TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 9月東京公演『絵本太功記』国立劇場小劇場

「尼ヶ崎」の上演があると気になるのが、さつきハウスの軒先に下がっている夕顔の実。今回は、超ビビッドなド緑で、なかなかのビッグサイズでした。

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第三部、絵本太功記。
英語でいうとA Picture Book of the Taiko Hideyoshi。

人形、光秀役に玉志さんが配役。てっきり光秀は玉男さんがやると思っていたので、驚いた。玉志サン光秀はいままで東京12月の中堅公演や大阪鑑賞教室で観たことがあったが、それは元々中堅の抜擢を主眼にした配役。変則プログラムとはいえ、こんなに早く本公演で配役が来るとは、嬉しい。しかも今回はダブルキャスト(怒怨恨呪)ではなく、全日程の配役で、本当に良かった、と思った。
十次郎が勘彌さんというのは意外だったが、この配役、文楽見始めたばかりの頃に、初めて『絵本太功記』観たときと同じ。いままでも度々書いてきたが、あのときの舞台は本当に心から面白いと感じて、いまでも強く印象に残っている。それと同じ配役がもう一度観られるのが嬉しかった。

 

 

 

人形はさつき・勘壽さん、十次郎・勘彌さん、光秀・玉志さんがとても良かった。

まず、勘壽さんのさつきは、本当にとても良かった。
武家の女性らしい凛とした雰囲気で、動作が毅然としており、老婆とは思えないキレがある。冒頭、近所のお百姓ツメ人形ズを迎えてもてなしているところから、最後、久吉に光秀をずっと思いやっていた本心を明かして息を引き取るところの「ぱた」という倒れ方まで(弱々しく尽きるのではなく、若干回転がかかっているというか、勢いづいて倒れる)、抜かりなし。良すぎ。

しかし、「夕顔棚の段」で夕顔の鉢の手入れをしたあと床几に腰掛けるくだりの「よっこいしょ」という仕草はまじでおばあさんで、「まじでおばあさん!!!!」と思った。ちょうど、第三部に行く前に郵便局へ寄ったのだが、そのとき、局の入り口前の階段に「よっ……こいしょ」と座って休憩したおばあさんを見た。さつきはまじでそのまんまの動作で「す、すごすぎる!!!!」と思った。単にのろのろ座るのではなく、体の痛いところや曲げにくいところを庇いながら座ろうとしたときの動作。勘壽さんがまじでおじいちゃんだからこそ出来る技だと思うが、人形でそれを自然な動作として表現するのがすごい。

一度、さつきがいつも手に持っているうちわを、床几に置いたときに落としてしまった日があったのだが、うちわなしのまま全く自然に演技を続け、介錯の黒衣さんに拾ってもらったのをいい感じのタイミングでぱっと取って自然につなげていたのも印象的だった。知らなければ、うちわを持って演技するのが普通だとは、全然わからないだろうなと思った。
ほんと、勘壽さんはすごいと思うわ。(みんな知っとる)

 

勘彌さんの十次郎は、往年の少女漫画に登場する美少年のごとき、微細な金砂が煌めくような繊細さがよかった。キラキラしていた。線の細い優美な表現に魅力がある。

印象に残ったのは、十次郎の見せ場となる、物語の部分。はじめは、動きがモチャッとしていて、十次郎が刻々と変化する戦場の様子を語り、再現しているようには見えなかった。あえてキツイ言い方で書いたが、この手の戦況報告の演技、ほかの女方でも遥かに話にならない芝居をやっちゃう人がいるので、勘彌さんですらここまでしかいけないのか、普段が女方ベースの人にはこの手の演技は無理なのかなと思っていた。正直、ここだけなら若手会で観た玉翔さんのほうがうまいのではと思っていた。
しかし、すごくびっくりしたのが、後半日程になったら、人形の動作の輪郭が大きくなり、キレが高まって、物語に圧倒的な迫真性が出ていたこと。これには驚かされた。別人レベル。わずか2週間ちょっと程度の会期で、しかもあんな元々のキャリアのある歳の人が、あんなに急激に上手くなるってことありえるんだろうかと驚いた。勘彌さんに対しては、これまで「この人うまいけど、あんまり体力ないんだろうな」と思っていて、まさか物語のような体力がいる部分が向上するとは想像もしていなかったので、ビックリ。もう死にかけている十次郎、すなわち人形が、意志だけに突き動かされているという印象なのも、良かった。あれは結構独自な感じだった。

尼ヶ崎の段に入ってすぐ、十次郎がひとり佇んでいる場面で、足がかなりフラフラしていたのは気になった。十次郎が一番美しく見えるはずの場面なので、勿体無かった。休演期間のせいなんだろうな、足がじっとしていられないというのは。長期間、毎日やり続けてこそ出来るものなんだろうなと思った。(光秀の足はフラつかずしっかりしてました。いつも玉男さんの足やってる方かな?)

 

玉志さんの光秀は、「あ、この人変わったな」というのが、第一印象。
変わったって言われても知らんがなと思われるかもしれませんが、玉志サンを凝視しすぎて微差を嗅ぎつけるようになってきているんで……。
持ち味の、青年のような凛々しく生真面目な佇まいはそのまま。でも、演技的には、おととし、大阪の鑑賞教室で観たときとはまた雰囲気が違っていた。そのときは、若気の至りで気負ったような、前のめりで、目の前のことに一心な雰囲気の光秀で、かなり若々しい雰囲気だった。今回はそこからぐっと貫禄が出ていた。もう少し紐解いて言うと、人形の重量感が増して、落ち着きを湛えた精悍さが出ていた。透明感はありつつも華奢な印象はもうない。人形が非常に安定しており、芝居そのものに余裕があるなと感じた。ここ数年で3回目の配役となると、力みが消えて、役に慣れてきたということだろうか?

一番明瞭なのは、「夕顔棚のこなたより」での出の部分。竹やぶから出てきて笠を取るところで、ほんの一瞬だが間を作っていないと、人形の姿がちゃんと見えない。そこがあざとくならない範囲でゆったりとした微妙な間をもった芝居になっていて、人形の姿が美しく見え、よかった。(それより前に竹藪の陰から家の中を伺うところでは、なぜかどんどん控えめになっていって、謎の不審者になっていたのがちょっと面白かったが……。まじ、さつきにしか見えんがな)
これと同じことで、演技の間の持たせ方で良くなっていたのは、風呂場に槍を突っ込む直前の動作の間の持ち方や緩急の付け方。ここは会期中に特に目覚ましくよくなっていった。逆に言うと、はじめのほうは間合いが性急すぎて意味不明状態になっており、ヒイい〜〜ッと思った。でも、最終的には、戸をトッ!と軽く叩いてからさっと開ける、颯爽としたタイミングの取り方や勢いに光秀の自負が感じられて、とても良かった。
こなれ感といえば、十次郎が帰ってくる直前だったかな、光秀が少し伸び上がって扇で屋体の梁?に触れるところでは、以前はそれを結構はっきり「ぱし!」とやっていたので目を引いていたが(というか、そもそもあれって何やってるの?)、今回は「ちょん」と柔らかくこなしていて、一連の動作のなかに自然におさめていた。

人形がどっしりした雰囲気になっていたのは、少し意外だった。玉志サンご自身はヒョッとしたまんまなんですが(血色は向上)、人形はかなりガッシリ化。筋肉がついて体重が8キロくらい増した感じ。何がどうなってそう見えるようになったのか、不思議。人形の重心の位置が安定したのか?
動作が俊敏でキレがあるのは変わっていないので、もっさりしたり、ドスっとした印象にはならず、堂々とした印象が高まっていた。クロヒョウのようなしなやかな鋭さが感じられ、独特の表現になっていて、良かった。

しかしここまでくると、いろいろ贅沢を言いたくなるな。
最後の物見、もっと人形の体の位置を高くして胴体を伸ばして欲しい。普段は、人形がものすごくピンッ!!!!!としているので、ここで突然人形の姿勢が不自然になるのが気になる。でも、あれは玉志サンひとりではどうこうできないか。見てる感じ、ご本人の限界まで差し上げてるようだったから、身長と大道具のサイズとの兼ね合いを調整してもらうしかなさそうに思った。
あとは、座ってじっとしているところを、どうやってより深く表現していくのか。現状でも、いままでよりかなり良いと思った。顎を引いて胸を張った姿勢が凛とした強い意思を感じさせて美しい。でもここで終わってはつまらないと思った。この手の演技大得意の玉男さんにまともにぶつかったら確実に負けるっていうか、玉志サンの良さは出ないので、今後、どうしていくのかな。もう少し、こういった文七の配役が重なってくれば、ご本人らしい演技というのが出来上がってくるのだと思う。

光秀自体とは関係ないが、光秀につくツケ打ちが、異様に光秀の動作にバッチリ合っているのがすごかった。人形が本当に音立ててるみたい。近来ないほど、上手いと思った。

 

操〈吉田簑二郎〉は魚すきを思わせるさっぱり感のある佇まい。鯖めいた着物の色見て言ってるわけじゃありません。
当初は、クドキの演技が速すぎて、義太夫の間合いから逸脱しているのが気になったが、会期が後ろにいくにつれだんだん補正されたので、安心した。あと、夕顔棚の段で水を汲むのが異様に速かったんだけど、それはずっと異様に速いままだった。何かのこだわり?
それにしても、操って不思議なキャラクターだよね。この井戸の水汲みが「初菊より上手い」というのもそうだけど、旅僧が来たときに盥の水で足を拭くもてなしをするところ。普通、あのレベルの衣装を着ている身分の女性はそんなことを日常ですることはないのに、どういう前歴があるのか。面白い。

でも、操がどう見えるかは、床の影響が大きいというのも実感した。操、床がよくないと、よく見えない。

 

初菊〈吉田一輔〉は大変可憐で良かった。ただ、どの場面でも演技のトーンが画一的なのは疑問。一輔さんて、何役をやっても演技のトーンが同じ印象があるけど、意図的なことなのか、単に出来ていないのか。

でも確かに、初菊って、特に人格は求められていない、嘆き悲しむ役割のみを求められているキャラクターだから、これくらいに抑えておくほうが、「尼ヶ崎」全体から逆算した場合には、適切なような気もした。

 

人形全体としては、会期最初のほうは、個々の演技はよくとも、それぞれの人物がパラパラとして見えてしまっていた。やむにやまれぬ悲劇に陥った「一家」の感情が渦をなす物語に見えなかった。
が、だんだん武智の一族として意思がまとまっていったように思えて、良かった。はじめのころの調子が合っていなかったのは、やっぱり、休演期間によるものなのかなと感じた。 

 
 
 
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床で特筆すべきことは、尼ヶ崎前の呂勢さんの本公演復活だろう。以前通り、普通に演奏されているように思えた。ほんと良かった。間合いなどの調子が戻るまでには、もう少し時間がかかるのかなと思った。
呂勢さんだけがそうということではないが、中堅以下の太夫さんだと、返事の間合いが速すぎる(不必要に食い気味になる)ことがよくあると思う。リズムが崩れるのでちょっと興ざめするし、本に基づいているんじゃなくて、慣れ(クセ)でやっちゃってるんだろうなあと思う。

あとは清治サンは自由に弾いてるなと思った。清治サンは、時折自由に弾いて、客が「???????(一音抜けたり、破調しているのが意図かミスかわからず若干混乱)」となるのが良い。自分も混乱する。そこが面白い。

夕顔棚の睦さんは、会期中の向上ぶりがよかった。
今回の休演開けで、特に若手の太夫さんたちで大変そうだなと思ったのが、声域の狭まり。元々声域が広い人でなければ、高音あるいは低音が出にくく、そこが聞き苦しくなるというのは、いままでにもあったと思う。今回は、それがより顕著になっていた。ベテランではそこまで事故っている方はいなかったため、語り方のテクニックでカバーしているのだろうが、若い方だと、そこを自分ならどうやればいいのか、わからないんだろうなと思った。今回は声が出にくくなっているなと思う方が複数いて(呂勢さんもそうだと思う)、しかし、睦さんはその中でもご自分なりのカバーの仕方を見つけて、解消された方だと思う。さつきの「夕顔棚の下涼み」(だったかな?)で急激に上がるところ、当初はいかにも無理に強く出した声になってしまっていて厳しかったが、最終的には自然な聞こえ方になっていて、良かった。

尼ヶ崎後の呂太夫さんは、さつきのパートはかなりいい。さすがベテランの仕上がりで、毅然とした武家の女性像と、息子を心配して弱ってしまい感情に流される人物像を両立させていて、大変聞き応えがあった。しかし操と光秀のパートは厳しい。上手い下手とかじゃなくて、聞こえない。曲の中盤まで体力が持ってないんだろうけど、三味線の音に声がかき消されていた。あとは日によるムラ。聞こえない日はまじで全然聞こえなくて、どうしようかと思った。でも、後半は聞こえるようになって、良かった。とくに千穐楽は逆に頑張りすぎて、最後、倒れちゃうんじゃないか状態で、頼む最後まで持ってくれと、上演中必死に願ってしまった。無事最後までいけて、よかった。

でも、実際問題として、尼ヶ崎を全体として捉えて、どこで盛り上げる、どこで締めるかのコントロールって難しいんだろうなと思った。2018年の大阪鑑賞教室公演で聞いた千歳さん、錣さん(当時は津駒さん)はその点、どんどん追い込んでいく作りでかなり良かったけど、他の公演だと、操はいいけど光秀が弱いとか、何らかの違和感を感じることがあった。盛り上がりっぱなしの曲に思えて、「盛り上がりっぱなしの曲」だと自然に感じさせるのは、芸としてレベルが高いことなんだろうなと思った。誰がやっても派手に聞こえ、盛り上がる曲に思えて、そうでもないな。

第二部もそうなんだけど、ベテランで、日によって仕上がりに大きなムラがある、パフォーマンスが一定しない人って、仕方ない部分があるのは理解するにせよ、ちょっと厳しいと思う。歌舞伎や能のように、出る時出ない時があるならまだいいけど、文楽のように同じメンバーで全員出演の無限ループで定期公演をやっているような業種だと、きつい。というか、自分の考える「上手い」の評価の中に、「安定性」が大きく関わっているのだなと、思った。

 

  • 義太夫
    夕顔棚の段=豊竹睦太夫/鶴澤清志郎
    尼ヶ崎の段=前:豊竹呂勢太夫鶴澤清治、後=豊竹呂太夫/鶴澤清介
  • 人形配役
    武智光秀=吉田玉志、武智十次郎=吉田勘彌、母さつき=桐竹勘壽、妻操=吉田簑二郎、嫁初菊=吉田一輔、旅僧 実は真柴久良=吉田文昇、加藤正清=桐竹勘次郎

 

 

第三部も、安定した上演だった。やはりこれくらいのメンバーだと、最初からかなりの水準に及ぶ上、会期中の向上も目覚ましい。はじめはクセでやっていても、自分が何をやっているかわかっていて、どこをどう調整すればいいかに早々に気づくんだろうなと思った。(これが逆に、はじめは稽古の成果でやっていて、だんだん地金が出てくるパターンだと、かなり困るんだけど)

今回、なんとなく思ったが、自分が、勘壽さんなり、勘彌さんなり、玉志さんなりをいいなと思うのは、人形が「気持ちのいい人」に見えるからなんだろうな。どんな立場のどんな行動を取る人物を演じるにせよ、どこか爽やかな印象を受ける。登場人物の心根の潔さが、率直に出ているのだと思う。
ルパン三世 カリオストロの城』で、最後、クラリスを守っている庭師のおじいさんが去っていくルパンたちを指して「なんと気持ちのいい連中だろう」と言うシーンがあるけど、まさに、段切でそう感じられる、気持ちのいい人格を表現できること自体に、魅力を感じるんだろうなと思った。

特に今回は、ベタな定番演目にも関わらず、清楚な印象に仕上がっていたのが良かった。全員が鬼のように自己主張してきてしかも一切折れない(折れるときは死のみ)、いかにも文楽ぅぅぅぅ〜って感じの話だけど、全員がそれぞれ真摯で誠実な真心を持って臨んでいることがよく感じられた。単純な暑苦しい悲劇に落とさず、語り物の芝居として、颯爽としているように感じられるのが良かった。こういった真っ直ぐさを率直に表現できることは、文楽人形の最大の魅力で、また、それをなしうる人材を備えていることが、現代文楽の人形部の最大の魅力だと思う。
実際には、この「尼ヶ崎」や「熊谷陣屋」「寺子屋」等だと、客が期待する「いかにも感」や「わかりやすさ」にどれだけ応えるかという問題もあると思う。過去の名人の映像を観ていると、文楽らしさ(文楽アイデンティティ)と、そういった娯楽性・通俗性の融合の着地がかなり上手(うわて)だと感じる。この尼ヶ崎に出ているような人たちは、これからどうなっていくのかなあと思う。
それには、伝統芸能を観る人そのものが絶対数として少ない世の中で、文楽は歌舞伎と同じ演目を上演してて、その中で「文楽の魅力はこれだ」というものを、どう伝えていくのかも関わってくると思う。そのために、なんでもかんでもキャッチーで、わかりやすくあればいいってことではなく。

 

なにはともあれ、玉志サンが無事立派に光秀を勤められて、本当によかったよ……。
(初日の休演は悲しさのあまり泣いた)

 

参考

↓ 2018年大阪鑑賞教室公演の感想

 

 

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国立劇場のソーシャルディスタンス表示。お外はクツの足跡ですが、中は足袋の足跡で可愛いです。

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