TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 2月東京公演『五条橋』『伽羅先代萩』国立劇場小劇場

今回は、人形遣いのかなりお若い方まで、全員に役がついていたんじゃないかなと思う。よかったよかった。お若い方がチョコチョコ……と出てこられるのを見ると、帯屋の儀兵衛のように「ヲ丶……居よる居よる……w」と嬉しくなってしまいます。

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第一部ひとつめ、五条橋。

オマケ演目丸出しすぎだろと思っていたが、玉勢さんの牛若丸が良かった。
だいぶ大人になってきた美少年って感じで、ほぼ義経なんだけど、ちょっといたずらっこっぽいのが良い。そして、中性的な佇まいが非常に印象的。弁慶〈吉田文哉〉ともども、みずみずしい印象。会期後半は動きが整理され、一連の動作として流麗になっていったのも良かった。最近舞踊演目の人形の状態に首をかしげることが多かったので、今回の『五条橋』を見て、安心した。今後も景事はこうあって欲しい。
プログラムの解説に「弁慶と義経は、男色の領分では不動の組み合わせ」と唐突にものすごい断定が書いてあるのが良かった。義経総攻ですねわかります。古典業界では義仲兼平派と熊谷敦盛派も多いとみています。

 

  • 人形役割
    牛若丸=吉田玉勢、弁慶=吉田文哉

 

 

 

第一部ふたつめ、伽羅先代萩

2月公演のぶっちぎりハイレベル演目。本当にすばらしかった。
政岡が非常に生っぽいのが印象的だった。『伽羅先代萩』のストーリーは、現代には一切通用しない社会倫理を含んでいて、しかもその中でもかなり特殊な極限状況。正直、いかにも泣かせるための作り話だなと思うけど、そんな中でも政岡〈吉田和生〉という人物の心のありようそのものがダイレクトに伝わってきた。あの政岡からは、生身の人間と肌を触れ合ったときのような、体温、息遣い、湿度を感じる。大仰な作り話の世界の中でも、彼女の心だけは本物。曲や振りの派手さに振り回されず、自分以外の存在に心を寄せる主人公の、その心の崇高さが高い純度をもって結晶化していた。まさに文楽の醍醐味だと思う。

今回の『先代萩』で特に感じたのは、政岡の孤高の精神性。彼女にピンライトが当たっているような印象があった。2019年に観たときは、八汐に勘壽さん、栄御前に簑助さんも出ていたので、高貴な女たちによる裏の政争劇みたいだと思ったけど(『極道の妻たち』的な)、今回は政岡だけがクッキリと浮き立っている。

「竹の間」で出てきたばかりのときは、政岡の本心がわからず、四角四面な乳人のように思える。しかし、「御殿」の前を通じて、彼女と鶴喜代君と千松の3人だけの閉塞的な世界、それぞれの立場から純粋にお互いを思う心がわかる。政岡の一心さ、二人の子供に不自由をさせる母としてのやるせなさ。その過程があるゆえに、「後」が引き立つ。だんだんと彼女に感情移入できるようになっていった。いや、気づいたら、感情移入していた。

もっとも派手な「御殿」の後でも、「和生さん」「錣さん」といった個は消えて、政岡という人物に収斂していたのが本当によかった。
そんなふうに「個」が消えているのに、特に和生さんは、むしろ、和生さんにしか成し遂げられない到達点を見せてくれたと思う。「俺が俺が」的な個性を消して、あそこまで浄瑠璃の表現自体に徹することができるのは、さらに上をいく強烈な個性。西宮で観たときより初日のほうが良く、初日より中日のほうが充実していた。そして中日より最終週のほうがもっと煮詰まっていて、本当に素晴らしかった。単なる派手で有名な曲、持て囃される見せ場というだけでない、堂々たる舞台だった。

 

 

 

竹の間の段。

冒頭で千松〈吉田簑太郎〉と鶴喜代君〈桐竹勘次郎〉が雀のカゴを持って出てくるところ、最高すぎる。緊迫した不穏な広間をほのぼのさせる、小さい子供さん独特の意味不明行動。なぜそこに雀を連れてくるのか、なぜ政岡は黙認しているのか、すべてがよくわからんのが最高に良い。八汐〈吉田玉志〉と沖の井〈吉田一輔〉は、我々の見ていないところで雀についてのせつめいを90ぷんにわたってきかされたとみた。おこさまのマイブームへのねついは、すさまじいカロリーをもっているのである。

千松の人形と簑太郎さんが似過ぎで、「そうきたか」と思った。文司さんの伴内、和生さんの白太夫につぐ、合ってるのはわかるんだけど顔が似過ぎで集中力を乱してくるヤバ配役。ちょかちょかした動きが愛らしく、会期後半は毒菓子を食べる速度がアップしていて、良かった。

八汐は玉志サンだった。玉志サンの女方は初めて観たが、意外と違和感がない。違和感がないというか、浄瑠璃での八汐の描写に沿った演技になっているので、普通に八汐になっている。ただ、八汐が打掛に手をかけて立つ姿勢を見て、元からの女方の人は、単にまっすぐ立っているわけじゃないんだなと思った。女方の人は若干腰を引いて、打掛の内側(腰回り)に空間を作っていますね。また、扇を帯に挿すときの仕草が女性の挿し方じゃない。完全にイケメン武士だなと思った。扇の挿し方だけでも人形の雰囲気がかなり変わるんだなと思った。八汐は会期通して少しずつ雰囲気が変わっていったのも面白かった。最初はちょっと線が強い、かしらの表情通りの女方。次の週は軽やかさが出た。最終的には、なぜか天然由来成分100%的なピュアネス玉志に回帰してたのも良かった。

 

ヤスさん、「願書」は「グヮンショ」じゃなくていいのか。いままで聞いているに、ヤスさんはどの演目でも「クヮ」「グヮ」の合拗音を使わない語りをしているように思う。先代萩のような純粋な時代物ならさすがに合拗音でやるかと思ったけど、普通に「がんしょ」と発音していた。御殿の錣さんは「御菓子 オンクヮシ」「願 グヮン」「顔色 グヮンショク」で発音していて、先代萩の格調高さが出ていた。竹の間と御殿では、発言するのが八汐と栄御前と異なっており、両者は身分が全く違うけど、その差なのか、単にヤスさんが合拗音を使わないというだけか。錦糸さんはそれに対してどう考えているのか。
そして、あまりに頑張ったためにそうなったのだろうと思うが、忍びの者〈吉田玉征〉の喋り方が世話っぽすぎでは。なんだこの人情味。屋根裏の配線工事をしていた商店街の組合長さん(電気屋経営)が落ちてきたのかと思うげな。八汐も嫌なオバチャン感はあるけど、卑しい出自とはいえ大名に仕えている品格かというと難しい。これも頑張りすぎたが故に起こったことだと思うけど、『冥途の飛脚』「淡路町の段」の小住さんが武張りすぎだったことを考えると、配役が逆でもよかったのかもと思った。とはいえ、若いうちから向き不向きを決めつけてもつまらない。的確な身分表現は文楽でも非常に大事な要素だと思うので、おふたりとも、頑張れ!と思った。

 

 

 

御殿の段、前。

雀に米粒をやった後、政岡が上手を向きながら、お盆に子供たちのはしゃぐ姿を写す場面が非常に印象的。「野崎村」のお光が戸口に立ったお染の姿を鏡に写す場面に使っている鏡はくすんで実際には反射しないのとは違って、お盆の表面はツヤツヤしていて本当に人形の顔が映る。私の席からは、政岡と和生さんの表情が見えた。本来見えないはずの表情に、無言のうちの美しさがあった。
政岡は、顔を上げているときは大名の子の乳母として、まるで人形のような(人形です)無表情な顔をしているが、子供たちに背を向けたり、食事の支度をしているときにこそ、行儀のよい飯炊きに集中しているように見えて、もっとも「わたくし」、ふたりの子供たちのママに戻っているのだと思う。おおきな瞳からこぼれ落ちた冷えた涙に濡れているような佇まいが大変印象的だった。露がしっとりと浮かんだ早朝の花のように、美しい。

政岡の飯炊きは、炊き上がるまでに本当に時間がかかるのがすごい。そりゃ子供二人もおなかすくよね。一番気になるのが、子供たちのボディのわりに“にぎにぎ”が巨大かつ大量すぎること。にぎにぎ1個が茶碗1杯分くらいある。ひとりあたま1.5合くらいずつ食ってないか。しかも食うのがめちゃくちゃ速い。いや、速く食わないと浄瑠璃が進んで栄御前が来てしまうからなんだけど、ものすごい速度で食べている姿がなんだか良い。本当おなかすいてたのね。時々お盆をにぎにぎでコスコスしているのも、塩をつけているようで、可愛いです。ほっぺにごはんつぶがついていそうで、愛らしい。

ところで竹の間と御殿で政岡の左って違いますよね。御殿のほうがうまい人をつけているのかな。飯炊きの所作が良いのはもちろんのこと、冒頭の打掛の引き上げ姿勢もかなり綺麗だった。それと、政岡は足が和生さんとバッチリ揃っているのがよくて、人形の状態が止まったら同時に足もビシッと止まるので、見ていて気持ちよく、乳人としての毅然とした雰囲気があった。

ちなみに狆は前半日程だとかなり興奮していて、うれションするんじゃないかと思うほど千松に飛びついていましたが、「政岡の邪魔や💢」という観客の思念が通じたのか、後半ではおとなしくなっていました。あの狆を見ると、昔よくあった、ちょこちょこ動く電動の小型犬のおもちゃを思い出します。

 

床は呂勢さん・清治さん。落ち着いて芯のある雰囲気があって、興味深い。
静かだけど気詰まりな雰囲気、政岡の神経質さや心理的閉塞が表現されていたのが印象的。あの部屋の外は魔界だという息苦しさが満ちている。御殿の前で一番辛いのは、3人それぞれがお互いを気遣いながらも、事情によって感情を表立って出せないこと。政岡、千松、鶴喜代君にとってもっとも落ち着けるこの部屋の中でさえも、精神はそばだっている。この雰囲気が表現されている点がいちばんよかった。先代萩の文章には、シチュエーションの緊張感を妨げるような穴があると思う。それをカバーし、登場人物の内面を表現する、すばらしい演奏だった。
千松をかなり幼稚な喋り方に寄せていたのは、後の展開をより効果的にするための演出だろうか。実は内面では政岡や鶴喜代君のことをよく考えている子だったということか。後になると千松は「その菓子欲しい」しかセリフがなく、すべて行動で示すので、ここでの喋り方は印象的。なお、西宮の公演の際の錣さんは、がんばって生きてる、しっかり者風の幼子にされていました。

 

後。

栄御前〈吉田簑二郎〉が来訪し、千松が八汐に刺されるくだりが、前回観たときとは雰囲気が違うように感じた。政岡が本当に動じない。以前観たときは、政岡は栄御前にじろじろと見据えながら、苦しむ千松から目をそらしつつ、自分自身も苦しそうに感じた。しかし、今回の政岡は無表情だ。人形そのままの本当の無表情。人間がやるとここが「無表情の芝居」になり、やってるやってる感が出てしまうところ、人形での表現はたいへん効果的だと感じた。もちろん、人形に「無表情な演技」をさせるのは、非常に高い技術を必要とすると思う。
栄御前が去り、ひとりになると、政岡は千松の遺骸を抱いて泣き叫ぶ。大きくつぼみを膨らませながら何日もそのまま持ちこたえていた花がぱっと開き、その華々しさとみずみずしい香りを輝くばかりに放っているよう。いや、もっと生々しいものかもしれない。彼女の気持ちは、あの真っ赤な衣装通り、限りなく純粋なまじりけのない色で、滝のように溢れ出る鮮血のようだった。死んでしまった千松同様、政岡もおびただしい血を流しているのだと思った。残酷で悲惨な情景だけど、それが美しく感じられるのは、文楽ならではだろう。

本当、今回の政岡はどこか生っぽい雰囲気がある。清楚でみずみずしく、感情そのものが形をなしているような純然たる唯一性があった。派手な振り付けに紛れない、政岡の気持ちそのものであったと思う。
それと、今回は、和生さんがどこか悲しそうな表情をされていたのが心に残ったな。政岡も悲しそうだったけど……、なんだか、胸が痛んだ。

 

錣さん×藤蔵さんは、満を持しての配役。昨年秋の西宮の公演で「政岡・和生さん、床・錣さん藤蔵さんで本公演が観たい」と感じた願いが叶って、本当に良かった。
まず、八汐の性格の悪そうっぷり。八汐のキャラクターは竹の間から大幅に飛躍し、政岡に対する不条理な悪意と横柄さ、とはいっても素性の知れない小物ぶりが出ていた。根性が曲がった人物は錣さんが最高に得意とするところだと思うけど、これくらい決めてくれると、政岡も引き立つ。一方の栄御前は、身分があるだけのことはあるものすごい上から目線感。不気味にねじ曲がった枝ぶりの老木のような不気味さ。枯死しているのに、アメーバのように生きているんじゃないかと思わせる退廃感。文楽だと栄御前は老女方の人形を用いており、見た目は非常に美麗なので、不気味に感じる。横から押してくる八汐と、上から押さえつけてくる栄御前によって、彼女らが責めさいなむのは短い時間ながらも、政岡と鶴喜代君の窮地が感じられる。
そしてやはり政岡の描写。印象的だったのは、現代の感覚からするとまずありえない政岡の言動をどう処理していくかという点。政岡は、文章の上では最初は大名家に仕える乳人としての表面上の言葉で千松の自己犠牲を褒め、「とはいふものの」以降からが本心の言葉になっている。しかし、今回は、クドキの頭にくる「コレ千松よう死んでくれた」から、言葉は乳人でも、喋り方は大幅に政岡の親としての本心に寄せているようだった。もちろん、もとからそう演じるものなんだけど、政岡自身の気持ちにかなり振り抜いて、「本当はそんなことはまったくもって思っていない、けれどそう言わざるを得ない悔しさ」を全面に出しているというか。
現代的感覚ではありえない物語をどう表現していくかというのは、現代文楽に課せられた大きな課題だが、詞章や演出を歪めず、物語に秘められた社会の不条理さそのものを現代人に伝えるアプローチとして、とても理解できた。ここで客に悪い意味で“言葉通り”に取られて、「政岡はひどいお母さんだと思います!」とかの感想を持たれたら、終わりだからねえ……。
そして、後半すばらしかったのは、政岡の心情のディティール表現。政岡のクドキはかなり長い。その間、浜辺に打ち寄せる波の表情が1回ごとに違うように、そのときそのときで微細に表情を変えていくのが非常によかった。ここまでの女性のディティール描写ができる人はほかにいないと思う。とても満足した。

 

……なんかこの和生さん、ヘアスタイルがいつもと違うな。私は技芸員さんのヘアスタイルに敏感なのです。

 

  • 人形役割
    八汐=吉田玉志、沖の井=吉田一輔、鶴喜代君=桐竹勘次郎、千松=吉田簑太郎、乳母政岡=吉田和生、小巻=吉田簑紫郎、忍び=吉田玉征、栄御前=吉田簑二郎

 

 

 

先代萩は有名曲だけど、内容にほころびがあるなと感じる。一番不自然に思うのが、「取り替え子の噂」。栄御前ほど身分がある人物が、小巻ごときの吹き込んだ取り替え子の噂を信じ込んで、政岡にペラペラ裏事情を喋るのは無理があるように思う。だが、浄瑠璃のもととなった歌舞伎(奈河亀輔作)の時点では、取替え子の噂を流したのは政岡自身という設定になっているようだ。そちらのほうが、全員がそれぞれの立場からそれぞれの思惑で毒味役が死ぬことを期待していたという点で整合性がある。浄瑠璃もそうして欲しかった……。
もうひとつ気になるのが、「奥御殿の中は敵だらけで、政岡は疑心暗鬼に陥っている」という状況……のはずなのに、そうは思えない点。むしろはじめから沖の井は明らかに政岡の味方という態度を取るので、政岡があそこまで懸命になっている理由がわかりづらく、狭量さに見える。

今回、このあたりをカバーしているのが出演者で、モヤっとする部分を吹き飛ばす力があった。この座組で先代萩を観られて良かった。和生さんと錣さんの、ひとりの女性の多様な面、心の動きを表現する力は本当にすばらしいと思う。このお二人にしかできない舞台だろう。
11月に西宮で和生さんの御殿に対する意気込みを聞いて以来、この公演がとても楽しみだった。和生さんはなぜ御殿にそこまでこだわっているのか、御殿でなにを見せたいと考えているのか。それを和生さんの口から直接聞くことはできないけど、しかし、それを舞台を通して理解できたような気がする。

この1年、公演開催状況が非常に不安定になっていたが、その中でこの『伽羅先代萩』のような舞台が実現できたこと、本当に良かった。会期が後半にいくにつれ煮詰まっていく濃厚さ、むせ返るような情熱に満ちているのに、限りない純度と透明度があった。
私が文楽を観ていて、もっとも面白い、すばらしいと思う瞬間は、人が人を思う気持ちが、舞台上で高純度で結晶化したとき。それにもっとも心を動かされる。今回の政岡のクドキは、私が文楽に望むものがまさに眼前にあったように感じた。
和生さんと錣さんが絶頂にある今、おふたりに似合った演目で、おふたり同時に配役されたことが大きいと思う。偶然上手く行ったとか、小手先のことではない、本質をえぐる重量感を持った舞台であったことに、心から賛辞を送りたい。この舞台を観られて、本当に良かった。

 

↓ 2020年11月西宮公演(外部単発)の感想


↓ 2019年1月大阪公演の感想

 

↓ 全段のあらすじ

 

 

おまけ 伊達騒動の実録について

伽羅先代萩』は実録*1をもとにしているということで、元ネタとなっている伊達騒動ものの実録に軽く目を通してみた。
実録は写本で流通し、書写されていく過程で内容に変化が起こってバリエが発生するので、『先代萩』と近い内容のものと、やや遠いものがある。先代萩の元ネタとなった実録『仙台萩』系統作品のうち、今回は「御殿」の内容に近い展開がある『伊達厳秘録』(宝暦ごろ成立?)を読んだ。

  • 若君(実録では「亀千代」)の乳母、政岡にあたる人物は「浅岡」という名前に設定されている。彼女の夫・白川主殿は亡くなっており、子供がいる。(子供自体は登場しない)*2
  • 毒味役は塩沢丹次郎という人物。息子の幸せを一心に願っている70歳ほどの老母と暮らしている。しかし若君毒殺計画を知り、自分が死ねば母が悲しむことは承知していながら、数多くの領民を持つ若君を助けたいという思いから、毒膳を承知の上で口にして死ぬ。
  • 毒膳事件以降、浅岡は若君の食事を自分で作るようになる。
  • 逆臣らに偽の呪いの願書を突きつけられ、窮地に陥った浅岡を若君が救う展開は『先代萩』と同。若君は浅岡への対処は自ら行うと言い、逆に、自分を幼君と侮っていると言って逆臣らを扇で打擲する。実録では若君は『先代萩』よりもさらに喋り方がちゃんとしており、主君としての立場から対処をする。
  • 毒菓子は逆臣(八汐の夫にあたる人物)が差し入れてくる。浅岡が断って若君には食べさせないとするが、見せるだけは見せるとして引き取る。しかしそこに狆が走ってきて、菓子を食べて死んでしまう。状況を追求された逆臣はスゴスゴ帰って引きこもる。
  • 今回上演しない「床下の段」に出現するビッグねずみも出ます。

乳母の子供、母思いの毒味役、菓子を食べて死ぬ役が別人だったのを一人に統合したアイデアがすごい。そして、狆が実録の時点でいたことにめちゃくちゃ笑ってしまった。「狆、いるか? 雀とフリテンこいてね?」と思っていたが、そうか、もともとは主要キャラ(?)だったのか……。
先代萩』において鶴喜代君の聡明さや実直さは非常に印象的だが、『伊達厳秘録』の亀千代は、実録の性質を受けてか(講釈的な要素を含んでか)、『先代萩』よりもさらに君主としての威厳を備えたかなりシッカリした喋り方になっている。このあたりは媒体の性質の差なんだろうなと思った。

 

参考文献:高橋圭一『実録研究 筋を通す文学』清文堂/2002、博文館編輯局『帝国文庫 第14編 柳沢・越後・黒田・加賀・伊達騒動実記』博文館/1904 第4版 収録「伊達顯秘錄目錄」ほか

 

 

 

*1:実録体小説。実際に起こった事件などを元にして書かれた小説ジャンル。

*2:乳母の名前、子供の有無は『先代萩』系統でもモノによってばらついているようです。おそらく『伊達厳秘録』がもっとも出番多いと思われます。