TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

くずし字学習 翻刻『女舞剣紅楓』三巻目 嶋の内夏屋の段

本作に登場する「宇治屋」およびその若旦那・市蔵の放蕩は、辰巳屋事件をモデルにしている。

辰巳屋事件とは、元文4〜5年(1739〜40)、大坂の富商・辰巳屋で起こった家督相続騒動が発展し奉行所汚職にまで及んだ事件で、その概要は以下のようなものだったという。

  • 大坂の炭問屋・辰巳屋久左衛門は資産200万両、手代460人を有し、大名貸しまでする豪商だった。
  • 先代久左衛門の弟・木津屋吉兵衛は、辰巳屋の財産を狙い、養子である当代久左衛門の後見に。
  • 当代久左衛門および手代新六らはそれに抵抗し、奉行所に訴え出る。
  • 吉兵衛はあらかじめ東町奉行稲垣種信へ用人馬場源四郎を通じて賄賂を贈っていたため、訴状は却下され、新六は入牢。
  • 当代久左衛門派の手代が江戸へ行き、評定所(幕府の最高司法裁決機関)の訴状箱に願書を投じたため事件が発覚。
  • 関係者は江戸召喚となり、数回の吟味を経て種信・源四郎・吉兵衛の罪状が判明。
  • 町奉行稲垣種信は失職し持高半減、閉門。源四郎は死罪。吉兵衛を遠島に処された(のちに減刑)。
  • この事件に際して、幕府側に多数の有罪者が出た。


この事件は、大坂の一商家の家督相続騒動が奉行所汚職にまで発展して多数の処分者を出す大事件に発展したこと、江戸での詮議に大岡越前守忠相が関係したことで有名だが、吉兵衛に町人の身分にふさわしからぬ奢った振る舞いがあったとされたことは当時の小説・演劇等の格好の題材になった。辰巳屋事件を扱った文芸として最も早いものが、事件の6年後に初演されたこの『女舞剣紅楓』(延享3年[1746]10月大坂道頓堀陸竹小和泉座初演)である。以降、小説『銀の笄(かんざし)』(早大蔵の写本では寛延4年[1751]?)、歌舞伎狂言『棹歌木津川八景』(『銀の笄』の脚色、安永7年[1778]角の戯場初演?)がある。*1


『女舞剣紅楓』では、吉兵衛の「学問好き、学徒向けに蔵書公開や学資支援を行う」「強欲で虚栄心がある」「町人の身分に満足せず公家の家来になったり、侍の真似事をする」等の行状を、宇治屋(“都の辰巳”と呼ばれている)の若旦那・市蔵、従兄弟・善右衛門、手代・長九郎のキャラクターに分解している。
若旦那・市蔵の行動のうち、2〜3巻目にある“公家装束を身に付ける”、“茶屋遊びで「無間の鐘」になぞらえて正金を撒き散らす”は吉兵衛が実際に行ったことの可能性が高いようだ。辰巳屋事件を描いた実録風の小説『銀の笄』には、吉兵衛の以下のような行状が描かれている。

  • 烏丸家から公家装束を拝領し、堂上家風の正月の儀式を行った
  • 道頓堀升屋三郎方で、瀬川菊之丞(歌舞伎女方、初代)に「無間の鐘」の所作事を演じさせ正金100両を撒き散らした*2


ただ、奉行所汚職等の社会的事件性要素、『銀の笄』にみられるような奢侈の張本人吉兵衛を主役とする(悪役として描かない)観点は本作には取り入れられておらず、豪商の奢侈ネタのひとつとして使われているにとどまっている。また、『女舞剣紅楓』の後続作、『艶姿女舞衣』ではこの辰巳屋事件は取り上げられなくなり、半七と三勝およびお園の物語に要素が絞られている。

 (参考:内山美樹子「辰巳屋一件の虚像と実像-大岡越前守忠相日記・銀の笄・女舞剣紅楓をめぐって-」 『早稲田大学大学院文学研究科紀要 29』早稲田大学大学院文学研究科/1983)

 

 

以下翻刻

いままでの翻刻

 

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三巻目

先ツ旦那には此年月御懇望なされしに。大納言家の御恵ミ。殊に御装束を下され。
すぐに束帯なされし所。生れ付イての上つかた。ナントアレ位高ふ見ゆるでないかと。長九郎が

 

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ついしやうに夏屋の三婦頭をさげ。御意の通りあなたには何くらからぬお身の上。殊に此度お
位迄下され。大納言様とやら。小豆の異名聞クやうな。結構なお公家様。此夏屋が座敷
にて。其御祝儀の御振舞。仰付ケられ下さるは。茶屋冥加に叶ひし事。何で有ふと嶋の
内始つての大慶。私が為の福の神。小勝様は弁財天。おふた方のあの様に御遠慮の内にご
ざるを見れば。しつかい生キた雛様じやと。畳に額を付ケにける。市蔵笏を取リ直し。いか様爰らめづ
らしき束帯客。朕が心をよく悟り町家の座敷を此様な。殿にしつらひ思させし気転
殊更小勝諸共に装束の姿故。雛に見ゆると祝ひしは。出かしたりひがめにあらず。夏屋

 

めに。褒美をやれと。俄につくる殿上人。のぼり切ツたる笑止さよ。小勝は始終恥しさ顔は
あからむ恥紅葉。覆ひし袖をそつとのけ。市様ンの縁ンにつれて。賤い此身が十二単お妃様
と人様ンに浦山れ。雛様と迄いはれるは皆様のお世話故。ゆるりと礼をいはふぞへ。イヤもふそふ思ふて下
さるれば。私共も千ばい。ヤほんに千ばいで思ひ出した。お盃がないによつてどふやら御殿ンがかたづま
る。三婦ソレ言いつきやれヲツト酒の菅丞相大神様へ御酒備へんと。勝ツ手に向ひ手をたゝけば。
アイと返事も所めく声もはすはなきなりに銚子盃携て。花車は座敷へ出にけり。コリヤ/\
女房。上様にはお装束長九郎様も此三婦も。袴かちぎ手が目に見へぬか。外のお客へ出る様に。

 

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前垂がけは慮外じや/\。テモあの様ンのぶ粋な事いはんす。お前方は麻卡モ。わしは又女子の
装束。此前垂が緋の袴。なんといやとはいはれまいと。いふに市蔵につこと笑ひ。いしくもいふたり
三婦が妻。其頓智なる返答に。彼レ木も口をつぐむ斗。朕もなめらひ/\と行先揃はぬ堂
上詞。アノはつさいのべり/\にはかたかれる物ではござりませぬ。ムヽちつとそふもござるまいと。どつと
笑ひを催せる。長九郎はしたり顔。先キ達てお上ミから仰付ケられた通リ。下タ々共は参る筈か。イヤそれは
ぬかりは致しませぬ。何がけふの御祝儀に。藝尽を御覧なされると。人をやつて置た故。和平様ン
万九様ン。此ふたりを始メとして稽古衆碁盤人形。嶋の内の芸者に一人も残りはござりま

 

せぬ。ムヽさも有なん重畳/\。ヤふすいめ何とした。イヤふすいは三勝殿を同道して参る筈。
ムヽきつうおそいに人をやれと。長九郎が指図に任せ花車は勝手へ入にけり。誠にそれよ三勝は。
けふの趣向のおも役者。追イ々迎をやるべしと。せり立る市蔵が。詞もいまだおはらぬ所へ。ふすい様が
見へましたと。しらせにつゞいてくるふすい。台鼓にまれな沙門の姿。居士衣の裾もほら/\と取シ
しめもなく座に直る。長九郎は人々に目まぜして。ふすいをこまらせ笑はんと。しさいらしく膝立な
をし。三勝殿は何ンとした。イヤ三勝様もお供致。アノ端の間で。中居衆と何やらお咄。去ルによつて
坊主め斗。先ツおめ見へをと手をつけば。ヲヽそれは大義/\。扨改メて其方に言渡す事が有ル。向後

 

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そちは旦那の御前へは叶はぬぞ。そこ立ツて早帰れと。思ひがけなき一チ点ンに。ぎよつとせしがさすが
のふすい。是は又終にないお詞。私が身に取ツて。御機嫌を背く様な誤りの覚へもなしと。いはせも果
ずイヤ誤りは少シもない。夫レに又帰れとは何故におつしやります。ヲヽ子細いふて聞そふ。見る通リ
旦那には大納言のお位。すべて職原の掟にて。仏ツ事供養の其外には。僧尼の類ひを
お嫌ひなさるゝ。そふ心持て此後は。君の御前へ必出なと。誠。しやかに言ければ。ふすいはうぢ/\袂より。
かけ鬢かづら取出し。左様有ふと存た故。只今是へ参りがけ。芸子衆の衣装櫃に有合た
此かづら。用意して参りしと。すつぱりかづく撥鬢かづら。是は出来たとそう/“\が。はつめい/\ヤア

 

打ておけ。しやん/\。も一トつせいしやん/\。祝ふて三度しやんのしやん。酒にせいとぞさはぎける。
市蔵は餘念なく予が目をかける程有ツて。出かしおつた去ながら。天窓は撥鬢からだは坊
主。鵺同然の台鼓持チ。早速言付ケる役目有リ。それ/\と有ければ畏て長九郎。挟箱より
金三百両取出し。今日我君の御慰みに。三勝殿を太夫に頼ミ。無間の金を御挽なさる。かの
三百両ふる金に。誠の小判を天井から蒔ちらすお物好。鵺といふ名の付クからは。天井の役
目は相応。急度申渡したぞ。ナントきついか小勝様と。そやせどのらぬ気の毒顔。三婦はうき立チ。年シ
越に豆板を蒔ちらした椀久さへ。今の世迄の一つ咄シ。小判を直キにふらすとは。あなたでなければ

 

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ならぬ事。ふすい様二かいの手伝ひ間のぬけぬやう頼ますと。いへどふすいはすまぬ顔。大まいの此
小判。石か瓦をする様に。どふぞ外の思ひ付キ。今一思案なされぬかと。指足しての異見口。市蔵
耳にやかゝりけん。景色かはつてヤイづくにう。言付クる役目気にいらいでのたは言かと。顔色かはればふす
いは小判取上ケて。イヱ/\きつと勤めます。御ゆるされて下さりませと。気にさからはぬを長九郎。ヲヽそれが能イ
/\。只何事も御意に任せよ。追ツ付ケ藝も始る時刻。夫レ迄は御座をかへ一献すゝめ奉らん。入御ならせ
給へやと身の程しらぬあしらひを。悦ぶ心は雲の上。あやうきけふの栄花共。しらでのぼるや中二かい。
打つれてこそ入にけり。世の中に。ひとしからぬは人心。男ぶりさへきつとして主を大事と一心に。染リ

 

切たる茜屋の半七は只一人。夏屋が中庭案内もなくすぐ通り。人待チ顔にうそ/\と。奥の
様子を窺へば。奥に打手のちよん/\/\。アイと中居が立出るを。これ/\と呼とゞめ。台鼓持のふす
いに。立ながらちよと逢たい。呼出して下んすまいかと。ついいふ事も愛敬有リ。いそがしい中なれど。よい男
様のお頼み。心いきで呼ンであぎよ。そこにお待と言捨てこそ走行。所がらとて仮初にも。色を持タし
た詞のはし。いか様にくふもない物と。一人言して居る所へ鵺の冠位を下された。此鼻を呼出すは。どい
つじやい。どこのおさんでござんする。する/\/\と。走リ出。是は/\めづらしい。逢たいとはお前様かと。立よれば半
七。ふすい。われは聞へぬぞよ。改めいふには及ばね共。親半兵衛が宇治屋から大和へ帰り此半七

 

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が生れし時。そちが母が乳母。其躮のわれなれば。マア半七は主でないか。其主の大事にかけ
る市蔵様は。主の主じやが合点がいかぬか。心台鼓持をして。人をおだてるが商売じや迚。一たん
頼んだ様にもない。なぜかけ引をしてたもらぬ。聞ば今日此所で無間ンの鐘の藝をさせ。誠の小判を
蒔ちらすと。此あたりでの風聞。親旦那は西国の留守。戻らしやつて聞カしやつたら。大抵の事であ
らふか。よしそれは親子の中。料簡も有にもせよ。おごりの沙汰に聞へては。旦那のお為になら
ぬ。それをじつとたまつて居るは頼かいもない男。異見をすべき長九郎。おんなし様にあほうの腰押。
大納言じやのお公家のと。ろくなやつが一人リもない。腹が立ツてたまらぬと。せきのぼしたる。恨声。

 

ふすいは顔を打寄り。ア丶善悪は水波といへ共。それ程にも違ふ物か。長九郎殿とは格別お前
は一チ途に主思ひ。私も人じや。それしらいでよい物か。天道様が証拠。折々の御異見。先キ程もその
金の事で。申シ出かけて見たれ共。中々に聞入あらばこそ。かへつてお腹を立てられる。それ故にせう事なし。小
判まく役目を受ケ。爰に持ておりますと。懐中より取出せば。半七も懐より金三百両
取出し。子供の時からそちが気もよふしつて居る。よもやとは思ふたが。余りの事に興がさめ腹
立紛れの悪口。馴染がいに料簡仕や。扨と。此噂を聞た故。けさ早々からかけあるき。拵へてき
た此小判は。厚紙の箔置。此を蒔て間に合せ。人の口をふさいでたも。よしそれが気に入ラ

 

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いで。重て座敷へ呼れずは。お主の為とあきらめて。夫レ程貧乏してくれと。わりなき詞に
涙をながし。それ程におつしやられずと。合点してゐる事じや物。何しにお詞背かんと。紙の小判
を懐中し。誠の小判は市蔵が。挟箱にしつかとおさめ。錠前しやんと押シ直し。もふお帰りなさ
れませ。私は奥へ参ります。そんなら必頼ムぞや。跡の事は是程も。お気づかひ遊ばすなとふ
すいは。奥へ入りにけり。アヽあれで先ツ落着イた。さらばお暇申そふと立帰る後より。半様ン/\と声
をかけて立出るは。ヤア三勝かと上り口立よれば引よせて。ほんにマア嗜んせ、あんまり便りが
聞へぬ故。在所へ人をやつたれば。京へとやらいふて戻る。定メて戻りに伏見から。くだつてごんす心で

 

あろと、待ツても/\見へぬ故。若シ煩ふてはゐさんせぬか。早ふ顔を見せてたべと。天神様へ願ンかけ
て、梅を一ツ生断たぞへ。わしは見たふないにもせよ。お通がおまへに逢たがる。ちつとは又女房子もか
はいがつたがよいわいなと。涙ぐみたる恨声。ヲヽ恨ミやるは道理/\。わしも顔は見たけれど。ことしはきつ
い綿年で近ン年の大下カり。商事でめつらも明ず〈いそが〉しい最中に。二三月の逗留で京へのぼ
れと親父の用事。何ンでも是はよい次手。是からそちへと思ふたがよい所に居やつたの。マア息才
で嬉しいと。語るを聞て女子気の。ついほれ/”\と恨もはれ。それなれば見へぬも道理。したがなが
く京に居て。悪性なかつたか。やせて戻りはさせぬかと。膝引廻ししなだれて袖から袖へ手

 

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をいるゝ。妹背の中ぞわりなけれ。奥より中居が走リ出。申シ/\三勝様。追ツ付ケ藝の始る。早ふ
お出なさりんせといひ捨行をコレお藤。ちよつと耳が借たいと囁ば。こんた/\。最前のよい男
様ンどふで誰レぞがたゞ置クまいと思ふてゐたに違ひはない。幸イ茶の間が明イて有明ケ。朝迄なりと
請込ンたど。口合たら/“\取もてば。まだ咄したい事も有リ。そこで待ツてゐやしやんせ。そんならいても大事
ないかや。ハテわししだいサアお出と。中居が案内に半七は別れて後チにと三勝も。奥の一ト間に
入にけり。飼かふ犬におとりたる長九郎はそろ/\と。人なき透を窺ひて挟箱を取出し。  ア小勝めは
命じや。染小袖にいくせ織の幅広を前帯。嶋田に髪をゆふた時さへ。よい女房と筒一ツ

 

ぱい惚て居たに。けふの又美しさ。馬鹿めが現を抜かすも道理。そこを拙者が先キへ廻り身請
するこんたん。則チ金は此中の三百両。福徳の三年めと。錠前に手をかけてねじてもこぢても明カ
ばこそ。いかゞばせんと思ふ内奥に始る役者のこは色。思ひがけなく恟りして。うろたへ廻る盗人眼コ。わな
/\ふるふおかしさよ。物まね終れは胸なでおろし。あつたら肝をつぶさせおつた。したが此錠前をと
案じる内に無間ンの鐘。うたひかくるか三味の音。二八十六でふみ。付ケられて。二九の十八でつい。其心。
長九郎は一ツ心ンふ乱。歌の唱歌を聞すまし。思案工夫のたばこ盆。火入レ取リ上押シいたゞき究竟の合鈎
と立よれは。噂へ聞ク無間の鐘をつけば。有徳自在心の儘。此世は蛭に責られ未来永々無間ン

 

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だごくの業をうく共。だんない/\大事ないと。語るにつれて鳴ル釣鐘。音トに合せてくはつち/\。なんなく錠
前打放し。件の金を取上ケしが。座敷の騒に気もうろ/\。隠し所をそこ爰と思ひ付イて巻あげし。
御簾の間タへ押入レて次の座敷へ立忍ぶ。程なくはてし奥の藝よふ/\/\の声につれ。立出る三勝
は。髪も乱れてあせたら/\。跡よりふすいが逃出るを。市蔵抜身を引さげて儕レ坊主め赦さぬと。
いふに家内は俄の騒動皆かけ出てとゝむれば。半七も驚て。暖簾のかげに聞居たり。
市蔵せいたる面色にて。けふの趣向の第一は。小判を蒔が思ひ付キ。それでさつきに念を入言付ケた
大事の役。なぜ贋物を蒔ちらし。此市蔵に恥かゝせた。サア爰へ出い切さげると。ふり上る手に三

 

勝小勝すがり付マア/\待て下さんせ。ついにお前のお詞を背かんせぬふすい様ン。訳がなふ
てならふか。つい其訳をいはんせと。心を付けれど只アイ/\。始終をしつた三勝は。いふてよいやらわるい
やら。夫トの心はかり兼。何事もめでたい折から。御料簡遊ばせと。なだむるより外詞なし。長九郎
はもゆる火に。よい焚付ケとふすいが胸ぐら引回し。ヤイ爰なぬらくらめ。儕レ一人リの分別で。旦那に
恥辱をあたへたでは有ルまい。相談相手か頼人が他に有ルに極つた。どいつじやぬかせと捻伏られ。
イヤ頼人も相談相手も有ル事ではこざりませぬ。どふ思ふても大事の小判。蒔ちらすが勿
体なさに。わたし一人リの分別でやめたのでござります。御ゆるされて下されと。いふに市蔵たま

 

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り兼。モウゆるされぬと飛かゝるを。半七見るより走リ出いだきとめて。マア/\お待と抜身を
取リ。何ンで有ふと私に。お任せ有レとなだむれば。半七。よい所へ来合した。おれが恥を雪。分別せいと若
気の一ツてつ。気にさからはぬ発明者。お気づかひなされますな。お前のお顔は立テますと。ふすい
が傍に立寄ツて。小判をまくは。家内の者にひろはせての賑ひを。御覧なさるゝお慰の。妨を
したと有ルお腹立。此はきつい御心。それ故そちを。以前ンのことく坊主にして追払ひ重て旦那
の御前へはかなはぬと。鬢かづらを引ツぱつし。手討にするとおつしやれば。命がはりの此かづら。ナ合点ないたかと
打テひゞけ。事をわけつゝ両方を。一度になだむる半七が心づかひぞしゆせうなれ。放逸気随

 

の市蔵も。道理の詞にふせられて納得したる顔の色。ふすいは又半七が心をかんじ手をつかへ。
重て御前ねめされぬは。なんばう悲しいござれ共。御料簡遊ばする此悦びにはかへがたし。預カりおきし
お金を指上御ン暇申さんと。立上つて挟箱。ふた押シ明ケてさがせど金のあらばこそ。ふしぎ/\と挟箱
打返し/\。うろ/\するに人々はどふじや/\と立さはげば。ふすいは[革可]*3。ハハツト斗にどうと座し暫し。詞もな
かりしが。半七挟箱をきつと見て。此中へ入置しをよくしつて。錠前をたゝき砕き盗取たに紛れ
なしと。いはせも果ず長九郎。イヤこれ半七。それはちつとおろかな分ン別。其中へふすいめか。慥に金を
入たといふ。証拠なければ有論/\。さつする所此金は。ふすいめが盗んたれど。外のしわざといはせふ為。

 

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錠前に疵付ケたな。此推量にちがふまいと。おのが悪事をかぶせんといひ廻せば。ふすいはせき上ケ。
何此坊主が盗んだとは。何ンぞ慥な証拠が有か。サア盗まずば金を出せ。サア其金が。なけれ
ば儕レ盗んだに極つたと。立チ蹴に蹴倒し出させにやおかぬとかさかけて。いぢめる心ぞ恐ろしき。ふ
すいは無念ンさ口惜さ。喰付クやうに思へ共。眼ン前見へぬ三百両。とかうの事もないじやくり身を
ふるはして伏しづむ。小かつは見るに気の毒さ台鼓持チこそなさんすれ。常から気しつはしつて居ル。
よもやとわしらは思ふて居れど。預らんした物がなければ。どふも此場がすみにくい。早う言訳さん
せいのと。姉が詞に三勝も成ル程そふでござんす共。サア言訳はないかいなと兄弟倶に立寄ツ

 

てゆすりうごかし尋れど。顔ふり上て見た斗リ。泣より他の事ぞなき。市蔵猶も納得せず。
纔金は三百両それ惜むてはなけれ共。いかにしてもしかたが憎い。長九郎はからや/\。畏つたと
立上りふすいが利腕しつかと取。サア代官所へ引て行。立上れと引立るを。半七暫しと押シとゞめ。コレ
長九郎殿。こなたは人もしつた宇治やの内では大学者。其弟子の若旦那。おふたり様へ此様なちん
ぷんかんは釈迦に経なれど。事の疑はしいは。ふたゝび是を正すとの事じやげな。あながちふすいがぬ
すみしと。慥な証拠もない事に。代官所へも渡されまい。今一トせんぎして見よふと引すへて。ヤイふ
すい。言訳をせぬからはどふでも儕れに疑かゝる。といふて慥な証拠もなければ。ごうもんして

 

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是非を正し。明白に白状させる。身うごきすなと立寄ツて。巻上し御簾むんづと掴引放さん
とする所を。長九郎飛かゝり半七それは何するのじや。ハテふすいめが詮議をする。ム丶此御簾を
引おろしふすいめが詮議とは。サレバナ。竹はもとすなをな物。人の心も竹にによと神の教。さるに
よつて神前にと上つかたの御殿にも。其すなを成ル竹を割。簾にあみて御簾と名付ケ。〈いましめ〉の為
かけ置カれる。其直なる竹を以ツて。心のゆがみしふすいめを。ぶち伏白状させるが誤りかと。ふり放せば
又取付キ。サア/\それは心じやが。それ程に詮議せずと。よしにしたがよいわいの。そりな又なぜに。ハテ
ふすいめは盗はせまい。外を詮議して見ると。身をもみあせれば顔をながめ。たつた今迄盗人

 

はふすいめじやといふたこなた。俄にそふは有ルまいとは。ハ丶扨は誰レといふ事よふしつてか。イヤそふでは
なけれど。なけれ共ならゆるされぬと。なんなく御簾を引はなし。拷問の塩梅見よとふり上れば
ばら/\と。こぼれ落ちたる三百両。ヤア金が爰にと人々は[革可]。呆たる斗也。半七金を取リ上て市
蔵が前に置キ。ふすいめが覚へわるく。御簾の内へ入置キしを。挟箱と取違へ。旦那にもお腹を立さ
せ。其身も盗人呼はりせられ。重々のたはけ者。しかしながら金さへ出れば。きやつがあかりは立まし
たと。長九郎がしはさとはしれ共にいはぬ半七が。心の内ぞ奥ゆかし。市蔵ほつとせいつかし。コリヤ半七。
其方が働で。金は無事に戻つたれど。おれは大分ン気が尽た。わつさりと酒にせまいか。是は

 

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てんとよござりましよ。サア長九殿。奥へ/\。おりやそんな事しらぬわいの。勝ツ手にさしやれとむ
くろ腹。市蔵何ンの気も付カず。サア御家老。そちが居ぬと座敷が持チぬ。三勝殿も半七をつ
れて立ツてサアお出。小勝たちやいのサア/\と。手を引あふて現なく。酒には酔はで長九郎が。わるいたく
みによはされて皆々。引連レ入にけり。ふすいは一ト間を忍び出。台所にて隠したる出刃庖丁を鼻
紙に。くる/\巻て懐へいらつく胸を撫おろし。奥の様子を窺ひて。尻ひつからげ逸参にかけい
らんとする所へ。ぬつと出たる半七が。顔見るより恟りし。からげおろしてさあらぬてい。半七は心付カ
ず。そかあはまだいなずにか。アイヤ忘れた物がござりまして。道からちよつと戻りました。早ふいんで

 

休みやいの。アイ/\お暇申さふと。いぬるふりしてかたかげに立びてぞゐたりける。半七は手をこまぬき。
しばし思案の顔に皺。ム丶そふじや。武士道は立テね共。主を大事と思ふには町人迚も同じ事。儕レ
長九郎待おれと。覚悟極めし風情にて。尻引からげ身繕ひかけ入ラんとする所を。ふすいはすかさ
ず飛ンで出しつかとだきとめ。コリヤ半七様何なさると。留めてもとまらぬ有様に。待た/\何ぼでも様子
聞ねば放さぬと。いふ口おさへてだまれ/\。サア夫レなれば声は立テぬ。其様子は。長九郎めを殺しに行。ヱ丶につ
くい大悪ク人。親半兵衛は在所へ引。親旦那の教貞様は隠居のお身。何もお構なされぬ故。番頭
顔にのし上り。アノ若い市蔵殿に悪い事のせいらいを。教へこんであほうに仕立テる。魔王と

 

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いふあいつが事。殺してしまふが家の為。おれは命を捨てゐると。又かけ出すを引とゞめ。サアそれは成程
尤。お為にならぬ悪ク人。殺してしまふはよけれ共。高があいつも奉公人。追イ出せば済事。今殺して
のどふしてのと。其様なさはぎが出来ては。もとのおこりが市蔵と。代官所の評議に成リ。かへつてあな
たの難義になる。爰が悲しい。町人の身の上は命を捨たばつかりで。つい事は済ませぬ。よふ分ン
別して見給へと。物に馴たる利発の異見。台鼓持チには惜かりし。半七とつくと聞届。いかさま
そふじや。あいつを殺し。死ンでしまへば事済ムと。飲込だは誤り。跡の段へ気が付カなんだ。スリヤ御合点が
参りしか。ハア丶忝や嬉しやと。悦ぶ顔をとつくと見。さ程跡の難義を弁へ。市蔵殿を大切ツに思ふそ

 

ちが。懐に出刃庖丁。誰レを殺しに行気じやと。いはれてハツト胸おさへ。物をもいはず。蹲る。半七辺
を見廻して。様子聞ねど知レた事。長九郎に鬱憤を。いはふと思ふ気で有ふが。夫レではやつぱり跡の
難義。きやつが金を盗ンだは。其時から知ツたれ共。態しばしためらひしは。浪風もなふ長九郎めを追イ出
さんと思ふ故。人を殺せば其身もコレ死ねばならぬ。スリヤ年寄ツたそちが母。おれが為にも乳母成レば。
血こそ分ケね母同然。おことが死で誰カ育む。親の事は思はぬか。女房はかはゆふないかと。打返したる
半七が異見の詞骨身にしみ。声をも立ずむせび入ル心ぞ。思ひやられたり。やゝ有て顔を上。
商売迚人々の。はき物迄なをせ共。ついに是迄盗人と。いはれた事のない私。盗賊にする

 

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のみならず。すねにかけたる口惜さ。身の明りは立ツにせよ。モウ此顔は立ぬと思ひ。無分別の有ル条。
利口そふにおまへには。跡の難義をいふたれど。私が身にはとんと心が付カなんだ。母の事迄言ならべ数々
の御異見。もふ胸がはれましたと。真実見へたる其気色。夫レでおれも落付イた。必無念ンの虫をおさへ。
乳母に孝行尽してたも。おれもよつて久しぶり顔も見たいが。又其内と念頃に。頼む/\と涙声。
座敷はさはぎの一ト踊。是をきて見よかしのへ。ア丶あれを聞きやふすい。アノたはいのなさでは行
末が心もとないと。奥を見やりて目にもつ涙。こなたは今さら身の上を。うらみ。くやみ
の口おしなみだ袖に。しほ/\と我家に。こそは。帰りけれ

(四巻目につづく)

*1:そのほか関連作として、歌舞伎狂言『けいせい楊柳桜』(寛政5年[1793]正月大坂中の芝居初演)、浄瑠璃『持丸長者金笄剣』(寛政6年[1794]3月大坂豊竹此母座初演)がある。

*2:手水鉢を「無間の鐘」に見立てて叩くという所作事は初代菊之丞の『けいせい福引名護屋』(享保16年[1731]正月江戸中村座初演)からはじまる。人形浄瑠璃『ひらかな盛衰記』(元文4年 [1739] 4月大坂竹本座初演)の神崎揚屋の段で梅ヶ枝が手水鉢を「無間の鐘」に見立てて叩く趣向はこれを受けたもの。

*3:革+可で一字。あきれ。