TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 和生・勘十郎・玉男三夜 第一夜『傾城阿波の鳴門』十郎兵衛住家の段『妹背山婦女庭訓』道行恋苧環 紀尾井ホール

人形の「三人組」、和生さん・勘十郎さん・玉男さんにフィーチャーした紀尾井ホール主催企画。この三人がワチャワチャしてたらみんな喜ぶだろう!というツメ人形知能な企画、誰でも思いつくけど、実行するのはすごいと思う。企画自体は2020年からあり、コロナ禍で延期されていたが、状況が落ち着いてきたということからか、実施に至ったようだ。



 

会場は紀尾井ホール。紀尾井坂、ニューオータニの前にある、日本製鉄が所持する音楽ホールで、2階層800席の大ホール(クラシック用)と、250席の小ホール(邦楽用)がある。
今回会場となった大ホールは、クラシック向けに設計されたシューボックス型の構造で、赤みがかった木材の内装が全面に施されており、天井からは複数のシャンデリアが下がっている。微妙に古めかしい豪華さのデザインが懐かしく、また会場内に案内係員さんがたくさんいらっしゃったり、パンフが無料配布だった点も含め、「日本にまだ余裕があった時代」が生き残っている場所という印象だった。客席の並びは左右にゆとりがあり、前後には適度な傾斜があって視界がひらけていて、快適だった。

このホール、見た目は素敵だし、室内楽等には良い環境なのだと思うが、まず最初に感じるのは、ホールの音響が文楽義太夫)に向いていないという点。反響が非常に強く、また、高音が立つ会場だという印象。
響きが強い点はトークショーで和生さんも指摘していたが、残響が何重にも引くため、太夫・三味線の2つの音で表現する義太夫においては聞こえが複雑になる印象。個人的にツラかったのは、高音の強調感。地方公演が行われるような汎用ホールでは三味線の太い低音が低減して抜け落ちることが多いが、ここの場合は高音がクッキリ立ちすぎて中音・低音が引っ込む印象になり、バランスが悪く聞こえた。この高音のヌケ感、高音が濁らない点はまじですごいんですが、文楽だと柝の音がひときわカン高く聞こる方向にしかいかされず……。
本舞台では、先述の高音が映える印象のせいか、人形が立てるわずかな雑音(小道具の取り落とし、主遣いの舞台下駄の足音など)はかなり拡散される一方、足拍子の響きは悪い状態。足拍子は伝統芸能専用会場でないと出ないので仕方ないけど、小さな音が響く件は後々大変なことに……。

本舞台の構造については、本来は舞台が客席に張り出した構造になっているのだが(舞台の脇にも2階席がある)、文楽公演用に舞台脇の席は潰し、通常のホールのように舞台の周囲へ「П」の字型に黒い額縁を設置していた。これによって擬似的に舞台袖を作って小幕を設置、定式幕も吊るして引けるようにしてあった。
なぜだかはわからないが、今回は二の手すり(舞台手前側で、人形遣いの腰から下を隠すように設置してある手すり)の設置がなく、人形遣いのひざ下まで見える状態になっていた。
道行に関しては、人形遣いの姿がよく見えて面白かった。江戸時代前期、人形が一人遣いだったときの景事は、手すりのない平舞台で出遣いをしてスターの人形遣いの姿を見せていたというが、こんな感じだったのかなと思った。*1

 

 

 

三年連続企画の一年目は、和生さんが演目選定をする和生回。
1つ目は『傾城阿波の鳴門』十郎兵衛住家の段。

おつるが殺される結末までのフル上演。
座談会では「あまり出ない」と紹介されていたが、実際には2019年外部公演2021年大阪本公演でもフル上演しているので、両方行った自分としては、「結構やる演目」感がある。
ただし、今回は後半を若干省略しており、十郎兵衛がおつるの遺骸から財布を取り出すくだり、お弓が祖母(お弓の母)からの遺言の手紙を読み上げるくだりはカットしていた。実はお金を少ししか持っていなかったこと、祖母は既に没していて阿波に帰ることもできなかったことが一番残酷悲惨なため、まだマイルドな印象ではある。

床は本舞台の上手に設置。そのため、上手小幕は設置なし。
大道具は本公演通り、中央〜上手に十郎兵衛ハウスの屋体、下手背景に町の書割。

 

お弓はやっぱり和生さんだなと思った。
俯いて座っている姿の憂いと美しさ、値千金。繊細で優美な雰囲気で、浄瑠璃の主人公らしい純粋な気高さを感じさせる。体は下手を向けながらも、首はやや上手側にひねって、おつるに顔を見せないように、ほんの少し俯き、目を閉じる。その美しさたるや!!
おつるの話をじっと聞くあいだのまぶたや、きゅっと結んだ口元から、彼女のやるせない心情がしみじみと伝わってくる。この「俯き」は何度も繰り返される所作だが、単なる反復に見えず、単調にならないのも、和生さんらしさ。その秘密を、ぜひとも探りたい。
家に上げたおつるの話を聞いているときの、本当はもっと近づいてよく聞ききたいけど近づけない、上半身だけめちゃくちゃ近づけようとしている前のめり感にも清楚な情緒が感じられた。彼女の中でせめぎ合う慎みが、良い。

今回は、お弓がおつるを抱きしめるくだりが、いかにも親子丸出しのドラマチックな抱きしめではないのが印象的だった。かなりおとなしめで、しかし、何かをこらえたような雰囲気。周囲に人の目はないのに、それでもお弓はそうしているということ。彼女たちの人生の一幕を、そっと覗き見している感覚になった。これにはおつるがお弓に「ピョコ…」と抱きつく仕草の無垢さによるものも大きいと思う。

お弓は後半のクドキも大変自然な印象で、良かった。いや和生は年がら年中大変自然な印象で良いがなと思うんですけど、なぜこういうことを言うかというと、この部分、2021年4月に文楽劇場で上演されたときは、かなり失敗していたから。床・人形ともにそこで突然調子が変わってしまい、「つながってへんがな」状態になっていたが、今回は床・人形ともにいかにもな見せ場として立てすぎずにつなげていた。盛り上がりをクドキが始まった瞬間からではなく、後半のほうにもっていくことで、流れとしてうまくまとめていけるのだなと思った。床も、睦さんの素直なひたむきさが良い方向に行ったと思う。

 

おつる和馬さんは、2019年11月の西宮に続き、かなり良かった。
おつるの出。和生さんに言われているであろう「舞台上ではほんの少しの距離しかなくても、おつるは阿波から玉造までずっと、ひとりで歩いてきたんやで」という点がよくこなされていた。懸命で、歩き慣れていて、しかし、トボトボとどこか寂しげな……可愛い。師匠に言われたことを自分なりに考えて愚直にやっているということだろうが、センスがある。
いかにも小さな子供らしい、ちんまり「チョコ…」とした動きが愛らしい。なんと表現すればいいのだろう。大人にはわからない世界を内面に持った、別の生き物という感じがする。目線のふわふわした雰囲気も子供っぽい。家に上がってから、すねをナゼナゼする所作も、自分の世界に入っている感じで、可愛い。田舎の子らしい素朴さもよく出ていて、良いおつるだったと思う。説明的になりすぎないところが、あくまで大人の視点からとらえた子供、つまり、ずっと離れていた我が子を見るお弓の視線という感覚があった。

和馬おつるは額や顎の微細な表情が和生さんによく似ていて、お弓と親子感があるのが何より良かった。そうなんだよねえ……、和生さんって、額と顎の雰囲気に個性があるよね。和生さんの人形の遣い方は大変に微細で、かもしだす「雰囲気」もあくまでニュアンスである。「やってるやってる」という具体性があるわけではないので「真似」はしにくいと思うのだが、それでもやっぱり弟子は師匠をよく見ていて、自然にうつってくるものなのかなと思った。なんか、漠然と、安心した。今回の舞台、和馬さんは、おつるが死んだあとも舞台に残っていて、人形の世話をしつつ、ずっと師匠を見ていたと思う。
おつるは、お弓には最初からかなり懐いていたのに、十郎兵衛には一切興味なさそうなのが笑った。表情が違いすぎる。「全然興味ないものを目の前にしているときのお子様」の「無」の顔をしていた。一応、お父さんなのに……。妙なところが上手いやっちゃなと思った。

 

十郎兵衛役の勘十郎さんは初役とのことだが、普通に似合っていた。
ここ最近勘十郎さんの役について色々と書いているが、やはり、勘十郎さんはこういったシンプルな役のほうが似合う。今回の公演は和生さんが主役と考えて、抑えて遣っていらっしゃる部分も大きいだろうけど、本人が過剰に考え込まない役のほうが、人形に贅肉がなくなり、結果的に見栄えが上がるのだと思った。そして、今回の十郎兵衛のように、シンプルな所作のほうが、勘十郎さんの持つ技術力だけでなく、そのストレートさ、即物性という持ち味の良さが出ると思う。ぶっきらぼうさと紙一重の、大ぶりであることへの洗練性。私が勝手に唱えているだけですが、勘十郎さんが「荒物」を現代に継承しようとしているのであれば、ここに着地点があるのではないかと思わされる。ご本人の求める志向とは、違うと思うけど……。
十郎兵衛考え込みポーズは、またもやなぜか年寄り臭く(失礼)、やはりこれは玉男様でいう“なぜかごん太(ぶと)化”と同じ現象なんだなと思った。

 

先述の通り、ホールの音響が文楽には向かず、「巡礼歌の段」を語った三輪さんはこの音響特性と相性が悪くてかわいそうだった。しかしそれでもお弓は優美であり、おつるは可憐な娘で、よかった。お弓の叫び「これ! もう去にゃるか! 名残が惜しい……、別れともない……」は、やっぱり、細い高音の押し出しが効く人が映える。口調はか細いままに、しかし大きな心情で思わず引き留める、お弓の悲痛さがよく感じられた。
お弓の美麗さはわかっていたことながら、印象的だったのはおつるの詞。他の人があまりしないような、ちょっと大人びたような、それでいて頼りなげな、不思議な喋り方だった。子役のセリフでよくある、朴念仁的に抑揚がないのではなく、上手い人の謡のように声調の変化がごくわずかについているというか……。フルーティな感じ。
三味線さんは、お二人ともホール特性に合わせて音を調整している印象だった。清友さんは三輪さんの声質に合わせつつ雰囲気を優先して調整し、藤蔵さんは客への聞こえの安定性を求めているのかなと思った。藤蔵さんの音のほうが小さく聞こえたのが意外だった。音質(音域の印象)自体は、藤蔵さんのほうが国立劇場小劇場等に近く、義太夫三味線として自然な印象だった。

 

 

 

 

2つめ、『妹背山婦女庭訓』道行恋苧環

舞台奥に床が並ぶ形式での上演。書割は、上手に斜め振りの赤い鳥居(三輪明神)、中央〜下手は参道脇の森を描くというもので、三輪山と鳥居を中央に、参道を手前に向かってまっすぐ伸びるように描く、近年の本公演のものとは異なる。この描き方、明治の道具帳で見たことがあるが*2、なるほど、舞台奥に床が並ぶと、この書割でもいいなと思った。本公演にある瑠璃灯はなし。
難点としては、舞台奥に太夫三味線が並ぶと、音の聞こえがかなり悪いこと。本公演でもこういう設置をすると聞きづらくなるけど、ロセサンでここまで聞こえないとなると、困るな。
なおこの並び方、トークショーでの玉男様のご感想によると、「見られている気がする……(背中ナゼナゼしながら)」とのことでした。


人形は、橘姫=和生さん、求馬=玉男さん、勘十郎さん=お三輪の、「そのまんま!」な配役。気品ある姫君、優柔不断のクズ男、おちゃっぴい庶民娘。「これよ、これ」だよね。勘十郎さんのお三輪は本公演通りの配役だけど、和生さんや玉男さんは「昔はやっとったけどな〜」ということなのだろう。近年文楽を見始めた私には、新鮮だった。三人お揃い風の、明度彩度が揃って色相がそれぞれ違う、シンプルな肩衣姿だったのも良かった。玉男さんの肩衣は若干紫がかっていて、玉男様感があった。

 

和生さんの橘姫はいかにも貴族のお姫様という感じで、繊細さと優美さが際立っていた。かなり貴族感があった。どこがどうとは表現しづらいけれど、武家のお嬢様レベルの「姫」とはまったく違う。つるの羽根で作った布団に寝てそう。おてんばなどの小娘感が一切ないので、お三輪との差が際立っていて、良い。
今回の会場は、振り落としの浅黄幕が張れないので、最初から幕が開いており、橘姫は本公演で幕が落ちるタイミングで下手から薄衣をかついで入ってくる形式だった。これはやっぱり、幕が落ちたら橘姫が正面を向いて立っている本公演のほうがいいと思った。

玉男さんの求馬はすっくとしていて、身長187cmイケメンという感じ。本公演で配役される女方人形遣いさんより、男性的な雰囲気が強く、非常に凛々しい。こういうところは、玉志さんが持っているようなご先代テイストにいくんだなと思った。しかし、下手に向き直って優美に肩をフッと揺らして立ち止まるところは、肩の優しい動きに色気はありながら、首がシッカリと座っていて、さすが玉男様だと思った。
苧環回しは久しぶりすぎたのか、「お…???(止まっちゃった…?)」と時々見上げながらのクルクルだった。
それにしても、求馬は人形の顔がとても美しく思えたのだが、本公演で使われているものと同じなのだろうか? 私物? それとも、技術によるもの?

勘十郎さんお三輪はいつもながらのおてんば風ながら、和生さんに遠慮しているのか(?)、ちょっとおとなしめなのが味わい。ぶりっこ増しな感じですね。
面白かったのは、お三輪と橘姫が求馬を挟んで左右から喧嘩する場面。本公演だと、勘十郎さんは橘姫(もちろん勘十郎さんより格下の人)をわりと強く袖でバシッとぶっ叩いているが、和生橘姫には「もお!」くらいの袖振りアクションだった。流石に和生は叩けんのか!?!?!?
橘姫役の人も、本公演では軽く叩き返する人が多いが、和生橘姫は上品なので、「なにこの子」くらいのリアクションだった。なお、玉男求馬は、お三輪にはあんまり感情を抱いていなさそうだった。わりと「プイ」と退けていた。なんだこいつ。

 

三人揃っての手踊りは、「揃っているようで揃っていない、でもなんだか揃っている」感が良かった。
玉男さんはしばしば勘十郎さんを見てやっていた。本公演では見られる立場であり、自分は他人を一切見ないのに(配慮が必要な相手はともかく)、勘十郎さんを微妙に気にしているというのがちょっと面白かった。勘十郎さんお三輪の回転が思ったよりスピード早かったのか、求馬の回転スピードが途中からちょっと上がったのが面白かった。動作の途中からテンポが変わるというのは、玉男さんの場合、本公演では、まず、ない。単発、しかも気安い人との共演ならではなのだろうか。和生さんはほかの2人を気にせず、和生・マイ・ペースでやっているのも、和生さん!という感じだった。


ていうか、出番終わったおっちゃんたち、
「は〜、わしの出番終わったぁ〜〜〜💕」
と思って喋ってへんか?????????????
このホール、よう聞こえるで!!!!!!!と思った。(濡衣だったらごめん)

 

 

 

 

 

3つめ、座談会。
司会の葛西聖司さんが、和生さん、勘十郎さん、玉男さんに話を聞くというもの。

舞台に椅子を並べ、下手から、和生さん、勘十郎さん、玉男さんの順に大きく間隔を空けて座る形式。みなさんのトークショーの定番姿勢、和生さんの源蔵の出のようなロダンポーズ、勘十郎さんの虚無・EYE、玉男さんのマイク乙女持ちが炸裂してた。
玉男さんは、自分に話しかけてくる人のほうを見つめる習性により、ずっと司会者側(下手)を向いて、ちいかわのような表情を浮かべていた。「玉男様……💓」って感じだった。玉男様は以前よりもお話が上手くなっていて、良かった。そんな玉男様を、時々、勘十郎さんがジッと見守り・EYEしているのが良かった。余計なこと言ったら口を塞げるのは勘十郎しかいない。

 

お話の内容を、ちょっとだけメモ。

 

若い頃のこと

和生:入門したとき、ぼくは二人より年が6歳上だったが、入門の前日まで文楽を見たことがなかったぼくとは違い、あちらは先にアルバイトをされていたので、「先輩」だった。

勘十郎:そのころ6歳上だと、ものすごく「大人」だと感じていた。

和生:一緒に遊んでましたよ! ローラースケートとかして!(出た! 和生様の「みんなでローラースケートした」話! 勘十郎さんも玉男様もノーリアクションじゃなくて、同調しろよ! 和生様はローラースケートの「ロ」の字もなさげなご風貌のため、客がみんな虚妄だと思うとるぞ!)

玉男:中学生で文楽の手伝いをしたころ、師匠(初代吉田玉男)にきつねうどんを奢ってもらっていた。朝日座の近くにあった「さらしな」といううどん屋で、当時120〜30円だったと思う。(和生さんや勘十郎さんもリアクションしていたので、おふたりも行ってたお店なのだろうか)
師匠は長右衛門などのじっとしている役が多く、足遣いの頃は「なんでこんなにじっとしているのか……」と思っていた。逆に、勘十郎さんのお父さんはよく動く役で……(勘十郎さんはよく動く足を遣えていたのに、ということか)。何度も辞めたいと思って、20歳過ぎたころだったか、師匠に「辞めたいですね」と言った。

勘十郎:ぼくも3回辞めたいと思ったことがある。その3回目が重症で、「向いてない」「上手くならないのではないか」と悪い方向に悪い方向に考え、思いつめてしまった。脱出できたきっかけは、師匠(吉田簑助)のお酒の相手。師匠は「もう聞いたよ〜」という同じ話を50回くらいしてくるのだが、それでも時々、聞いたことのない新しい話がある。それについて深く考えているうちに、思いとどまることができた。

和生:今でも、「ほかの職業についてたらどうなってたかな」と思うことがある。

玉男:若い頃、「若手向上会」という、普段は遣えない大役を任せてもらえるような、いまでいう若手会があった。夕霧伊左衛門(曲輪文章)で、和生さんと勘十郎さんが主役をやったり、ぼくは熊谷(一谷嫰軍記)や横蔵(本朝廿四孝)をやったりした。若いうちに一度でも勤めるということが、大変勉強になった。

 

演目について

玉男:「道行恋の苧環」は以前(2010年)にも紀尾井ホールでやったことがあり、そのときは(吉田)文雀師匠がお三輪、和生さんが橘姫、ぼくが求馬だった。

求馬は、玉男師匠が大変好きだった役。2人(お三輪と橘姫)からモテたいです。(突然の脈絡ないSUNAO発言)(勘十郎さんなら「羨ましいですね〜、モテたいですね〜〜(棒読み気味)」、和生さんなら「まあ、実際に2人の女性からモテたら、“大変なこと”になると思いますけど」と言いそうだな)

途中、橘姫がすがってきたために求馬の羽織が脱げる場面があるが、ぼくがトン!と(足で)拍子を入れたタイミングで、橘姫が羽織を引き抜く。羽織の紐をあらかじめ緩めておいて脱げやすくしているが、本公演では時々失敗して紐がほどけず、脱げないことがある。『冥途の飛脚』の忠兵衛の「羽織落とし」もやり方は同じで、トントントンと、拍子に合わせてだんだん脱げていくようにしている。

和生:『傾城阿波の鳴門』は残酷な話だが、ある意味、人形だから救われることがある。おつるが殺される残虐な場面でも、お客様も、人形だから安心して観ていられる。

勘十郎:次回はぼくが演目を選ぶ番。まだ考えていないですが、ここで楽しんでいただけるものをと思います。

 

ところで、座談会は、司会なしで、和生さん・勘十郎さん・玉男さんの三人だけで喋ってもらったほうがいいんじゃないかな。その時の主役の人が主導して、その演目についての思い出話、この三人での配役だからこその相手役への印象、あるいはそのときの舞台に一緒に出演した弟子にどう指導したか(と、その評価)をお互い語るとか。

客は司会者の話を聞きにきたのではない。
喋らない玉男さんにたくさん喋らせようとしてくれたのはありがたい。けど、お三方より先回りして全部喋ってしまったり、決めつけるような類型的な方向に誘導するのは、どうなの? そして、三人のあいだで会話を発生させなければ、座談会として意味なくない?
何らかの理由で司会を立てなければならないなら、司会者は変更し、司会者は陰に徹して三人に喋らせて欲しい。また、司会者が先頭きって話を散漫にすることがないようにしていただきたい。普通に気分悪いよ。
前にこの人が司会をやったイベントも「こう」だったので、今回も「こう」なるだろうなとは思っていたけど、素人が司会をやってるならともかく、肩書きとしてプロの司会者のはずなので、私は苦情をアンケートに書きました。

 

 


なによりまず、和生さん・勘十郎さん・玉男さんの、性格も芸風もてんでんばらばらな「三人組」が、この歳まで三人揃って元気にやってこれたというのが、良い。「三人組」のままここまで来られて、良かった。

今回は和生さんが演目を選定するということで、老女方に見せ場のある『傾城阿波の鳴門』が選ばれていた。『先代萩』とかのもっとド派手な演目でもよかったのに〜とか、バタバタした役は苦手という和生さんだけど、師匠の文雀さんは可愛い系でもあったわけだし、本公演ではまず配役されないものを選んで『桂川』でお半役はどう!?とかも思うけれど、シンプルに和生さんの良さが立つ演目で、良かった。そして、今回は三輪さんが出てくれたことで、『傾城阿波の鳴門』のもつ、純粋で残酷な、古いおとぎ話のような世界がシンプルに舞台上にあらわれており、文楽の舞台としても興味深いものだった。十郎兵衛役をいかにも玉男さんではなく勘十郎さんだったのは、演目選定で勘十郎さんが「十郎兵衛やったことない」と話されたのがきっかけのようだが、そういった意外性のある配役アイデアも面白かった。また、「道行恋苧環」では、本公演とはまた違う、慣れている人同士でやっているこなれ感があるのが面白かった。この三人での配役ならではの、ちょっとリラックスしてる感、あります。

そして、やはり、単発公演はいかにちゃんとした三味線を立てられるかが勝負だなと思った。睦さんは、今月の本公演ではかなり苦労しているように感じたが、藤蔵さんがシッカリ弾いてくれると、睦さんらしい一生懸命さが出せるのだな。本公演ならもっと良くなっていくだろうと感じられて、好ましかった。

 

「和生・勘十郎・玉男三夜」、来年の第二夜は勘十郎さん回ということで、どんな演目がセレクトされるか、楽しみ。王道の得意演目でいくのか、意外性のある演目でいくのか、期待が大きい。

来年は、座談会はまじでちゃんとしてほしい。単純に三人揃って「いい役」というのは、さらに良好な環境で公演される本公演や内子座でもあるわけだから、イベントとしては、座談会の意味合いは大きい。せっかくついている座談会によって自ら価値を下げてしまっては元も子もない。今回の客筋を見ると、大半が文楽の愛好者、本公演も外部公演にも頻繁に足を運ぶクチの客だと思われる。このまま来年も、では通用しないだろう。次回以降の改善に期待がされる公演だと思う。

あとは個性出しとして、テーマを決めて私服で座談会に登壇してもらうとかだな。例「ピンク!ピンク!ピンク!」、「嗚呼憧れのハワイ航路」、ちいかわのぬいぐるみを膝に乗せてもらうなど。無限に企画出ししますので、いつでもお声がけください!

 


  

*1:鳴門のほうだと、グランドラインがあやしくなってましたが。和馬さんは手すりありと同じ位置までおつるの人形を上げていたが、勘十郎さんは人形を大きく下げて人形の足が一の手すりにかなり接近していた。致命的におかしいとまでは思わなかったけど、地面の位置が謎だった。

*2:調べたら、明治26年4月、明治36年5月御霊文楽座の興行だった。