TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 9月東京公演『奥州安達原』国立劇場小劇場

公演開始当初、朱雀堤から貞任物語まで2時間31分ぶち抜きのタイムテーブルになっており、客の膀胱を破裂させる気かと思った。*1

 

 

 

第三部『奥州安達原』。

先にトータルでの感想を書くと、「現状の文楽で素直にこの演目をやると、こうなるのか〜」と思った。それぞれの人が素朴にやった結果がそのまま素直に出ている。まったくもってダメとは言わないし、いつもの通りっちゃいつもの通りだけど、今回はそれが象徴的に出てしまっているように感じて、現状追認を重ねていけば、そらそうなるわな……と思った。
ナンダカナーという印象の原因そのものでいうと、配役が大きいと思う。この演目に求められる役の性質にバチはまりの人がひとりもいなかったのが最大の理由だろう。でも、それをそのまま追認するのかという問題がある。向き不向きがあるのはあたりまえで、その適性を乗り越えたものを見たいのだが、これもまた、できる人とできない人(それをやろうとする意志がない人)がいる。ファンとしては、そこで踏ん張ってもらいたいのだが……。

不満点をもう少し詳しく書けば、それぞれの役割において、物語の核心に向かうベクトルが、舞台総体として一点を指していない印象だった。凝縮感がなく、浄瑠璃の原文にあるような、因果と運命が重なり合ったそのどん詰まりにあるうねりや濃厚さが失われている。「物語の核心に向かうベクトル」を作り出すのは、難しい。技芸や研究が不足していてできない人がいるのはもちろんそう。しかし、もともとそれを重視していない人もいる。

 

今回の上演でいうと、先述の「物語の核心に向かうベクトル」を指向しなかった最大の役は、袖萩だろう。
以前「袖萩祭文」を見た際の袖萩は、清十郎さんだった(2017年1月大阪公演)。彼女の巻き込まれた運命的悲劇、かつての優美さといまの落魄、しかし心の美しさは汚れることはなく、身なりがどうなっても父母や娘、夫への愛の純粋さは消えないという、袖萩という人物そのものの表現としては、清十郎さんのほうがはるかに上手(うわて)だと思う。
でも、これが一概に「独りよがり」とは思えない。

袖萩に零落感や悲哀、寒々しさがないのは、一種の割り切りだと思う。本来の袖萩の表現は自分にはできないと判断して、そのうえで、違う方向(=芝居として期待される見応え)を追求しているのではないか。直近であった『生写朝顔話』の朝顔役のほうがまた哀切に寄せていた。朝顔よりさらに落ちぶれている袖萩をこうするということは、さすがに確信的なものがあると感じる。
やっぱり、人形遣いには、人形の感情を表現しようとする人と、人形の動作を表現しようとする人がいるんだと思うわ。勘十郎さんはそのうち、人形の動作を表現しようとする人で、その点をもっと評価すべき(批評すべき)だと思う。勘十郎さんのお父さんは、「人形の動作を表現しようとする人」だったのだろう。ただ、「人形の感情を表現しようとする人」であった初代吉田玉男が時代と感覚を変えたために、その方向性は忘れられているだけで。勘十郎さんはその文脈を復活させたいんだと思う。しかし、手順通りやってますとか、手数を増やして派手に見せますというだけではもう時代は許さなくなっていて、そこをどうするかの問題がある。そのひとつの答えは、簑助さんが出したと思う。勘十郎さんはそれとは違う答えを出す必要があるだろう。

また、これは、客席を鏡写しにしたものでもあると思う。周囲をぐるっと見回して、舞台の責任は誰がもつのか? 誰が見応えや見栄えを担保するのか? 舞台人は客に何を提供するべきなのか? そもそも、「客」とは何者なのか? 勘十郎さんの考えるそれらの答えが、この袖萩なのではないかと思った。客が求めているのはこれであって、その意味では、理解できる判断だ。客席の顔色を見過ぎなのは欠点だと思うが、今回は仕方ない。最近私が勝手にやっていた勘十郎研究の、ひとつの結論を得た感じがした。(なんの話?)(すべて私が勝手にやってることの話)

 

そういうわけで、袖萩はもうこういうことにしかなり得ないと思ったのだが(これぞ「客」としての現状追認なんですが)、ただ一番の問題は、無自覚に放埓な感じになっちゃってる役がいくつかあることだと思う。

私の第三部一番の疑問は、「傔杖〈吉田文司〉はこれでいいのか?」という点。どのようなう傔杖像を描きたいのか、よくわからなかった。この話、袖萩より貞任より、傔杖に一番の描写力・表現力が求められる演目のように思う。そのうえで、心情表現、身分表現、間合いの取り方、道具の扱い……、いろいろと思うことが多かった。キッチリ詰めて、物語を引き締めて欲しかった。文司さんがちゃんとやってないとは思わないが、もうちょっとやりようがあったんじゃないかと思う。ハマり役以外の意外な適合では『鶊山姫捨松』の岩根御前は良かったということもあるし、もうひとつ踏み込んで欲しかったな。

 

 

 

以下、個別の感想。
『奥州安達原』のあらすじや概要は、以下の記事にまとめました。

 


朱雀堤の段。

「朱雀堤」は、「しゅしゃかづつみ」と読むそうです。
2017年1月大阪公演では出なかった段。殺風景な河岸の景色、舞台中央に蒲鉾小屋(密)。非人たちが暮らすこの朱雀堤に、高貴な人々がやってくるおかしみと、悲劇の序章となる偶然の邂逅を描いている。端場扱いで、人形は黒衣。

 

袖萩〈桐竹勘十郎〉はかなり栄養状態がよさそうだった。そこらを走り回ってるネズミとか、河原の木に住んでる鳩の卵を取って食べてそう。以前、最高裁の横を歩いていたらドブネズミが激走、していたが、ああいう、、のを食べてた、のカナ🐭😅⁉️おぢさんは、ジビエ🦌🔪、はチョット肝炎が、、怖いカナ🤮😱⁉️よく、加熱🔥してから、、食べてネ🍗😁❣️と思った。
段切は義太夫に動き(足拍子)をはめすぎでは。心中物で立ち役と抱き合ってやるようなはめ方になっていたが、この段はそういうタイプの感情の高まりではないような気がした。でも、仕方ないことのような気がする。勘十郎さんって、自分自身のために行動する役の感情の高まりの演技は本当に素晴らしいんだけど、誰かのためにどうこうという役だと、何に対して激情しているのかが不明瞭になる傾向がある。袖萩は自分以外の人のことに必死になれることが美点の女性なので、たとえば朝顔なんかよりも適合しにくいんだろうなと思った。

恋絹〈桐竹紋臣〉は、太夫(最高位の遊女)であることをあらわす立兵庫を結っているにしては、やや真面目で品のある雰囲気の所作。いまは廓を脱走して一応パンピーだからなのか、それとも恋絹の本来の身分を表現しているのか。ただ、傾城のかしらを持ったことのないような人が、よくあの重量に耐えて、胴を潰さず、まっすぐ立って、まっすぐ前向いていられるなと思った。頑張ってもらいたいです。

男性の非人3人組、巧い。かさの次郎七〈吉田玉誉〉ととんとこの九郎〈吉田玉彦〉、なんでおまえら身分が高い役より所作がしっかりしとんねん……。ちゃんとしてるわ……。アル中の六〈桐竹亀次〉はまじでアルコール中毒感溢れる所作に不安を覚えるが、全登場人物のうち、ひとりだけ、本当に寒そうな演技をしていた。両方の二の腕を抱くようにして首をすくめ、軽く震える所作を一瞬入れるだけだけど、次以降の段を含めても、もっとも季節の雰囲気が出ていたと思う。先に言ってしまうが、「袖萩祭文」、だれ一人としてまったくもって寒そうに見えなかったので…………。なお、この非人の六を語っていた津國さんが新境地の怪演で笑ってしまった。怪演というと色物のようだが、文芸映画に出ているときの西村晃のような昭和の名バイプレイヤー的な巧さというか……。こういうおっさん、場外馬券売り場の近くにいるよね。あと、競艇場行きのシャトルバスのバス停の前とかにも。と思った。
どうでもいいが、六が頭陀袋から取り出す木のお椀、うちにもある。と思った。ただ、詞章で「欠け茶碗」とあるのに木のお椀なのは、違和感がある。違和感といえば、非人3人組はボロ着のほか人形の顔にも汚しが入っているが、袖萩とお君だけ妙に小綺麗なのは、芝居といえど違和感があった。


上記は「良かったところ」だが、この段、全体的に、正直言って、相当にとっちらかっていた。一体なにがどうなってこのあとの物語につながっていくのか、まったくわからん!!!
人形は、人形黒衣だと、実力がはっきりわかる。年齢、芸歴、番付の順位に関係のない上手い下手、センスのあるなしが見えてしまう。当然、ちゃんとしている役もある。しかし、「ちょっと……」という役が「ちょっと……」すぎる。人形の構え方がおかしくて胸に目がついているんか?っていう動きの役があったり、人形じゃなくて人形遣いが演じてしまっている役があったり、感情の変化が表現できていない役があったり、どうすんだこれ。

床は、全般としては、あらすじ説明状態だった。あらすじはプログラムに3回も繰り返して載ってるんで、それ以上のことを頼むッ! 掛け合いの間合いのおかしさは非常に気になった。人形の若いモン、ついてけてへんがな。日程中盤以降はだいぶ軌道修正されたが、初日時点からなんとかしてくれ。

 

 

 

敷妙使者の段〜矢の根の段〜袖萩祭文の段〜貞任物語の段。
ここから人形出遣い。

 

中納言則氏実は安倍貞任は、玉男さん。
なんだ、この強そうな公家は……。則氏は子供の頃から東北に流配されており、都の貴族の教養を身につけてはいない無粋者という設定。それはわかるが、直前に「熊殺しの段(体長3mのヒグマを背負い投げする話)」があってもおかしくないほど強そう。公卿姿をしている場面でも相当のごん太ぶりで、いや素襖姿で「ごん太」と言えるほどに自然な安定感をもって遣えること自体はまじで奇跡なのですが、かなり、相当、一癖ある感を醸し出していた。床は高く平坦なトーンのいわゆる普通の公卿調になっており、一癖を覗かせる部分がなかったので、逆にバランスがとれていた。また、「鷹揚」としか表現できない鷹揚さに満ちているのも不気味だ。元々、キョトつくことがないキャラクターであるが、宗任が投げてくる矢にもほぼリアクションをしない。あまりにしなさすぎて、宗任がちょっとビビりに見えた*2
玉男さんが極端に公家に寄せていないのは、勘十郎さんが袖萩を零落に寄せていないのと一種同じことだと思う(程度問題はありますが)。貞任は、武将の正体を顕しても喋り方や行動が結構上品で、優美さが強い役のため、本来はどちらかというと玉志さんのほうが適合する役だろう。
では、玉男さんがこの役をやったうえでの「貞任らしさ」とはどこに出ているのか。それは、正体を顕したあとの、凍てつくような強靭さだと思う。巨大な氷柱のようなイメージ。玉男さんにしてはかなりスッとした佇まいで、かつ、強度の高い透明感があるのも、今回の見所だった。
また、大きな動きの端正な美しさも挙げられる。貞任は、松王丸等とは異なり、後半は感情をおもてに出すキャラクターだ。動きもはるかに多い。体を弓なりに大きく張らせて腕をぐるりと回す動きのダイナミックな端正さは、玉男さんならではのもの。これはほかの誰も真似できないだろう。器械体操のような、身体の躍動の美しさを感じる。この動きの独特の派手さがいきるのは、公卿姿のときの一種不気味な静かさゆえだと思う。

今回の上演で非常に残念だったのが、段切。貞任と宗任が同じ振り付けになるところ、まったく揃っていなくて迫力が出ず、意味不明になっていた。この演目、ほかにも義家と宗任が視線を交わす場面があるけど、そこもまったく揃ってなかった。これらが揃ってなく見えると感じたのは宗任の演技の曖昧さが理由だと思う。チャレンジ配役もいいけど、それならそれでなんとかしてくれ玉男様。(玉男様?)
ちなみに、初代吉田玉男の談話によると、人形で二人揃って演技をする際、ドッチがドッチにタイミングを合わせるかは、立ち位置で決まることになっているそうです。具体的には、上手の人が下の人にタイミングを合わせる慣習になっているとのこと。なぜならば、下手にいる人形遣いからは、相手役人形とのあいだに自分の左遣い・足遣いが挟まって見えにくい。上手にいる人形遣いだと、自分の下手側はあいているので、視界が広いからだそうです。役や本人の格付けの順番ではないんですね。上演中に余計なことをまったくしない玉男様にしては珍しく「チ…ラ…」👀としているなと思ったら、そういうことなのね。

 

敷妙に配役されていた勘彌さんが全日程休演のため、代役で簑二郎さん。あらかじめわかっていたであろう代役だと思うが、初日は「大丈夫かっ!? ミノジロオ、緊張しとんのか!?!? 背中バンしたろか!???!??!!」という感じだった。この無駄に力が入った硬い調子、所作がバタバタしてしまっており、そのままだとかなり厳しいと思った。ところが、中盤にはそれがクリアされ、簑次郎さんらしい真情ある老婆になっていて、とても良かった。門の外で袖萩たちが震えているのを、傘をさして見守る(しかし決して袖萩たちのほうを見ているわけではない)場面、打掛を投げかけてやって、傘をすぼませ涙を見せないようにして立ち去る場面などは、簑二郎さんらしい実直さがあって良かった。

八幡太郎義家は玉佳さん。玉佳さん、あの衣装*3の役、うま過ぎじゃね……? 源氏の貴公子のプロか……?? タマカ・チャン、実は、苗字、「源 MINAMOTO」……?????
キラキラした貴公子感と武張った佇まいのバランスが絶妙すぎ。このなんともいえない凛々しく力強い塩梅、頭で考えていては出てこず、舞台の実演でにしか出現しないニュアンスだと思う。所作のスピードコントロールや止めの強さによるものだと思うが、確実に一発で止める点、そして姿勢の綺麗さが素晴らしいです。本当にあのかしらや衣装にちょうどいい塩梅。無骨であっても決して粗野に転ばないのも良いですね。すね毛処理してそう。
なお、タマカ・チャンがここにいるということは貞任の左はタマカ・チャンではないということなのだが、頑張れッ!!!!!!と思った。

敷妙〈吉田清五郎〉は、やはりと言うべきか、清五郎さんらしい清楚な美女だった。カルディで売っとるポメロジュース*4のような高度のある爽やかな香気。この人には不思議な色気がありますな。「色気」って、かなり抽象的かつ恣意的な言葉なので、頻出するわりにはかなり怪しいワードになっていると思う。文楽でよく聞かれる批評用語でいえば、「大きく遣う」の仲間的な。発話する人の感性がおおいに試されるのは間違いないだろう。自分はあまり使いたくない言葉であるが、しかし、清五郎さんと勘彌さんには使いたいですね。(あとカス男役のときの玉男様)

 

清治はうまいッ。と思った。
いや清治が上手いんは1億年前から全員知っとるがな。恐竜は清治のうまさを理解できなかったから絶滅したんじゃ。なんですけど、今回の「袖萩祭文」は清治さんの良さがより克明だった。曇天に雪がちらつく寒々しい空気、表面上だけ美しい空虚な御殿の様子、娘を気にする老父と老母の悲しみが華麗に表現されていた。華麗といっても虚飾ではなく、暗く凍てつく風景の情景の美的表現。なにより、垢抜け感がすごい。この演目でここまで垢抜けてる必要あるか?というほどの垢抜け感。演者の自己主張という力みがない。いや清治は清治で謎のオリジナリティやその時々の揺らぎを時折覗かせてくるんですけど、巧すぎてそれが鼻につかないというか……。清治さんはやはりすごいなと思った。
呂勢さんは演目に対する声質的なキャッチはいいけど、さすがにメリハリがなさすぎでは。特に浜夕の嘆きの表現、三味線は涙が喉につまるような抑揚がついて感情豊かであるにかかわらず、なぜ平坦に声量大きめでやっているのか、かなり疑問。声量や発声のしかたが平坦すぎるのはいままでもその傾向があったけど、今回はちょっといくらなんでもと感じた。祭文の部分も単調で、「哀れな弾き語り」には聞こえづらい。短くてシンプルな曲なので、音曲的に客を飽きさせないテクニックも必要だと思う。今回の状態は、いろいろと、かなり、首をかしげた。
「貞任物語」は錣さんにももうひと押しして欲しかったな。初日は錣さんにしては本人の最大の特徴のはずの物語の構成設計、浄瑠璃の緩急がまだらになってしまっており、大丈夫かと思ったが、中盤にはだいぶ造成されていた。ただ、錣さんは、どちらかというと、袖萩祭文のほうが向いている(もしくは袖萩祭文から通して語ったほうがいい)のだと思う。人間の普遍的な感情描写に味があり、貞任物語のような、ある意味テンプレ的な表現が要求される段は、方向性がちょっと違うと感じた。袖萩の人形が清十郎さんなら、また違うとは思うが……。でも、いままでのご本人にない新しい段が来て、それへの葛藤が(少なくとも私の中には)発生したというのは、よかった。これまでは、たとえ寛治さんが弾いていたときでも(だからこそ)こういうチャンス自体がなかったわけですから。頑張っていただきたいと思った。

 

総体として、床も人形も、物語の背景となる寒々しい雰囲気がわからない状態だった点は、残念。舞台効果で紙の雪を降らせても、寒いと思えない。この演目は、気温や天候といった場の空気感が高い演出効果を果たしていると思うので、しっかり押さえて欲しいと思った。
また、登場人物の身分や、舞台がどのような場所であるかがわからないのも気になった。現状だと、ぱっと見た人は、傔杖は普通の意味での武士で、あそこは傔杖の自宅だと思うんじゃないでしょうか。

 

 

 
 
 
 
 
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道行千里の岩田帯。
このあとの段を上演しないなら、いらないと思う。(正直発言)
この人形の振り付けって、もう相当にいろんな演目を踊り込んで、もうやることがなくなった枯淡な大名人(だいめいじん)向けのもののような気がした。

ただ、今回見て良かったなと思ったことは、紋臣さんは、自分が型から入るのを自覚していて、変わっていこうとしているんだろうなと感じたこと。ガワを固める意識が強い人だと思う。それは型の意味を考えているとか、古典の継承の意識が強いという美点ではあるけど、欠点にもなりかねない。それに自覚があるがゆえに、今回の恋絹をこう踊っていたのではないかなと思った。

床は〜、もうちょっと〜、工夫を〜、しよう〜。と思った。錦糸さんはよくここまでキッチリ演奏するよな。やはり矜持があるのだ。

 

 

 

  • 義太夫
    • 朱雀堤の段=袖萩 豊竹芳穂太夫、傔仗・生駒 竹本津國太夫、八重幡姫・恋絹 竹本碩太夫、瓜割・次郎七・九助・家来 竹本南都太夫/鶴澤清志郎
    • 敷妙使者の段=竹本小住太夫/鶴澤清𠀋
    • 矢の根の段=竹本織大夫/鶴澤藤蔵
    • 袖萩祭文の段=豊竹呂勢太夫鶴澤清治
    • 貞任物語の段=(切)竹本錣太夫/鶴澤宗助
    • 道行千里の岩田帯=豊竹睦太夫、豊竹希太夫、豊竹亘太夫、竹本碩太夫、竹本聖太夫/野澤錦糸、鶴澤清馗、鶴澤清公、野澤錦吾、鶴澤清允

  • 人形役割
    袖萩=桐竹勘十郎、娘お君=桐竹勘次郎、かさの次郎七(服が与次郎みたいな柄のヤツ)=吉田玉誉、六(頭陀袋下げてるヤツ)=桐竹亀次、瓜割四郎糺=吉田玉翔、八重幡姫=吉田文昇(9/3-7休演、代役・桐竹紋吉)、平傔杖直方=吉田文司、志賀崎生駒之助=吉田簑紫郎、傾城恋絹=桐竹紋臣、とんとこの九助(顔が食パン1斤みたいなヤツ)=吉田玉彦、妻浜夕=吉田簑二郎(吉田勘彌休演につき、全日程代役)、敷妙御前=吉田清五郎、八幡太郎義家=吉田玉佳、桂中納言則氏 実は 安倍貞任=吉田玉男、外ヶ浜南兵衛 実は 安倍宗任=吉田玉助

 

 

文楽は本(浄瑠璃の戯曲としての文章)が大事というが、みんな、本当にそう思っているのだろうか? そう思っていない人が結構いるんじゃない? でも、それならそれで、現状追認ではなく、別のアプローチを考えるべきだ。これは以前にも書いたことだけど、勘十郎さんにはその問題意識があって、それをやっているのだと思う。その意味では非常に誠実。なんも考えてないのとは違う。

客側、いや、正確には自分自身もまた、「今のこの舞台が本の内容に合っている」と、現状に対して本を引き寄せて解釈するのはやめたほうがいいと思った。たとえば陰謀論にハマった人の行動としてよくある、あらかじめ用意された結論に対して都合のいい「真実」をより集めてコラージュして、「やっぱり本当だった!」とやってしまうこと、舞台鑑賞にも起こりうると思った。だんだんそういう方向に引き寄せられていく自分に気づいて、怖くなった。他人ごとではない、自分こそが一番これをやっているのだ。

 

舞台自体の話に戻ると、細かいところでは、「マナー」的な部分が気になった。
まず、介錯が人形の前を横切るのはやめて欲しい。横切るなら、客席から見えない低さまでかがんで欲しい。這え〜! 這いつくばれ〜!!! 地下帝国のように〜!!!!! ほかの部でも、演技をしている人形の前に突っ立ってしまっている別の役の左がいたが、客の目線がどこに向いているかの意識がない人がいるのかな。久々に更新された清十郎ブログによると、複数の休演者が出た影響で取り回しが大変だったようだが、いくら忙しくても舞台上はバックステージではないので……。一生懸命やっているのはわかるので、師匠や先輩が「そこにおったらあかんで」と教えてあげて欲しい。
そして、床で、「自分の番」じゃないときに客席をキョロキョロ見ている人がいるのだが……、客席を見たい場合はチケットを買って、次の段から客席へ入ればいいと思う……。客席を見回しているのはいつも同じ人だけど、そういう人って、客が結構床の様子を見ていることに気づいてないのかなと思った。お客さんって、みんな、「演奏以外」も「ちゃんとやってるか」、細かくウオッチしてますよね。

 

番組編成について、今回、「一つ家の段」が出ない番組編成になっているのを残念に思っていたが、実際の舞台を見ると、現状、正味な話として「一つ家」はできないだろうなと思った。冒頭と末尾に「微妙」な段を置くのは、見応えがそがれるから、やめて欲しい。

 

 

 

 

 

*1:数日後に変更がなされ、朱雀堤のあとに20分休憩が入った。当たり前だ。

*2:最初に義家が矢を投げるときに顔をそむけるのが、ちょっと早すぎ&動作が大きすぎるので。

*3:最後に着ている、鎧の上に緑の半透明なのを羽織ってる役。具体的には『一谷嫰軍記』熊谷陣屋の義経

*4:「ポメロ」という柑橘類を使ったパックジュース。苦味のないグレープフルーツって感じの味で、まじうま。カルディのほか、ナチュラルローソンでも取り扱っているところがあるようなので、永田町から国立劇場行ってる方は、平河町森タワーレジデンスのナチュロ寄って探してみてください。私も今度見てみます。