TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 12月東京鑑賞教室公演『万才』『国性爺合戦』東京芸術劇場

今年の12月鑑賞教室公演は、Aプロのみ鑑賞。

 

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会場は、池袋の東京芸術劇場、プレイハウス。建物2階にある演劇用中規模ホールだ。

過去に現代演劇を観ていたころにはよく足を運んでいた劇場で、懐かしい。とは言っても、ホール内部はだいぶ改装されているようで、全然記憶がなかった。トイレの「日本って、昔は景気よかったんだな〜……」感溢れる独特の便器の色だけ、覚えていた。

ホール音響はそこそこ良い。聞こえのバランスに違和感はなかった。2階層ではあるが、コンパクトなホールであり、奥行きがありすぎず、左右幅も狭いので、音が回りやすいのかなと思った。
ただ、席の位置によって、聞こえ方はそこそこ異なるのではと感じた。たとえば、柝の音。今回、口上役に初心者がいるのか、発声や柝の打ち方が若干不器用で、力任せに柝を叩いているときがあった。それを前列で聞くと無駄にやかましく聞こえて、非常に耳障りだった。逆に、中列だと「響きが通ってないな」と感じた。これは床の演奏にも一部言える部分があり、前列席に座った際、乱雑な演奏は度を越して聞き苦しく感じ、中列だとノッペリ演奏する部分は黒御簾のように枯淡に聞こえた(本当に聞き苦しかったり枯淡だったりしたのかもしれないが)。「普通に楽しめるけど、PAがちょっと、かもね」な感じ。

本舞台の間口は国立劇場小劇場程度の印象。ステージは低めで、1mあるなしくらいか。客席との距離が近いこともあって、前列席だと国立劇場公演と近い雰囲気を味わえた。
照明の基本色がオレンジ寄りであること、取り付け位置が低く、前方客席からだと照明機材が見えることが若干特殊か。この機材の低さの問題なのか、「楼門」の楼門の上部がずいぶんとちょん切れているのが気になった。

上演中は客電を暗く落としていた。「演劇」の記号として、静かに観るべきタイミングをわかりやすく示唆できるので、鑑賞教室は今後もこうしたほうがいいと思う。
しかし、字幕はステージへの表示ありにしたほうがいいのではと思った。古語演劇を観劇するにあたって字幕がいるかどうか、初心者が事前に自力で判断するのは不可能だと思う。学生団体の後ろで観劇になった日があったが、学生さんたちは字幕アプリを使っていなかった。そして、かなり早い段階で「???」「……」状態になっていた。

客席は傾斜が適切で、中列であっても前の人の頭に遮られない見やすさと見えの自然さが確保されていた。座席番号の表示位置が椅子の背もたれ左右に入っているカッティング部分なのだが、大きな文字で表示されているのはいいものの、感覚的にわかりづらいと思った。

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万才。

才蔵・勘市さんは、柔らかな肩の動きや表情のあるかしらの遣い方など、門付芸人に相応しいチャーミングな佇まいを備えている。こういう人いそうという物語的リアリズムを感じる。首をすくめ、カメのように胴体へ首がひっこむ動きなど、テクニックがないとできないながら、やりすぎるとあざとくなる動きも、チャーミングさの中にまとまっている。人形が道化的にちっこそうに見えるのも良かった。

太夫・紋秀さんは、会期当初は硬さがあったが、後半日程では、どのような身のこなしをすれば人形の姿をすっきりと見せられるかがよく整理されていた。ただ、目線が若干浮き気味なんだよな。見ている先がどこなのか怪しく、かしらに注意がいっていないことが伺われた。よくいえば、今回ご本人が課題としているのは「姿勢」だったということだろう。あともう少し、「その姿勢になるときに身体の各所にどのように力が入っているのか(いないのか)、どう重心が移動していくか」を検討したうえで、かしらを意識した遣い方になればと思った。太夫の左は、袖の処理や回避などが上手かった。

今回の万才二人組は、衣装が新品なのか、かなり綺麗だった。(一番上に着ているうわっぱり。永谷園感ある小袖は従来通り褪色している)

 

「万才」では、全体的に音が目減りしている印象があった。本舞台奥や御簾内で演奏しているような、フラットで淡々としたBGM風の聞こえ方になっていた。そして、普通に音程取れてない人がいるのが気になった。そのうえ隣の席の人が腹鼓を打ちだしたので(しかも拍子ずれてる)、いつのまにかショウジョウジのニワへ迷い込んだのかもしれんと思った。

 

 

  • Aプロ
  • 義太夫
    豊竹希太夫、竹本咲寿太夫、豊竹亘太夫、竹本聖太夫、竹本織栄太夫/鶴澤友之助、鶴澤清公、鶴澤燕二郎、鶴澤清方
  • 人形
    太夫=桐竹紋秀、才蔵=吉田勘市

 

 

 

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解説。

ツメ人形を使った挨拶+映像上映+人形解説(女性の人形のみ)+『国性爺合戦』の簡単な説明(パワポなし)。

ツメ人形を使った挨拶は良いと思う。可愛いし、簑太郎さんの自然な関西弁が聞けるのがいい。東京で生まれ育った若年層はこういったおっとりした関西弁を聞く機会はそうそうないと思うので、これ自体がアトラクションだろう。大阪ではこういう喋り方の人が地の果てまでビッッッッッッッッッッシリいてはんねんでという社会勉強になったと思う!!!!
ツメ人形は、「この人、家にたこ焼き焼き器ありそう」という感じだった。関西の人やからいうてみんな持っとるわけやないで。うちにはあるけどな。と言っているのだろう思った。

映像の解説では「人形遣いは次の動きを瞬時に伝達して人形を動かしています」云々言うとるが、映っているのは玉志光秀。「瞬時に」伝達できているのは、玉志・玉佳・玉路だからではないだろうか。こいつら伝達速度最速だから。わかっててこの映像選んでんな。と思った。少し古いの映像のため(おそらく2020年9月東京公演か)、なんなら現在はさらに速度は上がっている。

しかし、前も書いたが、せっかくの生の舞台に、映像解説はやめてほしい。上演前に流すか、パンフにこれがいつでも見られるQRつけとけばいいのでは。と思った。

 

  • Aプロ
    解説=吉田簑太郎

 

 

 

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国性爺合戦、楼門の段、甘輝館の段、紅流しより獅子が城の段。

「甘輝館」で、ママ〈吉田勘彌〉と甘輝〈吉田玉志〉が語り合うくだりは大変緊密だった。
二人のあいだには、文楽らしい何重もの心の距離が表現されていた。ママと甘輝は面と向かって手が届く距離で会話している。二人の心もまた手を取り合うことができる至近距離にある。しかし、「社会(=義理)」が彼女と彼を大きく隔てていて、二人のあいだには深く暗い谷が口をあけている。願いは同じであるはずなのに、本当に手を取り合うことは叶わない。親密さとそれがままならない悲しみの二律背反がよく表現されていた。
ママ・甘輝の関係性の描写は、会期わりとはじめのほうでも上手くいっていたのが驚きだった。玉志さんと勘彌さんはほぼ同年代だと思うけど、ペア役はこれまでほとんどないはず。個人的関係は知らんけど、突然よーやったなーと思った。

 

玉志甘輝は、若々しさと透明感が強い。あの髭面でこの瑞々しさ、マジカル。以前はそれがあまりに過剰で、「メンフィス(王家の紋章)!??!?!?」状態になっていたが、今回は落ち着きが強く出て大人っぽくなり、気品と若さが両立していた。

細部まで計算された人形の美麗な見せ方はいつもながら非常に高水準であるが、今回感心したのは、「心が動揺したときに、動いていないのに、動いているように見える」巧さ。こう見えるときの多くは、かしらをわずかに動かしているとかだと思うが、本当に動いていない。どうなっとんじゃ?と思ってよくよく見ていると、ごくごくご〜くわずかな、自然な範囲での人形全体の揺れがある(甘輝は赤珊瑚のかんざしを挿しているので、その先端と背景書割の関係を見ているとどの程度揺れているかわかる)。こういう揺れ、「普通の人」だとよくあって、無意識のうちに常に少しがくがくしている。それ自体は何とも思わない(厳密にいえば、ゆらいでんな、凡人やなって思う)。だが、玉志さんの場合、ふだんは人形がまじでガッチリFIXしているので、人間としての自然な筋肉のゆらぎが人形に伝わっているだけで、どこか少し生々しい印象になるということなのだろう。

目線の遣い方にも感服した。玉志さんは常日頃から目線がバチーーーーーンと決まっていて、人形の持つ強靭な意志が表現されている。また、武人や剛力を誇る役のアクション場面においては、身体より先に目線を動かすことによって、武闘のリアリズム、「強そう」感を表現し、より一層の俊敏さを感じさせている。しかし、「甘輝館」では、逆に、体を先に動かしてから目線にあとを追わせることで、情趣を表現している箇所があった。上手(かみて)に座るママの頼みをひととおり聞いたあと、甘輝は正面へ向き直って思案する。その際、目線はママにつけたままで(上手を見つめたままで)、先に体をそっと正面へ振り始める。目線がママに残っているのが、なんともいえない彼の複雑な内面を感じさせ、情感を覚える。速攻正面へ向いたら、甘輝は、機械的に義理通りに動けばいいと思っている単純な人、いかにもステレオタイプな時代物の男性キャラに見えてしまうだろう。それまでは(あるいはその後も)揺らぐことのない強烈な甘輝の目線のなかに、ふとこんな一瞬が挟まるのがいい。玉志さんは、検非違使などクールな外見のかしらでも、どこか温度感がかいま見え、優しげに見えるときがあるが、こういうところにその源泉があるのかな。本当によく考えられた動きだと思った。

「甘輝館」後半で、なぜ錦祥女を刺そうとしたかの口上をする場面では、熊谷(一谷嫰軍記)役などの経験による「物語」のテクニックが映えていた。甘輝は熊谷や実盛(源平布引滝)などとは異なり、過去の具体的な出来事の回想ではなく、自分の思考を語る。そのため、身振りで具体的な何かを表現するといったワードベタ付きのわかりやすい演技はしづらい。しかし、身体の立体感や動作の緩急を使った大きな所作で、抽象的な話が華やかな語りの場になっていた。なんかよくわからんけどすっごいこと言ってそうだった(聞いてない系ツメ人形)。

ただ、なんでもいいから派手にやっているわけではない。ママや錦祥女を立てるべきところでは、「引いた」演技をしている。人形はちょっとした立ち位置で遠近感をかなり強くつけられる。それを利用して、二人のやりとりが重要なところで動きがつくときは、やや奥へ下がり目の位置をとり、体を後方へそらせて甘輝を小さく見せていた。話は前後するが、奥の間から出てきたママの話を聞いているあいだは、完全に「横向き」になって客席から「顔を見づらくする」ことで、小さな人形のママへ注目を集めていた(普通の会話シーンでは、左右に対面し相手の顔を見ている「横顔風」に見せてはいても、若干客席側へ顔を振ってナナメ見せになり、存在感を出すテクニックが使われる。玉志さんは結構この傾向が強くて、真横向きは滅多にない)。

こうやって目立たないようにしているところがあるから、押し出すところがより一層、バキッと際立って見えるんだろうな。

しかし、本人の意図せぬところで異様に「立っちゃってる」ところがあって、ちょっと笑った。剣を抜いて右手に持ち、下手(しもて)にむかって刃先をやや傾けた状態でしばらく静止し、ほかの人の言動を静観する場面が何度かあるけど、そこでの剣の構えが完璧すぎて、異常に目を引く。「獅子が城」での煙草や扇などの小道具の持ち方もいちいち凝っていて、この人、こだわりが細部にまであるんだなと思った。

あと、甘輝は若干顎を引いていますね。甘輝は豊かな顎髭をたくわえているので、通常の役よりもそれがわかりやすいと思う。髭がちょっと「むぎゅっ!」となってる。「やや顎を引く」は初代玉男師匠、玉男さん、玉志さんに共通するかしらの遣い方の特徴だが、それが貌立ちに独特の陰翳を与えて、知的な印象になる。

 

 

ママは、しゃきっとしていて、若見え美魔女だった。まったく「ババア」に見えない。やさしいママではあるが、佇まいには水仙すずらんのような冷涼さがあるのが特徴的だった。このママなら、髪は本当に真っ白、着物はそれが引き立つパッキリした色のほうが似合いそうに思った。

身体がキュッと小さく、華奢に見える構え方は勘彌さんらしい。勘彌さんが受け継いでいる簑助さんの美質のうち、もっとも賞賛すべき部分だろう。歌舞伎役者で身長の高い女形の人は、姿勢が崩れない程度に前屈していたり、全体にひねりをつけて身長を低く見せる場合があるが、あれの人形版だと思う。かなり具体的に有効なテクニックだが、真似しているのが勘彌さんしかいないのは何故だろう(かつては清五郎さんもそうしていたが)。単純なことに見えて、綺麗に捻るのは至難の業ということかな。

「甘輝館」で錦祥女を甘輝の剣から庇って覆いかぶさるところだけ、錦祥女に乗っかりすぎて、背筋伸ばし健康法(公園にある背もたれが丸いベンチ)してるみたいだった。でも、会期後半では乗っかりすぎが改善され、ちゃんと後ろ手に庇っているように見えるようになった。こういうの、全然なおらない人もいるけど、軌道修正する人は、いつどのようなキッカケで気づいて改善してるんだろう。

甘輝以外の人物との絡みは、心の距離が全然よくわからない状態だった。とくに「獅子が城」の最後とかまったく間持ちしていない。相手役の力量の問題なのだが、こういう状況でも力技で見栄えを成立させるほどの強度にまで勘彌さんが成長してくれることを望む。(無茶?)

 


そのほか細部。

「楼門」は、これ、大丈夫かと思った。「役がそこにいる」とは感じられず、技芸員個々の状態そのものが見えていた。そう感じられる理由は2つある。

ひとつめは、錦祥女がどこにいるかがわからないこと。いやね。錦祥女が楼門の上にいることは知っとんねん。そのうえで、「楼門」が高さ何mのどういう建築物かを演奏・演技で示してほしい。物理的なことだけでなく、錦祥女の心理のうえで「楼門」がどのような高さや堅牢さであるのかを示してほしい。とくに、錦祥女にとってのマジパパ老一官との「距離」がどのようなものであるかは「楼門」という曲の核心であるため、ある意味では目の前にいるはずの父がいかに遠く手が届かない存在であるかを表現するのはきわめて重要である。
現状だと、距離感がないため、すべり台の上から何か言うてんのかなという感じだった。よく言っても鷺宮あたりの建売住宅の2階ベランダかな。楼門がちっちゃく感じるだけでなく、その下の敷地もめちゃくちゃ狭く感じる。個人的には、(少なくとも錦祥女の心理の上では)南禅寺の三門くらいのスケールはあってほしい。
とくに錦祥女の人形は、誰かに話しかけるときも独白もトーンが変わらず、極めてフラット。手鏡を使った演技では、手鏡に階下の様子を一生懸命に映し出し、少しでもお父さんをよく見ようとしている感、ちいさな鏡のなかを必死に覗き込もうとしている感がなかった。具体的には、かしらと胴体の関係が棒立ちに凝り固まりすぎで、首をかしげる覗き込みの姿勢になっていないことが原因だと思う(対象を見るために首を傾けるのは子役・女形において重要な所作。簑助さんは過剰レベルで多用していた)。老眼の人が手元が見えないために物を遠ざけて、焦点が合うところでなんとなく見ているようになっていた。そして、これが一番の難点なのだが、メリハリがなく、その所作がどのような視覚効果をもたらすか検討されていないように感じられ、印象がぼけている。この状況がどんな役でも続いているのはさすがに好ましくない。すでに還暦前後という年齢(芸歴)を考えても、そろそろ卒業してほしい。

ふたつめは、「こいつ誰?」的な、「そんな役、いまこの場面におらんで」という演奏や演技が見受けられること。浄瑠璃に描かれている人物像(性根)とパフォーマンスとがかけ離れている状態は、最近、頻繁に発生している。誰か何とかしてくれ。

 

上記のような問題点はともかく、老一官〈吉田簑一郎〉は良かった。
老一官の人形のみでいえば、楼門が壮麗な高さであることがわかる演技になっていた。建物からやや下がって上体全体をそらせつつ(そらせた姿勢を客席からわかるように身体を振る)、かしら・目線をくっきり上げて、体全体で楼門を見上げるなど、「高さ」を感じさせる演技が的確である。

和藤内〈吉田玉勢〉は、かしらの持ち方がしっかりしていた。
「楼門」の和藤内は文楽人形のなかでも最も重いと言われており、20kgほどあるそうだ。初役なら持っているだけで精一杯だろう。こりゃかしらが「いがむ」なと思いきや、なんとしっかり的確な方を向いているではないか。かしらだけは! 人形はなんといってもかしらの演技が重要。本人もまずはかしらをしっかり持って性根を「いがめ」ないよう意識してやっているのだろうと思った。あのサイズの人形でかしらを一応ちゃんと持てているのであれば、自信を持ってほしい。
身体のこなしは硬い部分が多かった。が、ぎこちないとはいっても、ポーズ取りに終始しているわけではなく、人形の動きは連続したものであり、つなぎかたが肝要であることはとらえられていた。身体的センスが致命的に欠落しているタイプとは違うので、慣れれば改善する可能性は高い。
ていうか、単に、左に上手い人をつければ、身のこなしは上手にさばけただろうな。随分上手い人を甘輝の左につけてるみたいだけど、その人を和藤内の左につければいいのに。玉勢さんは無駄な焦りが最大かつ明確な「欠点」なので、落ち着くこと(落ち着かせること)が肝要であり、彼の心理的安全性を確保するためにも、そうしたほうがよい。玉志は左に「ダボハゼ」がきても自力でなんとかするじゃろ。と思った。

「楼門」では、ママは中盤、おおおいに暇(?)になってしまうので、勘彌さんはサウナ入っとる人みたいな表情になっていた。男湯のサウナの中がどうなっているのかは見たことはないが、こういうおじさんがびっしりと蒸されているのカナ☺️と思った。

城壁の上に出現する4人のわらぼうし兵士のツメ人形たちは頑張っていた。
一番下手(しもて)のやつは、最近生まれたのかなという顔をしていた。こやつは城壁のへこみ(鋸壁)にしっかり鉄砲を押し付け、照準器(目当)を深く覗き込むような姿勢をとっていた。遣っているのは若手だろうが、いまこの兵士に課せられている役割を意識してやっていることがわかった。このツメ役の人はちゃんと考えて、自分なりに研究や工夫をして舞台へ出てんだなぁと思った。
ただ、そうすると低い位置に鉄砲構えることになるので、人形の姿勢がかなり折れ曲がることになってしまう。さっきの段でとらにかまれて半死に状態っていうか、寝てるみたいに見えるのがもったいない。レンペーキューしてはんのか!? 人形の姿勢を綺麗に見せつつ、それらしく見える方法の研究をしてみては。と思った。

 

「紅流しより獅子が城の段」は見せ方にうまくいっていない部分が多く、演目の魅力が打ち出せていなかった。こちらは慣れの問題なので、本公演相当の会期があれば、ある程度まとまったとは思う。

段切で和藤内と甘輝が同じフリをするところは素でタイミングが揃っていた。普通は例え見て合わせにいったとて、あそこまで完全には揃わない。浄瑠璃の演奏に対する演技位置の理解が二人の間で完全一致しているのだと思う。よく出る演目でもなのに、彼らはこれまで本当によく勉強してきたということだろう。師匠に見てやってほしかった。

「紅流し」からは和藤内が上着を脱ぎ、「とちおとめの妖精」のような赤襦袢姿になる。その「とちおとめ」スーツがあまりに毛玉だらけすぎて、ゾワゾワした。うちにある毛玉取り器で丸刈りにしてやりたい。もともとピリングのある生地なのかもしれないが、それなら衣類スチーマーと洋服ブラシでふわふわにしてあげたい。無印の洋服ブラシは不安になるほど安いのに、高密度のウールのコートやふわっとしたニットにも適度なタッチができるので、おすすめ。

「獅子が城」の最後、豪華な衣装へ着替えた国性爺・甘輝に差し出されるイスにかかっているものが、ヤン車に敷いてありそうなファーではなく、うっすい中綿の入った動物用ふとんみたいなやつになっていた。いぬねこベッドの底に敷いてあるやつかと思った。色はドドメ色を腐らせた感じだった。

(どうでもよすぎの散漫感想)

 

  • Aプロ
  • 義太夫
    楼門の段=竹本織太夫/野澤勝平
    甘輝館の段=竹本藤太夫/竹澤宗助
    紅流しより獅子が城の段=竹本睦太夫/鶴澤清馗
  • 人形
    鄭芝龍老一官=吉田簑一郎、老一官妻=吉田勘彌、和藤内=吉田玉勢、錦祥女=吉田一輔、五常軍甘輝=吉田玉志

 

 

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国性爺合戦』は、個々の出演者が自分で役の造形や物語の芯とすべき部分を深掘りしていかないと、厳しいことになる演目だと思う。そういう意味で、こうなるだろうなとは思ったけど、かなり、「順当」な仕上がりだった。
いつも真剣に舞台へ取り組み、研究熱心な人は、いつも通り素晴らしい、もしくは、従来を上回る出来。多少不器用なところがあっても、自分なりに課題意識をもって取り組んでいる人は、会期後半にはなんらかの成長がある。なんにも考えていない人は、なんにも変わらない。
そして、それぞれの任された場、役のヴィジョンを持っているか否かが如実に出ている。いつもながらではあるが、今回はより一層顕著にわかる状態になっていて、すごいッ。と思った。
幹部が出ていないので、絶対的な出来そのものが本公演のメイン演目より下がることは承知の上だ。でも、そういうときに、「何をやるか」が問われるのだと思った。

 

今回の上演を観て改めて感じたのは、和藤内の人物像をちゃんと決めておかないと、性根が据わらず、その場その場のうっすっぺらいものになるということ。
三島由紀夫は、近松評価における世話物偏重を批判し、『国性爺合戦』の和藤内の演出について、こう語っている。

 この意味では、近松の時代物中の大物である「国性爺合戦」が、矢代静一氏の脚色によって上演されるのは賛成である。近松が和藤内に託した童心の夢、無垢な大力無双の少年にひそむコルネイユ的英雄の魂を、どうか少しでも近代趣味でそこなふことのないやうにしてほしい。私は姑息な原典尊重主義で言ふのではなく、和藤内のうちに、同時に英雄のパロディーを見、古くは金平浄瑠璃の主人公、新しくは坂口安吾の「につぽん物語」の主人公のやうな、真の日本的ヒーローの朗らかさを見て、これのはうが心中物のめそめそした男女よりも、今後の日本劇文学にプラスになると思ふからである。

近松ばやり私観」 初出:東京新聞(夕刊)・昭和33年4月7、8日

三島のいうような意味での、シンプルな明朗さをそなえた男性像は、現時点で表現できていると思う。だが問題は、三島がこの発言をした1958年ならともかく、2025年の時点で果たしてそれが説得力を持つのかだ。
浄瑠璃をよく読むと、和藤内の人物像はまさに三島の言の通り、かなり単純である。安直バカといってもいい。ここまでのやっすい発言のキャラ、いまどき悪役にもいないのではないだろうか。この「単細胞」の和藤内に甘輝がひれ伏す説得力を、いま、いかにもたせるのか。
2021年4月大阪公演で『国性爺合戦』が出た際、玉志さんが和藤内を遣った。玉志さんの真面目ぶりや知性がそのまま反映された和藤内で、出てきた瞬間、観客全員「誰!?!??!?!?!?!」とビビり散らした。「マリンバンク*1へ堅実に定期預金入れてそう……」と思った。和藤内は知略に富んだ軍師でもあるので間違ってはいないのだが、いや、なんなんだ、この漁協青年部地域部長感は。しかし、現在の感覚において、年長で身分がある異国の武将からも敬意を示される人物像を創るという意味では、間違ってなかったんだな。玉志さんは平右衛門(仮名手本忠臣蔵)がきたとき、『ドラゴンボール』かよってくらい明朗単細胞に大振りして遣っていたところをみると、荒物的な筋肉バカを演じられないわけではない。そこを避けて早々に知的な印象をもたせ、説得力を立ち上げるのは、結構意味があったのだと、今更わかった。今後また和藤内を遣うなら、エキセントリックさを足したらより面白いと思う。エキセントリックな知性派。玉志サンは実はかなりエキセントリックな方ではないかと思うので、いけるのでは。いずれにせよ、なんらかの「新解釈」は必要な役である。

 

しかし、『国性爺合戦』は、鑑賞教室に向いてなさすぎると思う。
つまんねーとか以前に、上演の段取りに問題がありすぎる。
「楼門」から「甘輝館」への大道具転換で幕を閉めたまま5分待機させられるのは致命的。その上、「甘輝館」の冒頭は舞台カラのまま・浄瑠璃の演奏のみで進行するため、視覚面で単調な状態が15分ほど続くことになる。「没入感」やスピーディな転換/展開が当然となっている現代のエンタメ、それを自明のものとして享受している若い世代に対し、不親切すぎんかと思う。*2
あと、普通に、排外主義が高まっている状態で、国と国との関係に「上下」をつけることを肯定的に表現する演目を初心者若年層向けに上演すべきではないと思う。また、人道にもとる侵略が世界で何箇所も起こっている状況で、今回上演がないとはいえ侵略を肯定的に描く内容(千里が竹虎狩りの段)を含む作品を出すことも感心できない。なんでわざわざこれにした? 差別を蔓延させたいのか? ほかにいくらでも面白い演目はある。と思った。

 

例年、12月東京公演は、本公演にあたる中堅公演と鑑賞教室公演で構成されていた。しかし今年は中堅公演がなく、鑑賞教室のみの開催になっている。企画のやる気がないのか、もはや文楽座として中堅公演と鑑賞教室公演の2本立てができるほど人材がいないのか。いずれにせよ、文楽の未来にとっては大きなマイナスを示しており、大変残念に思う。
しかし、今後、鑑賞教室もまともに上演……どころか、運営できなくなるだろうな。鑑賞教室は一応出演者に年齢制限を設けているらしく、70歳以上になると、配役から外される。そうなると、たとえば人形なら、勘彌さんや玉志さんが近年中に外れることになる。今回のAプロから勘彌さんと玉志さんが外れるとどうなるのか。ほんまどないする気やねんと思う。

 

最後に妙に具体的な文句。
「獅子が城」で、ある人形の左遣いがめちゃくちゃ邪魔な位置に立ってしまい、見苦しいことになっている場面があった。左が人形の真横(人形と並行した位置)に立つと、人形よりも見た目にボリュームが出てしまって、非常に目障り。解説で言っている「左遣いは人形から一番離れて遣っているので……」を実行してほしい。逆にいえば、上手い左遣いは人形から一歩下がるか、背後に回り込む気配りをしたうえで遣っている。こういう人は奥行き位置だけでなく、左右位置も何も考えずに立っちゃうから、後ろの人形も見えなくなるのも困る。真横に立つ(後ろの人形を隠す位置に立つ)のは特定の人なので、周囲が注意してあげれば改善することなのではと思う。小割公開してるわけでもないのに、客が「またあいつかよ」って思う状態は、まずいと思う。
あと、装身具がガチャガチャになった状態で出てる役おったけど、出る前にチェックしてくれ……。と思った。日頃から身だしなみに無頓着で、社会の窓全開で歩いてはるんかもしれんが……。
それと、付け打ちがおかしい箇所があった。甘輝がバカに見える💢😡🌋いけふくろうに目玉つつかせんぞ🦉👁️💥
(細かい文句が多いツメ人形)(どんだけ文句あるねん)

 

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アトリウム。むかしは景気よかった。

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2階席からの見え方。

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休憩時間に壁際に立ってスマホをいじっている人……かのような阿古屋さん&熊谷さん。

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ブクロにはサンマルコがあるため(東武百貨店B2食品売り場に入居)、大阪でなくとも文楽→サンマルコ🍛のハシゴが可能。

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今年一番良かったことは、簑二郎さんが「なんか変わった!」こと。
これまではオドオドしていること、それによって手が縮んでいることが客に伝わる状態で、実力が削がれて見えてしまう人だった。しかし今年は自意識に囚われた印象は薄れ、真摯な取り組みそのものが客席に届くようになったと思う。具体的には、集中力の維持が高まったこと、右手での演技を控えて目線をはじめとしたかしらの芝居に重点をおくにようになったことが良かった。1月大阪公演の『本朝廿四孝』八重垣姫、博多座『伊賀越道中双六』お米は、これまでの簑二郎さんになかった一貫した人物像の描写と、従来より持たれていた純粋な真摯さの美質が融和してあらわれたと思う。
あくまで推測だが、去年の秋に簑助さんが亡くなったことで、師匠をご自分のなかでどう捉え直すかが変わったんじゃないかなと思う。純粋な直弟子の中で、簑助さんの芸を継承している人って、いないからね……(ぱっと見では勘彌さんが一番簑助さんに近しいけど、勘彌さんは本質が違うところにあって、あくまで元の師匠の影響を受けてああいう芸に育ったんだと思う)。
簑二郎さんには今後も頑張ってほしい。

 

演目としては、4月大阪公演5月東京公演『義経千本桜』の「渡海屋・大物浦の段」が非常に良かった。浄瑠璃のもつ超越的な悲劇性とダイナミックなドラマが存分に表現されていた。私は「情念」という言葉がとても嫌いなのだが、この「渡海屋・大物浦」では、歴史の波底に秘められた情念が色濃く、しかし高潔な質感をもってあらわれていたと思う。さすが和生さん、玉男さんと思わされたし、床の3組の独自性にも唸らされた。和生さん・玉男さんのもつ、ある種の「欠落」が物語にマッチしていたと思う。

また、9・10月大阪公演の第二部『一谷嫰軍記』『桂川連理柵』は、「またかい!」演目ながらダレがまったくなく、緊密で洗練された舞台となっていたのが印象的だった。「陣屋」は、不慣れな人もいるなかでの前向きな取り組み、その期待感。そして、玉志さん熊谷は、研鑽に研鑽が重ねられ、相当の域にまで到達していると感じた。静謐さのなかにあそこまで華があるのは、本当にすごいと思う。長い時間をかけて真剣に取り組み続けてきた人がもつ輝きがあった。
「帯屋」は実に密度が高く、閉鎖的な近世のイエの苦しさが高精度で表現されていた。浄瑠璃そのものを上回る重厚なドラマツルギーがあった。近年は技芸員自身ですら「おもしろおかしく」紹介してしまうことのある演目だが、いま一度、この物語をどう上演するか、なぜか過去の人々はこの物語を受容したのかを真摯に捉え直したほうがよいと感じた舞台だった。

 

一年を通して強く感じたのは、文楽において「洗練」がいかに重要かということだ。
文楽伝統芸能のなかでも「古典(カノン)」重視のジャンルであり、公演のたびに新演出をおこなわなければならないという「やってみた」強要はない。それゆえに演者は「洗練」に集中することができる恵まれた環境であるといえる。その「洗練」とは何なのか。観客として強く意識するようになった。とくに高齢の演者にとっては、個々人なりの「洗練」がなくしては、体力や身体的機能の低下はカバーできないと考えている。その明暗を強く感じた。
そして、「品」をそなえることの意義。どこまでいっても文楽の根幹は時代物であり、それは品格を欠いては成立し得ない。「品」とは何なのかは、現在の文楽において重要な課題だと思う。

 

一方で、今年はがっかりすることが多かった。ネガティブな気持ちになることが、年々、確実に増えている。
9月東京本公演がなくなったこと、12月東京本公演がなくなったことは、まじ、終わってんなと思った。これで何を得たというのだろう。今後の文楽にとって大きなマイナスとなったと確信する。
公演企画についても、特に東京公演に関しては、「いかに無難に済ませるか」や「ネガティブチェック」にだけ異様に一生懸命なんだなとしか思えず、がっかりした。組織で働いたことがある人ならわかると思うが、こういったエクスキュース作り自体が目的の仕事、ネガティブチェックが目的の仕事だらけになると、前向きな人の意欲まで大幅に削がれる。なんで純粋な楽しみとしてやっている趣味でまでこういうことに付き合わなくちゃいけないのかと思ってしまう。始まるのが楽しみで仕方ない公演、ワクワクするような公演は、東京公演ではもう望めないということか。「ワクワクがない」。東京公演の客が激減した最大の理由はそこだろう。来年2月の『絵本太功記』の通しは頑張ってほしい。

国立劇場再建の目処が立たず公演体制が不安定になっていることについて、当の技芸員からの論点のずれた軽薄な発言がいくつか見られたことには、大きなショックを受けた。また、舞台でのパフォーマンスがあきらかに低下しているにもかかわらず、インタビュー等であまりに都合よくナラティブ化しすぎの発言をしている人も、痛ましさのあまり、直視できなくなってきた。公演企画については「外部ならいいヤツもあるから」と言えなくもないが、技芸員に対する不信感が生まれたことはそれでは回避できず、正味、これが一番ショックなことだった。

年齢がいっている人はもはやどうしようもないが、おおむね50歳以下程度で、この人、勉強してないっていうか、勉強のしかたをわかってないんじゃないかと感じることがある。「勉強のしかた」は周囲に恵まれないと学ぶことができない。芸そのものに関しては、基本的には師匠が教えるべきだが、教えることのできない師匠がいるのだろうと感じる。また、自学自習しなくてはならないこともあり、その「自学自習」とはなにかということについては、本人の視野の広さや芸術的感性が重要となる。でもそれも、とどのつまりは周囲の環境の影響がかなり大きく、ある程度の年齢であなぼこのなかにいたままだと、あなぼこの外にはひろい世界あることに気づかず、一生あなぼこのなかで暮らしてしまうんだろうなと思った。

 

 

 

 

 

*1:漁業・水産事業者向けの銀行、JAバンクの海版。漁船購入のための融資もしてくれる。

*2:逆に、段取りが抜群な演目もあるんだよな。「尼ケ崎」(絵本太功記)は、幕が開く前から演奏が始まる点(陰での「ナンミョーホーレンゲーキョ」の声が口上より先に入ってインパクトがある)、人形が多数出た状態で始まる点(さつき・村人ツメ3人組が板付き)。大道具は通してひとつのままながら、道具引きや木登りによる幕の振り落としがあるので情景も変わるし。「尼ケ崎」は話の彩りの豊かさが優れているだけでなく、鑑賞教室に非常に適切な間合いをもった演目なのだなと思った。