の内容通り、本当に治兵衛のお父さんみたい。単純なところで、人形の姿勢が前傾しがちなので、年っぽく見えるから、というのもある。
全体的な話だが、武士に化けた町人でも、町人に化けた武士でもなく、「芝居のそういう役」になっていた。個人的にその良し悪し自体は微妙だと思ったが、こういう点はほかのお客さんがどう感じているか、知りたいな。
たとえば手にしている刀の扱いなど、孫右衛門は人によってかなり差が出る役だと思う。

 

 

小春は、「河庄」では緊張している印象だった。
勘十郎さんらしからぬ生硬さ。本心ではないことの表現なのかもしれないが、簑助さんの小春の幻影に引きずられているとか、そういうことなのだろうか。たとえば、火箸を使った演技が難しい、と言われていること自体に囚われすぎているのかなと感じた。勘十郎さんの魅力というのは、技術的な巧さや名人芸的な味わいではなく、本人の個性、「らしさ」によるものが大きいと思う。本人がやりたいことや、いいと思ったをそのままダイレクトにやって欲しいと思った。
ただ、この「んー」感には、そもそも、勘十郎さんに、自我がなくて耐えるだけの女はまったく似合わないという問題がある。小春自体がいくらいい役であっても、自己主張がない小春は、勘十郎さんには不自然に写る気がした。

なお、孫右衛門へのもたれかかりは、体重をかけるというか、目上の人へ泣きつく感じ。恋愛絡みに見える感じにはしていなかった。

しかし、小春はなぜ襟の返しをあんなことにしてるんだ? 内側の襦袢(的な襟)を摘んで大きく引き出し、外側の襟に乗せて縫い付けている状態じゃない? 過去の舞台写真を確認したけれど、以前の小春役ではそこまではしていない気がするが……。意図的だと思うが、なぜ。

 

太兵衛〈吉田文司〉と善六〈吉田簑一郎〉は本当に人形っぽい動きだった。ツメ人形から三人遣いへ進化したばかりのヤツっぽい。もう少し作り込みしてても良さそうだが、これはこれでクセになる。演技はいろいろと研究中のようだった。善六は、浄瑠璃を語る前に眉毛をツバで整えるのをやる/やらないと、試していた。可愛いけど、最初にやっちゃうと、一旦退出する前に同じフリがあるのとかぶるからなあと思っていたら、すぐやめていた。
この二人が活躍する冒頭部、今回は睦さんだった。善六&太兵衛の素人義太夫は、ジャイアンリサイタル系だった。本人の意図より客席をソワつかせている気がした。

花車〈桐竹紋吉〉は小料理屋の女将みたいだった。色街の雰囲気というより、やや一般的な商売人寄り。あまり周囲にリアクションはしない感じだった。
河庄の亭主はまたも玉翔さんだったが、この役、そんなにリピートさせる必要ある!??!? そして、亭主、眉毛、薄すぎ……? と思った。

 

「河庄」全体としては、とっ散らかってるわりにクドいなあというのが正直なところ。力みすぎて、時代物状態のような。大げさな古めかしさは、「伝統芸能らしい」と良く取る人もいるとは思うが、世話物らしさの表現は難しいと思った。

清治さんの三味線はその点、洒脱で遊所らしい雰囲気があり、良かった。

 

 

 

天満紙屋内の段。

おさん全体のすばらしさについてはすでに書いたので、細かい演技について。
「女房の懐には鬼が棲むか蛇が棲むか」で懐手になって軽く体を振るくだり。女方の袖振り、私の好きな演技だ。おさんの袖振りは、彼女は一般人だけど、この物語で一番美麗だな……。と思った。

質屋への荷物を作るために、たんすから着物を一枚一枚、取り出していくくだり。着物を一枚ずつ風呂敷に乗せるたび、少しずつ違う何かを考えているようだ。目元が重く感じられる。着物にこもった思い出を噛み締めているのだろうか。それとも、本当はひどく悲しい内心を、着物を数えて整えることで、落ち着かせているのだろうか。詞章は一家の境遇に着物の柄等の名称を織り込んだものだが、浄瑠璃によくみられる言葉遊びの文辞を、ただの文辞だけにさせないとしたら、こういうところにあるのかな。

おさんは、段切の嘆きを大きく持っていくことで、紙屋に落ちるドラマの陰影を色濃くしている。いよいよ家を出るときに、おさんが門口の柱にがっくりと巻きつく姿、そして、和生さんとは思えない速さで走り去っていくのが、なんとも悲しい。おさんは「紙屋内」中盤までは治兵衛をしっかり見ているのに、去っていくときは目をそらして走っていく。そして、あんなにきちんとした奥さんなのに、身だしなみを整える間もなく、前かけをつけたままであることが、なにより哀れだった。

それにしても、和生さんは三五郎に質屋の荷物を背負わせるとき、なにを言ってるんだ? 私が観た日は、毎日何か言っていた。三五郎役の人の所作が変なわけではないと思うので、「はい、できたでー」とか、そういう連絡事項?

 

五左衛門〈桐竹勘壽〉が、非常に良かった。出てきたときから怒りMAX、まるでもんがまえ(「門」の字)が歩いているような人形の構え方で、絶対こっちの言い分聞いてくれないオーラがある。ガションガションした感じだが、勘壽さんらしい気品ある老爺だ。五左衛門はたんすや衣装櫃がカラなのを知ったあと、下手に座っている娘夫婦から目をそらし、上手側に目をやって悔しげな表情をしているのが印象に残った。

この話で一番まともで人間味があるのは、五左衛門だね。おさんをあの家に置いておけないというのは、親として当たり前だと思う。嫁入りから相当の年月が経っているだろうに、乗り込んでくるのがすごいわ。勘壽さんの表現する五左衛門は、「紙屋内」のドラマの盛り上がりに欠かせない存在だった。

 

治兵衛のこたつ演技はすごかった。おさんに「ホラホラお母さんが来たから!」と起こされるくだりの幼稚な動き。「本物」と思った。そして、夫婦二人きりになってからおさんの話を聞いているくだりの、こたつぶとんを目元に当てて涙している姿のショボボン具合。自然すぎる。本当に「本物」なんだと思った。あの幼稚性をてらいなく表現できるのが、すごい。後半の真面目にキリっとした姿が引き立っていた。
キリッとしているといえば、息子の勘太郎が治兵衛にまあまあ懐いている感じだったのを見て、一応、パパだと思ってもらえてたんだ……と素で思った。

 

孫右衛門が治兵衛から奪って庭へ投げつけるそろばんの処理、2019年11月大阪公演で玉志さんがやっていたやり方はうまいな。玉志孫右衛門は、叔母を連れて帰るときに拾い上げ、治兵衛の目をしっかり見てそろばんを渡しなおしていた。孫右衛門のように真面目で几帳面な商人はそろばんを地べたへ投げっぱなしにはしないというのと、商売の象徴であるそろばんを治兵衛にしっかり渡すことで、きちんと家のことに身を入れるよう、あらためて治兵衛に伝えているのだろう。あの玉志さんのやり方が誰かの踏襲なのか、それとも自分で考えたことなのかは、調べてないんでわかりません。

お玉〈桐竹紋秀〉は、背負ったお末を下ろす前に子供の顔を見る(背中側を見る)のが可愛い。三五郎をマジ叩きするのも良い。パン!というイイ音が客席に響いていた。
それにしても紋秀さんは、ヘアスタイルのペカぶりが史上最大級だった。表面のトゥルトゥル感が尋常じゃない。コームの目がはっきり入っているから、より一層ペカ感が目立つのか? 整髪料はいったい何を使っているのか、教えて欲しい。

 

 

 

大和屋の段。

「大和屋」から「道行」の小春は良かった。喋りちらしたり、激しい自己主張をすることはないが、少ない言葉のうちに、治兵衛に伝えたいことがいっぱいあるのだという懸命さが滲んでいた。
しかし勘十郎さん、「十種香」の八重垣姫に続き、「扉の隙間からイケメンを観察」のムーブが『シャイニング』状態だ。常に「マジ」なところが勘十郎さんの女性役のいいところなんですけど、すごい。

小春に対する治兵衛のリアクション(小春が差し出した手に頬擦りしたり、にぎ…としたりする)はアドリブなのだろうか? 日によって違う気がするが、勘十郎さんが手を差し出してくるタイミングによって変えているのか。頬ずりは毎日しているわけではないのかな?と思った。

それにしても番太郎〈吉田玉征〉! まじでスゥーっと通り過ぎてるけど、いいの? あくびするとか、くしゃみするとかして、客席にちょっと顔見せてみてはいかがでしょう!?!? 真面目か?????

「紙屋内」では詞章に「開けて惜しげも」「開けて悔しき」という文句があるが、「大和屋」では「開けて嬉しき」がある。意図的な対比だと思うが、感触的に微妙な印象がある。

 

 

 

道行名残りの橋づくし。

大川に住む生き物たちが、二人の行く末を悲しんで歌っているようだった。

人形はしっとりと落ち着いた雰囲気。
小春は背中を見せる後ろ向きの所作に違和感がなく、自然な流れ。勘十郎さんはこういうの、以前は勢いつけて、思いきりやってらしたけど、そういうのがなくなったよなあ……。
治兵衛が小春を刺したときに、帯を手前側に投げるのは、飛び散る血のようで、効果的。段切は、治兵衛もさりげなく死んでいるのね。左手をぱたりと落としているのが、哀れだった。

 

 

  • 義太夫
  • 北新地河庄の段
    中=豊竹睦太夫/野澤勝平
    前=豊竹呂勢太夫鶴澤清治
    後=竹本織太夫/鶴澤清志郎
  • 天満紙屋内の段
    口=豊竹咲寿太夫[前半]竹本小住太夫[後半]/鶴澤寛太郎
    切=竹本錣太夫/竹澤宗助
  • 大和屋の段
    切=豊竹咲太夫/鶴澤燕三
  • 道行名残りの橋づくし
    小春 竹本三輪太夫、治兵衛 豊竹睦太夫、竹本津國太夫、豊竹咲寿太夫、竹本文字栄太夫/竹澤團七、竹澤團吾、鶴澤清𠀋、鶴澤清公、鶴澤清方

  • 人形役割
    紀の国屋下女=吉田玉誉、紀の国屋小春=桐竹勘十郎、傍輩女郎=吉田簑之、花車=桐竹紋吉、江戸屋太兵衛=吉田文司、五貫屋善六=吉田簑一郎(7/21-27休演、代役吉田簑紫郎)、粉屋孫右衛門=吉田玉也、紙屋治兵衛=吉田玉男、河庄亭主=吉田玉翔(7/23-8/4休演、代役吉田和馬)、女房おさん=吉田和生、倅勘太郎=桐竹勘昇、丁稚三五郎=吉田文哉、下女お玉=桐竹紋秀、娘お末=豊松清之助[前半]吉田和登[後半]、おさんの母=桐竹文昇、舅五左衛門=桐竹勘壽、大和屋伝兵衛=桐竹勘介、夜廻り=吉田玉征

 

 

和生さんのおさん、玉男さんの治兵衛が舞台上に立ち上げる世界は、とてもリアリスティック。決して嫌いあっているわけではないのに、どうにも行き違ってしまう二人が一瞬同じ方向を向くことができたにもかかわらず、決定的に行き違ってしまう悲劇。治兵衛と小春の心中は、この夫婦の悲劇を盛り上げるためのサイドストーリーなのかなと思わされるほどだ。

以前、『心中天網島』の感想として、「治兵衛・小春の心理が決定的に変化する瞬間やその理由を外し、ドラマの山場なく物語が構成されている。それをどう見せるかは難しいなと思った。」と書いた。しかし、今回の舞台だと、少なくとも治兵衛の心理が決定的に変化する瞬間は、「紙屋内」の中で描かれていたと感じた。治兵衛が真面目になる瞬間としてそれはあらわれていたと思う。そのためか、これまでの上演を観たときよりは、物語全体のまとまりや、深い明暗が感じられた。

 

今回、過去の舞台写真を見ていて、気づいた。和生さんは、2019年9月東京公演での小春役では、「道行」の衣装の着方を変えてたんだな。直前の「大和屋」で治兵衛が着せかける羽織を着ている。普通(?)は黒小袖のままだと思うが、文雀さんのやりかたを踏襲していたのだろうか。
そういえば、和生さんは今月も文雀さんの紋の入った袴だった。師匠の七回忌とかで、自分の中だけで何かをやっているとか、何か意味があるのだろうか。勘十郎さん・玉男さんは、「河庄」のみ袴を変えていた。

 

今回のプログラムインタビューは玉也さんだった。玉也ハウスのビオトープ、気になるわ。
インタビューに載る人、ほぼ決まってきているが、制作側は幅広く検討したとしても、技芸員さんが取材を受けるかどうかがあるのかね。勘壽さんのインタビューは是非行って欲しいです。

 

上演内容とはまったく関係ないが、錣さんが切になったので、白湯出しに弟子がつくようになった。弟子の子の膝行初心者感、良かった。呂太夫さんの弟子の子も、膝行が「こうかな…!?」みたいな感じなのが、良いです。

 


↓ 2019年9月東京公演の感想。あらすじ付き。


↓ 2019年11月大阪公演の感想。


↓ 2019年大阪市立大学「上方文化講座」『心中天網島』のノートまとめ

 

 

 

*1:おさんへの違和感については、『心中天網島』は江戸時代ですら改作されまくっていたので、その時点で「はぁ?」と思われてたんとちゃう? と思います。改作では、おさんに自我ががあって(これ重要)心理描写が丁寧だったり、治兵衛もクズ自覚を持っていて反省しておさんを気遣ったりと、だいぶ理解ができる範疇におさまっています。そして、小春の内面描写に踏み込んでいるのも特徴的。『心中天網島』の改作群については、過去記事(文楽 上方文化講座2019(2)『心中天網島』解説−原作『心中天の網島』・改作『心中紙屋治兵衛』・その他 大阪市立大学 - TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹)をご参照ください。