TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 3月地方公演『二人三番叟』『摂州合邦辻』『本朝廿四孝』『釣女』高崎芸術劇場

3月の地方公演は、行こうと思っていた府中・藤沢が中止になったため、久々に出張して高崎公演へ行った。

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高崎芸術劇場は、高崎駅から徒歩6分ほどにある大型劇場施設。駅から屋根つきの空中通路で直結しており、アクセスはとても快適。

2000人収容の大型コンサートホールも備えている劇場だけど、文楽公演は「スタジオシアター」という、ステージ低め・席が可動式の、現代演劇向け設計らしいシンプルなスペースで行われた。今回の収容人数はおそらく500席くらいだろうか。客席千鳥でなく全席販売しており、平日公演ながら昼夜ともほとんど全部埋まっていた。

出した音が率直に聞こえる音響設計のようで、音楽ホールのような残響、反響は起こらないようだった。語った通り、そのままの音が聞こえる印象。詞の部分がはっきり直接的に聞こえるのは良いが、地の伸ばし部分や音を揺らす部分は、本当にきれいに処理されていないと、ブツッと切れて聞こえていた。三味線も同じで、弾いたそのままが率直に聞こえる印象だった。ニュアンス表現のテクニックが出るので、うまい人ほどうまく聞こえると思った(そのまんま)。

床は一般的な地方公演会場と同じ設営で、出語り床が客席へ張り出して設置されていた。一般のホールよりスペースに余裕があるのか、延長床がさらに右側に設置され、大人数が座れるようになっていた。壁側には本公演同様の出入り扉までついていて、地方公演ながら本格的。おかげで、『二人三番叟』『釣女』でも、出語り床に太夫・三味線が全員並んでの演奏が可能になっていた。本舞台は定式幕が張れないらしく、備え付けの黒い簡素な中央開きの幕を開閉する方式になっていた。

ところで、入場時にミネラルウォーターのペットボトルを無料配布でもらったんだけど、どういうサービス? 群馬県で採水されたオリジナルブランドとかでもなく、普通の商品。ホール内のスタンドカフェが営業中止しているための措置なのか? チケット料金がかなり低価格なのに、いいのかな、すまんのうと思ってしまった。

↓ 空中通路から撮った会場。絶妙に邪魔な位置にあるビックカメラ看板が味わい深い。

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昼の部『摂州合邦辻』。

和生さんの玉手御前がとても素晴らしかった。玉手御前がいったいどういう人物であるか、「合邦住家」がどんな話であるか、蒙を啓かれた思い。

以前、和生さんがトークイベントで、このような話をされているのを聞いた。

師匠(故・吉田文雀)の教えでいまも有難いと思っているのが、「役のとらえ方、考え方」についての部分。この人物は何を訴えて帰るのか? 何をしたい? 何者? 侍なら、石高はいくらなのか? ……こういった、サキ・アト・ウラのものの見方を師匠から学んだ。

文楽 トークイベント:吉田和生「『大経師昔暦』について」文楽座話会 - TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

「この人物は何を訴えて帰るのか? 何をしたい?」……、まさに、これが表現された玉手御前だった。

文楽にとって、浄瑠璃原文を正確に表現することは非常に重要で、それが最も大切であると思っていた。しかし、玉手御前は何をしようとする役なのか、彼女の本質を表現するためには何をどう表現されているべきかを、自分はよく考えていなかったな、ずいぶん無神経だったと思った。

玉手御前にとって一番大切なのは俊徳丸を守ることで、そのような誠心をそなえていることが彼女の本質であり、その崇高さが玉手を浄瑠璃のヒロインたらしめている。「合邦」でよく言われる、玉手の邪恋が本心か芝居かというのはあくまで趣向であって、彼女の本質とは関係ないんだな。
玉手御前を「やり甲斐のある好きな役」と語る先代吉田玉男師匠の談話が『吉田玉男 文楽藝話』に収録されている。そこでは「俊徳丸への恋が本物かどうか議論になるところですが、その真偽のほどは置いて」と語られており、「え、そこを置くの?」と思っていたけど、なぜこの部分を略したかがわかった気がした。
もちろん、合邦を怒らせるための狂態あるいは嬌態の演技はちゃんとやっている。だけど、そういう派手な部分以外の、彼女の誠心が顕れたなにげない所作にこそ意味がある。立体的な、そして、人を思いやる心をもった人間の息遣いを感じるような芝居だった。その表現が本当に素晴らしく、「合邦」の見方がかなり変わった。

最も印象的だったのは、玉手御前が父・合邦や母の胸にじっと身を寄せるときの、ただただ純粋で、まじりけない気持ちがあらわれた姿。玉手御前は見た目はものすごい美女なのだけど、そこだけは少女のよう。彼女の真実がここにあらわれているんだなと思った。家の戸口で中に入る許しを請うときには、ほんのわずかに、両親との別離の覚悟の悲しみが細かな露となって彼女のうえにとどまっている、寂しげな佇まいに哀れを感じた。

そして、玉手御前はとても美しかった。実際にはいつも使ってる普通のかしらなのだろうけど、そうとは思えないほどの凄艶さだった。ほおがふっくらした、大きな真珠をイメージさせる、気品のある美貌。しかしどこかに少し険と毒があり、かなり大人っぽく見える。だけど、険や毒のように感じられたものは、彼女の決意があらわれたものだったのだなと思った。それも、とても良いと感じた点だった。あとは、母に手を引っ張られて暖簾の奥へ引っ張り込まれるときの「イヤ〜〜〜〜〜イヤイヤイヤ〜〜〜!!!」ぶりが可愛くて良かった。散歩中に意地でも動かなくなったワンコのようで、かなり駄々をこねていた。

和生さんは、2月の『伽羅先代萩』の政岡の、感情が人形のかたちを借りてあらわれたような限りない純粋さが、本当に素晴らしかった。この玉手御前も、おなじ意味で、彼女の心そのものが限りない純度をもって結晶化していると感じた。和生さんは本当に、格が全然違う次元にきたんだなと思った。

 

合邦は玉也さんが休演され、代役で玉志さん。玉志さんの合邦は昨秋の地方公演でも観たが、そのときからは雰囲気が変わっていた。
役作りが違うとかではなく、よりストレートになっていた。こしらえた装飾や作為がなく、合邦の懸命さと一心さがご本人のそれと一致しており、たいへんに清新な印象だった。合邦は、自分が正しいと思ったことにはなりふり構わない行動をとる。言い換えると、なりふり構わない行動を「とることができる」、まことの心で生きている人物だ。それを率直に表現していたことが、とても良かった。「なんかやってる」芝居感を出したほうが受けはいいと思うのだが、そこを排しにいったのはすごいなと思った。
冒頭、不義者の玉手のことは思い切ったと言いながら、もう死んだのだから可哀想と言ってやってくれと女房に言われて一瞬逡巡し、首を振って「ア丶イヤ/\……」とするところ、最初はうなだれや迷いの意味で首を振っているようなのに、最後に詞がかかってくるところで思い切るように強く振るのは、合邦の親心と一本気さが出ていて、ストレートで良かった。そして、玉手が帰ってきて、しかし素直に「うれしーーー!!!!」とは言えず、娘に背を向けて上手で「ちょこん」とひざを抱えて座るときの悲しそうな姿(寂しそうにしている様子が若山富三郎的というか、ちょっと動物っぽいのが玉志さんらしい)。
玉志さんは2月の『先代萩』の八汐も最終週はかなりストレートな方向にいっていたが、ご本人の変化の時なのか、それとも和生さんとの相性によるものなのか。今後が気になる。

俊徳丸は玉佳さん。人形が目を閉じているとははっきりわからない後方席から見ても、目が不自由であることがわかる所作だった。常に肩を竦めて、周囲に気を張ったような表情(というか、顔の向け方ですね)、かなりおそるおそる歩いている。ストーリー上、俊徳丸は目が不自由になって間もないので、その状態で他人の家に居候していたら、確かにそうなるだろうと思った。

 

それにしても、「合邦」は、休演が4人も出ていてヤバかった。
見に行く前日の夜に、知人の方から「玉志さんが代役で合邦になってますよ」と聞いて、文楽協会のサイトを見た。そうしたらほかにも休演・代役告知が出ており、切の三味線・燕三さんが休演、燕二郎さん代役という発表に仰天した。玉志さんと清五郎さん(文昇さんの代役で合邦女房)、それと当日発表になった切・咲さん代役の織太夫さんはわかるけど、あんな若い人が突然、巡業先の客前で、プレッシャーに負けず弾けるのかと思った。
めちゃくちゃ(私が)緊張しながら迎える合邦切、燕二郎さんは譜面台を出し、一生懸命弾いていらした。いくら譜面台を出していても、三味線さんは演奏の合間にしかめくれないのだし、大丈夫かしらとドキドキしたが、最後まで弾ききれて、本当、よかった……。たどたどしかろうが、お客さんの前で最後まで弾くのが大事だからね……。こんな音響悪い会場で、太夫も本役の人でないのに、よく頑張ったと思った。そして、この代役でいこうという決定をされた、ご出演の技芸員さん方も凄いと思う。単なる演奏技術だけで言ったら、そりゃ無理があるよ。でも、若い子に、やろう、と胸を貸してくれる人たちで、良かったです。*1

床は、配役変更もあって大変そうだった。混沌としていた。合邦女房の表現が荒いのが惜しい。彼女だけは一切紛れのない本心で行動するので、話し方などの表現に揺れがあると不自然な印象になり、話のピントがぼけると思った。人形でそれなりの人が配役されるのは、そのためなのだなと思った。

 

 
昼の部の最初についている『二人三番叟』、人形、ちょっと惜しい。片方の人形が若干ずれてるのは、床の音とどうタイミングを合わせるかの問題か。床を聞いていなくて合っていない部類とは違って、聞いてからやっているためにちょっと遅いのではという感じがした。兄弟弟子だからか、振りの認識違いはないようだし、そこがクリアされれば二人の人形の振りは合ってくるのではないか。
義太夫と人形のずれ、もしくは義太夫のリズムを無視した人形の動き、神経質になってきているのか、最近かなり気になって、神経がそば立つ。

 


今回はチケットを公演直前に取ったため、昼の部は2階席になった。と言っても、かなり小さい劇場のため、完全に空中に張り出しているような2階席ではなく、1階席の後方が1m程度高くなっているという仕様だった。
2階席からだとステージがやや覗き込みになり、人形が二重の屋体外に出たときは人形遣い3人の全身が見えるのが興味深かった。2階から見ると、人形がよりいっそう一生懸命生きているように見えて、良かった。合邦が段切で門口にある生首閻魔様を拝むとき、人形をうまくかがませるために、人形遣いが舞台下駄を片方脱いでいるのが見えた。我々が普段見えていないところで、いろいろやっているのだなと思った。あとは、小道具出し入れ等をしてくれる黒衣さんが後見のように待機している際、黒衣のワンピ風仕立ての下がどうなっているかわかって、勉強になった。

 

  • 『二人三番叟』
    義太夫
    豊竹靖太夫、豊竹咲寿太夫、竹本碩太夫/野澤勝平、鶴澤寛太郎、野澤錦吾、鶴澤燕二郎
    人形役割
    三番叟(又平)=吉田玉翔、三番叟(孔明)=吉田玉誉
  • 『摂州合邦辻』
    義太夫
    中=竹本南都太夫/鶴澤清𠀋
    前(切)=竹本織太夫(代役。豊竹咲太夫休演につき)/鶴澤燕二郎(代役。鶴澤燕三休演につき)
    後=竹本織太夫/竹澤宗助
  • 人形役割
    合邦道心=吉田玉志(代役。吉田玉也休演につき)、合邦女房=吉田清五郎(代役。吉田文昇休演につき)、玉手御前=吉田和生、奴入平=吉田玉勢、浅香姫=吉田一輔、高安俊徳丸=吉田玉佳

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夜の部、『本朝廿四孝』。

十種香。
勝頼は玉男さん。強い輝きを放つ、美々しく勁い佇まい。武将の嫡子らしい、堂々とした雰囲気。今回は十種香から出してるから「何事!?」と思うけど、景勝上使がついていたり、通し狂言で出していたら、この勝頼像はかなり説得力があると思う。景勝が登場する公演なら、その対照に置かれるべきプリンス像として、映えるだろう。
しかしあの体幹ごん太ぶりは本当に一体何なんだ。あまりに体幹がシッカリしているため、めちゃくちゃ強い光輝を放っているように見える。腰〜上体の構え方がほかの人と違うのだろうか。上体を若干前に傾けつつも、背筋は力みなく、まっすぐにスッと伸ばしている。なんというか、アスリート系貴公子というか……。玉男さんてお若いころからこういう勝頼だったのかな……。刀を杖にして思案する場面が眩すぎて、「キャーッ」って感じだった。

八重垣姫は簑二郎さん。大人しい、深窓のおっとり姫君という風情の八重垣姫だった。
簑二郎さんは人形が後ろ向きになるとき、かなり低い位置に構える傾向があると思う。この姿で出となる十種香の八重垣姫では、姫が絵像を仰ぎ見て、亡くなったまだ見ぬ許嫁にいまでも憧れている雰囲気が強く出ているのが印象深かった。壁にかけた絵像に手を合わせションボリしているところは、本当にションボリしていて(通常ミノジロオ比)、良かった。真ん中の間をのぞいてから、「やっぱ、違うよネ……」と一度絵像の前に戻るところが特に良い。奥庭との対比として、大変有効。

対照的なのが清五郎さんの濡衣で、黒い衣装がよく似合う、婀娜っぽいお姉さんだった。やや顔を突き出して横を向き、首を根元限界まで見せ、若干体を捻ったような姿勢。よーーーく見てしまうと不自然で怖いのだが(こういうのは簑助さんもそうなんだけど)、一連の動作として見ると、色気に感じる。しかし、大名の姫君である八重垣姫とは異なる、腰元らしい品があるのが良かった。10月に観た勘彌さんの濡衣より、大人っぽい印象だった。

それにしても、元々の設備の問題なのか、照明の色味がちょっとドキツイのが気になった。勝頼の出、なぜか紫っぽいライトが当たっていて、いや、まあ、確かに今回は勝頼が玉男様だからそれでもいいかもしれんけど、勝頼に当てる照明とちゃうやろと思った。(私の玉男様に対するイメージ→「独特な紫使い」)


奥庭。
八重垣姫の見せ方が通常の演出と異なっていた。最初に出現するキツネは黒衣、八重垣姫が火焔の衣装になっても人形遣いの着付の引き抜きはなし。
本公演でよくある演出(最初のキツネを八重垣姫役が出遣いで遣う、八重垣姫が火焔の衣装になる際人形遣いも衣装引き抜きで派手な衣装になる)より「地味」なのだが、人形を引き立て、八重垣姫の心情を描写する舞台演出として非常に効果的だと感じた。八重垣姫が火焔の衣装になって以降も、人形遣いは全員出遣いではあるが、人形が目立つ速度・所作にしていて、八重垣姫が非常に際立っていた。
特に、八重垣姫の孤独さがよく出ていたのが良かった。最初のキツネが出遣いでないのは、かなり効果的。あれを静かに終わらせると、諏訪明神の霊験の不思議、暗い庭にひとり現れる姫のうら寂しい気持ち、それを振り切っての決意がよく引き立つ。

簑二郎さんはおそらく八重垣姫初役だと思うが、初役ならご自分が存分目立つ演出でやればいいところ、よくよく考えられてのことだろう。今後もこの演出でいかれるとしたら、八重垣姫役への習熟によって、素晴らしい舞台に成長していくだろうと感じた。もちろん、せっかくの大役なんだから、ご本人自身が派手な振る舞いをしてもいいと思うけど。

奥庭は、文楽の中でも意図的に派手に見せることを趣旨としてきた演目だと思う。『吉田栄三自伝』によると、昭和初期には、八重垣姫役の人形遣いは松竹から毎回違う演出を求められたと聞く。しかし、10月に観た清十郎さんの八重垣姫もあわせて考えるに、いま現在の上演で、人形遣いでなく八重垣姫を目立たせる演出というのは、むしろ新鮮で的確なものであると思う。いままでに見た奥庭で、もっとも面白い演出だと思った。

床、十種香は、やはり八重垣姫のクドキの「かつよりさま」の「か」の音が気になる。そこにもう少し、八重垣姫の希求の気持ちが入っているといいな……。ただこのような細かいことが気になるというのは、それだけ達者であるということだと思う。奥庭は、三味線と琴が噛み合ってないのが謎だった。

 

 


『釣女』。
大名〈吉田文哉〉と太郎冠者〈吉田玉助〉の所作が狂言の所作になっていないのは、なぜ……? この演目、狂言の所作になってないと、意味なくない……?
意図的にやっているのなら理由を知りたいところだが、狂言の所作を排したところでそれ以上の舞台効果を上げているかといったらそうではなく、残念。特に太郎冠者は、狂言を知らないお客さんにでも「いつもの文楽と違うな」とわかるレベルで演じたほうがいいと思う。立ち方ひとつにしても、それによって舞台の雰囲気が変わる。そうして世界を切り替えないと、妙に大味な話にすぎない。

っていうか、あいつらの言動、知恵を使う方向が大幅に間違っているというか、必死になる方向性があまりにしょぼすぎて、古典芸能フレーバーがないと、福本伸行ワールドと化すというか、『ハンチョウ』とか『イチジョウ』状態になっちゃうから・・・・! と思った。

↓ 大槻、即座に文楽人形になれそうなお顔立ちが・・イイ・・・・

1日外出録ハンチョウ(1) (ヤングマガジンコミックス)

美女〈桐竹紋秀〉と醜女〈桐竹紋臣〉は姉妹っぽくて良かった。家の中がすごいやかましそう。本当にどうでもいいことだが、美女の左、普通は絶対やらない人がやってなかった……? 人手不足を通り越して、過疎地……、いや、限界集落……? と思った。

床はなんというか、自由な人が集まってきてしまったというか、三味線も含めてサファリパークな感じで、「そうかっ!(突然肩を組みながら)」と思った。床のみなさんの他人に一切興味なさそうな感じが話に合っていて、良かった。そこはかなり狂言ぽい。

 


夜の部は1階席だった。先述の通り、定式幕ではなく中央開閉の幕を代用した会場だったのだが、幕の間に微妙に隙間があいていたため、幕が閉まった状態でも、座席の位置によって若干内側が見えた。段切、幕が閉まったあと、トトトト……と下手へ帰っていく八重垣姫や醜女が見えて、可愛かった。客が見てないところでも愛らしいのがよかった。そして、わりとすぐ帰るんだなと思った。私も1秒でも早く家に帰りたいと思った。(高崎から自宅まで2時間強)

 

  • 本朝廿四孝
    義太夫
    十種香の段=竹本千歳太夫/豊澤富助
    奥庭狐火の段=豊竹靖太夫/野澤錦糸、ツレ 鶴澤寛太郎、琴 野澤錦吾
    人形役割
    花作り簑作実は武田勝頼=吉田玉男、腰元濡衣=吉田清五郎、八重垣姫=吉田簑二郎(奥庭 左=吉田一輔、足=吉田簑之)、長尾謙信=吉田玉志、白須賀六郎=吉田玉彦、原小文治=吉田玉路
  • 釣女
    義太夫
    太郎冠者 豊竹睦太夫、大名 竹本小住太夫、美女 竹本碩太夫、醜女 豊竹芳穂太夫/竹澤團七、竹澤團吾、鶴澤清𠀋
    人形役割
    大名=吉田文哉、太郎冠者=吉田玉助、美女=桐竹紋秀、醜女=桐竹紋臣

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今回の地方公演は、和生さん、簑二郎さんの人形演出に対する考えを感じ取ることができる舞台だった。観客として、様々な示唆を受けた。
和生さんは通常から大役も多く、トークショー等でお話を伺う機会もあったので、どういう考えを持たれているかはボンヤリとではあっても察する機会があったが、いままで知り得なかった、簑二郎さんの見解が感じ取れたのが非常に良かった。中堅以下の方だと、なかなか芸に対する考えを知りうる機会もないので、面白かった。行ってよかった。

今回は事前解説がいつもよりちょっと長いように感じた。詳しく話して欲しいというリクエストがあったのかな。『摂州合邦辻』と『本朝廿四孝』、説明したところでわかってもらえる内容ではないので、長いなら長いで、大変だと思った。

 

↓ 2020年10月地方公演の感想

 

 

 

  • 2020年度3月地方公演
  • 昼の部
    『二人三番叟(ににんさんばそう)』
    『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』合邦住家の段
  • 夜の部
    『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』十種香の段、奥庭狐火の段
    『釣女(つりおんな)』
  • http://takasaki-foundation.or.jp/theatre/concert_detail.php?key=235

*1:いま、エンジロ・インスタ見たら、梅田にある揚げたて芋けんぴが食える店について熱弁していて、のどかだ、と思った。私は芋はじゃがいも派なので、東京駅などにあるカルビー直営の揚げ芋屋に関心があります。

文楽『端模様夢路門松』『木下蔭狭間合戦』竹中砦の段 ディスカッション(木ノ下裕一・桐竹勘十郎・鶴澤藤蔵) ロームシアター京都

『端模様夢路門松』『木下蔭狭間合戦』上演ののち、第三部は「ディスカッション」として、木ノ下裕一さん・勘十郎さん・藤蔵さんのトークショー

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もくじ

 

 

はじめに 『木下蔭狭間合戦』上演史


本題に入る前に、トークショーの話題をより楽しんでいただくため、『木下蔭狭間合戦』の上演史を解説しておく。

『木下蔭狭間合戦』の初演は寛政元年[1789]1月、豊竹此吉座。当時は「太閤記物」が流行しており、本作はその時代の流れを象徴している。
同じ「太閤記物」でその決定打となった『絵本太功記』は、本作の初演から10年後の寛政11年[1799]7月、道頓堀若太夫芝居初演。

『木下蔭狭間合戦』は、戦前まで舞台上演が続いていた。人形付きでの上演は、昭和9年[1934]1月四ツ橋文楽座が最後となっており、今回の上演はそれ以来、87年ぶり。ただ、この時点ですでに珍しい曲となっていたようで、当時の番付には「偖初春興行の文楽座は数々の名作至芸の打揃ふた中に珍らしく「木下蔭狭間合戦」竹中官兵衛のだんを津太夫(引用者注・三世)が」と書かれている。その前の上演は大正9年[1920]なので、そこから14年ぶりの上演だった。*1

浄瑠璃では、その後も上演が行われることがあった。
昭和40年[1965]9月に、四代目竹本津太夫・六代目鶴澤寛治の演奏がNHKラジオで放送*2
また、それから38年後、平成14〜15年[2002〜2003]に早稲田大学演劇研究センターの研究・企画*3によって素浄瑠璃復活が試みられ、九世竹本綱太夫(後に源太夫)・鶴澤清二郎(現・藤蔵)が2003年5月に国立文楽劇場、12月に早稲田大学小野記念講堂で演奏を行なっている。
今回の義太夫演奏は、三味線に2003年の復活に携わった藤蔵さんが起用されており、早大の企画をベースに行なっている旨が配布パンフレットに書かれていた。今回端場がないのは、上記の演奏いずれもに端場がついていないため先例に倣うことができず、本企画のために新規で復元するのは難しいという判断だったのだろうか。しつこいけれど、実に惜しいことだ。

『木下蔭狭間合戦』の全段解説はこちらから。

備考 早稲田大学21世紀COEプログラム「演劇の総合的研究と演劇学の確立」での『木下蔭狭間合戦』素浄瑠璃復活に関しては、早大リポジトリを「木下蔭狭間合戦」で検索すると、報告や解説、演者インタビューを読むことができる。→早稲田大学リポジトリ

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ディスカッション(トークショー


以下に概略を示しますが、2日開催の両日でお話の内容が一部異なっていたため、内容を編集・統合しています。これそのままの構成で話していたというわけではありません。ご了承願います。


┃ 『木下蔭狭間合戦』の復活企画経緯について

木ノ下裕一 ロームシアターさんからこの話をいただいた際、文楽の今後につながる内容にしたいと考えた。
まず、2018年の秋の地方公演の際、静岡公演の勘十郎さんの楽屋を訪問し、「こういう企画があり、新作と時代物を」と説明して、引き受けていただいた。その時点で「竹中砦」をやりたいと思っていたが、そう言ったら断られそうなので、黙っていた。
その後、新作は勘十郎さんが若い頃に作った『端模様夢路門松』をやりたいとお願いして、勘十郎さんも再演したかった演目ということで、お引き受けいただいた。肝心の「竹中砦の段」については、演目を申し上げたところ、絶句された。

桐竹勘十郎 いつもやっているような演目の中からやればいいのかと思っていた。『木下蔭狭間合戦』は、外題は聞いたことはあるが、見たことがなく、だいたいの話しか知らなかった。

鶴澤藤蔵 ぼくは2003年に父(当時九代目綱太夫、後の源太夫)と文楽劇場・早稲田で素浄瑠璃でやったことがあり、人形が入るとどうなるのかなァと思っていたので、二つ返事で引き受けた。

太夫を誰にお願いしようかという相談になったが、四代目津太夫師匠がNHKラジオでやったことがあるので、津駒さん(当時)にお願いすることにした。「津駒さ〜ん、竹中砦やってくれませんか〜?」とお願いしたら、絶句していた(笑)。去年はコロナのために中止になって、今年はどうなるかなあと話していたが、あまりに大変な曲なので、「今年中止になったら、来年は無理や」と言っていた(笑)。

 

 

  

┃ 昭和初期で断絶した理由

木ノ下 かつては『絵本太功記』より上演回数が多かったのに、なぜ『木下蔭狭間合戦』は上演されなくなったのでしょう。(注:江戸時代〜近代の上演記録を調べると、実際には『絵本太功記』のほうが圧倒的に上演回数が多いはずです。何か違うことをおっしゃろうとして、言い間違いされたのか?)

藤蔵 昔は通し上演の興行が多かった。通しでやたっときに、筋がややこしいからではないか。かなりちゃんと見ないと、人間関係がややこしい。みんなが知っている話の『太功記』のほうがわかりやすい。『木下蔭狭間合戦』は、よっぽと通な人が好きだったんじゃないか。

木ノ下 『木下蔭狭間合戦』全段でみると、当吉と石川五右衛門が幼少だったころから、それぞれが大物になる数十年もの長い時間を描いていますもんね。

勘十郎 大河ドラマなら、一年間観ないといかん内容。『太功記』なら、有名な十段目(尼崎の段)だけでもマアマアわかる。

 

 

 

┃ 2003年の素浄瑠璃復活

木ノ下 藤蔵さんは、2003年に素浄瑠璃で「竹中砦」が復活された際の三味線を演奏されました。そのときはどのように作り上げていったのですか。

藤蔵 2003年に父と素浄瑠璃で復活した際は、昭和40年[1965]に四代目津太夫・先代寛治師匠がNHKラジオで素浄瑠璃をやったときの音を元に、豊澤仙糸師匠(四代?)の朱を照らし合わせ、ここが違うなどと言いながら父と作り上げた。いろんな人がやっていて、どれが「ホンマ」かはよくわからない。人気のある曲なので、いろんなやり方をしていたのではないか。父は「風(ふう)」を重視していたので、麓風(東風)を意識した復活になった。

木ノ下 「風」とは何ですか。

藤蔵 有名なのは、豊竹座と竹本座の曲風の違いを言う「西風」「東風」。『妹背山婦女庭訓』「山の段」の背山は「西風」、妹山は「東風」と言われる。
「風」の前に人の名前がついているものは、その曲が最初に書き下ろしで舞台にかかったときに演られた太夫の芸風のこと。「竹中砦」は、豊竹麓太夫が初演で語ったので「麓風」という。ほかに「麓風」と言われるのは、『絵本太功記』「尼崎」、『日吉丸稚桜』「駒木山」など。こう言うと、似たような感じとわかると思うけど。「竹中砦」の水盃をしているところの「ツンツンツントーン」と、「尼崎」の「水揚げかねし風情なり」の「ツーンツーントーン」のところなど、似ている。

きょうは、そのときに父が使った床本を持ってきた。ぼくは三味線弾きなので、自分では使わないんですけど。古い本で、竹本越前大掾(五代目竹本染太夫)→六代目染太夫→五代目弥太夫→九代目染太夫*4八代目竹本綱太夫に渡った。昭和41年に国立劇場で復活させたいという話が出たとき、それを父(当時五代目織太夫)が語るようにという話があり、八代目綱太夫師匠から譲られた。
床本には、わかる人が見たらどう演奏するかわかるような記号が書かれている。たとえば最初のほう、官兵衛が縁下から出てきた犬清を睨む「じろりと見遣り」のところには、「コハ」と書いてある。これは、三味線の「コハリ」から出る/「コハリ」の音階に寄るということ。この床本にはいろんなことが書いてあるので、虎の巻として使った。いろんなヒントがある。
床本は基本的に人に見せないものだが、ほかの人にはわからないよう、二つ折りにして袋状に綴じてある間に、自分が考えたこと、苦労したことのメモが入っていた。

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2003年に素浄瑠璃をやったときは、直前の東京公演で『加賀見山旧錦絵』「長局の段」の役がきていて、その舞台が終わってから「竹中砦」のお稽古をしていた。めちゃくちゃえらい(しんどい)。「長局」は陰に籠もってグーッとなる内容。「竹中砦」は発散型。

 


┃ 人形の復活

勘十郎 『木下蔭狭間合戦』は、非常に長いこと人形つきの上演が断絶していた。人形つきで上演していた時代の写真は数枚しかなく、木ノ下さんから提供してもらったのを見た。昭和41年の国立劇場の復活計画が頓挫した後、また復活させようという話が出たとき、かしら割を作ったらしいが、それも中止された。
復活は、曲があるのとないのとではえらい違いがある。今回は曲がすでに素浄瑠璃で復活されていて、CDが聴けるというのが大きい。

官兵衛には、口アキの鬼一を使った。鬼一は、50〜60代の男性に使うかしらで、『鬼一法眼三略巻』の吉岡鬼一法眼からきているかしら。本を読んで音を聞いたときに、鬼一だと直観的にわかった。
関路は婆のかしらかとも思ったが、老女方にした。女方は男性のかしらに比べて種類が少なく、娘(未婚、10代)、老女方(既婚、20代〜40代程度)の上は婆しかなく、悩ましい。千里は娘だが、単に若い娘というわけではなく、子供がいるちょっと特殊な立場。
2003年に素浄瑠璃を復活した綱太夫師匠も、かしらの見当をつけて語っていた(綱太夫も官兵衛は鬼一と解釈)。ちゃんとかしらに何を使うのか踏まえていないと、太夫は表現ができない。太夫の指導では「かしらを見てこい」という言葉がよくあり、今回、錣さんもかしらに何を使うかの確認に来た。
話はそれるが、父(先代桐竹勘十郎)のおもしろい話がある。舞台本番で若い太夫さんが語っていたとき、父にとってそれは「かしらが違う」語りだったため、父は上手に寄り、床のほうに人形の顔を向けて、「これ!これやで!」とかしらを猛アピールしていたらしい(笑)。

大道具の参考には、古い道具帳があった。不思議だったのが、「竹中砦」は逆勝手(人形の出入りが上手からになる舞台のこと)であること。普通、逆勝手になる演目には理由がある。たとえば、『仮名手本忠臣蔵』「山科閑居の段」では、本蔵が力弥に槍で突かれる場面がある。人間の役者なら左右どちらでも構わないが、人形で演じるとなると、下手側から突かれるようにしないとならない。上手から突くと、力弥の左遣いが前に出て(客席側に来て)人形を遮ってしまうので、見苦しくなる。そのため、文楽では下手の一間から槍を持って出てきた力弥が上手の本蔵を突くことになっている。しかし、「竹中砦」にはそのような場面は見当たらないので、どうしてかなと。強いて言えば、官兵衛が烽火台に刀を投げ込んで狼煙をあげるところは、下手から上手に向かって刀を投げるが……。いろいろ考えたが、最後に春永が出るからではないかと思った。段切、幕が閉まるとき、官兵衛が屋体で義龍の首を抱いて極まるのに、総大将の春永が下手にいては決まらない。やはり上手じゃないかと。また、そのままでは官兵衛と春永の目線の高さが合わないので、春永は最後は馬に乗って極まることにした。

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木ノ下 床では、素浄瑠璃と人形つきとでは、演奏にどのような違いがありますか。

藤蔵 演奏への気合いは同じだが、人形つきの場合、人形の見せ場があるなら、その間を大きくとってあげる必要がある。歌舞伎の竹本のように人形に合わせて弾くわけではないが、「こないいきます!」(ここでこう動くんですよ)というサインを出してあげる。また、人形が退出しきっていないのに次の場面がはじまってしまわないよう、退場のタイミングを作ってあげたり。この曲はまだ何べんもやっていので、そういうのもまだハマってないけど。

 

 

 

┃ 三味線について

木ノ下 今回は、床に予備の三味線を一挺置いて演奏されていましたね。

藤蔵 激しい曲なので、三味線は二挺用意した。リスクがある曲は、必ず替え三味線を用意する。本公演なら、もし糸を切ったり、皮を破いても、壁をコンコン!と叩けば床世話の人に横の扉からすぐ予備を出してもらえるが、ここ(床が仮設置で三味線側に扉がない)では間に合わないので、自分のすぐ横に置いておいた。

「竹中砦」は官兵衛が出てくるまでのマクラが重い雰囲気で、一番しんどい。「三段目」の雰囲気を出さなくてはならない。その後、犬清切腹→千里自害→注進と続くが、犬清切腹後の水盃が一番難しい。ほかは惰性やぶちかましでも成立するが、静かなところはそうはできないので、大変。押さえたところ、しっとりしたところの変化を弾くのがしんどい、だから前半が大変。
太夫も、調子が激しところ/落ち着いたところが急に切り替わる部分、急に落ち着いた詞(コトバ)に戻るところが大変なのではないか。太夫も生き物ですから、自分のしんどい息を押さえながら語る。『一谷嫰軍記』「熊谷陣屋」で、熊谷が首桶を掲げながら「言〜〜〜上〜〜〜〜す〜〜〜〜!!!!」と大音声で言ったあとに、義経が落ち着いて喋りはじめるところなどの、「戻ってくる」ときのしんどさがある。

そのあと、2回目の注進が激しく長い。しんどく、いっぱいいっぱいになって弾く。ただ、ここは馬力でいけるんですけど。昭和9年文楽座で、三代目津太夫と一緒に演奏した(四代目鶴澤)綱蔵先生という方はよく手が回る方で、「竹中の砦に光る機関銃」とうたわれた(笑)。

木ノ下 舞台稽古の際、たくさんの三味線を並べていらっしゃったことに驚きました。

勘十郎 来たら、楽屋に置いてある荷物が藤蔵さんのだらけ。藤蔵さんの、藤蔵さんの、これも藤蔵さんの、なんでこんな藤蔵さんのが(笑)

藤蔵 2月の東京公演の千穐楽(2月22日)で、この公演にも使おうと思っていた三味線の皮を破ってしまって。京都の三味線屋さんにすぐ送って、27日に間に合いますか?と電話したが、「ちょっと難しいかもしれませんね」と言われたので、いくつかの三味線のうちどれにするか、試していた。しかし、本番直前になって「張り終わりました!」という電話がかかってきた。棹を持ってきていなかったので、急いで文楽劇場へ取りに行った。

木ノ下 三味線はどのような使い分けをしているのですか。

藤蔵 三味線それぞれに、音の個性がある。その三味線自体が大きい音がするとか、世話物向き、景事向きなど。持っている三味線が何に向いているかは、何回か弾いているうちにわかるようになる。
大きいホールで使うときは、さら(新品)の、皮が張りたてのものを使うと、打ち撥の「パパッ」という音がしっかり出る。時代物の「ノリ」という打楽器のような派手な手は、さらの三味線でパーッと弾くと「らしい」音が出る。こういうときに「鳴らん」三味線でやると、三倍えらい(しんどい)。思てるのと違う、「ボコ…」という音がすると疲れる。
逆に、『艶容女舞衣』の酒屋、『仮名手本忠臣蔵』の勘平腹切は、わざと「鳴らない」ものを使う。芝居の雰囲気で、「鳴らんほうがいい」。また、赤姫が出てくるようなもの(『本朝廿四孝』十種香など)は、「チーン」といういい音がするものが良い。
皮が張り終わり、出来上がってきてすぐは、弾き込んでいかないと音が違う。この三味線も、明日は音が違うと思う。事前にずっと弾いていないと、音があったまってこない。しかしそのままだと糸が痛んでしまっているので、楽屋に来て、弾いて、糸を替えて舞台に出る。

 


┃ 人形の演技について

勘十郎 官兵衛はかしらが鬼一なので、あんまり動かないようにした。その上、官兵衛は矢が当たって休みをもらっている身なので、気をつけた。鬼一は顎(おとがい。アゴ)の使い方が重要。鬼一のアゴは細くなって少し前に出ている。文七の頬がちょっとこけると、鬼一になるイメージ。
じっとしている役は難しい。自分はだいたい動かす方、動かしたいんですけど。どうしても手をグッと出してしまったり。うちは先代から動かす役。玉男さんはわりとじっとしている。今日もじっとしている役(小田春永役。出てきてすぐに座ったら段切までそのままじっとし続ける)。これは先代からそう。

官兵衛が清松と対面するところは、わざとらしく鎧櫃の上に下ろしてもらった。文章通りなら、当吉に背負われたままのはずだが、当吉役の玉志くんに「一回下ろして」と頼んで。

木ノ下 舞台稽古でこの演出を初めて拝見したとき、いくさの象徴の鎧櫃の上で、それとは真逆のイメージの子供が平和に眠っているというコントラストに「これは!」と思わされました。(すみません、言葉あいまいです)

勘十郎 当吉はエエ役ですね〜。当吉やりたかった。出番の時間が短い上に、最後に出てきて、いいところをパァーッと持っていく。

 

 

┃ 『端模様夢路門松』について

勘十郎 昭和59年に初演し、その後何回か再演した後、もう一度やってみたかったが、声がかからなかった演目。長いことやっていなかったが、木ノ下さんからリクエストを受け、これでよかったらとお応えした。
スペシャルゲスト・門松くんが登場。おひざに門松くんを孫のように乗せる)
この本は、30歳くらいのときに、ある日突然思い立って書いた。ツメだけの芝居があってもおもしろいんちゃうかと。それまでに、ツメ人形で解説をやったことがあり、それを舞台の袖から見て笑ったりしていたのが発想元。ブワーッと一気に書いた。小学校の作文は書くのに何日もかかったのに(笑)。

木ノ下 早く主遣いになりたい、三人遣になりたいという気持ちが現れていたのかもしれませんね。当時は足を遣っていたのですか。

勘十郎 足と、簡単な左を遣っていた。足を最後に遣ったのは、父が病気になり、最後に団七を遣ったときの足だった。余談だが、そのときあまりにも丸胴(裸になる人形に使う胴体)がボロボロだったので、新調して、刺青をぼくが描いた。

ツメ人形は、入門してすぐ、誰でも触ることができる人形。三人遣いの人形は、衣装をつけて出来上がったら、その人の許可がなくては、他の人は一切触ることはできない。でも、ツメは廊下に吊ってあり、誰でも触ることができる。よく使うお百姓さんや町人(の胴体)はいつでも出来ていて、頭を挿すだけで使えるようにしてある。

木ノ下 頭の後ろにある釘で吊るしてあるんですね。

勘十郎 鏡の前で、見よう見真似で練習する。そんなことをやっているうちに、ツメ人形が好きになる。いろんな顔があって、みんな好きなかしらがある。配役が出て、「ア!軍兵やな!」とツメ人形の役(大ぜい)がついていると、みんなバーッと取りに行って、取り合いになる(笑)。
ツメ人形だけで芝居する話というのがあって、『一谷嫰軍記』「脇が浜宝引きの段」は面白い。登場するお百姓さんのツメ人形それぞれに個性がある。太夫も、ちゃんと語れる上のほうの方がやる。ツメだけで芝居が成立する。

ツメ人形のかしらは普通、文楽劇場所有のものだが、門松くんは個人のもの。ぼくの弟弟子の簑二郎が彫った。彼が研修生(3期生)のとき、研修の一環で当時ご健在だった鳴門の人形師・大江巳之助さんのところへ泊まりがけで行って、人形のかしらがどのように作られているのかを学ぶため、大江さんの指導を受けて彫った。でも、自分ではほとんど彫っていないと言っていた。チョコ…と恐々彫っていたら、大江さんに取り上げられて、大江さんが彫ってしまう(笑)。

門松くんの頭はあつかましいほど大きい(笑)。本当はツメ人形の頭はもっと小さい。三人遣いの人形を引き立てるために、三人遣いより小さくなっている。だから本当はもっと彫り込んでいかなくてはいけないんですけど。門松くんは初演のときからこれを使っていて、ぼくがずっと預かっている。

初演のときは、豊竹嶋太夫さんに太夫を頼んだ。嶋太夫さんは、「ツメだけで芝居するんか?」と絶句していた。ツメ人形には感情を込めたらいかんと、こんこんとお説教をされて、それはわかってるんですが、こういうのをやりたくて、とお願いして、ご理解をいただき、語っていただいた。初演の三味線には、燕三さん(当時燕二郎)や藤蔵さん(当時清二郎)にも出てもらった。 

 

 

┃ これからやりたいこと

藤蔵 今回の「竹中砦」は官兵衛の出からの上演だったが、本当は端場からやりたかった。壬生村(九冊目)も人形つきでやりたい。せっかく父とああだこうだやって、復活させたので(2005年に文楽劇場早稲田大学で素浄瑠璃を演奏)。父も形になることを願っていた。父は20歳ごろ、(八代目野澤)吉彌さんに教えてもらったらしい(とおっしゃっていたと思うが、綱太夫の談話を確認すると、野澤吉彌の指導を受けたのは16歳ごろという発言がある)父と「壬生村」をやったCDコロムビアから出ている。次回実現したらと思う。文楽劇場で竹中砦と壬生村がかかりますように。

勘十郎 「竹中砦」に端場をつけ、「壬生村」と一緒に、もうちょっと形を整えて上演できたらと思う。『木下蔭狭間合戦』も、五右衛門が出てくるだけでも魅力的。父は埋もれている面白い演目がたくさんあるとよく言っていた。もっとやらないかん、もったいないと、『摂津国長柄人柱』なんかをやりたいと言っていた。ぼくは明日68歳になり*5、父が亡くなった歳を超える(父が亡くなった年齢になるまでは「こういうふうに過ごす」という目標・目安があったというようなことを話されていましたが、それが何だったか、忘れました……)。この年で、あんな長い時間人形が持てるのは冥利に尽きる。これからの68歳で、何ができるか。次の年も、また次の年も。いつかまた復活物ができればと思う。

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……というわけで、『端模様夢路門松』、『木下蔭狭間合戦』、ディスカッション、合わせて約4時間に及ぶ長丁場だった。こんな長時間公演、久しぶりだ。

なにはともあれ、この公演が開催できて本当に良かった。1年待って、やっと上演できてよかったと思ったのは、主催者・出演者だけでなく、われわれ観客も同じ思い。観客の中には、去年チケットを購入して中止に落胆し、今年改めてまた取り直した方がかなりいたのではないだろうか。自分もなんとか再企画して頂きたくて、形に残る要望をしないとと思い、払い戻しのチケット返送の際に要望の手紙を入れたりしたけど……、本当に再企画され、そして公演が無事に実現して、感無量だった。

今回の公演を通して、自分自身の文楽の見方について気づいたことがあった。この公演自体は大変面白いものだったけど、私が文楽に求めているのは、古典芸能としての、何度も上演を重ねることによって完成された練度なんだな。本公演でなんども上演を重ねられているものの練度の高さ、古典芸能の「伝統」そのものの重みをいままでになく実感した。『木下蔭狭間合戦』も『端模様夢路門松』も、国立劇場文楽劇場の本公演に採用され、この先数十年に渡ってなんども上演され、「珍しい復曲作品」でなくなったときにこそ、価値が出るのだと思う。そして、文楽がこの先も長く続いてゆくよう、ファンの立場から守っていかなくてはならないと思った。

 

ところでこの企画、京都市の文化事業予算等を財源にしているのだろうか? パンフの販売あるのかなぁと思って行ったら、なんとパンフと床本を無料配布でもらえた。客席案内のスタッフは潤沢、場内で使う不織布の荷物袋も配布。なにより出演者にレベルの高い技芸員を揃えているし、舞台装置も本公演相当。にっぽん文楽もおふねパワーでかなりの資金力を感じたが、京都のみなさんありがとうございますと思った。また、ロームシアターからは昨年の中止時、今年の会場変更時ともに、説明の電話連絡を頂いた点も有り難かった。今回の会場変更もわざわざ電話がかかってきて、どういう変更になっているかを案内していただきました。

ただ、ロームシアターも木下さんも勘十郎さんも、SNS等にこの公演の舞台写真を載せていないのが非常に勿体無い。報道にもほとんど出ていないのではないだろうか。気になった人が後から追ったり、観に行った人が知人に「こういうの行ったよ」と伝えづらいのは、もったいないことだと思う。

 

 

この公演本編の記事

 

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*1:さらにその前は、大正5、2年、明治44、41、38年……(以下略。文楽座・彦六座合算)となっており、実際に上演がもっとも多かったのは江戸時代、文化・文政・天保期である。江戸時代を通しての上演回数は、『木下蔭狭間合戦』65回、『絵本太功記』171回。近代での上演回数は、『木下蔭狭間合戦』24回、『絵本太功記』48回。カウントは『演劇学』第33号(早稲田大学演劇研究室/1992年3月)所収、宮田繁幸「近世における人形浄瑠璃興業傾向について−義太夫年表資料を中心として−」による。この資料は、義太夫年表に収録されている興業をカウントしているとのこと。これによると、ほかの太閤記物では『三日太平記』(近松半二ほか作、明和4年[1767]初演)が人気だったようだ。『三日太平記』は江戸時代には80回上演されているが、近代に入ると上演が途絶える。

*2:これが放送されたのって、当時大河ドラマで『太閤記』やってたから?

*3:21世紀COEプログラム「演劇の総合的研究と演劇学の確立」のうち古典演劇研究(人形浄瑠璃コース)の活動による。

*4:ここで一度豊竹山城少掾に渡ってから、八代目綱太夫、三代目津太夫に渡る? 「竹中砦」の伝承された床本は、どうも2冊あるみたいですね。

*5:勘十郎さんの誕生日は公演翌日。閏年の2/29生まれなので、平年は3/1がバースデーになるということのようです。閏年の29日生まれの人って、ふだんは誕生日いつになるの?と思っていましたが、意外なところで知ることができました。

文楽『木下蔭狭間合戦』竹中砦の段 ロームシアター京都

『端模様夢路門松』の後、20分休憩を挟んで、メイン演目『木下蔭狭間合戦(このしたかげはざまがっせん)』。

読みは、慣例では「このしたかげ・はざまがっせん」と切るようです。略称は「木下蔭」のようですね。

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第二部『木下蔭狭間合戦』竹中砦(たけなかとりで)の段。

長く上演がされていなかったものを、昭和9年(1934)1月四ツ橋文楽座公演以来、87年ぶりに人形付きで復活。

「竹中砦の段」は、『木下蔭狭間合戦』全十冊のうち七冊目。内容はいわゆる“陣立物”*1で、戦国時代を舞台に、長年、尾張・小田春永と美濃・斎藤義龍が争うなか、斎藤方の軍師・竹中官兵衛とその家族のドメスティックな慟哭、小田軍と斎藤軍の合戦の行方を描いている。官兵衛は全段のうちこの段にのみ登場する人物で、彼と知略を争う小田軍の軍師・此下当吉のほうが『木下蔭狭間合戦』全体の主人公。最後にやたらカッコよく出てくるのはそのためだろう。 

詳細なあらすじは、以下の過去記事をご参照ください。

 

 

 

先に書く。今回の上演の成功には、床の錣さん・藤蔵さんの力がとても大きいと思った。

舞台の情報量の大半が義太夫から来ている。まさに義太夫が主体。今回は人形付きで上演することが企画の目玉ではあるのだが、むしろ、出すことによって物理的制約の生まれる人形を超える表現になっていた。文楽義太夫は本来そういうものだと思うけど、なかなかそうもいかないことが多いので、ただでさえ難しい復活曲で義太夫が人形をしっかりリードしているのは、嬉しい。

「竹中砦」は、畳み掛けるような小刻みな展開が続き、登場人物が多い。確かに重厚な話ではあるけど、複雑……と言えば聞こえはよいが、率直に言って内容を盛り込みすぎて散漫。そのため、感情・情景描写の交通整理を行い、舞台に出っぱなしになる人物が多くともパラパラとしないよう、演奏でメリハリをコントロールする力が必要になってくる。

今回、2日間にわたる上演で、錣さんと藤蔵さんはベテランらしい底力を聞かせてくれた。初日から完成度が高く、「初めて舞台にかける曲でよくここまで」と思わされた。一度もダレることなく、刻々と変化する状況を描ききり、駆け抜けた。
二日目はそこからさらに上昇し、義太夫節らしい重みと軽快さのバランスにすぐれたすばらしい演奏だった。初日の人形の状況やお客さんの反応をみて調整されたのだろうか、間合いのコントロールがうまかった。トータルでのバランス感覚に秀で、最後の大落としが成功したのが非常によかった。大落としでの拍手にも納得。本公演だとどうしても「拍手する場面だから拍手する」的な、お義理的な拍手になってしまうことがあると思うが、今回は登場人物の感情が観客に伝わっての拍手になっていた。

今回、錣さんが太夫を勤めてくれてよかったなと思ったのは、女性登場人物の描写。竹中砦には、本来戦場(砦)にいるはずのない女性=妻関路と娘千里が出てくる。いないものをいることにしているからには、そこから意味を受け取り、存在意義と描写を検討することが重要なのではないかと思う。今回上演では端場をカットしているため関路と千里の存在感がかなり薄くなっているものの、それでも二人をおざなりにせず、存在感が担保されていたのがよかった。曲としての華やぎもよく出ていた。

このような演目を錣さん・藤蔵さんが受け持ってくれたことは本当にありがたい。ニュアンスや雰囲気を作り出せる技術があり、長時間演奏に耐えられる体力をもった人材は現在の文楽には非常に少ないので、ベストな配役だったと思う。

 

 


「竹中砦」の舞台となるのは、文字通り、合戦のさなかの砦。大道具は逆勝手(上手から人形が出入りするタイプ)で、上手に陣門が設置され、中央〜下手側に屋敷の屋体。下手には藤棚、手水鉢、植木の茂みがある。また、屋敷と陣門のあいだには烽火台。この大道具のまま、引き道具や返し等なく、最後まで展開する。

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記憶のみで描いているため、違うところがあると思う。烽火台の奥がどうなっていたのか、まったく思い出せない。『義太夫年表 明治篇』に明治時代の「竹中砦」道具帳が6点収録されているが、そのいずれとも異なる大道具だった(逆勝手であることは同)。明治時代の道具帳だと、すべてのものに軒下に幔幕(熊谷陣屋みたいなやつ)が張られているのだが、今回あったかどうか、忘れた。

 

冒頭部(端場)をカットし、官兵衛の出からの上演。チラシなどに記載されていた「完全復活!」って、端場から全部やるってことじゃなく、人形をつけたことを“完全”と称しているってことね……。文楽的にはかなりグレーな表現やな……。

 官兵衛の出「曲がれる枝を直(なお)きに撓(た)め、木は木と分くる竹中官兵衛重晴……」。かなり低音、押さえつけて潰れたような声からはじまる。非常な低音ではあるが錣さんなら出る範囲だろうから、意図的にやっているのだろう。不気味な雰囲気。ロームシアターに行くまえに立ち寄った老舗のお香屋さんで見た、異様な形に傾いだ伽羅の香木を思い出した。
官兵衛〈桐竹勘十郎〉は先の戦いで矢傷を受けたため、前線には出ず砦で療養している。人形は鬼一のかしらに白髪混じりの総髪を低い位置で束ねて後ろに流し、長羽織をつけた鈍い金色の豪奢な衣装、袴をつけない姿。刀を杖にして、しかし虚弱には見せないよう、ぐっと歩いて出る。
彼を出迎えるのは、恋に悩む娘・千里〈吉田一輔〉。娘がしらに色とりどりの花がついたティアラ、ピンクの流水・紅葉柄の振袖、黄緑の帯で、小娘風の出で立ち。千里は動きや見せ場が限られる分、指先の表現が繊細で、ちょっとした動作から優しく愛らしい雰囲気が感じられたのがよかった。また、かなりおとなしい性格にしているようだった。

官兵衛は庭先に潜んでいた犬清〈吉田玉助〉に甘言をかけて、小田軍の秘密を聞き出そうとする。犬清と千里はかねてよりの恋人同士であり、密かに子供も設けていたが、現在では敵味方に別れて面会どころか文のやりとりも叶わない。そんな犬清がなぜ敵陣である官兵衛の砦にいるのかというと、二人の恋路を見守る母関路が、直前の段・熱田社で偶然出会った犬清をかくまい、娘に会わせるために連れ帰ってきたから。しかし官兵衛はそんな余所者が砦内に侵入しているのを見抜いていたのだ。
犬清は源太のかしら、シャンパンゴールド(シルバー?)に細かい花の刺繍の布地の豪奢な肩衣・袴・小袖を着ており、髪の結い方も含め、御曹司風の派手な出立だった。

官兵衛は犬清に対して主君斎藤家に逆心があると思わせるため、庭先の藤棚に下がった藤の花を打ち落とす場面がある。藤の花は藤原氏を暗示しており、翻って斎藤家を表しているということは知識だけ(というか浄瑠璃の理解のコツとしてだけ)知っていたが、まじで意味わからなかったので調べましたところ、美濃斎藤氏の祖先が藤原氏だったということなんですね……。ここがわからないと、この後一切話についていけなくなるのがやばい。
ちなみに、官兵衛が笄を投げると同時に藤の花が落ちるタイミング、初日は官兵衛の動きより先に落としてしまったため何が起こったかわからず失敗していたが、二日目はうまいタイミングで落ちて成功しており、良かった。

官兵衛の妻で千里の母である関路〈吉田勘彌〉は、美麗な奥様らしい佇まいがあり、夫官兵衛の身分や気高さを感じさせる。関路にはしっとりと吸い付くような風情があり、泣き伏せる姿勢やお辞儀の所作が殊に美しいのが良かった。勘彌さんの悲しみの演技は2月『冥途の飛脚』の梅川が美麗だったが、武家の奥様役でも素晴らしい。せっかく良い配役をつけておきながら、関路の人となりがわかる端場(および直前の段「熱田社」)のカットは本当に勿体なさすぎる。
関路は老女方のかしらに髪は片外し、衣装はシルバーグレーの打掛と小袖、紺地に金刺繍の帯。

 

 

 

犬清から小田軍の情勢を聞いた官兵衛は、守りの薄さを突いて攻撃を仕掛けるよう指示するが、官兵衛に逆意がなかったことを知った犬清は、秘密を漏らしたことを悔やんで切腹する。

ここからの展開には、本文そのものに厳しいものがあるように思う。このあと、義龍が現れて官兵衛への疑いが晴れたことを宣言して出陣→主君の信頼を得た官兵衛が千里と犬清に祝言を挙げることを許可→関路が水盃を用意するも犬清は拒否して絶縁を宣言→千里はショックを受けて自害という流れになるのだが、展開があまりに小刻みすぎて、話にメリハリがない。これをどうプラスにいかすかが勝負の分かれ目になると思う。

登場人物の多さ、展開の速さは素浄瑠璃で聞いている分には音声として通り過ぎていくのでいいんだけど、人形をつけるとかなりややこしい見た目になる。解説で「すべての登場人物に見せ場がある」と言われていたが、それはずいぶん良い方にとった言い方で、いったい、だれの、どういう感情を軸に見ていけばいいのかわからなくなり、収集がつかない状態。現状では人形はあんまりうまくはいってないかなあ。

犬清・千里は物語半ばで自害した後、段切までずっと死にかけの状態になる。そのあと特に何をするでもない微妙に存在感が薄いキャラが舞台の真ん中で最後までずーーーっと死にかけというのは、なかなか間持ちしない。『絵本太功記』尼崎のさつきも光秀に突かれてからが長いが、さつきが死ぬ理由こそがドラマの最大の要になっていて、かつ、さつきは最後に自分の思いと子への想いの煩悶を告白する見せ場がある。「竹中砦」での犬清の切腹は此下当吉の策略であり、彼は当吉の道具である。犬清は春永に勘当を許されたいが故にそうしているのだけど、観客がそこにドラマを感じるのは難しいと思った。
千里は自害の後は「ううう……」という感じで多少苦しそうに体を上下させており、適度な死にかけ演技になっていると思ったが(適度な死にかけって何?って感じですが、自分がリアクションしなくてはならない場面になると反応が大きくなる等の工夫があった)、一方の犬清はただ座って静止しているだけの状態だったのは違和感があり、残念だった。

奥の襖(というか木戸)から出る主君・斎藤義龍〈吉田玉佳〉は悠々とした印象。義龍は官兵衛の本心を探るため、陰から一家の様子を見ていたという設定。鎧姿で登場し、かしらがヨード卵光的な色で塗られているので見た目は若干野卑な印象があるのだが、プリンスらしく、どこか品がある雰囲気だった。

 

 

 

竹中砦は、三人の注進が登場することで有名である。

一人目の注進・大垣三郎〈吉田玉勢〉は斎藤軍の優勢を知らせる。しかし二人目・樽井藤太〈吉田簑紫郎〉は「左枝犬清」を名乗る男に逆転されて義龍の安否が不明であることを報告し、三人目・四の宮源吾〈吉田文哉〉は義龍が討ち取られ斎藤軍が壊滅したことを伝えて倒れ臥す。官兵衛はそれぞれの報告を立て続けに聞くことによって、心境を変化させていく。

ここは義太夫の聞きどころになっている。三人の注進と官兵衛の反応の表現では、パッと素早く舞台の雰囲気を切り替えていて、良かった。その切り替えも直前の状態から「バツン!」と切るのではなく、矢継ぎ早に接続しつつ切り替えていく雰囲気が面白かった。

人形については、官兵衛のリアクションはともかく、注進は相当難しいなと思った。配役されたご本人方は一生懸命やっていらっしゃるけど、振り付けの問題なのか、何を表現すべきかまで気が回っていないのか、三人それぞれの注進がもたらす意味が見た目で区別できん。さすがに三人出てきてメリハリがゆるいのはきつい。振り付け・演技プラン・衣装をもっとハッキリ区別したほうがいいと思うが、人形つき初回上演ゆえの限界か。

官兵衛は二番目の注進が去った後、自ら義龍のもとに駆けつけるべく、鎧櫃を引き出そうとする。舞台の奥に置かれていた鎧櫃をやっとのことで引きずってくるも、運びきれずに倒してしまい、蓋が開いて鎧がこぼれる。ここでの官兵衛のよろめきは、ちょっとオーバーアクションのように感じた。
官兵衛は怪我をしている設定なので動きが少なく、最初の出の場面、犬清の刀を奪って上手まで歩いていって烽火台に刀を投げ込む場面、そしてこの鎧櫃を運んでくる場面しか動きがない。その中で烽火台に刀を投げ込む部分だけやたら元気にやってしまっており、じゃあなんで鎧櫃を引きずってくる場面はこんなにヨタヨタしているのか、その整合性が微妙だと思った(というか、刀を投げる部分はかっこよく綺麗に投げ込もうとしすぎて、官兵衛の設定と関係なく即物的に演技をやっているように見える)。
官兵衛の人物造形はさらに練り上げることができるのではと思う。現状では、動く場面を派手に見せ、そこを主体にする演技プランかと思うけど、本来は、それ以外のじっとしている場面をいかに重厚に見せるかではないかと思った。

 

 

 

義龍討死の知らせの後に、上手の陣も門から登場する小田春永〈吉田玉男〉は、重厚な存在感がある。濃い卵塗りのかしらながら、若々しい武将らしい涼しげな麗々しさ。出て来てトンと座ったらそのまま一切動かないのだが(マジやばいくらい動かない)、時々、眉を「ピョコ…」とさせてリアクションしていたのがよかった。
ところで、浄瑠璃を読んだ段階では、春永は騎馬で入ってくるかと思っていた。のしのし徒歩でやってきたので、歩いてきたの!?その身分で!?とびっくりした。

春永を前にせき立つ官兵衛を遮って、颯爽と現れる謎の武者。彼が顔の前に掲げていた兜を下ろすと、その正体は小田軍の軍師・此下当吉〈吉田玉志〉。白塗りの検非違使、聡明で爽やかな人物像で、玉志サンにはかなりの当たり役だった。当吉は、犬清と千里の子供・清松〈桐竹勘昇〉を背中の母衣に隠しておんぶしているのが可愛い(鎧の胸元におんぶひもをクロスさせている)。

 

春永は、官兵衛を陥れる為切腹した犬清と、戦場で義龍を討ち取った犬清(に扮した当吉に同行していた清松)の武勇に免じ、犬清の勘当を赦し、恩賞として義龍の首を下す。これを見た官兵衛は再び憤慨し(こういうところが無駄にややこしい)、当吉に差し出された清松に刃を向けるが、初めて見る孫の愛らしさに打ちひしがれ、ついに号泣してしまう。
この部分は「ハテ好い子だなア。祖父と孫とが初見参(略)さて可愛や。と大声上げ、勇気挫けて身も震ひ、刀持つ手は大盤石、鉄丸の如き魂も、今ぞ蕩けてはら/\/\、留め兼ねたる恩愛の、涙汲み出す如くなり」と大落としになっており、特に床の演奏は二日目は非常な盛り上がりを見せ、孤立しようとも頑迷に我を張ってきた官兵衛の意地が突き崩されていくさまが存分に表現されていた。

ただ、人形は、春永・当吉が出て以降は官兵衛の印象が薄まるのがなんとも惜しい。春永と当吉は大型でかなり華やかな人形なので、この2人が手前側にいる状態/官兵衛は屋体内下手に立っている状態で大落としになるのは、かなり厳しい。この部分はおそらく官兵衛役の勘十郎さんも検討されており、浄瑠璃の文面通りそのままではなく、「当吉がおんぶしている清松を、倒れて開きゆりかご状になった鎧櫃の上に下ろす」「官兵衛が眠っている清松を抱き取る」いう演技が追加されていた。事前に浄瑠璃を読んでいた段階では、清松を当吉が背負ったままでは間持ちしないだろうと思っていたので、うまい対応だと感じた。トークショーでも、木ノ下裕一さんから、「戦争の象徴である鎧櫃の上で子供が眠っているコントラストが面白い」というコメントがあった。
ここでもうひといき、官兵衛が清松を抱きとるところで階(きざはし)に降りるなど、ここまでにない立体感のある見せ方をつけた振りがあっても良かったと思う。
しかし、最後の場面で官兵衛が目立たないのは、春永が玉男様だったからかも……。いや、玉男様が悪いわけではなく、春永、ピクリとも動かなくても異様に存在感がありすぎて……。一体なんなんだ、玉男様のあのどっしりぶりは……。白亜紀から来たのか……。

 

当吉が清松を抱っこして踊りながら子守唄を歌う場面は、玉志サンの誠心さが出ていて、良かった。めちゃくちゃ真面目に、「パパ一年生」って感じに踊ってらっしゃいました。当吉が単なる残酷無慈悲な人物でないことを、玉志サン持ち前の透明感、清純オーラが担保していた。そして、こんな新曲同然の曲なのに、やっぱり所作がジャストタイムなのがすごかった。

ちなみに清松は人形配役がついているにも関わらず、ずっと爆睡しているせいかまったく自力で動かず! 春永が「進烈激しき戦場にて、快げなる寝顔の様、遖れ武勇の頼みあり」と言うが、まじでずっと寝ている。おそらく勘昇さんは運搬役をしてくれたのだと思うが、せっかく人形配役ついてるんだから、官兵衛に抱っこされたあたりでちょっと「ふにゃ」くらい起きて、また寝る演技くらいあっても可愛いと思った(二度と寝付かないかもしれないが!)。

こうして清松は当吉が預かり育てることになり、当吉は三好長慶の動向を探るために京都へ向かう。官兵衛は関路とともに娘・婿の菩提を弔うとして栗原山の閑居に引っ込むと告げる。そして、春永は輝かしく清洲へ凱陣を告げて、物語は幕となる。春永は段切で軍馬にサラリと飛び乗るのがカッコいい。よく見ていると、エアあぶみに一旦足をかけて、チョコっ!と跳ね上がって乗るのね。

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官兵衛だけはロームシアターのサイトの写真を見て描きましたが、ほかの人形はうろ覚え。斎藤義龍&三人の注進ズは特に記憶がないです。

 

 

 

人形の衣装が、既視感のないスタイリングになっているのが面白かった。
実際には本公演で使うものを使いまわしているんだけど、彩りを強調し、彩度高め・コントラスト華やかめにしているようで、全体として「あ、あの曲と同じね」という印象にならないようにされていた。
おそらく、官兵衛の衣装は『奥州安達原』袖萩祭文のけん仗、関路は『一谷嫰軍記』熊谷陣屋の相模、犬清・千里は『絵本太功記』妙心寺の十次郎・初菊と同じではないかと思う(官兵衛がけん仗かはちょっと自信なし)。
三人の注進は鎧の縅の色などに原色を配し、色使いに変化を持たせているのがよかった。一人目の注進はグリーン・黒系、二人目の注進は白・赤・紫、三人目の注進はセルリアンブルーと、鮮やかな印象。倒された鎧櫃の中に入っている官兵衛の鎧もグリーンの縅で、派手だった。
ただ、犬清が十次郎や勝頼のごとき大家の御曹司のような煌びやかな肩衣姿なのは、身分や前段との関係を考えると違和感がある。明治〜大正期の「竹中砦」の写真を2枚見つけたが*2、その写真では普通の私服風袴姿かと思う。今回の制作側がその写真を見てないわけないので、今回上演では意図的に派手にしたのだと思うが、なぜ?
ちなみに、官兵衛は明治時代の写真だと髪を束ねていない。千里も、大正時代の写真では、(モノクロ写真だからわからないけど)赤などのクッキリした色の振袖を着ていたようだ。今回上演も、千里は単なる小娘ではないため、愛らしさではなく強さのある衣装でも良かったと思う。


また、かしら割についても簡単にメモしておく。よくわからなかった部分や記憶が薄い部分もあるけど、私の所見。

  • 官兵衛 鬼一ネムリ目) 薄卵塗り(けん仗と違って髪は束ねている)
  • 犬清 源太ネムリ目、アオチ眉) 白塗り
  • 千里 娘ネムリ目) 白塗り(手負いになって髪をさばく場面があるため、髷はおだんご状のシンプルなもの)
  • 関路 老女方 白塗り
  • 斎藤義龍 団七(フキ眉) 濃い卵塗り(一般的に、大笑いする男性役は口開きの文七を使うはずで、2003年に素浄瑠璃で語った綱太夫も保留付きながら文七ではないかという判断。しかし、舞台では目元が文七ほど上品には見えず、団七?と思った)
  • 大垣三郎 陀羅助(アオチ眉)卵塗り(時代物に使う上品な顔の陀羅助か)
  • 樽井藤太 鬼若 白塗り
  • 四の宮源吾 検非違使 卵塗り(だったと思うが、頭にカモの羽?って感じの彩りのよい矢が刺さっていたのが気になって、記憶が薄い。髪をさばいていたかも)
  • 小田春永 検非違使(アオチ眉) 卵塗り(おそらく『絵本太功記』に揃えていると思う。『絵本太功記』だと春永は薄卵だったと思うが、今回の春永はかなりガングロに見えた。平右衛門くらい塗っとる?って感じだった)
  • 此下当吉 検非違使(アオチ眉) 白塗り
  • 清松 男子役 白塗り

*2003年に綱太夫・現藤蔵が文楽劇場早大で素浄瑠璃を演奏した際に仮決めしたものは文楽 『木下蔭狭間合戦』全段のあらすじと整理 - TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹参照

 

  • 人形役割
    娘千里=吉田一輔、竹中官兵衛重晴=桐竹勘十郎、左枝犬清=吉田玉助、妻関路=吉田勘彌、斎藤義龍=吉田玉佳、大垣三郎(一の注進)=吉田玉勢、樽井藤太(二の注進)=吉田簑紫郎、四の宮源吾(三の注進)=吉田文哉、小田春永=吉田玉男、此下当吉=吉田玉志、一子清松=桐竹勘昇(黒衣)

 

 


非常に力の入った舞台だった。新作同然の曲ながら、煮詰まった状態で観劇できたことがとても嬉しく思う。

単発公演としても、80分近くある演目を上演するというのは、すばらしい試みだと思う。長門で『出世景清』の燕三さんによる復活を観たときも思ったが、外部主催公演だと技芸員さんへのおまかせ度が高く、技芸員主導での復活が叶い、結果、当事者として納得のいく現代文楽化、万全の配役で実現できるという部分があるのだろう。技芸員さん主体でというのは、ファンとしても嬉しいことだ。もちろん、それを実現できるのは、主催団体の尽力と資金あってのことだと思う。

カーテンコールなしだったけど、今回のような公演なら、あってよかったんじゃないかな。勘十郎さんや錣さん・藤蔵さんはじめ、ご出演の技芸員さんみなさんご準備に大変な思いをされただろうし、観客としてもそれを労いたい気持ちがある。玉男様の出番は少ないのになぜか人一倍ものすごく嬉しそうなお顔や、人形を離した途端テンション激下がりする玉志サンを見たかった。

また今回は、観客にも恵まれた舞台だったと思う。何度も書いている通り、「竹中砦」は一から十まですべてを聴いていないとついていけなくなるような、非常に複雑な内容だ。しかし、来ているお客さんはそれに食らいついていっていたと思う。この企画が観客に理解されたのは、来場されているお客さんが本当に文楽を好きだから、というのが大きかっただろう。2日間にわたって行ってみると、両日とも来場されている方が結構おられるように感じた。前方席はほとんどが文楽の固定客だったんじゃないかな。かなり初心者の方に配慮する方向に寄せた解説をされていたが、時には文楽を愛している人に向き合った声でもいいんじゃないかなあと思った。

 

今後、本公演に「竹中砦」を取り入れるとしたら、人形演出のブラッシュアップに期待をしたい。

人形の出入りプラン等は、おそらく早大の復曲プロジェクトでの研究をベースに組み上げているのではないかと思う。舞台にかかったらどうなるかというのは今回はじめての試みで、今回の結果を受けてどうするかが肝要だ。おそらくまだ距離感や間合いがはかりきれないのだろう、現段階では、人形たちが絡まり合ってドラマを紡ぐまではいけていなかった。また、どの人も迷いがある状態だったと思う。
先述の通り、「竹中砦」は内容の複雑さゆえに、どうしても細切れな演技がゴチャゴチャと連続してしまうという問題がある。また、現状だと人形各個に派手な振りが均等についているので、通して観たときにのっぺりとした印象がある。今回は演出の勘十郎さんの配慮で、出演者それぞれに見せ場を作ってるのもあるんだろうけど(お客さんに対するサービスとしても非常によくわかる)、それが悪い意味でのオールスター映画風になっている。今後本公演で上演をするなら、タイミングや役目に応じた強弱づけの整理が必要ではないか。これに関しては、人形遣い自身では舞台がどう見えているかは実はわからない(舞台を正面から見慣れているわけではない)という点もかなり大きいと思うので、そこをどうクリアするかが問題だろう。実は今回は木ノ下さんがそのディレクションをある程度するんじゃないかと思っていたけど、そういうわけでもなかったみたいですね。

演出を調整していくうえでは、官兵衛をいかに立たせるかが最大の課題になってくると思う。軍師としてこれまで確固たる実績を築いてきたにもかかわらず、肝要のところでミスを犯し、主君を失う官兵衛の悲劇。そして妻や娘の気持ちを無碍にしてきたにも関わらず、孫にだけは鉄壁の心を打ち砕かれるというドラマを際立たせて欲しい。
ただ、官兵衛にはほとんど動きがないので、先にも述べた通り、少ない動きの中で重い感情を描写していく演者自身の力と、それを引き立てるための他の要素の引き算が重要ではないかと感じた。

困難は多々あるだろうが、「竹中砦」が本公演に採用され、古典芸能の舞台にかかる演目として練り上げられていくことを望む。

 

 

またも長くなってきたので、木ノ下裕一さん、勘十郎さん、藤蔵さんによるトークショーメモは、次回に続きます。

文楽『端模様夢路門松』『木下蔭狭間合戦』竹中砦の段 ディスカッション(木ノ下裕一・桐竹勘十郎・鶴澤藤蔵) ロームシアター京都 - TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

 

 1つ目の演目『端模様夢路門松』の感想はこちら。

文楽『端模様夢路門松』ロームシアター京都 - TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

 

 

*1:鎧武者が登場する芝居のこと。『鎌倉三代記』三浦之助母別れ、『一谷嫰軍記』熊谷陣屋、『近江源氏先陣館』盛綱館など。

*2:朝日新聞明治38年[1905]4月15日大阪版の朝刊9面と、『義太夫年表 大正篇』の大正2年12月近松座公演のページに載っています。朝日新聞に載っている写真と同じものが早大での素浄瑠璃演会の配布リーフレットに転載されているようで、早大リポジトリ経由で見ることができます。→早稲田大学リポジトリ