TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 2月東京公演『心中天網島』『国性爺合戦』『女殺油地獄』国立劇場小劇場

2月は近松特集として、3部ともに近松作品を上演。いつもは部ごとに記事を書いているが、今月はすべての部に対する感想が基本的に同じなので、ひとつの記事に集約する。

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改めて、近松ものの上演では、文章自体以上の何かを具現化する表現力が出演者に必要だと感じた。

近松作品は人間の複雑な心理を描いていると言われるが、それは具体的に文章として描かれているわけではない。シンプルで簡易な内容であるがゆえに、受け手の想像の余地があるのだと思う。つまりは、余白が大きすぎるがために、こっちが「勝手に」そう受け取っているのだ。出演者は、観客の想像力を喚起させる必要がある。
そこに安直な足し算をするのは、むしろ想像力を阻害する。ごてごてした味付けは、原文の簡素な世界観と解釈の幅を壊してしまう。「それっぽくした」「やってみた」や、ディティールに走る芸は一切通じない。

以前、『大経師昔暦』が上演されたとき、和生さんはトークショーでこのような話をされていた。

近松作品は)生活の成り立ち、家庭の問題を扱ったものが多く、『油地獄』だと父親が違うとか、『大経師』ならおさんの実家の経済事情が逼塞しているとか。そういうことを踏まえて芝居をしないと、「芝居の密度が出ない」。普通の家庭のことを描いているので、裏の事情をいろいろ考えながらやらないと。文句のうわべだけやっていると、相手役と噛み合わなくなる。お互い毎日探り合うようにやっていかないと「密度」が出ず、「難しいこと」になってくる。

文楽 トークイベント:吉田和生「『大経師昔暦』について」文楽座話会 - TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

このお話を聞いた当時は、このときの『大経師』がうまくいっていたこともあって、フーン、程度の認識だったが、時を経るにつれ、和生さんの話の意味がわかるようになった。和生さんの言葉を勝手に借りるなら、今月は、『天網島』以外で密度が達成できず、ペラッとしてしまっていたと思う。『国性爺』はともかく、『天網島』と『女殺』は、出演者に人の心の明暗そのものを描く技量がないと、成立しない演目だと思った。

 

そのうえで、頼むッ!!!! 和生!!!!! 全部の部に出てくれ!!!!!!!! と思った。
すでに第一部と第二部に重要な役で出ていて、70代とは思えないほど馬車馬のように働かされてますが、第三部も出て欲しいのね〜ん(貧乏神)。和生が足りないのね〜〜〜ん(キングボンビー)。
和生さんの巧さとして、浄瑠璃のドラマを増幅する表現力に富んでいる点がある。たとえていうなら、ものごとをライティングで的確に浮かび上がらせる巧さ。同じ「もの」であっても、それ自体に手を加えることなく、当てる光の方向、強さ、色味を変えていくことで、変化を描写していく。根本の「もの」がまったく違うものに置き換えられているわけではない。これが重要で、同じはずのもの(=人の心)が、いつ、どのように変化していくかは、ドラマを描写していく上で重要だ。これがもう本当、近松ものの見応えに大きく関わってくると思う。そういうことは、一体どういう修行を経たらできるようになるのか、私にはわからない。いまの状況を見ると、近松ものは今後、うわべだけの『曾根崎心中』しか上演できないのかもしれんと思った。

 

床は、原作の悪い意味での平坦さに付き合う必要はないと思う。たとえば、今月は何人か唐突な高笑いをする人物がいるが、その高笑いが劇の演出としてどのような意味を持つのか。演奏で、その演出を入れていく必要があると思った。*1

 

しかし、どのみち、3部とも近松作品というのは、厳しいものがある。近松ものには並木宗輔や近松半二作品のような演目自身のもつ強烈な光輝やエネルギーの渦巻きを期待することはできない。上記のような課題をクリアしても、はたして、本当に面白い舞台になり得るのか。というか、そこまでしてやらなきゃ(観なきゃ)いけないのか。このような興業が本質的に文楽の伝統のためになるのかどうか。結構、疑念を抱いています。

 

 

 

以下、個別の部の感想。

第一部『心中天網島』。

 
 
 
 
 
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「河庄」は今月で一番良かった。「河庄」は近松そのままではなく、半二の改作で上演しているので、戯曲自体にメリハリや変化がつけられていて面白いから。……と言ったら身も蓋もないけれど、展開に彩りが感じられ、出演者も良い。

人形の配役は現代文楽で得られる最高のものだと思う。玉男さん治兵衛と和生さんおさんの当たり役ぶりはさることながら、今回注目したいのは小春役の清十郎さん。病み系夜職女子感が、スゴイ。
私は、いままで小春にリアリティを覚えたことはなかった。しかし、なるほど、彼女の社会的立場とはこういうことだったのかと思わされた。小春が現代にいたら、こういう子だろうなと思った。シナモロールとか、ちいかわのぬいぐるみポーチをカバンの中に入れてて、時々無心でそっと揉んでそうな感じがする。私服はAmeri着てて、バッグだけCELINE持ってそう。twitterを「こ」とかの意図的無個性スクリーンネームでやっていて、病みツイートかコスメ買ったツイートを数日に一回投稿していそうな……。
病んでいる(ように見える)のも、小春のキャラクターイメージにばっちりとはまった。そうか、あの子は病んでいたのか……。太兵衛がウネウネ話しかけてくるときはもちろん、孫右衛門が話しかけてきても嫌そうにしている。なんなら孫右衛門と話しているときのほうが苦痛が限界状態。河庄へ来てからどんどん何もかもがイヤになってきて、姿がどんどん傾いていく。たとえ太兵衛でなく治兵衛に請け出されたとしても自害しそうな、彼女自身の息苦しさと自滅が表現されていた。「河庄」の最後、文楽のセオリーとしてはありえないほど、地べた(手すり)に本当に顔をつけ、めちゃくちゃに伏せて泣いているのも、良かった。
私が現代の文楽に求めているのは、こういった人、こういった感性だ。客の「予習」の「答え合わせ」に付き合うことではなく、過去と現在を繋ぎ合わせる何かを提示することで古典を魅せることのできる人が増えてほしいと思う。

玉男さんの治兵衛の良さは言わずもがな。幼さともいうべき若さ、それゆえの繊細さがダイレクトに出ている点は非常に良い。そこに、単なる「かわいそうな二枚目役」を超えた、治兵衛という人物の個性を感じた。
小春だけでなく、治兵衛もまた、生きにくい人だわな。本人なりの「普通」が、世間から期待されるものは違うことへの苦しみがある。玉男さんは、世間から期待される役割と本人とのギャップでいうと、ある意味、もっとも重圧を受けた人だと思う。玉男さんは素直で天真爛漫な方のように思えるけど、本人からしたら生きにくいと思えることが多々あり、その感性が治兵衛への共感になっているのかもしれないと、なんとなく、思った。他人の内面を類推するのは非常に品がなく無礼な行為だけど、ただの純粋性や天然だけでは、あそこまで勤めることはできないでしょう。
「大和屋」や「道行」で小春と治兵衛が抱き合うくだり。普通のカップル役だと、女性役のほうが下から抱きつきにいって、男性役の肩や腕、胸に顔を埋めるようにして、男性役の包容力を表現すると思う。そのほうが綺麗に型が決まるしね。しかし、今回は、小春は普通はありえないほど高い位置から抱きつきにいっていた。治兵衛もまた、小動物のように、小春の腕に顔をきゅっと埋めている。どちらかがどちらかに頼るこということではなく、二人は苦しみを共有する者として、対等であるということなのだろうか。小春と治兵衛は、カップル役であること以上に、社会で生きることの苦痛を持つ者としての、一種のソウルメイト的な関係なのかなと思った。
それにしても、「紙屋」の冒頭で治兵衛がおさんに起こされてコタツから出るところ、良すぎる。「奥さんに言われたからタツを出た」感がすごい。決して自主的には行動しないヤツ特有のマレーグマ的愚鈍さ。コタツから出てとりあえず一回座るところと、ゆら〜っと番台へ歩いていくところ、良すぎる。各ご家庭に、いる!!!!!! 掃除機かけるからどいてー。ぽんちゃん(飼い猫)のトイレ掃除してー。あとバスマジックリンないから買いに行ってー。駅んとこのマツキヨの10パー引きクーポン、そこにあるでー。と言いたくなるッ。
二枚目役をやったとき、いかにも芝居らしい「ナヨナヨとした憂いを帯びた美男子」ではなく、こういう「こいつ、終わっとる!!!!!」としかいいようのないリアルクズムーブができるところが、玉男様の強みだと思う。終演後、「(治兵衛は)顔しかとりえがないんでしょ」と罵倒されていたのも、玉男様のすごさだと思う。最高。
ところで、玉男さんの治兵衛は、「河庄」の冒頭で河庄の門行灯を消すとき、舐めて濡らした指でつまんで消しているということなのだろうか。少なくとも、吹き消しではないよね。正直なところ、行灯が消えるのが遅すぎて、何やってるかわからなくなっているので、もうちょっと早く火が消えてほしい感じがした。

治兵衛にキレないおさんの「しゃあないな〜」的な目線や所作はとても和生さんらしくて、やっぱり和生さんは良い、と思った。治兵衛を起こすところとか、もう、いかにも長年馴染んだ夫婦感があって、人んちに上がり込んでしまった感があり、微妙に気まずいまである。あまりに自然で、小春とのやりとりとの差に驚くばかり。そもそも清十郎さんと和生さんでは玉男さんとの関係が(小春とおさんのように)違っていて、本当に玉男さんがぼーっとしているとき、和生さんはこうしてあげてるということなのかもしれないですけど……。
細かいところだけど、おさんの袖振り。「河庄」の小春もあわせて見て思ったことだが、袖振り演技って、座った状態で袖を振るときと、立っている状態で袖を振るときでは、違うのだろうと思った。座っているときは袖を下げ気味にして、自然に布地のハリで垂らせているかのように風に見せたほうが美しい。と思った。小春は、座っているにもかかわらず、立っているときの振り方になっているのか?、右袖を横に張りすぎていて、「やっこさん」凧のようになっていると思った。(清十郎さんはそれですべてがダメになるような芝居はしていないが。なお、左はちゃんと適切にやっていた)


脇役のみなさん。
太兵衛〈後期・吉田玉志〉は、持ち前の気品による、治兵衛より明らかに金を持っていそうな鷹揚ぶりはさすが。顔(かしら)を常にしっかりとまっすぐ前に向けているのが、大きいと思う。また、のれんくぐりなどのさりげない動作の中の「肘」の意識が上手かった。主役級である治兵衛も孫右衛門もそこまで細かくはやっていないのだが、異様に細かいところにまでいちいち気を配るのが玉志さんらしい。出のすぐあと、「毛虫」と言われたときにチョコッと振り向いているの細かい。ほうき三味線の一の糸、二の糸、三の糸の弾き分けをしていたのは、すごいを通り過ぎて、若干サイコパス入ってるような気もした。ある日、ほうき三味線が気に食わない角度に出ていたようで、途中で引っ掴んで直していたのも、玉志〜って感じで、良かった。
なお、二度目の出は、完全にシラフな感じだった。玉志さんは、『曾根崎心中』の九平次をやったときは、二度目の出ではかなりの酔っ払いとして処理していたが、太兵衛はほんとにお散歩していただけなのか。そのへんで何杯か飲んで、おでんとか食べてきたのかなと思っていたけど、ちょっとパチンコに行ってただけかもしれん。(?)

孫右衛門〈吉田玉也〉は、昨年7月公演のときはちょっと芝居すぎやしないかと思ったけど、改めて観ると、「武士に化けた町人」の演じ分けをあえてしていないところが上手い。ものすごく本人に適合している役ではないときに、小芝居へ走らないのはベテランの技。頭巾の被りがやや浅いのは、どういう意図なのだろう。確かに頭巾の意味としては髪型さえ隠せればいいんだけど、見栄え的な判断なのかな。

下女子は、一度目の出だけエプロンを下ろしていて、以降の2度(「大和屋」含む)は帯に引っ掛けてたくし上げているよね。お急ぎ度の違い? それとも、お客さんの前に出るかどうかの違いなのだろうか?

今月の河庄の花車は、いままでよりかなり老けた印象だった。かしらが違うのか、着付の違いか。演奏にはもう少し合わせたほうがいいと思う。(特に「嵐の木の葉でばら/\/\」などのわかりやすいところ)

ちなみに、今回の番太郎のかしらは鼻動きではなく、真面目そうな地味顔の端役でした。

 

床は、河庄の睦さんの果てしないウザさがすごい。上手いとは言わない。しかし、ウザ野郎のどんちゃん騒ぎのいいセンを行っている。
あとは、付喪神がいる段があったのが、気になった。

 

 

↓ 2022年7・8月大阪公演の感想。治兵衛=玉男さん、小春=勘十郎さん、おさん=和生さん。

 

 
 
 
 
 
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  • 義太夫
    • 北新地河庄の段
      中=豊竹睦太夫/野澤勝平
      切=竹本千歳太夫/豊沢富助
    • 天満紙屋内の段
      口=豊竹希太夫/鶴澤友之助
      奥=豊竹藤太夫/竹澤團七
    • 大和屋の段
      竹本織太夫豊竹咲太夫全日程休演につき代役)/鶴澤燕三
    • 道行名残の橋づくし
      小春 豊竹芳穂太夫、治兵衛 竹本小住太夫、豊竹亘太夫、竹本聖太夫/野澤錦糸、鶴澤寛太郎、鶴澤清公、鶴澤清允、鶴澤清方

  • 人形
    紀の国屋下女子=吉田玉誉、紀の国屋小春=豊松清十郎、朋輩女郎=吉田簑之、花車=桐竹紋秀、江戸屋太兵衛=吉田玉助(前半)吉田玉志(後半)、五貫屋善六=吉田簑紫郎、粉屋孫右衛門=吉田玉也、紙屋治兵衛=吉田玉男、河庄亭主=桐竹勘次郎、女房おさん=吉田和生、倅勘太郎=桐竹勘昇、丁稚三五郎=吉田文哉、娘お末[出遣いなし]=豊松清之助、下女お玉=吉田簑太郎、おさんの母=吉田簑一郎、舅五左衛門=吉田玉輝、大和屋伝兵衛=吉田玉延、夜廻り=吉田簑悠

 

 

第二部『国性爺合戦』。

 
 
 
 
 
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デカはまぐりを出して欲しかった。冗談ではなく、中身がない話をやるなら、ぱっと目を引くものを出し続けてほしい。楼門はともかく、甘輝館以降は話の中身がなさすぎだと思う。かなり長く感じる。

 

和藤内は玉佳さん。玉佳さんは和藤内は初役だと思うが、初役であろうとも、基礎がしっかりしている人は、多少の不慣れが出ても最初から「その役」に見えるんだなと思った。とくに人形の姿にぱっと見のキャッチ力があるのはさすが。隆々とした上半身のボリューム感、胸板と肩の存在感が素晴らしい。
途中で集中力が切れている節があるのは非常に惜しい。集中力が失われているというより、スタンバイ姿勢での今そのとき、「和藤内」が何をしていたらいいのか、一瞬わからなくなるときがある、と言ったほうが正しいかな。そこは、それぞれの人の工夫のしどころのように思った。玉佳がよければ、それでいいんだよ。(ウエメセ
それにしても、玉佳和藤内は、愛嬌にあふれていた。江戸時代のスターシステムキャラらしいとも言えるが、どうにもいちごコスのYoutuberのようで、かなり、良かった。逆三角形ボディに構えすぎて(それ自体は全然OKだけど)、赤地に金のぷちぷち模様の衣装だともう本当にボディが「とちおとめ」とか「あまおう」にしか見えない。タマカ・チャン、栃木県や福岡県の農協のアンバサダーに任命されるかもしれない。なんともいえないYoutuber感は、謎。タマカチャンネルが解説されたらすぐ教えてください。
虎と全然気が合っていないのは笑った。

 

甘輝の前期配役・玉志さんは、若く颯爽とした雰囲気だった。メンフィス(王家の紋章)のように瑞々しくキラキラしていた。若々しい(=実際には年をとってる)ではない。本当に若いのだ。透明感がすごい。
玉男さんの甘輝との違いを挙げるなら、気高さだ。玉男さんは貫禄があり悠然としていることで甘輝の身分が担保されているけれど、玉志さんは若く見えても気高さで身分が表現されていると感じる。よく見ていると、ちょっとした所作の末尾も三味線の末尾の音にきちんと合わせていて、だらけた印象のないことが彼の気品と清涼感につながっているのだろうと思った。
初日は衣装につられているのか動きがやや硬く感じられたが、中盤には非常に安定し、玉志さんらしい知的な優美さが出ていて、良かった。最近、舟底側にいる人物へ向き合うときのかがみ姿勢に凝ってますな。
甘輝は衣装の構造が日本舞台のものとは異なり、袖がタイトに腕へフィットして、胴もスリムにできている。そのため、席によっては、大きく開いた脇から人形の胴体の内部が見えた。なるほど、人形遣いは胴串をがっちりと握ってるんだなと思った(当たり前)。そして、こんな「四角く張った布の上に、木で作った頭乗せました^^」的な大味な構造なのに、よくもまああんなに自然な動きとして遣えるなと思った。逆に、若手の首と胴体の関係が「おでんの串持っとるんか?」って感じに硬いのは、このせいだとわかるんだけど。

 

和生さんの和藤内ママは、2021年4月大阪公演の勘壽さんよりかなり上品な雰囲気。元お姫様?とでもいうようなミニマムで美しい所作。見ていると自分の所作までゆっくりと整ってきそうな……。どうやってあんなドデカイのんびり息子が生まれたのか謎なところが良い(のんびり感はタマカ要因)。この上品さは一見過剰に思えるが、これくらいの気高さがないと最後に自害する展開が不自然になるので、上手い。芝居のニュアンスによって、原作そのものにある違和感をカバーしていると思う。後ろ手に縛られた状態で錦祥女を庇う姿勢は、普段の和生さんからは考えられない大きくよじれた姿勢で、ママの必死さが出ており、興味深かった。
「虎狩り」の虎対応が「鼻筋タッチ」なのは笑った。虎は撫でてほしそうに寄っていくのだが、通りすがりに鼻筋あたりをとんとんとする程度。「はい。はい。いま忙しいで、あとでな〜〜」という、リアルな猫対応というか……。勘壽さんは虎の顎の下を撫でてあげていたけど、これは、リアル生活で寄ってくる猫への対応の違いなのだろうか。まあ、やたらでかいからね。虎。

 

ある日、「楼門」の「後」の弾き始めで、三味線にトラブルがあった。糸巻きの固定が外れたのだと思うが、清治さんは機嫌悪そうに三味線を下ろし、糸を巻き直しはじめた。清治さん、最近は「おじいちゃん」であることに諦めてしまっているのかなと思ったが、チッと舌打ちしていて、闘志あるやんと思った。演奏を再開しても満足いく音が出ないからか、どうにもキレているのも清治さんらしく、元気があった。本当に弱ってたら、弾き直せなかっただろうな……。三味線が入らないとやりにくいところも呂勢さんはうまく処理していた。清治さんは途中から替えの三味線をつないでリレーして、錦祥女のクドキのいいところでは、いつもの調子に戻っていた。

 

↓ 2021年4月大阪公演の感想。和藤内=玉志さん、ママ=勘壽さん、錦祥女=簑助さん、甘輝=玉男さん。

 

 

 

 

  • 義太夫
    • 千里が竹虎狩りの段
      口[御簾内]=竹本碩太夫/鶴澤燕二郎
      奥=竹本三輪太夫/鶴澤清友、鶴澤清方、ツレ 野澤錦吾
    • 楼門の段
      前=竹本小住太夫/鶴澤清馗
      後=豊竹呂勢太夫鶴澤清治
    • 甘輝館の段
      切=竹本錣太夫/竹澤宗助
    • 紅流しより獅子が城の段
      竹本織大夫/鶴澤藤蔵
  • 人形
    和藤内=吉田玉佳、鄭芝龍老一官=吉田文司、一官妻=吉田和生、安大人=吉田玉翔、錦祥女=吉田簑二郎、五常軍甘輝=吉田玉志(前半)、吉田玉助(後半)
    *千里が竹虎狩りの段は人形黒衣

 

 

 

第三部『女殺油地獄』。

 
 
 
 
 
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与兵衛パパ・徳兵衛役の勘壽さんが、近松の世話物らしさを増幅している。端正さと地味さのバランス感覚が良い。持ち家のある商人らしさはありながら、手代から引き上げられたゆえの「一歩引いた」感があり、どんなときにもあまり大きい声を上げなさそうで、リアリスティック。

妹・おかち役の紋臣さんも可愛い。おかちは簑助さんで観たことがあるので、あれより可愛いのはもはや無理だなと思っていたけど、真面目なかわいこちゃん!地味に見えるけど、俺だけにはこの子の可愛さがわかるッ!!!!という感じで、良かった。

 

ただ正直なところ、第三部は非常に不満。
特に、殺し場については言いたいことがある。不気味さや残忍さがまったくないのは、相当、どうなのか。殺し場では、一面油の撒かれた足場の悪いめちゃくちゃな状況の中で、みっともなく必死になる人間の異様で滑稽な姿を描写する必要があるのではないだろうか。
表面的な所作の範囲だけで言うなら、少なくとも、与兵衛、お吉とも、足場が悪い場所で人間はどう動くか、転倒した瞬間に人間はどのような動きになるのかをもっと研究して欲しい。後半になるにつれ、だんだん動きが乱れていくという変化もあるべきだろう。また、与兵衛役とお吉役で話し合って、どの程度滑るかを握っておいて欲しい。それぞれの解釈で個々にやられても、客は床面の状態を理解できない。『女殺』は杉本文楽で見たときがいろいろな意味で底だと思っていたが(清治以外)、本公演でこれは厳しいものがあると感じた。

 

与兵衛は、前からこんなだっただろうか。え、と思ったのが、「河内屋」。かなり散漫で、人形の姿自体を含め、かなり崩れた状態になっているように感じた。私は、殺し場で物語のドラマ性に関係のない滑るモーションばかりを強調することには否定的だ。しかし、そうするなら、なおのことそこまでのドラマの描写力が求められると思っている。以前は、いわゆる「クサい」方向として、もう少しシッカリと芝居をしていて、やり方として理解できると思っていたが……。「豊島屋」も、これまでよりかなり単調になっているように感じた。
真面目にやっていないから、ではないだろう。私見では、体力要因かと思う。勘十郎さんはここ1年ほど、体力の低下があきらかに舞台へ顕れるようになってきていると感じる。芸風としても、体力の低下が技芸のクオリティへ跳ね返りやすい面がある。むしろ、勘十郎さんは、「最近だるいし、ほどほどでいいや」とかではなく、常に真剣に取り組んでいるからこそ、アウトプットとして体力の低下がはっきり顕れているのだと思う。今後、体力の低下とどのように付き合っていくのだろうか。

この手の話、センシティブな問題だし、文楽のお客さんは大人な人が多いので、表に出ることは少ない。けど、終演後なり会場近辺での周囲の会話を聞いていると、やはりどの人も相当に気にかけているよなと思う。みなさん細かいところまでよく見てますよね、本当に。

 

ただ、なにもかもが出演者要因ではないとは思う。
『女殺』は、話の流れに不自然な部分が多いように感じる。文楽を見はじめてからいろいろな復曲を見てきたが、そのうえで言えるのは、古典芸能として上演するからには、「初演当初のものを復元しました」では足りないということ。伝承演目では、上演を重ねられたことによって曲や演出が洗練されている。復曲演目は「そのまんま」突き出したのでは、これに著しく欠けてしまう。復活時に洗練性を補えればよいのだが、原作通りの復元を目指したことによって、つまらんモンへ向かって素朴に一直線になっている疑惑がある。
『女殺』で特に気になるのが「豊島屋」の冒頭で、与兵衛と金貸しの綿屋小兵衛が話すくだりは本来非常に大切な場面なのではないだろうか。ドラマを重視するなら、下手のすみっこの空いてるスペースでちょちょっとやるだけでいい内容とは思えない。与兵衛の心理が大きく変化するのはここで、屋外のスペースを「河庄」くらい確保する必要があるのではないだろうか。廻舞台を使ったり、大道具を引くことで屋外を大きく見せる、あるいは豊島屋の屋内の照明を落とすなりして、与兵衛の様子(屋外)にズームできないのだろうか。ある程度誰がやってもわかりやすい、さらにはっきり言うと、下手がやってもそれなりに伝わる演出である必要があるように思う。今からでも遅くないので、整理してほしい。
殺し場も、俗悪だといわれる『伊勢音頭恋寝刃』『国言詢音頭』より“名作”であると、言えるのだろうか。本当におもしろいものにするのだとしたら、出演者のドラマ自体への余程の描写力が要求されると感じる。「殺し場では人形ならではの表現が〜」という持ち上げも、一回見たら終わり。古典芸能という「金バッジ」がなければ、それこそ「ありがたみ」のない舞台になっている思う。

↓ 2018年2月東京公演の感想。与兵衛=玉男さん、お吉=和生さん。
このときの玉男さんの「(与兵衛は)愛がある人やと思います」、今思い返しても、すごいコメント。玉男さんにしか表現し得ない内面世界だったと思う。

 

↓ 2018年11月大阪公演の感想。与兵衛=勘十郎さん、お吉=和生さん。

 

  • 義太夫
    • 徳庵堤の段
      与兵衛 竹本南都太夫、お吉・小菊 豊竹亘太夫、大尽・森右衛門・七左衛門 竹本津國太夫、亭主・弥五郎・八弥 竹本文字栄太夫、お清・花車 豊竹薫太夫/鶴澤清友
    • 河内屋の段
      口=豊竹咲寿太夫/竹澤團吾
      奥=豊竹靖太夫/鶴澤清志郎
    • 豊島屋油店の段
      切=豊竹呂太夫/鶴澤清介
  • 人形
    女房お吉=吉田一輔(2/4-6?休演、代役・吉田簑次郎)、姉娘お清=吉田玉征、茶屋の亭主=吉田玉峻、河内屋与兵衛=桐竹勘十郎、刷毛の弥五郎=吉田玉翔、皆朱の善兵衛=吉田玉誉、天王寺屋小菊=桐竹紋吉、天王寺屋花車=吉田和馬、会津の大尽蝋九=桐竹亀次、小栗八弥=桐竹勘介、山本森右衛門=吉田勘市、豊島屋七左衛門=吉田勘彌、山上講先達=吉田玉路(2/7?〜??休演、代役・吉田玉誉)、河内屋徳兵衛=桐竹勘壽、徳兵衛女房お沢=吉田文昇、河内屋太兵衛=吉田清五郎、稲荷法印=吉田玉勢、妹おかち=桐竹紋臣、中娘=吉田和登(2/4-6?休演、代役・吉田和馬)、綿屋小兵衛=吉田玉彦
    徳庵堤の段は人形黒衣

 

 

 

今月もプログラムにミスがあった。2か月連続でこのようなミスは残念だ。確認ミスが出るような状況、事故が発生する体制で運営してしまっているのだろうが、改善はされるのか。

プログラムは、解説の文章にも疑問符がつく。感覚がものすごく古くないですか。
明治や昭和の踏襲にしか過ぎないやたらめったらな近松賛美は、寒々しい。そして、これだけ絶賛しておきながら、「河庄」を改作で上演しているにもかかわらずその旨記載がないのは、不誠実ではないか。『女殺』にしても、恋愛要素が少なくて特異だから上演が途絶えた云々等、素人がSNSに書く素朴な感想ではないので、感覚に寄りかかった類推は控えていただきたい。
今回特に気になったのは『国性爺合戦』。『国性爺』は、全編を通して、現代の観点からすると非常に差別的だったり、文化侵略が肯定的に描かれている。いまはそれを無邪気に楽しんでいてよい時代ではない。なんのエクスキュースもなく、「日本人の持つ気質の称賛をも盛り込んでいます」でまとめるのは、どうなのか。初演当時の自国優位意識がどのようなものだったかを解説すべきだろう。これまでは児玉竜一氏の解説がこのような部分を担っていたが、今回は児玉氏は演目解説から外れている。(かわりに載っている演目解説的ものがまた、どうにも感覚が古いというか……。もう少し若い研究者を起用できなかったのか……)
明治時代になぜ近松が評価されたのか。『国性爺』にはなぜ自国優位意識が描かれているのか。突き詰めると、理由はある意味、両方同じですよね。観客にその糸口を提示することに、プログラムの役割を期待する。
現代の文楽(古典芸能)上演では、当時と現代の社会の違いをブリッジする意識が必要だと思う。安直な『釣女』の上演もそうだが、演目の歴史的経緯と現代社会の無視は、もう、やめにしませんか。

 

 

*1:でも、いままでのいろいろを思い返すに、中堅から若手は、みんな、全体的に上手くなったよなあと思う。以前はもっと、意味なく食い気味になったり、一本調子な人が多かった気がする。その意味では、だいぶ向上した状態で聴けているのかもしれない。