TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 7・8月大阪夏休み特別公演『心中天網島』国立文楽劇場

玉男さんの「本物」感って、本当にすごいと思う。




今月の第二部、『心中天網島』は、圧倒的に「紙屋内」!

和生さんのおさんは、「おさん」という人、そのものだと思う。

今回、和生さんのおさんを見て感銘を受けたことが2つある。
1つ目。おさんは治兵衛の妻であること。設定でそうなっているので当たり前じゃないかと思われるかもしれないが、その説得力。
おさんは、嫉妬や悲しみの心情を言い立て、そうしながらも自分や子供の衣類を治兵衛のために質入れする準備をする。治兵衛もおさんの気持ちに気づき、それに応えてシュン…となるが、おさんはそんな治兵衛のひざを「ぽん」と叩いて、気を取り直させる。
これは小春にはできんわ。おさんはやっぱり治兵衛の妻で、過ごした時間の長さが小春よりもはるかに長く、その分、治兵衛を思う気持ちも濃厚でなんだなと感じた。治兵衛はそのことに気づいていないとしても、これができる度量の大きさ。この「ぽん」には、ここからは湿っぽさを振り払い、これからもまた治兵衛と一緒に生きていくという気持ちが感じられた。励ますような膝ぽんの、その自然さがすばらしく、おさんという人のことが少しわかった気がした。これができるのが、和生さんのおさんのすごさだと思った。
(治兵衛がそんなおさんに「おかあさん」に甘えるようにシュンとなるのも、ヤツにイラつく要因なのですが!)

そして2つ目。これが大きい。
自分のおさんへの違和感の正体は、苦心の原因は社会構造にあることに本人が気づいていない点ではないかと思ったこと。
心中天網島』の感想としてよく耳にするのは、「おさんが何故そこまで治兵衛をかばうのかわからない」という疑問だろう。私もそう思う。これには、大抵、「江戸時代は体面が何より大事だったから」とか「“女子は相身互”が描かれているから」という“答え”が用意されている。そりゃそういう理屈(言い訳?)は無限にくっつくんだろうけど、では、そんな価値観が通用しない現代で、この作品を上演し続ける意味は何なのだろう? 舞台の上で、何を表現するのだろう? それがなくては、ただただ不快な話でしかない。*1 

近松以後の後世の時代物では、女性登場人物は自らを縛る社会構造に従わざるを得ないゆえに悲劇に巻き込まれることに非常に自覚的だ。たとえば『伽羅先代萩』の政岡は、愛する息子千松を見殺しにせざるを得なかった社会的矛盾を自覚している。忠義第一という社会構造と人間の感情との矛盾、社会の歪みを十分に認識しており、その葛藤が物語の最大の見所だ。これまで自分がそれを肯定してきたこと、そして実行したことを含めて葛藤している点がドラマになっている。社会通念を守ることこそ美徳という建前を鵜呑みにはしていない。むしろ、彼女たちはその葛藤の苦しみを大声で泣き叫ぶ。

心中天網島』は建前の美徳のみの世界になっている。その中だけで生きている人の話(あるいはそれが戯曲の限界の時代の話)なんで、そういうもんなんだけど、後世の作品を知っていると、まったく物足りない。
ただ、そんな中でも今回の『心中天網島』は、ある程度腑に落ちた。それは、「おさんが社会の強要してくるものの異様さに気づいていない」ということ自体を気づかされる舞台だったからだと思う。和生さんのおさんは非常に聡明に見えるが、それでも自らの不幸の本質的要因に気づいていないことが、この物語自体を含めての構造的悲劇だと感じられた。それは戯曲(近松)の意図ではなく、出演者による現代的解釈としてのもので、演技上、意図的な違和感が残っているとでもいうのかな。それを具体的に表現できる場面があるわけではないので、総体としての印象論だが、演技の流れの整理、ボリューム感やメリハリ付けのチューニングによるものがかなり大きいと思った。治兵衛に選ばれなかった悲しみを過度に強調したり、芝居で言い訳を加飾しなかったのが、私にこれを感じさせたのだと思う。

この点に関しては、和生さんの人形だけではなく、床の錣さんの語り方によるものも大きいと思う。錣さんは、現代ではとても理解できない浄瑠璃の倫理観や、それを舞台でどう表現するかに非常に自覚的だと思う。以前、そういった「とても理解できないこと」そのもののの葛藤を、そのままに表現するという旨を話していらっしゃた。その話を聞いたときは、この人すごいこと言うな、でもどうやって実際の舞台の上でそれを実現するのだろうと思った。が、舞台で聴くと、本当に、理解できないこと、その葛藤がそのまま表現されていた。ある意味ストレートだった。そして、そのことによって、変に説明の整合性を作り込むよりも、かえって物語が理解しやすくなっていた。
また、錣さんはクセが強いけれども、意外と芝居がかっていない。たとえば「母」だとか「妻」だとかの類型としての役割より、個々の人格表現を行っている。ウェルメイドな社会的類型の文脈に安易に寄りかからないところが「紙屋内」にかなり適合したのだと思う。そして、錣さんの持っている暗さ(陰を通り越した、本当の暗さ)も、近世の町家やおさんの抱える無自覚の闇をあぶりだしているだろう。

言うなれば、今回私は、和生さんの芝居、錣さんの語りによって、不条理劇のように、(現代的な感覚からすると)筋が通っていないこと自体が(現代の上演における)テーマだと感じた。近松作品は女性登場人物に自我がないし、全員言動が同じ。その違和感自体は拭えない。誰が出演しようが、依然として好きではない。それでも今回、そんな作品をいま上演する過去と現代の結節点の可能性を知ることができて、感慨深かった。

 

もちろん、おさんには、いつもながらの和生さんらしさ、つまり、気高さ、気丈さがしっかり表現されている点もすばらしかった。人形の外見だけにおさまらない美人感があった。和生さんの美人度、最近、ますます高まっている。

 

 

 

そして、玉男さんは、やっぱりすごい、と思った。

「紙屋内」であれだけおさんに対して反省しておいて、次の「大和屋」でなんでいきなり小春と心中する決意をしてるの? というのも、『心中天網島』に対する疑問のひとつだと思う。しかし、治兵衛の演じ方によって、この不整合も意外と自然に感じられるようになるのだなと思った。

まず、あのクズ(治兵衛)、なんだかんだ言うて、おさんに愛されるに足る男なのだ。
治兵衛は、顔はいいけど性格がだらしないダメ男だと、みんな、思ってるでしょう!?
最後までダメな男だけど、色男だから仕方ないと、みんな、思ってるでしょう!?!?
でも、違うわ!!!
こいつ、だたのクズやないで!!!!
本人なりに真面目にやっとるわ!!!!!
真面目の方向性がおかしいだけで、本人は、大真面目!!!!!!
「おれもおさんと同じくらい、真剣に小春に向き合おう」と思った結果がアレなのでは!??!!!????

「本人は大真面目のめちゃくちゃやばい人」、これぞ、玉男さんの真骨頂だと思う。
玉男さんの治兵衛は、物語の進展につれて、どんどん正気づいていくように感じられた。「河庄」の治兵衛は、目線がふらつき、夢うつつ。浮ついた気持ちだけで行動している。魂が身体より前に出てしまって、それがフワフワ引っ張られているようだ。「紙屋内」に入っても、最初はウネウネ泣いたり、マゴマゴしている。しかしおさんの話を聞き、また、実際に彼女が行動でその心意気を示すことによって、治兵衛もまた最後にはおさんをしっかりとした眼差しで見据えるようになる。懐手で思案してからの表情は真摯になり(懐手ポーズ、玉男さん得意だな)、魂が彼の胸に戻ったような印象。おさんの語ったことや行動をちゃんと理解し、本人なりに真剣に事態に向き合っているのだ。そして、その真剣な姿を見ると、おさんがあれだけ治兵衛に惚れているのも、わかる気がした。「紙屋内」後半の治兵衛は、凛々しく透明感に満ちて、普通にいい男だもんね。
ただ、不幸だったのは、その真面目さの行き着く先が、心中だったというだけで……。

もうひとつの玉男さんの治兵衛のすごさは、ふわ〜っとしたり、へにょ〜っとしていたり、ショボボーンとしていたり、キリっとしたりという感情の変化がバラバラにならず、ひとりの男性の内面の揺れ、多面性として自然に表現されている点。治兵衛は段ごとに言動の雰囲気が変わってしまうのでコントロールが難しいキャラクターだと思うが、今回は「紙屋内」で内面の変化がしっかりとあらわれていたため、全編がひとりの人物の多面性としてシームレスに繋がっていた。特に、「紙屋内」の懐手をしての思案からすっくと背筋を伸ばした姿への移行は印象的だ。「河庄」の浮つきと「大和屋」の深刻さをつなぐものになっていた。

このような治兵衛の内面描写が、「お芝居の見どころ集」的な拵えごとではなく、「真性」のものに見えるのも、すごい。こういった「いかにも芝居」という類型的な性格の役の場合、「その役を演じている役者」を演じるように人形を遣ったり、語ったりする人がいる。いやわかりますよ。そうする理由と気持ち。しかし、玉男さんはそういったワンクションを置かず、ダイレクトに役そのものを表現している。自然体でやったらこうなりました……なわけはなく、強い意思を持ち、自分を信じることができなくては、出来ないと思う。逃げがない。そして実際にそれを表現し得ていることに、感動する。
意思の強さやセンスも重要とはいえ、それが成功するかどうかは、天性の才能としか言いようがない。普通、そんな「生(き)」のものを不用意に出してしまうと生々しくなってしまい、「本物」をお出ししないでくれ!と言われてしまう。でも、玉男さんは、なんか、イイんだよね……。内面から滲み出るような愛らしさがあるからかな……。あの愛嬌、まじ、才能…………。愛嬌だけは、自然体なのではという気がする……。その愛嬌こそトキシックなのが、まさに、オーガニック(?)。玉男さんの天然由来成分100000%系の役では、団七(夏祭浪花鑑)、忠兵衛(冥途の飛脚)、六助(彦山権現誓助剣)が好きなんだけど、治兵衛もかなり好きになった。

 

 

 

以下、個々の段に関して。

北新地河庄の段。

「河庄」の治兵衛は、28歳という年齢設定よりも若い雰囲気だった。気持ちに引っ張られて、胸から先に歩いていっているような動き。よく言われる、文楽では出のときに文章通り「とぼとぼ」出てはいけない、それは時系列的にはもっと前のことで、ここでの治兵衛は小春に客がついたと聞いて焦っているのだ、という件。今回の治兵衛は、「とぼとぼ」でも焦りでもなく、スゥーッとした、吸い寄せられるような歩み。河庄の前で周囲を伺うためにクルリンと回転する動きや、ソワソワッとした感じ、なんか独自の妄言を並べ立てるくだりで一人で納得したり、プイするような演技も可愛い。落ち着き皆無の小動物のようだ。下手を見てのごくわずかな顎こくこく(周囲の様子伺い?)は可愛かったが、いつもやっているわけではなさそうだった。

格子に縛り付けられて恥じている様子は玉男さんらしいヘタレ演技で、自然なショボさがとても良かった。自然なショボさって何だ。5月東京公演の紀有常役で「デカすぎだろ!!!!」と観客全員(巨大主語)に突っ込まれた玉男様とは思えないくらい、ちっちゃく縮こまっている。孫右衛門に叱られてぴえん🥺するくだりも、オーガニックすぎる情けなさで、とても良かった。

ただ、怒りの演技は、良くも悪くもかなりシッカリしているなと思った。アホの強気の範囲ではあるが、身長187cmくらいありそうだった。崩れた髪と着付で小春に食ってかかる大きな動きそのものは美しい。

服のVネック的な感覚だろうか。「河庄」と「道行」の治兵衛は、かぶった手ぬぐいの額の上の部分をちょんと摘んで尖らせているのが良い。顔をシャープに見せるためかな?

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孫右衛門〈吉田玉也〉は、治兵衛よりかなり年上の雰囲気。玉男さん、玉志さんの孫右衛門は治兵衛よりも数歳程度年上に感じていたが、玉也さんの孫右衛門は一回り、二回り違うように感じる。芝居の内容通り、本当に治兵衛のお父さんみたい。単純なところで、人形の姿勢が前傾しがちなので、年っぽく見えるから、というのもある。
全体的な話だが、武士に化けた町人でも、町人に化けた武士でもなく、「芝居のそういう役」になっていた。個人的にその良し悪し自体は微妙だと思ったが、こういう点はほかのお客さんがどう感じているか、知りたいな。
たとえば手にしている刀の扱いなど、孫右衛門は人によってかなり差が出る役だと思う。

 

 

小春は、「河庄」では緊張している印象だった。
勘十郎さんらしからぬ生硬さ。本心ではないことの表現なのかもしれないが、簑助さんの小春の幻影に引きずられているとか、そういうことなのだろうか。たとえば、火箸を使った演技が難しい、と言われていること自体に囚われすぎているのかなと感じた。勘十郎さんの魅力というのは、技術的な巧さや名人芸的な味わいではなく、本人の個性、「らしさ」によるものが大きいと思う。本人がやりたいことや、いいと思ったをそのままダイレクトにやって欲しいと思った。
ただ、この「んー」感には、そもそも、勘十郎さんに、自我がなくて耐えるだけの女はまったく似合わないという問題がある。小春自体がいくらいい役であっても、自己主張がない小春は、勘十郎さんには不自然に写る気がした。

なお、孫右衛門へのもたれかかりは、体重をかけるというか、目上の人へ泣きつく感じ。恋愛絡みに見える感じにはしていなかった。

しかし、小春はなぜ襟の返しをあんなことにしてるんだ? 内側の襦袢(的な襟)を摘んで大きく引き出し、外側の襟に乗せて縫い付けている状態じゃない? 過去の舞台写真を確認したけれど、以前の小春役ではそこまではしていない気がするが……。意図的だと思うが、なぜ。

 

太兵衛〈吉田文司〉と善六〈吉田簑一郎〉は本当に人形っぽい動きだった。ツメ人形から三人遣いへ進化したばかりのヤツっぽい。もう少し作り込みしてても良さそうだが、これはこれでクセになる。演技はいろいろと研究中のようだった。善六は、浄瑠璃を語る前に眉毛をツバで整えるのをやる/やらないと、試していた。可愛いけど、最初にやっちゃうと、一旦退出する前に同じフリがあるのとかぶるからなあと思っていたら、すぐやめていた。
この二人が活躍する冒頭部、今回は睦さんだった。善六&太兵衛の素人義太夫は、ジャイアンリサイタル系だった。本人の意図より客席をソワつかせている気がした。

花車〈桐竹紋吉〉は小料理屋の女将みたいだった。色街の雰囲気というより、やや一般的な商売人寄り。あまり周囲にリアクションはしない感じだった。
河庄の亭主はまたも玉翔さんだったが、この役、そんなにリピートさせる必要ある!??!? そして、亭主、眉毛、薄すぎ……? と思った。

 

「河庄」全体としては、とっ散らかってるわりにクドいなあというのが正直なところ。力みすぎて、時代物状態のような。大げさな古めかしさは、「伝統芸能らしい」と良く取る人もいるとは思うが、世話物らしさの表現は難しいと思った。

清治さんの三味線はその点、洒脱で遊所らしい雰囲気があり、良かった。

 

 

 

天満紙屋内の段。

おさん全体のすばらしさについてはすでに書いたので、細かい演技について。
「女房の懐には鬼が棲むか蛇が棲むか」で懐手になって軽く体を振るくだり。女方の袖振り、私の好きな演技だ。おさんの袖振りは、彼女は一般人だけど、この物語で一番美麗だな……。と思った。

質屋への荷物を作るために、たんすから着物を一枚一枚、取り出していくくだり。着物を一枚ずつ風呂敷に乗せるたび、少しずつ違う何かを考えているようだ。目元が重く感じられる。着物にこもった思い出を噛み締めているのだろうか。それとも、本当はひどく悲しい内心を、着物を数えて整えることで、落ち着かせているのだろうか。詞章は一家の境遇に着物の柄等の名称を織り込んだものだが、浄瑠璃によくみられる言葉遊びの文辞を、ただの文辞だけにさせないとしたら、こういうところにあるのかな。

おさんは、段切の嘆きを大きく持っていくことで、紙屋に落ちるドラマの陰影を色濃くしている。いよいよ家を出るときに、おさんが門口の柱にがっくりと巻きつく姿、そして、和生さんとは思えない速さで走り去っていくのが、なんとも悲しい。おさんは「紙屋内」中盤までは治兵衛をしっかり見ているのに、去っていくときは目をそらして走っていく。そして、あんなにきちんとした奥さんなのに、身だしなみを整える間もなく、前かけをつけたままであることが、なにより哀れだった。

それにしても、和生さんは三五郎に質屋の荷物を背負わせるとき、なにを言ってるんだ? 私が観た日は、毎日何か言っていた。三五郎役の人の所作が変なわけではないと思うので、「はい、できたでー」とか、そういう連絡事項?

 

五左衛門〈桐竹勘壽〉が、非常に良かった。出てきたときから怒りMAX、まるでもんがまえ(「門」の字)が歩いているような人形の構え方で、絶対こっちの言い分聞いてくれないオーラがある。ガションガションした感じだが、勘壽さんらしい気品ある老爺だ。五左衛門はたんすや衣装櫃がカラなのを知ったあと、下手に座っている娘夫婦から目をそらし、上手側に目をやって悔しげな表情をしているのが印象に残った。

この話で一番まともで人間味があるのは、五左衛門だね。おさんをあの家に置いておけないというのは、親として当たり前だと思う。嫁入りから相当の年月が経っているだろうに、乗り込んでくるのがすごいわ。勘壽さんの表現する五左衛門は、「紙屋内」のドラマの盛り上がりに欠かせない存在だった。

 

治兵衛のこたつ演技はすごかった。おさんに「ホラホラお母さんが来たから!」と起こされるくだりの幼稚な動き。「本物」と思った。そして、夫婦二人きりになってからおさんの話を聞いているくだりの、こたつぶとんを目元に当てて涙している姿のショボボン具合。自然すぎる。本当に「本物」なんだと思った。あの幼稚性をてらいなく表現できるのが、すごい。後半の真面目にキリっとした姿が引き立っていた。
キリッとしているといえば、息子の勘太郎が治兵衛にまあまあ懐いている感じだったのを見て、一応、パパだと思ってもらえてたんだ……と素で思った。

 

孫右衛門が治兵衛から奪って庭へ投げつけるそろばんの処理、2019年11月大阪公演で玉志さんがやっていたやり方はうまいな。玉志孫右衛門は、叔母を連れて帰るときに拾い上げ、治兵衛の目をしっかり見てそろばんを渡しなおしていた。孫右衛門のように真面目で几帳面な商人はそろばんを地べたへ投げっぱなしにはしないというのと、商売の象徴であるそろばんを治兵衛にしっかり渡すことで、きちんと家のことに身を入れるよう、あらためて治兵衛に伝えているのだろう。あの玉志さんのやり方が誰かの踏襲なのか、それとも自分で考えたことなのかは、調べてないんでわかりません。

お玉〈桐竹紋秀〉は、背負ったお末を下ろす前に子供の顔を見る(背中側を見る)のが可愛い。三五郎をマジ叩きするのも良い。パン!というイイ音が客席に響いていた。
それにしても紋秀さんは、ヘアスタイルのペカぶりが史上最大級だった。表面のトゥルトゥル感が尋常じゃない。コームの目がはっきり入っているから、より一層ペカ感が目立つのか? 整髪料はいったい何を使っているのか、教えて欲しい。

 

 

 

大和屋の段。

「大和屋」から「道行」の小春は良かった。喋りちらしたり、激しい自己主張をすることはないが、少ない言葉のうちに、治兵衛に伝えたいことがいっぱいあるのだという懸命さが滲んでいた。
しかし勘十郎さん、「十種香」の八重垣姫に続き、「扉の隙間からイケメンを観察」のムーブが『シャイニング』状態だ。常に「マジ」なところが勘十郎さんの女性役のいいところなんですけど、すごい。

小春に対する治兵衛のリアクション(小春が差し出した手に頬擦りしたり、にぎ…としたりする)はアドリブなのだろうか? 日によって違う気がするが、勘十郎さんが手を差し出してくるタイミングによって変えているのか。頬ずりは毎日しているわけではないのかな?と思った。

それにしても番太郎〈吉田玉征〉! まじでスゥーっと通り過ぎてるけど、いいの? あくびするとか、くしゃみするとかして、客席にちょっと顔見せてみてはいかがでしょう!?!? 真面目か?????

「紙屋内」では詞章に「開けて惜しげも」「開けて悔しき」という文句があるが、「大和屋」では「開けて嬉しき」がある。意図的な対比だと思うが、感触的に微妙な印象がある。

 

 

 

道行名残りの橋づくし。

大川に住む生き物たちが、二人の行く末を悲しんで歌っているようだった。

人形はしっとりと落ち着いた雰囲気。
小春は背中を見せる後ろ向きの所作に違和感がなく、自然な流れ。勘十郎さんはこういうの、以前は勢いつけて、思いきりやってらしたけど、そういうのがなくなったよなあ……。
治兵衛が小春を刺したときに、帯を手前側に投げるのは、飛び散る血のようで、効果的。段切は、治兵衛もさりげなく死んでいるのね。左手をぱたりと落としているのが、哀れだった。

 

 

  • 義太夫
  • 北新地河庄の段
    中=豊竹睦太夫/野澤勝平
    前=豊竹呂勢太夫鶴澤清治
    後=竹本織太夫/鶴澤清志郎
  • 天満紙屋内の段
    口=豊竹咲寿太夫[前半]竹本小住太夫[後半]/鶴澤寛太郎
    切=竹本錣太夫/竹澤宗助
  • 大和屋の段
    切=豊竹咲太夫/鶴澤燕三
  • 道行名残りの橋づくし
    小春 竹本三輪太夫、治兵衛 豊竹睦太夫、竹本津國太夫、豊竹咲寿太夫、竹本文字栄太夫/竹澤團七、竹澤團吾、鶴澤清𠀋、鶴澤清公、鶴澤清方

  • 人形役割
    紀の国屋下女=吉田玉誉、紀の国屋小春=桐竹勘十郎、傍輩女郎=吉田簑之、花車=桐竹紋吉、江戸屋太兵衛=吉田文司、五貫屋善六=吉田簑一郎(7/21-27休演、代役吉田簑紫郎)、粉屋孫右衛門=吉田玉也、紙屋治兵衛=吉田玉男、河庄亭主=吉田玉翔(7/23-8/4休演、代役吉田和馬)、女房おさん=吉田和生、倅勘太郎=桐竹勘昇、丁稚三五郎=吉田文哉、下女お玉=桐竹紋秀、娘お末=豊松清之助[前半]吉田和登[後半]、おさんの母=桐竹文昇、舅五左衛門=桐竹勘壽、大和屋伝兵衛=桐竹勘介、夜廻り=吉田玉征

 

 

和生さんのおさん、玉男さんの治兵衛が舞台上に立ち上げる世界は、とてもリアリスティック。決して嫌いあっているわけではないのに、どうにも行き違ってしまう二人が一瞬同じ方向を向くことができたにもかかわらず、決定的に行き違ってしまう悲劇。治兵衛と小春の心中は、この夫婦の悲劇を盛り上げるためのサイドストーリーなのかなと思わされるほどだ。

以前、『心中天網島』の感想として、「治兵衛・小春の心理が決定的に変化する瞬間やその理由を外し、ドラマの山場なく物語が構成されている。それをどう見せるかは難しいなと思った。」と書いた。しかし、今回の舞台だと、少なくとも治兵衛の心理が決定的に変化する瞬間は、「紙屋内」の中で描かれていたと感じた。治兵衛が真面目になる瞬間としてそれはあらわれていたと思う。そのためか、これまでの上演を観たときよりは、物語全体のまとまりや、深い明暗が感じられた。

 

今回、過去の舞台写真を見ていて、気づいた。和生さんは、2019年9月東京公演での小春役では、「道行」の衣装の着方を変えてたんだな。直前の「大和屋」で治兵衛が着せかける羽織を着ている。普通(?)は黒小袖のままだと思うが、文雀さんのやりかたを踏襲していたのだろうか。
そういえば、和生さんは今月も文雀さんの紋の入った袴だった。師匠の七回忌とかで、自分の中だけで何かをやっているとか、何か意味があるのだろうか。勘十郎さん・玉男さんは、「河庄」のみ袴を変えていた。

 

今回のプログラムインタビューは玉也さんだった。玉也ハウスのビオトープ、気になるわ。
インタビューに載る人、ほぼ決まってきているが、制作側は幅広く検討したとしても、技芸員さんが取材を受けるかどうかがあるのかね。勘壽さんのインタビューは是非行って欲しいです。

 

上演内容とはまったく関係ないが、錣さんが切になったので、白湯出しに弟子がつくようになった。弟子の子の膝行初心者感、良かった。呂太夫さんの弟子の子も、膝行が「こうかな…!?」みたいな感じなのが、良いです。

 


↓ 2019年9月東京公演の感想。あらすじ付き。


↓ 2019年11月大阪公演の感想。


↓ 2019年大阪市立大学「上方文化講座」『心中天網島』のノートまとめ

 

 

 

*1:おさんへの違和感については、『心中天網島』は江戸時代ですら改作されまくっていたので、その時点で「はぁ?」と思われてたんとちゃう? と思います。改作では、おさんに自我ががあって(これ重要)心理描写が丁寧だったり、治兵衛もクズ自覚を持っていて反省しておさんを気遣ったりと、だいぶ理解ができる範疇におさまっています。そして、小春の内面描写に踏み込んでいるのも特徴的。『心中天網島』の改作群については、過去記事(文楽 上方文化講座2019(2)『心中天網島』解説−原作『心中天の網島』・改作『心中紙屋治兵衛』・その他 大阪市立大学 - TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹)をご参照ください。

文楽 7・8月大阪夏休み特別公演『花上野誉碑』『紅葉狩』国立文楽劇場

今月のプログラムには、「実録」研究で有名な菊池庸介さんの、田宮坊太郎物の実録についての寄稿が載っているのが良かった。



 

 

『花上野誉碑』志渡寺の段。

文楽を見始めたばかりの2016年に和生さんお辻で鑑賞し、その鬼気迫る表情に衝撃を受けた演目。もう一度観たくて、外部公演の演目リクエストに書きまくってきたけれど、採用してもらえず(それはそう)。本公演で再度観ることができて、良かった。

 

[初段〜三段目までのあらすじ]

讃岐丸亀家の足軽・民谷源八はその功を殿様に愛でられて出世するが、腕を争う武芸指南役・森口源太左衛門に疎まれる。その頃、讃岐に國府八幡宮が造営されることになり、鎌倉よりの勅使が儀式に訪れる。森口はこれを機に鎌倉の目に留まることを目論む。
勅使を迎える饗応の仲、事件が起こる。源八の妻は、元は品川の遊女・其朝であったのが殿の計らいで武家の奥様になった身であった。しかし、遊女屋の亭主と組んだ森口の腰巾着(アホ)の策謀により、身請金が不足していると言い立てられ、遊女へと戻されてしまう。源八はやむなく其朝を離縁し、國府八幡宮へ向かうが、その途中、森口によって暗殺される。源八の遺骸を発見した槌谷内記は、胸に刺さった笄*1を見つけ、密かに持ち帰る。
こうして民谷家は崩壊状態となり、二人の間に生まれた坊太郎も追放となって、源八と旧知の仲であった志渡寺の方丈へ預けられることになる。

 

[今回上演部分、四段目]

源八の死から5年後。志渡寺では、毎年恒例の剣術試合が行われることとなっている。今年は森口源太左衛門と槌谷内記の勝負に注目が集まっていた。かねてより鎌倉武将から武芸の達人をよこせという要望がきており、この勝負に勝った者が鎌倉行きの栄誉を手にするのだ。

数多くの弟子〈数馬=吉田玉翔、十蔵=吉田玉誉、官蔵=吉田玉彦〉を引き連れて志渡寺を訪れた森口は、出世の願望を成就すべく、勝負の前に内記が口にするお神酒に毒薬を混ぜ、心身を竦ませることを策謀する。
さて、槌谷内記〈吉田簑二郎〉の妻・菅の谷は、亡くなった民谷源八の妹だった。内記は、にわかに口がきけなくなった甥・坊太郎と、かつて坊太郎の世話をしていた乳母・お辻の不遇に心を痛めていた。内記と方丈〈吉田玉輝〉が語らっていると、菅の谷〈吉田勘彌〉がお神酒を持ってやってくる。その酒を口にした内記はたちまち気分が悪くなり、方丈に案内されて客殿で休むことになる。

にわかに空がかき曇り、怪しい風が巻き起こる中、弟子僧たちがみずぼらしい身なりの女〈豊松清十郎〉を引きずってくる。主人の命日のお参りに来たという女をつつき回す弟子僧たちの中に坊太郎〈吉田簑太郎〉が割って入り、止めてくれるよう必死に拝む。弟子僧たちが今度は坊太郎をいじめようとしたところ、菅の谷がそれを留めて、弟子僧たちを退散させる。実は女は坊太郎の乳母・お辻だった。お辻は、亡くなった主人・民谷源八の敵を討つべき坊太郎が口のきけない病にかかったことを悲しみ、病を得て食事が喉を通らず、果物だけに命を繋いでいると語る。菅の谷はお辻を心配し、内記や方丈にも会わせるとして、まずは坊太郎の部屋で休息するように言う。

坊太郎とお辻を見送る菅の谷のもとへ、内記が森口との勝負に負けたという知らせが入る。慌てて夫のもとへ走りだそうとする菅の谷だったが、森口と内記、方丈が座敷へ戻ってくる。森口は内記との盃を望み、坊太郎に酌をとらせる。坊太郎は内記には酌をしたものの、森口への酌は拒否する。怒った森口が坊太郎を引き据えると、坊太郎の袂から2、3の桃がこぼれ落ちる。それは、殿に献上するまでは仏に供えることも叶わないという、志渡寺の名物の桃だった。菅の谷が庇うのも聞かず、森口は坊太郎を庭先へ蹴落とす。そこへお辻が走ってきて坊太郎を抱きかかえ、赦しを乞う。お辻を斬りつけようとする森口を方丈が引き留め、出家の立場から森口の傍若無人さを戒めて丸め込む。森口は、始終怯えて何もできない内記を揶揄し、さんざんドヤり散らしまくって帰っていった。

内記、菅の谷、方丈が去っていくと、お辻は坊太郎に懇々と言い聞かせる。お辻が食事もできない病と言っていたのは、実は嘘だった。お辻は、父の敵を討てないうちに口がきけなくなった坊太郎の病の快癒を祈るため、金毘羅大権現に立願をかけ、火のものを絶って自分の身を捧げようとしていたのだと告白する。もう二度と盗みはしないでくれと懇願するお辻に、坊太郎は地面の砂に何かを書きはじめる。それによると、坊太郎は父の敵を討つことは忘れてはおらず、桃を盗んだのは、乳母がこのままでは死んでしまうと思い、彼女がまだ口にできる果物を食べさせようとして、つい手を出してしまったのだという。それを見たお辻は坊太郎の心遣いに感激し、民谷の一家の身の不遇を嘆き悲しむ。
お辻は心を取り直し、金毘羅大権現に命を捧げて坊太郎の病を本復させると言い出す。尋常ではない乳母の様子に坊太郎がまごつく中、お辻は懐剣を腹に突き立て、金毘羅大権現へ一心に祈りを捧げる。しかし坊太郎はただ困惑するばかりで、お辻の願いは叶わない。狂乱したお辻が坊太郎に掴みかかっていると、内記が姿を見せ、坊太郎に暇乞いを許すと言う。すると、これまで喋れなかった坊太郎がお経を唱えはじめる。お辻は坊太郎が口をきけるようになったことを喜び、坊太郎はお辻に謝る。実は、坊太郎の口がきけない病というのは、詐病だった。
5年前、源八の遺骸から笄を見つけた内記は犯人を悟り、坊太郎にまでその魔手が及ぶのを避けるため、出家にして志渡寺へ預け、口がきけない振りをさせていたという。坊太郎がこれまで全く喋らなかったのは、内記のこの言いつけを守るためであった。お辻は自分がしてきたことは無駄であったかと嘆くが、内記は、密かに武芸を教え込んだ坊太郎が子供とは思えないほど腕を上げたのは、お辻の祈願と金毘羅大権現の利生によるものだろうと言う。菅の谷は、内記が坊太郎を東国の武芸の名門・青柳家へ送れというお告げの霊夢を見たことを語り、東国へ行けば生き別れの母とも巡り会い、やがて敵を討って父母の菩提を弔うだろうと言う。また内記は、弟子を森口に靡いたと見せかけて懐へ入り込ませたり、今日の森口との立ち会いに意図的に負けたことは、源八殺害の犯人・森口の内実を探って坊太郎の敵討ちを見守れるようにという考えだったことを明かす。
今にも命尽きようとするお辻に、内記は坊太郎の武芸鍛錬の成果を見せるべく、弟子・数馬、十蔵を呼び出し、坊太郎に腕前を披露させる。数馬と十蔵の木刀を打ち落とす坊太郎の勇姿を見たお辻は、現れた金毘羅大権現を伏し拝み、息を引き取った。

「志渡寺」は、「しどうじ」と読む。*2
ちなみに、お辻をつつきまわす弟子僧ズ(どうでもいい顔すぎて嬉しくなっちゃう)がワキャワキャ言っている「卵塔場(らんとうば)」とは、墓場のことだそうだ。*3

人形は2016年上演より出演者がひとまわり若返って、中堅公演的な趣き。それぞれの方に、チャレンジすべきことが多い配役になっていたと思う。そして、いずれの人もそれに応えた舞台になっていると感じた。「志渡寺」は、あまり有名でない演目ながら、イメージ的に格が高く、また、難しい演目だと思う。ストーリー自体も類型におさまらない異常譚だ。にもかかわらず、初日からとっちらかりもせず、よくまとまっていた。初日から3日目までを連続して観劇したが、若干不安だったり噛み合いがうまくいかないところも2日目にはすぐに改善され、いまの中堅層の技量を感じさせられた。
叶うならば、(最近いつも書いている気がするが)いま一歩の踏み込み、登場人物の狂気が表現されれば、さらに舞台としての魅力が高まると感じた。

 

悪役、森口源太左衛門は玉志さん(前半配役)。初日から思い切り振り抜いて、ド派手でラフな雰囲気に振ってきたことにびっくりした。玉志さんはこれまでも京極内匠(彦山権現誓助剣)、松永大膳(祇園祭礼信仰記)で大悪人役をやっているが、いずれも優美でクールな雰囲気があったので、その路線でいくかと思っていた。しかし、今回はかなり大仰でドライな方向に振っており、いつにない大胆さだった。とはいえターンの鋭さや扇の扱いには気品が光り、ただのイキリではない大物感がある。また、芸そのものに清潔感があるため、いかにも芝居らしい悪役といえど、いやらしいベタつきや脂浮きがなく、見た目だけは綺麗な毒虫(なんか表面が甲で覆われた硬い系のやつ。サソリみたいな)のような魅力があった。

森口源太左衛門は速攻ブチ切れる血圧の高い役で、いちいちクソでかい声と大仰な態度で威圧してくる。坊太郎に酌を拒否され、バチ切れして三方に叩きつけた盃がバカーーーーンと派手に割れるのは、めちゃくちゃびびった。舞台の人形たちと一緒に、前方席のお客さんたちも、ツメ人形のようにピココ…!としていた。盃はあまりにも綺麗に粉砕されていたが、土とか(100均の皿的な)、お菓子とかの特殊素材でできているのかな。

森口源太左衛門には、独特の振りが多かった。お辻に子供いじめの図星をさされた際の不自然な扇のあおぎ方、また、その扇越しにお辻を汚そうに見る所作。人形遣いは屋体の中にいるままで、人形のみ屋体(縁側)から下ろして舟底側に立つといった特殊な遣い方。あるいは、坊太郎を右足で踏みつけながら左手に刀をかかげて内記を制する型など。型はいずれも非常に鋭く、美しく決まっていた。が、最後のほうの、右足は深く折り曲げ、縁側から左足を下ろして決まる型は、結構難しそうだった。上半身は一発で決まっても、足がふらつくと、客席からの見た目として、結構厳しい。

そうなんですよ。突然おそろしくネガティブなことを書くが、初日から2日目までの森口源太左衛門は、足がめちゃくちゃやばかった。しばしば下手な足遣いがいるのはわかりますよ。生命を宿したパイナップルが歩いてるのかっていう奴とか。勉強中ということで大抵は目をつぶっておりますが、今回は、破れちょうちんがぶら下がってんのかと思った。私は文楽にお化け屋敷要素は求めていない。森口源太左衛門より先に私のほうがバチ切れしそうになった。しかし、3日目にはましになっていた。玉志サンも気にしていたようだし、誰かに注意されたのだろうか。
厳しいことばかり言ってもなんなので、足の良かったところを書くと、森口源太左衛門が最初に下手から出てきて、屋体へ上がるところ。玉志サンは屋体へ上がるときの所作にこだわりがあると思われるのだが(段差を越えるときの人形の差し上げ方に結構細かい配慮があります)、足もきちんとそれに応じて、ちゃんと「はきもの、ぬいでます……」的にモゾ……としているのが良かった。
森口源太左衛門は、庭先にうずくまるお辻と坊太郎をまたいで(正面を向きながら足を大きく上げて、その下にお辻・坊太郎をくぐらせながら下手へ移動する)帰っていくなど、足が活躍する場はいろいろあった。せっかくのいい役の足だ、思い切りがんばれ!!と思った。

今回は、玉志さんがラフで線の強い方向に振り切るという新しい境地を観られて、良かった。森口源太左衛門は主役ではないが、今後、舞台全体を引っ張るようなド派手さを求められる主役を遣うときに、過去の京極匠や松永大膳に加え、この経験が活きてくるのではないかと思った。端正さ、気品、自然さといった要素は現状でも高い完成度に至っている人だと思うので、今後は派手系の演技やそれが必要とされる役の進展に期待したい。

 

お辻は清十郎さん。立女形を誰よりも得意とする和生さんではなく、清十郎さんが配役されたのは、チャレンジだなと思った。お辻は難しいと思う。時代物の老女方だが、見た目は決して美麗ではなく、身分立場がわかりづらいのに、主役。行動は常軌を逸している。和生さんのお辻が描いていたのは、本当の血縁はなくとも、至高の愛は存在しうるという浄瑠璃ならではの高潔な狂気の世界だった。が、清十郎さんは、よい意味で普通の人間、普遍的な母の愛を感じるお辻だった。

実直な芝居で、作り物めいた誇張や華美さはなく、等身大の女性として描いていることも特徴的。それが単にもっさりとした素朴さではなく、混じり気のない純粋さとして顕れているのが清十郎さんの良さだと思う。これは本当に稀有な才覚だ。所作も正鵠を得た丁寧さになっており、その選別センスも好ましい。

ただやはり、金毘羅大権現に祈るところは、もっと鬼気迫る表情に振って欲しいと感じた。出来そうで出来ていない、実に惜しい部分だと思う。私は、お辻の坊太郎への愛は、ほのぼのとしたいわゆる「母性愛」の域を超えた、狂気の世界なのだと思う。お辻の金毘羅大権現への狂信、坊太郎への狂気の愛といった、過剰に思い込んだ狂乱が、この物語の説得力を高めるのだと思う。

お辻が噴水の水を浴びようとしたとき、清十郎さんが何かブツブツ言ってるのは、「なむこんぴらだいごんげん」と言ってるのかと思ったが、もしかして「袖めくれてる」とか 「両手束ねて」とか、左に話しかけていたのかな。見た感じ、いつも清十郎さんの左をやっている人だと思うが、珍しい役なので戸惑いも多かったのだろうか。初役は左も大変だ。

段切、お辻が死んでも、清十郎さんは人形を持ったままにしていた。

清十郎さんお辻で印象的だったのは、その若さ。お辻、和生さんで見たときは、中年の女性だが、時折老婆にも見える不思議な雰囲気だった記憶があるのだが、清十郎さんは人形の顔通り、比較的若く見えた。というか、髪を振り乱した後は、藤原紀香に見えて仕方なかった。

 

槌谷内記〈吉田簑二郎〉は品があり、どこか女性的で柔らかい雰囲気。毒を混ぜた(ということになっている)お神酒を飲み、右手の懐紙で口をおさえ、左手をついて前のめりにうずくまる仕草は、ほぼ女性の所作だろう。線の強い森口源太左衛門と対極的で、両者の性質の違いが際立っていた。
段切近くは、ひねりなどの動きが少し多すぎるか? 普段孔明の役を遣う人の持つセオリーとの違いを感じた。女方主体の人が品のよい立役(=頭を不要に動かさない役)を遣うと、かしらの繰り方が過多になってしまうことは、ありがちだとは思う。

菅の谷〈吉田勘彌〉は、武家の妻とは思えないほどのお色気だった。折り目正しい性格の武人の妻という役柄だが、しどけない人妻オーラが強かった。私が隣家に住む男子高校生なら、夏期講習に行っているにもかかわらず模試の点がどんどん下がっていって、二学期はじめの三者面談で志望校を落とせという話になってしまう。いや本当、あの、「昼下がりの情事」オーラは一体何なのか。あまり四角四面に遣っていないのも勘彌さんの魅力の一つではあるが、勘彌さんのこの、微妙にラフな方向に振るやりかたは、意図なのか単なる癖なのか、気になるところではある。
勘彌さんは22日から急病で休演。上演をそのまま続行しているところをみるとコロナではないのだろうが、年配の方なので、逆に心配でもある。代役で紋秀さんが良い役を遣えるようになったのは良かったけど、勘彌さんの回復と復帰をお祈りしています。

坊太郎〈吉田簑太郎〉は素朴な雰囲気。2016年の玉翔さんは子供らしい愛くるしさ、チョコマカとした所作が可愛かったけど、今回はもっとナチュラルな雰囲気。緩慢な動作ながら、どこか少し固いところがあるのが、そう思わせるのだろうか。ご本人の見た目そのまま(?)というか、『浦安鉄筋家族』のフグオくん的な感じというか……、とにかく丸顔オーラがあった。
余計なことはしないシンプルな演技だったが、はじめのほうでお辻が「果物に命を繋ぎ」と言うところで「ピョコ…」としているのが可愛かった。

 

床では藤太夫さんが良かった。藤太夫さんは、森口源太左衛門をやや乱雑、大仰に語っていた。気品はあるがやや人形の線が細い玉志さんの森口とは、良い組み合わせだと思う。老女方役、菅の谷とお辻は、最近の藤太夫さんの常道、「女方」的な語りだった。女性そのものを表現するのではなく、男性役者が年配女性を演じているときの口調だ。ただ、さすがに出演時間が長い役が2人もいると、不要な淀みや老醜めいたものを感じ、不自然に思った。

切の呂太夫さんも、お辻と坊太郎が砂文字で云々とやっているところまではよかった。しかし、お辻が噴水の水を浴びて金毘羅大権現に祈願するところは、普通に声が聞こえん……。一心に声を上げているところと、声がか細くなるところとのボリューム差を具体的に出して欲しいと思った。

出演者要因ではない部分で、気になったこと。
坊太郎が桃を盗んだのは、乳母に少しでも食事をさせるためと知ったお辻が「よう盗んでくださった」と坊太郎を抱きしめて泣くところ、客席で笑いが起こってしまっていたのは残念だった。江戸時代の窃盗は本当に重罪だったらしいので、今と初演当時とではこの場面の意味もだいぶ違うのだろう。けど、どう考えても客席の常連客率98%の状態でこれというのは、「伝統芸能は難しくないです、庶民的です、素直に観てください」というセールスが行き着く先はこういうことなんだなと感じた。「新口村」の孫右衛門の「今じゃない」で笑ってしまうのと同じ、物語への無理解、理解するつもりのなさ。どうしようもない部分があるとはいえ、そこを知らんぷりして「難しくないです、とにかく見てください」では、「伝統」演目の興行の維持も最終的に難しいだろうなと思った。

なお、「志渡寺」は全編にわたって寝ているお客さんが多かったのだが、段切間近、下手袖から、若手太夫によって「うばよ〜」という坊太郎の声がかかる。その声で、ずっと寝ていた人たちの目が覚めていたのが、「文楽劇場〜」って感じで、良かった。(それはええんかい)

 

前回観たときあからさまに謎だった大道具、水垢離の噴水。2016年上演では、「昭和のスーパーの冷蔵野菜コーナー」のようにビニールの帯を多数垂らしたものだったが、今回は、「揖保乃糸」のような細い紐をのれん状に垂らしたものだった。「人形と人形遣いが冷蔵コーナーのピラピラに絡まってる!!!!」状態にならなくて、良かった。*4

しかし、あのとがりももは何の品種なの? しかも小さくね? プラム?
あと、桃が転がり落ちたあとの着地のしかたや位置が毎日違うのも気になった。

そして、「金毘羅大権現」は、なぜ、あの姿? 結構でかいのは良いと思った。

 

『花上野誉碑』は、事前に全段を読んだ。
全編通して、坊太郎が仇討ちを成し遂げるまでの経緯をほぼ寄り道なく描いている。森口源太左衛門も全編通して登場し、民谷源八(坊太郎パパ)と坊太郎へ執拗に嫌がらせをしてくる主要キャラだ。単なる井の中のフロッグではなく、讃岐丸亀家から飛び出して鎌倉将軍の武芸指南役にまで大出世するのだから驚き。浄瑠璃では珍しい自己実現キャラだ。
坊太郎は、「志渡寺の段」のあとは東国へ旅立ち、品川の遊女であるママ・其朝に再会する(遊女屋では可愛い子供なので激モテ。遊女たちがめっちゃ押しかけてくる)。また、内記や方丈の霊夢通り、武芸の名門・青柳左島へ養子入りする。青柳家には嫡子・采女がいたが、左島は坊太郎を養子に取るのと同時に、実子のはずの采女を家来へ養子にやってしまう。このことで、青柳家でも一悶着が起こる。
森口は鎌倉武将の武芸指南役となり、将軍の鶴岡八幡宮への代参を行うまでになる。そこでまた坊太郎と一悶着あり、青柳家を巻き込んだ惨劇が起こる。もう坊太郎とかどうでもいいだろというほどの地位にまで上り詰めてめちゃくちゃに増長しまくっているにもかかわらず、いちいちイチャモンをつけてくるのはすごい。それでもまだつけ上がりまくっていたものの、最後は唐突に捕まって仇討に引きずり出され、坊太郎に討たれる。
しかし、坊太郎が父の敵を討てたのは、自力(武芸の腕を磨いたから)ばかりではない。坊太郎の仇討ちには金毘羅大権現の加護が大きく関わっている。志渡寺だけでは、お辻の狂気が槌谷内記の心を動かして人間的奇跡が導かれたかのように思える。しかし、以降の段では、坊太郎を守護する金毘羅大権現が本物の奇跡を起こすのだ。金毘羅大権現の導きと助けによって物語が展開してゆき、仇討ちそのものさえも、金毘羅大権現の手助けがある。『花上野誉碑』は江戸初演の浄瑠璃だが、四国から遠く離れた江戸に、演劇興行のタネになるまで金毘羅信仰が浸透していたことに驚かされた。実際、四国八十八か所も、東国からの巡礼者は結構いたようで、われわれ現代人がイメージするよりもたくさんの人が参拝旅行をしていたり、行った人の土産話を耳にしたりしていたのかもしれない。

 

 

  • 義太夫
    中=豊竹希太夫/鶴澤清友
    前=豊竹藤太夫/鶴澤藤蔵
    切=豊竹呂太夫/鶴澤清介
  • 人形役割
    森口源太左衛門=吉田玉志[前半]吉田玉助[後半]、門弟数馬=吉田玉翔(7/23-8/4休演、代役吉田簑紫郎)、門弟十蔵=吉田玉誉、門弟官蔵=吉田玉彦、槌谷内記=吉田簑二郎、方丈=吉田玉輝、内記妻菅の谷=吉田勘彌(7/22-8/1休演、代役桐竹紋秀)、弟子僧雲竹=吉田玉峻、弟子僧念西=吉田玉延、乳母お辻=豊松清十郎、民谷坊太郎=吉田簑太郎、腰元信夫=吉田簑悠、門弟団右衛門=桐竹亀次

 

 

 

『紅葉狩』。今回は、『刀剣乱舞』とのコラボ演目として、夏休み公演のひとつの目玉に設定されている。

前場平維茂吉田玉助〉・更科姫〈吉田一輔〉とも、主遣い肩衣。更科姫は全員出遣いで、披露する舞も扇を2つ使った派手なもの。いつもこの演出だったっけと思ったが、話がそっくりな『増補大江山』と混じっているのかもしれない。

床は良い。
しかし、人形はどうなのか?
今回は人形に若めの人が配役されていたため(これもコラボ企画向けの意図的なものだと思うけど)、出来そのものは若手会状態だった。率直に言うと、技術水準以前の問題として、稽古不足、準備不足を感じた。コロナの影響で稽古ができないとか、そういうことなの?
更科姫は、前半の芝居部分の所作に丁寧さが心がけられているのは良かった。しかし、舞は、肩衣や全員出遣いに見合ったものが披露できるよう、稽古をして欲しい。扇を投げるところは堂々とやらないと何をやっているのかわからない。左は、人形の左手が扇を投げているのではなく、左遣いが扇を投げているようにしか見えないのを修正して欲しい。この方、いつもそうだから、そろそろ改善して欲しい。(「欲しい」多すぎ文章)
平維茂は刀の扱いを丁寧にするべきだろう。むやみに振り回してるだけというのは、ありえない。『刀剣乱舞』とのコラボ企画なのに、肝心の刀の扱いが非常に雑というのは、本質を外している。2日目は、悪い意味で演技そのものが初日と違っていたのも気になる。そもそもよくわからずやっているのかもしれんと思った。
山神も含めた全員、小道具の扱いのぎこちなさが目につく。あした1日、ずっと小道具を持って過ごし、手に馴染ませる感覚を探ってみるとか……?と思った。更科姫については2日目にはやや改善されていたので、残りの会期にかけて頑張ってくれと思った。

 

今回は、下手袖で陰打ち(ツケ打ち)をしているのが見えた。いろいろ思うことが多かったが、その人が頑張っていたので、彼に免じて許すわ……。(何様?)

 

  • 義太夫
    更科姫 豊竹呂勢大夫、維茂 豊竹芳穂太夫(7/16-18休演、代役竹本南都太夫)、山神・竹本南都太夫、腰元[おふく] 竹本聖太夫、腰元[娘] 豊竹薫太夫/野澤錦糸、鶴澤清馗、野澤錦吾、琴 鶴澤燕二郎、琴 鶴澤清允
  • 人形役割
    平維茂=吉田玉助[前半]吉田玉志[後半]、更科姫 実は鬼女=吉田一輔、腰元[おふく]=桐竹紋吉、腰元[娘]=桐竹勘次郎、山神=吉田玉勢

 

 

 

この演目選定と配役、大丈夫なのかと思っていたが、「志渡寺」は、出演者のもつ実直さ、ストレートさがうまい方向に出て、爽やかな舞台になっていた。中堅公演としてよくまとまっていたと思う。なんだかんだ言うて、清十郎さんや玉志サンはしっかりしてるわ。

『紅葉狩』については批判を書いたが、それには色々な要因があると思っている。しかし、舞台に対する準備不足の問題が一番大きいのではないかと感じた。私もこれで6年文楽を観ているので、それぞれの人の技術水準はだいたい把握しているつもりだ。ベテラン並みにうまくやれという意味ではなく、努力でフォローできるところは、初日までに埋め合わせてきて欲しい。なにより、「若手」ではない人、そして、いい役には、責任が伴う。本番でお稽古しないでくれ〜。

それにしても、最近お囃子が失敗してること多いような。新人を入れたとか、そういうことなの?(そういうことなのシリーズ)

 

現在、コロナ第7派の影響が大きく、感染者が出て公演中止となる興行のニュースを毎日のように目にする。文楽はいまのところ全体休演までは至っていないものの、連日、濃厚接触者指定を受けて休演になった人の報がウェブサイトに掲載されている。綱渡りでもこのまま最終日までいけるのか、非常に心配だ。そもそもあんな繁華街でやっていては、劇場の行き来だけでリスクが高いと思う。出演者、関係者の方の健康を祈るばかり。

 

 

 

今回の『紅葉狩』は、東京国立劇場の歌舞伎公演とあわせて、『刀剣乱舞』コラボを行なっていた。

文楽劇場の『刀剣乱舞』コラボはこれで2度目だが、昨年のコラボ演目『小鍛冶』のように初めて文楽劇場へ来場された方がたくさん!!というわけではなさそうだ。
初日〜3日目に行ったが、夏休みはじめの連休にもかかわらず、客席の98%は常連客だったのでは。そもそもの入りが少ないこと自体は置いておいても、あきらかに地縛霊ばっかりやで。同じような企画を繰り返しても集客はできないということなのか、演目の問題なのか(伊勢音頭がよかったのでは?)、それともピックアップされているキャラクターの人気の違いなのか。いろいろ予算問題とか許可取りの手間とかの問題があるとは思うんだけど、やっぱり、多少大変でもグッズを製作すればいいのに、と思った。

 

今回も、文楽人形のコラボ展示が行われていた。

ロビーに展示されていた小烏丸文楽人形は、あいかわらず、文楽劇場独特のオーラを発していた。おばあちゃんがコスプレ衣装作りを手伝ってくれて、お母さんが着用モデルになってくれた感じ。この「実家」感、逆にすごい。文楽劇場ではいつもこういう時空が展開されているのでわれわれは何も思わないのだが、『刀剣乱舞』好きの人はどう思ったのか、率直なところを聞きたい。

しかし、なんで小烏丸を普通の頭身、デカめにしちゃったんだろう。小烏丸は小柄で華奢なキャラクターというイメージなんでは?と感じるので、瓜子姫や禿くらいのサイズ感がよかったんじゃと思った。
そして、パーツごとの完全再現的な指向もいいけど、あくまで文楽として「実際に文楽の舞台に出る想定で拵えるなら、われわれはこういう解釈をします」というコンセプトで作ったほうがいいのではと感じる。コラボ製作にもそろそろノウハウが溜まってきているだろうから、次回からは、ぜひご一考を!

 

↓ 今回も、人形製作の過程のレジュメが配布されていました。それによると、かしらは「ネムリの娘」、手は女方の「もみじ手」……まではまだ良かったと思うんですが、新調の足が武将役かと思うほどクソどっかりしているのがちょっとヤバかったですね。小烏丸は簑助様的な華奢げな役のはずなのに、そこはかとない玉男様オーラのあるこのレッグ。文楽人形は手足が幼児みたいにプニプニ太めなのは可愛いんですけど、小烏丸の可愛さは、それとは真逆だからねぇ。なお、太刀・手甲などの小道具は外注で、乾肇さん制作だそうです。

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↓ この頭身を再現したほうが良かったのでは?

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↓ 小狐丸も再展示されていました。前回展示のものから、衣装に色々と手直しを入れているそうです。

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↓ コラボスタンプ。押すのを失敗して、めっちゃかすれた。

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*1:女性の髪飾りではなく、小柄のようなもの。

*2:志渡寺は香川県のオフィシャル観光サイトだと「しどじ」のふりがなが振られている。もしかしてこれ、「紀三井寺(きみいでら)」と同じく、現地の人しか発音できないような特殊な発声をする系統の地名なのだろうか。「紀三井寺」は、現地のJR車内アナウンスや寺院内の放送では、「きみ・ぃでら」みたいな、特殊な発音で呼ばれている。いつか四国八十八か所巡礼に行くときに、よく聞いてみようと思った。

*3:なお、あの弟子僧ズがなぜホウキを持っているかというと、現行上演ではカットされている「志渡寺」冒頭部で、セッセとお掃除に励むお仕事があるから。そのときに、「あの桃に何かあると大目玉だから、まわりを掃除するのも危ないわー」的なことをひとしきりくっちゃべっています。

*4:ストリングカーテンというらしい。昔流行ったイメージだけど、今もあるんですね。検索すると、志渡寺の舞台に出ていたものと割とそっくりなものが出てきて、笑ってしまいました。

文楽 6月若手会東京公演『絵本太功記』『摂州合邦辻 』『二人禿 』国立劇場小劇場

若鶏とひよこの群れがアメリカバイソンくらいの勢いでこっちに向かって激走してくるッッッ!!!!! 舞台と客の真剣勝負、文楽若手会。今年は東西とも無事に開催できて、良かった。

 

 

絵本太功記、夕顔棚の段、尼ヶ崎の段。

非常に見応えのある尼ヶ崎だった。床、人形とも、出演者の舞台にかける熱意と気負いが感じられ、登場人物のそれと一致しているのが、とても良い。みずみずしい雰囲気が横溢しているのも、若手会らしい爽やかさ。未熟さ、未完成さゆえのポジティブさ、魅力が感じられた。

 

私が今回の若手会でもっとも評価したいのは、光秀役の玉翔さん。
光秀のかしらが非常に安定しているのが、とてもいい。
正面を見据えつつ、やや顎を引いたような引き締まった表情。どっしり据わった人形の頸部、胸、肩。人形の上半身に、巨大な筋肉の隆起を感じる。それはそのまま、光秀の意思の強さとしてあらわれている。

玉翔さんは、2018年の若手会では、車曳の松王丸を演じていた。難しい人形なのはわかるが、かしらがぐらつきすぎて、松王丸の性根が大幅に崩れていた。いや、それより、ご本人がつねに松王丸のかしらを不安げに見上げているのが気になって、観ているこっちのほうが不安になった。人形のふらつき以上に、本人の不安定な気持ちが人形にうつっていることが問題だった。

今回の光秀は、あれと同じ人と思えない成長ぶりだ。時々かしらを見上げているものの、そこに不穏さはない。なんなら、本公演で光秀を勤める人よりもかしらが安定している。首がしっかりと安定していること。そして、動作を止めるべきところで止め、動きを一発で決めること。そういった人形の動きの基本が押さえられているのが、非常に良い。

かしらの安定度、首筋ごん太ぶり、体幹の通ったどっしりとした雰囲気は、玉男さんに近い。よっぽど玉男さんが指導したのか、本人の自覚のたまものなのか。かなりハッキリとかしらを繰っていたが(この点は玉男さんとは異なる)、乱雑にならず落ち着いたこなし。かしらの重量に負けず止めるべきところで止められているため、下品になっていない。律儀にやりすぎている部分も散見されたが、役をこなしていけば、将来的にはバランスがとれてくるだろう。
かしらだけでなく、人形全体の大振りな演技も、人形に振り回されていない。大袈裟に前にのめる系統の演技でも、単に人形が倒れただけに見えたり、卑しく芝居がかっているように見えず、人形がしっかり安定して一発で決まっていた。若干やりすぎだと思ったけど、そのぶん、光秀の青い前のめりぶりがよく出ている。光秀と玉翔さんの気負いが一致して、とてもいい光秀だ。普段からの持ち味の、振り向き動作(正面を向いている状態から、パッと一発で左を向く)の綺麗さも、光秀の性根に対し、非常に有効だった。
強い動きと強い動きの間に、かしらに力みの痙攣的な揺れが出ているのは、惜しい。動作間のつなぎの精度を上げ、不要なビビりを抑えることができれば、芸の品格が一段上がると思う。

演技の抜けや曖昧さがみられなかったのは良かった。また、おそらくご本人なりに演技をややアレンジしている(やり方を選択している)ところがあったのも、自分らしさの研究や追求が感じられた。
さらには、舞台取り回し上の工夫もみられた。光秀が見越の松に登るくだりは、松の裏につけられた階段を登る前に舞台下駄を脱ぎ、動きやすいよう足袋になる人が多いと思う。しかし、玉翔さんは舞台下駄のまま階段を登り、松の枝を持ち上げる決めで、光秀の人形をしっかり高い位置に差し上げられるようにしていた。確かに光秀を松の上で高く差し上げるのは難しいから、いい考えだと思う。この方法、若い人はイキオイでやれるだろうが、年配者は危なっかしくて出来なさそう(そのぶん、高く差し上げることに頼らない姿勢の美しさを指向されているかが、見所になるが)。舞台下駄は階段を降りる前に脱ぎ、段上に残すやりかたにしていたが、今後も踏襲するなら、残されていた下駄が悪目立ちしていたので、光秀が松から降りたらすぐ下げたほうがよさそうだった。

そりゃ未熟なところは多くあるけれど、こういったことによって、光秀をどう表現したいかという意図がよくわかった。私は、「何のために、何を表現したいのか」が一番大切なことだと思っているので、意思がまっすぐ伝わってきたことを評価する。本公演でよく見られる、動作の末尾の処理の雑さも今回はなかったし、このまま頑張って欲しい。

 


そして、もうひとりの超注目株は、玉彦さん。
玉彦さんの十次郎は、若手とは思えない堂々とした若武者ぶり。長い手足を大きく広げ、鎧姿を存分にいかした赫々たる姿は大変に見事。手足を差し出すスピードや張り感もよく検討されており、十次郎の若々しさに相応しい優美さがある。屋体中央に堂々と座る姿、盃事や出陣していく姿を含め、非常に良かった。かなり稽古してると思ったわ。
後半ふたたびの出での戦物語の部分も、人形がもたつかず、くっきりとした動きがつけられており、今後の発展を予感させるものだった。ひとつひとつの所作が意識されていて、とりあえず振りを覚えてきました、にとどまらない、「こっちを見て!」という、舞台人らしい意思を感じた。
だが夕顔棚の出はダメだッ! 十次郎はスタスタ歩かんッッ!!!!!!! それは、「中目黒あたりをうろついている、黒髪くるくるパーマ、黒の極細メタルフレームのメガネをかけて肌のお手入れ万全ツルツル、オーバーサイズのくすみカラーのTシャツに綺麗目の太めパンツのお兄さん」の動きだッ!!! と思った。尼ヶ崎の冒頭の思案の姿も、「『思案している姿』を思案している姿」を思案している感じになっちゃってたね……。十次郎の心の声が表現できるといいですね。
パッと輝くような若武者ぶりは、本当、若手中の若手随一の出来栄えだと思う。芸歴13年とは思えない。この素質をいかしながら、ゆくゆくは、十次郎の憂いが表現できるようになればと思う。中堅の上層部より下で美少年や美青年をまともに遣える人、皆無だと感じているので、若いうちからこれを押さえることができれば、天下を取れると思う。(天下って何?)

 

玉誉さんのさつきは、品がある老婆らしさがよく出ていた。単純にご自分の得意演技(やわらか系)にはいかず、武家の品格をもたせて演じられているのが良かった。さすがに勘壽さんがやるときより若めな感じで、老け作りしてる風なのも微笑ましかった。玉誉さんは、もう、若手会じゃなくていいと思うけどね。

簑太郎さんの操は、変に「自分の番」を意識しておらず、クドキとそれ以外がシームレスにつながっているのが良かった。が、存在感が薄い。存在感という意味では、6月鑑賞教室の斧定九郎はとても良かったのだが、やはり、本質的にわかってやっているわけではないところが、若手なのか。操は、感情に流されてメチャクチャ言ってるヤバ女感を押し出していって欲しい。後述の『摂州合邦辻』メイン出演者と同じく、もう一歩の踏み込みが必要だと感じる。

初菊〈桐竹勘次郎〉は、何のためにここにいるのだろうか? それはもう、十次郎のため以外のなにものでもない。身振り手振りの手順に夢中になってしまっているのだと思うが、まずは彼女の切実さを目線で表現していければと思った。十次郎の顔をしっかり見よう。初菊は、左も、頑張り中の人だったのかなと思う。左の人材育成も、重要な課題だね……。

夕顔棚の家事手伝いのところは、操・初菊とも、マジで何やってんだかわからんので、誰かなんとかしてくれと思った。さすがに「形骸」に頼りすぎ。演技の意味を考えてやって欲しい。


床はみな課題意識をもって取り組んでいるのが、非常によくわかった。自分の特性を研究して、曲のなかにどう活かすかがよく考えられていたと思う。
オッと思ったのが、希さん。若手会で聞くと、女性描写の艶麗さが光る。光秀の出〜槍でさつきを突くくだりの直後、操・初菊が出る「声聞き付けて駆け出る操」の引き算的な語り、柔らかさが良い。彼女らの足取りや身につけているものの優美さもよく出ていた。それと対比されて、光秀やさつきも引き立つ。女性描写にこだわりがある人というのは、今後が楽しみだ。それだけでなく、段切をしっかり語ろうとする意思が感じられたのも良かった。希さんも、数年前の頼りなさとはまったく別人の成長を遂げた人だと思う。

夕顔棚は、元気にやれたのはよろしいが、言葉(発音)を間違っているところが何箇所かあった。特に気になったのは古典の引用箇所で、戯曲としても重要な言葉。あがっている等色々あるとは思うが、文楽は言葉が一番大切だ。あらためてそこに立ち返り、頑張って欲しいと思った。

 

  • 義太夫
    夕顔棚の段
    竹本碩太夫(5)/野澤錦吾(13)
    尼ヶ崎の段
    前=竹本小住太夫(13)/鶴澤清公(15)
    後=豊竹希太夫(17)/鶴澤友之助(19)
  • 人形役割
    母さつき=吉田玉誉(28)、妻操=吉田簑太郎(22)、嫁初菊=桐竹勘次郎(16)、旅僧 実は 真柴久吉=桐竹勘介(12)、武智光秀=吉田玉翔(27)、武智十次郎=吉田玉彦(13)、加藤正清=桐竹勘昇(7)[東京]*1

*名前の後、カッコ内の数字は、初舞台から2022年6月までの年数を書いてみました。研修生出身だと初舞台が7月のケースが多いので、ほぼ+1の方も多いですが……。また、途中お休み期間があった方もいらっしゃるので、目安程度でお願いします。

 

 

 

摂州合邦辻、合邦住家の段。

人形メイン配役を若手のうちでもこなれたメンバーで固めているため、全体的に堅実な印象。普段は脇役しかこない人たち(言い換えれば、そのままスライドしてしまうと、今後もずっと脇役になってしまう人たち)に、重要な役を任せるというのが良かった。普段よりも役の研究がされていて、物語の進行を踏まえた丁寧な描写に、登場人物への深い洞察が感じられた。派手演目ながら、「素朴」に派手っぽく見せかけるだけではどうしようもない内容ということもあって、研究がより一層舞台に反映されたのだろう。さらなる発展として、人形の持つパッショネイトに、いま一歩踏み込んでいければと思う。

 

紋吉さんは、可愛い玉手御前。チャーミングで、原文で設定されている20歳相応の若い印象がある。その年輩のしっかりした娘さんの、等身大の一生懸命さがあった。ちんまりとした愛らしさが紋吉さんらしくて、良い。和生さんより顔立ちがシャープな印象なのは意外だったが(そもそもかしらが違うんだと思うけど)、ちょっと不幸感があって、それも面白い。わざとなのかはわからないが、出のときに頭巾をかなり深く被っているのは、攻めているなと思った。
プレッシャーで細かいところへの意識が飛んでいるのか、指先の演技がなくなっているのが惜しい。紋吉さんの場合、普段は出来ていることなので、主役の緊張によるものだろう。また、玉手御前は黙して座っている時間が長く、そこも大きな見せ場でもあると思うので、座り方の魅力の追求、たとえばもう少しスッキリした雰囲気が出てこればと思う。(東京1日目に感じた姿勢の悪さは、2日目には結構改善していた。私の席による見え方の問題かもしれないが)


合邦役、文哉さんは、丁寧で、よく考えられた演技だったと思う。4〜5月の『義経千本桜』弁慶役では人形の不安定さが目につき、大丈夫かと思ったが、合邦のように、舞台の責任を持たなくてはいけない役だと、さすがにしっかりするということか。人形が若く転ばず、やや年配の、そこそこの年の娘を持つ父親らしさがよく出ている。合邦自身の人柄は引っ込んで、むしろ世間でいうところの「お父さん」、娘のことを常に気にしている感にかなり寄せられている印象だった。そういうところは、年配の人形遣いの合邦とは異なり、素直な感じですね。
ただ、“小芝居”と、役の本質に関係ある演技では、本質の演技のほうをシッカリやってほしい。「それこそ幽霊」や「俊徳様と女夫になりたい」のところ。ここで、わかりやすい振りをやること自体はいい。しかし、やればやるほど、ほかの演技への要求レベルが上がる。合邦の本質はそこではないので、演技のボリューム感のコントロールが重要だ。「女夫」なら、直後にある「どの頬桁で吐かした」のほうを演技として強調したほうがいいだろう。(でも、こういうの、本公演に出ているベテランでも、めちゃくちゃな人いるので、文哉さんだけがダメなことではないけど。文哉さんは若いからいいけど、本公演でそうやっちゃってる人については「意図的に、あるいはマジでわかってなくてやっている」と解釈してます)
ただ、「幽霊」は東京2日とも人形の姿勢がかなり崩れていて、本人も不安なのか?と思った。演技のコントロール精度という意味では、緊張感はともかく、こういった箇所で集中がところどころ途切れているのかなと感じられたのも、課題か。

 

合邦女房は、紋秀さん。ママらしい真実味があるのが、とても良かった。しかし、さすがに若い人がやってるだけあって、若い!!! 元気!!! 興奮すると動きが素早くなっていた。

浅香姫〈吉田和馬〉、俊徳丸〈吉田玉路〉は、もう、出演者そのままの若々しい雰囲気。まずは丁寧に演じられていたのが良かった。ただ、やはり、特に俊徳丸は難しいですね。単に丁寧なだけでは気品が出ることはないと、よくわかった。どうやったら気品が出るのかは私もわからないけど、気品がある人をよく研究して、今後にいかして欲しい。それを見て私も勉強します!


私は、ヤスさんこそ、「テクニック」に走って欲しいと思う。ヤスさんは、いまの持てる分でいうと、もう、十分、頑張ってる。このままいくと、一生懸命頑張って声張り上げてる、で終わっちゃわないか? 声量や音階の広さは素質が大きいので、そうじゃないところ、表現技術そのものの研究を深めたほうがいいのでは。声がデカいだけのやつ、音階が出るだけのやつには、俺は、負けん!!! このテクニック、真似できるもんならやってみろ!!!!! という方向で、頑張って欲しい。実際、ノゾミさんはそうしてると思うわ。ノゾミさんは高い声出るから、「単にそれだけでしょ?」ってならないように気をつけてるってことだと思うけど。ヨシホさんも、そろそろむしろ、テクニック磨きの段階にきていると思った。

しかし、太夫三味線がうまく噛み合ってなかったり、間合いが不自然なペアがおったが、どういうこと? 頑張れ!!!!!!!

 

  • 義太夫
    中=豊竹咲寿太夫(16)/鶴澤燕二郎(8)
    前=豊竹芳穂太夫(18)/鶴澤寛太郎(21)
    後=豊竹靖太夫(17)/鶴澤清𠀋(21)
  • 人形役割
    合邦女房=桐竹紋秀(32)、合邦道心=吉田文哉(32)、玉手御前=桐竹紋吉(28)、奴入平=吉田玉峻(10)[東京]*2、浅香姫=吉田和馬(10)、高安俊徳丸=吉田玉路(11)

 

 

 

二人禿。

床はよく稽古していると思った。自分たちでシッカリ仕上げていこうという意思が感じられた。初日と二日目で、見台の並び順が違ったのは、なぜ? 本人たちの並び順は、配役表通りなのだが。

人形は、「うどん屋の娘 vs そば屋の娘 〜東十条商店街最大の決戦〜」って感じだった。頑張ったのはわかった!!!!! よーし、この調子でいまの100000倍頑張れ!!!!!!!! と思った。

 

  • 義太夫
    豊竹亘太夫(10)、豊竹薫太夫(1年未満)、竹本聖太夫(1年未満)*3、竹本小住太夫(13)/鶴澤清允(8)、鶴澤燕二郎(8)、鶴澤清方(2)、鶴澤清公(15)
  • 人形役割
    禿[下手]=吉田簑之(10)、禿[上手]=吉田簑悠(7)

 

 

わたしたちは、若手会をどう受け止めたらいいのだろう?
一生懸命頑張ってるんだから、全部褒める?
本公演と比較して、ダメなところを探す?
どういうプライオリティでもって芸を評価する?
見る人によっていろいろあると思うけど、やっぱり、せっかくの若手会で、もしかしたら今後の人生で来ないかもしれない役を客前でやるんだから、良いところも、悪いところも、その人の個性と努力にあった評価をしたい。頑張ったことを受け止めるなら、その人がどこをどう頑張ったのかという点をきちんと見たい。

若手会であっても、なんでもいいから一生懸命がむしゃらにやればいいというものではなく、何を目指すのか、何を表現したいのか、そこが重要だと思う。今回の若手会は、その意思が明瞭に感じられる人がいままでになく多く、座全体としての意識の変化が感じられた。

人形は、メイン配役のパフォーマンス水準が例年になく高かった。また、役の研究や意思が舞台にちゃんと表れている人が多かったのも、良かった。前述の通り、特に玉翔さんは、若手会において、こんなに強い意志で演技ができるのは、立派。ここまでかしらを安定して持てる「若手」が出現したことに、非常に驚いた。玉翔さんは初代玉男師匠の弟子のうち一番の末っ子ながら、その末っ子がこの状態だと、お兄さんたちもうかうかしていられないだろう。

太夫では、みな、手抜きがなく、持てるものを出しきった精一杯のパフォーマンスなのが爽やか。当たり前のことのはずだが、残念ながら本公演ではこれが出来ていないと感じることが繰り返される中、明るい気分にさせてもらえた。また、産み字やすべての文字にスタッカートがつくような箇所で、無駄なこぶし回しをせず品をもって語っていたことが良かった。
「語り分け」そのものにとらわれ過ぎて、三人遣いの人形とツメ人形との区別がついていない等、語り分けのつけ方が間違っている人がいたのは、課題だと思う。まず、何のために語り分けが必要とされているのかを考えることが大切だと思った。

三味線は、みんな頑張っていたと思った。まず「やらなあかんこと」をしっかりやっていると感じた。あとは、自信をもって派手にやるべきところを、本当に自信をもって派手にやりきれるか。若手会は、それが問われるような、三味線も派手に目立つ演目をつけてもらえるのが良いですよね。よい力試しの機会だと思う。より一層の向上を目指し、頑張って欲しいと思った。

 

 

毎年、若手会を観ると、本公演で本役・持ち役として大役を務める人というのは、やっぱり、それだけのものを持っていると思わされる。
たとえば、玉手御前。和生さんはかなり綿密に設計された演技をしている。
和生さんって、つねに余計な手数を切って、品良く遣っているイメージが強いと思う。でも、今回の若手会を見て、よくわかった。なんでもミニマムにしてるわけではないわ。和生さんの玉手御前は、百万遍念仏、いよいよ別れのときになってからは、芝居の作り込みや手数が非常に多い。みんなに別れの挨拶をする前、最初に立ち上がるときのよろめきや、最初は突くのを失敗するなど、オリジナルの細かい入れ込みもある(紋吉さんは全くやっていなかった。逆に、浅香姫姫に「俊徳丸頼む!」の振りは、紋吉さんはやっていた)。こういった演技が「大げさにやってるだけっしょ」とならないのは、前半の思案する姿を玉手の本質表現に据えて、そこを引き締めているからこそだ。そして、なにより、人物の気持ちの変わり目の表現が秀逸。和生さんの玉手御前の巧さは、そこに尽きると思う。
また、玉志サンは、意外と?いろいろ手を加えた工夫していて、役や自分にあった演技に変えているんだなと思った。長時間の止めとか、技術以前に勇気がないとできないわ。

 

 

なお、今年の人形部お助けお兄さんは、吉田勘市(37)、吉田玉佳(37)、桐竹紋臣(33)、吉田玉勢(32)、吉田簑紫郎(31)のみなさんでした。
「弟弟子を引き立てるために頑張るぞッ!!!!」とはりきるお兄さんズも、とても良かった。はりきりすぎて、左手がクソうまヒダリー現象が起こるのも、味わい。雷電のごとき鋭さの左手、クチナシのように芳しき左手。神の左手悪魔の右手。お兄さんたちは、メイン出演者がまわりきらない細かい配慮やサポートもしてくれる。大役の人は、左を誰にやってもらうかを指名できるんですかね。親しいお兄さんにやってもらえるとメンタル的にも安心というのも、大きいのだろう。

個別でいうと、特に光秀は、左がうまいのが大きいね。もはや、出てきた瞬間、お客さん全員が「左、たm...」と思うアレだった。木登りで、一旦上手に行って→下手に戻るところの手の広げや前後振り、前傾姿勢が美しく、相当ちゃんとしていた。ここは本当に、左がちゃんとした人でないと、大変なことになってしまうから、ちゃんとしていて、良かった。(無限に湧き出る「ちゃんと」)
光秀の左の人は、足の人にもちょこちょこ指導していた(?)。段切近く、あーあーあー、主役なのにィー、足を下ろす場所がァー、おもいっきりおかしいよォー、あとで注意してもらってくれたまえェーーーー……と思っていたら、左のお兄さんが足を自分のボディでさりげなくグイ…🍑グイ…🍑と押して、位置を直してあげていた。足の人も、それで正しい位置をわかったっぽい。お兄さんも若かったころ、そうして教えてもらったのだろうか。良かった。

 

若手会は、全員全力でやるのが何よりの魅力。その意味では、本公演以上。また来年も、いろんな方の成長と頑張りを拝見したいと思う。

 

 

 

*1:大阪公演は吉田玉征(7)

*2:大阪公演は吉田玉延(9)

*3:豊竹薫太夫、竹本聖太夫の配役並び順は東京公演。大阪公演は逆。一応こういうところも配慮してくれてるんですね。