TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 12月東京公演『一谷嫰軍記』国立劇場

今年の12月中堅公演は『一谷嫰軍記』。陣門の段・須磨浦の段・組討の段・熊谷桜の段・熊谷陣屋の段と、本筋がわかる限界まで切り詰めた特急プログラムだった。

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陣門の段・須磨浦の段。

見所は、平山武者所〈吉田玉翔〉。立派な荒武者振り。馬に乗った人形は騎馬状態の姿勢が悪いと胴体が潰れて汚くなりがちだが、初日から背筋を伸ばしてビシッ!キリッ!と乗っておられた。それ以外の場面も人形の姿勢がとても美しく、振りもキレよく綺麗に決まっていた。左手を挙げて片足立ちになり、体を突き上げる動作などではとくに顕著。ポーズを一瞬キッチリ止めてから次の動作に移行しているので、人形がたいへんシャープに見える。玉織姫の手を取ってスリスリするところでは持ち前の愛嬌を発揮されてキモカワ、しかし姫に反抗されると顔色が一瞬で卑しく変わるのも良かった。ふだんの本公演でここまでの役は来ないと思うが、自信をもってキッチリと演じられていた。

平山武者所は足遣いの方もとてもよかった。たいへん端正な、ピンとした足取り。荒武者とはいえ、下品だったり、粗雑にならないのが良かった。ポインと足を綺麗に跳ね上げる馬の乗り方も上手かった。お若い方かと思いますが……、左と足をどなたが遣っておられるのか、公開されるといいんですけど……。

平山武者所は髪型がセーラームーンにいそうなのが気になる。玉翔なら美少女の中に紛れ込めるっ!と思った。なぜ文楽時空ではツインテール系髪型の男性が多いのだろうか。

 

熊谷役は吉田玉志。実際には前後半でダブルキャスト〈前半=吉田玉志/後半=吉田玉助〉なんですが、前半に重ねて参りました。

玉志サンの熊谷は、透明感のある凛々しい武将。6月大阪鑑賞教室の松王丸も衝撃的な瑞々しさだったけど、今月の熊谷も輝くような瑞々しさだった。熊谷の心の清潔さがよく表現されている。思い切りよくいったなと思った。天然由来でキラキラしてるんだと思うけど、熊谷であのキラキラ感はすごい。一体なんなんだこの透明感は。良くも悪くも16歳の子どもがいるとは思えないピュアで若々しい雰囲気。正直、ダブルキャスト後期の玉助さんのほうがまだ老けて見える。熊谷の人形のあの外見であれだけクリアな印象に見えるは、不思議。

陣門の段、組討の段での純粋さは大変に印象的。陣門で「小次郎」を腕に抱き平家の陣門から走り出てくるとき、ずっとうつむいていっしんに「小次郎」の顔を見ているときの生真面目な表情。組討での、ギリギリまである『もしかしたら「敦盛」を助けられるのではないか』という迷いを含んだ表情。本来であれば「敦盛」を殺したくないという気持ちが痛いほど伝わってくる。浄瑠璃の趣旨を逸脱するのではないかと思わされるほどのリアリティある逡巡。そして組討の段の段切、行きたくないよーっていう馬の首をナデナデしてあげて、そのたもとに手綱と首を持ったままぐっとしゃがみこむときの悲しげな姿は心に残った。

ところで玉志サン、刀をしまうときにクルッと回すのが異様に上手くないですか。あの動作、武士の役には多いわりに上手く出来ない人がかなりいると思うんだけど、居合経験者とか、そういうことなんでしょうか。陣屋で煙管を回すのも妙にうまかったので、単に手先が器用なだけ?

 

組討の段に出てくる遠見の人形は、熊谷〈吉田和馬〉・敦盛〈吉田簑之〉ともに動きが繊細で驚き。周囲のお客さんには「遠見」用の小さい人形だと気づいていない人も多いくらいだった。ということは、遠方からの目撃者にはやっぱりそれくらいザックリとしか見えてなくて、曖昧な伝聞による思い込みで「熊谷が敦盛の首を討った」と思い込む宝引の展開は正しいということだなと、物語の設定に納得。熊谷と敦盛が落ちたあと、馬が自分で帰っていくのも可愛かった。かしこい。

  

 

 

熊谷桜の段、熊谷陣屋の段。

なんでこんなにガバガバ外部の人が侵入してくるの。近所のパンピーツメ人形4人(あのパンピー、まじでどっから入ってきたの?)、相模、藤の局が勝手に入ってくるわ、義経はいつの間にかあがりこんでるわ、一般人歓迎をかかげてる大学のキャンパスかってくらい人が侵入してきてるんですけど、警備してないのかな。挨拶して入ってくるの、梶原平三だけ。それを言ったら、陣門の段の平家の砦もノックしたら開けてくれるあたり、謎の文楽時空だけど。と、そんなことを思いながらも、軍次〈吉田玉誉〉、熊谷と相模を気遣う上品で優しげな雰囲気がとても良かった。

 

もちろん陣屋は熊谷役最大の見せ場。玉志サンご本人の持ち味のなかには熊谷のような人物像はないだろうと踏んでいたので、玉志サンが陣屋をどう演じるのかに興味を持っていた。今回、陣屋を何回か観たことで、熊谷の人物像がどう作られていくかわかったのがおもしろかった。

初日の段階では、組討・陣屋一貫して透明度の高いピュアな雰囲気だった。人形を遣う技量が熊谷の役に及んでいるのはわかるが、熊谷の性根の表現や人物描写としてはこのままでは難しいだろうと思った。それから何回か経過して、最終的には、ベースは持ち味をいかしたそのままで、首実検(陣屋の後半、衣装を変えて首桶を持っての出以降〜義経の出陣の命令)を心に障壁を作ったように演じ、そこでは凛々しさを大幅にアップするという方向にされたのかなと感じた。玉志サンは全体的に人形が都会的・スレンダーな印象に傾く人だと思うけど、首実検は武将らしい筋骨の存在を感じさせつつ、しなやかに引き締まった印象だった。玉志ならカロリーメイトやポカリスウェットの広告に出られるよ😭って感じ。わかってもらいたい、この大塚製薬的青春ニュアンス。

物語を首実検と区別したのは意外。私のイメージでは、熊谷は陣屋ではすべて芝居を打っている=妻相模を含む人前では本心を見せないのではと思っていたが、帰館〜物語は等身大で演じられており、清廉な雰囲気。熊谷が煙管を手に相模へいきさつを語るくだりは、セリフは高圧的であるものの演技は抑えられており、あたかも真実を知った相模が悲しまないようわざとそうしているよう。そして物語は、相模のことを常に親身に気にかけているのが特徴的だった。熊谷は物語の最中、相模へ何度か目線を向ける。それが「相模がうまく騙されているか確認している」というより、夫として妻が本当に心配で相模を見ている感じ。目の引き方のニュアンスがデモンストレーション等でよくある「じろり」とは、なんか違うのよ。「じっ……」って感じ。逆に藤の局のほうはあまり気にしていないのだが、物語が終わって藤の局のクドキに入ると、あたかも相模の嘆きを聞いているように辛そうにしている。同じじっと座っている演技でも、首実検での黙念ぶりとは異なる。

「敦盛卿を討たる次第。物語らんと座を構へ。」からはじまる物語*1の立体的な振りは印象的だった。肩を大きく引くなどしてひとつひとつの振りに変化をつけ、大きくまとまって、やや舞踊のようなイメージ。全体的に端正な雰囲気だが、熊谷が自分で語るひとつひとつの言葉に感情を揺り動かされているよう。クルクルと変わる表情が面白い。
「中に一際勝れし緋威。」で右手で軍扇を震わせながら下手側(右膝側)へ下ろし、左手で肩衣の淵を下から上にしごきあげる部分では人形の肢体に力の漲るさまが存分に表現されており、見応えがあった。
「ヲヽイおいと。扇を持て打招けば。」での力強い動作から「駒の頭を立直し。」で敦盛の動作へ移行したときの一転した軽やかさも良い。
「定めて二親ましまさん。」で広げた軍扇を手に相模をそっと見るところでは、玉志サンは軍扇をかなり高めに、顔をやや覆い隠すように持っていた。熊谷が相模を見るとわかってる人にしかわからない演技。ちなみに、初代玉男師匠の昭和62年公演の映像を見ると、軍扇は結構下ろしていて、客の視線が熊谷の表情にいくようにしておられる。
「早首取よ熊谷。」で軍扇を下手(相模側)にかかげ、その影で相模に目線をやる演技は有名だが、ここでも軍扇をきっちり顔の真横で広げて相模から自分の表情が見えないようにしていたのも印象的。実際にはなんとなくかざす程度の「相模の視線を遮ってる風」でよくて、軍扇やポーズの見えを優先してよいと思われるのだが、こういう細かいところを律儀にやるのが玉志サンぽい。いや、ほかの人がどうするのかの平均値はわからないですけど、前述の玉男師匠の公演映像・後期玉助さんはポーズ優先。多分玉志さんは優先順位が違うんだと思う(別に自分が客から注目を浴びることに意味を見出していないと思うので。玉男師匠なんかは、お客さんの期待を配慮してやってるってことだと思った)。
「心にかゝるは母上の御事。きのふにかはる雲井の空」は相模を気にかける文章だが、そちらに引き目せず若干背を向けて、むしろ相模を見兼ねる、内面的な佇まい。
「是非に及ばず御首をと。」で次の藤の局のセリフを受けずすぐに軍扇を開いて顔を覆い隠して泣くのは、非常にリアリスティックだった。組打の段での強い逡巡をそのまま再現しているよう。

と、物語についていろいろ書きましたが、抜き書きでは断片的すぎて全然意味わからないと思いますので、参考までに詞章全文を掲載しておきます。表記は津太夫床本準拠です。

(「敦盛卿を討たる次第。物語らんと座を構へ。」で熊谷が舞台中央へ移動してきて、以下、物語がはじまる)

扨も去る六日の夜。早東雲と明る比。一弐を争ひ抜けがけの。
平山熊谷討取と。切て出たる平家の軍勢。
中に一際勝れし緋威。さしもの平山あしらひ兼。浜辺をさして逃出す。
テ健気成若武者や。逃る敵に目なかけそ。熊谷是に扣へたり
返せ戻せヲヽイおいと。扇を持て打招けば。
駒の頭を立直し。波の。打物二打三打。
いでや組んと馬上ながらむんづと組。両馬が間にどうと落つ。
ヤア/\何として其若武者を組敷てか。
サレバ御顔をよく見奉れば。かね黒々と細眉に。
年はいざよふ我子の年ばい。定めて二親ましまさん。
其御歎はいか計と。子を持たる身の思ひの余り。
上帯取て引立て塵打払ひ。早落給へ。
とすゝめさしやんしたか。そんなら討奉るお心ではなかつたの。
ヲヽサ早落給へとすゝむれど。
イヤ一旦敵に組敷れ何面目にながらへん。早首取よ熊谷。
ナニ首取といふたかいの。ヲヽマ健気な事を云たのふ。
サア其仰にいとゞ猶。涙は胸にせき上し。
真此通に我子の小次郎。敵に組まれて命や捨ん。
浅間敷は武士の。習ひと太刀も。抜きかねしに。
逃去たる平山が。後の山より声高く。
熊谷こそ敦盛を組敷ながら助るは二心に極りしと呼はる声々。
ハヽ是非もなき次第かな。仰置るゝ事有ば云伝へ参らせんと申上れば。
御涙を浮め給ひ。父は波濤へ趣き給ひ。心にかゝるは母上の御事。
きのふにかはる雲井の空 定め。なき世の中をいかゞ過行給ふらん
未来の迷い是一ツ。熊谷頼むの御一言。
是非に及ばず御首をと。

(このあと「咄す中より藤の局。」に続く)

陣屋の前半が終わって、「軍次はおらぬか早参れ」で首実検の準備に一旦引っ込むときの大きな足取り、なにげない所作だけど、玉志サンっぽくて良かった。玉志サンの場合、 「人形が大きく見える」ぶりに独特のものがある。ある瞬間に人形がとつぜん大きく見えてくるというのが、不思議。「人形が大きく見える」とか「人形を大きく遣う」というのは個人的にはあんまり安直に使いたくない言葉だと思っているけれど、首実検にそなえて奥の間へ去っていく熊谷がそうであるのは、効果的。

首実検では凛々しさMAX、熊谷は相模・藤の局に容赦せず、冷淡な態度を取る。ここでは熊谷は心を完全に覆い隠したように無の表情で演じているが、その黙念とした佇まいは、心の前に壁が立ちはだかっているような玉男さんとはまた違う雰囲気。ちょっと華奢な感じ、うっすらと本心が透けて見える感じがあった。玉男さんが漆喰なら玉志サンは雪で作った壁で、その壁をガンガン突き崩そうとしてくる相模&藤の局の情熱と自分の涙で溶けてしまいそうになりながらも、必死で持ちこたえている感じ。でもなんというか、熊谷の不可解な心を凛々しさを引き上げて表現するというのは意外というか、いや、頑張った結果、見え方として凛々しさMAXになっちゃったんだろうけど、よくここで芝居めいた方向に振らなかったなと思った。『彦山権現誓助剣』の京極内匠や金閣寺の松永大膳は芝居めいたキャラづくりがかなりうまくいっていたので、やろうと思えばやれたと思うが……、サイコパス系にいかなかったのは正直よかったと思った。そもそも論として、玉志サンの熊谷は子どもを殺せないタイプだもの。優しそう。陣屋では熊谷は芝居を打っている設定だけど、それでも相模に対して決して横柄にしない。首実検の途中、相模を組み敷くところでも、ゆっくりそっと相模のひざを払う。突き飛ばしも「ポン……」と軽く押す感じ。煙管を持っての説諭でも物語でも、どこか相模を想う真実味があるのが良かった。

 

相模/藤の局は、会期前半/後半で吉田簑二郎/吉田勘彌の二人が入れ替わるというダブルキャスト。私は前半を中心に観に行ったので、相模が簑二郎さん、勘彌さんが藤の局の回中心。

勘彌さんの藤の局はかなりよかった。相模のほうが役としては良い役なんだろうなとは思うけど、私は勘彌さんの貴婦人系の役が好きなので、藤の局役を存分に楽しんだ。怜悧さと上品さの共存がとても良かった。ひとつひとつの所作がふんわりと穏やかだが、敦盛にからむところ、からまないところで結構態度が変わるのが面白かった。青葉の笛に頬ずりするところの悲しみに満ちた表情、障子に敦盛の影が映ったのを見て駆け出すところの情熱的な表情、開け放った障子の向こうの鎧をよく見て確かめ、敦盛がいないことを知ってがっくりとうなだれる辛そうな表情、ゆっくりと閉じられるやわらかくうすいまぶたは特によかった。敦盛の影を見て駆け出すところ、初日あたりは勢いがすごすぎて、足遣いの方は大変だったと思う。人形って、走る前に体を後ろに引くけど、その引きがすごくて、足の方は人形にぶつかられていた……。

今回、勘彌さんの藤の局を見ていて気づいたのだが……、藤の局のようなタイプの姫カットの人形(顔の両サイドに長めに切りそろえた髪を垂らしている)ってたまにいるけど、あの姫カットの垂れてる部分の毛、結構演出効果がある。首をかしげるときに衣装の襟元へすべらせたり、うつむくときにスピードをコントロールしてぱらりと垂らしたりすると、なんともいえない艶やかさや色気が出る。藤の局は出のときにうしろを気にしたり、青葉の笛に頬ずりしたりと横顔(というか顔の横側)に意味が出る場面が多いので、姫カットの垂らした毛の表情にかなり効果が出ると思った。

 

熊谷・相模・藤の局は、藤の局が熊谷に切り掛かるところ、首実検で2回と、合計3回のカラミがあり、それを綺麗に決めるのが難しいと思う。このうち陣屋の前半、「熊谷やらぬと抜く処鐺掴んで……」では、藤の局が左手に刀を持って熊谷に駆け寄る→熊谷が局の膝下を払う→局が前のめりに転倒→反動で刀の鐺がはね上がる→熊谷が鐺をキャッチ→奪った刀で局の背を抑え込む、という演技がある。これは初代吉田玉男師匠の提案により、人形の演技を改良して演技と詞章を一致させた箇所として有名だが、これ、めちゃくちゃ難しくないですか??? 玉男師匠は「局が熊谷に刀を差し出すむかしのやりかたは理屈に合わないと思っていて、これで一気に解決」的なコメントをサクッとされているが(くわしくは吉田玉男文楽藝話』参照)、この変更によって演技の難易度は爆上がりしたのではないかと思う。この表現、手順を正確に、かつ明確に踏まないと、客は何が起こっているのかさっぱりわからない。関係する人形遣い全員の技量と努力を必要とすると思うが、当時よくまわりを説得できたなと思った。今回、初日近辺ではこれがスムーズにいかず、なぜ局が抑え込まれているのか、よくわからない状態になってしまっていた。とくに藤の局の左の人は客席側で重要な演技をするので、責任重大。書いてしまうと本当に申し訳ないんだけど、鐺の跳ね上げタイミングを何度も失敗していた。しかし跳ね上げタイミングの失敗というのはそれ単体の失敗なのではなく(もちろん手順を焦って早くやりすぎてしまってるというのもあったけど)、熊谷・藤の局の動作全体のテンポと、局が転倒する位置もまた重要になってくるようだった。みなさんで工夫を重ねられたようで、中日ごろには綺麗に決まるようになっており、関わる人形遣いさん6人の洗練を見た気がした。ああいう特殊なシーンは、舞台稽古とは別立てで個別に稽古したりするのでしょうか。

 

弥陀六はベテランががっちり抑えます!文司サン。ビシッとしてかつ爺さんらしい、良い弥陀六だった。「テモ恐ろしい眼力ぢやよな」で階に左足をかけて前傾・やや後ろ向きになって凄むところが良い。弥陀六は左の方も上手かった。弥陀六は素早く型を決めていく場面が多いけど、それに乱れがない。初日近くは文司サンより速くなりがちだったりしたけど、すぐに馴染んでガッチリ決めておられ、弥陀六のキレが際立っていた。
ところで、弥陀六が最初に舞台へ入ってくるとき、弥陀六を縛った縄を持った奴のツメ人形があとからついてくるじゃないですか。あのツメ人形、文司サンに似すぎじゃないですか????? あまりにクリソツすぎて「文司サンの孫……???」と思い始め、途中から芝居に集中できなくなった。陣門で“敦盛”が乗っている白馬のたてがみがクルンクルンしているのにも目が釘付けになって爆笑しそうになったけど、あのツメ人形はまじやばかった。絶対わざとやってると思う。

 

梶原平次景高は紋吉さん。当初は、デカイのに優しげなところが「きりんさんが好きです💛」状態の草食系梶原になっていた。日に日に人形のかしらに見合った、キリッとした所作になっていった。紋吉さんは今回の公演で向上が最も劇的だった人のひとりだと思う。
しかし、梶原平次が着てる陣羽織、『義経千本桜』の「すしやの段」に出てくる梶原平三景時が着てる陣羽織と完全に一致だよね??? 二回目の出で横向きになったときに、陣羽織の裏に「内ぞ床しき」って書いてあるのが見えちゃったので……。文楽ではお姫様が全員一緒の格好なのはわかっていたが、こんな役でも使い回しされているとは……。ファッション誌の着回しページかいな。「地方支社への出張にはギラギラ陣羽織で気分を引き締めて。内側に書かれた筆文字チラ見せでいつものスタイルを格上げ」「山奥にあるお鮨屋さんを訪問。モードな雰囲気をまとったギラギラ陣羽織はお店へのお土産も兼ねて」的な感じで……。

 

義経は玉佳さん。キラキラしてた。義経はじーーーーーーーーーーーーっとしている時間が長いのでとても大変だと思うが、本当にじーーーーーーーーーーーーっとされていて、良かった。玉佳さんは、じっとしているときのじっとしているぶりが良い(本当に端正にじっとしているので)。弥陀六の正体を見抜いたり、熊谷へ出陣を命じたりするときは勢いよくビシッとしていた。義経は首実検のときに扇を目の前に掲げているが、あれ、いままで「貴人は生臭いものは直接目に入れない」ということなのかと思っていたけど、中啓(扇)の骨の間からちゃんと見ているらしいです。←当たり前
 
熊谷は有髪の僧形になってからは演技がおとなしくなるけど、より浄瑠璃に合ったディテールある芝居で、かしらの遣い方の微細さが活きていた。「十六年も一昔。夢で有たなアと。ほろりとこぼす涙の露。柊に置初雪の日陰に。とける風情成」のところ、兜を大切そうにひざの上に乗せてやさしく手をやったり、義経の視線に気づいてそっと背を向けたり、武士であったときよりもずっと抑えめでしみじみとした繊細な所作。熊谷は最後まで義経に気を遣っている。その気遣いぶりも、設定だからそうしているというより、義経に対する等身大の親しみが感じられ、そもそも熊谷はなぜ義経の言うことをそうも素直に聞いたのか、どこかわかるような気がした。熊谷にとっては小太郎も相模も義経もみんな大切な人なんだなと思った。小次郎や相模だけが大切だったり、義経だけが大切だったら、こういう話にはならなくて、だから、武士をやめることになったんだろうけど……。このあたりまでくるとぶっちゃけ客は飽きてくるし、ヤスさんは体力と精神力の限界で日によってブレが出るしで*2大変なことになってるんですけど、玉志サンはつねに通常営業、浄瑠璃ジャストタイムでした。「堅固で暮せの御上意にハハハヽア有がた涙」の「ハハハ」でかしらを左右へ軽く振るのも浄瑠璃のリズムにキッチリ乗っていた。

最後になったが、熊谷の足の方、端正で凛とした足取りで、よかった。「時刻移ると次郎直実」で首桶を持って上手一間から出てくるときの威厳と緊張感あるキリッとした雰囲気が素晴らしかったです。

陣屋は悲しい話だけれど、なぜか段切は「良かった……」という気持ちになる不思議。最後、相模を一緒に連れて出立するのが、いいのかな。

 

 


以上は人形の感想だが、床の配役は、若手や中堅を中心とした太夫、ベテランの三味線という取り合わせ。太夫陣、初日は「ヒイイイエエエエエエ!!!!!😱😱😱😱😱😱」という状況だったが、どんどん良くなっていって、やっぱり若い人は向上が早いんだなと思った。向上と言っても、ただなんとなく良くなったとか、なんとなく頑張ったというのではなく、アプローチを変えて具体的に改善している人がいたのも印象的。

そして、三味線のベテランの人はやはりどう考えても上手いと思った(当たり前)。音ひとつひとつの意味が直感的にわかる。自分の演奏だけじゃなくて、太夫をがっちり助けて弾いている。そして、「毎日ブレなく丁寧に浄瑠璃の趣旨をきっちり演奏する」というのがどれだけ難しいことかよくわかった。

 

 

 

今回は何回か観に行ったので、回によるブレや変化などがよくわかった。

若い方は基本的に、回を追うごとに急速に向上していく。逆に、回を重ねるとクセでやるようになって地が出てくるようになってしまう人もいる。改善すべきことを探り出せず模索が続く人や、この人いま油断したなというのがわかることもある。ベテランだと毎回のパフォーマンスが非常に安定している人や、より一層の訴求や洗練を探っている人がいるのもわかる。これは公演内の一回一回の話だけど、公演ごとにこういうことがどんどん積み重なっていくのだろうな。シビアな世界だなと思った。小手先の作り事やその場凌ぎでは誤魔化せないですね。丁寧にやってる人はいつ見ても丁寧にやってる。ここでの丁寧っていうのは、浄瑠璃の意味を考えてやってるかどうかという意味です。自分が見た回がたまたまそうなわけじゃないですね。結局、自覚や積み重ねが舞台に出るんだなとしみじみと思いました。

そして、お客さんの様子。陣屋の物語のところ、かなりの高確率で隣の席の人が寝ていた。後方席じゃなくて、相当の前列席や床付近の席でもそう。物語は文楽において床・人形とも見せ場にあたる場面だが……、組討から上演しているのに、物語を聞かれてない・見られていないというのは、これも出演者側からするとシビアなことだと思う。

自分自身も短期間に何回も同じ演目を観ることで、勉強になった。あんまり何回も同じ演目を観ると飽きるかなと思ったけど、まったく飽きなかった。自分の見方の傾向(クセ)、自分が文楽に求めているのは何なのかということ、あるいは自分の集中力が切れるのはどういう状況か等もわかった。何回観てもおもしろかったし、何回も行ってよかった。

あとは、去年の12月公演には「女方なのに涙を拭う仕草が忘年会会場の飲み屋でオシボリで顔を拭くおじさんにしか見えない人形」がいたが、今年は「女方なのに嘆く仕草が忘年会の帰りに道端でゲロ吐いてるおじさんにしか見えない人形」がいた。なんやねんこの忘年会のおじさんシリーズ。いくら女の人形だと言っても正体がおじさんだから仕方ないのでしょうか。でも、なぜそのようにオヤジっぽく見えてしまうのかの理由もわかったので、自分自身にはとても勉強になりました。

なにはともあれ、玉志サンが玉志サンらしく端正に勤められて、本当に良かった。大変そうだなと思ったときもあったけれど、熊谷の誠実さがよく表現されていた。ここからさらなる洗練を極めて頂き、また玉志サンの熊谷役が見られるよう、祈っています。

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*1:物語の人形演技については、玉志サンは初代玉男師匠の演技を踏まえてやっておられる可能性が高いので玉男師匠の演技を確認したが(1987年1月朝日座公演)、やはり物語の振りは基本的に同じだった。玉男師匠は高潔で、品格が高い雰囲気だった。そして、めゃくちゃ上手い(当たり前)。大きな振りをせず、コンパクトにまとめているんだけど、かしらと扇の使い方が表情豊かで、一瞬一瞬に膨大な情報量があった。とにかく上手い。私にもわかるくらい、本当に上手いです。

*2:まじで「十六年も一昔。夢で有たなア」の言い方が日によって違い過ぎだろ、どういう解釈なんだって感じだったんだけど、でも、ヤスさんは本当後半とても良くなった。明らかにやりかたを変えて、改善したんだなとわかるところもあったし。頑張ってらっしゃいました。