TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 9月東京鑑賞教室公演『伊達娘恋緋鹿子』『夏祭浪花鑑』新国立劇場小劇場

今年の鑑賞教室公演は会期が9月へ移動し、会場は新国立劇場となった。
東京の鑑賞教室は、例年、出演者を2グループに分け、ダブルキャストとすることが多いが、今回はA・B・Cの3グループに分けてのトリプルキャスト。そして、幹部と高齢の技芸員を抜いての編成となっていた。

 

 

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伊達娘恋緋鹿子、火の見櫓の段。

Bプロの玉誉さんが断然良い。
「櫓のお七」は、外部公演を含めると頻繁に出る演目なので、惰性でやってしまう人もいる。しかし、玉誉さんのお七は、いまこのときだけの一心さを常に湛えている。ずっとこの気持ちでいられることに、敬意を表する。

 

[Aプロ]

  • 義太夫
    竹本碩太夫、豊竹薫太夫/鶴澤清馗、野澤錦吾/鶴澤藤之亮
  • 人形
    お七=吉田玉翔


[Bプロ]

  • 義太夫
    豊竹亘太夫、竹本織栄太夫/竹澤團吾、鶴澤清允、鶴澤清方
  • 人形
    お七=吉田玉誉


[Cプロ]

  • 義太夫
    竹本南都太夫、竹本聖太夫/鶴澤清𠀋、鶴澤燕二郎
  • 人形
    お七=吉田簑太郎

 

 


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解説。

A・Bプロは人形、Cプロは床の解説。
床の解説では、試演の題材を「住吉鳥居前」にしていた。今回はワンフレーズのみの演奏で、「住吉鳥居前」の内容がわかるほどの長さではなく、あくまで素材ではあるが、気分だけでも寄せてくれたのね。「同じフレーズをいろいろな役でやってみます」というのを先に言っておいたほうが適切だったのではないかと思った。
人形の解説は、英語逐次通訳付き解説の回で、通訳の喋っていることに合わせてもう一度身振りをして解説をわかりやすくするなど、工夫している方がいた。ワンセンテンス・ワンメッセージがこころがけられており、説明を短文で切っていたので、日本語話者にもわかりやすくなっていた。
逆に、何を伝えたいのかわからない喋り方をしてしまっている解説者もいた。そのために通訳が詰まったにもかかわらず、何も対応せずとぼけて茶化すとか、悪意はないんだろうけど、社会人としての常識がなさすぎて、普通にギョッとした。(これ、真剣な話、幕内でだれも注意しないのなら、お客さんがやんわり教えてあげるべきだと思う。悪意は本当にないと思うので)

今回は、解説者が客席通路扉から出て、客席内で説明するという企画になっていた。文楽では珍しい試みかもしれないけど、「ああ、“やってみた”んですね……」という感想かな。夜の回は撮影可能時間を設けていたり、なにか違うことをやらなくてはならない事情はわかるが、全体的に、大学生がゼミやサークルで企画したイベントみたいになっていた。一部の回で流している、映像の説明は、価値を感じない。

 

  • 解説
    Aプロ[人形]=吉田簑太郎、Bプロ[人形]=桐竹勘次郎、Cプロ[床]=豊竹亘太夫・鶴澤清公

 

 

 

◾️

夏祭浪花鑑、釣船三婦内の段、長町裏の段。

先述した通りの配役体制のため、ものすごいデンジャーなことになっていた。大阪鑑賞教室公演のD班が、ただでさえD班なのに、3分裂しちゃいました、みたいな(わかる人にしかわからない表現で申し訳ない)。

鑑賞教室は初心者向けを謳った公演だけど、これだと、客より、出演者のほうが「初心者」だよね。しかも、若手会ほど稽古をしているわけではないので、あからさまに出来ていない箇所が多い。「三婦内」と「長町裏」という頻繁に上演される有名シーンを上演しているにもかかわらず、「三婦内」「長町裏」になっていなかった。その場面の情景、メリハリや場の切り替わりを感じられない。
もちろん、上手い人がところどころに配されている。彼らの出ているあいだは、物語の輪郭ができている。経験の浅い人も、彼らについていけば、一応、なんとかなる。ただ、その人数が少なかったり、間欠的であったりするため、フォローが回りきっていなかった。特に出演者の絶対数が少ない「長町裏」では、本公演で味わえる、いつのまにか魔の世界に落とされる感覚、神輿が入ってくると同時に夢幻世界の混沌に誘われる陶酔、神輿が去っていったあと鐘の音とともに現実へ還ってくる独特の雰囲気がまったくなかったのは、残念。

混沌の中でも光る人はいたので、書き留めておこうと思う。
人形で良かったのは、見た順に、Cプロのお辰・勘彌さん、義平次・玉志さん。Bプロの三婦・文哉さん、お辰・紋臣さん。Aプロの琴浦・和馬さん、三婦・勘市さん、義平次・玉佳さん。
以下、役別に、これらの方々+ほかの配役含め、メモ。

 

 

義平次

Cプロ玉志さんは義平次配役2回目のため、「初心者」の一種だろう。しかし、その義平次が編笠で顔を隠し、うちわを振りながらうつむき加減に出てくると、舞台の空気が変わる。昆虫のごとき人間の理解できない世界に生きる者の佇まい。名人の風格。
いや、風格ビュービューにならざるを得ないと言ったほうが適切か。Cプロは団七・玉勢さん、義平次・玉志さんの組み合わせだったが、団七が「初心者」すぎて、お兄さんとしての責任感からか、「こいつが焦ったりトチったりしても、俺が絶対にフォローする😤😤😤😤😤😤😤!!!(風、鼻息だったの!?)(水木しげる!?!??!??)(そういえばああいう顔の人、水木しげる漫画にいるような……)」状態になっており、団七がやりやすいように全力を尽くしていた。玉勢さんは一生懸命やっており、何をやるべきか、タイミングはわかっているのだが、緊張のしすぎで動きに制約が出ていた。そこに対し、義平次は普段玉志さんが絶対やらないくらい派手な振りを入れて、あたかも団七も派手にやっているように見せていた。玉志さん、いつも「無」の顔してるけど、やっぱりお兄さんなんだなーと思った。
「長町裏」は照明にかなりの難があり、照明が当たる場所が舞台の中央のわずかな範囲にのみ限られるという事態が起こっていた。そのため、手すりキワにいる団七や義平次の人形は真っ暗なのに、都合上舞台センターに立っている玉志さんがなぜかめちゃくちゃ照らされまくっていた。着付が白で衣装風に目立つことと、ご本人のお顔立ちの渋さもあいまって、玉志さんが主演俳優にしか見えない。「老境に至った孤高の人形遣いを描くお芝居のクライマックスの独白シーン」みたいな……。しかし、しばらくしたら、位置転換のどさくさに紛れ、義平次に照明がいい感じに当たる位置へ移動し、自分は影に入って演技をしていた。気ぃ使いやな〜……。と思った。

玉男さん団七相手に演じた初役時の鋭い悪意が消えていたのは良し悪しあり。異形性、神経質さ、悪辣さ、金に意地汚さそう感は引き続きあるものの、あの研ぎ澄まされた針のような悪意はやはり相手役あってのことだったんだなと思った。まあ、玉勢団七は小型のツキノワグマくらいの感じやで、軽トラやったらアクセル踏み込めばジジイでも勝てそうやでな(なんの話?)。あのときの「異様な殺人事件」の雰囲気は、初役ながらも、ご本人がやりたいことを思いきりやれたこと、玉男さんも一切遠慮がなかったことが理由だったのかな。井戸端で団七が刀を突き、義平次が避けるところとか、本当に殺人の現場を目撃しているようで、すごかったからな……。

話は外れるが、Cプロの団七の左にはかなり慣れた人がつけられていた。初日、かいしゃくにミスがあった際には、その左遣いが大声で指示していた。主遣いが口頭指示をするのはよく見るけど、左遣いが声を出しているのは(しかも客席に聞こえるような大きい声)初めて見た。確かに進行に差し支える重大なミスで、緊張のあまり何が起こっているかわかってない主遣いの代わりにその場で注意したのは正解だった。お兄たち、弟が心配でならないんだな。お兄ちゃん2人、心配のあまり大興奮、兄貴風(?)が最大瞬間風速55mに達し大型の台風が上陸、心配されているご本人は余計に緊張しそうだった。玉勢さんがうまくいかない理由の90%は緊張のしすぎだと思うので、出番前に、目の前で舞い踊ってあげるとかのほうがよいかもしれない。(余計緊張する)
この団七の左は前述の通り非常に手慣れた方で、自分のミスは自分で拾っていた。団七が義平次に雪駄で額を割られた際、主遣いが団七の右手を顔に当てているあいだに、左遣いが団七の額へ赤い傷シールを貼る。最初、このシールがくっつかず手間取っていたものの、すかさず2枚目を取り出し、ちゃんとデコの傷が完成した。と同時に、やっぱり重要な小道具はスペアあるんやなと思った。重要な小道具といえば、団七が拾う小石は、私の大好きな「小石のぬいぐるみ」ではなく、本物の小石だそうです。

Bプロの簑二郎さんが義平次をどう演じるかには注目していたのだが、意外と(?)普通の人間の俳優っぽかった。もう少し「チャリ」に寄せるかと思っていたが、簑二郎さんは誠実なんだなと思った。「三婦内」の引っ込み際、おつぎに挨拶をして→琴浦をせかしながら駕籠に乗せ→磯之丞からは顔を隠し→お辰が帰ってゆくどさくさに紛れて義平次も駕籠とともに去っていくくだりで、演技の段取りがやや混乱していた。舞台が狭すぎて義平次の演技できるスペースがなくなっている上に、他の役が不用意にダンゴになって近づいてきたのが最大の原因だと思うが、逆に自分の所作によって、周囲をうまくコントロールできるようになってくれればと思う。

Aプロ・玉佳さんの義平次は、キモかった。しきりに手足をうごめかせていて、ひっくり返ったゴキブリのようで、不気味だった。玉佳さんが義平次やると、人となりが丸くなっちゃうかなと思いきや、「なんかうすら嫌なやつ」におさめていたのは、上手い。嫌といっても、「性格が悪い」というより、「怪人」という言葉がふさわしい印象だった。『小遣い万歳!』に出てきそう的な意味の……。
義平次には、「長町裏」でガブになったあと、団七に蹴り飛ばされて二重から船底へ落ち、手すりにぶつかって背面姿勢となり、右手を上げて左手を手すりにかけ、団七と向き合って決まるという見せ場がある。このとき、タマカ・ギヘイジは、めちゃくちゃド派手に手すりにぶつかり、客席へ大幅にはみ出して遣っていたのが面白かった。だいぶこぼれていた。
せかせかした動きそのものは玉志さんと同じなのに、玉志さんはイライラしているように見えて、玉佳さんは気味の悪いクセのある人に見える。そして、玉志義平次はシャキッと身長176cmはありそうなのに、玉佳義平次は年をとって身長が縮んだ160cm以下の「昔のジジイ」な感じだった。同じ師匠から生まれて、なんでこんなぜんぜん雰囲気違うねんというほど、違っていた。どうして違う方向の異常者へと分離していくんだ!? というか、そもそも師匠の義平次、こんなに異常者じゃないだろ!!

文楽劇場技術室のインスタに、ガブの義平次の手を新調したという写真が上がっていた。これまでは通常の「かせ手」に汚しを入れたものを使っていたが、「幽霊」らしく見えるように骨の浮き出た細長い手を作ったようだ。実際舞台で見てみると……、…………??? 後述するが、今回、照明に問題があったため、袖の影に入ると指の細さ(面になって強く反射する面積の少なさ)と筋ばった骨の影の干渉もあいまって手自体が暗くなりすぎ、見えづらくなっていた。指が細くても存在感が出るよう、手自体を大きめに作る工夫がされているとは感じたが……。文楽劇場公演の光線下でもう一度見て、効果を見定めたいと思った。

 
 
 
 
 
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お辰

Cプロ勘彌さんは、媚びや贅肉的な色気を排し、すっきり際立った涼やかな姿が美しかった。引き算をし尽くしたぶん、時折見せる艶のある表情が一層あでやかに見える。文楽業界の藤純子や。 顔にやけどの傷をつけたあと、お盆を鏡にして自らの姿を覗き見る様子は艶麗で、勘彌さんの普段の持ち味もよく出ていた。三婦のセクハラ発言に対する反応がクールなことが活きる。
勘彌さんのお辰を見るのはこれで3回目だが、初役時からブレがないので、これが勘彌さんの考えるお辰像と受け止めている。今回公演のプロモーション動画に、勘彌さんがインタビューで登場していた。この中の「心の動きを丁寧に表現できたらなと思っています」という話は、文楽の人形表現にとって、非常に重要だと感じた。単なる「心」「内面」ではなく、「心の動き」であることに文楽の本質があると思う。また、「一歩でも簑助師匠のお辰に近づきたい」ということを話されているが、簑助さんのお辰と勘彌さんのお辰から受ける印象はまったく異なる。勘彌さんのスキルを考えると、簑助さんのお辰を高精度でコピーすることは可能だろう。しかしそれをしていないということは、近づきたいのは表面的な所作ではないということになる。勘彌さんは何を指して「近づきたい」と語っているのか。とても重要なことだと感じた。私は、お辰という役に対しては、簑助さんより勘彌さんのほうが上手い(浄瑠璃の本質に合っている)と思う。それは、勘彌さんが簑助さんの良さを自分の個性の中に取り込んだうえで、簑助さんとは違うお辰像を作り上げているからだろう。
文楽は、ひとつの役を表現するのに太夫・三味線・人形遣い三者が関わっていると話したあと、人形もですね、と付け加えているのも良かった。そして、その「複雑さを楽しんでいただきたいと思っています」というコメントは、解説パートで聞きたい言葉だなと思った。

 

Bプロ紋臣さんはお辰初役だと思うが、完成度の高さに驚いた。所作にブレや迷いがなく、ご本人の考えるお辰の像が作られていた。本役相当のパフォーマンス。楚々とした雰囲気で、余計なシナや雑味をおさえたシンプルな佇まい。かつ、おつぎのシンプルさとは区別されているのが良い。やや柔らかみが強いのが勘彌さんとの違いか。普段ご本人に出やすい動きの過剰さや装飾にすぎないシナが抑えられているので、よく考えてのことと思う。紋臣さんはおそらくこれまでにお辰の左をやっていて、その間に自分ならどうするのか考えており、今回それが現実になったということだろう。いつくるかわからない、くるかどうかもわからない役に真剣に向き合い続けてきた積み重ねが実ったのだと思う。本当によかった。このお辰だけでなく、これまでの努力に拍手を送りたい。

 

 

三婦

三婦はAプロ・勘市さんが良かった。勘市さんは、老人役の表現の幅が広い。老耄感を出しすぎないややしっかりめの演技で、後半、三下二人組を掴んで去っていく姿も似合っていた。人形の顔(かしら)そのまんまの表現ができる人は強い。

Bプロ・文哉さん三婦は、かなりちゃんとしていた。初役だと思うが、ずっとやりたいと思っていた役なのだろう、研究がよく行き届いていた。若干のうつむき加減など、ぼーっとしているように見えて周囲をよく観察しているジジイの雰囲気が出ていた。

ただ、「三婦内」はもうちょっと華と締まりがないと厳しい。三婦はただのジジイではないので、やや派手目の見栄えがあり、メリハリをつけられる芸風の人を持ってくる必要がある。どこかで玉志さんに三婦をやってもらったほうが良かったのではと思った。

 

 

おつぎ

おっ!と思わされたのは、Cプロ・簑一郎さん。簑一郎さんのおつぎ役は、以前、代役として見たことがある。その際は、間合いが埋まらない演技になっていた。具体的には、お辰が顔に鉄弓を当てた直後の演技。オーソドックスな演技としては、おつぎは一旦のれん口に下がり、お盆に乗せた湯呑みと赤い包みの薬を持ってきて、それを使って急いでお辰に手当てをする。しかし、簑一郎さんはこの湯呑みと薬を出さずに介抱していた。やけどした人に水を飲ませたり、薬を飲ませるのは不自然だという判断なのだろう。ただ、所作が抜けることによって、浄瑠璃の長い間尺に対してバタバタするだけとなってしまっていた。急な代役だから仕方ないか、というのがそのときの感想だった。しかし今回、湯呑みを出す演技を追加し、介抱の所作を若干複雑化することによって、適切な間合いが取れた状態になっていた。湯飲みを出すこと自体はお辰役の勘彌さんからの依頼かもしれないが(お盆は後にお辰の演技で使用する)、この進展に、大変な感銘を受けた。自分の考えを大切にしつつ、芝居としての完成度を上げる前向きな努力を感じた。
なお、これよりも前のくだり、三婦の口真似をして、かつての彼は気性が荒かったことを語る「チョット橋詰へ出てもらおう」というセリフでうちわを使わない/大きな振りをつけないのは、代役時と同じだった。なお、Bプロ紋吉さんは、三婦の真似はうちわで手すりをたたく所作あり、気付けは湯呑み薬両方ありで薬は三婦に預け、自分は水を飲ませる方式。Aプロ紋秀さんは三婦の真似はうちわありだが叩きつけはなしで振るだけ、気付けは湯呑み薬両方ありで、両方自分で飲ませる方式で演じていた。

そういえば、紋秀さんは、なぜか、あじを超慎重に焼いていた。頻繁にひっくり返し、間近でうちわをあおぎ、目の高さに持ち上げて焼けているかをチェックし……。せっかく立派なあじやのに、そないにいじったら身が崩れるがな。と思ったけど、ずっと出っぱなしになる役を貰えて嬉しいんだろうな。あじの身が崩れたら、セブンに売ってるあじほぐし弁当みたいなんを作ればいいもんねッ! あれ私も好き!!

おつぎが持っているうちわ。本公演だと、あじを焼いているときに使っているうちわと、お辰をあおいでやるうちわを替えている人がいるはず。今回はみなさんあじを焼くのに使ったうちわでお辰をあおいでいたと思うが、普通、魚や炭の匂いのついた料理用のうちわで客をあおいだら失礼なので、替えて客用(人間用)のものであおぐのがよいと思うが、客用を東京へ持ってこなかったとかなのかな?

これら以外にも、幕が開いたときから舞台に出ていて魚を焼いているか、それとも琴浦とアホの痴話喧嘩の途中から舞台へ入ってくるかという違いもあり、おつぎは配役によって素人目にでもわかるほど演技やその方法が違うので、注目すると面白い役だ。

 

 

琴浦

Aプロの和馬さん琴浦に驚いた。和馬さんはCプロ徳兵衛もすっくとして良かったが、琴浦は本当に良い。彼女の可愛らしさ、ぷんぷん感、いじらしさが控えめな中に的確に表現されている。本役で来てもおかしくない出来。まずもって最初にツイとヨソ向いて座っている姿からして、良い。和生さんがきちんと指導していること、本人も師匠や先輩をよく見て勉強していることがわかり、ちゃんとしている人はちゃんとしているのだと思った。
ただ、最後に駕籠へ乗り込むところで、義平次役の玉佳さんの気立のよさと和馬さんの素直さが謎の共鳴をみせ、琴浦が聞き分けよくすぐに駕籠に乗ってしまったのは気になったが……。お〜い、知らん人の車に乗ったら絶対あかんで〜。まあ、タマカ・チャンが迎えにきてくれたら、スルッと乗っちゃうわな。(逆に、Cプロ琴浦役はなかなか乗らず、義平次役の玉志さんが背後で猛烈にうちわを振っていた。舞台上だとうちわで実際に風が起こるから、一応、背後からでもタイミングが指示できるってことか……と思った。あんまり伝わってなかったけど……)

 

 

有象無象の三下

有象無象の三下ちゃうわ! 「こっぱの権」、「なまの八」ちゅうちゃんとした名前があるねん!!!!!
なのだが、今回、この二人が本当に「有象無象の三下」としか言いようがないことになっていて、むちゃくちゃ笑った。この2人、ふだんは『ひらかな盛衰記』逆櫓の段に登場する船頭3人組相当の「ちゃんとした人」(紋秀さん、紋吉さん、玉誉さん、玉翔さんなど)がついているので、立派な「ドサンピン」として活躍している。しかし今回、あまりに「若造」な人々を配役してしまったため、まじもんの「有象無象の三下」と化しており、異次元の味わいが出ていた。家の外でドッチが三婦にイチャモンつけるかを相談するくだりがこんなリアルなこと、今まであったか!?
特に、Cプロのなまの八・清之助さんが、「こいつそこまでポワンとしてへんやろ!」という天然ぶりで、良かった。こっぱの権の玉征さんは「こいつそこまで輪郭デカくねぇだろ!」という師匠譲りの謎の巨大貫禄を見せてるし、やばすぎた。とどまることを知らぬこのヤバさ。この手のヤバ事象は、ヤバいにはヤバいけど、かなり、好き。

 

近年「三婦内」が出る際には「切」がついている人が配役されているが、実際の演奏には「うーん」と思わされることが多かった。その理由は、間合いの違和感。登場人物のセリフの間隔が詰まって均一になっている、すべての登場人物が同じようなテンポで喋っている、誰が誰に対して喋るときでもトーンが同じ、など。私は、世話物は「間合い」がもっとも重要だと考えている。市井の人々の生活の雰囲気は、声と声(音と音)とのあいだの音が出ていない一瞬をどう含ませるかにかかっているのではないだろうか。Bプロ呂勢さんはその間合いが心地よく、その人らしさや、誰と誰が喋っているかの雰囲気が感じられてた。間合いがおかしいと、それに合わせなくてはならない人形がめちゃくちゃになるので、本当に、頼む。
Aプロ芳穂さんは、看経中の三婦と三下2人組とのやりとりが良かった。この部分、物語のコントラスト作りには重要なポイントだけど、その役目が曖昧になっている人が多い。細かいところまでよく勉強されているんだなと思った。三下のコソコソ話も、妙に上手かった。声の大きさを急激に下げることで、客席の注意をうまく引いている。また、そのアトを語った聖太夫さんが若手ながら相当にしっかりしていて、驚いた。ストレートさによって、一本気な人々の集まる市井の雰囲気が表現されているのが良かった。しかし、師匠はずっと床本見て語ってるのに、さとちゃんはほとんど見ないな。放牧!!!!!!!!!

物語の流れ、佇まいといった「義太夫らしさ」が出ているのが藤太夫さんだけというのは、この事態そのものはどうなのよとは思うものの、経験値的な面でほかの方々には難しいのかなとは思う。ただ、中堅若手も、本人たちが話の内容をよく研究して、自分なりにやりたいこと、やることを見定めているのだろうと感じることが多かった。出来ている出来ていないは別にせよ、課題意識は伝わってきたので、極端にダメだとは思わなかった。

 

 

[Aプロ]

  • 義太夫
    • 釣船三婦内の段
      豊竹芳穂太夫/野澤錦糸
      アト 竹本聖太夫/鶴澤寛太郎
    • 長町裏の段
      義平次 豊竹靖太夫、団七 竹本小住太夫/鶴澤藤蔵
  • 人形
    玉島磯之丞=吉田玉路、傾城琴浦=吉田和馬、三婦女房おつぎ=桐竹紋秀、釣船三婦=吉田勘市、徳兵衛女房お辰=吉田一輔、こっぱの権=桐竹勘昇、なまの八=吉田和登、三河屋義平次=吉田玉佳、団七九郎兵衛=吉田玉助、一寸徳兵衛=吉田簑悠

[Bプロ]

  • 義太夫
    • 釣船三婦内の段
      豊竹呂勢太夫/鶴澤燕三
      アト 竹本碩太夫/鶴澤清公
    • 長町裏の段
      義平次 豊竹藤太夫、団七 豊竹希太夫/野澤勝平
  • 人形
    玉島磯之丞=吉田玉彦、傾城琴浦=桐竹勘次郎、三婦女房おつぎ=桐竹紋吉、釣船三婦=吉田文哉、徳兵衛女房お辰=桐竹紋臣、こっぱの権=吉田玉延(吉田玉峻休演につき全日程代役)、なまの八=吉田簑悠、三河屋義平次=吉田簑二郎、団七九郎兵衛=吉田簑紫郎、一寸徳兵衛=吉田玉路

[Cプロ]

  • 義太夫
    • 釣船三婦内の段
      竹本織太夫/竹澤宗助
      アト 豊竹薫太夫/鶴澤友之助
    • 長町裏の段
      義平次 豊竹睦太夫、団七 豊竹咲寿太夫/鶴澤清志郎
  • 人形
    玉島磯之丞=桐竹勘介、傾城琴浦=吉田玉延、三婦女房おつぎ=吉田簑一郎、釣船三婦=吉田文昇、徳兵衛女房お辰=吉田勘彌、こっぱの権=吉田玉征、なまの八=豊松清之助、三河屋義平次=吉田玉志、団七九郎兵衛=吉田玉勢、一寸徳兵衛=吉田和馬

 

 

 

◾️

正直、この水準のものを、「これが文楽です!」と初心者に突き出すのは、不誠実だと思う。これを見て「文楽たいしたことない」「つまんない」と思われても、仕方ない。私は、今回の公演は、友人知人には勧められない。ほかにもいろいろな要因が重なり、今回の文楽公演は、いままでに見た国立劇場主催公演の中で、もっとも水準が低い印象を受けた。

 

人形は明らかにダメな役があった。役に慣れていないからできないとかではなく、根本的に、いつ・何を・どう演じるべきかをわかっていない人がいると感じる。今回、団七は全配役厳しい状態だった。団七は内面がないため、ところどころにある変化のポイントを押さえていかないと、ストーリーを形成できない。これがなされておらず、すべての配役で、何やってんだかわからなくなっていた。やりたいことはあるが、慣れていないからできないんだろうなという人もいる。しかし、そもそもの演技のねらい(物語上の意味)をわかっておらず、演技を間違っている人が見受けられた。

「長町裏」で具体的に指摘する。義平次が団七の長脇差を引き抜き、団七と「危のうござります」と揉み合う場面。人形が組み合う状態になって一周回るうち、脇差の刃は団七側から二人の中央にあったはずが、いつのまにか義平次にかかって、耳が切れてしまう。ここで、脇差の刃を義平次の耳にかけていない(義平次に当てたとわからない)人がいた。耳が切れて出た血を見たことによって団七は義平次を殺してしまうわけで、展開上、きちんと見せなくてはいけない所作のはずだ。ここが抜けるということは、話を理解していないということになる。また、この人は、義平次がガブになったあと、お互い井戸の周囲を回って井戸越しに舅を突こうとする場面で、義平次側へ刀を突き出すのではなく、井戸の縁を刀で叩いているだけになっていた。本公演で団七に配役される人だと、興奮のあまり手元が狂う見せ方のひとつとして、団七の手をがくがく震わせて井戸端に刀を打ち付ける音を出したり、義平次がいる位置から外してあさっての方向を突く所作を見せる場合がある。それをどういう理由でやっているのか考えず表面だけを真似ているのだろうが、あまりに考えなしにやりすぎではないか。

本来は、「長町裏」では団七が小石を拾って三十両と偽るところをどう見せるかといった細かい見せ方の積み重ねが重要で、それによって演目の趣旨である「異様な殺人事件」の異様さが闇の中から浮き上がってくる、この団七は小石を見つけるまでは正気だったので勧善懲悪キャラの一種として演じているのだろう、あちらの団七は平気で小石を拾うからはじめから異常者になっており、団七に対する解釈が人によって違うとか、そういう話をしたい。なのに、いまの舞台は、そんな話、一切できない次元になってしまっている。

お辰に関しても、肝心の鉄弓を顔に当てる場面で、鉄弓が顔に当たっていない(当てているように見えない)人がいた。単に鉄弓を手にしたまま、人形を後ろに倒していたが、これだと、本当に話の意味がわからなくなってしまう。この方は、以前、切腹する役で切腹していなかったことがあったので、やっぱり、演技の意味やそれをどう客に見せるかの重要性をわからずに、表面だけなぞっているんだなと思った。

古典芸能では、最初は意味が分からなかったとしても、「型」を真似することが大切だ。しかし、経験を重ねるうちに、その「型」が何を意味しているのかを、勉強によって知ったり、気づいたりしなければならない。それがなければ、いくら「経験」だけ重ねても、意味がない。団七やお辰のような重要な役でこの事態になっているのは、非常に遺憾。自分は今回の公演で何にこだわるのか、自分はその役を通して何を表現したいのかといった、課題意識をもって舞台に上がっていないのではないかと思われることが多いのも気になる。育成・指導の現状が厳しい状況に至っていることを感じた。

 

しかし、前述の通り、ちゃんとしている人はちゃんとしている。和馬さんや聖太夫さんが与えられた場を立派にこなす姿を見られたり、普段良い役のこない紋臣さんや勘市さんといった方が初役とは思えないほど立派に主役級の役を勤めるのを見られたのは、本当に良かった。玉志さんや玉佳さんが自身の役をきっちり見せつつ、相手役を引き立てる立ち回りをされている姿には、本物の実力を感じた。品質的ばらけの多い公演だと、このような方々は、より一層、貴重な存在だと思った。

 

 

清十郎ブログに、舞台稽古の写真が掲載されている。これでまた左や足の配役がわかる。ありがとう清十郎。あいかわらず異様に写真がボケているのが気になるが……。

 

 

 

◾️

以下、おまけ。

会場の新国立劇場について。

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今回、新国立劇場が会場と聞いて、中劇場での開催かと思っていたら、中劇場は歌舞伎公演が使用し、文楽は小劇場での公演だった。小劇場に入るのは初めてだったが、かなり狭いのね。天井高は別として、面積だけでいえば、大学の履修者多めの授業用の講義室のようなイメージ。販売席数は400席程度だろうか。

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舞台は間口が狭く、内子座程度かと思う。内子座へ行かれたことがない方には、演芸場のような、ごく少人数用の舞台の間口と言うと伝わりやすいかな。
左右幅も奥行きも狭いステージであることで、人形演技にはそこそこの差し支えが発生していた。「三婦内」は、室内にいる人形が鮨詰め状態になっていた。また、三婦ハウスの戸口前のスペースが狭すぎて、義平次の演技をかなり畳まなくてはいけない状態になっていた。「長町裏」は神輿が動くスペースがなく、段切で団七の走る距離が確保できないなど、重要な演出に難が出ていた(団七が走っているように見えないのは、団七役の人の技量の問題もあるけど)。5月公演のシアター1010でも、『ひらかな盛衰記』で樋口が松に登る前に歩く距離が確保できない問題が発生していたが、今後このようなことが続くと、立役の人形演技に問題が出る。ある程度舞台間口のある劇場の確保が重要だと感じた。
歌舞伎・文楽合同のプロモーションでは、「舞台と客席が近い」などと喧伝されていた。が、文楽においては、出演者(人形)−観客の単純な距離感は国立劇場小劇場とさほど変わらないと思う。

客席の横幅が舞台間口と同等の幅しかなく、そのため音が壁に跳ね返りやすいようで、音響は特に違和感はなかった。柝の音は響いていなかった。足拍子はわりとしっかり聞こえた。

舞台まわりのしつらえは通常と異なっていた。左右の小幕が文楽座の紋入りのものではなく、ただの黒幕にされていた。小幕はいつもの「シャリン」という開閉音がなかったが、単に今回の上演内容に開閉音をさせる場面がないのか、それとも鳴りにくい小幕のかけ方になっているのか。また、「三婦内」から「長町裏」へ大道具を転換する際の振り落とし幕は通常浅葱幕(水色の幕)だが、黒幕になっていた。黒幕は生地が薄く、幕の内側が透けて見えていた。作業状況が見えるのは、よく言えば「おもしろい」と言えるのかもしれないが、文楽(というか、緊張感のあるシーンのつなぎ)にこの手の「ネタバレ」はちょっと合わないかな。
普段、大道具(書割)の上部は黒幕を下ろして空間がマスキングされているが、今回は開放のままだった。舞台が広く見えると思いきや、中途半端な空き感が出て、「三婦内」では逆に大道具をせせこましく見せていた。ただ、せせこましく見えたのは、ふだんは書割(平面的な絵)にされている戸口外の障子(「つり舩」と書かれた別の入り口?みたいな部分)、室内の梁、仏壇が、実際に作り込まれていたのもあるかも。これ自体はリッチな印象があっていいんだけど、今回照明が方向性の強い光線にされているため、梁などから落ちる影がどきつく、良くも悪くもちんまり感が強調されて、ドールハウスっぽかった。
定式幕は、舞台袖に格納スペースがないため、開演中は下手側へ束ねた状態にされていた。

客電を落としていたのは、違和感はなかった。外部公演だと古典演目でも客電落としている会場があるし、本公演でも『曾根崎心中』などの復活時の新演出で上演している演目は暗くして上演しているので、この手法でもいいと思った。

 

今回は、「バルコニー席」と呼ばれる2階席が販売されていた。客席の左右壁面には細い張り出し通路が設けられていて、そこに、歌舞伎座2・3階の「西」「東」のような席が設置されている。上手側は床の上にあたるため販売なしだったが、下手側は一部販売されていた。試しに買ってみたら、なかなか面白かった。

開演前だが、バルコニーから舞台・階下を見下ろすと、こんな感じ。相当の見下ろし、覗き込みアングルになることがわかっていただけると思う。

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バルコニーのうち、ステージに近い前方席の場合、舞台を覗き込むようなアングルになるので、手摺に視界を遮られず、人形遣い3人の全身が見える。主遣いの足取りなど、興味深いことが多い。足遣いも全身が見えるようになるので、どうやって足を遣っているのかがよくわかった。また、床面がすべて見える状態になるため、床面にはりついているかいしゃくや小道具を置く蓮台の出し入れの様子も見ることができた。
せっかくなので、こんな見え方だったよというイメージイラストを貼っておく。すべてがウロ覚えなので厳密ではないけど、気分だけ味わっていただければと思う。

床の演奏の聞こえ方には問題はなかった。三味線の音に、若干不自然な反響が聞こえる程度。バルコニー最前方(ステージ脇通路と客席がつながっている)にお囃子のスペースが設けられており、バルコニー客席との距離が数mしかなかったので、お囃子の演奏がダイレクトに聞こえたのが面白かった。客席スペースとはパーテーション一枚で区切られているだけのため、普段はまず聞こえない細かい音もわかる。太鼓(小鼓じゃないほうのやつ的な意味での太鼓)の音は、お囃子から距離のある普通の客席では「トントン」としか聞こえないが、近くで聞くと、ピーンとした反響音のようなものが一緒に出ているんだなと思った。小鼓を打つ前に、皮に「はー」と息を吹きかける音までよく聞こえた。

『夏祭浪花鑑』は何度も観ている演目だし、珍しいとこ座ってみよという気まぐれで買った席だったが、結構楽しめた。ただ、本来的な意味では「人形がものすごく見づらい」。今回は1階席と同料金だが、普通に考えたら、20%は下げてもらわないといけないような見え方だった。あくまで文楽にある程度慣れていて、その演目の展開や人形の演技を把握している人向けかなと思う。ああ、次のために蓮台準備してるなとか、投げた小道具うまく拾ったなとか、「長町裏」では二重(井戸がある奥側)に上がるときは舞台下駄を脱ぐんだなとか、その舞台下駄を一回片付けるんだなとか、そういうのを見ておもしろがることができる人向けの席だと思った。人形の身体自体の動きの立体感(肩の押し引きなど)は見やすいので、人形好きの人は、そういう意味ではいいかもしれない。
また本公演でこのような席が販売されたときは、購入してみたいと思った。


なお、今回、スマホを使って字幕が見られるアプリが導入されていた。
自分は字幕を見ないので使わなかったが、視力に困りごとがある方にはステージ上の字幕より見やすくていいかもと思った。字幕アプリは黒地に白文字なので光漏れはほとんど気にならないのだが、スマホの画面ガラスに照明が反射するのが眩しくて、周囲の席の人が使っていると、そのちらつきが気になった。ただ、みなさん、物珍しさでちょっと試してみただけなのか、途中で飽きて見なくなっている方も多かった。

 

 

 

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今回、照明に大きな問題があった。
人形に照明が当たっていなかった。全体的に薄暗い中、人形のいる位置に照明を打てておらず、漫然とした位置に照明が当たっていた。特に舞台の左右端、舞台前方客席側(手すり付近)にいる人形は影になっていた。また、会場要因か演出要因かわからないが、今回はフットライトを設置していなかった。そのため、うつむき加減の演技のある人形、つまり団七、三婦といった主役級の人形の顔は暗く落ちていた。
これはないわなぁと思ったのは、「長町裏」。義平次の感想でも述べたが、本当に、人形に、照明が、当たって、いなかった。ステージ全体が暗いなかで、舞台の中央のみが漠然と照らされている状態のため、あくまで操演の都合上そこに立たざるを得ない義平次の主遣い(と団七の左遣い)だけが眩しくライトアップされ、肝心の人形たちは影に入る状態になっていた。また、人形(特に団七)の移動にスポットライトが追いついておらず、遅れたり、不用意な光の揺れ・滲みが見えていたのも気になった。
そして、光の色温度(光の色調)が極端で、悪目立ちしていた。困るのは、人形のかしらの色が本来とは違って見えていたこと。三婦は通常光源下で見るとピンク系の血色のよい顔をしているが、オレンジ系の暗い照明のせいで、茶褐色に落ちた状態になっていた。「長町裏」後半で団七に当てられる妙に青白いスポットライトも、演歌歌手のリサイタル風で、唐突な印象。

「三婦内」が暗すぎる問題は、会期後半では光量を増やし、室内全体を明るくする対応がなされていたが、「長町裏」は悪い状態が続いたままで、とても残念だった。
「新しいこと」をやるなとは言わない。しかし、これだと単なる的外れ。人形がまともに見えないのでは、話にならない。歌舞伎において、古典の上演で「主役に照明が当たっていない」なんてことをやったら、役者から重大なクレームが来て、謝罪と「対応」を迫られるのではないか。人形遣いはこの状態をどう考えているのか。
というか、人形の幹部は舞台稽古に立ち会っているのではないかと思うが、これに何も注文つけなかったのか? 和生〜〜〜〜〜〜〜〜〜なんとかしてくれ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!! 今回ばかりはまじでホンマに〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!
私は客として、今後またこのような公演があっては非常に困るので、アンケートにクレームを書いた。あとはプログラムのスタッフクレジットで照明監督を調べた。

初日には、さらに大きな問題があった。Cプロ「長町裏」で、舞台下手袖のスタッフが延々雑談をしている声が客席に漏れていた。床の演奏が止まる場面でも喋り続けており、非常に迷惑だった。
照明の問題もあり、運営のありように強い不審感が募る出来事だった。国立劇場が閉場して1年、主催公演でここまでレベルが下がるとは。大変残念に思う。