文楽『一谷嫰軍記』熊谷陣屋の段、熊谷の語る「物語」の人形演技図解です。今回の第3回で最終回です。
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contents
- 42[サア其仰にいとゞ猶。]
- 43[涙は胸にせき上し。真此通に我子の小次郎。]
- 44[敵に組まれて]
- 45[命や捨ん。]
- 46[浅間敷は武士の。習ひと太刀も。]
- 47[抜きかねしに。]
- 48[逃去たる平山が。後の山より声]
- 49[高く。熊谷こそ敦盛を組敷ながら助るは二心に極りしと呼はる声々。]
- 50[ハヽ是非もなき次第かな。]
- 51[仰置るゝ事有ば云伝へ参らせんと申上れば。]
- 52[御涙を浮め給ひ。]
- 53[父は波濤へ趣き給ひ。心にかゝるは母上の御事。]
- 54[きのふにかはる雲井の空。定め。なき世の中を]
- 55[いかゞ過行給ふらん]
- 56[未来の迷い是一ツ。]
- 57[熊谷頼むの御一言。]
- 58[是非に及ばず]
- 59[御首を]
- 60[と。]
- 61[咄す内より藤の局。ナウさほど思ふなら]
42[サア其仰にいとゞ猶。]
基本姿勢に戻って、やや上手(藤の局)を見て語りかける。
43[涙は胸にせき上し。真此通に我子の小次郎。]
やや伸び上がって肩を上下させる。肩の上下の速度をやや速める。
*胸に込み上げてくるものがある様子。父としての熊谷の真情。
44[敵に組まれて]
肩を上下させながら扇で10時方向を指し示す。
45[命や捨ん。]
がっくりと肩を落とし、扇も下げる。
46[浅間敷は武士の。習ひと太刀も。]
武士の所作へ戻り、右手左手をそれぞれ回して、左手で太刀を取る。左手で鞘を掴んで、柄を右手側へ倒して水平に構える。
「太刀も」で太刀の柄に扇をパチンと強く打ち付ける。
47[抜きかねしに。]
右足を大きく踏み出して立ち上がり、右足を広げて太刀を左脇に構え、再度右足を大きく踏み出す。扇を持ったままの右手で柄に手をかける。眉を上げて上半身で震え、「いぃぃ〜」で足を広げたまま、ガクガクとした足踏みをする。ドン、ドン、ドン、ドンドンドンという足拍子とともに、上手側を向いて崩れ落ちる。
*息子を殺さざるを得ない父としての動揺を表現する。
みどころ
48[逃去たる平山が。後の山より声]
ハッと気づいたように一転して再び力強い武士の目線に戻る。左手に持った太刀で、両足の間の地面を強く突く。そのまま体を上手に向け、左肩に太刀をかける。右手を太刀の鞘に添え、左手は一旦離して柄を持つ。太刀をグッと体に押し付け、キッと上方と見上げる。
*所作は武士のものに戻す。
49[高く。熊谷こそ敦盛を組敷ながら助るは二心に極りしと呼はる声々。]
太刀を置いて右足を7時方向へ大きく踏み出す。右手を振って開いた扇を左手へ持ち替える。右手は裃を撫で下ろして腰に当て、左手の扇は要を返し、要を上にして胸の横に掲げ、全身で突き上げる。ツケ入る。眉上げて寄り目になる。ツケ入る。
「呼はる」で表情を戻して扇を閉じ、座りはじめる。
*ここでの型は、「組討の段」で平山が後ろの山(書割)からにょっと顔を出してワーワー言っている場面を再現している。平山は書割にしがみついており、へっぴりな感じで騒ぎ立てるので、この「物語」での熊谷の演技のほうがかっこいい。
みどころ
50[ハヽ是非もなき次第かな。]
力を込めて座り姿勢のまま伸び上がり、眉を上げて寄り目になる。
「かな」でがっくりとうつむいてうなだれる。
*胸がいっぱいになり、同時に諦めざるを得ない心境を表現。
51[仰置るゝ事有ば云伝へ参らせんと申上れば。]
表情を戻し、うつむいたままうなづくように下方へ向かって語りかける。
52[御涙を浮め給ひ。]
左手を添えてゆっくりと扇を開き、両手を広げて右手の扇は一旦ゆったりと9時方向へ切る。「浮め」で仰向けになって、扇と左手で顔を覆う。次第に顔をおろし、「い」の伸ばしで扇と左手を下ろす。
*ここから「組打の段」で起こったこととは異なる、熊谷の嘘。
53[父は波濤へ趣き給ひ。心にかゝるは母上の御事。]
軽くこわばった基本形に戻る。「心にかゝるは母上の御事」でやや下手(相模)を向くが、動作へ紛れさせる程度で、目線は送らない。
*「組討の段」で殺された小次郎は、実際には母のことを言っていないので(父母の恩については一言語る)、熊谷自身による相模への気遣いの嘘。
54[きのふにかはる雲井の空。定め。なき世の中を]
体全体を上手へ向け、腿の間に扇を立て両手を重ねる。まゆを上げて目線を相模へ送る。肩を上下させる。
55[いかゞ過行給ふらん]
眉と目線をやや下弦を描くように正面へ戻す。「給ふらん」で、また眉を上げて、今度はやや上向きになって上手上方に目をやる。
56[未来の迷い是一ツ。]
眉を上げたまま次第にうつむいていく。「(迷)い」で一番下まできたら、眉をもとに戻してしばらく思案し、「是一ツ」で顔のうつむきを元に戻し、両手を解いて正面へ向き直る。
57[熊谷頼むの御一言。]
基本姿勢に戻ってやや伸び上がったのち、「御一言」で頭を下げるようにうつむく。
58[是非に及ばず]
扇を差添の柄に叩きつけ、正面へ強く突き出す
59[御首を]
眉を引いて扇を大きく振り上げる。
60[と。]
眉を下げると同時に扇を真下へ振り下ろす。
*熊谷の「物語」はここで終了するが、演技はそのまま続ける。
61[咄す内より藤の局。ナウさほど思ふなら]
以降、藤の局のクドキへ移行。熊谷は目立たないように姿勢を直し、「藤の」で扇をゆっくりと振って開き、「ナウさほど思ふなら」で扇と左手で顔を覆って上向きになり、大きく泣き上げる。
<おわり>
DVDの「物語」を一時停止をしながら描き始めた当初は、30カットくらいで終わると思っていた。細かい演技をはしょり、内容上重要だったり、ことばに対応するものだけにとどめたものの、最終的には60カットにもなり、人形演技の複雑さと豊かさを身をもって実感することになった。演技を細かくチェックしていくことで、たとえ自分では「しっかり見ている」つもりでも、実際の舞台では流し見してしまうディティールの存在に気付かされた。当初自分で思っていた以上に、この書き起こしは、今後の「物語」鑑賞の礎になるだろうなと感じた。
今回、繰り返し映像を見て感じたのは、初代吉田玉男の上手さ。もう、上手すぎる。
「物語」では、主人公熊谷の武士としての顔、父としての顔が目まぐるしく入れ替わってゆく。その遣い分けの的確さ! また、妻相模への憐れみの表現も熊谷の人形の無骨な姿に情趣を添える。熊谷が語る内容を的確に写し取りながらも、単なる写実に傾きすぎない美的表現の取り入れ。人形演技のみを見ていてもどんな話をしているかがわかる表現力、描写力。そして、長い物語にいきいきとした脈動を与える緩急、メリハリがあり、観客に既視感を与えないよう同じ振りは繰り返さない。もちろん、義太夫の演奏にうまく乗っているのは当たり前。扇の要を返す動きや、何度かあるハッと気づく、思い直すなどの動作でのかしらの動かし方なども、とても効果的だと感じた。このあたりは型で決まっているものではなく、初代吉田玉男のオリジナルアレンジだろう。
単なる「天然で上手かった人なんじゃ?」ではすまされない理知と工夫に満ち満ちた演技だ。あまりの技量と考察力に、天才というのも畏れ多いと感じた。「名人」といわれているから上手いのではない。圧倒的に上手いから誰もが「名人」と呼んでいたことがよくわかった。
しかももっとすごいのは、このDVDの映像より後年、もっと晩年の熊谷。熊谷の陰影はいっそう増し、さらなる深みをもった「物語」、ひいては「熊谷陣屋」に変わっていく。晩年の初代玉男の陣屋の映像は、国立劇場視聴室が所蔵する記録映像で見ることができるので、ぜひ視聴室を利用して観てみてください。
┃ 参考映像