TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 2月東京公演『傾城恋飛脚』新口村の段『鳴響安宅新関』勧進帳の段 国立劇場小劇場

3月の地方公演やイベントが多数中止になっている。2月公演は全日程公演できて本当によかった。

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第三部『傾城恋飛脚』新口村の段。

新口村やりすぎと言いたいところながら、実際に観るとやっぱり面白い。

 
 
 
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今回新鮮に感じたのは、「孫右衛門ってこんなに若い印象だったっけ?」と、「梅川は世慣れている」という点。 

孫右衛門〈人形役割=吉田玉也〉の若さは印象的だった。前からこんなに若かったっけ?

「孫右衛門は老足の」といっても50代くらいに見える。髪が黒め(っていうかこげ茶系)だから? 今回だけ特別なのかな? と思って過去の舞台写真を見てみたら、元々髪は黒めだった。若く見えるのは、玉也さんの芝居が以前観たときに比べて変わっているのだろうか。それとも、今回の2月公演は在所ジジイネタ3連発プログラムなので、第一部の佐太村・白太夫〈吉田和生〉や第二部の野崎村・久作〈桐竹勘壽〉と比較して若く感じているのか。体が硬そうで動作がちょっと「よっこらしょ」入っており、ひょいひょいしている白太夫や久作よりも、孫右衛門はまだまだ体を元気に動かせそうだった。

孫右衛門は、初日とそれ以降では、梅川が目隠しを外したときのリアクションが異なっていた。初日では梅川が目隠しを外しても外されたことに気づかずそのままでいて、数秒後に「はっ!」として少し目を背け、忠兵衛を見るのをためらい、しかしおずおずと見るようにしていた。それは目隠しをしているときから心の目で忠兵衛を見ていたのでそうしているのかなと思ったら、後日は目隠しを外された瞬間顔をそむける方式になっていた。過去に玉也さんの孫右衛門を見たときはそうだったので、これが玉也さん的平均リアクションなのだろうけど(そのほかの役でも基本的に演技大振りだし)、それでは初日はどうしてすぐに顔をそむけなかったのか? 気になる。

あそこまで目を背けるからには、絶対に忠兵衛の顔を見られないという孫右衛門の義理堅い精神性をどこかで担保しなくてはならないが、床含めた全体として正直、そこまで詰められている印象ではなかった。それでいうと、梅川に「京のご本寺様へ上げうと思うた金なれど」でお金を渡すときに梅川の顔を見ず、下手に顔をそらすという義理ゆえの「他人のふり」はされていた。新口村は、孫右衛門の心の揺らぎが見どころだと思うので、今後もよく見ておこうと思う。和生さんが孫右衛門をやるときがあったら、役解釈ウォッチの狙い目だと思う。(和生さんは演技自体に頼らず性根を表現するので)(なに言ってるか自分でもよくわからないが、そうだと思う)

最後、忠兵衛を必死に抱きしめる芝居は、めいっぱいの気持ちにあふれていた。孫右衛門にとって忠兵衛は、大人になっていても気持ちの上ではずっと子供なのだろうと思った。

あと、今回の孫右衛門は、マフラーがほんとに「ほわ」としていて、あったかそうで、良かった。ああいうマフラーしている人、いる。と思った。

 

もうひとつの「梅川は世慣れている」という点。これは間違いなく梅川〈吉田勘彌〉の人形の演技によるもの。かねてより「勘彌さんは絶対遊女役が良い」と思ってきたが、それを確信した梅川だった。

孫右衛門は梅川の様子を見て素人ではないことに気づき、息子忠兵衛とともに遁走した大坂の遊女であると悟る。ただこの「孫右衛門に遊女であることを気付かせる、しかし息子を任せられる良い女性だと思わせる」梅川の佇まいというのは、並大抵のことではないと思う。少なくとも新口村のような素朴な在所で浮いていないといけないということだと思うが、めちゃくちゃ浮いていた。忠三女房〈前半=吉田簑一郎/後半=吉田清五郎〉や孫右衛門、ひいては忠兵衛〈吉田玉佳〉からも、あきらかに物腰が浮いている。都会の玄人感がすごかった。ここまでくっきり浮いた梅川はいままであまり観たことがなかった。

どこがどうなって浮いて見えるかというと、所作の色っぽさからだとは思う。身体の位置の上下や振りが大きめの色っぽい仕草ながら、所作の速度や浄瑠璃との間合いの取り方によって優雅さを保ち、かつ、梅川の遊女としての格(下級の遊女)に見合った寂しい佇まい。新口村の人々の貧しさや在所ゆえの侘しさとはちょっと違う。江戸時代の上方の遊女といっても誰も見たことがない存在だから、これが正しいとか間違ってるとかは誰にもわからないけど、少なくとも在所の人々(行列する新口村の村人の皆さん、最高)と物腰は全く違う。しかしそれとは別にどこか地に足がついたところがあるということが直感的に感じられた。上方文化講座で見た小春とはまたちょっと雰囲気が違うのも良かった。

孫右衛門が梅川を都会の遊女だと気づくきっかけのひとつに、彼女の持っている懐紙が真っ白の綺麗な紙であることが挙げられる。今回の孫右衛門は、梅川の白い懐紙と自分の茶色の懐紙とを比べて「ん?」というニュアンスのある芝居をしていた。私、新口村を初めて見たときはあれの意味がわからなかった。いまの感覚からすると、孫右衛門が持っているような茶色の紙のほうがオシャレげなイメージがあるから……。あと、古手買いを追い払う忠三女房の「田舎に余計な紙はない」的な話を聞いていなかったので……。

 

忠兵衛は玉佳さん。微妙にしょんぼりした雰囲気で、いい感じにヘタレておられた。物置(?)の格子につかまって外を見ている様子が妙に似合っていた。玉男さんとは違う意味でのヘタレな雰囲気。勘彌さんの梅川と見比べると、ほんと子どもっぽい。弟っぽさがある。その対比で、梅川はしっかりしている、世慣れているなとより一層感じた。

新口村の難関(?)、「覚悟極めて名乗つて出い」「今ぢやない/\」で忠兵衛が上手の一間から走り出る部分。話の意味を理解していないお客さんは笑ってしまいがちな場面だが、忠兵衛の出を「今ぢやない/\」よりだいぶあとにすることで孫右衛門・忠兵衛の心の内をわかりやすくして、ギャグっぽくなるのを防いでいた。いろいろ工夫があるもんだなと思った。


新口村は全体的に、床も人形もこじんまりと静かな印象だったのが良かった。勧進帳も虚構のイイ話だけど、新口村の虚構中の虚構のイイ話。雪の舞う新口村の情景もどこか現実ではない雰囲気が良かった。虚構の村の虚構の家の中で起こる、「こうであったらよかったのに」という虚構の物語というどこか悲しい印象が、舞台の上にあらわれていた。

 

 

 

『鳴響安宅新関』勧進帳の段。

 
 
 
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弁慶=玉男様、冨樫=玉志サンというかねてより期待していた通りの配役。ワーイと喜び勇んで、玉志サンが配役されている前半日程中心に行った。弁慶も冨樫も真面目で誠実な心を持った人物だが、その真面目さや誠実さは微妙にベクトルが異なる。それが玉男さん玉志さんの配役にマッチしていて、とても良かった。

 

弁慶=玉男さんの納得感がすごかった。「なるほどね〜、弁慶ってこういう人だったんだ〜」という不思議な納得感があった。観客、誰も弁慶見たことないのに、出てきた瞬間、「弁慶だ〜☺️」と全員納得。謎の客席一体感。人形とは思えないサイズ感と存在感、体幹強そう感がすごかった。

弁慶は全員出遣いで、左=玉佳さん、足=玉路さんだった。人形遣い3人とも出遣いだと、その対比で人形の小ささが強調されるため、人形が人間よりちっちゃいことがはっきりわかるのだが、弁慶はやたらでかく見える。国立劇場のステージの下手半分が弁慶のオーラで覆われているようだった。カブトムシならヘラクレスオオカブトだと思った。

弁慶は常にまっすぐシャキッッッ!!!!と立っていて、動いてもずっとシャキッッッ!!!!としている。そのシャッキリぶりから愚直なまでの生真面目さ、誠実さを感じた。それは冨樫も温情をもってくれるよというピュアなドまっすぐさだった。

それにしても弁慶、ほかの人形の8倍はごん太い。あの体幹のごん太さは、おそらく、かしらが超安定しているのと、人形の重心が超FIXしていることによるものだと思う。

最近とみに思うのだが、文七等の大型の人形の場合、よく見ていると人形のかしらがグラグラしている人がかなりいる。慣れていない人はもちろん、本役でもらっているような人でもポーズを変えた瞬間に不要なぐらつきが起こる。かなり重いものを棒1本、片手で支えていて、かつそれを宙に浮かせた状態で長時間続けているのだから、普通は揺れて当然だと思う。そういう揺れがほとんどない人って3人くらいで、そのうち玉男さんだけはいかなるときも絶対に揺れがなく、ビシッとしている。一体どうやってるんでしょうか。

また、人形の重心がFIXしているというのは、人形の腰の位置を動かさずに動作が構成されていることによると感じた。動作の支点が存在することで動きが安定して見える。そして、全体的に、人形がしっかと腰を落とした姿勢になっている。そうなると人形遣いのほうも腰を落とした相当無理な姿勢をしなくてはならなくなるが、それを毎日やっているのはすごいと思った。

それと、弁慶は、足拍子がやたらでかかった。今回は最前列から後方列まで様々な席に座ったが、上手11列目まで「ドン!」という足拍子の振動が伝わってきた。さすがにこの距離では幻覚かと思ったが、隣の人がびっくりしていたので、幻覚ではないと思う。寝ている人も起床した。

延年の舞は無骨で力強いものだった。冨樫への感謝の真心から舞っているのだと思った。扇を右脇に構える所作がかなり美しく決まっており、この弁慶は武骨ながら舞の心得があるのだろうと思った。いや、あまりに綺麗に構えていたあたり、玉男さんが仕舞を習っておられるのかもしれない。あそこまで綺麗に構える人形もなかなかおらんので。

最後、舞台からみんなが去った後、ひとりでそっと冨樫の去っていった方向に礼をしている姿の生真面目ぶり、実直ぶりもよかった。

ところで、玉男さんは芝居が常に超安定しているわけだが、今回、気づいたことがあった。冨樫との問答で弁慶が「臨兵闘者皆陣烈在前」と九字を切るところ、あれ、後半日程のほうが確実にうまくなっている。最後のほうの日程はものすっごい綺麗に切っていた。演技が安定しているベテランでも日々向上してるんだなと思った。

 

玉志サンの冨樫は、凛々しさ、清潔感、篤実さ、優美さがあって、とてもよかった。玉男さんが弁慶に馴染んでいるのと同じように、玉志さんも冨樫に異様になじんでいた。武張った方向ではなく、知的でクリーンな印象が関守らしい。清々しくまっすぐさがあった。白塗りの検非違使のかしらに似合う神経質な緊張感をそなえつつも、それがいやらしくならない透明感があり、真摯さを引き立てる若々しい雰囲気。そして、弁慶とは違うニュアンスで、ピンッッッ!!!!と立っていて、所作がピンッッッ!!!!としていた。弁慶に勧進帳の証明を迫る場面の美しい緊張感がとくによかった。

細かい部分では、弁慶を観察するときの目を引く速さが上手く役に乗った速度になっていて、冨樫の集中した視線の印象がとても自然に出ていて、よかった。いままでは、視線の使い方はよくても動きが速すぎて客は理解できないと思っていたんだけど、12月の熊谷役で目の引き方が劇的によくなったと思う。それが今回の冨樫に活きていた。

玉志さんの冨樫役最後の日、「強力待て」で大紋の右袖を外に跳ねるとき、袖が人形の手にひっかかるというトラブルがあった。それが簡単にはなおらず、舞台は進行するけど冨樫は袖が腕にかかったまま。冨樫が袖を跳ね上げるというのは「袖を跳ね上げる」とあらかじめ知っている客にしかわからないはずで、引っかかり方も綺麗だったのでそのままでもそこまでおかしくない(外そうとして変にモゾモゾするくらいならそのまま続行したほうがいい)と私は思ったんだけど、玉志さんには許容できないことだったようで、外していることが目立たないよう後ろから衣装を咥えて引っ張るなどで、なんとか外そうと試みていた。あそこから冨樫の雰囲気が一気に緊迫して、あの真剣さはすごいなと感じた。まもなく介錯の人が気づいて外しに来てくれたので、無事、冨樫は綺麗な姿になった。

こういうトラブルの始終を見ているのは観劇にはいらんことではあるが、玉志さんの真剣さを尊敬した。こういう細部までのこだわりがある人でないと、検非違使や文七のような人形は遣えないのだと思った。人形自身の持っている気迫を上回る精神力がないと、勤まらない。

気になっていた、冨樫は弁慶と渡り合えるかという点。文楽勧進帳を上演する上で、弁慶と冨樫が真正面からぶつかり合う、いや、ぶつかり合える力量を持った人同士であることは必須要素だと思う。玉男さんの弁慶が鉄板なのは間違いない。そこにどうやって対抗していくのか、とても心配だった。

これは予想をはるかに超えて、弁慶と冨樫が正面から衝突していて、よかった。当然、玉男さんと玉志さんは経験値や技量に差が開いているんだけど、冨樫は弁慶の金剛石のようなまっすぐさとはベクトルの異なる凛としたしなやかなまっすぐさで、異なる性質のもの同士の衝突となって、見応えを増していた。心配など余計なお世話だった。そのままでよかったのだ。冨樫は初役だと思うけど、よくここまでもってきた。玉志はこのまま玉志のよいところをどんどん伸ばしておくれ😭😭😭と思った。(何様?)

 ↓ この冨樫、玉志さんです。

 
 
 
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四天王は、若い子3人+亀次さんという配役だった。当たり前だけど亀次さんが一番ちゃんとしてるな……。人形がちゃんと歩いているように見える。若い子は頑張ってるんだけど、胴体や頭が動かず足だけで動いているから、『アダムスファミリー』(古い)で廊下をすーっとすべるように動いていく幽霊みたいになっていた。そういうふうにしろって師匠たちに言われてるのかもしれないけど、人形も不安定で、相当不自然な印象。言いたかないが、許容範囲を超えて下手な子もいたし。年の功を感じた。

途中、ぼーっと見ていて、四天王が1人増えてる……?と思ったら、玉佳さんだったのは面白かった。なんというか、人間なのに、人形の群れになじんでいた。玉佳さん、絶妙に動きが人形めいていて、良い。弁慶が白紙の勧進帳を読んでいる間、玉佳さんも勧進帳を読んでいるのも、良い。そして、死にそうな表情でいらしたのも良かった。

一方、冨樫が連れている番卒ツメ人形、右から2番目のやつ、顔がのんきすぎて笑った。弁慶と冨樫はあれだけ真剣なのに、緊張感のない顔でのこのこ出てくるのが良い。コンビニでカップ麺を買うときは必ず1.5倍サイズのやつを買うタイプの顔だと思った。

 

勧進帳はあまりに歌舞伎向けな演目に思えて、文楽で上演する意味はあんまりないと、正直、思う。話のタイプとしても、見栄えとしても。文楽の通常営業からすると、冨樫の見逃しはくさすぎる。切腹覚悟でやっているというのはわかるけど、あそこに頼朝が押しかけてきて、冨樫が頼朝を説得するためにその場で切腹し、それと引き換えに弁慶らを一度見逃させるとかでない限り、安直(過激文楽思想)。

でも、弁慶の性根と玉男さん持ち前の強靭で実直な雰囲気がマッチしていて、弁慶という役の引き立つ芝居になっていて(それは玉男さんじゃなくて、人形の弁慶が)、見応えがあった。人間じゃない弁慶は、ちっちゃいぶん、なんだか本当に真剣そうで、けなげそうで、いい。六法を踏む引っ込み、今回は花道が出なかったので舞台上でやっていたが、ちょこ、ちょこ……とした仕草が人形らしくて、よかった。弁慶はがんばって生きていると思った。

あと、文楽の弁慶は、あごのところのポンポンがねこのふぐりみたいで、可愛い。服についているポンポンとは素材が違うのがまた、いい。

 
 
 
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今回は、会期5日目の12日になってから「アフター7チケット」という勧進帳から観られる幕見チケット(3,000円/1等席のみ)の発売が発表された。その時点ですでに第三部を数枚抑えていたため、「今言うな」と思ったが、素直な性格なのでそれを利用して後半日程も1回行った。

開演直前にチケットセンターで確認したところ、上手前列に空席があったのでそこに入れるかもと思ったのだが、開演10分ほど前に行ってチケットを買ったら、センターブロック後方の席を案内された。

で、後半観てみたのだが、冨樫のような大型で大紋姿の人形はまっすぐに持つこと自体がかなり難しいことがよくわかった。頑張ってもらうしかないが、文楽は「頑張ってます」じゃ許されないですからねえ……。それと、前半だと玉志サンが冨樫の品性を大幅に担保していたので弁慶と冨樫のキャラクターの差がはっきり出ていたが、後半は誰も担保できない状態になっていた。三業すべて、もうこのさい上手い下手とかはなんも言わないので(言ってるけど)、とにかく、品がいる役には品を担保して欲しいと思った。

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しかし梅川の左の人っていつも同じだよね。この人が梅川を本役で遣う日がくるのはいつになるんだろう。近いような気もするが遠いようにも感じる。正直、近い気がする。近くても遠くても、別々の意味で悲しいことだ。そう思って梅川のクドキのところを見ていたら、もはや話の内容とは関係なく泣けてきた。それが一番泣けた。

勧進帳もそう。今後弁慶って誰が遣うようになるんだろうなと思った。前半日程最終日、弁慶が舞っている間、玉志サンは冨樫を持ちながら弁慶をじーーーっと見ていた。弁慶の足は将来弁慶を遣うことを見込んでつけられていると聞くが、玉志サンは先代玉男師匠ご存命の折、弁慶の足を遣っていたはず。玉志サンが本役で弁慶を遣う日はいつだろう。玉志サンて研修生出身でなんらかの後ろ盾があるわけじゃないし、ご本人は派手な振る舞いをする人じゃないようだから、本当に実力で熊谷なり冨樫なり権太なりの大きい役を得ているのだと思う。しかし弁慶はそれとはまた違った素質が必要になると思うので、今後どうなるのか、見ていきたいと思った。