TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽『端模様夢路門松』ロームシアター京都

昨年2月末に公演予定されていたものの、新型コロナウイルス感染拡大の影響で中止となったロームシアター『端模様夢路門松』『木下蔭狭間合戦』。そのまま立ち消えかもしれないと思っていたが、再設定され、ちょうど一年後、2月27〜28日の2日間にわたって公演が行われた。

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ロームシアター京都(旧・京都会館)は、平安神宮の近くにある複合施設。周囲一帯が公園のようになっていて、京都府立図書館、京都国立近代美術館、京セラ美術館などの文化施設が多数ある。京都らしく高い建物がないので、歩いていると空が広くて気持ちがいい。観光客というより近隣の方が多いようで、散歩をしたりスポーツをしている人がたくさん。のんびりした雰囲気の場所だった。

会場は、1月からの緊急事態宣言発布を受け、会場が当初予定のサウスホール(満席状態で販売)から、メインホールへ変更となった(前半分は満席状態、後ろ半分を自由席として解放)。このメインホールというのがかなり大きな会場で、4階席まである2000人収容の大型コンサートホール。地方公演で2階席まである会場には行ったことがあるが、ここまでの大型ホールで文楽をやるのはすごい。実際には2階席までしか客を入れないようにしていたけど、後ろの方、人形見えないのは確実としても、義太夫聞こえるんかいなと思った。

床は地方公演同様の対応で、客席へ張り出し式。また、字幕装置が臨時設置されており(床上に大型モニタを2台連結して縦書き表示できるように設置。下手にもあったかも)、単発公演にしてはかなり手の込んだものだった。音響は前方席で見るぶんには文楽劇場同等程度の聞こえ方。ただ、実際にはマイク使ってたんじゃないかな。床に三味線を置く「ゴトッ」という音などが不自然に大きく聞こえていた。
本舞台の見え方は大変快適。一般的なホールのため、客席にかなりの傾斜・段差がついており、前の人の頭で舞台が遮られることががないのが良かった。配席は結局すし詰め状態だったのだが、「観客収容は50%まで」という主催者側に課されたレギュレーションは、とにかく席数の半分しか客を入れなければそいつらがどんだけひしめいててもOKってことね。客席左右に人がいる状態は1年ぶりで、舞台の端っこでギュッと整列しているツメ人形の気分になった。
大きな会場なだけあって、本舞台は間口が非常に幅広く、文楽劇場より幅がありそうだった。シルバニアファミリーでいうなら、赤い屋根の大きなおうち状態。文楽は人形がおプチゆえスカスカになるのではと心配になったが、『端模様』『木下』ともに人形がどっさり出てくる内容であり、大道具も立派だったので、見栄えしていた。

 

 


第一部『端模様夢路門松(つめもようゆめじのかどまつ)』。

上演前に、スーパーバイザーの木ノ下裕一さん、勘十郎さんから挨拶があった。一年前、公演3日前の深夜に中止決定が降りた経緯、今日ついに公演が開催できた喜びを話された。

木ノ下裕一さんが話されているのをはじめて見たが、近所のオバちゃん風の気さくな方なんですね……。そして、勘十郎さんはこの直後に出番があるので黒衣だったんですけど、その黒衣が「Maison de FLEUR製ですか?」って感じの可愛さだった。腰のおおきなふんわりリボンと萌え袖が良い。リボンが機能上あんなでかい必要はないので、確実に可愛くデザインしてある&可愛く結んでるな。60代後半男性とは思えぬガーリーぶり。勘十郎ぶりっこは味わいがある。


『端模様夢路門松』は、1984(昭和59)年、勘十郎さんが30歳ごろに書いた、いわゆる「新作」。製作当時は数回再演されたようだが、以降は長く上演されていなかったものが復活された。上演時間は50分ほどあり、意外と長編。

本作はツメ人形を主人公として、登場人物のほとんどがその仲間たち、つまりツメ人形という特殊な設定になっている。ツメ人形たちにはそれぞれに個性があり、生命と意思を持っている。人間は登場しないが、人形たちは左遣いや足遣いがいてこそ三人遣いの人形は動けるということは認識しており、しかし人形や小道具たちは勝手に動き回って芝居を演じているという、よく考えたらなかなか狂った勘十郎ワールドなのでみんなよろしく。*1

“古い”新作というとこもあり、ストーリーがほとんど露出していないので、以下、あらすじをまとめる。

道頓堀の、とある操り芝居の小屋の舞台裏……。

舞台がはねて、楽屋の廊下はたくさんのツメ人形たちがひしめき合って大騒ぎ。挨拶しあいつつ、彼ら彼女らはそれぞれ寝床に帰っていく。

そうこうしていると、捕手のツメ人形たちが楽屋に帰ってくる。今日もどつかれ役に疲れたと言う定八〈桐竹紋吉〉、竹蔵〈吉田勘市〉のうしろで、門松〈桐竹勘十郎〉はひとり涙をこぼしていた。門松は、殴られてばかりの“ツメ”の生活に嫌気が差し、三人遣いになりたいと思っていたのだった。門松のビッグすぎる夢を聞いた二人は驚き、自分はしんどくてもツメがいいと言って去っていく。

嘆く門松を励ましたのは、一座の長老・老やん〈吉田簑一郎〉。くわを背負った百姓ツメの老やんは、自分も若い頃は三人遣いになってお染や初菊の相手役をやりたかったとつぶやく。門松は自分のことは棚に上げ、笑ってしまう。しかし気を取り直し、みんなが笑っても自分は三人遣い人形の演技ができると言い張り、荒物なら団七(夏祭浪花鑑)、若男なら伊左衛門(曲輪文章)がやりたいと言って、伊左衛門の出を演じてみせる。老やんは門松の振りや間合いに感心しながらも、左遣いや足遣い、床の太夫・三味線と息を合わせてこなせるかと問う。すると門松は急に不安になり、誰かに教えてもらいたいと言って泣き伏せてしまう。

老やんが去ったあと、泣きじゃくる門松を見つけてやってきたのは、小道具部屋在住の動物たち、狐・コン平、犬・タロウ、大猿、馬・馬の介。門松はつつき回してくるアニマルたちを邪魔がって追い払おうとする……が、そんな門松の目に映ったのは、三人遣いで流麗に動く大猿の姿だった。大猿に三人遣いの動きを教えて欲しいという門松に、一同はびっくり。大猿は三人遣いならではの滑らかな動きで踊ってみせるが、自分はあくまで猿なので、左や足は猿の動きだと告げる。がっかりする門松はまた廊下に泣き伏せ、アニマルたちは門松を心配しつつ、ねぐらへ帰っていった。

そこへ彼を心配した腰元のツメ人形・お梅〈桐竹紋臣〉がやって来て彼をちょんちょんする。が、門松は彼女の心配に気づかず、そのまま寝入ってしまうのだった。

翌日。
今日もツメ人形たちは斬られ役で大わらわしているが、そこに門松の姿はない。定八らが彼の穴埋めの代役の相談をしていると、そこに筵をかぶった団七?がやってくる。団七?がむしろをぱっと取ると、その正体は三人遣いの団七ボディになった門松だった。一同は見事な三人遣いの美ボディに感心するが、顔はツメ人形の門松のままでちょっと貧相。ワイワイ立ち騒いでいるところに幕が開く時間が来て、定八や竹蔵は門松に思う存分暴れるように言って、みな舞台に出ていく。

長町裏の段のクライマックス。団七となった門松は、いつも団七がそうしているように、捕手のツメ人形たちを蹴散らそうとする。しかし、いざとなると足が動かない。慌てて幕が引かれ(幕引くのここだったかな?)、仲間たちは遠慮なくやれと言うが、門松はどうしても彼らを蹴ることができず、泣き伏せてしまう……

……「門松、松よ」の声に門松が目を覚ますと、そこはいつもの楽屋の廊下。彼はもとのツメ人形ボディに戻っていた。団七になったのは、夢の中の出来事だったのだ。みなは夢の中で何になったのかとしきりに問うが、門松は恥ずかしくて答えられない。そんな門松に、かねてから彼に恋していたお梅は、三人遣いかは関係なく、今のツメ人形の姿の門松のほうが好きだと言う*2。老やんや定八らは門松とお梅を似合いの夫婦だと喜び、仲間をみんな呼んで、ツメ人形一同で段畑を踊るのだった。

 

物語は、終演後の追い出しのお囃子から始まる。

楽屋の狭い廊下*3は長物の小道具立てや舞台下駄*4、行李*5が置かれ、戸口には芸人宛ののれん*6がかかり、ツメ人形が吊るされているところ*7を、めちゃくちゃたくさんのツメ人形が行き来している。捕手、仕丁、番卒、茶屋の女中、腰元、官女、寺子屋のヤマイモ・チルドレン、『卅三間堂棟木由来』の木遣りの先頭にいる人などなど、森羅ツメ万象が舞台上に現れる。15体くらいのツメ人形が野放図に蠢き回る。おツメ、普段はMAXでも4番程度しか出ないくせに、しこたまいっぱいおる!!!! 
どの人形もどこかで見たことがあるんだけど、どこで見たかは思い出せない、でも知ってる、だけど見た次の瞬間また顔を忘れてしまう、そんなツメ人形がいっぱいいた。

そんな中、主人公の門松だけは見覚えのない顔をしている(キービジュアルの下半分の写真のヤツです)。
大きな四角いアタマに短い「ハ」の字まゆ、大きな「へ」の字口、普通のツメ人形とは違ってテカテカなペイントが施され、なんだかちょっと大きめ……。
それもそのはず、門松は実は作・簑二郎さんのオリジナルかしらだそうだ。簑二郎さんが研修生だった頃、阿波の大江巳之助さんのところに研修に行った際に彫ったものだとか。後半のトークショーで勘十郎さんが首をスポッと抜いて見せてくれたが、本当に何のしかけもなく、棒(胴串)の上に頭がついているだけの、顎の上げ下げもできないシンプルなものだった。『端模様』初演から門松のかしらとして使っており、勘十郎さんがずっと預かっているとのことだった。

ツメ人形でも、個性が与えられている人物は、見栄え感が三人遣いとそんなに変わらなかった。ふだんのツメ人形の棒立ち&カクカク動作ではなく、人となりを感じさせる動きにされている。通常のツメ人形より演技の手数が多いのはもちろん、肩の表情があるとか、目線の付け方といった部分を三人遣いに寄せているのかなと思う。
人形遣いは黒衣での上演だが、役によってはツメ人形でも三人遣いの際の人形遣いのクセがそのまま引き継がれており、あ、〇〇さんだ、とわかる状態だった。門松・勘十郎さん、老やん・簑一郎さん、お梅・紋臣さんあたりはかなりわかる。勘十郎さんは首をかなり強くかしげる所作、紋臣さんはふわっとしたつっつき動作、簑一郎さんはクワを肩にかける仕草が三人遣いのときと同様で、らしい!と思った。
逆に、性格が普通の役、定八の紋吉さん、竹蔵の勘市さんは「わたし、ツメで〜す!」って感じで、いわゆる普通のツメ人形+αの範囲を超えない、あくまでツメ人形的な動作。しかし、なんとなく勤勉そうなのは、お二人っぽかった。

 

うろ覚え、メインとなる楽屋シーンの大道具。もうちょっと楽屋の壁が横に広がっていたと思いますが、だいたいこんな感じ、ということで。

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門松は、三人遣いの人形になりたいと思っている。

え???? どうやって???

ツメ人形と三人遣いの人形って、お百姓さんが帝になるくらいの絶対に越えられない壁がある気がするが……。いや、確かに金殿の官女は時々突然三人遣いになったり、よだれくりはパパがツメなのに本人はアホ顔でも三人遣いだったりするし、もしかしたら何かきっかけがあればクラスチェンジするのだろうか……? という観客の困惑をよそに、門松は伊左衛門の振りを老やんに披露する。

ツメ人形で演じられる三人遣いの振りを見て、文楽で人形を三人遣っている意義がよくわかった。先日の『曲輪文章』の感想にも書いたが、足がついているからこその腰の存在意義を実感したことが、この作品でもっとも衝撃的なことだった。

足がないツメ人形で伊左衛門の振りをすると、ペラペラして見える。上半身につられて下半身がゆらゆらするのがどうにも締まらない。かしらに文七を使うような武将の人形に比べれば、だいぶとなよっとした動きの着流しの町人の若男といえど、腰のひねり、足の踏みしめは重要なのだなと思った。*8

門松が伊左衛門の出を演じてみせるくだりでは、編笠の代わりに七行本を被っているようだった。文字が見えなかったので、何の本かはわからなかった。

 

 

 

小道具部屋の動物たちも可愛らしい。それぞれ本公演にはないような演技がついており、子供向け番組の動物キャラのような「人形劇的」な動作。本作では、この小道具アニマルたちのほうが、いわゆる「ツメ人形」的な言動をする。

きつね「コン平」は、ごん太しっぽを使ったツンツン動作がキュート。キャンキャンした幼稚な喋り方も良い。
馬の「馬の助」は駄馬だろうか、武将が乗っているやつとはちょっと違い、縄のくちなわをつけて、背中にござを引いている。そして妙にロン毛。『冥途の飛脚』淡路町の段に出てくるやつ?
1匹だけ三人遣いで激浮きの大猿は『靱猿』から。のびのびとした手足を使ったユーモラスな動作はかなり見応えあり。時々カイカイしているのが可愛い。そして、顔は虚無風なのに、お尻がグラビアアイドル的に妙にムチっとしていてリアルなのが怖かった。かしらもちゃんとあごを引けるタイプの仕掛けらしく、門松におんぶされて人形遣いの手を離れるシーンでは頭が下がり、死んでいるように見えるのも、さすが三人遣いの特権だった。
「タロー」と呼ばれている赤犬のみ、本公演では用いられないぬいぐるみ。「にほんごであそぼ」からのゲストだと思う。耳の折り曲げ以外に、まぶたが動く仕掛けがついているからか、きつねより大型だった。しっぽはとうがらしみたいに小さくて、可愛い。
これらのアニマルのうち、きつね、大猿、赤犬は勘十郎さんお手製のものだと思う。

しかし、猿、まじで流麗な動きだな……「動きがひときわちゃんとしとる!!!!!!!」と思った。解像度が全然違った。やはり三人遣いの発明は偉大なりや。 

 

登場人物たち。捕手ツメはあと2人くらいいます。

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クライマックス、門松は夢を叶え、団七の美ボディを手に入れて、長町裏の舞台を踏むことになる。ついに三人遣いになった門松は、ツメ人形のかしらに団七の体というなんとも滑稽な姿が愛らしい。
ここでもまた、三人遣いの人形が持っている舞台効果を知った。団七はこの場面で髪をさばいているというのが、大きな演出効果になっているのだな。髪の揺れや顔にかかる影でだいぶ表情がついているのだなと感じた。そして、文七のかしら自体が持っている、ぐっと噛み締めた表情も。伊左衛門に続き、現行の演出というのは、長い伝統に支えられた必然性・洗練性をもっているのだなということがよくわかった。ペイント・ヘアーかつ、ほんわか顔の門松は、おツメ顔の貧相感が高まってた。人形はやっぱり顔やなと思った。

この場面、羽織っている浴衣を完全に脱がないからなのか、団七はノーフンだった。文楽なので、ノーフンでも事故なし。(ノーフン=NO FUNDOSHI)

 

これは門松のみた夢だったというオチなのだが、門松はお梅にそのままでも好き💓と励まされ(都合よすぎやぞ勘十郎)、最後はALLツメ人形が大集合して「段畑」を踊る。

ここでは普通のツメ人形に加えて「段畑」*9に登場するらしいかぼちゃ(×2)や夕顔の鉢の化けもんも紛れ込み、小道具うちわ総動員*10で大騒ぎ。
っていうか、ゴチャゴチャぶりがすごくて、途中からあまりのゴチャゴチャぶりに笑ってしまった。三人遣い主体の本公演では、ここまでの人数の人形が出ることはないだろう。壮観。近松物などは人形一人遣い時代の作品のため、人形がやたらと登場・出入りすると言われているが、当時はこれくらい人形を出した演目もあったのかなと思った。

夜が開け、ひとしきり大騒ぎが終わると、門松はお百姓さんの衣装に着替え(っていうか、違う胴体に首を差し替えられて)、次の出番へ向かっていって、幕。

 

いま気づいたけど、片肌脱いでいる方向が逆だな……

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人形の演技は、初日と二日目では、二日目のほうがよりコメディっぽい演出に振っていた。たとえば門松の伊左衛門・団七の演技、お梅のお染風のクドキ、いずれも初日は本役想定の所作をしていたと思うが、二日目はだいぶギャグだとわかるようにしていた(ギャグではないが)。
おそらく、初日の反応を踏まえ、客に対して「おもしろさ」が伝わっていないことを感じ取っての判断だと思うけど、個人的には思い切り三人遣いで振り抜いて欲しかった。特に伊左衛門とお染の振りは、ツメ人形でどこまで三人遣いに接近できるか、もっと観たかった。

伊左衛門はやりきったほうがいいと思った。顔が月とスッポンほど違う有名キャラクターの振りを、帽子を被ることでわからなくしつつ見せているのだから、その面白さが伝わって欲しい。『曲輪文章』観たことないお客さんもいると思うので、なおのこと。(とは言うものの、前方席は間違いなく文楽の常連客だったでしょうね。そこにピント合わせるなら、滑稽なほうがいいと思う)

お梅の演じるお染風のクドキは、ツメ人形でも意外とそれっぽく見える。振袖を振る系統の演技と体をひねる演技ができないためかなりあっさりした印象で、三人遣いの振袖娘のような光沢感のあるきめ細やかな印象にはならない。ただ、相手役の後ろに回り込んで顔を覗き込むところはほとんど遜色なく、かなり可愛かった。二日目はちょっとコメディに振りすぎて『釣女』の醜女のように見えちゃっていた。

門松が団七(三人遣い)になっている場面では、団七としての所作をもっと流麗にして欲しかった。「蹴れない」となる前の部分がもっと“上手く”ないと、門松にとって、三人遣いの動き自体は出来るのに、仲間を蹴ることだけがどうしてもできないということがわからないのでは。そこが話の重要なポイントになるので、メリハリを付けて欲しかった。

 

 

  

床に関しては、お若い碩太夫さんが一人で語っていたのが良かった。若い人ならではの、どうしても一本調子になるあたりも、良い意味でツメ人形ぽい。ツメのみんなが一生懸命生きてる感があった。前述の通り、かなり大きいホールでの上演だったので、どれだけの声でどう語るかは苦労されているようだった。

 

 

 

本作は、勘十郎さんがどういう人かを知っていると、ストーリーに深みが感じられる。

って、私、勘十郎さんがどんな人か、一切知らないんですが、普段どういうふうに舞台を勤めていらっしゃるか知っていると、感じるものがある。

臆病ながら、やりたいことがあって、でも、グジグジ、ソワソワしている主人公像が勘十郎さんらしい。門松は、勘十郎さん自身がそうであるというより、そうでありたい理想の姿なのだと思う。『傾城反魂香』の又平同様、芸人としての勘十郎さんにかなり似合った役だろう。そして、どんな立場になり、根性なしと思われようが、もともとの純朴な心根を曲げることのできない繊細さと強さのある門松役は、勘十郎さんならでは。

門松は、気持ちの優しさゆえに、いままで苦労を共にした仲間たちのことを思うと、舞台といえど足蹴にできないという、俳優として致命的な心性を持っていた。それは、三人遣いになりたいとは思わない仲間には理解しえない心理である。そして、門松は端役中の端役、お百姓の衣装に着替え、ツメ人形としてまた働き始めるところで物語は終わる。
このストーリーをそのまま読んだだけだと、「身の程、身の丈をわきまえろって話なのか?」とか「もともとの身分の階層を乗り越えることはできないので、そこでの幸せを追及しろってこと?」と思われるだろう。この手のオチは昭和的ほっこり感性で、現代ではいびつに思え、やや首をかしげられる展開だと思う。ただ、見方を変えると、このようなある種の歪みが、かえって良いと思える。最後、ツメ人形の体に戻った門松は、やることはやったから、以前とは違って楽しそうだ。これは私自身が勝手に見出した要素であって、脚本上の意図ではないと思うけど、「結果はどうあれ自分自身でやってみて、自分が納得することが重要」という点はとても共感できる。

門松の仲間たちも、門松の壮大な夢を聞いて驚いたり思わず笑ったりはしても、決してバカにしないし、頭ごなしにできないとは言わないのがいいよね。人間の世界でも、得難い環境だと思う。

 

 

 

新作として、非常にレベルが高い内容だった。想像以上に、話がしっかりしていた。

解説で、この企画において『端模様』は「文楽を初めて見る方向け」という位置付けであることが話されていたが、実際には内輪ネタがかなり多く、常連ファン向けの内容でもあった。内輪ネタがわからなくても、チャーミングなものとして受け止めることができ、変なひっかかりなくスルーできるようにはしてあるのは親切。ツメ人形が主人公だからといって鼻につくようなメタ方向に傾くでもなく、ツメ人形のおおらかさを活かした内容であるのが愛らしかった。

 

脚本で使用されている言葉は、近現代の大阪弁文楽の古典演目のような近世上方語とは違い、いまのおじいちゃん・おばあちゃん世代か、それより1〜2世代くらい前の人の、懐かしい言葉遣いという印象。ほとんど会話で物語が進行するので、より一層そう感じられるのかもしれない。会話主体で進むパロディ的内容の新作というと、『其礼成心中』より完成度が高いと思う。私がそう感じるにはテーマの好き嫌いの問題もあるが、なにより鑑賞しているときの快感の度合いの桁がまったく違う。会話で使う言葉の選び方、その流れの作り方、また「文楽らしさ」の取り入れ方がうまいのだと思う。なにより、登場人物がみんな文楽的チャーミングさを備えているのがいいですね。ツメ人形は、やっぱり可愛いもんね。さすがに技芸員自身が作ったものならではだなと感じた。

タイトルが『染模様妹背門松』からきているのは、生玉の段の夢オチからの連想だろうか。ただ本作の場合、脚本的にどこからが門松の夢だったのかがわかりづらい。意図なのかもしれないが、小道具部屋の動物たちが話しかけてくるのは夢なのか現実なのか、ぱっと見、判断できない。門松が倒れ伏す方向で一応区別つけてるってことだと思うけど、それにしても「泣いて倒れ伏す」という演技をあまりになんども繰り返しすぎに感じるので、もうちょっとはっきりとした差があったほうがいいと思った。泣き伏せの演技のしつこさだけは伊左衛門以上です。

 

 それにしても、出演者にようもこんなツメ人形みたいな顔の人ばっかを集めたもんやな。人形は黒衣だから実際には見えないけど、うん、って感じだった。そして床もそこはかとないツメ人形感がある。清介さんだけ唐突感がすごい。

人形の出演者は一部しか公表されていないのは残念。端役でもかなり上手い人形がいた。捕手ツメーズの中で一番下手にいる長い棒を持ったやつ、最後に出てくるカボチャのお化けのうち凸型のやつと、頭が夕顔の鉢になっているやつが良かった。冒頭部のツメ人形が無数に行き来する場面も、よく観ているとそれぞれ細かい演技をしていて、可愛かった。少なくとも名前がある役はできるだけ出演者名を発表して欲しかった。

 

 

 

  • 人形役割
    門松=桐竹勘十郎、竹蔵=吉田勘市、定八=桐竹紋吉、老やん=吉田簑一郎、お梅=桐竹紋臣
    仲間たち*11=吉田玉翔、吉田玉誉、吉田簑太郎、桐竹勘次郎、吉田玉彦、桐竹勘介、吉田玉路、吉田玉延、吉田簑悠、吉田玉征、豊松清之助

 

『木下蔭狭間合戦』竹中砦の段とトークショーの記事は次回に続きます。

文楽『木下蔭狭間合戦』竹中砦の段 ロームシアター京都 - TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽『端模様夢路門松』『木下蔭狭間合戦』竹中砦の段 ディスカッション(木ノ下裕一・桐竹勘十郎・鶴澤藤蔵) ロームシアター京都 - TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

 

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*1:おそらくかしら(頭部)に意識(アイデンティティ)があり、体はいくらでも付け替え可能という世界観なのだろう(門松は最後に百姓のボディになる)。左手や足といった体のパーツは別の意思に支配されており、かしらはそれを使役する必要があるという特殊なブンラク・ファンタジーである。

*2:謎のドリーミー展開はともかく、そこは三人遣いになれるよう影で努力している門松が好き、と言ってあげたほうがいい気がするが。夢に向かって努力していることが、定八たちとの違いなので。

*3:楽屋の廊下は、朝日座のイメージなのだろうか? 現在の文楽劇場の楽屋廊下はそこまで狭くないはずだが、朝日座の写真を見ると、「人形絶対通れねえ!」と言いたくなる細い廊下が写っている。

*4:舞台下駄は本物。名前が書いてあるのが見えました。一輔さん(はお父さんから譲られたものかも?字が細かくて見えませんでしたが)、玉志サン、勘彌さんから借りたようです。

*5:書割。なぜかめちゃくちゃ目立つ位置に「玉男」。なぜ。

*6:竹本勘介さん江。誰やねん。

*7:吊るされたツメ人形は書割で描かれているんですけど、舞台をうろうろしている奴らとの差は何? プルートとグーフィー的な身分差があるのか?

*8:ちょっと話はずれるが、この演技をするとき、老やんは「演技は合ってるし間も良い」と褒めてくれるが、老やん……ええ先輩やなと思った。そう、演技や間が合ってても……ということがあるからねえ。そして、老やんが、「舞台に出たとき左と足をちゃんと使えるか」と言うのも、意味深。

*9:国立劇場系列上演時は「段ばたけ(瀬戸の段畑)」という題名で、「色模様文五郎好み」より、という位置付けのようです。いままで文楽劇場で2回しか上演していないようです。

*10:うちわは『夏祭浪花鑑』や舞踊シーンなどで使用されるもののほか、配り物として作られたらしい普通のうちわ(文楽人形の絵が書いてある)も登場していた。

*11:三人遣い人形としては、スペシャルゲスト(?)として『木下蔭狭間合戦』から一の注進、大垣三郎さんがご出演でした。