TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 7・8月大阪夏休み特別公演『鈴の音』『瓜子姫とあまんじゃく』国立文楽劇場

ある意味、文楽劇場イチの辛口玄人が集まる親子劇場、今年も元気に開演です。

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鈴の音。

勘十郎さん作の子供向け演目。一見、ほのぼの、のそ〜っとした話ながら、異様な強迫観念が見え隠れするのが勘十郎さんらしい。

あらすじ

まだ寒さの残る山の中。沼から上がったカッパの河太郎〈吉田簑紫郎〉は、落ちている大きな鈴を見つける。素敵な音に大喜びの河太郎が鈴をカラコロ鳴らしまくっていると、キツネのカップル、コン平〈吉田簑太郎〉とはつね〈桐竹勘次郎〉がやってくる。コン平は鈴を欲しがるが、河太郎は沼の仲間に見せびらかしたいからと断り、鈴を持って沼の中へ帰っていく。
はつねは、コン平がやたら鈴を欲しがったことを不思議がるが、実はコン平は鈴をはつねの首につけてやりたかったのだった。それを聞いたはつねは喜び、二匹はイチャイチャしまくる。すると、河太郎が沼から上がってきて、鈴を二匹にやるという。水の中では鈴の音は鳴らず、無用の長物だったのだ。
河太郎に鈴をつけてもらったはつねは大喜び。続けてコン平も鈴をつけてみたいと言うので、河太郎はコン平の首に鈴を結わえてやる。二匹ははしゃぎまわって山のほうへと駆けていった。

そうこうしていると、山に鉄砲の音が鳴り響く。コン平が首につけた鈴の音を聞きつけ、狩人〈吉田玉彦〉が二匹を追いかけ回していたのだ。沼まで走ってきたコン平は河太郎に鈴を外してもらおうとするが、結び目が固くしまっていて、なかなかほどけない。そうこうしているうちに狩人が迫ってくる。河太郎はコン平に、自分の頭の上へ乗るように言い、皿にコン平を座らせて沼へ入る。
やがて、コン平の首の鈴の音をしるべに、狩人〈吉田玉彦〉が沼まで追ってくる。そこで狩人が見たのは、水面に浮かび、シッポをピン!と立てたキツネの姿だった。コン平は自らを稲荷明神の使いと称し、それに鉄砲を向けてはバチが当たると宣言する。驚いた狩人が謝ると、ちょっと調子に乗ったコン平は鉄砲を置いていくように告げる。商売道具だからと戸惑う狩人も、コン平にバチが当たると脅され、やむなく鉄砲を差し出す。満足するコン平だったが、狩人がじろじろと沼を覗き込んでくるので(ネタバレする〜!!)、今度は服も置いていくように言いつける。脅された狩人はやむなくフンいち……どころかスッポンポンにさせられ、もと来た道を帰ってゆくのだった。

狩人がいなくなって三匹は大喜び。危ない鉄砲は土を掘って埋めてしまい、やっとコン平の首から外れた鈴は、木の枝にひっかけて風が吹くたび鳴るようにした。やがて吹いてきた春風に鈴の音がコロコロと鳴り響き、沼のまわりは春のいぶきで彩られるのだった。

いわゆる「人形劇」感が強い作品。愛らしい(けどよく見ると顔が怖い)カッパやキツネの人形・ぬいぐるみはもちろんのこと、妙にリアルなフナの小道具、水や土の飛び散りエフェクト板のユーモラスな動き、効果音(お囃子)を多用した演出で、子供さんにもわかりやすい作りだった。
出演者も若めで、技術的な面の素朴さ、言ってみれば一種の稚拙さが、のんびりモッサリした物語の雰囲気に適合していた。カッパもキツネもどう動いたら一番可愛いかをよく研究してみてって言いたいのが正直なところだけど、このどんくささがちょうどいいのかもしれない。
おヤスの鈴voiceがヤバすぎて、客席の子供さん方がめちゃくちゃ床を振り返っていたのも良かった。

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河太郎は、三人遣いのカッパの人形。くすんだ淡いセージグリーンのちりめんの肌に、完全に妖怪テイストなまんまるのぱっちりおめめ、とんがった口元。腰に毛皮なのか木の皮なのかという巻きスカート状のものをつけていた。気になるヘアスタイルは、「カッパ」と思えないくらい、フッサフサだった。そして、カッパって、背中に甲羅あるけど、人形遣いが手ェ差し込む穴、どうなっとるんや……?と思っていたら、わりと小さめの甲羅(亀仙人の半分以下的なサイズ)の下から差し込んでいた。甲羅に穴開いてるわけじゃないんだ……。と思った。帯の下に差し込む感覚なのだろうか。
カッパの皿って、上にキツネが乗っても大丈夫なくらい丈夫なんだ、と思った。調べたところ、本州にいるようなキツネは体重5〜7kgらしいが、うーん、デカネコ程度の体重なら頭に載せても大丈夫かなあ。皿以前に、首をいわしてしまいそうだが……。
あと、河太郎、それキュウリやない。夕顔の実ぃや。こないだ、尼崎に生えとった。切り落とされたのをもろてきたんか。と思った。

 

コン平とはつねは、いわゆる文楽の白いキツネのぬいぐるみ。『本朝廿四孝』奥庭狐火の段の最後に出てくる眷属キツネだと思う。
コン平はまんま・きつね・ぬいぐるみだが、はつねはごちゃごちゃと色々な飾りが付け加えられていた。いくらなんでも、はつね、ケバくないか……? 左耳に手毬状の小花の飾り、ほっぺにチーク、しっぽには超巨大なピンクのリボンを結んでいたが……、メスだからってことだと思うが、今時、そこまでするか……? それとも、単なる大阪センスなのか……???

 

狩人だけ普通の文楽人形。いわゆる三枚目の雑魚顔で、『仮名手本忠臣蔵』五段目の勘平のような格好をしている。ただ、蓑のほか、フワフワファーを羽織っているなど、愛らしくわかりやすい衣装に改めてあった。最後にヌードになるので、わりと難しい役。

 

大道具の仕掛けは通常の古典演目とは異なり、子供向けにわかりやすく、また変化が出る工夫がされていた。
下手3の1程度に池、中央から上手に野山の風景、二重に桜(?)の木や低木の茂み、山々の風景。かなりほのぼのタッチで描かれた世界。冷静に見ると、普通の文楽より、絵柄が複雑ではある。
手すりに描かれた池は、一部がスライド式になっていた。スライドを引くと手すりの衝立部分が青のアクリル板になり、水面下が見えるようになる。コン平を頭に載せた河太郎が池へ潜るシーンでは、水中でふんばる河太郎(と、それにちょっかいを出すフナ)の姿を見ることができた。
また、河太郎が水中から上がったり、潜る際には、水しぶきを描いた板を左右に出し、「どんぶらこ」って感じの表現をしていた。同じように、最後に土の中へ鉄砲を埋めるときにも、キツネがかき出す土を板で表現していた。

それはいいけど、最後に出てくる筋斗雲みたいな黄色の雲は何? 金毘羅大権現の子分?
そして、全裸になった狩人が股間に当てていた木の枝、第三部のお辻が持っていた樒にそっくりなのだが、やめとけや。股間にくっついてる葉っぱとサイズ感違いすぎやし。普通にハスの葉っぱをもう1枚用意しとけよ。
もう、本当、なんなんだ、このセンス??????
文楽劇場は、終始、幼児がそのまま60代になったセンスで、本当にすごい。

 

プログラムの解説では、アニマルたちは音が鳴る玉を「鈴」だと知らないことがポイントになると書かれていた。しかし、人間とは異なるアニマルならではの鈴の捉え方、意外性のある価値観の転換があるわけではないので、そこは物語の本質とは関係がないように感じた。
私は、のんびりしていたアニマルたちが、猟師が出てきた途端、突然、人間世界の摂理に巻き込まれるところがこの物語のおもしろさだと思う。また、鈴の音が目印になって射殺されそうなのに紐が固結びで取れないという、子供にでもわかる妙にリアルな強迫観念が、良いと思った。

1階展示室には、この『鈴の音』の初演当時の絵コンテが展示されていた。撮影不可だったので写真はここに載せられないが、いわゆる動画絵コンテに近しいものだった。
四つ切り画用紙くらいの結構大きな紙を使っており、縦書きで数枚にわたって描かれている。動画絵コンテのようなマスを割って、右に簡単なシチュエーションの文章説明、左に人形の動きの図解イラスト。人形の動きのイラストはかなり大まかなもので、寄りめのキャラクターイラストに対し、こういう振りをするとか、どういう方向に向かって移動するとかのおおまかな概要だけが矢印などを使って書かれていた。詞章に対してこういう動き、というベタ付きの振り付けというわけではない(作詞・作曲の前に描かれたもの?)。また、シーンによっては、舞台への人形の配置や大道具の図解などが書き込まれていた。
よく見ていると、今回上演とは演出が一部変わっているところがあった。物語の本筋に関係ないところでの複雑さをなくしている等で、改訂になるほどと感じた。

 

↓ 今回の舞台の動画を文楽劇場サイトで少し観ることができます。

  • 作・演出=桐竹勘十郎/作曲=鶴澤清介/作調=望月太明蔵
  • 義太夫
    河太郎 豊竹靖太夫、コン平 竹本小住太夫、はつね 豊竹亘太夫、猟人 竹本碩太夫/鶴澤友之助、鶴澤清公、鶴澤清方
  • 人形役割
    河太郎=吉田簑紫郎、コン平=吉田簑太郎、はつね=桐竹勘次郎、狩人=吉田玉彦[前半]桐竹勘介[後半]

 

 

解説:文楽ってなあに?。

今年はやや子供向けの語り口になっていて良かった。
解説で、人形が泣く姿の実演のとき、客席の子供がおもくそ泣いていた。人形、負けてるね。

  • 吉田簑太郎[前半]、桐竹勘次郎[後半]

 

 

 

瓜子姫とあまんじゃく。

こちらは木下順二作、ぱっと見、民話風で素朴そうでいながら、内実は観念的で高度な物語。天邪鬼というと、私は「コッチが言ったことを反対言葉にして返してくる」というイメージがあったのだが、本作でのあまんじゃくは「コッチが言ったことをオウム返しにして返してくる」パターン。このような行動をとる「あまんじゃく」とは何かを考察するのがひとつのテーマになっている。

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本作では、山中で誰もが体感する自然現象である「やまびこ」が、あまんじゃくと重ね合わせられている。原作戯曲の台本ト書きをみると、冒頭部から瓜子姫の機織りの音がやまびこで響いているという情景指定があり、機織りの音や瓜子姫の声が絶えず反響していることに意味が与えられている。やまびこの効果は繰り返し使用されており、読んでいくうち、物語におけるやまびこの存在の意味や重要性に気づく*1。しかし、文楽現行だとこれがかなりわかりづらく、太夫の語りやお囃子の音が、本物の声や音なのか、やまびこの反響なのか区別がまったくつかないので(今回が技術的にできていないということなのかもしれないが)、物語のニュアンスが非常にわかりづらいことになっているようだ。
では、あまんじゃくは所詮「やまびこ」の擬人化だったのか? そう断定するわけでもない。そのように科学的にとらえられることばかりでなく、ここは、人間には理解の及ばない不可思議なものがすぐそばに存在する世界なのである。あまんじゃくの正体への分析が、山父という山中の怪異を交えて語られるのが面白いのだ。山父とあまんじゃくには共通点があり、彼らは同一人物なのかもしれないし、親子なのかもしれない。想像力を刺激させられる。どちらかというと大人向きで、文楽という枠にとらわれず、物語自体としても楽しめるストーリーだ。*2

へー、じゃあこれ文楽じゃなくてもいいんじゃない?と思われるかもしれないが、文楽ならではの演出も盛り込まれている。すべては浄瑠璃で表現されているはずの文楽なのに、床の語り(語り手やあまんじゃくの主観)の外で起こる事象が描かれているのが面白い。
クライマックス、あまんじゃくは、帰宅した瓜子姫の祖父母が「そんだらふうではちごうがな」と言ったのだと思い、反射的に「そんだらふうではちごうがな」と返してしまう。文章では、祖父母が瓜子姫フレンズのトンビ・カラス・ニワトリの口調で「そんだらふうではちごうがな」と言っている……ことにはなっているのだが、おじいさん・おばあさんの人形は「エ???」というリアクションをしている。このあたりが巧妙で、この言葉を喋っているのが誰なのか、舞台を見ると逆に判断ができないようになっている。人形の演技で語られるこの違和感は、文楽の人形はかならず床の語りに従って物語を表現するというルールをハズしてきているかのようで、新作の演出としてかなり興味深い。

「そんだらふうではちごうがな」という声は、あまんじゃくが聞いた幻聴なのか? 祖父母が打った「芝居」なのか? 瓜子姫の嘆きを口移しにしたトンビ・カラス・ニワトリの声なのか? それとも、裏山の柿の木に吊るされた瓜子姫の心の叫びが、「やまびこ」で里まで響いてきているのか? それが混迷し、説明されないのが、魅力的だ。*3

 

そんな感じで、話はかなり面白いです。話は。脚本はいいんです。
ただ、問題は、演奏にそれがいかされるかどうかだと思う。

チトセ、字余り、字足らずの処理がメチャクチャとちゃうか!??!??!!?

この作品、おそらく原作者あるいは初演演出者(初演企画者の武智鉄二?)の意図として、元の文章を崩さない条件で文楽化(義太夫化)しているのだと思う。口語体で、かつ、「だ・である調」の、かなり現代的なもの。もちろん、七五調ではない普通の日本語文になっている。そこがこの作品から感じるモダンさで、いわゆる「子供騙し」や「(古典芸能であることの「それっぽさ」による)権威騙し」を払拭していると思う。
これを魅力として義太夫として演奏するならば、七五調でないことを活かした語り口にしなくてはいけないと思うのだが……、単純にブツ切れになってないか????? ものすごく中途半端で聞きづらいし、瓜子姫の機織り歌も怨霊のうめき声みたいになってるし。
山父があらわれるくだりなどのナレーション状態になるところは良いのだが、そりゃ、ナレーションとして読んでいるから良いのであって、“義太夫ガカリ”的な部分が良くなくては、意味ないんじゃない……?

前回上演2018年7・8月大阪公演のプログラムには、本作の成り立ちについて、詳しい経緯が書かれている。
木下順二の原作は民話劇として知られているが、文楽はその元となっている放送朗読劇の台本をベースとして、1955年(昭和30年)11月に演出家・武智鉄二によって企画されたようだ。この時点では人形入り試演というかたちだったが、翌年1月、三和会の本公演として、大阪三越劇場で初演された。
朗読劇でよさそうなところ、“義太夫ガカリ”になっているのは、意図的な演出のようだ。作曲した二代目野澤喜左衛門は、義太夫から離れた朗読風のものなら曲をつけるのは楽だと思ったが、義太夫調でという注文を受け、最初はどのようなものになるか見当がつかなかったそうだ。初演を語った四代竹本越路太夫は、浄瑠璃にはない口語体の詞章、「口に出して言った」のような説明的な文章がそっけなく聞こえないよう、ラジオの朗読番組などで随分研究したという。(この談話、おそらく引用元の文献が存在するはずなので、捜索してみようと思います)

私がこの演目を観るのは2回目で、2018年に観劇した呂太夫さんの語りは、違和感の記憶がない。むしろ、非常に自然な印象を受けた覚えがある。民話の世界のような、しかしどこか現代的で、いわゆる朗読劇でない印象だったのも、良かったのだが……。

まあ、人による向き不向きがあるのかもしれないですね。と言えば聞こえはいいが、普通に稽古・研究の問題なのではと思った。前も書いたけど、千歳さんにある稽古不足のいい加減さ、なくして欲しい。いや、単なる勉強不足ならまだよくて(まったくもってよくないけど)、本気で頑張ってこれだったら、なおのこと困惑するが……。そこは知りたくない。

現在、千歳さんが濃厚接触者指定を受けて休演になり、ヤスさんが代役をしているそうだが、どうなっているのだろう……。カオス!!!!!!

 

人形は、メインキャストに真面目キャラの人が集結しており、堅実な出来。
瓜子姫〈桐竹紋臣〉は、素朴系だった。文楽のお客さん全員(巨大主語)が紋臣さんに対して抱いている妄想を具現化したような娘さんだった。普通にしているときはモッサリちょこちょこ系の女の子だが、あまんじゃくにとっ捕まってバタバタしているあたりは、かなり良かった。裏山の木に吊るされるくだりは、もうひと押し、身をよじる仕草などを過激にしてもいいのではと思った。縛られキャラといえば、雪姫(祇園祭礼信仰記)が思い浮かぶが、宙吊りは珍しいので、若めの人には難しいのかもしれない。

あまんじゃくは2018年と同じく、玉佳さん。おおらかで愛くるしい動きが魅力。独特の動物的緩慢さは、タマカ・ムーブとしか言いようがない。瓜子家の戸口をばりばり引っ掻くところと、調子をぶっこいて機織りするところが特に可愛い。
しかし最後だけ突然しっぽ出すの、やっぱおかしいだろ!!!!!! 最初から出しとけ!!!!!!!!!! と思った。出てたらごめん。

ジジババ〈じっさ=吉田勘市、ばっさ=吉田清五郎〉は渋すぎるッ。完全に玄人向けッ。最後に住吉明神になって出てくるかと思ったわ。文楽高砂やったら翁と嫗はこの二人でという感じだった。

一部の役は、2018年上演とは若干振り付けを変えているようだった。例えば、前回は権六と一緒に火にあたるかのように(?)一本足にもかかわらず頑張ってしゃがんでいた山父は、今回は立ちっぱなしだった。人によるプランの違いかもしれない。
瓜子姫フレンズの鳥類3匹の段切での動きも、前回とはやや違っていた。今回はあまり気ままに動き回っておらず、それぞれの動物の本分なりの振る舞いだった。

以前の上演では、逃げるあまんじゃくを遠見の人形で表現していた気がするが、今回はなかった(多分)。『鈴の音』のほうに遠見の人形が使われているので、調整したのだろうか。
なお、段切にあまんじゃくが顔を出す場所は、前回上演とは異なっていた。上演のたびに変えているのだろうか? 今回はコロナ禍ということもあってか、客席からは遠い場所だった*4

 


↓ 2018年7・8月大阪公演での感想。

 

 

  • 作=木下順二/作曲=二代野澤喜左衛門
  • 義太夫
    竹本千歳太夫(7/27-休演、代役豊竹靖太夫)/豊澤富助、野澤錦吾、鶴澤燕二郎
  • 人形役割
    瓜子姫=桐竹紋臣、じっさ=吉田勘市、ばっさ=吉田清五郎、杣の権六=吉田和馬、山父=吉田玉路、あまんじゃく=吉田玉佳

 

 


今年は純新作2本立てで、人形劇感が強かった。

『鈴の音』は、なんかこう……勘十郎さんが作った話って、強迫観念が見え隠れすることと、キャラクターのとぼけというか、パーな感じに、独特のものがあるよね……。至極素朴な、原初的な恐怖というか……。と思った。
私なら、自分から離れたがらないはつねを巻き込まないために、コン平に自害させるな……。それが三段目。四段目では、山に旱魃が訪れ、河太郎が住んでいた沼へ水を求めにいった初音は、干上がった沼の底にコン平がつけていた鈴が落ちているのを見つける。はつねはコン平を殺したのは狩人と組んだ河太郎と思い込み、河太郎に食ってかかるが、責任を感じていた河太郎はわざとはつねに討たれる。しかし、すべてを知っている鮒がやっと這ってきて事実をはつねに知らせる。恋人も友人も失ってしまったことを知ったはつねは、悲嘆に暮れる。その嘆きで山には大雨が降り、このことが初音の鼓の説話を産んだのだった。(何の話や?)

『瓜子姫とあまんじゃく』は、とにかく、しっかり稽古してくれと思った。これをやるなら、うまい人が稽古した上で舞台にかけてくれ。この状況では、今後の新作は七五調ベタ付きにしておかないと、できんのかもしれんと思った。七五調を外して緊張感を云々とか、そもそも無理、と思った。


今年のおこさま名言集。
「あの人、変顔?」
「なに言うてるかわからん」
「カラスに見えへん」
ご指摘事項が的確すぎて、やばい。見巧者すぎるッ。と思った。

なお、今年のおこさま(18歳以下)プレゼントは、保冷剤だった。配布している様子を見ていて、丸いので缶バッジかなと思っていたが、文楽劇場twitterによると「保冷剤」だったらしい。なんで? カッパのひんやりイメージから?? 去年の「のり」に続き、えらい実用的なモン配っとるなと思った。でも、お弁当保冷用などにとっても便利そうなサイズだった。

 

 

 

第一部の開演前に、高津宮へ行った。ちょうど夏祭りの会期中だったため、拝殿では祭事が行われていた。
というか、知らずに行って、なんか雅楽な人がスタンバっとるし、人が微妙に集まってきてるなと思ったら、そういうことだった。神主さんの前をおもいきり横切っちゃったよ!!
集まっている人は、別に氏子さんとかではなく、単なる野次馬のようだった。神社の方が「どうぞ上がっていってください」と声がけしていた。おじさんがひとり、「ええですか!?」と言って本当に上がっていて、良かった。

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文楽劇場の前にものぼりが出ていました。

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*1:国会図書館デジタルコレクションでも読めるので、利用者登録している方はチェックしてみてください。

木下順二『民話劇集 第3巻』未来社/1953
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1357897
朗読用台本。文楽とほぼ同一内容。

日本文芸家協会=編『戯曲代表選集 第2 1954年版』白水社/1954
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1358167 
文楽とは構成などが異なる、舞台用台本。こちらだと、やまびこの効果がより一層書き込まれている。あまんじゃくに対する瓜子姫の恐怖心も細かい。また、最後のおうむ返しの応酬の描き方が、放送版とは異なっていて、意味がかなりわかりやすくなっている。

*2:っていうか、おこさまたちの反応は微妙だった。「最初のやつのほうが面白い」「去年のほうが面白い」など、かなりの玄人のご感想を遊ばされていた。文楽劇場にきているおこさまというのは親や祖父母がガチ勢で、その影響で、そんじょそこらの大人では太刀打ちできないほど、何度も文楽を観たことがある方が多い印象がある。

*3:ただしプログラムの解説には書かれています。書かないほうがいいのになあ。

*4:上手の御簾内。