TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 9月東京公演『碁太平記白石噺』田植の段、逆井村の段 国立劇場小劇場

第一部の客席は、なんか、こう、「本気」の人オンリーな感じになっていた。

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今回の第一〜二部の『碁太平記白石噺』は、国立劇場創立時にあった原則通し狂言のコンセプトを復活させたもの。ただ、三部制のために一番有名な「新吉原揚屋の段」と復活・稀曲部分(言い換えると地味な部分)とが離れてしまい、第一部は「これ何?」という演目のみの怪プログラムになっていた。

『碁太平記白石噺』全段のあらすじは、2021年1月大阪公演の感想にまとめてあります。今回の第一部の上演は、四〜五段目部分をご参照ください。

 


田植の段(四段目)。

端場で人形黒衣。
舟底が田んぼ、二重が畦の設定で、背景には里山の風景。田んぼは現代のように整地されておらずウネウネした形で、ところどころにこんもりと木が生えており、何軒かずつの小さい集落が見える。遠方に山。「みんな田植え終わったのに与茂作の田んぼだけ終わってない」云々の話が出ているが、背景の書割は全然田植え終わってなくて、むしろ稲刈り終わって冬支度をしている土景色になっているのが気になった。

 

全般に、のどかでぼんやりした在所の風情がよく出ていた。おっとりしたツメ人形の百姓たち、しっかり者の庄屋、ぼやっとした娘、ラフな小物代官など、文楽らしいのんびり感。
冒頭で田植えをしているツメ人形たち、苗、投げるんか。確かに、いちいち畔へ取りに行くより、投げてどんどん補給してもらったほうが効率的なのかもしれない。おツメたちは苗を自分に対して横向きに植えていたが、田植えって、植えていく向きは前進or後進が多いのでは。(田舎者なので田んぼへの文句がしつこい)

百姓・与茂作〈吉田玉輝〉は、絶妙な「そのへんにおるジジイ」感を醸し出していた。
黒衣でも、見た瞬間「あ、タマキね。」とわかる玉輝ジジイ。なんかこう、玉輝ジジイって、玉也さんとはまた違う絶妙なラインを突いてくるよね。オタッシャ感が芝居がかった方向にいかず、かと言って玉男さんとは違って元気すぎず、妙にリアルで、「い、いる、こういうジジイ……」感が炸裂している。だって、これ見た帰り、交差点でこうやって腰伸ばしてるジジイ、いたもん……。まじで……。
そうなのよ、時々やる腰伸ばし動作が異様にリアルだった。できるだけ元の姿勢を崩さず微妙に腰伸ばしをする省エネ感のジジイオーラはんぱない。「本人がこうやっとるんか……?」みたいな怖さ(?)がある。もしくは、玉輝さんが長年、師匠やら先輩やらの数多のジジイを見続けてきた結論なのか。
あと、毎朝オロナミンCに瓶詰めの岩のりを溶かしたものを飲むとかの、謎のオリジナル健康法をやっていそうな感じがした。

おのぶ〈吉田一輔〉は、土瓶と海老茶色の風呂敷包み(お弁当?)を手にパパのもとへやってくる。幼く朴訥なおのぶは、一輔さんの元々の方向性と非常に適合していた。一輔史上最大のバチはまり(?)。所作で芋さが出ているのが良い。芋演技って、技芸自体が芋なのとは違うので、意外と難しい。町娘の「おぼこ」とも違っており、ミラクルを感じた。
素質に頼れないところに、いま一歩の踏み込みがあるといいと思った。一旦家へ帰ろうとしてわらじの紐が切れるところ、プログラムの解説を読まなければ、「わらじの紐が切れた」とはわからない。単に「足元に落ちていた誰かの忘れ物のわらじに気づいて、持って帰ろうとしている」というように見える。紐が切れたことを姿勢で見せ、また、一抹の違和感や不吉さを感じさせて欲しい。そして、「逆井村」あるいは第二部を含め、同じ演技の繰り返し感が相当に強いので、単調さを防ぐべく、もう少し工夫があるといいなと思った。子供なので行動が単純ということ自体はいいけどね。

与茂作の義兄の庄屋・七郎兵衛〈吉田玉也〉は、ヨボヨボ感のないさっぱりとした老人演技。少しおっとりめの所作だが、動きは軽く明るい雰囲気だ。一般の百姓である与茂作との対比、おツメ百姓たちに頼られており代官にも反論できる庄屋らしさのコントロールが上手い。まゆげの動きが可愛かったのが個人的にはお気に入り。「ひるめしどきじゃ〜」みたいな場面で、ふと上手のやや上方に目をやるとき、なぜまゆげを下げる!? 太陽が眩しい!? 老眼!? 台七からおのぶを囲って守るときは平行まゆになっていたのも良かった。そこで止めるまゆ位置あるんだ、と思った。

台七〈吉田玉勢〉の「まあまあエライ立場なのにしょうもない小物」感は良かった。動きが軽いのは意図ではないと思うが、役に対して良い方向に出ている。ただ、ご本人の真面目さが災いして、嘘泣きが本当に泣いているように見える。やたら大げさに芝居がかるなど、嘘泣きであることがもっとわかりやすいほうがいいのでは。

床〈豊竹藤太夫/鶴澤清友〉の演奏では、緊迫感ある場面でまったく緊迫感がない喋り方のおツメ百姓ズが良かった。百姓ズは鍬や鋤で武装していて見た目は結構怖いのだが(あれ振り下ろされたら「死」だろ)、どんくさげでマイペースな様子が可愛い。喋り終わるまで待っている七郎兵衛も良かった。

 

段切では、村人が与茂作の遺体を運んでゆき、七郎兵衛とおのぶが去っていくところで床の演奏終了。そのあとは三味線のみ御簾内演奏で、台七が田んぼから天眼鏡を掘り出すさま、それを覆面姿の怪しい男=宇治兵部助〈吉田玉志〉が奪っていくさまが演じられる。無言は舞台用の演出で、原作では以下の文章が存在する。

早黄昏の。畦道を。うそ/\戻る志賀台七。辺り見回し見覚えの。深田押し分け件の鏡。忝しと押し戴く。後へぬつと忍びの曲者。鏡もぎ取り台七が。脾腹を一当て一散に跡を。晦まし
(「逆井村」冒頭、「行く空の」へ続く)
『新編日本古典文学全集 77 浄瑠璃集』小学館/2002 より

宇治兵部助のかしらが文七なのは意外だった。原作を読むと、兵部助は策略家であり、知的でシャープなキャラクターのため、観る前には孔明かと思っていた。しかし、兵部助は全段通しての主人公だし、モデルは由井正雪なのでいわゆる「国崩し」。そのあたりを考えると、文七というのもなるほどと思った。
ところで、玉志サン、今月もまた「俺は絶対に声を出さない」系のムーブやってる?

しかしこの部分、演出が5月の『競伊勢物語』とほぼ同じ。似た演出のあるものを2公演連続で並べるのは無配慮では。
ただ、わらじが普通の人形サイズになっていたのは良かった。ケロヨンが国立劇場の周囲にご生息遊ばされている「本物」の方と同じサイズなのも良かった。
お囃子の蛙の鳴き声は義太夫にかぶりすぎないよう演奏して欲しい。音が義太夫の邪魔という意味ではなく、音を出すタイミングが太夫の発声と一致しすぎていて、客席への鳴き声の聞こえ方が中途半端ということです。

 

 

 

逆井村の段(五段目)。

人形出遣い。
舞台上手に木の物置小屋、中央〜下手に在所家の屋体(もちろんわらびのれん)、上手に一間、障子のキワにクソボロ枕屏風。大道具の構造自体は『楠昔噺』徳太夫住家と同じだろうか。

文楽には珍しく(?)、ほうれんそうが行き届いている(??)内容。在所、父の死、身売りした娘、その婿など、『仮名手本忠臣蔵』の六段目に近い立て付けだが、ほうれんそうが出来ているので行き違いは起こらず、普通に「承知しました」でことが済み、致命的悲劇に陥らないのがつまらない(???)。しかし、登場人物たちそれぞれの優しい雰囲気が出ていて、そこは良かった。
※なお、ほうれんそうが行き届いているのは三人遣いだけでなくツメ人形までもがそうで、与茂作の遺体を運んできたあと、お寺へ連絡しとく?と言ってくれる。六段目なんか、与市兵衛の死体を運んできたらそのまま速攻帰ってくのに!

 

非常に良かったのは、おさよ〈吉田簑二郎〉。
簑二郎さんの“普通の人”役は、「心の弱さの肯定」があるのが良い。おずおずとしていて大人しく、臆病で、ただ普通に暮らしたかっただけの人というのが素直に、美しく出ている。それがネガティブに映らないのが良い。
「心の弱さの肯定」といっても、意図的にそう演じているのではないと思う。ただひたむきに役に取り組む簑二郎ご自身のどこかにある臆病さが、この役に優しさとほのかな輝きを添えているんじゃないかな。それを私(観客)が美しいものとして感じ取っているということだと思う。
簑二郎さんは第三部・浜夕も代役で演じていたが、この老婆二役が良い結果に結びついたのかもしれない。いかにもわかりやすく演じ分けられているわけではないが、それぞれの老婆の抱いている心配や悲しみの違いが柔らかく出ていたと思う。いずれも簑二郎さんの優しさや小さな人への慈しみが出ていて、とても好き。

谷五郎〈豊松清十郎〉は、真面目そうな雰囲気、清十郎さん持ち前の清涼感や遣い方としての目線の正確さは良かった。しかし、「すっきりと水際立った美男子」という佇まいにはなれていなかった。というのも、かなり姿勢が崩れていたためだ。足に怪我をしていて、ややかしいだ体勢で歩く人物だが、そういうことではなく、上半身の姿勢や着付が非常に不自然。後半にぶっ返しをする仕掛けがあるので衣装が多少もたつくのはあるにしても、上半身が提灯状に膨らんでしまっており、かなり不自然だった。そのためなのか、人形の姿勢が常に崩れている状態。あとから出てくる兵部助は人形の姿勢がスーパーシャッキリしているため、悪い意味で違いが出てしまっていた。本来は、美丈夫(谷五郎)と智将(兵部助)という対比が出て欲しいところだ。物語の部分でのかしらのぐらつきや所作のもたつき、動きにつれた体幹のブレも非常に気になる。
ぶっ返しの仕掛けがうまくいくかどうかは、清十郎さんに関してはあまり気にならない。なんなら失敗してもかまわない。清十郎さんには、そういった表面上の派手さとは関係のない、役そのものの本質へおよぶ魅力があるからだ。ケレンに力む必要なんてなく、まっすぐに客席を向いて人形が決まれば、それだけで涼やかな華やぎを出せる人のはず。その分、普通の場面での姿勢の崩れは非常に残念だった。

最後に登場する宇治兵部助はかなり上品な印象に寄せている印象だった。
玉志さんは兵部助を上品な大人物(だいじんぶつ)のイメージで仕上げているようだった。品格の高い武将のようなイメージで、かしらを大きく繰ることはせず、わずかなあごの動きのみで表現。衣装は「寺子屋」後半の松王丸とほぼ同じなので見た目はやや豪壮だが、所作は落ち着いていて美麗。会期当初はかなり繊細な雰囲気にしていたが、後半は振りにゆとりを持たせて動作の軌跡をやや大らかに表現しており、軍術家的な雰囲気へわかりやすく落としていた。大人物感につられて(?)、軍扇をかかげる演技に拍手が発生していた回があったのはちょっと面白かった。いや面白じゃなくて玉志さんの実力ですが。最後に出てきて話をかっさらうおいしい役といえど、そこだけでしっかり決めなくてはいけないので難しいと思うが、うまくいっていた。
それにしても、気品がバキバキに浮いている。お前誰やねんというほど気品にあふれている。この気品がまた貫禄じゃなくて高貴さに寄るのが「玉志〜」って感じだった。本来張り合うべき谷五郎がかなり乱れた状態になってしまっているのと、配役&設定上、ほかの人は素朴系なので、相当に温度感の違いがある。宇治兵部助は楠正成のご落胤のため、一種のプリンスの部類とも言えるが、うーん、玉志天然由来成分1000%配合、と思った。優美さが突き抜けているため、相対的に色気があるように感じられたのも良かった。
玉志さんは、人形に重量感が出るようになってきて、良かった。腰から演技するようになってきたと思う。人形の位置が高くスラリとした雰囲気に持っているので、颯爽とした清潔感があるままなのが良い。
あと、今回、じっと見ていて、玉志さんが納得いく足の位置がわかった気がした。

↓ 宇治兵部助の衣装。プログラムに写真が載っていなかったのと、国立劇場ウェブサイト等に舞台写真が出ていないので、記憶のみになりますが、描いてみました。それにしても、由井正雪って絶対この髪型だよな~……。
なお、田植〜逆井村の登場時点では、頭巾を被っています(これも寺子屋2度目の出の松王丸と同じ)。

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「逆井村」は話がどうにも冗長であるところ、舞台として散漫にならなかったのは、千歳さんという、深刻ぶらずに重量感を出せる人が語ったおかげだと思う。ストレートさが良い方向に出ていた。小賢しさや脂臭さがまったくないところは、千歳さんのおおいなる美点だと思った。会期当初は声の調子が悪そうだったが、取り戻せて良かった。

 

 

  • 義太夫
    • 田植の段
      口=豊竹咲寿太夫/鶴澤友之助
      奥=豊竹藤太夫/鶴澤清友
    • 逆井村の段
      中=豊竹靖太夫/野澤勝平
      切=竹本千歳太夫/豊澤富助
  • 人形役割
    庄屋七郎兵衛=吉田玉也、志賀台七=吉田玉勢、家来丹介=吉田玉路、百姓与茂作=吉田玉輝、娘おのぶ=吉田一輔、家来貫平=桐竹勘介、宇治兵部助=吉田玉志、女房おさよ=吉田簑二郎、百姓七助=吉田玉峻(9/12?〜20休演、代役・吉田玉路)、女房おうね=吉田玉延、金江谷五郎 後に 勘兵衛正国=豊松清十郎

 

 

 

第一部は非常にバランスのとれた舞台となっていた。内容上、かなり「素朴な感じ」に転びそうなところ、要所要所に物語を締められる人が配役されていたため、文楽らしいエッジがあるのが良かった。ドラマが薄いわりに構成がくどいのを出演者の力量でカバーしているという印象で、ちゃんとした人で固めてるだけのことあるわと思った。キレはありつつも、ためにする深刻さや無駄な力みはないのが好ましい。登場人物の人柄はそれぞれの役に沿った表現になっており、愛すべき人々となっていた。

太夫の演奏について、藤太夫さん・千歳さん共通で、娘役(おのぶ)の喋り方はあらためて課題だと思った。具体的には田植は老けすぎており、逆井村は幼稚すぎる。おのぶの年齢(精神年齢含め)は、一輔さんが演じている通りだと思う。第二部になると適齢になっていたので、通しで観ると、喋り方のムラに違和感がある。直してもらえんかねぇ。

 

第一部の番組それ自体は、通しにせんがためにやった段のみという印象が強い。あの有名な場面の前に実はこんな面白い話があった!ということならよいのだが、わざわざ「部」として立ててやるにはさすがに厳しいんとちゃうか……。『妹背山』でいう井戸替のような在所独特の風俗が描かれていて、のんびりした話であること自体は面白いんだけど、あくまでド派手な「新吉原揚屋の段」と一緒に上演してこそ映える話かなぁ……。出演者の技術力がわかるリテラシーを持っていないとどこをどう見ればいいのかわかりづらいし、相当文楽が好きな人向けの部だと思う。個人的にはこういう演目(在所ネタ、稀曲)は好きだが、ストレートに客入りに反映されるなと思った。

 

かしら割についての疑問。
与茂作とおさよは老けすぎではないか。いえ、あの姿はあくまで観客から見た「父母」のイメージでであることはわかっております。そして、あとあと宮城野が出てこれば、「父母」として違和感ないことも。しかしこの部、おのぶしか出てこないから、あの老いぼれ感溢れる見た目でおのぶのような10代前半の娘がいるとなると、江戸時代の高齢出産って大変そう、いまみたいに高齢出産に対応できる医療が発展していない時代は、お客さんみんなどう思ってたんだ……? めでたい感があったとか……? とどんどん頭の中が飛躍していった。
もうひとつ不思議に感じたのは、与茂作のかしらが武氏であったこと。前身が武士で、今でもかなりもの堅い性格というわりには、野卑じみすぎているように感じた。武氏は、優しそうなのはいいんだけど、水飲み百姓丸出しすぎる。たとえば正宗もしくは舅など、見た目からして少し上品めか、武士に寄せたほうが合う気がしたが……。それとも、彼の見た目の卑しさは、この世で一番悲惨なこと、すなわち貧乏がさせるものということなのだろうか。

脚本の問題としてよくわからなかったのは、たまたま見つけた価値もわからない鏡について、与茂作がなぜそこまで台七(代官)に楯突くのか。口論は挟まず、与茂作が見つけてしまった時点で台七が背後から斬りつけるほうが話がスムーズじゃない? もしくは、台七が元々住民に疑念を感じられているとわかる要素が必要なのでは。
そしてもうひとつ、ちょっと不思議なのは、おさよの兄は庄屋ということ。つまり与茂作は武士時代に百姓の娘を妻にもらっていたということだが、おさよの実家はかなりの大百姓か郷士なのか? どちらにせよ与茂作の武士としての格式はそこまで高くないということだと思うが、和生さんの宮城野は大名のお姫様が傾城になったかのようなすさまじい品格なんじゃが(突然批判が和生に飛び火)。