TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 トークイベント:吉田和生「『大経師昔暦』について」文楽座話会

2月4日開催、NPO法人人形浄瑠璃文楽主催のイベント。和生さんにご出演の第二部『大経師昔暦』について語ってもらうという趣旨の会だったが、『大経師』の話自体が微妙すぎて和生さんが途中で話すことがないと言い出し(衝撃の展開)、ほとんどが質疑応答の時間となった。以下にそのお話の概要をまとめる。『大経師』に限らない豊富な話題を通して、和生さんの気さくで飾り気ない雰囲気を伝えられればと思う。

f:id:yomota258:20190209230640j:image

 

 

近松作品の特徴

今回の出演は第二部『大経師昔暦』。近松サンの芝居は「しんどい」。太夫さんも好んでやる方、やりたくないという方に分かれる。詞章に字余り字足らずが多く、形容詞が多い。これは近松の当時は人形が一人遣いだったことによるもので、細かな説明が多い(一人遣いの人形の簡素な演技で描写しきれない部分が言葉で説明されているという意味)。わたしは近松作品を紹介するときには「ラジオドラマの脚本」と言っている。人形浄瑠璃を「聞くもの」としてホンが書かれているから。時代が下って近松半二などの頃になると、人形浄瑠璃は「見せるもの」になり、「テレビドラマの脚本」になる。

『曾根崎心中』は復活の際、大幅改作された。大学の先生などは「改悪」と言うが、近松作品は江戸時代から改作されている。というのも、「難しい注文が多い」から。というのは、人形が一人遣いから三人遣いになったことによって、一人遣いのころには簡単に出来たことも三人遣いでは難しくなってしまっている。例えば「二階から降りる」とか、一人では人形を簡単に上下できても、三人では難しい。ホンも大変説明的な描写が多く、舞台装置で見せることを考えていない。「お月様の影法師」と言われても「えっ、お月さんどっちにあるんや?」(笑)。そして、登場人物が多い。一人遣いならパッと出してパッと引っ込めてたんでしょうね。しかし、このように改作ができるのはモトのネタがいいから。『大経師昔暦』もむかしは「おさん茂兵衛」という題名で女優さんや歌手の方がよくやっていた。

昭和期、松竹が文楽を持ちこたえられなくなって手放され、文楽協会ができた。ぼくが文楽に入る前ですけど、そのころ近松復活の機運が高まり、『鑓の権三重帷子』『長町女腹切』などが復活された。当時、復活は「わかりやすくやろう」という考えのもとやっていた。色々手を入れないと近松作品を舞台にかけることはできなかった。まず一人遣いを三人遣いにすると道具に制約が出てくる。例えば『曾根崎心中』の天満屋で徳兵衛がお初の足を押し頂く部分は初演当時どうしていたのかと聞かれたことがあるが、「わかりません」。観音巡りも、詞章は単に巡る先の地名を並べているだけで、人形をどうしていたのか、わからない。辰松八郎兵衛がお初を遣って評判を取ったという記録が残っているが、この内容でどこがどうやって評判になるのか。『大経師』の「大経師内」で茂兵衛が寝所へ忍んできておさんの手を取るところ、「手先に物を言はせては、伏し拝み伏し拝み心のたけを泣く涙、顔にはらはら落ちかゝる」と言われても、(お互いの位置関係として)「どうなっとんの」と思う。しかしわかっていることもあり、『国性爺合戦』では竹田の糸あやつりの演出が使われていた。小むつが栴檀皇女とともに山へ逃げて、仙人にかけてもらった虹の橋を渡るところ(四段目)を糸あやつりでやっていたらしい。情景も詞章で事細かに説明される。これをぼくらが三人遣いでやろうとすると、「余分なこと」が色々あり、やりづらい。

以前、国立劇場の企画で近松の心中三部作を一日で上演したことがあるが、題名は違うけど内容が全部同じでしんどく、人形遣いは一日が長かった。

そういえば、むかしの人はしゃれている。「近松半二」は、近松門左衛門の半分の才能しかないとして「半二」を名乗った。平賀源内は浄瑠璃作者としては「福内鬼外(ふくうち・きがい)」と名乗っていた。これはいまの季節、節分から取られたもの。

ぼくらは浄瑠璃を聞きながら、「これ、大学の先生が研究するようなものかな」と思う。故事来歴を取り入れた詞章はある。『大経師昔暦』なら、以春がお玉を口説くところは『大職冠』の謡を取り入れている(? よく聞き取れず。多分、謡曲『海士』の玉取の詞章が取り入れられていることを仰ったんだと思う)浄瑠璃はエロチックな言葉が多いが、いまは字幕が出るから……(笑)。字幕がないころはスッとできたけど。むかしはおおらかに楽しんでいたんでしょうね。

 

 

 

┃ 『大経師昔暦』の難しさ

『大経師昔暦』には「ここ」というヤマがそんなにない。先日も毎日新聞のインタビュー取材を受けたが、「おさんがこうで、ここがどうで」といった意味でのみどころは一切ないと答えた。そうとしか言えない。キライならキライでもっとやりようがあるが……(おさんが以春を嫌いだとしたら演技プランの組み立てがやりやすいということか。よく意味が汲めなかった)

おさんは難しい。以春が嫌いだったわけではない。茂兵衛もおさんがどうこうというわけではないし、お玉にそんなに世話になったわけでもない。「掛け違い」の話。近松は世話物というジャンルをつくって書いてきた。そのため、近松作品ではおじいさん・おばあさんが芝居の中心になることが多い。『女殺油地獄』もそう。生活の成り立ち、家庭の問題を扱ったものが多く、『油地獄』だと父親が違うとか、『大経師』ならおさんの実家の経済事情が逼塞しているとか。そういうことを踏まえて芝居をしないと、「芝居の密度が出ない」。普通の家庭のことを描いているので、裏の事情をいろいろ考えながらやらないと。文句のうわべだけやっていると、相手役と噛み合わなくなる。お互い毎日探り合うようにやっていかないと「密度」が出ず、「難しいこと」になってくる。

先代の綱太夫さんは、「お玉は“小娘”ではない」と言っていた。あの男あしらいぶりは、出戻りだろうという感覚。そうでないと、御所へも出入りするご主人をあんなふうにあしらったり、茂兵衛に声をかけてみたりは出来ない。おさんはまだ「お嬢様」だろう。われわれはお玉のほうが年上だと思っている。おさんと以春はだいぶ年が違うだろう。

師匠を相手役に茂兵衛もやったことがあるが、茂兵衛ももひとつしんどい。岡崎でおさんの両親が出てきてからはその話をずーっと聞いてないかんから、大変。茂兵衛からしたら不条理なことで苛まれるが、いくら話がヘンでもホンから外れるわけにはいかんから。茂兵衛は自分が責任を持つからとおさんだけを逃がそうとする。ひとりで逃げる方法もあるはずだが、茂兵衛は真面目な役なのでそんなことはしない。行動に煮え切らないところがある。おさんを好きなら好きでいい(が、そうではないので複雑、難しい)。「大経師内」で二階からお玉の寝床へ忍んでいくところはどうやっているのか? 屋根の引窓から屋内へ降りる部分は、綱を持つくらいまでは主遣いが遣っていて、そこで下で待っている人にバトンタッチして、下へ回ってもういちど茂兵衛を持つ。

相手に気付かず結果的に姦通してしまうのは、普通に考えたらありえない。わたしたちも「なんでやろ?(キョト顔)」となっている。……そうなんですよね……いろいろ矛盾があるんですよね……(しみじみ)。そこらへんはこちらも感じながらやっている。

舞台に出て、みんなが「ウーン……」と言うのは段切れ(奥丹波隠れ家の段)。もうちょっとなんとかならんかったのか、復活で直せなかったのか……。ぼくらが入る前のことだが、改作をやるときにちゃんとしていれば……。復活は非常になかなか難しい。ホンはあるが、音(三味線の譜=朱)がなくて、新規で作曲して今の舞台でやっている。そのせいで、なかなかまとまりがない部分がある。それは制作(劇場の企画制作)の問題。こちら(技芸員)ではどうしようもない。岡崎で終わってくれたらいいのに……。原作を全部やるのがいいのか、段取りを整理してやるのがいいのかは制作さんが考えること。梅龍が唐突に手代を斬りつけるところで笑ってしまった? 大丈夫です。今日も笑い声上がってましたから。わたしたちも「あれはないやな」と言っている。

今回は最後まで出していない。原作ではあのあと、黒太夫が衣をかぶせておさんを連れ帰ることになっている。

 

 

 

┃ 『大経師昔暦』人形の特徴

おさんの岡崎までの衣装は「芦に鷺」で、専用に作って染めたもの。文楽では専用衣装はあまりないが、これは岡崎の浄瑠璃から柄を取っている(おさんの肌着代なして、白無垢一重憲法に、裾模様ある芦に鷺)。髪型は「先笄(さっこうがい)」と言って、大阪の商家の奥様がする結い方。

以春のかしらは、昔は検非違使を白く塗って使っていた。今は陀羅助を薄卵に塗って使っている。いやらしい雰囲気があるでしょう。

今回、「大経師内の段」では人形遣いは頭巾をかぶっている。黒衣で遣うのは、登場人物が多くゴチャゴチャする場面や、陰惨な場面、端場。これも8人並ぶところがあるでしょ。出遣いでやるとゴチャゴチャする。『女殺油地獄』の徳庵堤も頭巾でやることが多い。あれも次々人が出てくる。これは制作が出し物によって決めることで、ルールではない。逆にいまやっている第三部『壇浦兜軍記』阿古屋琴責の段では、阿古屋の左、足は出遣いになる。これはそのときの都合でやる。ほかには『本朝廿四孝』奥庭狐火の段の八重垣姫、『勧進帳』の弁慶など、全員出遣いになる役は決まっている。

 

 

 

吉田文雀師匠のこと

師匠のことなら1時間でも喋りますよ!!!!!!!!!(大経師の話に飽きてきたところで師匠の話を振られ、突如エキサイトする和生さん)

師匠とぼくの出会いは変わっていた。普通、入門するときは、太夫なら豪快な語り、三味線弾きなら美しい音色など、師匠の芸に触れて入門を希望する。落語家でも先方に何度も押しかけて行って弟子にしてもらう人が多いが、自分はそんなことがなかった。

ぼくの入門のきっかけは師匠の芸に触れたとか人柄に触れたとかではない。ぼくはもともと舞台に出る気はなかった。高校を卒業して、何をやろうか、何が自分に合うか、2〜3年かけて自分のやりたいことを探そうと思っていた。そのころは伝統工芸をやってみようかと思っていて、あちこち回っていた。大阪にあった国宝の修理館を見た帰り、徳島在住の人形細工師の大江巳之助さんを訪ねてみようと思って「遊びに行っていいですか」と手紙を出した。来てもいいということだったので、愛媛の自宅へ帰る前に寄り道することにした。その時点ですでに大江さんは文楽の舞台に使うかしらの90%を作っており、「いまから(人形細工師の修行を)やってももう無理だ」と言われた。といっても自分は特に人形細工師になりたいわけではなかったので特になにも思わなかった。それで、大江さんから、「文楽は観たことがあるのか」と尋ねられ、「ない」と答えたら「4月の大阪公演へ行かないか」と言われた。何年か遊んで過ごすつもりだったので「ハイ」と答えて行ってみたら、当時首割委員だった文雀師匠を紹介され、師匠から「一日観ていき」と言われた。それで「今夜泊まるところあるの?」と聞かれ、どこも予約をしていなかったので「ない」と答えたら、自宅に連れ帰って泊めてくれた。そして、翌朝、「どうするんや?」と言われた。一宿一飯の義理やないけど、そこで思わず「はい」と答えてしまった。するとその日のうちに黒衣を着せられ、横幕を開けたり閉めたりさせられた(笑)。思い出した。そのときはちょうどこんどの5月にやる『妹背山』をやっていた。

師匠は変わっていた。師匠は東京の原宿生まれ。うちの前を馬が通ったら、陛下が来るんやと言っていた。当時は原宿がお召列車の始発駅だった。師匠は洒落た家の生まれで、子どもの頃はよくねえやに手を引かれて明治神宮にお神楽を聞きに行っていたという。お父さんは俳句に凝っていて、句集を出したほどだった。お父さんは芝居も好きで、家にはよく役者が来ていた。師匠もその影響を受けて芝居の真似ごとをしていたが、役者たちは「ぼっちゃん、役者だけはやめときなさい」と耳打ちしてきたそうだ。小学校高学年の頃、お父さんが転勤になって大阪へ来た。師匠はその頃、女給さんの羽織を借りて保名狂乱を踊ったりしていたらしい。やがて戦争になり、学徒動員で工場へ行っていたときに旋盤で指を怪我して、琴ができなくなった。それで文楽に入り浸っていたが、人形遣いに「毎日来てるんやったら手伝って」と言われ、黒衣を着せられて舞台の手伝いをはじめた。それを松竹の人が見つけて「あれは誰や!?」となった。お客さんの子です。電車賃やっとんのか。いえ。そういうやりとりがあり、松竹からは正式に文楽に入らないかという話があったが、師匠は「9月になったら徴用されるので入れない」と答えた。しかし松竹が食い下がり、それでも形式だけでも契約をと言ってネジ込んできたので、契約した。すると8月に終戦。師匠はこうして人形遣いになった。

師匠はいつも「わからんことあったらなんでも聞きや」と言っていた。もちろん、質問できるというのは、それだけのレベルに到達していないとできないことだが。師匠はなんでも教えてくれた。師匠は、「わしが20年30年かけてわかったことを、弟子が一言聞いて一瞬でわかるなら、それがええやろ」と言っていた。人形遣いの場合、芝居の核心になる手元の扱いは衣装に隠れて見えないが、女方はとくに手のひらにできたタコを見れば、どう遣っているかはわかる。でも、師匠は「わしはこうやるで!」と大っぴらに教えてくれた。しかし、「わしはこうやってるけど、ひとによって手のひらの大きさ、指の長さ、握力が違うから、同じにはできない」と言っていた。

師匠の教えでは、「自分の工夫でやっていい部分」と、「これは絶対あかん」という部分ははっきりしていた。師匠は人形拵えにうるさかった。たとえばこのおさんなら、いまなら1時間ちょっとで拵えられるが、若い頃は3時間も4時間もかかる。それを楽屋に置いておくと、師匠が「????」(聞き取れなかった。直接的なNGの言葉ではなく、「そうかー」みたいなつぶやき)と言ったらやりなおし。そういう師匠も若い頃は文五郎師匠にさんざん人形の拵えをやりなおしさせられたそうだ。文五郎師匠が晩年、演舞場で「酒屋」に出ていたとき、もうお歳だったので、師匠がかわりに人形を拵えていた。しかし、いくら拵えても「アカン」と言われて、やりなおし。毎日言われて、毎日お園を拵えなおしていた。1週間で6回拵えなおしたそうだ。何がアカンかったんですかと尋ねたら、わからんねんと言っていた。文五郎師匠は何がいけないのか言わなかったそうだ。師匠の推測では、「たぶんな、ふところにスッと手が入らなんだんちゃうかな」ということだった。若いうちは人形の着付けをきつく締めてしまう。歳とってくると、いいかげん(笑)になってくるけど。これは感覚の問題で、本当はいいも悪いもない。

師匠の教えでいまも有難いと思っているのが、「役のとらえ方、考え方」についての部分。この人物は何を訴えて帰るのか? 何をしたい? 何者? 侍なら、石高はいくらなのか? ……こういった、サキ・アト・ウラのものの見方を師匠から学んだ。

うちの師匠はとにかく演劇はなんでも好き。それに美術館、博物館、お寺。なんでも好きだった。ぼくも一緒に行って楽しかった。波長が合ったんかなあ……。師匠が合わせてくれてたんかもしれんけど……。師匠は「引き出しはたくさん持たなあかん、舞台で通用しなくなる」と言っていた(このあたりうろ覚え。文雀師匠の言動から和生さんがそう読み取ったということかも)。なにごともすべてが舞台に直結してためになるわけではないが、人生80年だとしたら、色々楽しんだほうがいいじゃないかと思う。3月に東大寺のお水取りがあるが、どうですかと言われて、おこもりの予約を入れてきた。ぼくもこの先舞台をどれくらい勤められるかわからないが、弟子が二人おるから、最後に連れていこうと思っている。ひとり「僕、喪中なんですけど」と言ってきたので、「そらアカンわ〜」と言ったけど。

師匠が亡くなってなにが寂しいかというと、舞台の話をツーカーでできるひとがいなくなったこと。師匠と対等に芝居の話ができるようになったのは、師匠が亡くなる直前だった。師匠の家はぼくの家のすぐ横で(L字型の隣同士?斜め隣?みたいなジェスチャーだった)、師匠が舞台へ出なくなってからも、「帰りにちょっと寄ってこ」と、いつも途中で寄り道して帰っていた。そこで「こういうことがあって」と話すと、「これ、あんまおもろないやろ(笑)」「あ、あれな」と返してくれた。そういう芝居の話を通じ合ってできるひとがいなくなったのが寂しい。

ぼくの紋は師匠から受け継いだもの。雀です。雀は師匠と仲がよかった中村扇雀さん(現・坂田藤十郎)からとっている。師匠と成駒屋さんは子どもの頃から仲がよかった。師匠が入門して、芸名を決めなくてはいけないとなったとき、文五郎師匠が「これにせえ」と言ったのが文五郎師匠の兄貴筋の名前で、それを継ぐわけにはいかないのでどうしようということになった。成駒屋さんのところへ行ったら、文五郎から「文」をとり、そして二人は仲がいいんだから扇雀から「雀」をもらって「文雀」にするといいと言われて、それを芸名にした。では定紋はどうしようという話になり、許可をもらって雀をいただいた。「千匹もおるから大丈夫や」(笑)。ぼくもこの紋を使わせてもらうときにはことわりに行っている。ちなみに「かずお」というのは師匠の本名。

……師匠の話はまだいろいろあります。失敗談とか(笑)。

 

 

 

┃ やってみたい役

好き嫌いはあるけど、一番好きな役は言ったことがない。言うと差し障りがいろいろあるんで。「あのひと嫌や言うてたけどやってはるで」とかなるんで(笑)。「いただいた役は一生懸命やります」としか言わない(笑)。やってみたい役? 『菅原伝授手習鑑』の二段目(丞相名残の段)の菅丞相がやりたい。でもこの役はできない。覚寿をやらないかんから(二段目が出たら自分には確実に覚寿の配役が来てしまうから)。それでいうと、『良弁杉由来』の良弁の役もやりたい。一度代役でやったことがあるが……。でも、師匠がいなくなったので、自分がおばあさん(渚の方)をやらないかんようになったので、もうできない。忠臣蔵なら塩谷判官や戸無瀬がやりたい(このあたりうろ覚え。やりたい役が配役として来る例の話だったか?)。飛んだり跳ねたりする役はぼくは性格的に……。「お半やれ」と言われたら、それはちょっとカンベンしてくれと思う。

でも、自分がやりたいかどうかと、お客さんの評価は別。お客さんの評価がすべて。若い頃からやりたいと思っていて、やっとその役が来てはりきってやっても、評価されないことがある。逆に「やりたくないなあ」と思っていても、「よかった」と言われることもある。

じ〜っとしている役が得意と言われるのは、性格だと思う。自分のセリフ(演技の番)が来たら、「待ってました〜っ♪」となる人もいる。いろんな人がいるから、良い。

 

 


┃ 修行や指導について

舞台上で、足遣いなどに「もうちょっと前出せ」「上げろ」等、声をかけることもある。「うん!(唸り声)」はよく言う。反射的に出るので、感情ですけど……。足遣いとの関係には、その人の上手い下手とは関係なく、「相性」がある。あんまりうまくいっていなくても、気にならないヤツもいる。でも、うちの場合、左・足はかしら(主遣い)に合わせるのが基本。

左も足もやったことがない役が来ると、神経を使う。やったことがあると気が楽。だから、若い頃は「てったい(手伝い=左や足に入る)」は何でもいく。いろんな人のてったいを数多く経験することが大切。女方はその方の性格にもよるけど……(どういう意味での発言だったか記憶があやしい。女方の場合は人によってやりかたがちがうということだったか?)

いまは映像という便利なものがある。ぼくらが入ったころはカセットテープの出始めで、それまではオープンリールだった。勘十郎くんとよく言うんですけど、「ぼくらどうやって覚えてたんかなぁ……?」(笑)。映像は便利だが、弟子には「“見方” はある」と話している。うまく利用しないとあかん(=諸刃の剣である)と言っている。

 

 

 

┃ 自分の個人仕事をよくわかってない和生さん

人間国宝になっても自分自身は変わらず、急にうまくなるわけでもない。いままでに対して認めてもらったということなので、このままやるだけ。人間国宝になって一番変わったのは……、よくネタで言うんですけど……、ぼく、自転車で駅まで行ってるんですけど、その駐輪場のおじさんが「先生っ!!!!」と言ってくれるようになったこと(笑)。「先生!! 今日!!! 出番ですか!!!!」(笑)。文楽は先輩の人間国宝が多いので、なったからといってどうということはない。

そういえば、大阪で人間国宝が集まるという会があったが、内容を聞かされずに行ってしまった。大阪城公園に劇場が出来て、そのこけら落としに呼ばれたのかと思っていたら、記者会見で上方の古典芸能の人の集まりと聞かされて「そうなんや!?!?!?!?」と驚いた。おめでたいものをと頼まれ、ぼくは玉助さんと二人三番叟に出ます。三番叟、何年ぶりやろか……。もう……ずいぶんやってない……。最後までもつかなぁ……。いつも翁やってるんで……。玉助さんについていけるかな……(笑)。

(会場からどういう催しなんですかと聞かれ)全然わからん!!!!!(キッパリ)催しものの名前もわからん!!!!!!!(スーパーキッパリ)(司会から和生さんが出るところは鑑賞料9000円ですと言われ)えっ!?!? そうなん!?!?!?!?!?!?!?(司会からのイベント案内を首をコクコクしながら真面目に聞く和生さん)*1

大阪城は最近随分綺麗になって。こないだ記者会見で行って「ウワー! すごいな!!」と、こんなんなっとるんかびっくりした。博物館があったころ、師匠と人形の飾り付けに行ったことがあるが、そのころからは全然変わっていた。いま大阪は外国人のお客さんが非常に多くなって。そういえば大阪城内にあるたこやき屋さんが5億円脱税したと聞いて、「そんなもうかるんや!?!?!?!?」とビックリした。これも外国の観光客の方のおかげですね。(謎のまとめ)

本公演以外の仕事については、技芸員は文楽協会と一年契約をしているかたちになっているので、外部公演に出るときはその申請を届け出る。それで文楽協会が把握してくれればいいのだが、受け取っただけでそのあとなにかをしてくれるわけではないので(届け出は受け取っているが管理しているわけではないので)、ぼくらもほかの人が何をしているかは知らない。ぼくらは「何日出演していただけますか」「わかりました」で当日行くだけ。一日いくらで働いてま〜す❤️ ぼくらは自分たちで切符を売るわけでもなく、宣伝等そのへんはすべて主催者がやっている。

5月の連休の最後には、女流義太夫の竹本駒之助さんと秦野市のイベントに出る*2。玉男さんと良弁杉。それと釣女、二人三番叟。義太夫はすべて女流の方。これはうちの師匠の文雀と駒之助さんがむかし紀尾井町ホールに一緒に出ていたりした縁。

 

 

 

┃ 舞台にまつわる交際・交流関係

勘十郎くん、玉男くん、ぼくの三人組は同期。ぼくと勘十郎くんは同年の入門、玉男さんは一個下。むかしは一緒にいろいろ遊んだ。ローラースケートやったりしていた(まじで!? あとのポワワン二人組はともかく、和生さんが!?!?)。ぼくはあんまりしなかったけど(やっぱり……)。ずっと一緒にいるので、舞台へ出るときも何も相談も打ち合わせもせずやっている。相手役をやっても気が通じ合っているので、やりやすい。

他の業界との付き合いに関しては、さきほどの話通り、成駒屋さんとは親しくて、「(文楽では)あすこはどうするんや?」とよく聞かれる。「わし、こんど高師直やるねん! そっちはどないするねん!?」と聞かれたときは、塩谷判官と高師直がやっているのは大名の喧嘩だと話した。それで、そこまで話したのなら観に行かなあかんかな〜と思って観に行って、楽屋へ挨拶に言ったら、「この芝居のお師匠さんやから!!!!」と座布団を譲られ、上座に座らされそうになった。文楽から歌舞伎に移入されたもの(義太夫狂言)は質問されることが多い。逆に歌舞伎から文楽に移入されたものは教えてもらうこともある。例えば『鬼一法眼三略巻』菊畑の虎蔵。これは雁十郎さんから「まだ子どもやから床机に腰かけても足をペタっとつけたらいかん(地面から足を浮かせていないといけない)」と教わった。うちは人形だからその通りにはできないが。ほかには、天狗飛びの術で飛び上がるところは、ジャンプしてから切り落とすとか(このあたり記憶あいまい。菊畑を文楽でも歌舞伎でも観たことないんでよくわからなかった)。ほかに成駒屋さんから教えてもらったのは、『国性爺合戦』の錦祥女の話し方。高楼の上から話すので、言葉尻を上げないかんということ(口調のことではなく、和生さんのジェスチャー的には、人形のかしらも上向きでないといけないということっぽかった)。これは『妹背山』の山の段の定高も同じ。川の向こうに向かって語りかけるので(やまびこ風のジェスチャーをしながら)。歌舞伎役者さんから学んだことはほかにもたくさんある。良弁の渚の方についてはお能の方に聞きに行ったが、それ(能の所作)は別物。考え方、見方を聞く。

f:id:yomota258:20190209230734j:image

  

 

 

質疑応答で文雀師匠の思い出をという質問が出て、和生さんの❤️師匠LOVE❤️が炸裂したため、メインは結果的に文雀師匠の話になった。勘十郎さんの簑助師匠の話、玉男さんの玉男師匠の話はそれぞれのお師匠様ご自身の芸談本が出ているのである程度聞いたことがあったが、文雀師匠のお話をここまで聞く機会はいままでなかったので面白かった。

というより、師匠について語る和生さんがとてもよかった。本当に師匠を慕っていらっしゃったんだなと思って……。文雀師匠について語るときだけ、話しぶりが違うもの。師匠が亡くなって寂しいとお話しされているときは、文雀さんてたんに師匠というだけではなく、和生さんにとって本当にとても大切な方だったんだなと感じた。師匠と遊びに行って楽しかったという話も、本当に心から楽しそうに語られていて、いいなあ、羨ましい、人生のうちでそこまで心から純粋に慕える人に出会うことができた和生さんて、本当に幸せな方なんだなと思った。

それと、やはり、和生さんてすばらしい人だなと思った。和生さんってひょうひょうとした雰囲気で、まったく飾らずからっとした感じでお話しされるけど……、お話の端々からにじむ物事への取り組み方、考え方に共感したというか、感じ入ったというか、勉強になったというか。たとえ人生のうちで文楽を好きになっていなかったとしても、私は和生さんのことを好きになったと思う。偶然にすぎないけど、文楽を通してこの人を知ることができて、よかった。

私は、文楽を好きになるまでは、古典芸能の世界って自分には絶対共感できない「考え方」に支配されている世界だと思っていた。客にはいい顔をしているけど、根性論が横行していて、師匠や先輩はなにも教えてくれなくて、「見て勝手に学べ」という悪しき職人肌的な世界なんじゃないかなと思っていた。でも、文楽を好きになってから、いろいろな技芸員さんのお話を聞いて、そうじゃないお師匠様もいっぱいいるんだなと知った。先代玉男師匠の話もそう。弟子に身の回りの雑事をさせることを大変嫌ったそうですね。それが修行というものであって、そういうのをやってこそ師弟というイメージだったので、知ったときは驚いた。そういう無駄な我慢をすること・させることをいかにも「かっこいいこと」として語る人がよくいるじゃないですか。でも、そういう世界でなくしようとしている人、へたに現代的な業種よりはるかに合理的・理知的な考えで後継者を指導しようとしている人がいるんだ、それも業界の超トップクラスに。って。

当然ながら私の仕事は古典芸能のような特殊な世界とはまったく違う業界なんだけど、でも世界の構造には少し似ているところがあると感じていたので*3、勝手に共感したというか、救われたような気がした。もちろん、それだけじゃすまされない厳しい世界だろうし、いまもそういう環境で苦しんでいる方や努力でそれを打破して(あるいは持ちこたえて)勤めて方がいっぱいいらっしゃることもわかるけれど。

税金納めててよかった(唐突)。

 

 

 

最後に私から一言。

\第二部の切符買ってね❤️/*4

 

 

 

*1:和生さんがご自分でまったくわかっていないご出演イベントはこれです。
上方伝統芸能フェスティバル 
https://cjpo.jp/program/#hall-ss_geinofes
日時 2019年2月25日(月)~27日(水)
場所 クールジャパンパーク大阪 SSホール
和生さんは初日「上方伝統芸能フェスティバル~おめでたづくし!~」にご出演。ちなみに2日目には勘十郎さん(河連法眼館・忠信役)、3日目には玉男さん(大物浦・知盛)がご出演。そういえばいま思い出したが、和生さん、以前あるイベントで、ご自分がお客さんにとったチケットをどなたのためにとったのか忘れたらしく、ご自分が冠のメイン出演者にも関わらず場内で「ぼくからチケット買うた人〜〜〜〜〜っっ!!!!」って大声あげながら探し回ってたせいで、開場待ちしてる人たちが「!?!?!????」となっていた。

*2:竹本駒之助の会 人形浄瑠璃 人間国宝の競演 竹本駒之助×吉田和生 | 秦野市役所

*3:もう本当しょうもない「オレの話」を延々してくる人、自慢話は文化勲章取るか、切腹してから話しはじめて欲しい。業界的に文化功労者にはなれても文化勲章はいまだかつて受章者なしで今後も絶っ対無理なので、切腹がおすすめ。せっぷくのしかたはぶんらくでいっぱいいっぱいおべんきょうしたので、いつでもやりかたをしつもんにきてほしい!!!!!! そのてんにおいてはわたし、やさしい「ししょう」だから!!!!!!!!!

*4:写真掲載の条件、モロマ。国立劇場2月文楽公演案内ページ→https://www.ntj.jac.go.jp/sp/schedule/kokuritsu_s/2018/2471.html 国立劇場チケットセンター→PC http://ticket.ntj.jac.go.jpスマホ http://ticket.ntj.jac.go.jp/m/ 営業するからにはおすすめポイントを書いておこう。第二部は「大経師内」の一部に下手(左側)ブロックからしか見えない特殊な人形の演技が含まれているので、いまからチケット手配される方で人形の演技をよく見たい方には、中央ブロック左寄り・左ブロックがおすすめです。しかも、むしろやや後方席のほうがよく見えるという特殊なシチュエーション。玉志さんガチ恋勢のみなさんは左ブロック後方を追加購入してください。