TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 10月地方公演『一谷嫰軍記』『曾根崎心中』神奈川県立青少年センター

今年の地方公演は景事なしで、1演目のみ。コロナ対策として休憩時間を入れないということだろうか。ワシはコレでエエ。

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横浜会場、今年は席配置を千鳥販売。最前列は販売停止していたが、床前は人を入れていた。席数減のためか、昼夜とも満席状態になっていた。

 

昼の部、一谷嫰軍記、熊谷桜の段・熊谷陣屋の段。

熊谷直実=玉志さん、相模=勘彌さん、藤の局=清五郎さん、弥陀六=玉也さんと、人形は本公演相当の配役。全員、人形配役に人形が誠実そうな人が揃ったためか、ストーリーの真摯さ、切実さに合った舞台になっていた。

 

玉志さん熊谷は、2019年12月東京本公演に続く配役。熊谷は勘十郎さんだろうと思っていたので、配役に玉志さんが出ているのを見て、かなりビックリした。地方公演といえど、この役が来るようになったのか。
スラリとした姿は厳しく締まった身体を感じさせ、人形らしい凛々しく美麗な佇まい。
そしてやはり、人形が若く見える。横浜会場では、開演前、ロビーの大型モニタで宣伝素材用の玉男さんの襲名披露時の「熊谷陣屋」の映像が流れていたが、人形の雰囲気がだいぶ違うよなあと思った。

今回の熊谷は、出の陰鬱としてじっと思案した雰囲気が良い。出は本公演のとき以上ではないだろうか。
玉志さんは人形がほんとに真面目そうだ。国民年金を滞りなく納めてそう。でも、単なる「深刻さ」に堕しないこの真面目感は好き。「深刻そう」な演技はある意味簡単なんだけど、なぜ彼がそこまで思いつめたのかを表現するのは難しい。本当はそこが一番重要だと思う。玉志さんの熊谷は、青いというか、年齢や姿、身分に対して不相応な、若く純粋な心を持っていそうで、それゆえに真剣に思い悩んでいるようなのが、良い。そういうのは、やはり、玉男さんとが違う。

物語は本公演のときよりも振りが大きく、奥行き(物理)が出た表現になっていたように思う。熊谷が何を語っているかの表現に注力し、具体性をやや高めているのだろうと思った。というか、全体的にかなりわかりやすい方向に持っていっているように感じられた。特に視線の送り方はかなり明瞭にしており、相模を見るときにははっきりグッと目を引いていて、かなり奥さんを相当気にしている人になっていた。

藤の局や相模への優しい雰囲気はそのまま。これは玉志さんの熊谷の特徴でもあると思う。
藤の局が飛び出てきて熊谷に斬りかかろうとしたとき、熊谷は局の足元を払うが、そこにちっちゃなネコチャンがいるのかな……という優しい払い方だった。図体でかい人形のくせに、藤の局の背丈に合わせて低くかがむのが良い。
首実検になり、首桶の蓋を開けたときに走り寄ってくる相模を転ばせて膝で抑える所作も、フワッと柔らかい。あれくらいマイルドだと、踏んで押さえ込んでいるとわかっている人じゃないと、まさか奥さんを踏んでいると思わないと思う。あの場面、容赦なくドシッと踏む人もいるので、人形遣いの考えや性格が出ると思う。

自らの気持ちへ正直に向き合い、悲しい顔をするときには、義経にやや背を向けるのも変わらず。彼は義経のこともまた大切に思っていたんだなと感じる。首実検で義経が首を敦盛だと認めたとき、少し驚いたような、自分の気持ちが義経に伝わって安堵したような表情を浮かべていたのも良かった。一生懸命生きてる……。と思った。

 

相模は勘彌さん、お色気奥様だった。美人オーラと貞淑感があった。
※ここでいう貞淑とは、貞淑そうだけど本当は貞淑ではないのかもしれないドキワク感の煽り文句として使う「貞淑」と捉えていただければと思います。
ちょっとしたことだけど、建物の中と外を意識した動きが良かった。外から中へ入るとき、履物を脱ぐような、段差の上に上がるような、一瞬モゾモゾとする動きをしていた。この手のちょっとした日常動作、やるかやらないかは意外と大きいと思う。
しかし、全部が全部飾り付けしたような演技というわけではないのが勘彌さんのうまいところで、首の正体がわかった後のクドキは説明性を控え、かなり抑えつけた振りにされていて、ぎりぎりの一線でなんとか堪えている相模の心情がよく感じられた。彼女もまた、小太郎の心身の痛み、それをずっと隠し通そうとしていた夫熊谷の痛みを一緒に感じているのだなと思った。
相模は衣装が普段とちょっと違うようだった。相模の衣装は、打掛・小袖とも青鼠のことが多いように思うが、今回は柄入りの打掛だった。また、最後に小太郎の首を手に嘆く場面では懐紙を咥える場合があると思うが、なしでのクドキ。かんざしは本公演の相模と同じ、相模専用の鳥ちゃん2匹模様だった。

 

藤の局の清五郎さんは、本当、この役が来て良かったなと思った。
大変上品で優美、かつ清楚な雰囲気。陣屋を訪れて相模にいきさつを語る際、すっくと背を伸ばし、首だけを小さく垂れた座り姿が気品に溢れている。願わくば、藤の局の、我が子のためならなりふり構わぬパッショネイトをもう一押しできたらと思った。
藤の局は、義経が弥陀六に授ける鎧櫃を、中身がわかるより前から気にしていたのが、なんか、良かった(お刺身のパックを見たときの猫のようなEYE)。

 

陣屋はこの3人、熊谷・藤の局・相模の人形で一緒に決まる場面が3回あるが、すべて成功。
例えば、陰で熊谷夫妻の話を聞いていた藤の局がかけ出してきて、熊谷に反射的に刀で押さえられる場面は、手順を綺麗にこなさないと何をやっているのかよくわからなくなりがち。しかし今回はタイミング、人形の距離感・姿勢ともにかなり上手くいっていて、出演者の工夫を感じた。また、首実検で熊谷が首桶を開けたあとすぐ、相模が熊谷に駆け寄り、足元を払われて膝で抑えつけられる部分では、相模役の勘彌さんは瞬間的にしゃがんで人形を綺麗に見せるなど、それぞれの気遣いが細かい。
地方公演は諸々ベストな体制でできるわけではないので、その中でも決めるべきところはきっちり決める考えなのだろう。そこだけは絶対に失敗しないよう、相当気をつけてやっているのが感じられた。

 

玉也さんの弥陀六はとても良かった。
派手な動きが多いながらも、コンパクトにまとまっている。小柄なジジイとして、逸品。いや、熊谷に比べて人形が小ぶりというだけで、弥平兵衛宗清が絶対的に小柄なジジイなのかはわかりませんけど、人形の体格に見合う締まった遣い方で、良かった。老いてなお平家の世の再来を願って、まだまだ体鍛えとるゾイって感じだった。
弥陀六はいつから弥平兵衛宗清だとわかるようにするのかという点については、後半、梶原平次に手裏剣を投げてからの二度目の出からは頭巾をずらしており、額のほくろを少し覗かせているというやり方だった。
それにしても、弥陀六が内側に着ている経文が書かれた着物、どんどんボロくなってきている気がする。

 

義経〈吉田勘市〉は熊谷の話をジッと聞いていた。若干前のめりの姿勢で、熊谷の様子にかなり興味を持っているようだった。かなりジッと熊谷を見ていて、いろいろ相談に乗ってくれそうだったが、コイツがいろいろ相談に乗ってくれるような上司なら熊谷も苦労せんなと思った。

梶原平次景高〈吉田文哉〉は陽気な部長さんという感じだった。ハワイへ旅行に行って、お土産にマカデミアナッツチョコのでかい箱を大量に買ってきて、隣の部署にまで配っていそうだった。顔がオレンジ色なのはゴルフ焼けに違いない。微妙に軽薄そうだった。

 

熊谷が有髪の僧の姿となり、兜を持ち上げてぐっと物思いに沈む姿は、露に濡れた花のような透明感ある真摯さ。兜をやや高く持って、想いを語りかけるように、あるいは祈るように、深く頭を垂れる。この場面では、普段は無口でおとなしそうな雰囲気の人形も何か言いたげで、心がさわさわとした。あの兜の扱いも人によって違うのだが*1、玉志さんは兜は何をあらわしていると考えているのだろう? 私は、武家の象徴というより、小太郎や相模との幸せだった日々だと受け取った。

熊谷はもちろん、カッコつきの「忠義」のために息子を殺した。だが、彼が本当に大切だったものは何なのか?
熊谷が本当に大切に思っていたものが何だったのかは、浄瑠璃の文章はいつも同じでも、そのとき配役された人形遣いの人形の遣い方……人形のごくわずかな所作のニュアンスで変わってくるように感じる。この熊谷が本当に大切だったものは、小次郎や相模だったのだと思う。段切、相模を連れて去っていく姿が自然にうつっていた。
玉志さんの熊谷には、繊細な雰囲気がある。そして、彼自身の心の痛みが感じられる。血を流しているのは小次郎ばかりではない。あの繊細さ、人形自身の感受性の豊かさはほかの人にはないものなので、ずっとこのままでいて欲しいと思った。

 

床は、良いんだけど、もう少し、なんとかならないのかなと思ったけど、ならないからこうなっているのだろうな。
呂勢さんは、良い。良いんだけど、贅沢かもしれないが、間合いが速い。進行があらかじめ決まっている、段取りめいた語りになっている。それと、今回だけの話ではないけど、声が出ていないところが気になった。清治さんはよかった。清治さんは、地方公演だと本公演とはまた違った味があるように思う。
太夫さんは、ちょっとこの演目は向いてないのでとは思った。熊谷が言上していなかった。

 

それにしても、「熊谷桜の段」で弥陀六に縄をかけて連れてくるツメ人形、あれは、弥陀六役の人と似た顔のヤツを選んでいるのでしょうか???????

 

  • 解説=豊竹亘太夫
  • 義太夫
    熊谷桜の段

    豊竹芳穂太夫/鶴澤寛太郎
    熊谷陣屋の段
    前=豊竹呂勢太夫鶴澤清治
    奥=豊竹呂太夫/鶴澤清志郎
  • 人形役割
    妻相模=吉田勘彌、堤軍次=吉田簑太郎、藤の局=吉田清五郎、梶原平次景高=吉田文哉、石屋弥陀六 実は弥平兵衛宗清=吉田玉也、熊谷次郎直実=吉田玉志、源義経=吉田勘市

 

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今年は雨天。

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休憩時間は港のほうまで散歩に行った。日本丸を見た。

 

 

 

夜の部、曾根崎心中。

今回の舞台は、なんだか、「本当に普通の人たちの、普通の話」という印象を受けた。
たとえば(めちゃくちゃ飛躍するけど)『壇浦兜軍記』のような、特別な人たちの特別な話ではなく、本人たちにとっては切実でも、そのほかの人にとっては、いくらでもあるありふれた人たちのありふれた話、と感じた。そのおもしろさと悲しみがあると思った。

ラーメン屋に並んでいたカップルが、ドンキから出てきた人に因縁つけられてる話って感じ。現実世界でこのようなことが起こっても、私たちはきっと、「生玉社前」に出てくる通りすがりのツメ人形のような反応をするだろう。

近松物=高尚なストーリーと捉える人が多いと思うけど、初演当時はこういうふうに観客に楽しまれていたのかな。話のノリそのものは、かつて流行したケータイ小説とか、「セカチュー」的なものなんだろうなと思った。
地方公演で本来求められるものとは異なった仕上がりだと思うが、一周回って「本物」になっていた気がする。

 

清十郎さんの徳兵衛の普通さはすごい。
玉男さんが徳兵衛をやると、あの玉男様特有のどうしようもない感が芝居の味を引き立てて「しゃあないなあ」、「お初が好きならそれはそれで仕方ないやろ」という雰囲気が出るのだが、清十郎さんだと、ほんとそのへんの男の子状態。顔が良いとか性格的に筋が一本通っているとか、そういった物語の主人公たりえる要素を一切感じない。平平凡凡とした一般人である。清十郎さんはもしかしたら悲劇の美男子として遣っているのかもしれないけど、悪い意味ではなく、美しいはずの人形の顔すら「普通」にしか見えないのは、特異。むしろこの普通さで舞台が間持ちするのがすごい。技芸を持ち得ない若手がやって「普通」になるのとはまた違ったものがあった。
徳兵衛は、「天満屋」でお初の足を取ったあと、そっと着物の中に戻して、すそをポンポン直してあげるのが可愛くて、良い。

 

対して、勘十郎さんの「いつでも全力投球」は本当にまじですごい。和生さんや玉男さんとはまた違った職人気質のなせるものだと思う。
ベストな体制で臨めない公演であっても、舞台を引っ張っていく立場であるという責任感と気概を感じる。それは、上手いとか工夫があるとかいう次元ではない、ほとんど狂気じみた意思のように思う。

「生玉社前の段」冒頭で茶屋の窓からお初が横顔を覗かせているところ、その覗かせているぶりが本気すぎる。そこまでやるか。「七段目のお軽役を初めてもらった人」くらいの前のめり感、勢い。ほかの人が手を抜いているというわけではないが、普通、ここまで力めない。
私は、文楽の『曾根崎心中』は、だんだんと形骸化してきているんじゃないかと思っていた。これまでは、“高尚な”近松物だから、あるいは技芸員自身で協力して復曲した曲だから、とても意味のある、大切な曲だと捉えられてきた曲だと思う。でも、復曲やその後の曲の成長に際してお初なり徳兵衛なりの役を作り上げてきた人たちがみな舞台を去った今、「あの有名な近松作」というエクスキュースなくして、本当にこの演目が面白いと言えるのかはどんどん怪しくなっていくのではないかと感じていた。
しかし、勘十郎さんがこうして全力投球している限り、この曲の命はもうすこし永らえられるのかもしれないと思った。
そして、勘十郎さんの芸風というのは勘十郎さんだけのもので、これも勘十郎さんだからできることなのだから、若い人が真似しても意味ないというか、できない、と思った。

勘十郎さんは、清十郎さんに気を使ってるんだろうなと感じられるのが良かった。こういう裏読み的なものは本来は余計なことではあるが、それはお初が徳兵衛を心配する気持ちと少し重なっていて、舞台の雰囲気のひとつになっていた。

 

玉輝さんのうまさというのはスパイスの的格さだなと思った。質のいいスパイスがきっちり効いて、味にメリハリと奥行きの出た料理は、シンプル素材でも、旨い。
この九平次も、八右衛門(冥途の飛脚)も、玉輝さんの右に出る人はいない。八右衛門の人物造形が非常に難しいのはもちろんだけど、九平次も結構難しいと思う。九平次はシンプルな行動しかしない人物だが、数少ない登場人物のひとりとして、あ、この人こんな感じなのねという「人となり」を感じさせて欲しい。今でいうなら、明らかに悪そうなんだけど、服はバレンシアガの最新のを着ている人、という感じにして欲しい。そういう、文章にはあらわれてこない風味が表現されていた。
今回は楊枝で何かを派手に飛ばしていて、半径1.8m以内には絶対入りたくない感じのかなり嫌な奴になっていたのも良かった。そして楊枝を頭に刺すな。あとはやっぱりドンキで買ったとしか思えないタバコ入れを持っていた。なんていうか、色とかテカり方の品のなさが、すごいです。

 

下女お玉〈吉田簑一郎〉は、寝入ったところで亭主に火を灯せと言われたとき、目を枕に押し当てる演技をするが、今回の簑一郎さんのお玉は、めちゃくちゃ眠い、起きたくないというより、「起きる……あと3秒で……! あと3秒だけ目をつぶっている……!」という起床の決意が感じられた。

 

床は、生玉社前の三輪さん、天満屋の錣さんが良かった。
三輪さんは類型的にならない九平次の表現が良かった。和ガラシのような風味ある辛みがあり、玉輝さんの人形の雰囲気とも合っていた。

錣さんの天満屋は安定。『仮名手本忠臣蔵』七段目や『心中天網島』河庄もそうだけど、こういったやや暗い遊所の雰囲気を出すのが本当にうまい人。そして、天満屋がどの程度の店かわかるのも良かった。お初が単なる思いつめ女以上の、異常者みたいになっているのもいい。勘十郎さんもそうだが、こういった狂気なくしては、心中に説得力がない。
ところで、言うまい言うまいと思ってきたが、やはりどうしても言いたいことがあるんですが、ひとことよいでしょうか。
語り出そうとした瞬間の錣さんって、ちょっと、カバっぽくて良いよね。動物園のカバ動画を見るたびに、錣さんを思い出す。いや、錣さんがカバに似ているのではなく、このカバ百吉くん(10歳/長崎県出身、北海道在住)が義太夫語りそうな顔をしているだけなのかもしれません。

道行は謎な感じになっていた。藤太夫さんがお初で出ていたが、藤太夫さん、ここなのか?と思った。前の地方公演でもなんやようわからん景事に出ておられたが、なんやようわからん配役。陣屋の後か、そうでなければ錣さんを陣屋の後にして、天満屋やってもらえば?と思った。

 

事前解説で、希さんが「現行の『曾根崎心中』は初演通りではなく、昭和になってから文章に手を加え、作曲して曲を補ったもの」という説明をちゃんとしていた。
たとえば「天神森の段」はよく美文と言われるが、現行上演のものは文章をかなり触っているので、言っておく姿勢は誠実だと思った。帰り道で「伝統芸能も楽譜あるのかな? 曲をつけたというのは、楽譜が残ってたってこと???」などと、いろいろと話されているお客さん方がいた。良い視点の方だなと思ったし、こういう会話のきっかけになることを解説で話せるのは、良い。
でも、「この作品が書かれたころの西洋に目を向けますと、ベートーベンは3歳でした!」という話は笑った。ベートーベン3歳、まったくピンとこねえ!

 

それにしても、『曾根崎心中』、久々に見たら、田舎客や天満屋の亭主、遊女たちの衣装が意味不明にめちゃくちゃ派手なのが面白かった。

 

  • 解説=豊竹希太夫
  • 義太夫
    生玉社前の段
    竹本三輪太夫/鶴澤清馗
    天満屋の段
    竹本錣太夫/竹澤宗助
    天神森の段
    お初 竹本藤太夫、徳兵衛 豊竹希太夫、豊竹亘太夫/鶴澤清介、鶴澤清公、鶴澤清方
  • 人形役割
    手代徳兵衛=豊松清十郎、丁稚長蔵=桐竹勘次郎、天満屋お初=桐竹勘十郎、油屋九平次=吉田玉輝、田舎客=吉田簑之、遊女=吉田簑紫郎、遊女=吉田玉誉、天満屋亭主=桐竹紋吉、女中お玉=吉田簑一郎

 

 

 

今回の地方公演で気づいたのは、玉志サンの芸風は、意外と(?)大きいステージ向きだということ。ギュッと詰まったピリピリとした動きの緻密さ。そこからグンと大らかに飛躍する、伸びやかな動き。一連の動作の中で演技が急におお振りになるところに特徴があり、そのコントラストの華麗さに驚きや見所があるので、狭いステージだとそれを活かせず、惜しい。たとえば、首実検の前に熊谷が一度上手の一間に引っ込むところ、熊谷が立っている位置から下手の障子が玉志サン熊谷の歩幅だと1歩ぶんもない状態で、うーん、そこの2、3歩を大きく歩むのが、玉志サンの熊谷の見せ場なんですけどねェと思った(何様?)。

あと、今回の熊谷は、あんまりピョコってなかった。玉志さんの、身分が高め役の人形がビックリしたときなんかに「ピョコ!」ってするの、可愛いんだけど、最近はしなくなって、寂しいです。

 

地方公演だからか、人形さんたちの舞台の取り回しは大変そうだった。
「熊谷陣屋」は、左や足がついていけていない場面が相当にあり、やはり本公演で主役級の役の左や足につく人はかなりシッカリしているのだなと思った。主遣いの人は、ときどき喋って指示したり、足などを気にして遣っていた。普段は無の表情をしている玉志サンが時々「!?」となっていたのは、玉志サンには悪いけど、ちょっとおもしろかった(いやおもしろくない、せっかくの玉志の熊谷役に何してくれんねん)。相模もだけど、あの状態でよく陣屋やったなあと思う。みんな頑張れ、と思った。

ただ弥陀六の左はちゃんとした人がやっているのではないか。弥陀六だけは、多少パラついても、左右の手が動きのトーンとともに揃っていた。弥陀六は振り付けミスると即死するので、まともな人がついていてよかったと思った。

それにしても、秋でこの状態では、春の地方公演ではどういう配役でやるつもりなんだろう……。ドキドキする。

 

そして、夜の部では、勘十郎さんって、玉男さんのことを本当に信用してるんだなと思った。玉男さんが相手役のとき、勘十郎さんはただ純粋に、無心で抱きつきにいく。人形に何の心配も迷いもない。玉男さんは絶対自分を抱きとめてくれるという信頼と自信を感じる。本当に信用しきっている人(恋人同士でも夫婦でも親子でもペットでも)に何も考えずに抱きつくときって、ああいう感じだよなあと思った。
今回の清十郎さんが悪いということではないけど、そういう無心になれる相手役がいて、ずっと一緒に舞台を踏んでいられるというのは、本当に素晴らしいことだなと思った。勘十郎さんや玉男さんよりも若い世代の人には、もう、ないでしょうね。

 

ある回の開演前に、床で待機している太夫さん・三味線さんの話し声が聞こえてきた回があった。そういえば、文楽見に行きはじめたときの地方公演でもこういうことがあったなと思い出した。そのときは、年配の三味線さんが、緊張している若いツレ弾きの人に話しかけてリラックスさせていたようで(若い三味線さんが座っちゃいけないと思って棒立ち状態になっていたのを、いいから座りと座らせていた)、いい雰囲気だなあと思った。今回は、普段はないような組み合わせで出演されていた方々だったけど、何を話されていたのだろう。

 

ところで、会場で販売されているプログラムに、登場人物の名前についての説明が書かれていたが、むかしの「太郎」「次郎」「三郎」等のナンバリング系ネームは、必ずしも生まれた順についているわけではないんじゃなかったっけ? 『菅原伝授手習鑑』にしても、じゃあ白太夫の本名「四郎九郎」はどないなっとんねんとか、あると思うんですが……。
むかしの名前については、尾脇秀和『氏名の誕生ー江戸時代の名前はなぜ消えたのか』(ちくま新書/2021)という本が非常に参考になる。前近代(江戸時代)の「名前」は、いまでいう「名前」とはまったく違った概念と体系のもので、いまの「名前」のものさしそのままでは理解することはできないという。では、前近代の「名前」とは一体どういうもので、近代(明治維新)に至ってどう変わったのか、それがつぶさに解説されている。(ただし男性の名前のみ)
文楽・歌舞伎をはじめとした古典芸能を見ている中でも思う、「熊谷次郎直実」ってあなた次郎なの直実なのとか、別に能登を守っていないのに「能登守」ってついているのは何なのかとか、すみませんそこに挟まってる「朝臣」は一体何とか、さっきからやたら「弾正」って名前の人がおるけど何やねんなど、さまざまな「名前」に関する謎が解決できる。そして、それが覆され一律化された明治維新の地獄の混沌がおもしろすぎ(当事者の皆さんは1ミリも面白くない)。とてもオススメの本です。

 

 

 

おまけ 熊谷篇

今回の秋の地方公演は、熊谷(熊谷文化創造館さくらめいと)も昼の部だけ行った。
熊谷、久しぶりに行ったが、やっぱり遠い……。高崎よりは近いけど……。

今回も最寄駅・籠原駅から送迎バスが出ていたので、ありがたく利用させていただいた。ただ、どこからバスに乗れるかわかりづらいので、今後行かれる方のために書いておく。籠原駅の南口、向かって左手の階段付近に、会場「さくらめいと」の職員さんがいる。そのあたりでツメ人形のようにウロウロしていると職員さんに「文楽に行かれますか?」と話しかけられ、駅前ロータリー左奥に停まっているバスに案内してもらえる。なんともRPGのような仕様だ。
今年は同じ会場でワクチン接種をやっていたらしく、駅で市の職員さんが当日接種OKの勧誘をしており、最初そっちに引っかかってしまった。

熊谷公演では、「熊谷」直実つながりで、「熊谷陣屋」が喜ばれていたようだった。ワタル情報によると、熊谷駅の前には熊谷直実銅像があるとのこと。
でも、熊谷自身は、出てくるのが後すぎて、あまり拍手をしてもらえていなかった。梶原平次ですら拍手してもらってたのに……。いや、私も拍手しませんでしたが……。(あまりに深刻顔で出てきたので……)

熊谷会場では、劇場の構造上本公演相当の照明が打てないのか、ステージ手前側にいる人形の顔がかなり暗くなっていた。しかし、熊谷の出ではそれが効果的で、濃い陰影が彼の心に落ちた暗い影を象徴しているようだった。屋体に入ると天井に仕込まれた照明で顔が平坦に明るくなり、同時に熊谷も心を閉ざした無表情になるのも良かった。

熊谷公演で微笑ましかったのは、藤の局と相模が敦盛のために焼香するシーンに出てくる経机。ずっとグラグラしてて、ポルターガイスト状態だった。敦盛の幽霊、そこじゃない。こういうインテリア類は通常、蓮台(小道具やなどを置く黒い台)に乗せると思うのだが、人力で持ってたんでしょうか。障子に敦盛のシルエットが映るのも大きく映しすぎて失敗していたので、もしかしたら、舞台の奥行きがなさすぎたなどで、道具の置き場が大変だったのかもしれない。

なお、熊谷会場は、最前列・2列目・床前を販売停止の上、千鳥配席だった。

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2階が文楽の会場、1階がワクチン接種会場でした。

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熊谷なので、熊谷推し。

 

*1:たとえばNHKから出ている『名場面集』 DVDに収録されている初代吉田玉男師匠の演技だと、兜は手に持つだけで、目はずっと相模を見て、彼ら夫婦にしかわからない何かを語り合っているかのように演じている。今回は相模はかなり後ろに下がっていて、熊谷の視界に入らない位置。