TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 5月東京公演『夏祭浪花鑑』住吉鳥居前の段、内本町道具屋の段、釣船三婦内の段、長町裏の段 国立劇場小劇場

普段は「住吉鳥居前の段」「釣船三婦内の段」「長町裏の段」の3つの場面が出る場合が多いところ、今回は住吉鳥居の後に「内本町道具屋の段」をつけて上演。

 

 

 

和生!!! 和生やないか!!!!!!!!!!

和生さん義平次、良すぎた。第三部で一番良い。今回の最大の見どころ。爆笑。(爆笑!?)

今回の配役が出た際、和生さんは義平次とはイメージが違うからなぁ、小汚くもないし、性格悪くもないし……とあまり期待していなかった。しかし、そうだった。和生さんも「ジジイ」の一種だった。出てきた瞬間、あまりに「和生」すぎて、思わずめちゃくちゃ笑い、拍手してしまった。
「イヤなジジイとは何か」を「ウザさ」という切り口で来るとは。自分の奥さんのパパが「これ」やったら苦手やな〜……若干ウザいな〜……と思う絶妙な線をついてくるイヤなジジイぶり。出てきた瞬間「うわ、小言言ってきそう」感がすさまじく、人に「苦手感」を抱かせる圧倒的なテクニックを感じた。足が下がっとる、そこは早すぎる、もっと右右右はいそこ、シャツにシワ寄っとるでそれくらい毎日自分でやらなあかんわ、健康診断もう行ったんかまだならええ年なんやで人間ドックにしたほうがええな、孫の顔いつ見せにくるんや来週か明日か今日かいまか……。
そういえば、以前、大阪でこの演目がかかったとき、客席に「関西の舅は皆“ああ”やでッ!!!! ホンマにああいう奴ばっかやでッッ!!!!」と吠えとるおっさんおったわ。和生さんも幕内ではこういうウザジジイなのかもしれんと思った。

微妙に素早いのに変なところで悠々としている動きも、和生感ある。普通にそのへんの往来を闊歩しているときの和生さんって、ああいう動きしてませんか? 私、和生さんだけは遠距離からでもわかるんだよね。あと、観光地へ町内会の慰安旅行で来たらしき老人グループに、ああいうジジイ、おる。いま何か失礼なことを言ったかもしれません。

これは役の本質とはまた異なることだが、どこか悠々とフリーダムに遣っているのも良かった。第二部の覚寿とは緊迫感や悲劇性がまったく違うということなのか。和生さんは普段、自分自身の顔を余計に動かすことはない。しかし、今回はちょっと動かし気味。記録映像で見る文雀さんはこんな感じだと思うのだが(人形と一緒に行動しているかのようで、彼や彼女と喋ってるように遣ってませんか?)、突然師匠の遺伝子が発現したのだろうか。ちょっと楽しそうだ。

いずれにしても演出としても理にかなっており、相当上手いと思った(褒めて締める!)。

あと、和生さんには珍しく、着付が特殊カラーでねずみ色だった。そのほかの人は白着付だった(季節的にやや無理があるけど。今年はそんなに暑くないし)。

 

 

 

住吉鳥居前の段。

清五郎さんの磯之丞は、前回同様、BLの受感があってよかった。闇オークションにかけられてそう。天才としか思えない。絶対にご注進しないでください。

団七の子ども・市松〈吉田和登〉は、ままとじいじ(血縁じいじではないが)をじっと見ていて、良かった。

琴浦〈桐竹紋秀〉はもう少しおしとやかに頼む。所作がドラミング🦍になっているところがあります。

大鳥佐賀右衛門〈吉田簑悠・代役〉は、言い方は非常に悪いが、セクハラしそうな人にやって欲しい。こんな「若造」では琴浦役の人に逆らえん。むしろアイスのパシリさせられてそうだった。

 

以上、個別の出演者を知っていれば面白みがあるが、全体的にはバラバラな印象だった。人物造形をよく考えるなり、風俗描写にこだわるなりの工夫がいりそうだ。

小道具が破損して客席側に飛んでしまった日があった。相当、危険。点検してないんですかね。幸い技芸員さんにもお客さんにも当たらず、一の手すりの内側に落ちたが、飛んできた場所の周囲の席のお客さんは集中できなくなったと思う。

 

 

 

内本町道具屋の段。

ここを上演すると、磯之丞がいかにカスかが明確になり、三婦がお辰にカスを預けられないと言い出した理由が非常によくわかる。ただ、内容としては本当にあらすじでしかなく、「だから何?」という説明しかないヤバイ段のところ、錣さんが配役。登場人物全員、好き勝手なことを一方的に抜かす展開がうまくまとめられていた。昭和オーラがあるのが良かった。(ここは昭和ではありませんが)

義平次の武士コスプレのウッカリ所作(貸衣装のタグをつけっぱなし、刀を置き忘れる)は玉男義平次と同じだった。*1しかし! 長町裏でもそうなのだが、刀の持ち上げ方がスムーズすぎる。わざとやってんのか? そこはパンピー町人よわよわジジイで頼むわ。(義平次以上に口うるさいウザ客)

 

脇キャラのみなさんたちそれぞれの年齢感は上手い。けど、話に対しての役割としては、ちょっと散漫。好き勝手に町家にひしめいている人々、の雰囲気が薄い。運びの早い部分で、床の演奏に間に合っていない人形がいるのも気になった。
伝八〈吉田文司〉の出番がここだけなのは惜しい。やはり道行もつけてもらわないと。

 

 

 

釣船三婦内の段。

人形はこざっぱりとした市井の雰囲気がよく出ている。ここだけの見取り上演でもいいくらい。

お辰役の勘彌さんが非常に良かった。勘彌さんは普段、優美さや艶冶な雰囲気がかなり強い人だと思うが、それを押さえつけてさっぱりとした雰囲気。落ち着いた暗い色の着物をきりりと着こなした、往年の藤純子主演の女侠物の任侠映画のようだ。*2「かわいさ」がないのが、とても良かった。
人形の上体に丸みや愛らしさを持たせすぎない、やや直線的に見せた中性的な構え方も、どこか任侠映画的。勘彌さんの場合はいくらでも愛らしく着付けられるところ、珍しいシンプルな佇まいだった。
顔に火傷をつけて三婦に凄む箇所をいかにも振りかぶっていないのは、意外だった。そこだけは思い切りいくかと思っていた。そこを強調するために、前段をややおとなしめにしているのかと考えていたけど、全般に楚々とまとめられていて、できるのにやらないところに、表現の幅の広さを感じた。

 

おつぎは、大きな動きを入れた演技。勘壽さんのおつぎ、前までこんなだったか? 最近、勘壽さんが人形の動きをかなり大きくしているのはどういうことなのか? 役の意味としてはわかるのだが、なぜそうしようと思ったのか、こうならざるを得ないのか。普通は歳をとると動けなくなってくる人が多いと思うが、かなり不思議。
魚はじっくり焼きだった。

和生義平次のまわりには、蚊はあまり飛んでいないようだった。

 

床は……、この人、前はもっと世話物がうまかったように思う。たとえば三婦〈吉田玉也〉は、対峙する相手によって言動が変わるキャラクターだが、玉也さんは結構細かく演技しているのに、床がそうでないのは、もったいないことだ。
私は、「先代の芸」にこだわらず、自分自身の得意分野をシッカリと地固めして、そこを磨いていくのが一番重要だと思っている。この人はとくにそうだと思っていた。しかし、現状、人物関係の表現や情景の描写がない状態になっている。これは声の大きさ云々よりも深刻だと思う。

 

 

 

長町裏の段。

団七〈桐竹勘十郎〉を見て、NHKから出ている記録映像DVD『夏祭浪花鑑』の二世桐竹勘十郎の団七に似ていると思った。
勘十郎さんは、やっぱり、お父さんがやってきたことを、団七のうえに、自分の代だけでも残したかったのだろうなと思った。

前にも書いたかもしれないが、この『夏祭浪花鑑』のDVDは、二世勘十郎の晩年に撮影されたもので、正直、万全な状況ではなかったのではないかと思う。
この映像のセレクトが悪いという話ではない。そもそも二世勘十郎は国立劇場がすべての舞台映像を撮影するようになる前に亡くなったため、残っている映像自体が少ない。そして、インタビュー等もあまり残されていない。ある程度整理されてまとまっているものもあるが、亡くなる直前に採られた談話であるためか、発言が荒れているとしか思えない節がある。これらを見ても、絶賛されるような「すごさ」はよくわからないというのが正直なところだ。
しかし、清十郎さんによる思い出などを読むと、このような映像なり、インタビューなりの一見客観的であるはずの記録から見えてくる像とは違った人であったのではないかと思う。

勘十郎さんは、簑助さんの真似はしていない(少なくとも素人客から見た範囲では)。しかし、確実に二世勘十郎の「真似」はしている。これは「なんとなく似てきた」とかではなく、相当、意図的にやっていると思う。とくに団七に関しては明確にそうしているだろう。
私は、二世勘十郎は、美意識ではなく形自体を重視していた人だったのではないかと推測している。初代玉男や簑助さんは形よりも美意識を重視した人で、いまの人形遣いとファンは思考や評価軸がそちらに寄っていっていると思うが、勘十郎さんは、かつてはそうでない文楽があったんだということを残したいのだろうと感じている。
初代玉男は文楽が「人形芝居」になることを強く否定しており、インタビュー等でも自分が目指すところを繰り返し語っているので、ファンも初代玉男の指向性をよく理解し、それを舞台をみる手本にしたと思う。そして、その言葉はいまでも文楽の舞台のうえに生きている。二世勘十郎はこれとは真逆の考えだったのではと思う。ただ、そのあたりは本人が自分の言葉で語って残さないと伝わらないから(本人は伝わらなくてよいと思っていたのだと思う)、勘十郎さんにしたらもどかしい思いが強かったと思う。映像や文だけでは本当にどういう人形遣いだったのかはわかってもらえない。せめて舞台の上にあらわれるものだけでも、ある程度の再現度をもって残したかったのかな。本当にすごい人だったのだということを、形が重要なのだという観念そのままに。

もちろんそれだけの割り切った話ではないと思うけど、今回の舞台に関しては、勘十郎さん、体力落ちたなあ、というのが正直なところで、そこがかえって似て見えるのかなと思った。最後に残るのは何かという点で、(冷たい言葉かもしれないが)興味深い。

 

和生さんの義平次がやっているのは「お叱り」であって、「悪意ある嫌がらせ」ではないよね。義平次が団七に何か指導しているように見えるというか。玉男さん義平次よりかは全然マシだが(おそろしい失礼発言だが、玉男様は性格が悪い役は本当にできないので)、ここでの義平次の「性格のひん曲がり」をどのようなものとするのか、また、どのように描写へ定着させるのかは、難しい。むしろ、義平次の性格が悪いのではなく、団七が彼自身の異常性ゆえに義平次を勝手に悪ととらえたという、高度な演出なのか?
死にかけ演技がゆるいのは、和生さんは義平次をそう捉えているということなのかもしれないが、舞台として効果的かというと、「?」。単に不慣れなのか、まわりに合わせているのか。このあたりは、ふたたび和生さんが義平次を演じる夏休み公演第三部でわかりそうだ。

 

全般には、静と動のメリハリがないため、空気が弛緩しているのが気になった。動きのないところ、無音になるところは、息を呑むようなしっかりとした止めを作るべきではないだろうか。人形は、本床で演奏しているときとメリヤスになったときの区別をもっとしっかりつけたほうがいいと思う。

「団七をどういう人物として描写するか」および「なぜ団七は義平次を殺したのか」は、そのときの舞台によって解釈が異なる。今回は、よく言えば素直なのだが、そこが明瞭には(あるいは意図的な不明瞭には)なっていない。いわゆる一般論的にやりたいのはわかるが、そこは「一般論」にもたれかからないほうがいいと思った。

 

 

 

  • 義太夫
  • 人形
    釣船三婦=吉田玉也、倅市松=吉田和登、団七女房お梶=吉田簑二郎、こっぱの権=桐竹紋吉、なまの八=吉田簑太郎、玉島磯之丞=吉田清五郎、団七九郎兵衛=桐竹勘十郎、役人=吉田玉峻、傾城琴浦=桐竹紋秀、大鳥佐賀右衛門=吉田簑悠(吉田簑之全日程休演につき代役)、一寸徳兵衛=吉田玉助、娘お中=桐竹紋臣、三河屋義平次=吉田和生、番頭伝八=吉田文司、仲買弥市=吉田玉翔、道具屋孫右衛門=吉田玉輝、三婦女房おつぎ=桐竹勘壽、徳兵衛女房お辰=吉田勘彌

 

 


演目そのものは、相変わらず面白い。だからこそ、そのときどき固有の魅力を作り上げることが重要だろう。定型文のような舞台になっていては、退屈だ。

第一部〜第二部のような時代物では、物語を支える骨格として身分表現が非常に重要だ。逆に、第三部のような通俗的な内容の演目は、「雰囲気づくり」が見応えを決定する。毎回の観劇でもそこを楽しみにしているが、今回はその達成度が段によって大きくばらけている印象だった。
そもそも、「俗な雰囲気」がどういうものなのか自体、上演本文に書いてあるわけではないので、普段からいろいろなものに触れていないと、認識することすら難しいのだろうと思う。その意味では、錣さん、和生さん、勘壽さん、勘彌さんは非常に鋭い。一本映画が撮れるような、イマジネーションを喚起させる佇まいになっている。文字の外にある世界を喚起する芝居ができることは、文章に縛られる文楽にとってとても重要なことだと思う。

 

このあたりについて、最近、twitterを見ていて、感銘を受けたツイートがある。

現在公開されている映画『スラムダンク』での風俗描写や、ヤンキー漫画各種についてのツイートだが、存外、これは古典芸能にも言えることだと思った。「昔のやりかた」をただ踏襲したのでは、現代の舞台にはそぐえわない。古典芸能といえども、昔と今とでは観客の感覚は異なっているわけで、同じでいつづければ、逆に、「違う」印象を与えることになる。あるいはその逆として、古めかしいと思われている手法を意図的に持ち込むことで、「これは昔のお話」というエクスキューズを作り出せるかもしれない。いずれにせよ、なんらかの意識をもって行わなければ、客にはなにも伝わらず、かなり微妙なことになってしまう。と思った。

『夏祭』で重要となる「侠客」は、いま現在の観客に対し、どう受け取らせるかをよくよく考えねばならない属性だろう。それは「反社」だからではない。いまの人は、「顔が立たないと生きていけない」という近世特有の感覚そのものが理解できない。それをどう差し出すか。このあたりが、私が「時代物より世話物のほうが共感しづらい」と感じる所以だ。

 

 

今回、番組編成上の問題で難しくなっていたのは、一部の人形。いわゆる「いつもの段」に、道具屋を追加して出してしまうと、そのワチャワチャが悪い方向に影響し、存在が吹き飛ぶ役がいくつか出ていたように感じた。徳兵衛とお梶は、もうちょっと考えてやらないと、「この人たち、いなくても、この話、成立しますよね?」となるように思った。徳兵衛は団七とどう違うのか、お梶とおつぎの違いは何かを明瞭にしてほしい。道具屋のみに登場するキャラクターは、言うまでもない。

 

↓ 2018年9月、上演可能な段を通し上演したときの感想。あらすじつき。

 

 

 

伝統芸能情報館の展示室の怪談特集に、文楽玉藻前曦袂』の九尾の狐ぬいぐるみ、玉藻前の狐面付きのかしら、二面のかしらが出ていた。

舞台で見たときには、ちょっと間抜け風に見えた九尾の狐。現物だけで見るとわりとしっかり怖く(?)作ってある。ほかの人形との兼ね合いや、演出のしかたなのかな。
制作当時のぬいぐるみ素材の限界の問題もあると思う。せめてマツケンサンバ感を醸し出すテカリさえなければ……。

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狐面付きのかしら、双面のかしら。

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おまけ 歌舞伎『獨道中五十三驛』のばけねこハンド。猫としての指のつきかたが完全に間違っているのは、本物のねこハンドではなく、ばけねこハンドだから?

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*1:今月は一公演で2人、貸衣装・質屋のタグ付きの服を着ている人物が出る。「タグを外す」という特徴的な所作は、1回なら面白いけど、2回あると単調に見えてしまう。制作の問題だけど、演目選定をミスっている気がする。

*2:藤純子主演の任侠映画では、加藤泰監督の『緋牡丹博徒 花札賭博』と『緋牡丹博徒 お竜参上』が有名、かつ、実際に名作。骨太な演出に加え、明治期が舞台であることを生かした世界観の華やかさも素敵です。しかし、文楽好きの方にどれか一本おすすめするなら、山下耕作監督の『女渡世人 おたの申します』を見ていただきたいです。「やくざ」の惨めさ、「世間」の厳しさと冷たさ、差別される者の苦悩が骨身に染みる傑作です。各種動画配信サービスにも出ているので、ぜひ!!!